正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧④です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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い④(殷)
殷(いん)
殷観・孔休
生没年不詳。荊州主簿として劉備に仕え、別駕従事に昇進した。
劉備が孫権の妹を娶り、極めて親密な間柄となると、孫権は使者を遣わして「協力して蜀(益州)を取ろう」と申し出た。
ある者は「呉が荊州を越えて蜀を支配することは不可能であり、蜀を得ることができるでしょうから、承知の旨を答えるが良い」と主張した。
すると荊州主簿の殷観が進み出て「もし呉の先駆けとなり、進んでは蜀に勝つことができず、退いては呉につけ込まれることにでもなれば、たちまち好機は去ってしまいます。今はただその言う通りに呉の蜀討伐に賛成する一方で『我々は新たに諸郡を支配したところだから、まだ行動を起こすことはできませぬ』と説明なさいませ。呉は思い切って我が領土を越えて勝手に蜀を取ることはしないに違いありません。このように進退についてお計りになれば、呉・蜀より利益を収めることができましょう」と言った。
劉備が殷観の言葉に従ったところ、孫権ははたして計画を中止し、劉備は殷観を別駕従事に昇進させた。
殷基(殷興、殷奥)
生没年不詳。揚州・呉郡・雲陽県(曲阿県)の人。呉の零陵太守・殷礼の子。子に殷巨、殷祐。呉の無難督。
その才能と学識で名を知られ『通語』数十篇*1を著した。
殷基には3人の息子がいたが、名前は殷巨と末息子の殷祐しか伝わっていない。
脚注
*1儒家の書。正史『三国志』の裴松之注にも引用されている。
- 「『通語』十巻、晋の尚書左丞・殷興撰」(『隋志儒家類』)
- 「『通語』十巻、文礼撰、殷奥続」(『旧唐志』)
- 「文礼『通語』十巻、殷興続」(『新唐志』)
など、かなり異同がある。
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殷馗
生没年不詳。幽州・遼東郡の人。天文に詳しい。
桓帝の時代[和平元年(150年)頃]、黄色の星が楚・宋の分野に現れた*2。
殷馗は「50年後に真人[天子(皇帝)となるべき人物]が梁・宋の辺りの地域に出現するに違いなく、その鋭鋒(鋭い勢い)には敵対できぬ」と予言した。
そしておよそ50年が経過し、曹操が袁紹を撃ち破って天下に敵なしとなった。
脚注
*2天の二十八宿(星座)はそれぞれ中国の地域に相対し、その星座に異変があれば、対応する地上の区域に変化が現れるとされた。
殷巨・元大
生没年不詳。揚州・呉郡・雲陽県(曲阿県)の人。父は殷基。弟に殷祐。祖父は呉の零陵太守・殷礼。
有能な人物で、呉の偏将軍に任命されると、一族・郎党を引き連れて夏口に城を築いて守りに当たり、呉が晋(西晋)に平定された後には蒼梧太守(蒼梧・交趾2郡太守)に任命された。
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殷浩・深源
生年不詳〜晋(東晋)の永和12年(356年)没。豫州(予州)・陳郡・長平県の人。父は晋(東晋)の豫章太守・殷羨。若くして名声があり、仕官に応ぜず隠棲していたことから、管仲や諸葛亮に擬えられた。
永和2年(346年)、宰相の司馬昱の招聘を受けて揚州刺史の任を受けると、朝政に参画して安西将軍・桓温と対立。北伐に失敗して庶人に落とされ、失意のまま亡くなった。
桓温は「幼い頃、私と殷浩は共に竹馬に乗って遊んだものだが、私が竹馬を捨てると殷浩はそれを拾って遊んでいた。彼が我の下につくのは当然であろう」と語り、「竹馬の友」の語源となる。
『魏書』劉劭伝の裴松之注に、日食の際に朝礼を取りやめなかった荀彧に対し、朝礼を取りやめた礼として殷浩の名前が出された。
殷興
生没年不詳。呉の天紀3年(279年)に広州で反乱を起こした郭馬の部将(部隊長)。
郭馬は元々合浦太守・脩允配下の私兵の隊長であったが、脩允の死後、兵士たちが分割されて別々の所に配属させられることになり、そのことを不満に思っていた。
郭馬は孫皓が広州の戸籍を調べ直していることを利用して、部将の何典、王族、呉述、殷興らと共謀し、兵士や民衆たちの不安を煽って動揺させると、人数を集めて広州督の虞授を攻め殺した。この時殷興は、郭馬によって広州刺史に任命されている。
殷純
生没年不詳。蜀の大司馬の属。
建安25年(220年)、魏の文帝(文帝)が即位すると、尹黙、譙周らと共に12名の連名で劉備に帝位を勧める上奏文を奉じた。
殷署
生没年不詳。魏の平難将軍。
漢中郡から移動された「元韓遂・馬超配下の兵5千余人」を統率し、扶風太守・趙儼が指揮する関中護軍の一翼を担って、来攻する羌族や反乱を起こした呂並を撃ち破った。
その後、漢中郡の守備増強のため、兵1,200人の移動を指揮したが、突然家族と離別することに不満を持った兵に反乱を起こされ、一時安否不明となる。
建安24年(219年)、曹仁が守る樊城が関羽に包囲され、その救援に徐晃が派遣されたが、徐晃の兵は新たに味方についた兵が多く、関羽と勝敗を争うことは難しかった。
そこで曹操は、将軍の徐商・呂建、続いて殷署・朱蓋ら合計12の屯営の兵を徐晃の下に派遣して関羽を撃ち破った。
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殷登
生没年不詳。冀州・魏郡・内黄県の人。占術師。
熹平5年(176年)、豫州(予州)・沛国・譙県(曹操の故郷)に黄龍が現れた。
光禄大夫の橋玄が太史令の単颺に尋ねると、単颺は「この国には後に王者が興るに違いありません。50年と経たないうちに、再度(黄龍が)出現するはずです」と答えた。
45年後の延康元年(220年)3月、再び譙県に黄龍が現れると、単颺の言葉を覚えていた殷登はこれを魏王・曹丕に報告し、300斛の穀物を与えられた。
殷模
生没年不詳。徐州の人*3。孫権に仕えた校尉。
ある時、孫権に罪を問われて処刑されそうになったところを、諸葛瑾の言葉によって許された。
脚注
*3この時の諸葛瑾の言葉に「私めは殷模ら共々郷里が壊滅し、生き物が根絶やしになるという事態に遭遇して、墳墓の地を棄て、老弱を引き連れ荒野を分けて、ご教化を慕ってやってまいりました。(以下略)」とあり、ここで言う「郷里の壊滅」とは曹操による徐州民の大量虐殺を指すことから、殷模も徐州出身である可能性が高い。
殷祐・慶元
生没年不詳。揚州・呉郡・雲陽県(曲阿県)の人。父は殷基[殷基の第3子(末息子)]。兄に殷巨。祖父は呉の零陵太守・殷礼。
晋(西晋)代に呉郡太守となった。
関連人物
殷礼・徳嗣
生没年不詳。揚州・呉郡・雲陽県(曲阿県)の人。子に殷基、孫に殷巨、殷祐。
微賤(身分が低く卑しいこと)な身分から身を起こし、顧邵(顧雍の長子)に抜擢されて友人となった。若い時から弄れごとは好まず、優れた見識を備えており、若くして郡の役人となって、19歳で呉県の丞の職務を代行する。
孫権が呉王となると、占侯(天象・天候による占い)に巧みなことを買われ、召されて郎中に任命された。趙達に占いの秘術(九宮一算の術)を学ぼうとしたが、叶わなかったと言う。
黄武2年(223年)、張温の強い推薦により張温と共に蜀に派遣された際には、諸葛亮に絶賛された。帰国後は尚書戸曹郎に転任。いくつかの官を歴任して零陵太守まで昇進し、在官のまま亡くなった。
呉の赤烏3年(240年)、前年に魏で幼い曹芳が即位したことを受け、蜀と連合して隴右、襄陽、寿春、青州・徐州への多方面侵攻を上言したが、用いられなかった。
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