しん前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)・恵帝けいてい文帝ぶんてい]時代の匈奴きょうど頭曼とうまん単于ぜんう冒頓ぼくとつ単于ぜんうについてまとめています。

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匈奴(秦・前漢時代①)頭曼単于

匈奴(前漢時代)

匈奴きょうど前漢ぜんかん時代)

秦の北伐【秦】

東周とうしゅうの末期、衣冠束帯いかんそくたい・礼儀文物のある戦国せんごく諸侯しょこうは7ヶ国を数え、その内、えんちょうしんの3国が匈奴きょうどと国境を接していましたが、ちょう将軍しょうぐん李牧りぼくが守備していた間、匈奴きょうどはあえてちょうの国境を越えて侵入しようとはしませんでした。

その後 しんが6ヶ国を滅ぼすと、始皇帝しこうてい蒙恬もうてんに数十万の軍勢をひきいさせ、北方のたせて河南かなんオルドス地方)の地のことごとくを手に入れ、黄河こうが沿ってとりでをつくり、黄河こうがに面して44の県城をきずいて罪人をうつし、これらの県城を守備させました。

また九原きゅうげんから雲陽うんよう*1まで直通の道を開き、臨洮りんとう*2から遼東りょうとうに至るまで1万余里(約4,300km)にわたってけわしい山を利用して境界とし、谿谷けいこくを利用して塹壕ざんごうとしてつくろえるところはつくろい、黄河こうがを渡って陽山ようざん北仮ほくか*3一帯を占拠します。しん始皇帝しこうてい33年(紀元前214年)のことです。

脚注

*1九原きゅうげん綏遠すいえん五原ごげん雲陽うんよう陝西せんせい大荔たいれい

*2甘粛かんしゅくの西部。

*3陽山ようざん綏遠すいえん高闕こうけつの東。北仮ほくか蒙古モンゴル烏喇特ウラトの西北。

匈奴の移住と帰還【秦】

当時、東胡とうこは勢いが強く月氏国げっしこくもまた国力が盛んでした。一方、匈奴きょうど単于ぜんう頭曼とうまんしんに勝てず、北に移住します。

その10有余年後[しん始皇帝しこうてい37年(紀元前210年)]、蒙恬もうてんが死に、諸侯しょこうしんそむいて中国が乱れると、しんによって国境に移住させられていた者たちはみな離反して去りました。

これにより匈奴きょうどは不安がなくなったため、また次第に黄河こうがを渡り南下して故塞こさい(旧来の城塞)を中国(しん)との境界とするようになります。


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冒頓単于

太子を廃位される【秦】

当時、単于ぜんう頭曼とうまん)には太子たいしがあり、名前を冒頓ぼくとつと言いました。

ですが、のち単于ぜんう頭曼とうまん)が寵愛ちょうあいする閼氏あつし*4に少子(末子)が生まれると、頭曼とうまんは「冒頓ぼくとつを廃して少子(末子)を太子たいしに立てたい」と思うようになります。

そこで頭曼とうまんは(冒頓ぼくとつき者にしようと思い)、冒頓ぼくとつ月氏国げっしこくへの人質とした上で月氏国げっしこくを急擊しました。

これを受け、月氏国げっしこくは人質の冒頓ぼくとつを殺害しようとしますが、冒頓ぼくとつは良馬を盗んで(匈奴きょうどに)逃げ帰ります。

すると頭曼とうまんはこれを「勇壮である」とし、冒頓ぼくとつを「1万騎の将」としました。

脚注

*4単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

冒頓が自ら単于に立つ【秦】

冒頓ぼくとつ鳴鏑めいてき鏑矢かぶらや)を作って部下に騎射きしゃの訓練をほどこすと、「(わしが)鳴鏑めいてきたものを、続いてない者は斬る」と命じました。

そこで冒頓ぼくとつは部下を連れて狩猟に出掛け、自分が鳴鏑めいてきで射たものをない者がいると、命令通りこれを斬りました。

また、冒頓ぼくとつ鳴鏑めいてきで自分の良馬をったが、左右に従う者が良馬をなかったので、冒頓ぼくとつどころにこれを斬りてます。

しばらくして、また冒頓ぼくとつ鳴鏑めいてきで自分の愛妻をると、左右に従う者の内、ある者はすこぶる恐れてようとしなかったので、冒頓ぼくとつはまたこれを斬りました。

そして、その後しばらくして冒頓ぼくとつが狩猟に出掛け、鳴鏑めいてき単于ぜんう頭曼とうまん)の良馬をると、左右に従う者たちはみなこれをました。


こうして左右に従う者たちを意のままにもちいることができるようになったことを知った冒頓ぼくとつは、父の単于ぜんう頭曼とうまんに従って狩猟に出掛けた際、鳴鏑めいてき頭曼とうまんると、冒頓ぼくとつの左右に従う者たちもみな続いて鳴鏑めいてき頭曼とうまんを殺害しました。

その後、冒頓ぼくとつは自分の後母(継母ままはは)と異母弟、自分に服従しない大臣のことごとくを誅殺ちゅうさつし、みずから立って単于ぜんうとなりました。

東胡の要求【秦】

当時盛強であった東胡とうこは、冒頓ぼくとつが父を殺害してみずか単于ぜんうに立ったことを聞くと、冒頓ぼくとつに使者をつかわして「頭曼とうまんが所有していた千里馬せんりばと号する名馬をもらい受けたい」と申し入れました。

冒頓ぼくとつが群臣に意見を求めると、群臣たちはみな「千里馬せんりば匈奴きょうどの宝馬です。与えてはなりません」と反対しましたが、冒頓ぼくとつは「他人と国を隣り合うからには、そのよしみとしてたかが馬の1頭などしかろうか?」と言って、ついに東胡とうこ千里馬せんりばを与えました。

すると東胡とうこは「冒頓ぼくとつ東胡とうこおそれている」と思い、しばらくしてまた使者をつかわすと「単于ぜんう冒頓ぼくとつ)の閼氏あつし*4の1人をもらい受けたい」と申し入れます。

冒頓ぼくとつがまた左右の者に意見を求めると、左右の者たちはみな怒って「東胡とうこの無道は閼氏あつし*4を求めるに至ったっ!どうかこれをたせてください」と言いましたが、冒頓ぼくとつは「他人と国を隣り合うからには、そのよしみとしてたかが女1人などしかろうか?」と言って、ついに寵愛ちょうあいする閼氏あつし*4の1人を東胡とうこに与えました。

脚注

*4単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

冒頓単于の覚醒【秦】

ここに至って東胡王とうこおうはいよいよ驕慢きょうまんとなり、ついに西方(匈奴きょうど)に侵入します。

匈奴きょうど東胡とうこの中間地点には、千余里(約430km)にわたって住民がいないてられた不毛の地(棄地きち)があり、両国はその国境のはしにそれぞれ甌脱おうだつ*5を作っていました。

そして、東胡とうこが使者をつかわして「匈奴きょうどが境界の甌脱おうだつ*5の外側の棄地きちには立ち入らないように。が方でこれを領有したいと思う」と申し出てくると、冒頓ぼくとつはまた群臣に意見を求めます。

これにある者が「それは棄地きちですから、与えても良いと存じます」と言うと、冒頓ぼくとつは大いに怒り「土地は国家の基本である。どうして他人に与えることができようかっ!」と言って、「与えても良い」と言った者たちをみな斬りました。

冒頓ぼくとつは馬に乗り国中に命令を発して「おくれる者は斬る」と宣言し、ついに東方の東胡とうこを襲擊します。東胡とうこ冒頓ぼくとつを軽んじて防備をおこたっていたので、冒頓ぼくとつ東胡とうこの軍を大いに破って東胡王とうこおうを滅ぼすと、その民と家畜を捕虜にしました。

そして帰還した冒頓ぼくとつは、西に月氏国げっしこくって敗走させ、南に河南オルドス楼煩ろうはん白羊はくようの2おうの国を併合へいごうし、しんが派遣した蒙恬もうてんによって奪われた匈奴きょうどの土地のことごとくを再び取り戻します。

こうしてもと河南オルドスの城塞をかんとの国境の関所とし、さらに朝那ちょうな膚施ふし*6に至り、ついにえんだいに侵入しました。


当時、かん劉邦りゅうほう)と項羽こううは互いに離れて中国は内戦の只中ただなかであったため、冒頓ぼくとつは国力を強化することができ、弓兵30余万人をようするようになりました。

その後冒頓ぼくとつは、北方の渾窳こんゆ屈射くつせき丁零ていれい隔昆かくこん新䔣しんり*7の国を征服したので、匈奴きょうどの貴人(貴族)・大臣たちはみな冒頓ぼくとつ単于ぜんうに心服し、冒頓ぼくとつを「賢」としました。

脚注

*5匈奴きょうど斥侯せっこう用に作った国境の土室。2つの国をへだてる緩衝かんしょう地帯または中立地帯。

*6朝那ちょうな甘粛かんしゅく平涼へいりょうの西北、膚施ふし陝西せんせい延安えんあん

*7ちくま学芸文庫がくげいぶんこ漢書かんじょ』7より。原文:後北服渾窳、屈射、丁零、隔昆、龍新赚之國。

白登山の戦い【前漢:高祖(劉邦)】

かんが天下を平定した当初、かん韓王信かんおうしんだいうつして馬邑ばゆう山西さんせい)にみやこさせると、匈奴きょうどはこれを大いに攻め、馬邑ばゆうを包囲して韓王信かんおうしんを降伏させました。そして韓王信かんおうしんを得た匈奴きょうどが南の句注山こうしゅさんを越えて太原たいげんを攻め、晋陽しんようの城下に至ると、高帝こうてい劉邦りゅうほう)はみずから兵をひきいて迎撃に親征します。

当時は冬で寒さ雨雪が厳しく、10人中2、3人の兵卒が凍傷にかかって指を失う有り様でした。

そこで冒頓ぼくとつは、精兵をかくして体がいちじるしく弱い兵を見せ、敗走したと見せかけてかん兵を誘うと、かん兵は全兵を出し尽くし歩兵32万をもって北方に冒頓ぼくとつを追撃しました。まず高帝こうてい劉邦りゅうほう)が平城へいじょう*8に至ると、冒頓ぼくとつはまだ後続の歩兵が到着しないうちに精兵30余万騎をはなち、白登山はくとさんにおいて高帝こうてい劉邦りゅうほう)を包囲します。

包囲すること7日、かん兵は中外で互いに救援することもほしいい(兵糧)を送り合うこともできませんでした。そこで高帝こうてい劉邦りゅうほう)は、秘かに使者を派遣して閼氏あつし*4に手厚い贈物をおくると、閼氏あつし*4冒頓ぼくとつに次のように言いました。

「お2人ともお互いに苦しめ合うものではありません。今 かんの地を得ても、結局、単于あなたさまはそこに住むことはできません。漢主かんしゅ劉邦りゅうほう)にも(彼を助ける)神がいることにお気づきください」

ちょうどこの時、冒頓ぼくとつ韓王信かんおうしんの将・王黄おうこう趙利ちょうりと合流する予定でしたが、いつまでっても彼らの兵が来ないことから「かん通謀つうぼうしているのではないか」と疑っていたところでもあり、閼氏あつし*4の言葉を受け入れて包囲の一角をくことにします。

そこで高帝こうてい劉邦りゅうほう)は、全士卒に「矢をつがえ外に向けて弓を引きしぼる」ように命じると、そのまま包囲がけた一角から真っぐに脱出し、味方の大軍と合流することができました。

その後、冒頓ぼくとつは兵を退いて去り、かんもまた兵を退くと、劉敬りゅうけいを派遣して和親条約を結びました。

脚注

*4単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*8山西さんせい大同だいどうの東。

漢将の投降【前漢:高祖(劉邦)】

その後、韓王信かんおうしん匈奴きょうど将軍しょうぐんとなり、また趙利ちょうり王黄おうこうらはたびたび和親条約を破って代郡だいぐん鴈門郡がんもんぐん雲中郡うんちゅうぐんに侵略しました。

かんの10年(紀元前197年)、だい宰相さいしょう陳豨ちんきかんそむき、淮陰侯わいいんこう韓信かんしん通謀つうぼうしてだいつと、かん樊噲はんかいを派遣してこれをち、再び代郡だいぐん鴈門郡がんもんぐん雲中郡うんちゅうぐんの諸郡県を取り戻しましたが、とりでの外には出ませんでした。

また、当時は漢将かんしょうがしばしば軍をひきいて匈奴きょうどに投降していたため、冒頓ぼくとつは常に往来して代郡だいぐんを侵略しました。

これをうれえた高祖こうそ劉邦りゅうほう)は、劉敬りゅうけいを派遣して宗室の翁主おうしゅ諸王しょおうむすめ)を閼氏あつし*4として単于ぜんうめあわせ、また季節ごとに一定量のまわたきぬ・酒・食物を匈奴きょうどに与えて、兄弟のちぎりを結んで和親したので、冒頓ぼくとつもしばらくは侵略をやめました。

その後、燕王えんおう盧綰ろわんがまたかんそむいてその一党・1万人をひきいて匈奴きょうどに投降してくると、(匈奴きょうどはまた)上谷郡じょうこくぐん以東に往来してかんを苦しめるようになり、高祖こうそ劉邦りゅうほう)の時代は終わりました。

脚注

*4単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

高后への書簡【前漢:恵帝】

かん恵帝けいてい高后こうこう*9の時代になると、冒頓ぼくとつは次第に驕慢きょうまんになり、使者を派遣して高后こうこう*9に次のような書簡を送りました。

孤僨こふんの君よ、(私は)沮沢そたく(水はけの悪い土地)の中に生まれ、平野牛馬の域に長じ、しばしば辺境に至って中国に遊ぶことを願わん。陛下(恵帝けいてい)は国君として独立し、(あなたは)孤僨こふん独居どっきょの身なり。両主楽しからず、もってみずかたのしむなし。願わくは我が有するところをもって、その無き所にうつさん*10

これに高后こうこう*9は大いに怒り、丞相じょうしょうへい陳平ちんぺい)と樊噲はんかい季布きふらをして「使者を斬り、出兵して匈奴きょうどつ」ことを評議します。

そこで樊噲はんかいが「わたくしに10万の兵をお与えくだされば、匈奴きょうどじゅう蹂躙じゅうりんしてみせましょう」と言い、また季布きふうたところ、季布きふは、


樊噲はんかいを斬るべしっ!以前、陳豨ちんきだいそむいた時、かん兵は32万、樊噲はんかい上将軍じょうしょうぐんでしたが、匈奴きょうど高帝こうてい劉邦りゅうほう)を平城へいじょう*8に包囲した時に樊噲はんかいは、その包囲をくことができませんでした。

天下はこれを歌って『平城へいじょう*8もと、またまことに苦しむっ!7日食わずして石弓いしゆみ)を張ることもあたわず』と言っています。

今、その歌吟かぎんの声もいまえず、戦傷者もやっとつことができたばかりであるのに、樊噲はんかいは天下を動揺どうようさせようとして『10万の兵をひきいて蹂躙じゅうりんする』などと妄言もうげんするのは、これこそ面謾めんまん(面前であざむくこと)です。

ともあれ夷狄いてき禽獣きんじゅう(鳥獣)のごときものですから、められたとしても喜ぶには値せず、けなされたとしても怒るほどのことではありません」


と言いました。

すると高后こうこう*9は「よろしい」と言い、大謁者だいえっしゃ張沢ちょうたくに命じて次のように返答します。

単于ぜんう冒頓ぼくとつ)は弊邑わがくにを忘れず、書をたまわれましたことに恐懼きょうくしております。恐れながら考えますに、私は年老い気力もおとろえており、髪や歯も抜け落ち歩くこともままなりません。単于ぜんうあやまり聴くこと、もってみずから汚すに足らず*11弊邑わがくにに罪はありません、どうかおゆるしください。秘かに御車ぎょしゃ2じょうと車馬2*12常駕じょうがとして奉じます」

冒頓ぼくとつは返答の書を受け取ると、また使者を派遣して、

「中国の儀礼を知りませんでした。陛下にはさいわいにしてこれをおゆるしくださらんことを」

と言って謝罪し、馬を献上してついに和親しました。

脚注

*8山西さんせい大同だいどうの東。

*9呂太后りょたいこう高帝こうてい劉邦りゅうほう)の皇后こうごう]。

*10孤僨こふんは「孤独で弱く自立できない」こと。書簡の内容を要約すると「未亡人となってさびしいだろうから、私でよければなぐさめてやろう」となる。
これをもって「冒頓ぼくとつ驕慢きょうまんになった」とされているが、かん高祖こうそ劉邦りゅうほう)]と匈奴きょうど冒頓ぼくとつ)は和親の際に兄弟のちぎりを結んでいる。匈奴きょうどには「親兄弟が死んだ場合、その妻をめとる」風習があり、冒頓ぼくとつに悪意はなかったのかもしれない。

*11ちくま学芸文庫がくげいぶんこ漢書かんじょ』7より。原文:「單于過聽,不足以自汙」

*12は4頭立ての馬車。車馬2は4頭立ての馬車を引く馬2組、8頭。

右賢王が河南に侵入する【前漢:文帝】

文帝ぶんていが即位するとかん匈奴きょうどはまた和親しましたが、文帝ぶんていの3年(紀元前177年)夏、匈奴きょうど右賢王ゆうけんおう河南オルドスに入居して危害を加えました。

そこで文帝ぶんていみことのりを下し、


かん匈奴きょうど昆弟こんてい(兄弟)となって辺境を侵害しないことを約束した。ゆえにはなはだ手厚く贈り物をしていたのである。

今、右賢王ゆうけんおうがその国(匈奴きょうど)を離れ、軍勢をひきいて河南オルドスの地にるのは異常なことだ。(右賢王ゆうけんおうは)往来してとりでに入ると吏卒りそつを捕らえて殺し、上郡じょうぐん保塞ほうさい蛮夷ばんい*13駆逐くちくしておかし、元の領内にられないようにした。

辺吏へんり(辺境の役人)をおかみにじり、盗むようなはなは傲慢ごうまん無道な行いは、約条にそむく行為である。辺吏へんり(辺境の役人)と車騎8万を発して高奴県こうどけんに向かわせ、丞相じょうしょう灌嬰かんえいを将とし、右賢王ゆうけんおうて」


と命じました。

右賢王ゆうけんおうとりでを出て逃走すると、文帝ぶんてい太原郡たいげんぐん行幸ぎょうこうし(て匈奴きょうど征伐を行おうとし)ますが、ちょうどその時、済北王せいほくおうそむいたために文帝ぶんていは帰還し、丞相じょうしょう灌嬰かんえい)は匈奴きょうど)の兵への攻撃をめました。

漢との関係修復と冒頓の死【前漢:文帝】

単于ぜんう冒頓ぼくとつ)の書簡

その翌年[文帝ぶんていの4年(紀元前176年)]、単于ぜんう冒頓ぼくとつ)はかんに次のような書簡を送ります。


「天の立てたる匈奴きょうど大単于だいぜんうが、つつしんで皇帝にご挨拶あいさつ申し上げます。

以前、皇帝が和親のことを言われ、書簡の趣旨しゅしって共に懇親こんしんを結びましたが、かん辺吏へんり(辺境の役人)が右賢王ゆうけんおうあなどって(領域を)おかしたため、右賢王ゆうけんおうは(私に)うかがいも立てず、後義こうぎ盧侯ろこう難支なんしらのはかりごとき入れて漢吏かんりうらみ合い、和親の約条を破って(私たち)昆弟こんてい(兄弟)の親密な関係を悪化させました。

皇帝より再度讓書じょうしょ(非難の手紙)が届きましたので、使者をつかわし書簡をもってかんに報告しましたが、使者が戻らないばかりかかんの使者が派遣されて来ることもありませんでした。それゆえにかんと隣国(匈奴きょうど)は不和となったのです。

今、(私は)少吏しょうりが約条を破ったかど右賢王ゆうけんおうを罰し、西方の月氏国げっしこくつように命じました。そして、天の福・優良な吏卒りそつ・騎馬の強さによってえびす月氏国げっしこくを滅ぼし、そのことごとくを斬殺、降伏させて平定したのです。

また、楼蘭国ろうらんこく鄯善国ぜんぜんこく)・烏孫国うそんこく呼揭国こけつこくおよびその周辺の26国はみなすでに匈奴きょうど(の領土)となり、弓を引くもろもろの民をあわせて一家となし、北州ほくしゅうは平定しました。

願わくはいくさをやめ兵を休めて馬を養い、怨恨えんこんを忘れ和親の約条を回復し、もって辺境の民をやすんじ、以前のように年少者には成長をげさせ、老齢の者には安住させて、代々泰平を楽しみたいと思っています。

ですが、いまだ皇帝のご厚意を得ることができないため、郎中ろうちゅう係虖浅けいこせんに命じ、この書簡を奉じてうと共に、ここに橐佗らくだ駱駝らくだ)1頭・騎馬2頭・(車馬)2を献上いたします。

皇帝には、もし匈奴きょうどが近くのとりでに近づくことを望まれないならば、しばらく吏民にみことのりして居所を遠ざからせ、また(匈奴きょうどの)使者が到着したなら、拘留こうりゅうすることなくすぐに帰還させていただきたく思います」


使者は6月中に新望しんぼうの地に至り、書簡が届くと、かんは「征伐と和親のどちらに利があるか」を評議します。すると公卿こうけいたちはみな、

単于ぜんうは新たに月氏国げっしこくを破ったばかりで勝ちに乗じており、これをつべきではありません。またもし匈奴きょうどの地を得たとしても、沼沢しょうたくや塩分の多い不毛の地ですから、居住することもできません。和親するのがよろしいと存じます」

と言い、かんはこれを許しました。

脚注

*13城塞を保守する異民族。本来かんに属し、かんのために辺境のとりでを守った。

前漢ぜんかん文帝ぶんていの書簡

文帝ぶんていの6年(紀元前174年)、かん匈奴きょうどに書簡を送って言いました。


「皇帝がつつしんで匈奴きょうど大単于だいぜんう冒頓ぼくとつ)にう、つつがなきや。

係虖浅けいこせんによってちん*14に送られた書簡には『願わくはいくさをやめ兵を休めて馬を養い、怨恨えんこんを忘れ和親の約条を回復し、もって辺境の民をやすんじ代々泰平を楽しみたい』とあるが、ちん*14はこれをはなはよろこびとする。

これはいにしえ聖王せいおうこころざしである。かん匈奴きょうどと兄弟のちぎりを結んだからこそ、単于ぜんう冒頓ぼくとつ)にははなはだ手厚く贈り物をしたのである。

約条にそむいて兄弟の親密な関係を悪化させるのは、常に匈奴きょうどの方であるが、右賢王ゆうけんおうの件はすでに大赦たいしゃ前のことゆえ、(右賢王ゆうけんおうを)深くお責めにならぬように。そしてもし単于ぜんう冒頓ぼくとつ)がこの書簡の意趣いしゅって諸吏しょりに明示し、約条にそむかず信義をたもたれるのならば、つつしんで単于ぜんう冒頓ぼくとつ)の書簡の通りにしたい。

使者が言うには『単于ぜんう冒頓ぼくとつ)はみずから兵をひきいて国をあわせた功があり、はなはだ兵事に苦労された』とのこと。

ここに服繡袷綺ふくしゅうきょうきの衣*15長襦ちょうじゅ長襦袢ながじゅばん・肌着)・錦袍きんぽうにしきの上衣)各1枚、比疏ひそ比余ひよ・金属の髪飾り)1つ、黃金飭具帯おうごんちょくぐたい(黄金の飾りがついたおび)1本、黃金犀毗おうごんさいひ(黄金製の帯留おびどめ)1つ、あやぎぬ10匹、にしき20匹、赤綈せきてい(赤色の厚手の絹織物)・緑繒りょくそう(緑色の薄手の絹織物)各40匹を中大夫ちゅうたいふ謁者令えっしゃれいけんに持たせて単于ぜんう冒頓ぼくとつ)に贈る」


その後間もなく冒頓ぼくとつが亡くなると、子の稽粥けいいくが立って老上ろうじょう単于ぜんうと号しました。

脚注

*14皇帝・天皇のみがもちいる一人称。この場合は文帝ぶんてい

*15表に刺繍ししゅうほどこされ、裏があやぎぬ袷衣あわせぎぬ


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【後漢・三国時代の異民族】目次