秦(しん)・前漢(ぜんかん)[高祖こうそ(劉邦りゅうほう)・恵帝(けいてい)・文帝(ぶんてい)]時代の匈奴(きょうど)、頭曼(とうまん)単于(ぜんう)・冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)についてまとめています。

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匈奴(秦・前漢時代①)頭曼単于

匈奴(前漢時代)

匈奴(きょうど)(前漢(ぜんかん)時代)

秦の北伐【秦】

東周(とうしゅう)の末期、衣冠束帯(いかんそくたい)・礼儀文物のある戦国(せんごく)諸侯(しょこう)は7ヶ国を数え、その内、燕(えん)・趙(ちょう)・秦(しん)の3国が匈奴(きょうど)と国境を接していましたが、趙(ちょう)の将軍(しょうぐん)・李牧(りぼく)が守備していた間、匈奴(きょうど)はあえて趙(ちょう)の国境を越えて侵入しようとはしませんでした。

その後 秦(しん)が6ヶ国を滅ぼすと、始皇帝(しこうてい)は蒙恬(もうてん)に数十万の軍勢を率(ひき)いさせ、北方の胡(こ)を擊(う)たせて河南(かなん)(オルドス地方)の地の悉(ことごと)くを手に入れ、黄河(こうが)に沿(そ)って塞(とりで)をつくり、黄河(こうが)に面して44の県城を築(きず)いて罪人を徙(うつ)し、これらの県城を守備させました。

また九原(きゅうげん)から雲陽(うんよう)*1まで直通の道を開き、臨洮(りんとう)*2から遼東(りょうとう)に至るまで1万余里(約4,300km)にわたって険(けわ)しい山を利用して境界とし、谿谷(けいこく)を利用して塹壕(ざんごう)として繕(つくろ)えるところは繕(つくろ)い、黄河(こうが)を渡って陽山(ようざん)と北仮(ほくか)*3一帯を占拠します。秦(しん)の始皇帝(しこうてい)33年(紀元前214年)のことです。

脚注

*1九原(きゅうげん)は綏遠(すいえん)・五原(ごげん)。雲陽(うんよう)は陝西(せんせい)・大荔(たいれい)。

*2甘粛(かんしゅく)の西部。

*3陽山(ようざん)は綏遠(すいえん)・高闕(こうけつ)の東。北仮(ほくか)は蒙古(モンゴル)・烏喇特(ウラト)の西北。

匈奴の移住と帰還【秦】

当時、東胡(とうこ)は勢いが強く月氏国(げっしこく)もまた国力が盛んでした。一方、匈奴(きょうど)の単于(ぜんう)・頭曼(とうまん)は秦(しん)に勝てず、北に移住します。

その10有余年後[秦(しん)の始皇帝(しこうてい)37年(紀元前210年)]、蒙恬(もうてん)が死に、諸侯(しょこう)が秦(しん)に叛(そむ)いて中国が乱れると、秦(しん)によって国境に移住させられていた者たちはみな離反して去りました。

これにより匈奴(きょうど)は不安がなくなったため、また次第に黄河(こうが)を渡り南下して故塞(こさい)(旧来の城塞)を中国(秦(しん))との境界とするようになります。


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冒頓単于

太子を廃位される【秦】

当時、単于(ぜんう)(頭曼(とうまん))には太子(たいし)があり、名前を冒頓(ぼくとつ)と言いました。

ですが、後(のち)に単于(ぜんう)(頭曼(とうまん))が寵愛(ちょうあい)する閼氏(あつし)*4に少子(末子)が生まれると、頭曼(とうまん)は「冒頓(ぼくとつ)を廃して少子(末子)を太子(たいし)に立てたい」と思うようになります。

そこで頭曼(とうまん)は(冒頓(ぼくとつ)を亡(な)き者にしようと思い)、冒頓(ぼくとつ)を月氏国(げっしこく)への人質とした上で月氏国(げっしこく)を急擊しました。

これを受け、月氏国(げっしこく)は人質の冒頓(ぼくとつ)を殺害しようとしますが、冒頓(ぼくとつ)は良馬を盗んで(匈奴(きょうど)に)逃げ帰ります。

すると頭曼(とうまん)はこれを「勇壮である」とし、冒頓(ぼくとつ)を「1万騎の将」としました。

脚注

*4単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

冒頓が自ら単于に立つ【秦】

冒頓(ぼくとつ)は鳴鏑(めいてき)(鏑矢(かぶらや))を作って部下に騎射(きしゃ)の訓練を施(ほどこ)すと、「(儂(わし)が)鳴鏑(めいてき)で射(い)たものを、続いて射(い)ない者は斬る」と命じました。

そこで冒頓(ぼくとつ)は部下を連れて狩猟に出掛け、自分が鳴鏑(めいてき)で射たものを射(い)ない者がいると、命令通りこれを斬りました。

また、冒頓(ぼくとつ)は鳴鏑(めいてき)で自分の良馬を射(い)ったが、左右に従う者が良馬を射(い)なかったので、冒頓(ぼくとつ)は立(た)ち所(どころ)にこれを斬り棄(す)てます。

しばらくして、また冒頓(ぼくとつ)が鳴鏑(めいてき)で自分の愛妻を射(い)ると、左右に従う者の内、ある者は頗(すこぶ)る恐れて射(い)ようとしなかったので、冒頓(ぼくとつ)はまたこれを斬りました。

そして、その後しばらくして冒頓(ぼくとつ)が狩猟に出掛け、鳴鏑(めいてき)で単于(ぜんう)(頭曼(とうまん))の良馬を射(い)ると、左右に従う者たちはみなこれを射(い)ました。


こうして左右に従う者たちを意のままに用(もち)いることができるようになったことを知った冒頓(ぼくとつ)は、父の単于(ぜんう)・頭曼(とうまん)に従って狩猟に出掛けた際、鳴鏑(めいてき)で頭曼(とうまん)を射(い)ると、冒頓(ぼくとつ)の左右に従う者たちもみな続いて鳴鏑(めいてき)を射(い)て頭曼(とうまん)を殺害しました。

その後、冒頓(ぼくとつ)は自分の後母(継母(ままはは))と異母弟、自分に服従しない大臣の悉(ことごと)くを誅殺(ちゅうさつ)し、自(みずか)ら立って単于(ぜんう)となりました。

東胡の要求【秦】

当時盛強であった東胡(とうこ)は、冒頓(ぼくとつ)が父を殺害して自(みずか)ら単于(ぜんう)に立ったことを聞くと、冒頓(ぼくとつ)に使者を遣(つか)わして「頭曼(とうまん)が所有していた千里馬(せんりば)と号する名馬を貰(もら)い受けたい」と申し入れました。

冒頓(ぼくとつ)が群臣に意見を求めると、群臣たちはみな「千里馬(せんりば)は匈奴(きょうど)の宝馬です。与えてはなりません」と反対しましたが、冒頓(ぼくとつ)は「他人と国を隣り合うからには、その誼(よしみ)としてたかが馬の1頭など惜(お)しかろうか?」と言って、ついに東胡(とうこ)に千里馬(せんりば)を与えました。

すると東胡(とうこ)は「冒頓(ぼくとつ)は東胡(とうこ)を畏(おそ)れている」と思い、しばらくしてまた使者を遣(つか)わすと「単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))の閼氏(あつし)*4の1人を貰(もら)い受けたい」と申し入れます。

冒頓(ぼくとつ)がまた左右の者に意見を求めると、左右の者たちはみな怒って「東胡(とうこ)の無道は閼氏(あつし)*4を求めるに至ったっ!どうかこれを擊(う)たせてください」と言いましたが、冒頓(ぼくとつ)は「他人と国を隣り合うからには、その誼(よしみ)としてたかが女1人など惜(お)しかろうか?」と言って、ついに寵愛(ちょうあい)する閼氏(あつし)*4の1人を東胡(とうこ)に与えました。

脚注

*4単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

冒頓単于の覚醒【秦】

ここに至って東胡王(とうこおう)はいよいよ驕慢(きょうまん)となり、ついに西方(匈奴(きょうど))に侵入します。

匈奴(きょうど)と東胡(とうこ)の中間地点には、千余里(約430km)にわたって住民がいない見(み)棄(す)てられた不毛の地(棄地(きち))があり、両国はその国境の端(はし)にそれぞれ甌脱(おうだつ)*5を作っていました。

そして、東胡(とうこ)が使者を遣(つか)わして「匈奴(きょうど)は我(わ)が境界の甌脱(おうだつ)*5の外側の棄地(きち)には立ち入らないように。吾(わ)が方でこれを領有したいと思う」と申し出てくると、冒頓(ぼくとつ)はまた群臣に意見を求めます。

これにある者が「それは棄地(きち)ですから、与えても良いと存じます」と言うと、冒頓(ぼくとつ)は大いに怒り「土地は国家の基本である。どうして他人に与えることができようかっ!」と言って、「与えても良い」と言った者たちをみな斬りました。

冒頓(ぼくとつ)は馬に乗り国中に命令を発して「後(おく)れる者は斬る」と宣言し、ついに東方の東胡(とうこ)を襲擊します。東胡(とうこ)は冒頓(ぼくとつ)を軽んじて防備を怠(おこた)っていたので、冒頓(ぼくとつ)は東胡(とうこ)の軍を大いに破って東胡王(とうこおう)を滅ぼすと、その民と家畜を捕虜にしました。

そして帰還した冒頓(ぼくとつ)は、西に月氏国(げっしこく)を擊(う)って敗走させ、南に河南(オルドス)の楼煩(ろうはん)・白羊(はくよう)の2王(おう)の国を併合(へいごう)し、秦(しん)が派遣した蒙恬(もうてん)によって奪われた匈奴(きょうど)の土地の悉(ことごと)くを再び取り戻します。

こうして故(もと)の河南(オルドス)の城塞を漢(かん)との国境の関所とし、さらに朝那(ちょうな)・膚施(ふし)*6に至り、ついに燕(えん)・代(だい)に侵入しました。


当時、漢(かん)(劉邦(りゅうほう))と項羽(こうう)は互いに離れて中国は内戦の真(ま)っ只中(ただなか)であったため、冒頓(ぼくとつ)は国力を強化することができ、弓兵30余万人を擁(よう)するようになりました。

その後冒頓(ぼくとつ)は、北方の渾窳(こんゆ)・屈射(くつせき)・丁零(ていれい)・隔昆(かくこん)・新䔣(しんり)*7の国を征服したので、匈奴(きょうど)の貴人(貴族)・大臣たちはみな冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)に心服し、冒頓(ぼくとつ)を「賢」としました。

脚注

*5匈奴(きょうど)が斥侯(せっこう)用に作った国境の土室。2つの国を隔(へだ)てる緩衝(かんしょう)地帯または中立地帯。

*6朝那(ちょうな)は甘粛(かんしゅく)・平涼(へいりょう)の西北、膚施(ふし)は陝西(せんせい)・延安(えんあん)。

*7ちくま学芸文庫(がくげいぶんこ)『漢書(かんじょ)』7より。原文:後北服渾窳、屈射、丁零、隔昆、龍新赚之國。

白登山の戦い【前漢:高祖(劉邦)】

漢(かん)が天下を平定した当初、漢(かん)が韓王信(かんおうしん)を代(だい)に徙(うつ)して馬邑(ばゆう)(山西(さんせい))に都(みやこ)させると、匈奴(きょうど)はこれを大いに攻め、馬邑(ばゆう)を包囲して韓王信(かんおうしん)を降伏させました。そして韓王信(かんおうしん)を得た匈奴(きょうど)が南の句注山(こうしゅさん)を越えて太原(たいげん)を攻め、晋陽(しんよう)の城下に至ると、高帝こうてい(劉邦りゅうほう)は自みずから兵を率ひきいて迎撃に親征します。

当時は冬で寒さ雨雪が厳しく、10人中2、3人の兵卒が凍傷にかかって指を失う有り様でした。

そこで冒頓(ぼくとつ)は、精兵を匿(かく)して体が著(いちじる)しく弱い兵を見せ、敗走したと見せかけて漢(かん)兵を誘うと、漢(かん)兵は全兵を出し尽くし歩兵32万をもって北方に冒頓(ぼくとつ)を追撃しました。まず高帝こうてい(劉邦りゅうほう)が平城(へいじょう)*8に至ると、冒頓(ぼくとつ)はまだ後続の歩兵が到着しないうちに精兵30余万騎を縱(はな)ち、白登山(はくとさん)において高帝こうてい(劉邦りゅうほう)を包囲します。

包囲すること7日、漢(かん)兵は中外で互いに救援することも餉(ほしいい)(兵糧)を送り合うこともできませんでした。そこで高帝こうてい(劉邦りゅうほう)は、秘かに使者を派遣して閼氏(あつし)*4に手厚い贈物をおくると、閼氏(あつし)*4は冒頓(ぼくとつ)に次のように言いました。

「お2人ともお互いに苦しめ合うものではありません。今 漢(かん)の地を得ても、結局、単于(あなたさま)はそこに住むことはできません。漢主(かんしゅ)(劉邦りゅうほう)にも(彼を助ける)神がいることにお気づきください」

ちょうどこの時、冒頓(ぼくとつ)は韓王信(かんおうしん)の将・王黄おうこうと趙利ちょうりと合流する予定でしたが、いつまで経(た)っても彼らの兵が来ないことから「漢(かん)と通謀(つうぼう)しているのではないか」と疑っていたところでもあり、閼氏(あつし)*4の言葉を受け入れて包囲の一角を解(と)くことにします。

そこで高帝こうてい(劉邦りゅうほう)は、全士卒に「矢をつがえ外に向けて弓を引き絞(しぼ)る」ように命じると、そのまま包囲が解(と)けた一角から真っ直(す)ぐに脱出し、味方の大軍と合流することができました。

その後、冒頓(ぼくとつ)は兵を退(ひ)いて去り、漢(かん)もまた兵を退(ひ)くと、劉敬りゅうけいを派遣して和親条約を結びました。

脚注

*4単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*8山西(さんせい)・大同(だいどう)の東。

漢将の投降【前漢:高祖(劉邦)】

その後、韓王信(かんおうしん)は匈奴(きょうど)の将軍(しょうぐん)となり、また趙利ちょうり・王黄おうこうらは度(たび)々(たび)和親条約を破って代郡(だいぐん)・鴈門郡(がんもんぐん)・雲中郡(うんちゅうぐん)に侵略しました。

漢(かん)の10年(紀元前197年)、代(だい)の宰相(さいしょう)・陳豨(ちんき)が漢(かん)に叛(そむ)き、淮陰侯(わいいんこう)・韓信(かんしん)と通謀(つうぼう)して代(だい)を擊(う)つと、漢(かん)は樊噲はんかいを派遣してこれを擊(う)ち、再び代郡(だいぐん)・鴈門郡(がんもんぐん)・雲中郡(うんちゅうぐん)の諸郡県を取り戻しましたが、塞(とりで)の外には出ませんでした。

また、当時は漢将(かんしょう)がしばしば軍を率(ひき)いて匈奴(きょうど)に投降していたため、冒頓(ぼくとつ)は常に往来して代郡(だいぐん)を侵略しました。

これを憂(うれ)えた高祖こうそ(劉邦りゅうほう)は、劉敬りゅうけいを派遣して宗室の翁主(おうしゅ)(諸王(しょおう)の女(むすめ))を閼氏(あつし)*4として単于(ぜんう)に娶(めあわ)せ、また季節ごとに一定量の絮(まわた)・繒(きぬ)・酒・食物を匈奴(きょうど)に与えて、兄弟の契(ちぎ)りを結んで和親したので、冒頓(ぼくとつ)もしばらくは侵略をやめました。

その後、燕王(えんおう)・盧綰(ろわん)がまた漢(かん)に叛(そむ)いてその一党・1万人を率(ひき)いて匈奴(きょうど)に投降してくると、(匈奴(きょうど)はまた)上谷郡(じょうこくぐん)以東に往来して漢(かん)を苦しめるようになり、高祖こうそ(劉邦りゅうほう)の時代は終わりました。

脚注

*4単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

高后への書簡【前漢:恵帝】

漢(かん)が恵帝(けいてい)・高后(こうこう)*9の時代になると、冒頓(ぼくとつ)は次第に驕慢(きょうまん)になり、使者を派遣して高后(こうこう)*9に次のような書簡を送りました。

「孤僨(こふん)の君よ、(私は)沮沢(そたく)(水はけの悪い土地)の中に生まれ、平野牛馬の域に長じ、しばしば辺境に至って中国に遊ぶことを願わん。陛下(恵帝(けいてい))は国君として独立し、(あなたは)孤僨(こふん)独居(どっきょ)の身なり。両主楽しからず、もって自(みずか)ら虞(たの)しむなし。願わくは我が有するところをもって、その無き所に易(うつ)さん*10」

これに高后(こうこう)*9は大いに怒り、丞相(じょうしょう)・平(へい)(陳平(ちんぺい))と樊噲(はんかい)、季布(きふ)らを召(め)して「使者を斬り、出兵して匈奴(きょうど)を擊(う)つ」ことを評議します。

そこで樊噲(はんかい)が「臣(わたくし)に10万の兵をお与えくだされば、匈奴(きょうど)中(じゅう)を蹂躙(じゅうりん)してみせましょう」と言い、また季布(きふ)に問(と)うたところ、季布(きふ)は、


「樊噲(はんかい)を斬るべしっ!以前、陳豨(ちんき)が代(だい)で叛(そむ)いた時、漢(かん)兵は32万、樊噲(はんかい)は上将軍(じょうしょうぐん)でしたが、匈奴(きょうど)が高帝こうてい(劉邦りゅうほう)を平城(へいじょう)*8に包囲した時に樊噲(はんかい)は、その包囲を解(と)くことができませんでした。

天下はこれを歌って『平城(へいじょう)*8の下(もと)、また誠(まこと)に苦しむっ!7日食わずして弩(ど)(石弓(いしゆみ))を張ることも能(あた)わず』と言っています。

今、その歌吟(かぎん)の声も未(いま)だ絶(た)えず、戦傷者もやっと起(た)つことができたばかりであるのに、樊噲(はんかい)は天下を動揺(どうよう)させようとして『10万の兵を率(ひき)いて蹂躙(じゅうりん)する』などと妄言(もうげん)するのは、これこそ面謾(めんまん)(面前で欺(あざむ)くこと)です。

ともあれ夷狄(いてき)は禽獣(きんじゅう)(鳥獣)の如(ごと)きものですから、褒(ほ)められたとしても喜ぶには値せず、貶(けな)されたとしても怒るほどのことではありません」


と言いました。

すると高后(こうこう)*9は「よろしい」と言い、大謁者(だいえっしゃ)の張沢(ちょうたく)に命じて次のように返答します。

「単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))は弊邑(わがくに)を忘れず、書を賜(たま)われましたことに恐懼(きょうく)しております。恐れながら考えますに、私は年老い気力も衰(おとろ)えており、髪や歯も抜け落ち歩くこともままなりません。単于(ぜんう)の誤(あやま)り聴くこと、もって自(みずか)ら汚すに足らず*11。弊邑(わがくに)に罪はありません、どうかお赦(ゆる)しください。秘かに御車(ぎょしゃ)2乘(じょう)と車馬2駟(し)*12を常駕(じょうが)として奉じます」

冒頓(ぼくとつ)は返答の書を受け取ると、また使者を派遣して、

「中国の儀礼を知りませんでした。陛下には幸(さいわ)いにしてこれをお赦(ゆる)しくださらんことを」

と言って謝罪し、馬を献上してついに和親しました。

脚注

*8山西(さんせい)・大同(だいどう)の東。

*9呂太后りょたいこう[高帝こうてい(劉邦りゅうほう)の皇后(こうごう)]。

*10孤僨(こふん)は「孤独で弱く自立できない」こと。書簡の内容を要約すると「未亡人となって寂(さび)しいだろうから、私でよければ慰(なぐさ)めてやろう」となる。
これをもって「冒頓(ぼくとつ)が驕慢(きょうまん)になった」とされているが、漢(かん)[高祖こうそ(劉邦りゅうほう)]と匈奴(きょうど)(冒頓(ぼくとつ))は和親の際に兄弟の契(ちぎ)りを結んでいる。匈奴(きょうど)には「親兄弟が死んだ場合、その妻を娶(めと)る」風習があり、冒頓(ぼくとつ)に悪意はなかったのかもしれない。

*11ちくま学芸文庫(がくげいぶんこ)『漢書(かんじょ)』7より。原文:「單于過聽,不足以自汙」

*12駟(し)は4頭立ての馬車。車馬2駟(し)は4頭立ての馬車を引く馬2組、8頭。

右賢王が河南に侵入する【前漢:文帝】

文帝(ぶんてい)が即位すると漢(かん)と匈奴(きょうど)はまた和親しましたが、文帝(ぶんてい)の3年(紀元前177年)夏、匈奴(きょうど)の右賢王(ゆうけんおう)が河南(オルドス)に入居して危害を加えました。

そこで文帝(ぶんてい)は詔(みことのり)を下し、


「漢(かん)は匈奴(きょうど)と昆弟(こんてい)(兄弟)となって辺境を侵害しないことを約束した。ゆえに甚(はなは)だ手厚く贈り物をしていたのである。

今、右賢王(ゆうけんおう)がその国(匈奴(きょうど))を離れ、軍勢を率(ひき)いて河南(オルドス)の地に居(い)るのは異常なことだ。(右賢王(ゆうけんおう)は)往来して塞(とりで)に入ると吏卒(りそつ)を捕らえて殺し、上郡(じょうぐん)の保塞(ほうさい)の蛮夷(ばんい)*13を駆逐(くちく)して侵(おか)し、元の領内に居(お)られないようにした。

辺吏(へんり)(辺境の役人)を陵(おか)し轢(ふ)みにじり、盗むような甚(はなは)だ傲慢(ごうまん)無道な行いは、約条に背(そむ)く行為である。辺吏(へんり)(辺境の役人)と車騎8万を発して高奴県(こうどけん)に向かわせ、丞相(じょうしょう)の灌嬰(かんえい)を将とし、右賢王(ゆうけんおう)を擊(う)て」


と命じました。

右賢王(ゆうけんおう)が塞(とりで)を出て逃走すると、文帝(ぶんてい)は太原郡(たいげんぐん)に行幸(ぎょうこう)し(て匈奴(きょうど)征伐を行おうとし)ますが、ちょうどその時、済北王(せいほくおう)が叛(そむ)いたために文帝(ぶんてい)は帰還し、丞相(じょうしょう)(灌嬰(かんえい))は胡(こ)(匈奴(きょうど))の兵への攻撃を罷(や)めました。

漢との関係修復と冒頓の死【前漢:文帝】

単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))の書簡

その翌年[文帝(ぶんてい)の4年(紀元前176年)]、単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))は漢(かん)に次のような書簡を送ります。


「天の立てたる匈奴(きょうど)の大単于(だいぜんう)が、敬(つつし)んで皇帝にご挨拶(あいさつ)申し上げます。

以前、皇帝が和親のことを言われ、書簡の趣旨(しゅし)に副(そ)って共に懇親(こんしん)を結びましたが、漢(かん)の辺吏(へんり)(辺境の役人)が右賢王(ゆうけんおう)を侮(あなど)って(領域を)侵(おか)したため、右賢王(ゆうけんおう)は(私に)伺(うかが)いも立てず、後義(こうぎ)・盧侯(ろこう)・難支(なんし)らの計(はかりごと)を聴(き)き入れて漢吏(かんり)と恨(うら)み合い、和親の約条を破って(私たち)昆弟(こんてい)(兄弟)の親密な関係を悪化させました。

皇帝より再度讓書(じょうしょ)(非難の手紙)が届きましたので、使者を遣(つか)わし書簡をもって漢(かん)に報告しましたが、使者が戻らないばかりか漢(かん)の使者が派遣されて来ることもありませんでした。それゆえに漢(かん)と隣国(匈奴(きょうど))は不和となったのです。

今、(私は)少吏(しょうり)が約条を破った廉(かど)で右賢王(ゆうけんおう)を罰し、西方の月氏国(げっしこく)を擊(う)つように命じました。そして、天の福・優良な吏卒(りそつ)・騎馬の強さによって夷(えびす)の月氏国(げっしこく)を滅ぼし、その悉(ことごと)くを斬殺、降伏させて平定したのです。

また、楼蘭国(ろうらんこく)(鄯善国(ぜんぜんこく))・烏孫国(うそんこく)・呼揭国(こけつこく)およびその周辺の26国はみなすでに匈奴(きょうど)(の領土)となり、弓を引く諸(もろ)々(もろ)の民を併(あわ)せて一家となし、北州(ほくしゅう)は平定しました。

願わくは戦(いくさ)をやめ兵を休めて馬を養い、怨恨(えんこん)を忘れ和親の約条を回復し、もって辺境の民を安(やす)んじ、以前のように年少者には成長を遂(と)げさせ、老齢の者には安住させて、代々泰平を楽しみたいと思っています。

ですが、未(いま)だ皇帝のご厚意を得ることができないため、郎中(ろうちゅう)の係虖浅(けいこせん)に命じ、この書簡を奉じて請(こ)うと共に、ここに橐佗(らくだ)(駱駝(らくだ))1頭・騎馬2頭・駕(が)(車馬)2駟(し)を献上いたします。

皇帝には、もし匈奴(きょうど)が近くの塞(とりで)に近づくことを望まれないならば、しばらく吏民に詔(みことのり)して居所を遠ざからせ、また(匈奴(きょうど)の)使者が到着したなら、拘留(こうりゅう)することなくすぐに帰還させていただきたく思います」


使者は6月中に新望(しんぼう)の地に至り、書簡が届くと、漢(かん)は「征伐と和親のどちらに利があるか」を評議します。すると公卿(こうけい)たちはみな、

「単于(ぜんう)は新たに月氏国(げっしこく)を破ったばかりで勝ちに乗じており、これを擊(う)つべきではありません。またもし匈奴(きょうど)の地を得たとしても、沼沢(しょうたく)や塩分の多い不毛の地ですから、居住することもできません。和親するのがよろしいと存じます」

と言い、漢(かん)はこれを許しました。

脚注

*13城塞を保守する異民族。本来漢(かん)に属し、漢(かん)のために辺境の塞(とりで)を守った。

前漢(ぜんかん)・文帝(ぶんてい)の書簡

文帝(ぶんてい)の6年(紀元前174年)、漢(かん)は匈奴(きょうど)に書簡を送って言いました。


「皇帝が敬(つつし)んで匈奴(きょうど)の大単于(だいぜんう)(冒頓(ぼくとつ))に問(と)う、恙(つつが)なきや。

係虖浅(けいこせん)によって朕(ちん)*14に送られた書簡には『願わくは戦(いくさ)をやめ兵を休めて馬を養い、怨恨(えんこん)を忘れ和親の約条を回復し、もって辺境の民を安(やす)んじ代々泰平を楽しみたい』とあるが、朕(ちん)*14はこれを甚(はなは)だ嘉(よろこび)とする。

これは古(いにしえ)の聖王(せいおう)の志(こころざし)である。漢(かん)は匈奴(きょうど)と兄弟の契(ちぎ)りを結んだからこそ、単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))には甚(はなは)だ手厚く贈り物をしたのである。

約条に背(そむ)いて兄弟の親密な関係を悪化させるのは、常に匈奴(きょうど)の方であるが、右賢王(ゆうけんおう)の件はすでに大赦(たいしゃ)前のことゆえ、(右賢王(ゆうけんおう)を)深くお責めにならぬように。そしてもし単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))がこの書簡の意趣(いしゅ)に副(そ)って諸吏(しょり)に明示し、約条に背(そむ)かず信義を保(たも)たれるのならば、敬(つつし)んで単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))の書簡の通りにしたい。

使者が言うには『単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))は自(みずか)ら兵を率(ひき)いて国を併(あわ)せた功があり、甚(はなは)だ兵事に苦労された』とのこと。

ここに服繡袷綺(ふくしゅうきょうき)の衣*15・長襦(ちょうじゅ)(長襦袢(ながじゅばん)・肌着)・錦袍(きんぽう)(錦(にしき)の上衣)各1枚、比疏(ひそ)(比余(ひよ)・金属の髪飾り)1つ、黃金飭具帯(おうごんちょくぐたい)(黄金の飾りがついた帯(おび))1本、黃金犀毗(おうごんさいひ)(黄金製の帯留(おびど)め)1つ、繡(あやぎぬ)10匹、錦(にしき)20匹、赤綈(せきてい)(赤色の厚手の絹織物)・緑繒(りょくそう)(緑色の薄手の絹織物)各40匹を中大夫(ちゅうたいふ)・意(い)と謁者令(えっしゃれい)・肩(けん)に持たせて単于(ぜんう)(冒頓(ぼくとつ))に贈る」


その後間もなく冒頓(ぼくとつ)が亡くなると、子の稽粥(けいいく)が立って老上(ろうじょう)単于(ぜんう)と号しました。

脚注

*14皇帝・天皇のみが用(もち)いる一人称。この場合は文帝(ぶんてい)。

*15表に刺繍(ししゅう)が施(ほどこ)され、裏が綺(あやぎぬ)の袷衣(あわせぎぬ)。


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