正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑤、「えい」から始まる人物の一覧④です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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え⑤(衛④)

衛(えい)

衛慎えいしん

生没年不詳。

太和たいわ2年(228年)、明帝めいてい曹叡そうえい)は、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん公孫淵こうそんえん揚烈将軍ようれつしょうぐん遼東太守りょうとうたいしゅの位をさずけた。

にもかかわらず、公孫淵こうそんえん孫権そんけんよしみを通じていることを知った明帝めいてい曹叡そうえい)は、衛慎えいしん邵瑁しょうぼうを派遣して、「公孫淵こうそんえんあやまちをさとし、孫権そんけんと通じた罪をゆるす」みことのりを下した。


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衛青えいせい仲卿ちゅうけい

生年不詳〜元封げんぽう5年(紀元前106年)没。司隷しれい河東郡かとうぐん平陽県へいようけんの人。父は鄭季ていき。弟は衛歩広えいほこう。子に衛伉えいこう衛不疑えいふぎ衛登えいとう前漢ぜんかん武帝ぶてい期の将軍しょうぐん

父の鄭季ていき平陽侯へいようこう曹寿そうじゅ)に仕えていたが、そのしょう(側室)・衛媼えいおうと密通して衛青えいせいが生まれ、幼少期は奴隷のような扱いを受ける。

その後、姉の衛子夫えいしふ武帝ぶてい寵愛ちょうあいを得たことから召し出されると、車騎将軍しゃきしょうぐんに任命されて7度に渡る匈奴きょうど遠征で功をげ、大将軍だいしょうぐん大司馬だいしばとなった。

従兄弟の霍去病かくきょへいと共に、かんの名将としてたたえられる。


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衛旌えいせい子旗しき

生没年不詳。徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐんの人。武陵太守ぶりょうたいしゅ

難を避けるため江東こうとうに移住した衛旌えいせい困窮こんきゅうしていたが、同い年の歩騭ほしつと仲が良く、2人でうりを育てたり肉体労働をして生活費をかせぎ、夜は経書けいしょやその解釈を暗誦あんしょうして勉学にはげんだ。

ある時、歩騭ほしつと共に郡の有力者である焦征羌しょうせいきょう焦矯しょうきょう)をたずねたことがあったが、2人を見下した態度を取る焦征羌しょうせいきょうに対し、歩騭ほしつは平然としていたが、衛旌えいせいは一々腹を立てていた。

嘉禾かか4年(235年)〜赤烏せきう2年(239年)頃、潘濬はんしゅんおとしいれようとする者がいて、武陵太守ぶりょうたいしゅであった衛旌えいせいに「潘濬はんしゅんは秘かに蔣琬しょうえん*1と連絡を取り、しょくに身を寄せる準備をしています」と讒言ざんげんした。

衛旌えいせいがこれを孫権そんけんに報告すると、孫権そんけんは「承明しょうめい潘濬はんしゅん)どのはそんなことはせぬのだ」と言い、逆に官を免じられた。呉録ごろくには「尚書しょうしょにまで昇進した」とある。

脚注

*1潘濬はんしゅんの妻の兄。当時しょく大将軍だいしょうぐんとなっていた。


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衛太子えいたいし戻太子れいたいし

生没年不詳。前漢ぜんかん元朔げんさく元年(紀元前128年)〜征和せいわ2年(紀元前91年)没。いみな劉據りゅうきょ劉拠りゅうきょ)。前漢ぜんかんの第7代皇帝・武帝ぶてい太子たいし。母は皇后こうごう衛子夫えいしふ。子は宣帝せんていの父・劉進りゅうしん

武帝ぶてい行幸ぎょうこう先の甘泉宮かんせんきゅうで病床にすと、衛太子えいたいしと反目していた江充こうじゅうは「武帝ぶていやまい巫蠱ふこ*2によるものだ」として調査を開始。調査は太子宮たいしきゅうにまで及び、そこで偶人ぐうじんが発見された。

身の危険を感じた衛太子えいたいし長安ちょうあんで挙兵して江充こうじゅうを殺害したが、武帝ぶていはこれを謀反むほんとして討伐軍を派遣し、敗れた衛太子えいたいしは自害する。

後にこれが冤罪えんざいであることが分かると、武帝ぶてい江充こうじゅうの一族を皆殺しにし、衛太子えいたいしいたんで涙を流し、彼が自害した湖県こけん思子宮ししきゅう(子を思う宮殿)を建設した。

脚注

*2偶人ぐうじん(木の人形)を土中にめ、みこに祈らせて願いをかなえたり人を呪い殺すという迷信。


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衛仲道えいちゅうどう

生没年不詳。司隷しれい河東郡かとうぐんの人。妻は蔡邕さいようの娘・蔡琰さいえん

妻に先立って亡くなり、子もなかった。


衛弥えいび

生没年不詳。曹操そうそう配下の徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん都尉とい

徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん海西県かいせいけん下邳国かひこく淮浦県わいほけんで住民が反乱を起こした時、都尉とい衛弥えいびと(海西県かいせいけんの)県令けんれい梁習りょうしゅうは、徐宣じょせんの家に駆けつけて秘かに救い出した。


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衛文経えいぶんけい

生没年不詳。しょくの官吏。

蜀書しょくしょ楊儀ようぎでんにおいて、楊儀ようぎ称賛しょうさんする人物をまとめた季漢きかん輔臣ほしんさんの文を紹介する中で、陳寿ちんじゅは「名前(いみな)、事跡、出身地は伝わっていないが、当然称賛しょうさんされ記述されるべき人物」として衛文経えいぶんけいの名前をげている。


衛満えいまん

生没年不詳。衛氏えいし朝鮮ちょうせんの初代おう(在位:紀元前194年〜紀元前161年)。孫に衛右渠えいうきょ

かん高祖こうそ12年(紀元前195年)、燕王えんおう盧綰ろわん謀叛むほんの疑いにより討伐を受けて匈奴きょうどに亡命すると、盧綰ろわんの部下であった衛満えいまんは一族・部下千人余りをひきいて浿水ばいすい(現在の鴨緑江おうりょくこう)を渡った。

その後衛満えいまん箕子 きし朝鮮ちょうせんおう箕準きじゅんに仕え、封地を与えられて朝鮮ちょうせん西部を守ったが、「かんが攻めて来た」とだまして箕準きじゅんを追放。代わっておうとなり王険城おうけんじょうに都を定めると、沃沮よくその者たちはみなその支配下に入った。

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【三国志人物伝】総索引