正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑧季布・季心・丁公です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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き⑧
季布
季布
生没年不詳。季姓。名は布。秦末・楚の下相の人。項羽に仕えて劉邦と戦ったが、項羽の滅亡後は逃亡生活の後、夏侯嬰のとりなしで赦されて漢に仕えた。
項羽時代
季布は項籍(項羽)と同郷で、気概があり任俠(義侠の気風)をもって名が知られていた。
項籍(項羽)は彼に兵を率いさせ、たびたび漢王(劉邦)を苦しめた。
指名手配
周氏に匿われる
項籍(項羽)が滅びると、高祖(劉邦)は千金の賞金をかけて季布を捜索させ、匿う者があれば「三族まで処罰する」と命じた。
この時 季布は濮陽の周氏の元に身を隠していたが、これを聞くと周氏は季布に言った。
「漢は躍起になって将軍(季布)を捜しています。その捜索の手は、いずれ臣の家にも及ぶでしょう。もし臣の言うことを聞いてくださるなら、計略を進言いたします。もし聞いてくださらないのなら、臣は先に自害させてください」
季布がこれを許すと、周氏は季布の髪を剃って首枷をはめ(髡鉗)、粗末な衣を着せて広柳車(罪人などを運ぶ覆い付きの車)に乗せ、自分の家の下僕数十人と共に、魯の朱家のところへ行って売り渡した。
朱家に匿われる
朱家はこの人物が季布であると気づいていたが、これを買い取って田舍(農作業場)に置き、自分の子に「農作業のことは此奴に従い、必ず同じ食事をさせよ」と言った。
その後、朱家は軺車(軽車)に乗って雒陽(洛陽)へ行き、汝陰侯・滕公(夏侯嬰)と会ったが、滕公(夏侯嬰)は朱家を数日間引き留め、酒食を共にして語り合った。
朱家「季布はどれほどの大罪を犯したのですか? 陛下[高祖(劉邦)]はなぜ、これほど厳しく彼を捜索しておられるのでしょうか?」
滕公「季布はたびたび項羽のために陛下を苦しめた。そのため陛下は彼を怨み、ぜひとも捕らえたいと思っておられるのだ」
朱家「君は季布という人物をどう思われますか?」
滕公「賢者である」
朱家「臣下はそれぞれ自分の主君のために働くもの。季布が項籍(項羽)のために働いたのは、その職務を尽くしただけです。項氏の臣下をすべて殺し尽くすことなどできるのでしょうか?
今、陛下は天下を得たばかりですのに、ただ私怨によって1人の人物を追い求めるなら、天下に対して度量の狭さを示すことになります!
しかも季布ほどの賢者をこれほど激しく追えば、北へ逃げて胡に走るか、南へ逃げて越に走るでしょう。
『勇壮な人物を忌み嫌って敵国の力とする』これこそ伍子胥が荊平王(楚の平王)の墓を鞭打った理由ではありませんか。君はどうして、このことをよく陛下に申し上げないのですか?」
滕公「分かった」
汝陰侯・滕公(夏侯嬰)は、朱家が大俠(任侠の大人物)であることを知っており、また、季布が彼のもとに匿われていると察したのである。
夏侯嬰のとりなし
そこで汝陰侯・滕公(夏侯嬰)は機会を待って、朱家の言葉通りに陛下[高祖(劉邦)]に進言したところ、陛下は季布を赦した。
この時、諸公*1はみな「季布は強硬な態度を柔らげさせる力量を持っている(摧剛為柔)」と称賛し、またこのことによって朱家の名声も当世に広まった。
召されて参内した季布は陛下に謝罪し、郎中に任命された。
脚注
*1国政に携わる身分の高い人々。
恵帝時代
孝恵帝*2の時代、季布は中郎将になっていた。
前漢の恵帝3年(紀元前192年)、匈奴の冒頓単于はますます驕慢になり、呂太后*3に1通の手紙を届けさせて言った。
「孤は湿地帯に生まれ、牛や馬のいる広大な平野で育った。幾度も国境までやって来たのは、中国(漢)に遊びたいと願ったからだ。
陛下(呂太后*3)は独り身であり、孤もまた独り身で暮らしている。両国の君主が共に楽しみに欠け、自らを慰める術がない。
願わくば、自分の持っているもので、相手に無いものと交換しようではないか(私と結婚して、お互いの寂しさを埋めようではないか)」*4
これに呂太后*3は大いに怒り、丞相の陳平や樊噲、季布らを召集して、「使者を斬り捨て、兵を出して匈奴を撃つべきか」を議論させた。
すると上将軍の樊噲は「私に10万の軍勢をお貸しください。匈奴中を縦横無尽に蹴散らしてみせましょう」と言った。
呂太后*3が季布に意見を求めると、季布は答えて言った。
「樊噲は斬罪に値します! かつて代の地で陳豨が反乱した際、漢軍は32万もの大軍であり、樊噲はその上将軍でした。この時、匈奴が高帝(劉邦)を平城で包囲しましたが、樊噲は包囲を解くことができませんでした。
これを天下の人々は『平城の下での苦しみは誠にひどいものだ。7日間も食わず、弓を引くことさえできなかった』と歌っています。
今なおその歌声は絶えず、傷ついた者たちの傷もようやく癒え始めたばかりだというのに、樊噲は『10万の兵で蹴散らす』などと、面と向かって妄言を吐き、天下を動揺させようとしています。
そもそも夷狄(匈奴)は禽獣(鳥獣)のようなものです。彼らの言葉が善かろうと喜ぶに足りず、悪かろうと怒るに足りません」
呂太后*3は「その通りだ」と言い、大謁者の張澤(張沢)に命じて返書を送らせて言った。
「単于におかれましては、弊邑(漢)をお忘れになることなく書状を賜り、恐縮しております。
退いて自らを省みますに、年老いて気力も衰え、髪も歯も抜け落ちて、歩くこともままなりません。単于は(私のことを)聞き間違えられたのでしょう。偉大な単于の名を汚すことになり、相応しくありません。
弊邑(漢)に罪はございませんので、どうかお赦しいただきたい。ささやかですが、御車2乘と車馬2駟*5を差し上げますので、日常のお乗り物としてお使いください」
冒頓単于はこの返書を受け取ると、再び使者を送って、
「孤はまだ中国の礼儀というものを知りませんでした。陛下(呂太后*3)には幸いにしてこれをお赦しくださらんことを」
と謝罪し、馬を献上して、そのまま和親が結ばれた。
脚注
*2前漢の第2代皇帝・恵帝(劉盈)
*3高帝(劉邦)の皇后。呂雉。
*4これをもって「冒頓が驕慢になった」とされているが、漢[高祖(劉邦)]と匈奴(冒頓)は和親の際に兄弟の契りを結んでいる。匈奴には「親兄弟が死んだ場合、その妻を娶る」風習があり、冒頓に悪意はなかった可能性もある。
*5駟は4頭立ての馬車。車馬2駟は4頭立ての馬車を引く馬2組=8頭。
文帝時代
孝文帝*6の時代、季布は河東太守になっていた。
「季布は賢明な人物です」と進言する者があったので、孝文帝*6は彼を御史大夫に任命しようと都に召し出したが、また別の者は「季布は勇猛ではあるが、酒癖が悪く近づきがたい人物です」と進言した。
孝文帝*6に召し出された季布は都に到着したが、1ヶ月も公邸に留め置かれただけで、謁見することなく帰るように命ぜられた。
そこで季布は謁見を申し出て言った。
「臣は功績もないのに恩寵を賜り、河東において任務に過失があれば処罰を待つ身であります。
陛下が理由もなく臣をお召しになったのは、必ずや臣について(賢明な人物だと)虚偽の推薦をして、陛下を欺いた者がいるのでしょう。そして今、臣が参上したにもかかわらず、何の職務も与えられないまま帰されるということは、今度はまた臣を中傷した者がいるに違いありません。
陛下はたった1人の称賛によって臣をお召しになり、また たった1人の中傷によって臣を退けようとなされました。
臣は『このことを聞いた天下の有識者たちが、陛下の(器量や思慮の)底が知れていると侮るようになるのではないか』と恐れております」
孝文帝*6はしばらく黙り込み、恥じ入った様子で、
「河東は吾の股肱(手足)のように重要な郡である。だからこそ特別に君を召したのだ」
と言ったが、季布は(中央官への任用を)辞退して任地へ戻った。
脚注
*6前漢の第3代皇帝・文帝(劉恒)。前少帝と後少帝の2人の少帝を含めると第5代皇帝となる。
季布の名声
(季布と同じ)楚人の弁舌の士・曹丘生は、貴人の趙同らに仕え、また竇長君と親しくしていたが、しばしば権勢のある者に取り入って金銭を求めていた。
これを聞いた季布は、竇長君に手紙を送って「吾は『曹丘生は徳のある人物ではない』と聞いています。彼と交際してはならない」と言った。
その後 曹丘生は、竇長君に季布への紹介状を書いて欲しいと頼んだ。竇長君は「季将軍(季布)は足下を好んでいないから、行かない方がよい」と言ったが、曹丘生はしつこく頼み込んで、ついに出発した。
人を使って先に紹介状を届けさせたところ、季布は大いに怒って曹丘生の到着を待ち構えていた。
曹丘生は到着すると、すぐに揖礼*7して言った。
「楚人の間には『黄金百斤を得るよりも季布の約束を得る方が価値がある』という諺がありますが、足下はどうして梁・楚の地域でこのような名声を得ることができたのでしょうか?
仆は楚人であり、足下もまた楚人です。仆が足下の名声を天下に広めたことは、さして重要ではないとお考えですか? どうして足下はそれほどまでに仆を遠ざけるのですか!」
これを聞いて大いに喜んだ季布は、彼を屋敷に招き入れ、数ヶ月間留めて上客として待遇し、手厚い贈り物をして送り出した。季布の名声が広まった背景には、曹丘生の働きかけがあったのである。
脚注
*7両手を胸の前で組み合わせて(拱手)相手に敬意を表す、中国古来の挨拶・お辞儀の作法。
出典
- 『漢書』季布欒布田叔伝
- 『漢書』匈奴伝上
- 『史記』季布欒布列伝
- 『資治通鑑』漢紀四
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季心
季心
生没年不詳。季姓。名は心。秦末・楚の下相の人。兄は季布。
季布の弟の季心は、関中一帯を圧するほどの盛んな気概があり、人に接する時は恭しく慎み深かった。
また、任侠の人物として知られ、数千里四方にその名が広まり、士(志ある者)たちは皆、争って彼のために命を捨てようとした。
かつて人を殺したことがあり、呉に逃亡して、袁絲(袁盎)の元に身を寄せて匿われた。長い間 袁絲(袁盎)に仕え、また灌夫や籍福といった者たちを弟のように親しく養っていた。
かつて中司馬となったことがあったが、中尉の郅都でさえ、彼に礼を尽くさないわけにはいかなかった。
若者たちは しばしば勝手に季心の名を騙り、その威光を利用して行動していた。
当時、季心は「勇」、兄の季布は「諾(約束を守る信義)」をもって、共に関中に広く名を知られていた。
出典
- 『漢書』季布欒布田叔伝
- 『史記』季布欒布列伝
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丁公
丁公
生年不詳〜前漢の高祖5年(紀元前202年)没。丁姓。名は固。薛県の人。季布の母の弟(母方の叔父)。秦末・楚の将。
漢王(劉邦)を見逃す
漢の2年(紀元前205年)、漢王(劉邦)は彭城の戦いで大敗して敗走した。
項羽の命を受けた丁公は、彭城の西で漢王(劉邦)を追撃し、やがて両軍は至近距離で武器を交えるほど接近した。
危急の事態に陥った漢王(劉邦)が丁公を振り返って、
「丁公よ、お前も英雄、私も英雄だ。どうして英雄同士で殺し合わねばならぬのかっ!」*8
と言ったところ、丁公は兵を引いて退いたので、漢王(劉邦)はその場を脱出することができた。
項王(項羽)が滅びた後、丁公は高祖(劉邦)に拝謁した。
すると高祖(劉邦)は丁公を軍中に引き回し、見せしめにして言った。
「丁公は項王(項羽)の臣下でありながら忠義の心がなかった。項王(項羽)に天下を失わせたのは、この丁公である!」
そして丁公を斬ると、
「後の世で人の臣下となる者が、決して丁公の真似をしないようにするためである」
と言った。
脚注
*8原文:「兩賢豈相戹哉!」。直訳すると「2人の賢者がどうして互いに苦しめ合わねばならないのか!」となる。
出典
- 『漢書』季布欒布田叔伝
- 『史記』季布欒布列伝
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