正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑩(祁奚・祁庚)です。
スポンサーリンク
凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
スポンサーリンク
き⑩
祁奚
祁奚・黄羊
生没年不詳。春秋時代の晋の大夫。姓は姫(周王室の姓)。氏は祁。字は黄羊。晋の公族で采邑は祁にあった。子に祁午。
中軍尉に任命される【晋の悼公】
魯の成公の18年(紀元前573年)2月乙酉の朔の日、晋侯(悼公)は朝廷において即位し、はじめて百官に命令を下した。
晋侯(悼公)は、減税・罪の赦免・貧困救済・災害救助などを実施するとともに、不正を禁じ、農時を妨げないよう民の使役を節制した。また、名望ある人物を登用して官制・軍制を整備し、祁奚は中軍尉に任命され、羊舌職がこれを補佐した。
その任用は適材適所であり、民には誹謗の声がなく、これこそが晋が覇権を回復した理由であった。
外挙不避仇・内挙不避親【晋の悼公】
魯の襄公の3年(紀元前570年)、祁奚が老齢を理由に辞職を願い出たところ、晋侯(悼公)は「後任は誰が良いか」と尋ねた。
すると祁奚は解狐を推挙したが、解狐は祁奚の仇敵であった。
晋侯(悼公)は解狐を後任に任命しようとしたが、解狐はその前に亡くなってしまった。そこで改めて後任を尋ねると、祁奚は「祁午が適任です」と答えた。
この時、中軍尉を補佐していた羊舌職も亡くなっていたので、晋侯(悼公)はその後任も尋ねたところ、祁奚は「羊舌赤が適任です」と答えた。
そこで晋侯(悼公)は、祁午を中軍尉に任命し、羊舌赤をその補佐とした。
君子(識者)はこれを評して言った。
「祁奚は良い推挙をした。仇敵を推挙したのは諂いではなく、子を立てたのは依怙贔屓ではなく、縁のある者を推挙したのも、党派心によるものではなかった。
『商書』が言う『偏りもなく党派心もなければ、王道は大きく広がる*1』とは、まさにこの祁奚のことを言っているのである。
解狐は推挙され、祁午は官位を得て、伯華(羊舌赤)は官職を得た。1つの官職を任命することで3つの良い結果を実現した。
善人を推挙できるのはその人自身が善人だからであり、善人であるからこそ、同類の善人を推挙できるのである。
『詩経』は『それを備えているからこそ、それに似た者を知ることができる』と言う。祁奚には正にその徳が備わっていたのである」
脚注
*1原文:無偏無黨,王道蕩蕩。蕩蕩は果てしなく広々としている様子や、心が安らかでゆったりとしている様子を表す言葉
公族大夫となる【晋の平公】
魯の襄公の16年(紀元前557年)春、晋の悼公の葬儀が行われ、平公が即位した。
平公は羊舌肸を傅(国君の補佐役・教育係)とし、張君臣を中軍司馬(中軍の軍政担当官)とし、祁奚・韓襄・欒盈・士鞅を公族大夫(晋の公族出身の重臣)とした。
欒盈の乱【晋の平公】
これより以前、欒桓子(欒黶)は范宣子(士匃)の娘を妻として娶り、欒懐子(欒盈)を生んだ。
范鞅(士鞅、范献子)は、かつて欒氏によって追放されたことを怨んでおり、欒盈が公族大夫となっても互いに折り合いが悪かった。
欒桓子(欒黶)が亡くなると、(欒桓子の妻・欒盈の母・)欒祁は、家老の州賓と私通して、家が滅びかねないほどの不祥事となった。
魯の襄公の21年(紀元前552年)、欒祁は欒懐子(欒盈)から罪を問われるのを恐れ、(父の)范宣子(士匃)に「欒盈は乱を起こそうとしています」と訴えた。
そこで范鞅(士鞅、范献子)は欒盈を召し出した。
欒懐子(欒盈)は施しを好む人物であったため、多くの士が彼に帰属していたので、范宣子(士匃)はその門客の多さを畏れ、この訴えを信じた。
欒懐子(欒盈)は下卿の地位にあったが、范宣子(士匃)は著に城壁を築かせて、そのまま彼を国外追放した。
秋、欒盈は楚に逃亡した。
羊舌氏の禍【晋の平公】
范宣子(士匃)さらに、箕遺・黄淵・嘉父・司空靖・邴豫・董叔・邴師・申書・羊舌虎・叔羆を殺害し、伯華・叔向(羊舌肸)・籍偃を捕らえて投獄した。
人々が叔向(羊舌肸)に、
「子は罪に連座しているのに、(助かる方法を)知らないのですか?」
と尋ねると、叔向(羊舌肸)は、
「どうせ人はみな死ぬのだから、それが何だというのか。『詩経』に『ゆったりと落ち着いて、ひとまずこの1年を終える』とある。私は知っているのだ」
と答えた。
また、楽王鮒が叔向(羊舌肸)に会いに来て、
「吾が子のために助命を願い出よう」
と言ったが、叔向(羊舌肸)は応じず、退出する時にも拝礼をしなかったので、人々はみな叔向(羊舌肸)を非難した。
叔向(羊舌肸)は「祁大夫(祁奚)でなければならない」と言った。
家老がこれを聞いて、
「楽王鮒が我が君(平公)に願えば実現できないことはないのに、(楽王鮒が)『吾子の赦免を願う』と言っても吾子は応じなかった。祁大夫(祁奚)にできるはずがないのに、どうして『祁大夫(祁奚)でなければならない』などと言われるのですか?」
と尋ねると、叔向(羊舌肸)は答えて言った。
「楽王鮒は我が君(平公)に従うだけの男だ。どうして実現できようか。祁大夫(祁奚)は、外は仇であっても推挙し、内は親族であっても見捨てない。どうして我だけを見捨てるだろうか。『詩経』に『明らかな徳行があれば、四方の国はこれに従う』とある。あの方こそ、そのような人物なのだ」
晋侯(平公)が叔向(羊舌肸)の罪について楽王鮒に尋ねたところ、楽王鮒は「親族を見捨てなかったという罪があります」と答えた。
その頃、祁奚はすでに隠退していたが、このことを聞くと馹(駅馬)に乗って范宣子(士匃)に会いに行き、
「『詩経』に『我に与えられた恩恵は尽きることなく、それを子孫が受け継いでいく』とあり、『詩経』には『聖人は晩年にも功績があり、その功績は明らかに徵れ、国家の安定を保つ』とあります。
計画すれば過失が少なく、恵みある教えを余すことなく与え続ける者、それが叔向(羊舌肸)であり、社稷(国家)の柱となる人物です。本来なら10世にわたって赦免してでも、有能な者を励ますべきところです。今、その本人ただ1人さえ赦免しないのなら、社稷(国家)の柱を棄てることになります。なんと道理に迷ったことではありませんか。
鯀は処刑されても禹が興り、伊尹は太甲を追放しましたが、後にこれを補佐し、ついに怨みは残りませんでした。管叔鮮と蔡叔度は処刑されましたが、周公旦は王を補佐しました。
どうして羊舌虎の罪に連座して、(罪のない)社稷(国家)の柱を棄てるのですか。子が善を行えば、みなが努力するようになるでしょう。むやみに多くの人を殺して、いったい何になるというのでしょうか?」
と言った。范宣子(士匃)はこれを喜び、祁奚を同車させてその意見を晋侯(平公)に奏上し、叔向(羊舌肸)を赦免させた。
祁奚は叔向(羊舌肸)に会わずに帰り、叔向(羊舌肸)もまた赦免されたことを告げられないまま朝廷に出仕した。
范宣子と和大夫が田地を争う
范宣子(士匃)と和大夫が田畑の境界を争って、長い間決着がつかなかった。そこで范宣子(士匃)は、兵をもって攻め取ろうと考え、まず伯華(羊舌赤)に相談した。
伯華(羊舌赤)は言った。
「外には軍事があり、内には政務があります。赤は外事を担当しておりますので、官の権限を侵すようなことは致しません。そもそも吾子の考えは、公的な立場を逸脱しているように見受けられます。もう一度、ご自身でよくお考えになるのがよろしいでしょう」
次に孫林甫に尋ねると、孫林甫は言った。
「私は旅人の立場であり、ただご主君に仕える身です。ただ命じられた事に従うだけで、それ以外のことは申し上げられません」
次に張老に尋ねると、張老は言った。
「老は軍事によって子に仕えておりますが、国家の軍事でないのならば、吾の知るところではありません」
次に祁奚に尋ねると、祁奚は言った。
「公族が礼を失い、公室の政治に偏りがあり、国内政治に乱れがあり、大夫たちが私利に走っているのならば、これらはすべて吾の責任です。もし国君の官職(国家の権力)を用いて子の私事に従わせるようなことをすれば、子に悪い結果が及び、さらに子が(私を)憎むようになるのではないかと恐れます」
次に籍偃に尋ねると、籍偃は言った。
「偃は斧鉞の権(刑罰)をもって張孟に従い、日々その命令を聞いております。もしそれが夫子の命令であるならば、何の疑いがありましょうか。もし夫子を退けて別の人物に従うようなことは、吾子への反逆になってしまいます。(私はあなたに反逆することはありません)」
次に叔魚(羊舌鮒)に尋ねると、叔魚(羊舌鮒)は言った。
「吾に任せてください。子のために彼(和大夫)を殺しましょう」
この騒ぎを聞きつけた叔向(羊舌肸)は、范宣子(士匃)に会って言った。
「子と和大夫との争いがまだ解決していないと聞きました。子はすでに多くの大夫に広く尋ねられましたが、まだ決着がついていません。どうして訾祏に相談なされないのですか?
訾祏は実直で博識です。実直ゆえに是非を正しく裁くことができ、博識ゆえに上下の事例を比較して判断することができます。しかも彼は吾子の家の家老でもあります。
吾は『国家に大事があるときは、必ず古来の典刑(制度・法)に従い、さらに長老に諮問してから実行すべきだ』と聞いております」
司馬侯がこれを聞いて言った。
「吾は子が和大夫と争って怒っていると聞きましたが、吾には信じられません。
諸侯はみな二心を抱えているものです。そのことを憂えるべきであって、和大夫に対して怒るのは、子のなすべきことではありません」
祁午がこれを見て言った。
「晋は諸侯の盟主であり、子はその正卿です。
もし(あなたが)諸侯を正しく安定させ、晋の命令に従わせることができるのなら、晋の国内で子に従わない者などいるでしょうか。
それなのになぜ、たった1人の和大夫ごときを問題になさるのですか?
むしろ密かに和解を進め、大きい者は小さい者を包み、小さい者はそれに従うようにして、全体を平らかに治めるべきではありませんか!」
范宣子(士匃)が訾祏に尋ねると、訾祏は言った。
「昔、隰叔は周王室の難を避けて晋国にやって来ました。その子の子與(士蔿)は理(法官)となって朝廷を正したため、朝廷には不正な官吏がいなくなり、また(子與は)司空となって国政を正したため、国には失政がなくなりました。
その家系は代を重ねて武子(士会)に及び、(晋の)文公と襄公を補佐して諸侯となったため、諸侯は二心を抱くことがなくなりました。さらに卿となって成公と景公を補佐し、軍政に乱れがなくなりました。そして成師の代には太傅として刑法を正し、典礼を整えたため、国に奸民がいなくなりました。後の人々は皆これを手本としたため、彼らは随・范の地を賜りました。
また文子(士燮)の代には晋と楚の盟約を成立させ、兄弟国の関係を厚くして 互いの間に隔たりがなくなったため、郇・櫟の地を賜りました。
今、吾子はその家を継いで地位にありますが、朝廷には不正な行いもなく、国内にも邪な民もおらず、そのため四方の患いもなく、内外ともに憂いがありません。(あなたの)その俸禄と地位は、先代の功績を享受したものなのです。
今、すでに国に問題がないにもかかわらず、なお和大夫を非難するというのは、どのようなお考えでしょうか。それならばむしろ、恩寵を加えて和解するべきです。そうでなければ、一体何を治めるというのでしょうか?」
范宣子(士匃)はこれを聞いて喜び、和大夫に増し加えた田地を与えて和解した。
出典
- 『春秋左氏伝』成公十八年
- 『春秋左氏伝』襄公三年
- 『国語』范宣子与和大夫争田(范宣子と和大夫が田地を争う)
「季成子」の関連記事
祁庚
祁庚
生没年不詳。揚州・会稽郡・山陰県の人。
以前、会稽太守であった王朗が、功曹の虞翻に「揚州・会稽郡の有能な人物」について尋ねたことがあった。
呉の孫亮の時代、会稽太守の濮陽興が「掾吏(下級の官吏)を招いた元旦の宴」の席で『王朗の質問に対する虞翻の返答』について知っている者はいないか?」と尋ね、門下書佐の朱育がこれに答えた。
すると濮陽興は「御史(虞翻)が言われた人々のことは分かった。彼らに次ぐ人材を、書佐(朱育)は知っているか?」と言った。この時 朱育は、列挙した人物の中で、
「呉寧県出身の斯敦、山陰県出身の祁庚、上虞県出身の樊正らは、みな(死罪となった)父の身代わりとなって、自らその死罪を引き受けました」
と言い、祁庚について「親の罪を代わって死ぬことで、孝と義を極限まで貫いた人物」として挙げている。
出典
- 『呉書』虞陸張駱陸吾朱伝
- 『呉書』虞翻伝・裴松之注『会稽典録』
「祁庚」の関連記事
スポンサーリンク

