袁術(えんじゅつ)死後の廬江郡(ろこうぐん)の情勢と孫策(そんさく)の廬江郡(ろこうぐん)侵攻、その後の黄祖(こうそ)との戦いについてまとめています。
「呉」の記事一覧(4 / 5ページ目)
陳瑀が江東進出を狙う。反故にされた袁術討伐の詔勅
建安(けんあん)2年(197年)夏、朝廷(曹操(そうそう))が呂布(りょふ)・陳瑀(ちんう)・孫策(そんさく)らに降(くだ)した袁術(えんじゅつ)討伐の詔勅(しょうちょく)に端を発した、陳瑀(ちんう)と孫策(そんさく)の・・・
孫策の揚州・会稽郡侵攻。孫策が王朗を降伏させ、会稽太守となる
建安(けんあん)元年(196年)8月、揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)を平定して諸県を安定させた孫策(そんさく)は、次の目標を揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)に定めました。この「孫策(そんさく)の会稽郡(かい・・・
孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る
孫策(そんさく)の江東(こうとう)平定の前半戦。袁術(えんじゅつ)の下を離れた孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を破り、呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)を逃亡させるまでについてまとめています。