正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㊲、「王」から始まる人物の一覧㊱王離・王立・王良・王陵・王累・王黎・王霊・王郎・王朗(魏の将)・王和平です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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お㊲(王㊱)
王(おう)
王離・伯元
生没年不詳。益州・広漢郡の人。『蜀書』楊洪伝が注に引く『益部耆旧伝』に記載がある。
実務の才をもって出世した。督軍従事となったが、法律を公平に執行し、次第に昇進して何祗に代わって犍為太守となり、優れた治績をあげた。
聡明さは何祗に及ばなかったが、文章表現においては彼以上であった。
王立
生没年不詳。侍中・太史令。
興平2年(195年)、献帝が司隷・弘農郡・弘農県の曹陽澗(渓谷)で敗れた時、船に乗り黄河を東に下ろうと考えた。
この時、侍中・太史令の王立は言った。
「過ぎし春より、太白(金星)が牛斗(牽牛星と北斗星)の辺りで鎮星(土星)を犯し、天津(天の川に横たわる九つの星)を通過しました。熒惑(火星)はまた逆行して北河(双子座の三つの星)にじっと留まっておりまして、犯すことはできません」
その結果献帝は、結局黄河を北方に渡らず、軹関から東に出ようとした。
王立はまた宗正の劉艾に向かって言った。
「先に太白(金星)が天関(星座の名前)でじっと動かず、熒惑(火星)と出会いました。金と火が交わり出会うのは、天命の改まる象です。漢の命運は尽きましょう。晋・魏に興隆する者があるに違いありません」
王立は後にたびたび帝に進言した。
「天命には去就があり、五行は常に栄えるわけではありません。火に代わる者は土、漢を継承する者は魏、天下を安定できるのは曹姓です。一重に曹氏にご委任ください」
曹操はそれを聞くと、人をやって王立に言った。
「公が朝廷に忠義なことは存じているが、しかし天道は深遠である。どうか多言しないでくれ」
王良
生没年不詳。馬相(軍用馬としての適正を判定するための特徴)を観る名人。名御者。
『蜀書』郤正伝が注に引く王褒(前漢の文人)の『聖主得賢臣頌』(『文選』巻47)に名前が登場する。
「齧膝(名馬の名前)に車を引かせ、乗旦(名馬の名前)をそえ馬とし、王良が手綱を握り、韓哀が同乗するとなると、思いのままに駆け巡っては、あっという間に日の影が消え去るようであり、都を過ぎ国を越えていくのは、土くれを蹴散らすように速い。
走る稲妻を追い、疾風を追い、八方をあまねく巡り、万里の彼方で一休みする。なんとその遙かなことよ。
これも人と馬の呼吸がぴったり合ったからである」
また、『魏書』杜畿伝にある「杜恕の上奏文」にも名前が登場している。
王陵
生年不詳〜前漢の文帝3年(紀元前177年)。泗水郡・沛県の人。秦末〜前漢の将。
泗水郡・沛県の豪族で、若き日の髙祖(劉邦)は王陵に兄事していた。
沛県で挙兵した劉邦が咸陽に入った当時、数千の兵を集めて南陽郡にいた王陵は劉邦に従ってはいなかったが、その後劉邦が項羽と戦うようになると、王陵は兵を引き連れて劉邦に属した。
すると項羽は、王陵の母を人質にして王陵を従わせようとし、王陵は母に使者を派遣した。
ところが王陵の母は、使者に向かって涙を流しながら「陵(王陵)に伝えておくれ、よく漢王(劉邦)に仕えるように。きっと漢王(劉邦)は天下を手に入れるでしょう。この老母のために二心を持つことのないように。私は死をもって使者を送り出します」と言うと、剣を手にとって自害した。
これに激怒項羽は王陵の母の遺体を煮て辱めた。
結果、王陵は劉邦に従い続け、劉邦によって天下が平定されたが、王陵は劉邦が憎んだ雍歯と仲が良く、また従属したのが遅かったことから、髙祖6年(紀元前201年)になってやっと安国侯に封ぜられた。
王陵は義侠心が強く、直言を好み、前漢の第2代皇帝・恵帝期に右丞相となった。
恵帝が崩御すると、高后(呂太后:恵帝の母)は「呂氏一族を王に封じたい」と思い、朝議に諮った。そこで王陵は、
「髙祖(劉邦)は白馬を生贄に捧げて『劉氏にあらざる者が王となったなら、天下の者は協力してこれを撃つべし』と盟いを立てられました。今、呂氏を王とするのはこの盟いに背くものです」
とこれに反対したが、左丞相・陳平と絳侯・周勃は、
「髙祖(劉邦)は天下を統一すると自分の子弟を王としました。今、太后(呂太后)は称制(皇帝の代行)を行っているのですから、呂氏の子弟を王とすることに、何の問題がありましょう」
と言ったので、呂太后は喜んだ。退出した王陵は陳平らに、
「君たちは『白馬之盟』の場にいなかったのか?今、髙祖(劉邦)は崩御され、呂太后が女主となって呂氏を王に封じようとしている。盟いに背き、どの面下げて地下(あの世)で髙祖(劉邦)に見えるつもりだっ!」
と言ったが、陳平は、
「朝廷で面と向かって争うことでは臣は君にかなわないが、社稷を全うし、劉氏の後継者を定めることでは、君は臣に及ばない」
と答え、王陵は言い返せなかった。
以降、王陵を疎んじるようになった呂太后は、呂后元年(紀元前187年)、形式上、王陵を太傅に栄転させて宰相の実権を奪ったので、王陵は怒り、病気と称して朝議に出席せず、10年後に亡くなった。
『魏書』程昱伝が注に引く徐衆の『(三国)評』に登場する。
王累
生年不詳〜建安16年(211年)没*1。益州・広漢郡の人。益州従事。
建安16年(211年)、益州牧・劉璋は別駕・張松の進言に従い、法正を派遣して劉備に益州に来てくれるように頼ませた。
劉璋の主簿の黄権はその利害を述べ立て、従事の王累は自ら州門に身体を逆さ吊りにし、死をもって諫めた*1が、劉璋は聞き入れようとせず、通り道に当たる所に命令を出して劉備をもてなしたので、劉備はまるで自分の国元へ帰還するかのように国境を越えた。
脚注
*1『華陽国志』による。『蜀書』劉璋伝には「自ら州門に身体を逆さ吊りにして諫めた」とあるのみで、その後の生死については触れられていない。
王黎
生没年不詳。冀州・常山国・高邑県の人。魏の黄門侍郎。
魏の正始年間(240年〜249年)、黄門侍郎の官が続けざまに欠員となった。
吏部尚書*2の何晏は、賈充・裴秀・朱整を起用し、さらに彼が高く評価していた王弼の起用について審議したが、何晏と人事担当の官吏として勢力争いを演じていた丁謐が、曹爽に王黎を推薦し、曹爽は王黎を起用した。
当時、曹爽が朝政を一手に握り、その一党が互いに引き立て合って起用され出世していたが、王弼は道理をわきまえた人間として、名声を売るような態度を取らなかったので無視された。
ほどなくして王黎が病気にかかって亡くなると、曹爽は王黎の代わりに王沈を起用し、王弼は結局、黄門侍郎の官に就くことができなかった。
何晏は彼のために残念がったが、王弼は尚書郎の官に就いてから日が浅い上に、元々事務が得意ではなかったので、まったく意に介さなかった。
脚注
*2文官の任免・評定・異動などの人事を担当する官職。
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王霊
生没年不詳。涼州・武都郡の人。
建安17年(212年)に馬超が涼州・漢陽郡・冀県を攻撃すると、涼州刺史・韋康は正月から8月まで抵抗したが、官吏が傷つき死ぬのを憐れみ、参軍事の楊阜や従事の趙昂が止めるのもきかずに降伏。馬超は入城すると、張魯の部将・楊昂に韋康と太守を殺させたので、州民は悲しみ悼み、憤りを感じない者はいなかった。
その後、楊阜は馬超に復讐する機会を窺い、歴城に駐屯していた外兄*3の姜叙と計画を練った。計画が決まると、
外部の郷人である、
- 姜隠
- 趙昂
- 尹奉
- 姚瓊
- 孔信
涼州・武都郡の人、
- 李俊
- 王霊
らと謀議を凝らし、馬超討伐の約束を取り決めた。
そして建安17年(212年)9月、楊阜と姜叙は鹵城で兵を挙げ、馬超を南方の張魯の下に逃走させた。
脚注
*3父の姉妹の子、または母の兄弟の子。
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王郎(王昌)
生年不詳〜漢の更始2年(24年)。冀州・趙国・邯鄲県の人。
王昌は一名を郎と言い、元は易者(占卜を生業とする者)で、天文や暦に明るく、河北に「天子の気」があると考えていたので、当時「趙・魏の界隈で多くの豪傑たちと交わり、任侠として名が通っていた趙の繆王の子・劉林」と親しくつき合っていた。
王莽が帝位を簒奪した当初、長安に前漢の第11代皇帝・成帝の子・劉子輿を自称する者がいたが、王莽に殺害された。すると王郎は「我こそが真の劉子輿である」と詐称し、彼を信じた劉林、趙国の大豪族・李育、張参らは王郎を天子に立てようと画策する。
ちょうどこの時、「赤眉*4が黄河を渡って北侵して来る」との噂があったので、劉林は「劉子輿(王郎)をリーダーに立てて赤眉*4を防ぐこと」を宣言し、多くの民衆がこれを信じた。
更始元年(23年)12月、劉林らは車騎数百を率いて邯鄲城に入ると、そこを王宮として遂に王郎を天子に即位させ、
- 劉林は丞相
- 李育は大司馬
- 張参は大将軍
となり、将帥を派遣して幽州と冀州を帰順させた。さらに王郎は、州郡に檄文を発っして「民衆の漢を慕う気持ち」を煽ったので、趙国以北と遼東郡以西はみな王郎に従った。
翌年の更始2年(24年)、王郎の勢力下である薊県で王郎の檄文を手に入れた劉秀(光武帝)は南の信都郡に逃走し、王郎に従わない県の兵を徴発して王郎方の趙国・柏人県を攻撃した。
劉秀は柏人県を落とすことができず、また王郎方の太守・王饒が守る東北の鉅鹿県を包囲したが、数十日間、連日攻撃しても落とすことができなかった。
そこで劉秀配下の耿純が、
「王饒の守りは固く士衆は疲弊しており、精鋭の大軍には及びません。もし、邯鄲県に侵攻して王郎を誅殺すれば、王饒は戦わずして降伏するでしょう」
と進言すると、これを「良し」とした劉秀は、鉅鹿県に将軍・鄧満を残して邯鄲県に進軍し、郭北門に到着した。
王郎は数度城を出て戦ったが、戦況は不利となり、諫議大夫の杜威に節を持たせて劉秀に降伏を請うた。
すると劉秀は、
「もし成帝の生まれ変わりだとしても、天下を得ることはできまい。まして劉子輿の名を騙る偽者なら、なおさらであるっ!」
と言い、また降伏と同時に「王郎を万戸侯に封じること」を求める杜威に対し、
「五体満足でいられるだけでありがたいと思え」
と言った。すると杜威は、
「邯鄲県は小城だが守りは固く、君臣一丸となって包囲に耐えるでしょう」
と言い、交渉は決裂した。
その後劉秀は20日に亘って城を強襲し、一方で王郎の少傅・李立に離間の計を仕掛けた。すると李立は、城門を開いて漢(劉秀)の兵を招き入れたので、ついに邯鄲県は陥落。王郎は夜陰に紛れて逃亡したが、これを追撃した劉秀配下の王覇に斬られた。
王覇は王郎の璽綬を手に入れて、王郷侯に封ぜられた。
脚注
*4農民反乱軍。みな眉を赤く染めていた。
王朗(魏の将)
生没年不詳。魏の将軍。
曹操が兗州牧となった初平3年(192年)頃のこと。当時都伯(隊長)であった楽進が王朗に所属した。
王朗は彼を評価し、「于禁の才能は大将軍を任せられる」と推薦した。
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王和平
生没年不詳。青州・北海国の人。
光和年間(178年〜183年)、王和平は道術を好み「自分は仙人になるのだ」と称した。
青州・済南国出身の孫邕が若い時から彼に仕え、師と共に京師にやって来た。たまたま王和平が病気で死んでしまうと、孫邕はそのまま東陶の地に遺骸を葬り、書物が百余巻、薬が数袋あったのも、みな一緒に棺に収めて埋めた。
後に弟子の夏栄が「王和平は尸解*5した」のだと述べた。
孫邕は、今に至るまで貴重な書物と仙薬を自分のものにしなかったことを悔やんでいる。
脚注
*5仙人になるに際し、竹杖などを身替わりにして、外見的には死んだと見せかけて仙去すること。
白日昇天などの方法で仙人になるよりも劣るとされる。『抱朴子』論仙篇に言う。「上士は形を挙げて虚に昇る。これを天仙と謂う。中士は名山に遊ぶ。これを地仙と謂う。下士は先に死し、後に蛻す(屍体を残して去る)。これを尸解仙と謂う」と。
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