正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑲、広陵郡華氏(華融・華諝・華譚・華化・華茂)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
広陵華氏系図
広陵郡華氏系図
この記事では広陵郡華氏の人物、
についてまとめています。
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か⑲(広陵華氏)
第1世代(華融)
華融・徳蕤
生年不詳〜呉の五鳳3年(256年)没。徐州・広陵郡・江都県の人。子に華諝、華譚。
祖父が戦乱を避けて江南に移住し、揚州・会稽郡・山陰県の蕊山の麓に居を構えた。
この当時、呉郡出身の張温が、山陰県に仮住まいをしていた皇象の元にやって来て学問を授かろうとし、どこか適当な所に住む場所を見つけたいと望んでいた。
張温は、ある人が「蕊山の麓に華徳蕤という者がおり、年は若いが立派な志を持っております。彼の元にお住まいになるのがよろしいでしょう」と言うのを聞き、華融の家に滞在して、朝夕、華融と論談を交わした。
その後、急に張温が選部尚書の任にあたることになると、張温は華融を抜擢して太子庶子に任命した。こうしたことから華融の名が知られるようになり、顕貴な位に昇った。
呉の赤烏4年(241年)、呉の太子・孫登がその死に臨んで遺した上疏文に「范慎と華融は、勇敢で断固とした節操を持ち、国士の風格がある」とある。
呉の五鳳3年(256年)、驃騎将軍・呂拠が大司馬・滕胤と共同して、当時朝政を取り仕切ることになった侍中・武衛将軍の孫綝を廃そうと計った。
これを知った孫綝は、従兄の孫慮(孫憲)を江都に派遣して呂拠を迎え撃たせると共に、宮中からの使者を遣って、文欽・劉纂・唐咨らに「兵を1つに合わせて呂拠を攻撃する」ように命じ、また侍中・左将軍の華融と中書丞の丁晏を滕胤の元に派遣して「呂拠を捕縛する」ことを告げ、滕胤自身は「速やかに任地の武昌に向かうように」との意向を伝えさせた。
すると滕胤は、自分に災禍が及ぼうとしていると考え、そのまま華融と丁晏を軟禁すると、兵士たちをまとめて守りを固めさせ、典軍の楊崇と将軍の孫咨を呼び寄せて「孫綝が反乱を起こした」と告げ、華融たちに強制して、孫綝のやり方に反対する手紙を書かせた。
すると孫綝はその手紙を無視し、上表して「滕胤が謀反を起こした」と述べ、将軍の劉丞に爵位を約束し、歩兵・騎兵とを率いて滕胤を激しく攻めたて包囲を固めさせた。
これに滕胤は、再び華融らを脅し、偽の詔を書かせて軍を動員しようとしたが、華融たちが拒否したため、滕胤は彼らを皆殺しにしてしまった。
滕胤は約束通り呂拠が駆けつけることを期待していたが、結局呂拠の軍は到着せず、滕胤とその将士たち数十人が殺害され、滕胤の一族も皆殺しにされた。
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第2世代(華諝・華譚)
華諝
生没年不詳。徐州・広陵郡・江都県の人。父は華融。弟に華譚。
黄門郎であったが、父・華融と共に(滕胤に)殺害された。
華譚・令思
生没年不詳。徐州・広陵郡・江都県の人。父は華融。兄に華諝。
母親が18歳の時に孤児となったが、成長すると、学習能力が高く聡明で弁論に巧みなことで近隣の人々から高い評価を受けた。
華譚の才能を愛した揚州刺史・周浚は、彼を従事に任命して賓友の礼をもって待遇し、晋の太康年間(280年〜289年)には、刺史の嵇紹に秀才に推挙された。
洛陽に到着すると、武帝(司馬炎)は自ら策問*1を行い、四方から秀才に推挙された人材の中で華譚が最も優れているとした。華譚はすでにその才幹によって名を知られていたが、当時廷尉であった同郡出身の劉頌は、彼を目の当たりにすると嘆息して「郷里にこんな才能(ある人物)があったとは!」と言った。
博士の王済は、大勢の人々の前で「滅亡した呉・楚の人間が、なぜ推挙されたのか聞いてみたいものだ」と彼を嘲笑った。すると華譚は言った。
「明珠(透き通った美しい珠)や文貝(美しい貝)は外国で産出されるものです。人を見れば、周の文王は東夷で生まれ、大禹は西羌で生まれました。ご存知ではないですか?周の武王が商(殷)を滅ぼした時、商(殷)の頑迷な民を洛邑に遷したことを。あなた方はその子孫ではありませんか」
王済がまた「危機に瀕していながら呉の民が支えなかったから、君臣は位を失ったのだ。呉の民には国も主もないのに、冠や帯は不要ではないかっ!」と言った。
華譚がこれに答えて、
「お聞きください。国家の存亡・興衰は天命であり、人には逆らうことはできません。徐の衍王は仁義を修めていても国を失い、仲尼(孔子)は魯を離れて斉に行きました。また、段干木は世を退いてから有名になりました。この世には人の手に負えないこともあるのです」
と言うと、ついに王済もまた華譚に敬意をもって接するようになった。
その後華譚は郎中となり、太子舍人に遷って本国中正となった。母が亡くなったために職を辞し、喪が明けると鄄城県令となった。
濮水を渡り、『荘子賛』を作って功曹に示したところ、廷掾(県令の属吏)の張延が用意した解答文はとても美しかったので、彼を推薦して昇進させた。その結果、華譚が廬江太守となった時、張延はすでに淮陵太守となっていた。また、貧賤出身の周訪を孝廉に推挙し、功名を立てた。その後華譚は尚書郎となった。
西晋の永寧初年(301年)、地方に出て郟県令となった。当時は「八王の乱」の後で、県内は戦火で破壊され飢饉が起こっていたので、華譚は心を尽くして慈しみ憐れんだ。司徒の王戎はこれを聞き、3百斛の穀物を出して助けた。華譚は多くの治績をあげ、再度廬江内史となり綏遠将軍を加えられた。
当時、石冰の一党・陸圭らが廬江郡の諸県に拠点を置いていたので、華譚は司馬の褚敦を派遣してこれを平定し、また、石冰の都督・孟徐に別軍を派遣してこれを捕らえ、この功績をもって都亭侯に封ぜられ、食邑千戸と絹千匹を賜った。
西晋の永興2年(305年)、陳敏が反乱を起こし、呉の士大夫の多くが逼迫した。
この時、廬江郡出身の顧栄は陳敏により右将軍・丹陽内史に任命されたが、秘かに陳敏を討とうと謀っていた。華譚は顧栄の真意に気づかず、あちこちに檄を飛ばして彼を非難したので、顧栄の怨みを買うことになった。
また華譚の郡政は厳しく、上司と対立することも多かった。揚州刺史の劉陶は以前から華譚と仲が悪かったので、華譚は法に照らされ寿陽県の獄に下されたが、以前から彼と親しかった鎮東将軍の周馥は、華譚を庇って釈放させた。
その後、周馥が東海王・司馬越に背いて西晋の懐帝(司馬熾)に上表し、寿春県に遷都することを請うと、ついに司馬越派の司馬睿の将・甘卓の攻撃を受け、住民は戦火を逃れて散り散りとなった。
華譚がすでに去り、人を派遣して近づいて来ると、周馥は嘆いて「私はかつて華令思(華譚)は臧子源(臧洪)のような男だと思っていたのだが…」と言った。
かつて甘卓が司馬越に捕らえられた時、司馬越は敢えて隠れる者は処刑せよと命じたが、甘卓は華譚に身を寄せたために助かることができた。
戦いが終わると、甘卓は人を遣って華譚を招いたが、華譚は使者に絹2匹を渡してそのまま帰した。帰って来た使者がそのことを報告すると、甘卓は「それでこそ華侯(華譚)だ」と言い、再度招いたが、その時にはすでに華譚は亡くなっていた。
その後甘卓は紀瞻の推薦を受けたが、顧栄の妨害に遭い、数年間不遇の時を過ごした。
結局周馥は敗れ、華譚は司馬睿の麾下に移された。その後司馬睿に、周馥が背いた理由を問われた華譚は、「周馥の『遷都の議』は、ただ当時の人に意見の相違があったために討伐されることになったのであり、洛陽が陥落したのはその後です。逆に周馥の計画が実行されていれば、国はもう少し長く存続していたかもしれず、事実から見て周馥は謀反を起こした訳ではありません」と、周馥を弁護した。
司馬睿は、周馥が地方に兵を擁して鎮守して司馬越の徵召に応じず、国家の危難を救わなかったことから、やはり天下の罪人であると非難した。
華譚は、周馥が地方にあって徵召に応じなかったことは責を負うべきだと同意しつつも、謀反については言いがかりであると主張した。司馬睿はやっと安堵した。
西晋の建興初年(313年)、司馬睿は華譚を鎮東軍諮祭酒に任命した。華譚は非常に博識・多才な人物で、『辨道』30巻を著し、司馬睿も自ら読んだ。
丞相軍諮祭酒に転任し、郡大中正となった。その後、齢70に近くなった華譚は、朝議において范珧を推薦して自らの引退を求めたが、聞き入れられなかった。
東晋の建武初年(317年)、華譚は秘書監を拝したが、固辞して受けなかった。翌太興初年(318年)、前軍を拝したが、病気のため秘書監に転任した。
華譚はいつも自分の評判に不満を持っていた。当時、晋陵郡出身の硃鳳、呉郡出身の呉震は共に学行に優れていたが、老齢になってもまだ官職に就いていなかったので、華譚が推薦して2人とも著作佐郎となった。
ある人が華譚に「諺に『人は牛の毛ほどの多くの違いがある(人之相去,如九牛毛)』と言いますが、どういうことでしょうか」と尋ねると、華譚は「昔、許由・巣父は天子の位を譲られても固辞し、市井の小人は半銭の利益を争っている。その違いは『牛の毛の違い』にとどまらない」と答え、これを聞いた人々はみな納得した。
戴若思(戴淵)の弟・邈(戴邈)は華譚の娘婿である。華譚は普段から戴淵の昇進を抑制し、戴邈を優遇していたので、戴淵はそのことを忘れず、東晋の元帝(司馬睿)が戴淵を重用するようになると、戴淵は華譚に圧力をかけた。
これを不満に思った華譚は、元帝(司馬睿)に「臣はすでに年老いて、もはや秘閣(宮中の書庫)で死を待つ身です。汲黯の言葉が思い出されます」と自身の待遇への不満を述べたが、元帝(司馬睿)はこれを不愉快に思った。
その後散騎常侍を加えられたが、病気による辞職を繰り返した。王敦の乱が起こった頃、華譚は病気が悪化して入省できなくなり、王敦に殺害された戴淵に連坐して免官となって家で亡くなった。
光禄大夫・金章紫綬を追贈され、散騎常侍を加えられて、胡と諡された。
脚注
*1官吏登用試験で、策(問題)を与えて経義や政治に関する意見を試問すること。またその試問の文章。策試。
第3世代(華化・華茂)
華化・長風
生没年不詳。徐州・広陵郡・江都県の人。父は華譚。弟に華茂。
征虜司馬となったが、汲桑討伐時に戦死した。
華茂
生没年不詳。徐州・広陵郡・江都県の人。父は華譚。兄に華化。
兄の華化が戦死したため、父・華譚の爵位を継いだ。
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