『三国志演義』ではなにかと美化されている劉備。
劉備は本当に漢室の末裔だったのか?
また、漢室の末裔であることにどのような利点があるのかを考察してみます。
スポンサーリンク
目次
『演義』における劉備の血筋
劉備の略歴
『三国志演義』で語られる劉備の略歴は、
中山靖王・劉勝の末裔、漢の景帝の玄孫。
劉勝の子・劉貞は、漢の武帝の時代に涿鹿亭侯に封ぜられたが、賄を取った事件に連座して知行を召し上げられて没落。
劉備の祖父は劉雄、父は劉弘という。
父・劉弘は孝廉に推挙されて役人になったが早くに亡くなったため、劉備は母に孝行をつくして、わらじを売り、むしろを編んで貧しい暮らしをしていた。
とされています。
献帝による系図の確認
『三国志演義』第20回には、呂布を滅ぼした曹操が劉備の戦功を奏上し、献帝が皇室の系図を取り寄せて劉備の血筋を確認する場面があります。
これによると、景帝の第7皇子が中山靖王・劉勝であるところから始まって、
劉勝の子は陸城亭侯・劉貞
劉貞の子は沛侯・劉昴
劉昴の子は漳侯・劉禄
劉禄の子は沂水侯・劉恋
劉恋の子は欽陽侯・劉英
劉英の子は安国侯・劉建
劉建の子は広陵侯・劉哀
劉哀の子は膠水侯・劉憲
劉憲の子は祖邑侯・劉舒
劉舒の子は祁陽侯・劉誼
劉誼の子は原沢侯・劉必
劉必の子は穎川侯・劉達
劉達の子は豊霊侯・劉不疑
劉不疑の子は済川侯・劉恵
劉恵の子は東郡范県の令・劉雄
劉雄の子は劉弘(無官)
劉弘の子は劉備
と、中山靖王・劉勝から劉備まで途切れずに続く系図が読み上げられます。
これによって劉備は献帝から正式に叔父として認められ、以降劉備は劉皇叔と呼ばれるようになりました。
スポンサーリンク
『蜀志』先主伝における劉備の血筋
『蜀志』先主伝の記述
まず、『蜀志』先主伝における劉備の血筋に関する記述を確認してみましょう。
姓は劉、諱は備、字は玄徳と言い、涿郡涿県の人で、漢の景帝の子、中山靖王・劉勝の子孫である。
劉勝の子の劉貞は、元狩6年(紀元前117年)に涿県の陸城亭侯に封じられたが、酎金律に反して侯の位を失い、そのまま涿県に住むようになった。
先主の祖父は劉雄、父は劉弘と言い、代々州郡に仕えた。劉雄は孝廉に推挙され、官位は東郡范県の令にまで昇進した。
先主は若くして父を失ったため、母と草履を売り、蓆を織って生活していた。
※ 先主 = 劉備
中山靖王・劉勝とは
劉備が先祖とする中山靖王・劉勝は、前漢の第6代皇帝・景帝の子で、異母兄弟の長沙王・劉発の子孫である光武帝・劉秀が後漢王朝を興すことになります。
劉備と献帝の関係
つまり、劉備が劉勝の子孫ということになれば、劉備も献帝も同じ景帝の血筋であるということになります。
中山靖王・劉勝は酒好き女好きとして有名な王で、孫の代まで合わせると120人以上の子孫を残していますので、当時劉勝の子孫は劉備の他にもたくさんいたであろうことが推測されます。
豆知識
1968年に発掘された満城漢墓(河北省保定市満城県)は、中山靖王・劉勝と王妃・竇氏の墓であると考えられています。
酎金律とは
酎金律とは、前漢の第5代皇帝・文帝の時代に制定された諸侯の財力を削ぐための法令の1つ。
前漢王朝では毎年8月、皇帝は正月に仕込んだ酎酒を諸侯とともに試飲し、宗廟に献じる祭りを行いました。
その際、諸侯は与えられた領地に応じた黄金を皇帝に献上しなければいけませんが、その量が少なかったり品質が悪かった場合の罰則規定が酎金律で、王は領地を削られ、諸侯は国を没収されました。
前漢の第7代皇帝・武帝の時代、元鼎5年(紀元前112年)には、列侯 106人が国を免じられたと言われ、劉勝の子劉貞は、この時に侯の位を失ったと思われます。
正史『三国志』における劉備の血筋に関する記述は以上で、劉貞から祖父・劉雄までの系図は記されていません。
劉備が献帝に謁見した時に皇室の系図を確認したエピソードは『三国志演義』の創作です。
スポンサーリンク
劉備が皇室の末裔であることは本当なのか?
劉備の血筋
劉備の血筋を確認できるのは、祖父の劉雄、父の劉弘だけで、中山靖王・劉勝の子、劉貞から祖父・劉雄までの系図が不明な以上、劉備が中山靖王・劉勝の末裔であることの真偽を確かめる術はありません。
もう少し『蜀志』先主伝を読み進めてみましょう。
先主の家の東南には高さ五丈余り、天子が乗る馬車の車蓋のような立派な枝振りの桑の木が生えていた。
先主はこの桑の木の下で遊んでいる時「オレは将来この桑の木のような馬車に乗るんだ」と言った。
叔父の劉子敬は「めったなことを言うものではない。一族を滅ぼすぞ!」と注意した。
先主は母に15歳で遊学に出され、一族の劉徳然や、遼西の公孫瓚と一緒に元九江太守の盧植に師事した。
劉徳然の父・劉元起は、息子の劉徳然と同じように先主に援助をした。
先主は読書を好まず、狩猟や音楽、華美な服装を好んだ。
桑の木を見て言った言葉
『史記』項羽本紀には、始皇帝の全国巡業の行列を見た項羽と劉邦のエピソードが記されています。
始皇帝の行列を見た項羽は「あいつに取って代わりたいものだ」と言い、叔父の項梁が「むやみにそのようなことを言うな。一族皆殺しの目にあうぞ」と諫める。
また、同じ行列を見た劉邦は「男として生まれたからには、ああなりたいものだ」と言った。
劉備と叔父・劉子敬のやりとりは、始皇帝の行列を見た項羽と叔父・項梁のやりとりとまったく同じです。
このことから、正史『三国志』を著した陳寿が『史記』になぞらえて挿入した作り話であり、事実ではない可能性があります。
また逆に、『史記』を読んでいた劉備が、項羽や劉邦の言葉を真似て言ったと考えることもできます。
天子の馬車に乗るということはつまり「天子になる」ということです。
劉備は幼少の頃から「自分が漢室の末裔である」ことを聞かされていて「自分には天子になる資格がある」と考えていたのかもしれません。
実は裕福だった劉一族
劉備の祖父・劉雄は孝廉に推挙されています。孝廉に推挙されるためには、ある程度の財力を必要としますから、劉雄の代までは涿県の豪族として知られた存在であったと推測することができます。
中国では一族の結びつきが強く、劉元起が劉備に援助をしたことは不思議なことではありません。このことから涿県の劉氏はそれなりに財力を持った一族であったことが分かります。
「父を失って母と草履を売り、蓆を織って生活していた」と記されていますが「販履織席」とは苦労したことをあらわす一般的な比喩であり、本当に草履や蓆を売って暮らしていたとは限りません。
また、盧植に師事したとありますが、熱心に勉学に励むことはなく、劉元起の援助を受けながら遊びほうけているような印象を受けます。
劉備が漢室の末裔であったことを裏付ける記録は、信憑性の高い史料から見つけることはできません。
ですが、中山靖王・劉勝の子孫は孫の代まででも120人以上、それから350年近く経った劉備の時代には、相当な人数になっていたはずです。
また、劉備の一族が涿県において、ある程度財力のある豪族であったことから、侯の位を失って涿県に土着した劉貞の子孫であったとしても不思議ではありません。
漢室の末裔であることの価値
では、劉備が漢室の末裔であると称することに、どれだけの影響力があったのでしょうか?
豪侠の士と交わる
『蜀志』先主伝には、
先主は言葉少なく、よく人にへりくだり、感情を顔に出さなかった。
豪侠の士と親交を結ぶことを好み、若者たちは争うように劉備に従った。
とあります。
豪侠の士とは、強くて男気のある人たちのことで、劉備は学問によって身を立てるのではなく、人脈を広げて仲間を集め、いわゆる任侠集団を形成していたのです。
地元の豪侠の士にとって劉備の漢室の末裔という血筋は、リーダーとして立てるのに十分な魅力を持っていたと言えるでしょう。
漢室の末裔の価値
劉備が黄巾賊の討伐で功を立て、群雄の末席に名を連ねた時、
- 幽州牧で、後漢の東海恭王・劉彊の末裔、劉虞
- 益州牧で、前漢・景帝の第4子、魯恭王・劉余の末裔、劉焉
- 荊州牧で、劉焉と同じ魯恭王・劉余の末裔、劉表
など、劉備の他にも漢室の末裔で高い地位にある人物がいました。
実際に劉虞は、菫卓によって立てられた献帝を認めたくない袁紹と韓馥によって、皇帝に擁立されそうになりますが、これを拒絶しています。
つまり、実績も名声もない劉備が、並み居る群雄に対して漢室の末裔であることを声高に主張したところで「かもしれないね。で、それがどうしたの?」という扱いになったのではないでしょうか?
黄巾の乱以降、後漢王朝の支配体制は崩壊し、軍事力を背景に地方豪族の力が増大します。
それぞれが自分の勢力を拡大することに専念する中でも「漢の臣下」であるという共通認識が建前として残っているため、天子の権威だけはかろうじて保たれていました。
ですが、皇族の劉虞は公孫瓚に殺され、劉表の跡を継いだ劉琮も曹操の前に降伏を余儀なくされています。
完全な実力主義に陥った当時の状況では、漢室の末裔であったとしても他国の侵略を免れることはできなかったのです。
儒教と易姓革命
儒教の教え
後漢の時代に重要視された儒教(儒学)は、実力主義が横行する戦乱期において、仁道政治と身分秩序の再編を実践した考え方です。
天子が徳によって国を治めることを理想とし、臣下には正しい行いと忠節を求めました。
儒教は後漢王朝の国学とされ、儒教の教えを実践することが立派な人物の条件とされていたのです。
後漢王朝の支配力が弱体化し、儒教の教えである五倫五常がないがしろにされる中で、これを実践することによって民心を得ようとしたのが劉備です。
これによって劉備は多くの民心を得ることに成功しましたが、一方で仁義を貫くために戦略戦術を制限されてしまうことにもなりました。
関連記事:
易姓革命
また、儒教には徳のない暴君が天子となったとき、新たな徳を備えた一族に天命が下って新王朝を立てる易姓革命という考え方があります。
つまり、天子の血統が断絶することによって王朝が交代するのではなく、徳の断絶によって王朝が交代することを認めていました。
この考え方は、後漢王朝が衰えた(徳がなくなった)とき、後漢王朝を盛り立てて支えるのではなく、後漢王朝を打倒することに正当性を与えることになってしまうのです。
献帝が曹丕に禅譲したあと、劉備は漢室の末裔であることを大義名分として、後漢を受け継ぐ蜀漢の皇帝を名乗りました。
尼子家再興のために尽力した山中幸盛や、滅びゆく豊臣家のために最期まで戦った真田信繁(幸村)を好む日本人には胸が熱くなる展開ですが、易姓革命に基づいて考えてみると、この行為は「天命に従わずむやみに戦乱を長引かせる行為」とも受け取れるのです。
関連記事:
『三国志演義』では、劉備が漢室の末裔であることが度々強調されています。
これによって、私たちはつい「劉備が漢室の末裔であったから、蜀漢を興して皇帝にまで昇りつめることができた」ような印象を持ってしまいます。
ですが実際は、漢室の末裔であることに大きな価値はなく、劉備は実力で蜀漢を興し、皇帝の座に昇りつめた英傑であると言えるでしょう。