正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧③河東衛氏(衛暠・衛覬・衛瓘・衛恒・衛玠)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河東衛氏系図
河東衛氏系図
この記事では河東衛氏の人物、
についてまとめています。
その他の河東郡出身の衛氏
上記河東衛氏との関係は史料に記載されていませんが、衛仲道は衛覬の弟ではないかと言われています。
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え③(河東衛氏)
第0世代
衛暠
生没年不詳。幽州・代郡の人。曾孫(孫の子)に衛覬。玄孫(孫の孫)に衛瓘。
後漢の第2代皇帝・明帝の時代、儒学を修めていたために幽州・代郡から[洛陽(雒陽)に]徴されたが、司隷・河東郡・安邑県まで来たところで亡くなってしまった。
そこで明帝は「衛暠が亡くなった土地」を下賜してそこに埋葬させたので、以降、衛暠の子孫は司隷・河東郡・安邑県に家を構えた。
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第1世代
衛覬・伯儒
生年不詳〜魏の太和4年(230年)没。司隷・河東郡・安邑県の人。子は衛瓘、衛寔。孫に衛恒。曾孫に衛玠。先祖は後漢の第2代皇帝・明帝に仕えた衛暠。
若くしてその才能と学問によって評判となった。曹操に召し出されて司空の掾属となり、司隷・右扶風・茂陵県の県令、尚書郎となる。
袁紹に味方した荊州の劉表への牽制のため、益州の劉璋の元に派遣された際、荀彧に関中の荒廃振りを伝え、これにより関中は安定した。
その後衛覬は、関中の諸将(馬超ら)を懐柔する方策を示したが、曹操は強攻策を主張する司隷校尉の鍾繇の意見に従ったため、結果大きな犠牲を出した。
朝廷に召還された衛覬は、王粲と共に魏国の制度制定を担当し、曹丕が王位につくと「禅譲の義」を勧め助け、命令の詔勅文を作った。
詔勅を受けて『魏官儀』をつくったほか、その著作は数十篇にのぼる。すべての書体に巧みで特に古文(秦以前の字体)・篆書・隷書の崩した字を愛好した。
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第2世代
衛瓘・伯玉
建安25年(220年)〜晋の元康元年(291年)没。司隷・河東郡・安邑県の人。父は魏の尚書・衛覬。弟に衛寔。子に衛恒。孫に衛玠。後漢の第2代皇帝・明帝に仕えた衛暠の子孫。
10歳の時に父を亡くしたが、その孝行は他の人より優れていた。清く正しく論理的な思考をし、若くして傅嘏(傅巽の甥)から厚い待遇を受け、20歳で尚書郎となって朝廷の内外の官を歴任する。
景元4年(263年)、征西将軍・鄧艾と鎮西将軍・鍾会の蜀漢征伐に監軍として従軍し、蜀漢の平定後に反乱を起こした鍾会と鄧艾を討伐した。
晋代になると尚書令、司空、太保となり晋の恵帝の初めに政治を補佐したが、楚王・司馬瑋に殺害された。扶風の内史で敦煌郡出身の索靖と並んで草書に巧みであった。
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第3世代
衛恒・巨山
生年不詳〜291年没。司隷・河東郡・安邑県の人。父は衛瓘。子に衛玠。祖父に衛覬。
若くして司空の斉王府(司馬攸)に辟召かれ、太子舎人、尚書郎、秘書丞、太子庶子、黄門侍郎を歴任した。
父同様「書」に優れ、特に草書と隷書に巧みで、西晋時代までの書体の歴史をまとめた『四体筆勢』を著した。
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第4世代
衛玠・叔宝
西晋の太康7年(286年)〜西晋の永嘉6年(312年)没。司州・河東郡・安邑県の人。父は尚書郎・衛恒。祖父は太尉・衛瓘。高い名声を持ち太子洗馬となったが、早くに亡くなった。
容姿が優れて美しくみな彼に憧れた。幼い頃、羊車に乗って市場に行ったところ、彼を見た人々は、彼を「璧人(美しい人)」と呼んだ。
衛玠の伯父・驃騎将軍の王済も容姿に優れていたが、衛玠を見る度に「珠玉を前にすると、自分が穢らわしく思える」と言った。太傅の西閣祭酒となり、太子洗馬となる。
衛玠は楽広の女を娶ったが、衛玠はかつて楽広に「人々はなぜ夢を見るのか」と尋ねたことがあった。楽広は「想像によるものだ」と答えたが、納得がいかない衛玠は悩み続け、ついには体調を崩してしまった。このように、衛玠は身体が弱く病弱であった。
永嘉6年(312年)、衛玠は大将軍の王敦に謁見し、そこで偶然出会った謝鲲と夜通し語り合ったが、その後すぐに豫章郡(予章郡)・南昌県で亡くなった。享年27歳。訃報を受けた謝鲲は涙を流して悲しんだ。
一節には、衛玠の名を聞いて集まった群衆により疲れ果てていたのだと言われ、人々は「衛玠は見物人に殺されたのだ」と言った。
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