正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧②、陳留衛氏の一覧です。
スポンサーリンク
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
陳留衛氏系図
陳留衛氏系図
この記事では陳留衛氏の人物、
についてまとめています。
その他の陳留郡出身の衛氏
上記陳留衛氏との関係は史料に記載されていません。
スポンサーリンク
え②(陳留衛氏)
第1世代
衛茲・子許
生没年不詳。兗州・陳留郡・襄邑県の人。子に衛臻。孫に衛烈、衛京、衛楷。曾孫に衛権。
20歳の頃、同郡の圏文生と共に盛徳を称えられた。
郭林宗が2人と共に市場に行った時のこと。衛茲は品物を買う時に値段通り払ったが、圏文生は文句を言って値切ってから受け取った。
郭林宗は「子許(衛茲)は欲が少なく、文生(圏文生)は欲が深い。この2人は兄弟というより父と子のようだ」と言い、圏文生は金銭に汚いことで名声を損ない、衛茲は立派な節義によって名声を残した。
衛茲は立派な節操を持ち、殊更人目に付く言動をしたりせず、頭脳明晰で思慮深く、その計は遠大であった。俗世間の名声を求めず、車騎将軍・何苗に招聘され、司徒・楊彪に再度旌*3を持って招かれたが、応じなかった。
董卓が動乱を起こし、曹操が初めて陳留郡を訪れた時、衛茲は「天下を平定する者はこの人に違いない」と言い、曹操もまた彼を優れた人物だと認めて契りを結び、たびたび衛茲の元を訪れては天下の大事について相談した。
衛茲は「動乱が起こってからすでに久しく、軍隊によらなければこれを収められません」と言い、家財を提供して曹操の挙兵を援助した。
曹操と共に反董卓連合に参加し、曹操の司隷・河南尹・成皋県攻撃に随行したが、滎陽県の汴水で董卓配下の徐栄に敗れて戦死した。
曹操は、河南尹を通過する際には必ず使者を遣って彼を祭ったという。
脚注
*3旗竿の先に旄という旗飾りをつけ、これに鳥の羽などを垂らした旗。有徳の人を招聘する時に使者に持たせた。
「衛茲」の関連記事
第2世代
衛臻・公振
生没年不詳。兗州・陳留郡・襄邑県の人。父は曹操の挙兵を援助した衛茲。子に衛烈、衛京、衛楷。孫に衛権。
夏侯惇が陳留太守となった時、計吏に推挙された衛臻は、夫人を宴席に出席させることを断ったために捕縛されたが、しばらくして赦免された。
また、文帝(曹丕)が即位すると、みな魏の徳を称え、前王朝である漢を貶したが、衛臻はただ1人、禅譲の義を明らかにして漢の美徳を称えたので、曹丕は彼を称賛して侍中・吏部尚書に任命した。
明帝(曹叡)の代には、諸葛亮の北伐や呉の合肥侵攻、毌丘倹の遼東征伐などについて助言を行ったが、そのどれもが的確だった。その後昇進して司空、司徒となったが、曹爽の招きには応じなかった。
「衛臻」の関連記事
スポンサーリンク
第3世代
衛烈
生没年不詳。兗州・陳留郡・襄邑県の人。父は衛臻。弟は衛京、衛楷。祖父は曹操の挙兵を援助した衛茲。
中書監・劉放の子・劉熙、孫資の子・孫密、吏部尚書・衛臻の子・衛烈の3人は、父親が権力のある地位についていたため「三豫」と呼ばれた。
当時、同様に称号を持つ者が15人おり、明帝(曹叡)は、彼らが軽薄な評判をもてはやす風潮をつくり出し助長するとして、全員免職にして官吏の資格を剥奪した。
その後、父・衛臻の跡を継ぎ、咸熙年間(264年〜265年)に光禄勲となり、在官のまま亡くなった。
「衛烈」の関連記事
衛京
生没年不詳。兗州・陳留郡・襄邑県の人。魏に仕えた衛臻の次子。兄は衛烈。弟に衛楷。祖父は曹操の挙兵を援助した衛茲。妹は司馬亮*2の貴妃となった。
衛京自身は、二千石(太守)となった以上の情報はない。
脚注
*2晋(西晋)の皇族。司馬懿の第3子。
「衛京」の関連記事
衛楷
生没年不詳。兗州・陳留郡・襄邑県の人。魏に仕えた衛臻の第3子。兄は衛烈、衛京。子に衛権。祖父は曹操の挙兵を援助した衛茲。妹は司馬亮*2の貴妃となった。
衛楷自身は、二千石(太守)となった以上の情報はない。
脚注
*2晋(西晋)の皇族。司馬懿の第3子。
「衛楷」の関連記事
第4世代
衛権・伯輿
生没年不詳。兗州・陳留郡・襄邑県の人。父は衛楷。祖父は衛臻。曾祖父は曹操の挙兵を援助した衛茲。
晋の大司馬・汝南王の司馬亮*1は政治を補佐すると、衛権を尚書郎とした。
すると傅咸は司馬亮*1に手紙を送って、
「衛伯輿は貴妃の兄の子であり、実際文才を持っておりますので台郎(尚書郎)とするのは当然であります。しかし東宮の属官とするわけにはまいりません。東宮の属官については、先に楊駿*2が政治に関与して人材起用の道を閉ざしたことがあり、今は伯輿(衛権)がいて、またも他人を押しのけて郎となっています。1匹の犬が人に向かって吠えると、群犬はその声に反応して吠えます。群犬の吠え声を恐れると、結局考え方を変えることになります」
と述べた。
また衛権は、左思の『呉都の賦』の叙と注を作ったが、「叙は何とか文彩があるものの、注はまったく新しい見解がない。ただ墨で紙を汚して無駄にしただけで、書き写して伝えるべきものではない」と酷評されている。
脚注
*1晋(西晋)の皇族。司馬懿の第3子。
*2晋の武帝(司馬炎)の皇后(楊艶)の父。
「衛権」の関連記事
スポンサーリンク