正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㊶、汪踦・欧冶です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㊶
汪(汪踦)
汪踦(汪錡)
生年不詳〜魯の哀公11年(紀元前484年)没。春秋時代の魯国の童子(男の子)。汪錡とも。
魯の哀公11年に斉国が魯国に攻め込んだ時、魯国の童子・汪踦は国を守るために身を挺して戦って死んだ。
彼の忠勇の精神に感嘆した魯国の人々の間で「汪踦に対し成人と同じ葬礼を行うべきか」が議論になったが、この時孔子は、
「武器を取って国家を守ったのだから、殤(20歳前に死ぬこと)の扱いをしなかったとしても、良いではありませんか」
と言い、特別な例外として「成人の葬礼」によって彼を埋葬した。
『呉書』張昭伝に名前が登場する。
張昭の弟の子・張奮は、20歳の時に城攻めに用いる「大攻車」を考案し、歩騭の推奨を受けたが、張昭はそれを喜ばず、「お前はまだ若いではないか。どうして進んで軍隊などに入ろうとするのか」と言った。
すると張奮は「昔、まだ童子であった汪踦は国難に殉じ、子奇は(20歳にもならぬ身で)阿の地を統治いたしました。私は確かに不才ではございますが、年齢の点で不足はしておらぬのです」と答えた。
欧[欧冶(欧冶子)]
欧冶(欧冶子)
生没年不詳。刀鍛冶。
『蜀書』郤正伝が注に引く『越絶書』に名前が登場する。
昔、越王・句践の元に5本の宝剣があり、天下に有名であった。
句践が、有能な剣の鑑定家である薛燭にその内の2本、「純鉤」と「湛盧」を見せたところ、薛燭はそれらを絶賛した。
そこで句践が、
「食客の中に『これを郷3つ、駿馬千頭、千戸の都市2つで買いたい』という者がいるが、売ってしまって良いだろうか」
と尋ねると、薛燭は、
「いけません。この剣が作られた時には、赤堇の山が裂けて錫を出し、若邪の谷が枯れて銅を出し、雨師(雨の神)が洗い清め、雷公(雷神)が太鼓を打ち鳴らし、太一(天の神)が下りてご覧になり、天の精気がそれに下り、欧冶(刀鍛冶)が天の精気に従い、その技巧を尽くしました。
第1を純鉤と言い、第2を湛盧と言います。現在、赤堇の山はすでに合わさり、若邪の谷は測定できないほど深く、欧冶子はすでに死亡していますから、城を傾けて黄金を積み、河にあるだけの珠玉を取り出したとしましても、この一物のみは手に入れることができないでしょう。
郷3つ、駿馬千頭、千戸の都市2つなどで手放して良い代物ではありません」
と答えたという。
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