正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㊷、太原郡温氏(温恕・温恢・温生・温恭・温羨・温憺・温祗・温允・温裕・温嶠・温放之・温式之)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
太原郡温氏系図
太原郡温氏系図
この記事では太原郡温氏の人物、
についてまとめています。
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お㊷(太原温氏)
第1世代(温恕)
第2世代(温恢)
温恢・曼基
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は温恕。子に温生、温恭。
15歳の時に父・温恕を亡くし、柩を送って郷里に帰った。
家は裕福であったが、温恢は「今、世は乱れている。富など持っていても意味はない」と言い、ある日すっかり一族の者に分け与えてしまった。郷里ではその行為を立派だと称え、彼を前漢末期の郇越に比較した。
孝廉に推挙され、
- 兗州・済陰郡・廩丘県の県長
- 豫州(予州)・潁川郡・鄢陵県の県令
- 冀州・清河国・広川県の県令
- 徐州・彭城国の相(太守)
- 豫州(予州)・魯国の相(太守)
となったが、すべての任地で評判を取った。
その後、中央に入って丞相主簿となり、外に出て揚州刺史となったが、この時曹操は「卿を側近くに置いておきたいが、この州(揚州)の政治の重大さには比べられぬ」と言い、丹陽太守であった蔣済(蒋済)を州の治中従事につけた。
建安24年(219年)、孫権が揚州・九江郡・合肥国を攻撃したが、この時諸州はすべて守備のために兵を駐屯させていた。
温恢は兗州刺史の裴潜に向かって言った。
「この辺りには賊軍がいるが、心配する程のことはない。気がかりなのは、征南の軍に思いがけぬことが起こることだ。現在、水が増えているのに子孝(曹仁の字)は敵地深くに孤立しており、将来の危険に備えていない。関羽は勇猛であり、利に乗じて進撃して来れば、災難を引き起こすに違いない」
そして結局、樊城の事件(包囲されて于禁が捕虜となった事件)が起こった。
また、詔勅によって裴潜と豫州刺史・呂貢らを召し寄せたが、裴潜らにはゆっくり来るように言いつけた。温恢は秘かに裴潜に向かって言った。
「これはきっと襄陽の危急に対して駆けつけよというのだろう。至急に集めない理由は、遠方の民衆を驚かせ動揺させたくないからだ。1、2日のうちに必ず密書があって、卿に早く来るように急き立てるだろう。張遼らはかねてから王(曹操)の気持ちを知っている。彼らが後から召されて先に到着すれば、卿はお咎めを受けるぞ」
裴潜はその言葉を聞き入れ、輜重を置き、改めて軽装備をしてすぐさま出発したが、案の定、催促の命令を受けた。張遼らが次いでそれぞれ召集されたことは、温恢の予測した通りであった。
文帝(曹丕)が帝位につくと、温恢を侍中に取り立てた。外に出て魏郡太守となり、数年して涼州刺史・持節領護羌校尉に昇進したが、道中で病気にかかり亡くなった。
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第3世代(温生・温恭)
温生
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は温恢。
父・温恢が亡くなると、
「温恢は国家の柱石たる素質を持ち、先帝(曹操)にお仕えし、功労は明白である。さらに朕(私)のために事務を執行し、王室に忠実であった。だからこそ、彼に万里彼方の任務を授け、一方面の政治を任せたのである。なんとしたことか中途で倒れた。儂は甚だそれを悼むものである」
という詔勅が下され、関内侯の爵位を賜ったが、早くに亡くなったので爵位は断絶した。
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第4世代(温羨)
温羨・長卿
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は温恭。祖父は温恢。漢代に護羌校尉であった温序の後裔。
若い頃から才知に優れて(朗寤)いたことによって称えられ、斉王・司馬攸に辟召かれて掾となり、尚書郎に遷った。また、恵帝が即位すると豫州刺史を拝命し、中央に入って散騎常侍、尚書を歴任する。
斉王・司馬冏が輔政するようになると、温羨が父・司馬攸の故吏であることから特に親しまれ、吏部尚書に転任した。
これより先、司馬冏は誅殺された張華の官爵を回復したいと提案した。これに反対する者もいたが、温羨はこれに反論して、
「天子の御前で臣下の異なる意見を戦わせた結果ですので、ただ1人の罪とは言えません。故に晏子(晏嬰)は『(君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。しかし君主が私事のために)死んだのならば、近臣(直臣)以外、誰がお供するというのだ?』*1と言ったのです。
- (春秋時代・晋の)裏克(里克)が2人の庶子を殺したこと。
- (春秋時代・斉の)陳乞(田乞)が(晏孺子荼を廃して)陽生(悼公)を立てたこと。
- 漢朝(前漢)が呂氏(外戚)を誅殺したこと。
みな積年の後にようやく評価されました。まして張華の死から数ヶ月の今、彼の行いを正しく評価することはできません。
式乾殿(式乾の会)において、張華だけが[愍懐太子(司馬遹)の廃位を]諫めました。
上司の宰相たちは仲が悪く、善行が称賛されず、みなその命令に従うことを望んでいるその中で、誰が諫言できるでしょうか?
まして今は、賈皇后が皇太子の司馬遹を譖って殺害し、内に秘めた難題は予測できず、『礼』は失われております。
さらに、皇后は皇帝と同じように尊く、その罪は『子を冤罪に陥れたこと』ですので、反逆の罪とはならず、これを討つ『義』もありません。
今、張華が新しい皇太子を廃せなかったことを、晋の趙盾が主君を殺した賊を討たなかったことと同じとし、張華を責めて貶めるのは、義において道理が通りません」
と言い、その結果、張華は生前の爵位を回復した。
その後、司馬冏の成都王・司馬頴討伐に従って勲功を挙げ、大陵県公に封ぜられ、封邑1,800戸を与えられた。
地方に出て冀州刺史となり後将軍を加えられたが、范陽王・司馬虓が許昌で敗れ、河北に遷って自ら冀州牧を称したので、温羨は冀州を司馬虓に譲った。
恵帝(司馬衷)が長安に行幸した際、温羨を中書令に任命したが就任しなかった。
恵帝(司馬衷)が洛陽に還ると、温羨は徴召かれて中書監に任命され、散騎常侍を加えられたが、まだ拝命する前に恵帝(司馬衷)が崩御。懐帝(司馬熾)が即位すると、左光禄大夫・開府・司徒に遷った。
人々はみな「温羨は出世が速い」と噂したが、程なくして病で亡くなり、司徒の位を追贈され、元と諡された。
脚注
*1崔杼の妻と密通した荘公が崔杼に殺害された時、晏子(晏嬰)が自分のスタンスをあらわして言った言葉。張華が死を賭してまで強く諫めなかったことを擁護している。
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第5世代(温祗・温允・温恭・温嶠)
温嶠・太真
西晋の太康9年(288年)〜東晋の咸和4年(329年)没。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は温憺。子に温放之、温式之。
聡明鋭敏、博学で文才があり、幼い頃より孝行で知られた。容姿端麗で談論に優れ、見た者はみな彼を愛したという。
17歳の時、州や郡に辟召かれたがすべて辞退した。司隷校尉の都官従事となると、当時評判が高かった散騎常侍・庾敳の莫大な蓄財を奏上して京都(洛陽)の緩んだ気風を引き締めた。後に秀才に推挙され、司徒に辟召かれて東閤祭酒・幷州(并州)・上党郡・潞県の県令となる。
温嶠の従母(母の姉妹)の夫である平北大将軍・劉琨は、礼を尽くして温嶠に軍に参加することを請い、劉琨が大将軍に遷ると、温嶠は従事中郎・上党太守となり、建威将軍を加えられて督護前鋒軍事となった。
前趙の石勒討伐において度々戦功を挙げ、劉琨は司空に遷り、温嶠は右司馬となる。当時、土地は荒廃して各地で盗賊たちが群れ起こり、石勒と劉聡が国境を侵していたので、劉琨は温嶠の謀を頼った。
建興4年(316年)、2都(洛陽・長安)が陥落して西晋の社稷が断絶すると、司馬睿(東晋の元帝)を擁立。散騎常侍を拝命し、太子中庶子を兼任して東宮の太子を補佐した。
その後、明帝(太子・司馬紹)が即位すると、侍中・中書令となる。
王敦が反乱を起こすと、中塁将軍・持節・都督東安北部諸軍事として討伐軍に従軍。自ら水軍を率いて王含を破る戦功を立て、建寧県開国公に封ぜられ、絹・5,400匹を賜り、前将軍に進んだ。
明帝が重病となると、王導・郗鑒・庾亮・陸曄・卞壼らと共に顧命(天子が臨終の際に発する命令)を受ける。
咸和年間の初め江州刺史・持節・都督・平南将軍として武昌に駐屯し、咸和2年(327年)に起こった「蘇峻の乱」を鎮圧した功績により、驃騎将軍・開府・儀同三司・散騎常侍となり、始安郡公に封ぜられて封邑3,000戸を与えられた。
咸和4年(329年)に42歳で病死。侍中・大将軍・持節・都督・刺史を追贈され、銭・百万銭と布千匹を賜り、武と諡された。
『魏書』盧毓伝が注に引く『晋諸公賛』に、温嶠が上奏文を奉って、盧植の子・盧毓の曾孫にあたる盧諶を「とりわけ清潔で文才がある」と称揚したことが記されている。
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第6世代(温放之・温式之)
温放之・弘祖
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・祁県の人。父は温嶠。弟に温式之。
父・温嶠の爵位(始安郡公)を嗣ぎ、清官*2を歴任して給事黄門侍郎に至った。
交州刺史の官職を求め、朝廷に認められた。この時王述は会稽王に手紙を送って温放之を地方に出すことを諫めたが、聞き入れられなかった。
広州・南海郡に入った温放之は威光と恩恵を施したが、温放之が林邑に侵攻すると交阯太守・杜宝と別駕・阮朗は従うことを拒否したので、温放之は彼らを誅殺して軍を進め、林邑を陥落させて帰還した。在官のまま亡くなった。
脚注
*2名門貴族のみが就く事ができる上位の官品を持つ官職。
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