正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑬、陳国(陳郡)袁氏[袁滂・袁渙・袁覇・袁徽・袁敏・袁侃(袁偘)・袁㝢・袁奥・袁準・袁亮・袁粲]です。
スポンサーリンク
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
陳国(陳郡)袁氏系図
この記事では陳国(陳郡)袁氏の人物、
についてまとめています。
スポンサーリンク
え⑬[陳国(陳郡)袁氏]
第1世代
袁滂・公煕
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。子に袁渙。
純粋素朴で欲が少なく、決して他人の欠点を語らなかった。
霊帝の熹平7年(178年)に司徒となったが、権勢恩寵の頂点にありながら、袁滂だけは朝廷で中立の立場をとったため、派閥争いのために災難を招くことがなかった。
「袁滂」の関連記事
第2世代
袁渙・曜卿
生年不詳〜永元4年(92年)没。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。父は袁滂。子に袁侃(袁偘)、袁㝢、袁奥、袁準。
清潔で落ち着きがあり、必ず礼に従って行動した。郡が袁渙を功曹に任命すると、不正を行っていた官吏たちはみな自分から辞職してしまった。
豫州刺史となった劉備に茂才に推挙されるも、戦乱の中で袁術・呂布・曹操と主君を変えざるを得なかったが、劉備を侮辱する書簡を書かせようとする呂布の命令を断り、呂布が曹操に敗れた際も、袁渙だけは対等の挨拶をして敗者の礼をとらなかった。
また、劉備が死んだという誤報が流れた時、他の臣下はみな喜び祝ったが、袁渙は祝賀を表さなかったという。
豫州(予州)・沛国の南部都尉、同・梁国の相、諫議大夫・丞相軍祭酒、郎中令、御史大夫の事務取扱を歴任し、袁渙が亡くなると曹操は涙を流して穀物2千石を賜与した。
「袁渙」の関連記事
袁覇・公恪
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。袁渙の従弟。
公正謹厳(公平、真面目でしっかりしていること)な人柄で事務能力があった。
建安18年(213年)、魏公に任命された曹操が3度に渡って辞退した際、受諾を勧める荀攸、鍾繇ら30名の連名の中に「長史・袁覇」の名前がある。
魏建国の当初、大司農となったが、何夔と共に当時評判が高かった。
「袁覇」の関連記事
袁徽
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。兄は袁覇。従兄に袁渙。儒学者として高く評価された。
天下に動乱の兆しがあった時、袁渙は高ぶった様子で歎息(非常に嘆くこと)して言った。
「漢の王室は衰微しつつあり、動乱は目前にある。仮に天下に騒動が起これば、一体どこに逃亡すれば良いのか。もし天にまだ道徳を存続させる意志があるならば、民衆は道義に頼って生きていける。ひたすら強固に意志を保ち、礼を失いさえしなければ、身を庇うことができるだろうか」
袁徽は言った。
「古人はこう申しております。『変化の兆しを察知することこそ、神業である』と。変化の兆しを察知して行動するからこそ、君子は大吉を受けられるのです。天の道には盛衰があります。漢はもう滅亡するでしょう。そもそも大きな功績が打ち立てられるためには必ず大きな事件があるものです。これもまた君子が充分承知していることであり、その混乱を避けるため一歩退いて自分の行動を天道の微妙な動きの中に潜ませるのです。それに、戦争が起こった後は、外から災難がたくさん加えられるに違いありません。私ははるか山や海のある場所へ逃れて、我が身の安全を求めたいと思います」
かくして動乱が起こると、各人、自分の意志によって行動し、袁徽は交州に避難して司徒に召されても応じなかった。また袁徽は、交州から尚書令の荀彧に手紙を送り、同じく交州に逃れてきた許靖と交阯太守の士燮を褒め称えている。
「袁徽」の関連記事
袁敏
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。袁渙の従弟。兄に袁覇、袁徽。
呂布が敗北した際に袁渙と共に曹操に降る。武芸に秀で、治水工事が得意で、官位は河隄謁者まで昇った。
後に袁敏について学んだ文帝(曹丕)は「彼の1つの武器で両手の武器を攻撃する方法は、いつも神のごとき技だと思った」と語った。
「袁敏」の関連記事
第3世代
袁侃・公然(袁偘)
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。袁渙の長男。弟に袁㝢、袁奥、袁準。魏の臣。
清潔純粋、閑静質素な人で、父・袁渙の面影があった。議論は清新妥当、柔和だが威厳があり、他人と仲良く交際できた。王朝交代の時期に当たって、保身のために媚びることがなかったので、当時の人々に称揚された。
袁侃と会った司馬懿は「曜卿(袁渙の字)の息子だけのことはあった」と言い、また職務上の罪を犯して許允と共に投獄された際、許允は「君は功臣の子なので、死刑の心配はないだろう」と言われ、許允の言わんとすることを汲み取った袁侃は、自ら主犯を引き受けて許允を救った。
郡守(太守)、黄門選部郎、吏部郎を経て尚書に昇進したが、早くに亡くなった。
「袁侃」の関連記事
袁㝢・宣厚
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。袁渙の次男。兄に袁侃(袁偘)。弟に袁奥、袁準。祖父は袁滂。
袁㝢の弁論は機智に富んでいて筋道があり、道家の言葉を好んだ。若くして病気にかかり、官職につかないうちに亡くなった。
「袁㝢」の関連記事
袁奥・公栄
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。袁渙の3男。兄に袁侃(袁偘)、袁㝢。弟に袁準。祖父は袁滂。
袁奥の行動は世俗を奮い立たせるに充分なものがあり、言葉は簡略ながら妥当な論理を持っていた。光禄勲の官で亡くなった。
「袁奥」の関連記事
袁準・孝尼(袁子)
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。袁渙の4男。兄に袁侃、袁㝢、袁奥。泰始年間[265年〜274年(晋の武帝の年号)]に給事中となった。
誠実公正な人で下級の者に質問することを恥とせず、世事多難な時代であったことから常に営利を争わず、世に出ることを求めようとしなかった。
書物十余万字を著して政治の任務について論じ、
- 『易』
- 『周官』(『周礼』)
- 『詩経』の伝(注釈)
を書き、『五経』(易経・書経・詩経・礼記・春秋)の意義の通じない部分、聖人(経典の作者)の微妙な言葉について論じ世間に伝えた。
『嵆康別伝』には、「竹林の七賢」の1人である嵆康は臨終に際して「袁孝尼(袁準)は前に儂から『広陵散』(楽曲の名前)を学ばんとしたが、儂はいつも頑なに拒んで教えなかった。『広陵散』は今ここで絶えるのだ」と言ったとある。
「袁準」の関連記事
袁亮
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・扶楽県の人。父は袁覇。子に袁粲。伯父に袁渙。官位は河南尹、尚書にまで昇った。
何夔の子・何曾とは仲の良い友人で、共に伯父・袁渙と並ぶ名声があった。心正堅固(健やか)で学問・品行に優れていたが、何晏・鄧颺らの人柄を憎悪し、論説を書いて彼らを激しく批判した。
嘉平6年(254年)の司馬師のクーデターに賛同する者たちの上奏文の中に「長合郷侯臣袁亮」の名前がある。曹髦を天子(皇帝)に迎える法駕(行列)に随行した。
また、甘露元年(256年)2月、太極殿の東御殿で行われた宴会で礼法制度について議論し、帝王の優劣について言及した。
「袁亮」の関連記事
第4世代
スポンサーリンク