正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉑。弘農郡王氏(王濬・王彝・王矩・王暢・王粹)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
弘農王氏系図
弘農郡王氏系図
※王彝の兄弟の順は不明。王濬には王粹の他に孫がもう1人いる。
この記事では弘農郡王氏の人物、
についてまとめています。
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お㉑(弘農王氏)
第1世代(王濬)
王濬・士治
建安11年(206年)〜西晋の太康6年(285年)没。司隷・弘農郡・湖県の人。子に王彝、王矩、王暢。
代々二千石を輩出した家に生まれ、古典を博覧し、容姿に優れていた。名声を求める行ないをしなかったため郷里の人々に賞賛されなかったが、後年になって行いを改め大志を抱くようになる。
やがて郡吏となり、さらに州に辟召かれて司隷・河東郡の従事となると、刺史(司隷校尉)であった徐邈の娘に見初められて嫁に迎えた。
征南将軍・羊祜の参軍事となり、後に羊祜の車騎将軍府の従事中郎に転任した。
その後、巴郡太守、広漢太守に転任。恵みを施して人々に頼りにされ、益州刺史の皇甫晏が賊の張弘に殺害されると、益州刺史に昇進して張弘らを誅殺する。この功績により関内侯に封ぜられ、王濬が威厳と信義によって異民族を待遇したため、多くの蛮夷が晋に帰服した。
中央に徴召かれて右衛将軍、大司農に任命されたが、王濬の才を見込んだ車騎将軍・羊祜の密奏により改めて益州刺史に任命された。
武帝(司馬炎)に命じられ、呉討伐のためにこれまでにない巨大な船団を建造し、龍驤将軍・監梁益諸軍事に任命された。呉討伐に反対する意見が多い中、王濬は「今こそ呉討伐の好機」と主張し、武帝(司馬炎)は呉の討伐を決断する。
太康元年(280年)正月、討伐軍の一翼を担うことになった王濬は成都を出発。蜀を出発してから攻めた先に堅固な城はなく、夏口や武昌も抵抗することなく降伏し、王濬は三山まで侵攻した。
呉の孫皓は游撃将軍の張象を派遣して水軍・1万人で王濬を防がせたが、張象は王濬の旗を見ただけで降伏。長江を覆いつくす王濬軍の威容に恐怖した孫皓は、王濬に文書を送って降伏し、武帝(司馬炎)は使者を派遣して王濬の軍を労わせた。
これより以前、王濬が秣陵に到着しようとする時、友軍の安東将軍・王渾が「今後の事を論じよう」と求め、呉の中央軍を破った後も軍を留めて王濬を待っていたが、王濬は進軍を続けて孫皓を降伏させた経緯があった。
これを恥じた王渾が王濬を弾劾する上表したが、王濬は上書して弁解し、武帝(司馬炎)は「王濬には征伐の功労がある。多少の過ちがあったとしても罪に問う必要はない」と言って不問に付し、王濬を輔国大将軍に任命して歩兵校尉を兼任させ、襄陽県侯(封邑万戸)に封じ、絹万匹・衣一襲・銭30万の食物を下賜したので、以降、王濬は奢侈な食事や服装に耽るようになった。
王濬は自分の功績を自負していたので、武帝(司馬炎)に謁見するたびに「呉討伐の苦労」を口にし、時には王渾父子らに憤慨して挨拶もなしに退出することもあったが、武帝(司馬炎)はいつも大目に見ていた。
これを憂えた外親(母方の親戚)の益州護軍・范通は、
「あなたは凱旋したときに辞任すべきでした。自分の屋敷で角巾(隠者が用いた頭巾)をつけ、呉平定の事は口にせず、もし問う者がいれば『聖主の徳は群帥の力によるもの。この老いぼれに何の力があろうか』と答えていれば、それは趙の藺相如が廉頗に屈した様と同じであり、あなたを責める王渾も自らの行いを恥じていたことでしょう*1」
と、その振る舞いを諫めた。すると王濬は、
「私は『先年蜀を滅ぼした鄧艾が間もなく誅殺されたこと』を思い、禍が我が身に降りかかるのを恐れていたのだ。私の度量が狭かった」
と反省したが、その後も王渾と面会する際には厳重に衛兵を配置して警戒を解かなかった。
当時の人々は王濬はその功績の大きさに対して褒賞が軽いと考え上表して訴えた。そこで武帝(司馬炎)は王濬を鎮軍大将軍に昇進させ、散騎常侍の位を加えて後軍将軍を兼任させた。
王濬が辟召*2する際には「旧交を忘れない」ということを示すため、その多くが蜀出身の人物が採用された。
後に撫軍大将軍に昇進し、開府儀同三司*3と特進*4を加えられ、散騎常侍と後軍将軍の位は元通りとされたが、太康6年(285年)に亡くなった。享年80歳。武侯と諡された。
王濬は柏谷山につくられた全周45里(約19.35km)に渡る大規模な塋域(墓地)に葬られ、盗掘を避けるために松柏(松と柏)が生い茂っていた。
脚注
*1戦国時代、数々の武功を立ててきた大将・廉頗は、弁舌による外交の成果によって自分より上位の宰相となった藺相如を恨むようになったが、藺相如は「自分たちが争えば趙が強国の秦に滅ぼされてしまう」ことを恐れ、卑屈なほどに廉頗との争いを避けていた。その後、藺相如の真意を知った廉頗は心から彼に謝罪し、以降、2人は「相手のためなら頸を刎ねられてもよい」と思うほどの深い親交を結び、「刎頸の交わり」の語源となった。
*2大将軍や三公九卿、太守や県令などの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のこと。この制度によって、彼らの判断で優秀な人材を自分の部下に取り立てることができた。
*3三公と同じ格式を与えられ、独自の役所を開くことを許される資格のこと。
*4官職を退いた者であっても「三公に次ぐ席次で朝政や行事に参加することができる」資格が与えられる。
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第2世代(王彝・王矩・王暢)
王彝
生没年不詳。司隷・弘農郡・湖県の人。父は王濬。弟(?)に王矩、王暢。
父・王濬の呉征伐の勲功により楊郷亭侯に封ぜられ、封邑1,500戸を与えられた。
王矩、王暢との兄弟の順は不明。
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第3世代(王粹)
王粹
生没年不詳。司隷・弘農郡・湖県の人。父は王暢。祖父に王濬。
太康10年(289年)、武帝(司馬炎)は詔を下して王粹に潁川公主を娶らせ、王粹は仕官して魏郡太守にまで昇った。
王濬の2人の孫(1人は王粹?)は、八王の乱・永嘉の乱の混乱の末、長江を渡って東晋に身を寄せたが登用されなかった。
荊州刺史として江陵にいた安西将軍の桓温は「襄陽県侯を継ぐ者がいないこと」に触れ、当時60歳を越えていた王濬の2人の孫を取り立てて封爵を授けるように上表したが、省みられることはなかった。
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