正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑤、「えい」から始まる人物の一覧④です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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え⑤(衛④)

衛(えい)

衛温えいおん

生没年不詳。将軍しょうぐん

黄龍こうりゅう2年(230年)、孫権そんけん衛温えいおん諸葛直しょかつちょくを派遣し、武装兵1万をひきいて海を渡り、夷洲いしゅう亶洲たんしゅう*1さがさせた。

亶洲たんしゅう*1は大海の中にあって、老人たちが言い伝えるところでは「しん始皇帝しこうてい方士ほうし徐福じょふくつかわし、童子と童女数千人を引き連れて海を渡り、蓬萊ほうらいの神山とそこにある仙薬をさがさせた時、徐福じょふくたちはこの島にとどまって帰って来なかった」と言う。

その子孫が代々伝わって数万戸にもなり、そのしまに住む者が時々揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんにやって来て布をあきなっていったり、会稽郡かいけいぐん東部の諸県に住む者が大風にって漂流ひょうりゅうし、亶洲たんしゅう*1に着く場合もあるという。

しかしこのしまはるかな遠方にあって、衛温えいおんたちは結局それらをさがし当てることができず、ただ夷洲いしゅう*1から数千人の住民を連れ帰っただけだった。

衛温えいおん諸葛直しょかつちょくは「みことのりそむいて成果をげなかった」として、2人ともごくに下されて誅殺ちゅうさつされた。

脚注

*1夷洲いしゅう台湾たいわんに、亶洲たんしゅうは一説に種子島たねがしまにあたるとされる。当時、東の海中には仙山があって、そこに不老不死の仙薬があると考えられていた。


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衛開えいかい

生年不詳〜建安けんあん24年(219年)没。曹操そうそう配下の宛県えんけんの守将。

建安けんあん23年(218年)10月、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけんの守将・侯音こうおん衛開えいかいらが南陽太守なんようたいしゅ東里袞とうりこんを捕らえ、官民と共に反乱を起こして関羽かんうと手を結んだ。

これに樊城はんじょうに駐屯していた曹仁そうじんは、龐悳ほうとく龐徳ほうとく)と共に宛県えんけんを攻撃して陥落させ、侯音こうおん衛開えいかいを斬ると、そのまま南下して樊城はんじょうに駐屯し、関羽かんうを討伐した。


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衛伋えいきゅう太子伋たいしきゅう

生年不詳〜紀元前701年没。春秋しゅんじゅう時代のえい太子たいしえいの第15代君主・宣公せんこうの子。愛姫の子を太子たいしにしようとした父王・宣公せんこうによって殺害された。

宣公せんこうは、太子たいしきゅうの妻とするためせいの公女・姜氏きょうし宣姜せんきょう)を迎えたが、その美貌びぼうを見た宣公せんこうはすっかり気に入って彼女を我がものとした。その後、宣姜せんきょう寿じゅさくの2人の子を産み、寵愛ちょうあいを失った太子たいしきゅうの母・夷姜いきょうは自殺してしまった。

宣公せんこうは、太子たいしきゅうに対する後ろめたい気持ちから廃嫡はいちゃくを考えるようになっていたが、そんなところへ宣姜せんきょう公子こうしさくと共謀して太子たいしきゅう讒言ざんげんしたので、宣公せんこうは激怒して、盗賊に「白旄はくぼうを持っている者を殺せ」と命じ、太子たいしきゅうせいに使いに出した。

すると宣姜せんきょうの長子・公子こうし寿じゅは、この陰謀を太子たいしきゅうに知らせて国外に逃亡することを勧めたが、太子たいしきゅうがこれをこばんだため、公子こうし寿じゅは出発前の太子たいしきゅうに酒を飲ませて眠らせ、みずか白旄はくぼうを持ってせいに向かう。

白旄はくぼうを持つ公子こうし寿じゅを見た盗賊は命令通り彼を殺害。そこへ遅れてやって来た太子たいしきゅうは、盗賊たちに「お前たちの標的はこの私だ」と言い、結局彼も殺されてしまった。


に降伏した孟達もうたつが「劉封りゅうほうに降伏を勧める手紙」の中で、劉封りゅうほうの境遇を例えて名前を出した。


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衛継えいけい子業しぎょう

生年不詳〜景元けいげん5年(264年)没。益州えきしゅう漢嘉郡かんかぐん厳道県げんどうけんの人。5人兄弟。父は県の功曹こうそうをつとめた。しょく奉車都尉ほうしゃとい大尚書だいしょうしょ

子供の頃、父に連れられて、兄弟と一緒に県の役所の庭で遊んだことがあった。県長けんちょう蜀郡しょくぐん成都県せいとけんの人、張君ちょうくんには子供がなかったので、たびたび功曹こうそう衛継えいけいの父)に命じて子供たちを連れて来させ、彼らを非常に可愛かわいがった。

ある時、張君ちょうくんは雑談の中で「衛継えいけいを貰いたい」と功曹こうそうに申し込み、功曹こうそうはその場で承知して、衛継えいけい張君ちょうくんの養子となった。

衛継えいけいは頭がするどく早熟で、広い学識を有しており、州郡に出仕するとエリートとしての職務を歴任した。

一方、それに反して残りの4人には、誰一人として世間に通用するような才能を持った者がいなかったので、父はいつも「自分の家は衰え、張明府ちょうめいふ張君ちょうくん)の家は栄えるだろう」と言っていた。そんな折、法律で異なった苗字みょうじの者を後継ぎにすることが禁止されたため、衛継えいけいは再び衛氏えいしに戻ることになった。

たびたび昇進して奉車都尉ほうしゃとい大尚書だいしょうしょとなり、篤実とくじつ(情が厚く誠実なこと)で信義に厚い人柄で人々に尊敬されたが、「鍾会しょうかいの乱」に巻き込まれて成都県せいとけんで殺害された。


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衛固えいこ仲堅ちゅうけん

生年不詳〜建安けんあん10年(205年)没。司隷しれい河東郡かとうぐんの人。

建安けんあん10年(205年)、幷州へいしゅう并州へいしゅう)の高幹こうかん張晟ちょうせいらが、荊州けいしゅう劉表りゅうひょうと結んで反乱を起こすと、朝廷(曹操そうそう)は王邑おうゆうに代えて杜畿とき河東太守かとうたいしゅに任命する。

すると河東郡かとうぐん衛固えいこ范先はんせんは、表向きは王邑おうゆうの留任を名目としながら、内実は高幹こうかんらと結んで陝津せんしんの渡しをち切って杜畿ときを拒絶した。これに曹操そうそう夏侯惇かこうとんを派遣したが、杜畿ときは援軍を待たずに単身で郖津とうしんから黄河こうがを渡って河東郡かとうぐんに入る。

杜畿ときは、衛固えいこ都督ととくじょうの事務を兼務させて功曹こうそうに任命し、范先はんせん将校しょうこう軍吏ぐんり・兵士3千余人を指揮させると、なだめすかしながら少しずつ彼らの仲間を分散させていった。

張白騎ちょうはくき張晟ちょうせい)が河東郡かとうぐん東垣とうえん垣県えんけん)に、高幹こうかんが同じく河東郡かとうぐん濩沢国わくたくこくに侵攻すると、衛固えいこらは秘かに兵を動員したが集まらず、高幹こうかん張晟ちょうせいと共に杜畿ときを攻撃するも落とすことはできなかった。

その後大軍が到着し、高幹こうかん張晟ちょうせいは敗れ、衛固えいこらは処刑された。


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衛侯えいこう

生没年不詳。幼いしゅう成王せいおうを監督した人物。

魏書ぎしょ高堂隆こうどうりゅうでんの付伝桟潜さんせんでんにおいて、桟潜さんせん明帝めいてい曹叡そうえい)をいさめる上奏文の中に名前が登場する。

「昔成王幼沖,未能莅政,周、呂、召、畢,並在左右;今旣無衞侯、康叔之監,分陝所任,又非旦、奭」

「昔(しゅうの)成王せいおうが幼く、まだ政治を行えない時、周侯しゅうこう呂侯りょこう召侯しょうこう畢侯ひつこうが左右におりました。今すでに衛侯えいこう康叔こうしゅくといった監督官がいない上に、せんを分割して統治の任に当たっているのもまた、周公旦しゅうこうたん召公奭しょうこうせきではありません」


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衛恂えいじゅん衛恂えいしゅん

生没年不詳。兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐんの人。

南陽太守なんようたいしゅ楊俊ようしゅんは、若い頃から歳を取るまで人物鑑定を自分の任務としていた。

審固しんこ衛恂えいじゅんは兵士の出身であったが、楊俊ようしゅんは彼らを見込んで援助して抜擢ばってきし、審固しんこぐん太守たいしゅを歴任し、衛恂えいじゅん御史ぎょし県令けんれいとなった。


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【三国志人物伝】総索引