正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「う」から始まる人物の一覧③です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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う③(羽・禹・烏・鬱・雲)
羽(羽父)
羽父(公子翬、公子揮)
生没年不詳。春秋時代、魯の公子。諱は翬または揮。
魯の第13代君主・恵公が亡くなると、正夫人・仲子の子、太子允*1(桓公)がまだ幼かったため、異母兄の息姑(隠公)が跡を嗣ぎ、弟の太子允*1が成人するまでの摂政の気持ちでいた。
隠公11年(紀元前712年)、大夫の羽父は、高位につきたいがために隠公の機嫌を取ろうとして太子允*3の殺害を願い出たが、隠公は「自分は太子允*1が若いから仮に位についているのであって、やがて太子允*3に位を譲って隠居したいと思っている」と答えた。
「これでは自分が重罪に問われてしまう」と考えた羽父は、秘かに太子允*1に向かって隠公を讒言し、「あなたのために隠公を亡き者にいたしましょう」と言って、隠公が祭礼のために大臣の蔿氏の家に宿泊したところを殺害し、その罪を蔿氏に着せた。
桓公3年(紀元前709年)、羽父は使者として斉に行き、斉の王女を夫人に迎えて親交を重ねた。
脚注
*1または軌とも言う。
関連人物
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禹(禹)
禹(大禹、夏禹、戎禹)
姓は姒、諱は文命。鯀の子。顓頊の孫。夏王朝の初代君主。堯・舜と並んで太古の聖王とされる。
舜の命を受け、堯の時代に父・鯀が成し得なかった黄河の治水を成功させた。その後舜から禅譲を受け、平陽に都を定めて夏王朝を開く。
治水にあたって衣食を粗末にし、身を粉にして働いたことが禹の徳行として称賛される。
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烏(烏延・烏獲・烏倫)
烏延
生年不詳〜建安12年(207年)没。幽州・右北平郡の烏丸(烏桓)族の大人(部族長)。800余りの部落を支配下に置いて勝手に汗魯王を号した。
遼西郡の烏丸(烏桓)族の大人・蹋頓に従い、公孫瓚を滅ぼした袁紹に単于の印綬を与えられた。
その後、蹋頓が曹操に敗れた袁煕・袁尚を受け入れると、建安12年(207年)、曹操は自ら遠征して柳城を攻め、蹋頓は戦死。烏延らは遼東郡(公孫康)に逃げ込むが、遼東郡の役所は彼らを斬ってその首を曹操に届けた。
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烏獲
生没年不詳。戦国時代、秦の武王に仕えた大力(怪力)の勇士。「千鈞*2を持ち挙ぐ(持ち上げる)」と言われた。
武王は大力の勇士を好み、烏獲、任鄙、孟説らは、その大力をもって大官に取り立てられた。
非常に力が強いことを例える四字熟語、「烏獲之力」の語源となっている。
脚注
*21鈞は30斤の重さ。千釣は約7.59t。
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烏倫
生没年不詳。鮮卑族の大人(部族長)。
後漢の安帝の末年[元初5年(118年)]、鮮卑の騎馬兵が幽州・代郡・馬城県の塞を破って侵入し、郡県の主立った役人たちを殺害した。
漢の朝廷は、度遼将軍の鄧遵と中郎将の馬続を派遣して長城を越えて追撃させ、これを撃ち破ると、鮮卑の大人・烏倫、其至鞬ら7千余人が鄧遵の下に降伏を申し入れてきた。
そこで朝廷は、烏倫を王に封じ、其至鞬には侯の位を与え、采のある帛を下賜した。
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鬱(鬱築鞬)
鬱築鞬
生没年不詳。鮮卑族の大人(部族長)・軻比能の女婿。
太和2年(228年)、護鮮卑校尉の田豫が通訳の夏舎を派遣して鬱築鞬の部族を訪問させたが、夏舎は鬱築鞬に殺害された。
この年の秋、田豫は西部鮮卑の蒲頭と泄帰泥を率いて長城を出て鬱築鞬を討ち、これを手酷く撃ち破った。
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雲(雲午)
雲午
生没年不詳。『魏書』斉王紀(曹芳の本紀)が注に引く『世語』、『魏氏春秋』に登場する役者。
魏の嘉平6年(254年)秋、中領軍の許允と側臣の小者たちは、帝(曹芳)と共謀して安東将軍・司馬昭を殺害し、その軍勢を収めて大将軍・司馬師を追放しようと計画した。
隴右に侵入した姜維征伐のため都に召還された司馬昭が、挨拶のために参内して来た時、帝(曹芳)はちょうど栗を食べていたところだった。
この時、役者の雲午らが、「青い頭の鶏、青い頭の鶏*3」と歌ったが、怖じ気づいた帝(曹芳)は思い切って事を起こすことができなかった。
司馬昭は兵を率いて入城し、司馬師はこれが原因で帝(曹芳)の廃位を計ったのである。
この年の春、中書令の李豊が、皇后の父・光禄大夫の張緝らと結託して大臣(司馬師)を更迭し、太常の夏侯玄を大将軍としようとする計画を立てたが、事が発覚して関係者はことごとく誅殺されていた。
この事件に関係していた許允は、この事件の後すぐに鎮北将軍に転出され、まだ出発しないうちに「官品の管理が放漫であった」ことを理由に逮捕され、廷尉に引き渡されて幽州・楽浪郡に流刑となったが、追っ手によって殺害された。
このことから裴松之は「この年の秋に許允が領軍となってこのような計画を立てることはありえない」と言っている。
脚注
*3「青い頭の鶏」とは鴨(鴨)のこと。「鴨」は「押」に通じ、事前に書きあげておいた詔書に玉璽を押すこと。計画の実行を促す合い言葉。
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