冲帝・質帝・桓帝と3代に渡って後漢の政治を私物化していた外戚・梁冀を排除することに成功した、桓帝の時代を見ていきましょう。
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権力を握った宦官たち
宦官の権力増大
さて、前回は3代に渡って権力を握った外戚・梁冀を、桓帝が宦官の力を借りて排除することに成功したところまでお話しました。
はい!なんか宦官って、悪いやつらなのかと思ってましたけど、正義の味方に見えてきました(笑)
これでやっと皇帝が自分で政治を行えるようになったんですよね。
そうです。桓帝は単超をはじめとする5人の宦官たちにたくさんの褒美を与えるとともに、子孫を残す事ができない宦官たちに、養子を取って家を継がせることを認めました。
お〜!
確か曹操って、宦官の子孫なんですよね。
この時宦官たちに養子が認められたお陰ですね!
『三国志演義』の主役の1人である曹操はもともと夏侯氏でしたが、曹操の父親である曹嵩が宦官の曹騰の養子になったことで曹姓になりました。
曹操は、このことによって朝廷の中で有利に働くこともありましたが、家柄としては低い扱いを受けていました。
賄賂が横行する朝廷
あれ?
でも、政治の実権は皇帝にあるはずだから、宦官の権力が強まったのはなんでだろう?
皇帝の相談役や命令の伝達役をする中常侍という官職が、宦官の専任になっていたのは覚えていますか?
はい!ちゃんとメモってあります。
ということはつまり、皇帝が命令を出す時や、皇帝に何かを伝えたい時には、宦官を通さなければならないということです。
うんうん、それは分かる。
宦官たちは、皇帝に何かを伝えたがっている人に賄賂を要求したり、気に入らない人の悪口を皇帝に告げ口して追い出しました。
せっかく良い人たちだと思い始めてたのに…
また、自分たちに賄賂をたくさんくれる人に位の高い官職を与えるように皇帝に進言することで、さらに私腹を肥やしていったのです。
なるほど、宦官たちは自分で権力を持つのではなくて、皇帝の権力を利用することで実質やりたい放題だったんですね!
皇帝の権力を奪うことで権勢を誇った外戚と違って、宦官たちは権力を握った皇帝を後ろ盾とすることで、自分たちの地位を確立していきました。
そのため後ろ盾である皇帝が亡くなると、一気に権力を失って外戚に取って代わられることが繰り返されてきたのです。
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反宦官勢力と第一次党錮の禁
宦官の反対勢力「党人」
さて、宦官によって賄賂が横行するようになると、出世をするためには宦官に多額の賄賂を払う必要がありますよね。
では、そのお金はどこから出て来るのでしょう?
お金持ちしか高い位につけないってこと?
それもあるけど、民衆に重税を課して、しぼりとったお金を宦官に貢ぐのさ。
2人とも正解ですよ。こうなってしまうと、真面目に勉強をして役人になろうとしている人たちには大問題ですね。
では、当時の役人の登用制度を簡単に見てみましょう。
郷挙里選
後漢当時の役人の採用方法には「郷挙里選」という制度が採用されていました。
「郷挙里選」というのは、地方の有力者が優秀な人物を推薦する制度のことで、儒教を重視していた後漢の時代には、父母への孝行や心が清く正しいことを意味する「孝廉」という項目が特に重要視されていました。
宦官たちが賄賂を横行させたことで、正常な人材登用に支障が出ていたのです。
また、郷挙里選を行っていた士大夫と呼ばれる豪族・知識人たちは、推薦する人物に賄賂を要求することはありませんでしたが、それなりの謝礼は受け取っていたと思われます。
士大夫たちは宦官勢力の隆盛によって、自分たちの利権を奪われてしまったとも言えます。
そういえば『三国志』でもよく、手柄を立てた部下に「皇帝に上奏しよう」って言ってますね。これ、推薦してるんですね。
まさにそれです!
士大夫たちは、自分たちを清流派、宦官に媚びる人達を濁流派と呼んで公然と批判していました。
宦官たちに任せると、賄賂で出世なんて「清く正しいこと」の正反対の人が役人になってしまいますよね。
実は宦官たちも、そんな清流派の士大夫たちを危険視して「党人」と呼んで警戒していたんですね。
党人とは、本来「志を同じくする仲間」の意味を持つ言葉ですが、共通の理想を持った政敵としての意味合いが込められています。
儒教を正統学問とする高等教育機関である「太学」は、学生数3万人を超えていたと言われており「清流派」の拠点として一大政治勢力となっていました。
第一次党錮の禁
166年、宦官たちはついに党人約200人を捕らえて任官を解き、翌年には、彼らを一生仕官することができない「終身禁錮の刑」にして朝廷から追い出してしまいました。これを「第一次党錮の禁」と言います。
えーっ!
いくら宦官が権力を持っていたからと言って、何もしていないのにそんなことができるの?
もちろんいくら宦官と言えども、何もないところに煙を立てることはできません。
では、「第一次党錮の禁」の発端となった事件を見てみましょう。
第一次党錮の禁の経緯
- 宦官と交際のあった風角師(占い師)の張成が、あらかじめ恩赦の日を占ってから子どもに殺人をさせるという事件が起こる。
- 河南尹の李膺が張成を捕らえて処刑する。
- このことを恨みに思った張成の弟子が、宦官に李膺を訴える。
- 李膺をはじめとする党人約200名が捕らえられ、終身禁錮の刑に処される。
う〜ん、ちょっと分かりづらいかな。
では、少し解説してみましょう。
当時、天災や異民族の侵入、反乱などが頻発したため、桓帝は民衆の不満をそらすために、恩赦を出すことが多かったんです。
うんうん。
宦官からの情報で恩赦が出ることを知っていた張成は、恩赦で刑が軽減されることが分かった上で、子どもに殺人をさせたんですね。
張成のしたことは明らかに犯罪でしょ。
李膺さんは悪くないですよね!
河南尹っていうのがちょっと分からないなぁ。
河南尹というのは、後漢の首都・洛陽がある郡の長官のことです。現在の日本で言うと、東京都知事みたいな役職ですね。
なるほど!
でも弟子にしてみれば、今まで宦官に賄賂を贈ってたんだから、仇を討ってくれ!って感じなんだろうな。
そんな感じでしょうね。
李膺をはじめとする清流派の党人たちを疎ましく思っていた宦官たちにとって、張成の弟子たちが訴え出てきたことは、とても都合が良かったんです。
それで李膺さんにあらぬ罪を着せて、追い出してしまったんですね。
李膺だけではありません。
これを機に清流派の一掃を狙った宦官たちは、桓帝に「李膺が太学の生徒や地方の有力者たちと徒党をなして朝廷を誹謗している」と上奏したんです。
で、宦官の言うことを信じてしまったわけか。桓帝もなかなかのクズだな。
桓帝にとって、宦官たちは「自分に政治の実権を取り戻してくれた恩人」であり、絶大な信頼をしていました。
この頃の宦官たちは、皇帝に自分たちに都合の良い情報を吹き込むことによって反対派を粛清し、莫大な富と権力を手に入れることに成功したのです。
この時期に権勢を振るった宦官の中には、曹操の祖父曹騰もいました。
次回は桓帝の死と、跡を継いだ霊帝の時代についてお話しします。