正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑥、「衛」から始まる人物の一覧⑤です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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え⑥(衛⑤)
衛(えい)
衛慎
生没年不詳。
魏の太和2年(228年)、明帝(曹叡)は、幽州・遼東郡の公孫淵に揚烈将軍・遼東太守の位を授けた。
にも拘わらず、公孫淵が孫権と誼を通じていることを知った明帝(曹叡)は、衛慎と邵瑁を派遣して、「公孫淵の過ちを諭し、孫権と通じた罪を赦す」詔を下した。
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衛青・仲卿
生年不詳〜元封5年(紀元前106年)没。司隷・河東郡・平陽県の人。父は鄭季。弟は衛歩広。子に衛伉、衛不疑、衛登。前漢・武帝期の将軍。
父の鄭季は平陽侯(曹寿)に仕えていたが、その妾(側室)・衛媼と密通して衛青が生まれ、幼少期は奴隷のような扱いを受ける。
その後、姉の衛子夫が武帝の寵愛を得たことから召し出されると、車騎将軍に任命されて7度に渡る匈奴遠征で功を挙げ、大将軍、大司馬となった。
従兄弟の霍去病と共に、漢の名将として称えられる。
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衛旌・子旗
生没年不詳。徐州・広陵郡の人。呉の武陵太守。
難を避けるため江東に移住した衛旌は困窮していたが、同い年の歩騭と仲が良く、2人で瓜を育てたり肉体労働をして生活費を稼ぎ、夜は経書やその解釈を暗誦して勉学に励んだ。
ある時、歩騭と共に郡の有力者である焦征羌(焦矯)を訪ねたことがあったが、2人を見下した態度を取る焦征羌に対し、歩騭は平然としていたが、衛旌は一々腹を立てていた。
呉の嘉禾4年(235年)〜赤烏2年(239年)頃、潘濬を陥れようとする者がいて、武陵太守であった衛旌に「潘濬は秘かに蔣琬*1と連絡を取り、蜀に身を寄せる準備をしています」と讒言した。
衛旌がこれを孫権に報告すると、孫権は「承明(潘濬)どのはそんなことはせぬのだ」と言い、逆に官を免じられた。『呉録』には「尚書にまで昇進した」とある。
脚注
*1潘濬の妻の兄。当時蜀で大将軍となっていた。
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衛太子(戻太子)
生没年不詳。前漢の元朔元年(紀元前128年)〜征和2年(紀元前91年)没。諱は劉據(劉拠)。前漢の第7代皇帝・武帝の太子。母は皇后の衛子夫。子は宣帝の父・劉進。
武帝が行幸先の甘泉宮で病床に伏すと、衛太子と反目していた江充は「武帝の病は巫蠱*2によるものだ」として調査を開始。調査は太子宮にまで及び、そこで偶人が発見された。
身の危険を感じた衛太子は長安で挙兵して江充を殺害したが、武帝はこれを謀反として討伐軍を派遣し、敗れた衛太子は自害する。
後にこれが冤罪であることが分かると、武帝は江充の一族を皆殺しにし、衛太子を悼んで涙を流し、彼が自害した湖県に思子宮(子を思う宮殿)を建設した。
脚注
*2偶人(木の人形)を土中に埋め、巫に祈らせて願いを叶えたり人を呪い殺すという迷信。
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衛弥
生没年不詳。曹操配下の徐州・広陵郡の都尉。
徐州・広陵郡の海西県、下邳国の淮浦県で住民が反乱を起こした時、都尉の衛弥と(海西県の)県令の梁習は、徐宣の家に駆けつけて秘かに救い出した。
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衛文経
生没年不詳。蜀の官吏。
『蜀書』楊儀伝において、楊儀が称賛する人物をまとめた『季漢輔臣賛』の文を紹介する中で、陳寿は「名前(諱)、事跡、出身地は伝わっていないが、当然称賛され記述されるべき人物」として衛文経の名前を挙げている。
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