正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㊱、「王」から始まる人物の一覧㉟王摩・王莽・王門・王約・王邑・王羕です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㊱(王㉟)
王(おう)
王摩
生没年不詳。袁紹の将軍。
袁紹と曹操が官渡で対峙していた建安5年(200年)、曹操が徐州で反逆した劉備の征討に向かった時、于禁は歩兵・2千人を指揮して延津を固守した。
その後于禁は、楽進らと歩兵・騎兵合わせて5千人を指揮して袁紹の別の陣営を攻撃。延津から西南に向かい黄河に沿って司隷・河内郡の汲県と獲嘉国まで行き、30余ヶ所の陣営を焼き払った。
斬った首の数と捕虜の数はそれぞれ数千、袁紹の将軍・何茂、王摩ら20余人を降伏させた。
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王莽・巨君
前漢の初元4年(紀元前45年)〜新の地皇4年(23年)没。冀州・魏郡・元城県・委粟里の人。王皇后(元后:前漢の第11代皇帝・元帝の皇后)の弟・王曼の次子。新の皇帝[在位:新の始建国元年(9年)〜新の地皇4年(23年)]となった。
王皇后が生んだ子が成帝として即位すると、王氏の一族は外戚として台頭し、王皇后の弟7人はすべて列侯に封ぜられ、順番に大司馬に就いて国家の軍事権を握った。
早くに父を亡くした王莽は、王氏一族の中で1人不遇であったが、王氏内部の権力争いに勝利して成帝の末年に自らも大司馬となる。
前漢の綏和2年(紀元前7年)に哀帝が即位すると一時下野したが、哀帝が急死すると、王皇后と王莽は、元帝の孫で9歳の平帝を強引に擁立し、王莽が実権を握った。
前漢の元始5年(5年)、王莽は平帝を毒殺。自ら摂皇帝と称すると、前漢の初始元年(9年)、讖緯説を作為的に利用して、ついに自ら天子に即位して新を建国した。
天子に即位した王莽は、強大化した豪族の大土地所有を制限するため、
- 官制の改革
- 官名・地名の改変
- 土地制度の改変
- 貨幣制度の改革
- 商工業の統制
など、復古的な色彩を伴う諸政策を実施して、儒教に基づく理想社会を具現化しようとしたが、かえって社会の混乱を増大させた。
さらに対匈奴政策の失敗もあり、山東で蜂起した農民反乱(赤眉の乱)と、それに続く豪族の反乱によって、新の地皇4年(23年)、長安城内の未央宮で、更始帝(劉玄)軍によって刺殺された。
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王門
生没年不詳。公孫瓚の将。
興平元年(194年)以降のこと。公孫瓚の将・王門が公孫瓚に叛いて袁紹に味方し、1万余人の兵を率いて東州県*1に来攻した。
人々は怖じ気づいて降伏しようとしたが、東州県令代行の田豫(田予)は城壁に登って王門に声をかけた。
「卿が公孫氏(公孫瓚)に厚遇されながら離れて行ったのは、やむを得ぬ理由があることだと思っていた。今、引き返して乱暴を働けば、卿が乱を好む人間に過ぎないと分かる。そもそも水汲み男ほどのわずかな智恵しかない者でも、人から器物を預かれば他人に貸したりしないものだ。儂はすでにその任を引き受けている。どうして早く攻めないのだ?」
王門は気恥ずかしくなって引き退いた。
脚注
*1原文ママ。冀州・河間国・束州県?
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王約
生没年不詳。晋の将軍。
『華陽国志』
呉の建衡3年(271年)、呉の虞汜と陶璜が交趾郡(交阯郡)に攻め込んだ。
晋の楊稷・毛炅らが立て籠もった城中の食糧も尽き、死亡者は半数に達した。将軍の王約が寝返ったため、呉軍は城中に攻め込むことに成功し、楊稷と毛炅を捕虜とした。
『漢晋春秋』
晋の霍弋が楊稷・毛炅らを交趾郡(交阯郡)の守りに赴かせる際に、共に誓約して言った。
「もし敵に城を包囲された時、100日に満たないうちに降伏したならば、その一家眷属を誅殺する。もし100日を過ぎてから城が敵の手に落ちたのであれば、刺史の方でその罪を引き受けよう」
楊稷らは100日に満たないうちに食糧が尽きて陶璜に降伏を申し出たが、陶璜は降伏を許さず、食糧を与えて城の守りを続けさせた。
呉の者たちが諫めると、陶璜は言った。
「霍弋は死んでおり、救援に来られる者はない。与えた食糧がなくなるのを待って、その後で降伏を認めれば、彼らの投降も罰せられることなく、我々は義のある行動を取ったことになる。国内的には我が民衆たちに教訓を与え、対外的には隣国の人々の心をこちらに惹きつけることができるのだ。素晴らしいことではないか」
楊稷と毛炅は食糧を食べ尽くしたが救援はやって来ず、そこで陶璜は降伏を認めて彼らの身柄を保護した。
上記のように、『漢晋春秋』に王約は登場しない。
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王邑・文都
生没年不詳。涼州・北地郡・泥陽県の人。
王邑は劉寛の門生で、幷州(并州)・西河郡・離石県の県長となった。
興平2年(195年)12月、長安を脱出した献帝が司隷・河東郡・安邑県に到達すると、当時河東太守であった王邑は綿帛を献上し、献帝はそれらを公卿以下、従ってきた者たちに分け与え、王邑を列侯に封じた。
建安7年(202年)、袁尚が勝手に任命した河東太守・郭援が司隷・河東郡に侵攻し、絳邑県を包囲した。逃げられないと悟った賈逵は、人を遣って間道伝いに郡まで官印と綬を送らせて、河東太守・王邑に「急いで皮氏県を占拠せよ」と伝えさせた。
その後、絳邑県を降伏させた郭援が、絳邑県の軍勢を合わせてさらに兵を進めようとすると、賈逵は「郭援が皮氏県を占拠すること」を恐れて一計を案じ、郭援の謀士・祝奥を迷わせて郭援の軍勢を7日間引き止めたので、郡は皮氏県を確保することができ、敗北せずに済んだ。
建安10年(205年)、王邑は詔勅をもって召し寄せられたが、天下がまだ安定していなかったため、お召しに応じることを願っていなかった上、官民もまた王邑を慕っていた。
そこで、郡の掾(属官)・衛固と中郎将の范先らが司隷校尉の鍾繇の元に赴いて、王邑の留任を要請したが、この時すでに詔勅によって河東太守に任命された杜畿が郡境に入っており、鍾繇は范先らの希望を聞き入れず、王邑に「太守の割符を渡せ」と催促した。
すると王邑は、太守の印綬を帯びたまま真っ直ぐ河北を通って許都(許県)に行き、自分で直接印綬を返還した。
洛陽にあって司隷の統治に当たっていた鍾繇は、命令が守られない以上「自分は統治者としての資格を失っている」と判断し、自らを弾劾する上奏をして辞職を願い出たが、認められなかった。
建安18年(213年)秋7月、献帝が魏公・曹操の3人の娘を貴人に迎え、一番年少の娘は国で成長を待つこととなった。
そこで曹操は、使持節・行太常・大司農で安邑侯の王邑を使者として冀州・魏郡・鄴県に派遣し、璧・白帛・玄纁(赤黒い絹)・絹5万匹を結納とした。
その翌年正月、曹操は、王邑と持節・宗正の劉艾に介添え5人をつけ、束帛(礼物用に束ねた絹)と4頭立ての馬を持たせて、給事黄門侍郎・掖庭丞・中常侍2人と、魏国から2人の貴人を迎えさせた。
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王羕
生没年不詳。大将軍府の舎人。
中書令の李豊は、かねてから大将軍の司馬師に親任されていたが、秘かに太常の夏侯玄に心を寄せ、皇后の父である光禄大夫の張緝と結託して夏侯玄に政治を執らせようと企んだ。
嘉平6年(254年)、司馬師が李豊の陰謀を聞き知ると、舎人の王羕は「命令によって李豊を招く」ように要請した。
司馬師が王羕を派遣して車をもって迎えさせると、李豊は脅迫され王羕の後についてやって来た。そこで司馬師が厳しく問い詰めたところ、観念した李豊は、
「お前たち父子は悪心を抱き、社稷をひっくり返そうとしている。儂の力が足りず、討ち滅ぼせなかったのが残念だ」
と言ったので、司馬師は激怒して、強力の勇士に刀の柄で李豊の腰を叩かせて殺害した。
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