正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧⑨です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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い⑨(殷)

殷(いん)

殷観(いんかん)・孔休(こうきゅう)

生没年不詳。荊州主簿(けいしゅうしゅぼ)として劉備(りゅうび)に仕え、別駕従事(べつがじゅうじ)に昇進した。

劉備(りゅうび)が孫権(そんけん)の妹を娶(めと)り、極めて親密な間柄となると、孫権(そんけん)は使者を遣(つか)わして「協力して蜀(しょく)(益州(えきしゅう))を取ろう」と申し出た。

ある者は「呉(ご)が荊州(けいしゅう)を越えて蜀(しょく)を支配することは不可能であり、蜀(しょく)を得ることができるでしょうから、承知の旨(むね)を答えるが良い」と主張した。

すると荊州主簿(けいしゅうしゅぼの殷観(いんかん)が進み出て「もし呉(ご)の先駆(さきが)けとなり、進んでは蜀(しょく)に勝つことができず、退(ひ)いては呉(ご)につけ込まれることにでもなれば、たちまち好機は去ってしまいます。今はただその言う通りに呉(ご)の蜀(しょく)討伐に賛成する一方で『我々は新たに諸郡を支配したところだから、まだ行動を起こすことはできませぬ』と説明なさいませ。呉(ご)は思い切って我が領土を越えて勝手に蜀(しょく)を取ることはしないに違いありません。このように進退についてお計(はか)りになれば、呉(ご)・蜀(しょく)より利益を収(おさ)めることができましょう」と言った。

劉備(りゅうび)が殷観(いんかん)の言葉に従ったところ、孫権(そんけん)ははたして計画を中止し、劉備(りゅうび)は殷観(いんかん)を別駕従事(べつがじゅうじ)に昇進させた。


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殷馗(いんき)

生没年不詳。幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)の人。天文に詳しい。

桓帝(かんてい)の時代[和平(わへい)元年(150年)頃]、黄色の星が楚(そ)・宋(そう)の分野に現れた*2。

殷馗(いんき)は「50年後に真人(しんじん)[天子(てんし)(皇帝)となるべき人物]が梁(りょう)・宋(そう)の辺りの地域に出現するに違いなく、その鋭鋒(えいほう)(鋭い勢い)には敵対できぬ」と予言した。

そしておよそ50年が経過し、曹操(そうそう)が袁紹(えんしょう)を撃ち破って天下に敵なしとなった。

脚注

*2天の二十八宿(星座)はそれぞれ中国の地域に相対し、その星座に異変があれば、対応する地上の区域に変化が現れるとされた。


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殷浩(いんこう)・深源(しんげん)

生年不詳〜晋(しん)(東晋(とうしん))の永和(えいわ)12年(356年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳郡(ちんぐん)・長平県(ちょうへいけん)の人。父は晋(しん)(東晋(とうしん))の豫章太守(よしょうたいしゅ)・殷羨(いんせん)。若くして名声があり、仕官に応ぜず隠棲(いんせい)していたことから、管仲(かんちゅう)や諸葛亮(しょかつりょう)に擬(なぞら)えられた。

永和(えいわ)2年(346年)、宰相(さいしょう)の司馬昱(しばいく)の招聘(しょうへい)を受けて揚州刺史(ようしゅうしし)の任を受けると、朝政に参画して安西将軍(あんせいしょうぐん)・桓温(かんおん)と対立。北伐に失敗して庶人(しょじん)に落とされ、失意のまま亡くなった。

桓温(かんおん)は「幼(おさな)い頃、私と殷浩(いんこう)は共に竹馬に乗って遊んだものだが、私が竹馬を捨てると殷浩(いんこう)はそれを拾って遊んでいた。彼が我の下につくのは当然であろう」と語り、「竹馬(ちくば)の友」の語源となる。

『魏書(ぎしょ)』劉劭伝(りゅうしょうでん)の裴松之(はいしょうし)注に、日食の際に朝礼を取りやめなかった荀彧(じゅんいく)に対し、朝礼を取りやめた礼として殷浩(いんこう)の名前が出された。


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殷興(いんこう)

生没年不詳。呉(ご)の天紀(てんき)3年(279年)に広州(こうしゅう)で反乱を起こした郭馬(かくば)の部将(部隊長)。

郭馬(かくば)は元々合浦太守(がっぽたいしゅ)・脩允(しゅういん)配下の私兵の隊長であったが、脩允(しゅういん)の死後、兵士たちが分割されて別々の所に配属させられることになり、そのことを不満に思っていた。

郭馬(かくば)は孫皓(そんこう)が広州(こうしゅう)の戸籍を調べ直していることを利用して、部将の何典(かてん)、王族(おうぞく)、呉述(ごじゅつ)、殷興(いんこう)らと共謀し、兵士や民衆たちの不安を煽(あお)って動揺させると、人数を集めて広州督(こうしゅうとく)の虞授(ぐじゅ)を攻め殺した。この時殷興(いんこう)は、郭馬(かくば)によって広州刺史(こうしゅうしし)に任命されている。


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殷純(いんじゅん)

生没年不詳。蜀(しょく)の大司馬(だいしば)の属(ぞく)。

建安(けんあん)25年(220年)、魏(ぎ)の文帝(ぶんてい)(文帝(ぶんてい))が即位すると、尹黙(いんもく)、譙周(しょうしゅう)らと共に12名の連名で劉備(りゅうび)に帝位を勧める上奏文を奉じた。


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殷署(いんしょ)

生没年不詳。魏(ぎ)の平難将軍(へいなんしょうぐん)。

漢中郡(かんちゅうぐん)から移動された「元韓遂(かんすい)・馬超(ばちょう)配下の兵5千余人」を統率し、扶風太守(ふふうたいしゅ)・趙儼(ちょうげん)が指揮する関中護軍(かんちゅうごぐん)の一翼を担(にな)って、来攻する羌族(きょうぞく)や反乱を起こした呂並(りょへい)を撃ち破った。

その後、漢中郡(かんちゅうぐん)の守備増強のため、兵1,200人の移動を指揮したが、突然家族と離別することに不満を持った兵に反乱を起こされ、一時安否不明となる。

建安(けんあん)24年(219年)、曹仁(そうじん)が守る樊城(はんじょう)が関羽(かんう)に包囲され、その救援に徐晃(じょこう)が派遣されたが、徐晃(じょこう)の兵は新たに味方についた兵が多く、関羽(かんう)と勝敗を争うことは難しかった。

そこで曹操(そうそう)は、将軍(しょうぐん)の徐商(じょしょう)・呂建(りょけん)、続いて殷署(いんしょ)・朱蓋(しゅがい)ら合計12の屯営の兵を徐晃(じょこう)の下(もと)に派遣して関羽(かんう)を撃ち破った。


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殷登(いんとう)

生没年不詳。冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・内黄県(ないこうけん)の人。占術師(せんじゅつし)。

熹平(きへい)5年(176年)、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)(曹操(そうそう)の故郷)に黄龍(こうりゅう)が現れた。

光禄大夫(こうろくたいふ)の橋玄(きょうげん)が太史令(たいしれい)の単颺(ぜんよう)に尋(たず)ねると、単颺(ぜんよう)は「この国には後(のち)に王者が興(おこ)るに違いありません。50年と経(た)たないうちに、再度(黄龍(こうりゅう)が)出現するはずです」と答えた。

45年後の延康(えんこう)元年(220年)3月、再び譙県(しょうけん)に黄龍(こうりゅう)が現れると、単颺(ぜんよう)の言葉を覚えていた殷登(いんとう)はこれを魏王(ぎおう)・曹丕(そうひ)に報告し、300斛(こく)の穀物(こくもつ)を与えられた。


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殷模(いんぼ)

生没年不詳。徐州(じょしゅう)の人*3。孫権(そんけん)に仕えた校尉(こうい)。

ある時、孫権(そんけん)に罪を問われて処刑されそうになったところを、諸葛瑾(しょかつきん)の言葉によって許された。

脚注

*3この時の諸葛瑾(しょかつきん)の言葉に「私めは殷模(いんぼ)ら共々郷里が壊滅し、生き物が根絶やしになるという事態に遭遇(そうぐう)して、墳墓(ふんぼ)の地を棄(す)て、老弱を引き連れ荒野を分けて、ご教化を慕(した)ってやってまいりました。(以下略)」とあり、ここで言う「郷里の壊滅」とは曹操(そうそう)による徐州(じょしゅう)民の大量虐殺を指すことから、殷模(いんぼ)も徐州(じょしゅう)出身である可能性が高い。


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