正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧①です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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え①(永・栄・盈)
永(えい)
永楽太后(董太后、霊帝の母)
生年不詳〜光熹元年[中平6年(189年)]没。冀州・河間国の人。後漢の皇族・解瀆亭侯・劉萇の夫人となり、後漢の第12代皇帝・霊帝(劉宏)を生んだ。甥に董重、董承。
光熹元年(168年)に霊帝が即位すると、孝仁皇后と呼ばれ、南宮の嘉徳殿に住んで宮を永楽と称する。朝政に関与するようになると、霊帝に官職を売って財貨を求めさせ、自ら金銭を貯めて金銭で部屋を満たした。
王美人(王栄)が何皇后に毒殺されると、その子・劉協を養育し、霊帝に劉協を太子とするように勧めたが、霊帝は後継者を決める前に崩御する。
その後も何太后と対立するが、大将軍の何進、何苗らに「財貨を貯めこんでいたこと」を弾劾され、何進に捕らえられた驃騎将軍の董重が自殺すると、憂い恐れて病によりにわかに崩御した。
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栄(えい)
栄邵
生没年不詳。後漢末期の司隷校尉。
興平2年(195年)、献帝は長安を脱出して東に向かったが、李傕の追撃を受けて敗北した。
その後李傕は以前から嫌っていた、
- 司徒の趙温
- 太常の王偉
- 衛尉の周忠
- 司隷校尉の栄邵
らを殺害しようとするが、賈詡が「彼らはみな天子(皇帝)の大臣です。あなたはどうして彼らを殺そうとなさるのか」と言って止めたため、彼らを殺すことを思い留まった。
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盈(えい)
盈(竇礼の妻)
生没年不詳。護軍将軍の兵卒・竇礼の妻。
夫が軍を逃亡したことで罪に問われ、州の役所や廷尉に冤罪を訴えたが、家族と共に奴婢に落とされた。
その後、盈の証言から「竇礼は殺されたのではないか」と考えていた廷尉の高柔が、別件で獄に繋がれていた焦子文から「竇礼を殺した」という自白を得たため、盈の母子は平民に復帰することができた。
▼以下詳細
魏の曹丕の時代、護軍将軍の兵卒・竇礼が、近くに外出したまま帰らなかった。軍営では竇礼が逃亡したのだと思い込み、追って竇礼を逮捕し、その妻・盈と家族を、男女ともに身分を剥奪して官の奴婢とするように上奏した。
盈はしきりに州の役所に出頭して冤罪を訴えたが、誰も取り合おうとしなかったため、今度は廷尉の元に出頭した。
そこで廷尉の高柔が、「お前はどうして夫が逃亡したのではないと分かるのかね?」と質問すると、盈は大粒の涙をぽとぽと落としながら答えた。
「夫は若い頃から身寄りのない人で、1人の老婆を母として養っておりまして、大層恭しくまめにお仕えしておりました。また子供を可愛がりまして、側を離さず労っておりました。軽はずみに悪賢い考えを起こして家族を見捨てるような人ではありません」
重ねて高柔が、「お前の夫は人の恨みを買うようなことはないか?」と問うと、盈は「夫は善良な人ですから、人の恨みなどございません」と答えた。
そして高柔が、「お前の夫は人に金銭を貸したことはないかね?」と問うたところ、「以前、同じ軍営の士卒であります焦子文に金を貸してやりましたが、要求しても返してくれません」との答えが返ってきた。
この時焦子文は、小さな事件に関わって獄に繋がれていたので、事件について質問するついでに、「お前は以前、随分と人の銭を取り込んだそうだが?」と言った。
焦子文は「私は身寄りもなく貧しい身ですから、人の銭や物を取り込むことなどできません」と答えたが、彼の顔つきが変わったのを見て取った高柔は、「お前は昔、竇礼の銭を取り込んだ。どうして『してません』などと言うのだ?」と一気に畳みかけた。
すると焦子文は、事が露見したかと不審に思い、しどろもどろとなった。そこで高柔が、「お前はすでに竇礼を殺している。すぐに白状せよっ!」と言うと、焦子文は叩頭して、竇礼を殺した一部始終と死体を埋めた場所を詳しく自白した。
そこで高柔は、さっそく下役人を派遣して焦子文が言った場所を掘り返させたところ、すぐに竇礼の死体を発見した。
高柔はすぐに詔勅によって盈の母子の身分を平民に復帰させ、天下にこの件を頒布して、竇礼の事件をもって戒めとした。
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