正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉚、「王」から始まる人物の一覧㉙王粋・王遂・王崇・王生・王政・王晟・王靖です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㉚(王㉙)
王(おう)
王粋
生没年不詳。
西晋の太安2年(303年)8月、河間王・司馬顒が長沙王・司馬乂討伐の兵を挙げると、成都王・司馬穎はこれに呼応して兵を挙げ、洛陽に攻撃をかけた。
この時、陸遜の孫・陸機は後将軍に任命され、王粋や牽秀らの諸軍団・20万人を指揮することになった。
陸機の弟・陸士龍(陸雲)は、「南征の賦」を著してこの軍事行動を褒め称えた。
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王遂
生没年不詳。呉の工人。
呉の嘉禾年間(232年〜238年)、大銭が鋳造されて、大銭1枚が5百銭に当たるとされた。
後に朱拠の配下の私兵の1人が3万緡(緡は「銭さし」に通した千枚の銭)の銭を受け取ることになっていたところ、工人の王遂がそれを騙して自分のものにしてしまった。
典校の呂壱は「朱拠がその銭を横領してしまったのではないか」と疑い、本来の受取人を拷問にかけ、杖で打ち殺した。
朱拠は、彼が無実の罪で死んだことを哀れんで手厚く葬ってやり、さらに上表して「配下の役人が自分のために黙秘を続けたまま死んだからこそ、鄭重に葬ったのだ」と述べた。
孫権はこの事について何度も朱拠を問責し、朱拠は弁明することもできぬまま草を敷いた上に座って罰せられるのを待っていたが、数ヶ月後、典軍吏の劉助が事の真相をつかみ、「王遂が取ってしまったものだ」と上言した。
孫権は事態に気づいて、
「朱拠までが無実の罪を被せられるのであれば、小役人や民衆たちがひどい目にあっていること、想像に余りある」
と言い、そこで厳しく呂壱の罪を問い質し、一方で劉助には恩賞として百万銭を下賜した。
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王崇
生没年不詳。呉の将軍。
呉の将軍・張嬰と王崇が軍勢を引き連れて魏に降伏した。
魏の太和2年(228年)秋9月*1、明帝(曹叡)は賈逵に前将軍・満寵、徐州・東莞郡の太守・胡質ら4軍を監督させて荊州・江夏郡・西陽県から真っ直ぐ孫権のいる東関に向かわせ、曹休には揚州・廬江郡・晥県から、司馬懿には荊州・南郡・江陵県から進ませた。
孫権は自ら晥口まで出ると、将軍の陸遜に命じ、部将たちを指揮して曹休を襲わせ、陸遜は石亭で曹休を徹底的に撃ち破った。
脚注
*1『呉書』呉主伝では秋8月。
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王生
生没年不詳。魏の将軍。
魏の太和2年(228年)、蜀の諸葛亮が祁山を包囲すると、南安郡・天水郡・安定郡の3郡が謀叛した。明帝(曹叡)は曹真に諸軍を指揮させ、張郃が街亭で馬謖を撃ち破ると、3郡はことごとく平定された。
曹真は「諸葛亮は祁山の失敗に懲りて、今度は司隷・右扶風・陳倉県を通って出撃してくるに違いない」と考え、将軍の郝昭と王生を差し向けて陳倉県を守備させ、その城壁を修築させた。
翌年春、諸葛亮は曹真の予想通り陳倉県を包囲したが、すでに備えができていたため勝利を得ることができなかった。この功績により、曹真は領地を加増され、合計2,900戸となった。
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王政
生没年不詳。張純の食客。
中平4年(187年)、張純、張挙、烏桓(烏丸)の大人(首長)・丘力居らが起こした反乱は、幽州をはじめ冀州・青州にまで影響を及ぼした。
当初、公孫瓚がこの鎮圧に当たっていたが、烏桓(烏丸)で人望を集めていた劉虞が幽州牧に着任すると、劉虞は丘力居らに「張純の首と引き替えに帰順すること」を勧め、丘力居はこれを受け入れる。
張純は妻子を捨て、鮮卑族を頼って逃亡したが、翌年3月、食客の王政によって殺害された。
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王晟
生没年不詳。揚州・呉郡・嘉興県の人。
孫策が揚州・会稽郡を平定し、厳白虎の討伐に向かった頃、呉郡には烏程県の鄒他(鄒佗)や銭銅、嘉興県には前の合浦太守であった王晟たちがそれぞれ数千〜1万余の軍勢を集めていた。
孫策が兵を率いて討伐を行い、これらをみな撃ち破ると、呉氏(孫策の母)は孫策に言った。
「王晟はお前の父上(孫堅)とは奥座敷に通り妻と挨拶するような親しい関係でした。今、その子弟兄弟たちはみな斬首誅滅されて、老人1人が残っているだけです。何の懼れることがありましょう」
そこで孫策は、母の言葉に従って王晟だけは見逃し、他はすべて一家皆殺しにした。
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王靖
生没年不詳。徐州・広陵郡の人。呉の臣下。
宮廷にあって時世のことに心を砕くことなく、地方に出ても職務に励むことがなかったので、張温に弾劾された。
太守を務めていた時、「かつて郡民が変事を起こした」ということで譴責を受け、弁解も認められなかった。
そこで王靖は秘かに計略を立て、北に奔って魏に身を託そうとしたが、事が露見して彼の一族は幼子まで皆殺しになった。
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