正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉒、「おう」から始まる人物の一覧㉑(王威おうい王偉おうい王異おうい王彧おういく王愔おういん王隠おういん王贇おういん)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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お㉒(王㉑)

王(おう)

王威おうい

生没年不詳。劉琮りゅうそう配下。

建安けんあん13年(208年)、劉琮りゅうそう曹操そうそうに降伏し、劉備りゅうび夏口かこうに逃亡した後のこと。

王威おうい劉琮りゅうそうに、

曹操そうそう将軍しょうぐん劉琮りゅうそう)がすでに降伏され、劉備りゅうびももう逃走したとなると、必ず油断して警備もなく、軽はずみに単独で進んで来るでしょう。私に奇襲部隊数千を与えてくださればこれを要害の地に迎え撃ちまして、曹操そうそうを捕らえることができましょう。曹操そうそうを捕らえれば威信は天下をふるわせ、ながらにして虎のように闊歩かっぽできます。中原ちゅうげんは広大と申しましても、檄文げきぶんを飛ばせば平定することができます。この効果は、単に1度の勝利を手中にして現在の独立を保持するだけにとどまらないのです。これこそせんざいいちぐうの好機、のがすべきではありません」

と進言したが、劉琮りゅうそうは聞き入れなかった。


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王偉おうい

生没年不詳。後漢ごかん末期の太常たいじょう

興平こうへい2年(195年)、献帝けんてい長安ちょうあんを脱出して東に向かったが、李傕りかくの追撃を受けて敗北した。

その後李傕りかくは以前から嫌っていた、

  • 司徒しと趙温ちょうおん
  • 太常たいじょう王偉おうい
  • 衛尉えいい周忠しゅうちゅう
  • 司隷校尉しれいこうい栄邵えいしょう

らを殺害しようとするが、賈詡かくが「彼らはみな天子てんし(皇帝)の大臣です。あなたはどうして彼らを殺そうとなさるのか」と言って止めたため、彼らを殺すことを思いとどまった。


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王異おうい

生没年不詳。益州刺史えきしゅうしし趙偉璋ちょういしょう趙昂ちょうこう)の妻。

節操を貫く

趙昂ちょうこう涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐん羌道県きょうどうけん県令けんれいだった時、家族を漢陽郡かんようぐん西県せいけんに残していたが、同郡の梁双りょうそうが反乱を起こして西県せいけんを攻め落とし、王異おういの2人の男の子を殺害した。

この時王異おういは、梁双りょうそうに乱暴されることを恐れて自害しようとしたが、6歳の娘・えいを残して死ぬに忍びず、汚物をったあさり食事を減らしてせることで難をのがれた。

その後梁双りょうそうが州郡と和解し、趙昂ちょうこうは迎えの使者を派遣した。すると王異おういは娘のえいに「乱にいながら死ぬことができなかった以上、しゅうとめたちに会わす顔がありません。私はあなたと別れてここで死にます」と言い毒薬を飲んだが、すぐに口をこじ開けて薬湯やくとうそそぎ込んだので、しばらくして息を吹き返した。

自ら弓を取り戦う

建安けんあん年間、趙昂ちょうこう参軍事さんぐんじに転任して漢陽郡かんようぐん冀県きけんに赴任した。建安けんあん17年(212年)に馬超ばちょう冀県きけんを攻撃すると、王異おういみずから弓をるためのひじ当てをつけて趙昂ちょうこうを助け、佩玉はいぎょくおび飾り)や刺繍ししゅうされた衣服を外して戦士への賞賜しょうしとした。

息子より道義を優先する

その後、涼州刺史りょうしゅうしし韋康いこう馬超ばちょうに降伏。趙昂ちょうこう嫡子ちゃくし趙月ちょうげつを人質として差し出し、王異おうい馬超ばちょうの妻・ように取り入って馬超ばちょうの信頼を得た。

その上で趙昂ちょうこうは、楊阜ようふらと馬超ばちょう討伐の謀略を結んだが、心配なのは人質となっている趙月ちょうげつのことだった。趙昂ちょうこうが相談すると王異おういは「忠義を我が身に打ち立て、君父の大いなる恥辱をすすぐのです。首を失っても大したことではありません。まして1人の子ぐらい何です。道義を尊重するだけです」と言って趙昂ちょうこうを後押しした。

結果、趙昂ちょうこう楊阜ようふらは馬超ばちょう放逐ほうちくして漢中郡かんちゅうぐんに逃走させたが、趙月ちょうげつは殺害された。


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王彧おういく劉岱りゅうたい別駕べつが

生没年不詳。兗州えんしゅう別駕従事べつがじゅうじ

初平しょへい年間、袁紹えんしょう兗州刺史えんしゅうしし劉岱りゅうたいの元に妻子を預け、公孫瓚こうそんさんも騎兵を派遣して劉岱りゅうたいを助けていたが、その後袁紹えんしょうを撃破した公孫瓚こうそんさん劉岱りゅうたいに「袁紹えんしょうと手を切り、袁紹えんしょうの妻子を引き渡す」ように要求した。

この時王彧おういくは、決断できずにいる劉岱りゅうたいに「程昱ていいくに相談すること」を勧め、劉岱りゅうたい程昱ていいくの言葉に従って難をのがれることができた。


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王彧おういく王淩おうりょうえん

生没年不詳。太尉たいい王淩おうりょうえん(属官)。

太尉たいい王淩おうりょうは、外甥がいせい(姉妹の子)の令孤愚れいこぐと共に「斉王せいおう曹芳そうほう)を廃位して楚王そおう曹彪そうひょう)を擁立ようりつし、許昌きょしょうに都を置く」ことをくわだてたが、嘉平かへい3年(251年)、将軍しょうぐん楊弘ようこう兗州刺史えんしゅうしし黄華こうかの密告により、太傅たいふ司馬懿しばいの知るところとなった。

司馬懿しばい王淩おうりょう討伐の軍を起こすと、王淩おうりょう王彧おういくを派遣して謝罪させ、印綬いんじゅ節鉞せつえつを届けさせた。

王淩おうりょう印綬いんじゅ節鉞せつえつを返され、6百人の騎兵をつけて都に送還されたが、その途中、毒薬を飲んで自害した。


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王愔おういん王次仲おうじちゅう

生没年不詳。幽州ゆうしゅう上谷郡じょうこくぐんの人。

隷書れいしょたくみで、初めて楷書かいしょの書法を作った。

霊帝れいていの時代に能書家として有名な師宜官しぎかんに学んだ梁鵠りょうこくは「師宜官しぎかんは大字を書き、邯鄲淳かんたんじゅんは小字を書いた。邯鄲淳かんたんじゅん王次仲おうじちゅうの書法をものにしたのだ」と言っている。


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王隠おういん処叔しょしゅく

生没年不詳。父は王銓おうせん晋書しんじょ蜀記しょくき交広記こうこうきの撰者。

父・王銓おうせん著述ちょじゅつの志を持ち、しんの史事と功臣の行状を書きめていたが、完成を見ずに死去した。王隠おういんは父の遺業を受け、西晋せいしんの旧事についてよく知っていた。

東晋とうしんの時代になり、王隠おういん郭璞かくはくと共に著作郎ちょさくろうに任命され晋史しんしを作ることになったが、同じ著作郎ちょさくろうであった虞預ぐよは勝手に晋史しんしを作ろうとして彼らの書いたものを写し取り、王隠おういんおとしいを陥れて免職にさせた。

王隠おういん庾亮ゆりょうから紙筆の提供を受けやっと完成させたが、著述ちょじゅつの才能がなかったので「の書、読むべき内容のものはみな父(王銓おうせん)のせんする所、文体が混乱して意味が分からないものはいん王隠おういん)の作である」としるされている。


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王贇おういん

生年不詳〜景初けいしょ2年(238年)没。雍州ようしゅう広魏郡こうぎぐん太守たいしゅ

景初けいしょ2年(238年)9月、しょく陰平太守いんぺいたいしゅ廖惇りょうとん廖化りょうか)が謀反むほんを起こし、守善羌侯しゅぜんきょうこう宕蕈とうしんの陣営を攻撃した。

これに雍州刺史ようしゅうしし郭淮かくわいは、広魏太守こうぎたいしゅ王贇おういん南安太守なんあんたいしゅ游奕ゆうえき廖惇りょうとん廖化りょうか)を討伐させ「王贇おういん游奕ゆうえきらは軍隊を2手に分けて山の東西からはさみ撃ちにし、ぞくの外側を包囲しておりますから、撃破は目前にせまっております」と上奏した。

すると明帝めいてい曹叡そうえい)は「軍隊の配置では分離をけるものだ」と言い、急いで郭淮かくわい詔勅しょうちょくを下したが、勅命ちょくめいが届く前に游奕ゆうえきの軍は廖惇りょうとん廖化りょうか)によって撃ち破られ、王贇おういんは流れ矢に当たって死んだ。


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