後漢王朝によって国家教義として認められていた儒教。『三国志』の登場人物たちの行動に大きな影響を与えていた「儒教」の思想とはどのようなものだったのかを確認しておきましょう。

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古代中国思想「諸子百家」

儒教とは

儒教とは、紀元前6世紀頃、春秋戦国時代の魯の国に仕えた孔子こうしによって体系化された思想のことです。孔子こうしとは「孔先生」という意味で、いみな孔丘こうきゅうあざな仲尼ちゅうじと言います。

戦乱によって身分制秩序が解体され実力主義が横行する中で、身分制秩序の再編と仁道政治を理想とする考え方で、春秋戦国時代に多数生まれた学者・学派の総称である諸子百家しょしひゃっかの一家に数えられています。

儒教と聞くと仏教のように宗教を連想しますが、信仰することで魂の救いを求めるようなものではなく、儒教の中心は道徳的行動と生活についての教えであり、簡単に言うと「人はどのように生き、どのように政治を行うべきか」を説いたものと言えます。

孔子こうし孔子こうしに次いで重要な人物である孟軻もうか孟子もうし)の姓を取り孔孟の教えと呼ばれることもあります。

儒教・儒家・儒学の違い

中国では「儒教」という呼び方はあまり用いられず、学派を意味する「儒家」、儒家思想を元にした学問を「儒学」と呼ぶのが一般的です。

また、祖先崇拝と結びついていた儒教は、冠婚葬祭などの共同体儀礼として民衆生活に深く定着していたため、3世紀頃より「仏教」が広まり始めると、仏教道教と並んで儒教の呼び方が使用され、「中国の三大宗教」と呼ばれるようになりました。

日本では明治以降、学派、学問、教化のすべてを含んで広義に「儒教」と呼ぶようになりました。混乱を避けるために、今回は以後「儒教」で統一します。

その他の「諸子百家」

春秋戦国時代の戦乱によってそれぞれの国では、富国強兵をはかるための様々な政策が必要とされました。そのような状況の中で、多種多様な知識を身につけて政策を提案する遊説家が登場します。

彼らと彼らが開いた学派の総称を諸子百家と言います。諸子は人物を指し、百家は学派のことを指しています。

陰陽家いんようか 騶衍すうえん

万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されると言う陰陽思想を説き、春秋戦国時代末期に五行思想と一体となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まりました。

日本に伝わった陰陽五行思想は、陰陽師おんみょうじ安倍晴明あべのせいめいで有名な陰陽道おんみょうどうに発展していきます。

五行思想(五行説)とは、万物は木・火・土・金・水の5つの元素からなるという説で、この5つの元素は「互いに影響を与え合って変化し、木(青または緑)→火(赤)→土(黄色)→金(白)→水(黒)の順に循環する」と考えられていました。

この循環は、王朝の交代にも当てはめることができ、火徳を持つ後漢王朝を打倒する黄巾賊は、土徳を持つ者という意味で黄色い頭巾を身につけていました。

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黄巾賊が掲げたスローガンと五行思想(五行説)の謎

墨家ぼっか 墨翟ぼくてき墨子ぼくし

儒学を学んだ墨子ぼくしは、儒学の思想を差別愛であるとして満足せず、博愛主義と侵略の否定を説き、武装防御集団として各地の守城戦で活躍しました。

法家ほうか 管仲かんちゅう

儒家の説く「徳治主義」のように、賞罰の基準が為政者によって変化してしまうのではなく、法という定まった基準によって国を治める「法治主義」を説いた思想。

しん始皇帝しこうていは法家思想による統治を行いましたが、法が厳格すぎたことが反乱の原因となって滅亡してしまいました。

また、法家の代表的な人物に、権力の扱い方とその保持についてまとめた韓非子かんぴしを著した韓非かんぴがいます。

蜀漢の丞相諸葛亮しょかつりょうは、幼帝劉禅りゅうぜんへの教材として『韓非子』を献上しています。

名家めいか 鄧析とうせき

名(言葉・概念)と実(形・本質)の関係を明らかにして、政治の役に立てようとした学派。

少し分かりづらいので公孫龍こうそんりゅうが著した『公孫龍子』の「白馬非馬論」をご紹介します。

白馬という概念は色彩感覚によってとらえられた「白」と視覚 (形態感覚) によってとらえられた「馬」とに分析できるから、白馬 (白+馬)は馬ではない。また馬という概念には黄馬も黒馬も含まれるが、白馬という概念には黄馬、黒馬は含まれない。ゆえに白馬は馬ではないという理論。

なんだかよく分かりませんよね。

一見正しいように思える前提条件と妥当な推論を進めたはずなのに、何故か受け入れられない結論が出てしまうような状況を「パラドックス」と言います。

名家はこのようなパラドックスを弁論術に利用したため、詭弁きべんや屁理屈の域を出ることはありませんでした。

名家の命題の中に「飛ぶ鳥の影は動かない」というものがありますが、これは古代ギリシアの哲学者ゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」というパラドックスと同じ論理で構成されています。

思想というよりも「物の存在と本質を分離して考える」哲学に近いと言えますが、ギリシア哲学のように発展することはなく、弁論の訓練として使われるだけに終わってしまったようです。

道家どうか 李耳りじ老子ろうし) 荘周そうしゅう荘子そうし

儒家や墨家における人為性を排除し、宇宙の根源的存在としてのタオにのっとった無為自然の行いを重要視する思想で、老荘思想と呼ばれることもあります。

道家の始祖の1人である老子ろうしとは「偉大な人」を意味する尊称であり、道教では太上老君たいじょうろうくんの神名を持ち西遊記さいゆうき封神演義ほうしんえんぎにも登場します。

道教においては、タオと一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬・丹を錬り、仙人となることを究極の理想としていますが、日本の研究者の間では、道家思想と道教の関係性・連続性を否定する学説が一般的です。

また、黄巾の乱を起こした太平道の張角ちょうかく『太平要術の書』を授けた南華老仙なんかろうせんは、荘子そうしが仙人になった姿であると言われています。

縦横家じゅうおうか

巧みな弁舌と奇抜なアイディアで相手を説き伏せ、弁舌によって目的を達成しようとする人たちで、外交の策士として各国を行き来したことから縦横家と呼ばれました。

学者・知識人にとって弁舌で言い負かされることは最大の恥辱であり、『三国志演義』では、北伐の際に諸葛亮しょかつりょうが弁舌だけで王朗おうろうを憤死させる場面が描かれています。

また、『三国志演義』の「東呉舌戦」の回には、縦横家として有名な蘇秦そしん張儀ちょうぎの名前が登場します。

雑家ざっか

儒家、道家、法家、墨家など諸家の説を取捨選択し、総合した学派。

「鹿を追う者は山を見ず」という言葉の通り、1つの思想に熱中していると全体の道理が分からなくなると説き、物事は大局的に見なければ本質が分からないとする思想です。

現存する書物は、原泰久はらやすひささんの漫画『キングダム』にも登場するしん右丞相うじょうしょう呂不韋りょふいがまとめさせた呂氏春秋りょししゅんじゅう劉安りゅうあん淮南子えなんじがあります。

農家のうか

具体的な田畑の耕し方や植付けの方法など、農業技術の向上を追求し、農業を治政の根本とする重農主義を唱える学派。

さらに許行きょこうという人物は「君民ともに額に汗して耕作すべき」という、原始共産制のような自給自足の集団生活を求めて社会運動を起こしました。

『孟子』の中に許行きょこうに関するおもしろい記述があります。

孟子もうし許行きょこうの弟子に向かって「許行きょこうみずから服や家をつくるのか」と問うと、許行きょこうの弟子は「いいえ」と答えた。

孟子もうしが「農作業の片手間に服や家をつくれないと言うなら、なぜ政治は農作業の片手間にできるというのか」と問うと、許行きょこうの弟子は答えることができなかった。

小説家しょうせつか

民間の風聞を集めて王に奏上した下級役人から発生したと言われており、故事(世間の出来事、説話など)を語り伝え、書物にして残した学派。

兵家へいか

主に用兵・軍略を研究するとともに、政治・経済・人生観にまで及ぶ政略を説いた学派。

有名な孫子そんしを著した孫武そんぶの他に、孫臏そんぴん呉起ごき尉繚うつりょうらがこの兵家に属します。

「諸子百家」の分類

六家

前漢初期の司馬談しばたんは「諸子百家」を、陰陽家、儒家、墨家、法家、名家、道家の六家(6つの学派)に分類しました。

九流

班固は自身の著書『漢書』芸文志で、「諸子百家」をそれまでの6学派に、縦横家、雑家、農家の3学派を加えて九流と名付けました。

十家

九流に小説家を加えたものを十家と言います。


一般的に十家に兵家を加えた11の学派のことを「諸子百家」と言いますが、最後に兵家が加わったことは兵家を軽んじていたわけではなく、国家の軍備を重視したために、十家から独立した学派であると考えられていたためです。

また、兵家を加えた11学派に、医療の研究をする「医家いか」を加えた12学派を「諸子百家」とする見方もあります。



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儒教の教え

経書「四書五経」

四書

大学だいがく』、『中庸ちゅうよう』、『論語ろんご』、『孟子もうし』の4書を四書と言います。

大学・中庸

南宋なんそうの儒学者朱熹しゅきが『礼記らいき』中の「大学」と「中庸」の2篇を抜き出して単独の書物としたもの。後漢当時は、独立した書物としては存在していません。

論語

孔子こうしと弟子たちの言行録。

孟子

孟子もうしの言行録。

五経

易(えき)

時代によって周易しゅうえき易経えききょうとも呼ばれます。

天文・地理・人事・物象を陰陽変化の原理によって説いた書。

「三易」の一つであり、太古より続く占いの知恵を体系・組織化し、八卦はっけを2つずつ組み合わせてできる六十四卦ろくじゅうしけの占いの語や解釈を記しています。

書(しょ)

時代によって尚書しょうしょ書経しょきょうとも呼ばれます。

ぎょうしゅんしょういん)、しゅう3代の帝王の言行録を整理してまとめた書。

史実だけでなく神話的な伝承を含んでいましたが、儒家はこれを天下統治の普遍的法則を示すものとして尊重していました。

しん始皇帝しこうてい焚書ふんしょなどで失われ、完全なものは現存していません。現行本『書経』58篇のテキストは「偽古文尚書」であり、その大半は偽作されたものであると言われています。

詩(し)

時代によって毛詩もうし詩経しきょうとも呼ばれます。

西周時代に歌われていた民謡や宮廷の音楽、祖先の徳をたたえる詩を編集した中国最古の詩篇。

孔子こうしの編ではないかとと伝えられています。

士礼(しらい)

時代によって儀礼ぎらいとも呼ばれ礼記らいき』『周礼しゅうらいと共に三礼の一つとされています。

しゅうの時代の身分制度では、王や諸侯の下にけい大夫たいふと呼ばれる貴族階級があり、その家臣としてと呼ばれる階級がありました。

宗教的・政治的儀礼を集録したもので、主に士に関する儀礼の形式を詳細に述べています。

春秋(しゅんじゅう)

紀元前722年から紀元前481年までの242年間の、魯を中心とする各国の史実を編年体で簡単に記述した歴史書。

春秋には春秋公羊伝しゅんじゅうくようでん春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん春秋穀梁伝しゅんじゅうこくりょうでんの3つの注釈書があります。

蜀漢の初代皇帝・劉備りゅうびに挙兵のときから仕えた関羽かんうは、『春秋左氏伝』を好んでほぼ暗唱できたと言われています。

儒教の教義

儒教は、仁、義、礼、智、信の五常(五徳)を実践することによって、五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の関係を円滑に維持することを理想としています。

五常(五徳)

主に「他人に対する親愛の情や優しさ」を意味する徳の1つで、孔子こうしがその教えの中心に置いた精神・心のあり方のこと。

人間の欲望を追求する「利」に捕らわれず、正しい行いを守ること。合わせて自分の欲望に流される心を恥じるあり方のこと。

「仁」の精神を具体的な行動として表したもの。後に対人関係(上下関係)で守るべきマナーを意味するようになった。

もとは冠礼、婚礼、喪礼、祭礼などの儀礼上のタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。

道理(物事の正しい筋道)をよく知り、正しい判断を下す能力を持つこと。知識豊富であること。

友情に厚く、言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。

五倫

父子の親

父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。

君臣の義

君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。

夫婦の別

夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。

長幼の序

年少者は年長者を敬い、従わなければならない。

朋友の信

友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。


儒教の教えでは、1人1人が五倫五常の徳性を実践することで社会秩序が保たれ、より良い世の中になると説いたのです。

孔子こうしは、

「政治権力で導き刑罰で統制すると、人民は刑罰さえ免れることができれば、何をしても恥ずかしいと思わなくなる。道徳で導き礼で統制すると、羞恥心を持ち、その上に正しくなる」

と説いたために、法による厳格な支配を実践した秦の始皇帝によって迫害を受けました。



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儒教が与えた影響

しんが滅び中国が漢によって統一された当初「道家系」の学派が流行しましたが、第7代皇帝武帝ぶてい董仲舒とうちゅうじょの献策を受け入れて、五経を教える官職である五経博士ごきょうはくしを設置して儒教を国教に定めました。

人材登用制度である郷挙里選きょうきょりせんにおいても、儒教の五倫五常にもとづく「父母への孝順と物事に対する廉正な態度」を意味する孝廉こうれんの科目が重要視されたことから、儒教の教えを実践することが一人前の人間であることの証明となり、儒教の思想が庶民にいたるまで浸透していきました。

文化・風習への影響

婚礼

中国ドラマ『三国志 Three Kingdoms』では、天子を僭称せんしょうしていた袁術えんじゅつの息子と呂布りょふの娘との婚礼を知った軍師陳宮ちんきゅうは、

「結納を収めた後、結婚するまでに天子は1年、諸侯は半年、大夫は1季(3ヶ月)、庶民は1ヶ月の期間を設ける」

とする儒教の儀礼を持ち出して、呂布りょふの娘を迎えに来た袁術えんじゅつの使者を追い返しています。

また、同姓婚を避ける風習も儒教の影響だと言われています。

喪礼

儒教では父を亡くした場合、喪に服する期間は3年(実質27ヶ月)と決まっています。

喪に服する期間は官職を辞し、質素な白い服を着て外出を控え、食事は薄いおかゆだけをとる生活を送ります。

また、嫁取り・嫁入り、妻妾との房事も当然禁じられています。

そんな中、趙宣ちょうせんという人物は、親の死に際し20年余り喪に服している孝行者だと評判になっていました。

ですが趙宣ちょうせんの5人の子は、喪に服している間に産まれたとしか考えられません。それを知った陳蕃ちんはんは、おおいに怒り趙宣ちょうせんを罰しました。

髪・ヒゲ

「親からもらった身体は例え髪の毛一本たりとも粗末にしてはいけない」という教えのもと、男性でも髪とヒゲを長く伸ばしていました。

中国の髠刑こんけいという髪の毛を剃ってしまう刑罰は、この儒教思想に基づいたものです。

現在の日本でも、謝罪・反省の気持ちをあらわすために坊主にすることがありますが、当時の人にとっては、比べものにならないほどの恥辱と屈辱を感じる刑罰であったことが想像されます。

また、「美髯公びぜんこう」として知られる関羽かんうは、布袋でヒゲを包んで保護していたと言います。

宦官

去勢によって親からもらった大切な身体を傷つけ、子孫を残すことができず、ヒゲも生えない宦官たちは、儒教思想では侮蔑の対象となっていました。

外戚

徳によって国を治めることを理想とする儒教思想のもとでは、天子こそが儒教の教えを実践していなければなりません。そのため天子と言えども母親には逆らえず、外戚の力を強める一因にもなりました。

孫権の妹・孫尚香そんしょうこうとの婚儀のために呉を訪れた劉備りゅうびは、諸葛亮しょかつりょうの策によってまず孫権そんけんの母親である呉国太ごこくたいを味方につけました。呉国太ごこくたいの反対によって、あわよくば劉備りゅうびを殺そうという周瑜しゅうゆの計略は失敗に終わってしまうのです。

君臣の義

『三国志演義』のエピソードです。

呂布りょふに敗れて曹操そうそうのもとに逃げる劉備りゅうびが、途中で劉安りゅうあんという人物に一夜の宿を求めました。狼の肉でもてなされた劉備りゅうびですが、翌日、ひじの肉が切り取られた女性の遺体を見つけます。

劉安りゅうあんに尋ねると、

「もてなせるものがなかったので、妻を殺してその肉を料理したのです」

と答えました。狼の肉だと思っていた肉は、劉安りゅうあんの妻の肉だったのです。

劉備りゅうびは涙を流して礼を言い、劉安りゅうあんに一緒に来るように勧めたのですが、

劉安りゅうあんは、

「老母がいるために遠方に参ることはできません」

と断りました。

また、この話を聞いた曹操そうそうは、劉安りゅうあんに金100両を与えたと言います。


妻を殺してその肉を食べさせるなど理解しがたい行為ですが、劉備りゅうび曹操そうそうもそのことを一切責めてはいないばかりか、美談として褒めたたえています。

この背景には、儒教思想の「主君への忠義」と「父母への孝行」があるのではないでしょうか。



儒教思想の弊害

儒教思想は女性蔑視なのか?

劉備りゅうびをもてなすために妻を殺した劉安ですが、実はこの時の劉備りゅうびも2人の妻妾を見捨てて逃げ出していたのです。

儒教思想を理想として生きていた当時の人々が、彼らを非難しなかったのはなぜでしょうか?

ここで、儒教が女性蔑視の思想だったからなのでは?という疑問が湧いてきますよね。

ですが、一概にそうとも言えないのです。

孔子こうしの言行録である論語ろんごを見渡してみると、女性に関する記述はたった1つだけ見つけることができます。

陽貨第十七の二十五

「女と器量が小さい男は扱いにくい。親切にすれば調子に乗るし、親切にしなければ恨まれる」


一言で言えば「女は面倒臭い」ということでしょうか。

とても女性を尊敬している人の言葉とは思えませんが、この一文だけで「儒教は女性蔑視、男尊女卑の思想である」と決めつけてしまうことにも無理があるように思います。

つまり、儒教の教えは女性のことに触れていないので、儒教以前の女性観がそのまま引き継がれたと考える方が自然かもしれません。

差別を助長した儒教思想

論語ろんごをはじめとする儒教の経書(経典)をしっかりと読み込めば、子が親に、臣下が主君に尽くすだけの一方通行ではないことが分かります。

ですが、孔子こうしによって儒教思想が体系化されたのは、中国大陸がたくさんの国に別れて争った春秋戦国時代です。

実力をつけた臣下が主君を倒し独立勢力を打ち立てる「下克上」が繰り返される中で、身分制秩序を取り戻し、仁道政治によって戦乱を生き抜く強い国をつくることを理想としていたため、


  • 子としてどうあるべきか
  • 臣下としてどうあるべきか

に重点が置かれていました。

ですが、読み方によっては差別的に受け取れる内容も少なくありません。


論語ろんごの言葉を少し確認してみましょう。

学而第一の六

「若者は、家庭では親孝行を尽くし、社会では目上の人に従順でありなさい。礼節を重んじて信用を保ち、多くの人を愛して仁をそなえた人と親交を深め、そうした行いの上に余力があれば書物を学びなさい」

八佾第三の五

「野蛮な国に君主がいても、中国に君主がいない状況にすら及ばない」

里仁第四の十八

「父母に仕えるときはそれとなく諫め、父母の意向が変わらないと分かれば、そのまま敬意を持って逆らわず、余計な苦労をしても恨まないことである」

泰伯第八の九

「民は政策に従わせることはできるが、政策を理解させることはできない」

 


これらの部分だけ見ると「子は親に、臣下は主君に盲目的に従わなければならない」ようにもとることができます。また「中国以外の国は劣っている」、「民衆は馬鹿だ」と言っているようにも受け取れます。

ここで注意しておきたいのが、この時代、すべての人が字を読めるわけではありませんし、書物はとても高価なもので、一般の人々が気軽に読めるものではなかったということです。

つまり、一般の人々が儒教の真意を知ることは非常に難しかったのです。

実際に時代が進むにつれて、支配者階級が儒教を自分たちに都合が良いように、差別的に変化させていった事実は否定できません。

曹操と儒教

曹操そうそうは儒教に反対の立場であったと言われていますが、実際のところどうだったのでしょうか?

曹操そうそうは当時としては革新的な考え方の持ち主で、儒教の長幼の序に従わず、能力があれば功績次第でどのような身分の者でも重用しました。

その一方で、配下には儒家出身の者も多数いますので、儒家を排除したわけでもありません。

ですが、「腐れ儒者」という言葉もあるように、頭でっかちの理屈ばかりで実がともなわない者には冷たかったと言えます。


日本の戦国大名である織田信長は、浄土真宗本願寺勢力と10年に渡って戦いを繰り広げますが、他の宗派は保護もしています。

つまり信長は、僧侶が武家の政治に口出しすることを嫌っただけで、仏教の存在自体を否定したわけではないのです。

曹操そうそうにも同じことが言えるのではないでしょうか。曹操そうそうの行動をいくつか確認してみましょう。

報仇雪恨

陶謙とうけん配下張闓ちょうがいに父・曹嵩そうすう、弟・曹徳そうとくを殺された際、曹操そうそうは父親を殺された復讐として「報仇雪恨」の旗印を立てて陶謙とうけんの支配地である徐州じょしゅうへ攻め込むと、数10万人の民を虐殺しました。

当時曹操そうそうは30万人の黄巾賊の残党を吸収し、深刻な兵糧不足に陥っていました。

曹操そうそうの本当の狙いは略奪にあり、「父の仇」という儒教の教えに沿った口実を前面に押し出すことによって、略奪・虐殺に対する非難をそらすために利用したのだと考えられます。

髪を切り自らを罰す

刈入れを待つばかりとなった麦畑を行軍する曹操そうそうは「麦を踏み倒した者は死罪に処す」という命令を下しました。

しかし、突然飛び立った鳩に曹操そうそうの乗馬が驚いて、麦畑の中に走り込んで麦を踏み荒らしてしまったのです。

自分で決めた法を自分で破ってしまった曹操そうそうは、腰の剣を抜いて自害しようとします。

それを見た郭嘉かくかは、

「お待ち下さい!『春秋』に法はとうときに加えずとあります。丞相が自害する必要はありません」

と言って止めると曹操そうそうは、

「首の代わりに髪を切る」

と言って髪を切り落としました。

前述したように、儒教の教えでは髪を切ることはとても深い意味があります。このことが全軍に広まると、兵たちは感激して軍律を犯す者はいなかったと言います。


このように、曹操そうそうは合理主義・実力主義を貫きながら、一方では民衆に浸透した儒教の思想を利用して民心をつかみ、物事を有利に進めていたのだと考えることができます。

『三国志』を読んでいると、日本人には不思議に思える行動や反応ってありますよね。
そんなときは、儒教思想をはじめとする中国思想「諸子百家」を理解した上で読んでみると、面白いかもしれません。