正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧⑧呉郡殷氏(殷礼・殷基・殷巨・殷祐)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河南尹氏系図
呉郡殷氏系図
この記事では呉郡殷氏の人物、
についてまとめています。
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い⑥(梓潼尹氏)
第1世代(殷礼)
殷礼・徳嗣
生没年不詳。揚州・呉郡・雲陽県(曲阿県)の人。子に殷基、孫に殷巨、殷祐。
微賤(身分が低く卑しいこと)な身分から身を起こし、顧邵(顧雍の長子)に抜擢されて友人となった。若い時から弄れごとは好まず、優れた見識を備えており、若くして郡の役人となって、19歳で呉県の丞の職務を代行する。
孫権が呉王となると、占侯(天象・天候による占い)に巧みなことを買われ、召されて郎中に任命された。趙達に占いの秘術(九宮一算の術)を学ぼうとしたが、叶わなかったと言う。
黄武2年(223年)、張温の強い推薦により張温と共に蜀に派遣された際には、諸葛亮に絶賛された。帰国後は尚書戸曹郎に転任。いくつかの官を歴任して零陵太守まで昇進し、在官のまま亡くなった。
呉の赤烏3年(240年)、前年に魏で幼い曹芳が即位したことを受け、蜀と連合して隴右、襄陽、寿春、青州・徐州への多方面侵攻を上言したが、用いられなかった。
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第2世代[殷基(殷興、殷奥)]
殷基(殷興、殷奥)
生没年不詳。揚州・呉郡・雲陽県(曲阿県)の人。呉の零陵太守・殷礼の子。子に殷巨、殷祐。呉の無難督。
その才能と学識で名を知られ『通語』数十篇*1を著した。
殷基には3人の息子がいたが、名前は殷巨と末息子の殷祐しか伝わっていない。
脚注
*1儒家の書。正史『三国志』の裴松之注にも引用されている。
- 「『通語』十巻、晋の尚書左丞・殷興撰」(『隋志儒家類』)
- 「『通語』十巻、文礼撰、殷奥続」(『旧唐志』)
- 「文礼『通語』十巻、殷興続」(『新唐志』)
など、かなり異同がある。
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第3世代(殷巨・殷祐)
殷巨・元大
生没年不詳。揚州・呉郡・雲陽県(曲阿県)の人。父は殷基。弟に殷祐。祖父は呉の零陵太守・殷礼。
有能な人物で、呉の偏将軍に任命されると、一族・郎党を引き連れて夏口に城を築いて守りに当たり、呉が晋(西晋)に平定された後には蒼梧太守(蒼梧・交趾2郡太守)に任命された。
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