正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「う」から始まる人物の一覧②です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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う②(羽・禹・烏・鬱・雲)

羽(う)

羽父うほ公子こうし公子こうし

生没年不詳。春秋しゅんじゅう時代、の公子。いみなまたは

の第13代君主・恵公けいこうが亡くなると、正夫人せいふじん仲子ちゅうしの子、太子たいしいん*1桓公かんこう)がまだ幼かったため、異母兄の息姑そくこ隠公いんこう)が跡をぎ、弟の太子たいしいん*1が成人するまでの摂政せっしょうの気持ちでいた。

隠公いんこう11年(紀元前712年)、大夫たいふ羽父うほは、高位につきたいがために隠公いんこうの機嫌を取ろうとして太子たいしいん*3の殺害を願い出たが、隠公いんこうは「自分は太子たいしいん*1が若いから仮に位についているのであって、やがて太子たいしいん*3に位をゆずって隠居したいと思っている」と答えた。

「これでは自分が重罪に問われてしまう」と考えた羽父うほは、秘かに太子たいしいん*1に向かって隠公いんこう讒言ざんげんし、「あなたのために隠公いんこうを亡き者にいたしましょう」と言って、隠公いんこうが祭礼のために大臣だいじん蔿氏るしの家に宿泊したところを殺害し、その罪を蔿氏るしに着せた。

桓公かんこう3年(紀元前709年)、羽父うほは使者としてせいに行き、せい王女おうじょを夫人に迎えて親交を重ねた。

脚注

*1またはとも言う。

関連人物

禹(う)

大禹たいう夏禹かう戎禹じゅうう

せいいみな文命ぶんめいこんの子。顓頊せんぎょくの孫。王朝の初代君主。ぎょうしゅんと並んで太古の聖王とされる。

しゅんの命を受け、ぎょうの時代に父・こんが成し得なかった黄河こうがの治水を成功させた。その後しゅんから禅譲ぜんじょうを受け、平陽へいように都を定めて王朝を開く。

治水にあたって衣食を粗末にし、身を粉にして働いたことがの徳行として称賛される。


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烏(う)

烏延うえん

生年不詳〜建安けんあん12年(207年)没。幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐん烏丸うがん烏桓うがん)族の大人たいじん(部族長)。800余りの部落を支配下に置いて勝手に汗魯王かんろおうを号した。

遼西郡りょうせいぐん烏丸うがん烏桓うがん)族の大人たいじん蹋頓とうとんに従い、公孫瓚こうそんさんを滅ぼした袁紹えんしょう単于ぜんう印綬いんじゅを与えられた。

その後、蹋頓とうとん曹操そうそうに敗れた袁煕えんき袁尚えんしょうを受け入れると、建安けんあん12年(207年)、曹操そうそうみずから遠征して柳城りゅうじょうを攻め、蹋頓とうとんは戦死。烏延うえんらは遼東郡りょうとうぐん公孫康こうそんこう)に逃げ込むが、遼東郡りょうとうぐんの役所は彼らを斬ってその首を曹操そうそうに届けた。


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烏獲うかく

生没年不詳。戦国せんごく時代、しん武王ぶおうに仕えた大力だいりき(怪力)の勇士。「千鈞せんきん*2を持ちぐ(持ち上げる)」と言われた。

武王ぶおう大力だいりきの勇士を好み、烏獲うかく任鄙じんひ孟説もうせつらは、その大力だいりきをもって大官だいかんに取り立てられた。

非常に力が強いことを例える四字熟語、「烏獲うかくちから」の語源となっている。

脚注

*21きんは30きんの重さ。千釣せんきんは約7.59t。


烏倫うりん

生没年不詳。鮮卑せんぴ族の大人たいじん(部族長)。

後漢ごかん安帝あんていの末年[元初げんしょ5年(118年)]、鮮卑せんぴの騎馬兵が幽州ゆうしゅう代郡だいぐん馬城県ばじょうけんとりでを破って侵入し、郡県のおもった役人たちを殺害した。

かんの朝廷は、度遼将軍とりょうしょうぐん鄧遵とうじゅん中郎将ちゅうろうしょう馬続ばぞくを派遣して長城ちょうじょうを越えて追撃させ、これを撃ち破ると、鮮卑せんぴ大人たいじん烏倫うりん其至鞬きしけんら7千余人が鄧遵とうじゅんもとに降伏を申し入れてきた。

そこで朝廷は、烏倫うりんおうに封じ、其至鞬きしけんにはこうの位を与え、いろどりのあるきぬ下賜かしした。


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鬱(うつ)

鬱築鞬うつちくけん

生没年不詳。鮮卑せんぴ族の大人たいじん(部族長)・軻比能かひのう女婿むすめむこ

太和たいわ2年(228年)、護鮮卑校尉ごせんぴこうい田豫でんよが通訳の夏舎かしゃを派遣して鬱築鞬うつちくけんの部族を訪問させたが、夏舎かしゃ鬱築鞬うつちくけんに殺害された。

この年の秋、田豫でんよは西部鮮卑せんぴ蒲頭ほとう泄帰泥せつきでいひきいて長城ちょうじょうを出て鬱築鞬うつちくけんを討ち、これをひどく撃ち破った。


雲(うん)

雲午うんご

生没年不詳。魏書ぎしょ斉王紀せいおうぎ曹芳そうほう本紀ほんぎ)が注に引く世語せご魏氏春秋ぎししゅんじゅうに登場する役者。

嘉平かへい6年(254年)秋、中領軍ちゅうりょうぐん許允きょいんと側臣の小者たちは、帝(曹芳そうほう)と共謀して安東将軍あんとうしょうぐん司馬昭しばしょうを殺害し、その軍勢をおさめて大将軍だいしょうぐん司馬師しばしを追放しようと計画した。

隴右ろうゆうに侵入した姜維りょうい征伐のため都に召還された司馬昭しばしょうが、挨拶あいさつのために参内して来た時、帝(曹芳そうほう)はちょうどくりを食べていたところだった。

この時、役者の雲午うんごらが、「青い頭のにわとり、青い頭のにわとり*3」と歌ったが、づいた帝(曹芳そうほう)は思い切って事を起こすことができなかった。

司馬昭しばしょうは兵をひきいて入城し、司馬師しばしはこれが原因で帝(曹芳そうほう)の廃位をはかったのである。


この年の春、中書令ちゅうしょれい李豊りほうが、皇后こうごうの父・光禄大夫こうろくたいふ張緝ちょうしゅうらと結託して大臣(司馬師しばし)を更迭こうてつし、太常たいじょう夏侯玄かこうげん大将軍だいしょうぐんとしようとする計画を立てたが、事が発覚して関係者はことごとく誅殺ちゅうさつされていた。

この事件に関係していた許允きょいんは、この事件の後すぐに鎮北将軍ちんほくしょうぐんに転出され、まだ出発しないうちに「官品の管理が放漫ほうまんであった」ことを理由に逮捕され、廷尉ていいに引き渡されて幽州ゆうしゅう楽浪郡らくろうぐん流刑るけいとなったが、追っ手によって殺害された。

このことから裴松之はいしょうしは「この年の秋に許允きょいん領軍りょうぐんとなってこのような計画を立てることはありえない」と言っている。

脚注

*3「青い頭のにわとり」とはかもおう)のこと。「おう」は「おう」に通じ、事前に書きあげておいた詔書しょうしょ玉璽ぎょくじを押すこと。計画の実行をうながす合い言葉。



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