正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧①其至鞬きしけんです。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き①

其至鞬

其至鞬きしけん

生没年不詳。後漢ごかん安帝あんてい期〜順帝じゅんてい期の鮮卑せんぴ大人たいじん(部族長)。

漢に降伏する

後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ年間(107年〜113年)、鮮卑せんぴ大人たいじん(部族長)・燕荔陽えんれいようが都[雒陽らくよう洛陽らくよう)]に参内して朝賀した。

そこで鄧太后とうたいごうは、燕荔陽えんれいようおう印綬いんじゅさずけて赤車参駕せきしゃさんが*1を許し、烏桓校尉うがんこういの駐在地である甯城ねいじょう寧城ねいじょう)の城下に居住することを許した。

また、胡市こし(辺境交易市場)を開いて交易を通じさせ、南北2つの部族のために質館しつかん*2を築いた。これによって鮮卑せんぴの集落120部が、それぞれ人質を派遣した。

しかしその後は、ある者は降伏し、あるものは反逆し、匈奴きょうど烏桓うがんとも互いに攻撃し合うようになった。


後漢ごかん安帝あんてい永寧えいねい元年(120年)、幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん鮮卑せんぴ大人たいじん(部族長)・烏倫うりん其至鞬きしけんは、兵をひきいて度遼将軍とりょうしょうぐん鄧遵とうじゅんの元へおもむき、降伏して貢物を献上した。

そこでみことのりを下し、烏倫うりん率衆王そつしゅうおうに、其至鞬きしけん率衆侯そつしゅうこうに封じ、それぞれ綵繒さいそう(彩色の絹織物)を下賜かししたが、その分量や等級には身分に応じて差がもうけられていた。

脚注

*1皇帝や朝廷から特別に認められた高官や異民族の首長が、赤く塗られた車(赤車)を与えられ、宮廷や所定の場所へ参内・参駕すること。

*2質子しつし(人質)を住まわせるための宿舎・施設。

居庸県に侵攻する

後漢ごかん安帝あんてい建光けんこう元年(121年)秋、其至鞬きしけんは再び反乱を起こし、幽州ゆうしゅう上谷郡じょうこくぐん居庸県きょようけんに侵攻した。

幷州へいしゅう并州へいしゅう)・雲中郡うんちゅうぐん太守たいしゅ成厳せいげんがこれを攻撃したが敗れ、功曹こうそう楊穆ようぼくみずからの身を挺して成厳せいげんかばったが、成厳せいげんと共に戦死した。

その後、鮮卑せんぴ烏桓校尉うがんこうい徐常じょじょう馬城ばじょうに包囲すると、度遼将軍とりょうしょうぐん耿夔こうき幽州刺史ゆうしゅうしし龐参ほうさんは、(幽州ゆうしゅうの)広陽郡こうようぐん漁陽郡ぎょようぐん涿郡たくぐん甲卒こうそつ(重装兵)を動員し、二手に分かれてこれを救援に向かった。

夜のうちにひそかに包囲を脱出した徐常じょじょうは、耿夔こうきらと合流して並進し、ぞく鮮卑せんぴ)を攻撃して包囲をいた。


鮮卑せんぴはすでに何人もの郡守ぐんしゅ太守たいしゅ)を殺害していたため、その勢いはますます盛んになり、控弦こうげん(弓兵)は数万騎に達していた。

太原郡に侵攻する

後漢ごかん安帝あんてい延光えんこう元年(122年)冬、再び幷州へいしゅう并州へいしゅう)の雁門郡がんもんぐん定襄郡ていじょうぐんに侵攻し、ついに太原郡たいげんぐんまでをも攻撃して、その住民を略奪し殺害した。

南匈奴を攻撃する

後漢ごかん安帝あんてい延光えんこう2年(123年)冬、其至鞬きしけんみずから1万余騎をひきいて東領候とうりょうこう*3に侵入すると、軍を数隊に分け、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・五原郡ごげんぐん曼柏県まんはくけん南匈奴みなみきょうどを攻撃した。南匈奴みなみきょうど薁鞬日逐王いくけんじつちくおうは戦死し、千人余りが殺された。


後漢ごかん安帝あんてい延光えんこう3年(124年)秋、再び幽州ゆうしゅう代郡だいぐん高柳県こうりゅうけんに侵攻して南匈奴みなみきょうどを撃ち破り、漸将王ぜんしょうおうを殺害した。

脚注

*3南匈奴みなみきょうどの東方の領地にある、偵察・防衛のための拠点(斥候・監視所)?

代郡に侵攻する

後漢ごかん順帝じゅんてい永建えいけん元年(126年)秋、鮮卑せんぴ其至鞬きしけん幽州ゆうしゅう代郡だいぐんに侵攻して略奪を行い、太守たいしゅ李超りちょうが戦死した。

後漢ごかん順帝じゅんてい永建えいけん2年(127年)春、中郎将ちゅうろうしょう張国ちょうこくは、従事じゅうじを派遣して南匈奴みなみきょうど単于ぜんうの歩兵・騎兵あわせて1万余人をひきいさせると、塞外さいがい(長城の外)に出て鮮卑せんぴを撃ち破り、その軍資物資2千余種を鹵獲ろかくした。


この時、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん鮮卑せんぴも、6千余騎をひきいて遼東郡りょうとうぐん玄菟郡げんとぐんに侵攻していた。

烏桓校尉うがんこうい耿曄こうようは、辺境諸郡の兵と烏桓うがん率衆王そつしゅうおうの兵を動員して塞外さいがい(長城の外)に出撃させ、数百級を斬首し、多数の生口せいこう(捕虜)と牛馬・什物じゅうもつ(物資)を鹵獲ろかくした。

その結果、鮮卑せんぴは部族の衆・3万人をひきいて幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんおもむき、降伏を願い出た。

漁陽郡と朔方郡に侵攻する

後漢ごかん順帝じゅんてい永建えいけん3年(128年)から4年(129年)にかけて、鮮卑せんぴはしばしば幽州ゆうしゅう漁陽郡ぎょようぐん幷州へいしゅう并州へいしゅう)・朔方郡さくほうぐんに侵攻して略奪を行った。

後漢ごかん順帝じゅんてい永建えいけん6年(131年)秋、耿曄こうよう司馬しばを派遣して族の兵・数千人をひきいさせ、塞外さいがい(長城の外)に出てこれを撃ち破った。


冬、漁陽太守ぎょようたいしゅもまた烏桓うがん兵を派遣して鮮卑せんぴを攻撃し、斬首・8百級に牛馬・生口せいこう(捕虜)を鹵獲ろかくした。

烏桓うがん豪人ごうじん(有力者)である扶漱官ふそうかんは勇猛でたくましく、鮮卑せんぴとの戦いのたびに敵陣を陥落かんらくさせる戦功を立てたので、みことのりが下されて率衆君そつしゅうくんの号をたまわった。

耿曄の鮮卑征伐

後漢ごかん順帝じゅんてい陽嘉ようか元年(132年)冬、耿曄こうよう烏桓うがん親漢都尉しんかんとい戎朱廆じゅうしゅかいに命じ、咄帰とつきらをひきいて塞外さいがい(長城の外)に出て鮮卑せんぴを急襲させ、多くの敵を討ち取り、多数の戦利品を得て帰還した。*4

そこで朝廷は、咄帰とつき以下の者たちをそれぞれ率衆王そつしゅうおうこうちょうに任命し、さらに身分に応じて綵繒さいそう(彩色の絹織物)を与えた。

その後、鮮卑せんぴ幽州ゆうしゅう遼東属国りょうとうぞっこくに侵攻したため、耿曄こうようは軍を移し、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん無慮城ぶりょじょうに駐屯してこれを防いだ。

脚注

*4原文:陽嘉元年冬,耿曄遣烏桓親漢都尉戎朱廆率眾王侯咄歸等,出塞抄擊鮮卑,大斬獲而還,

趙稠の鮮卑征伐

後漢ごかん順帝じゅんてい陽嘉ようか2年(133年)春、匈奴中郎将きょうどちゅうろうしょう趙稠ちょうちゅうは、従事じゅうじつかわし南匈奴みなみきょうど骨都侯こつとこう夫沈ふちんらをひきいて塞外さいがい(長城の外)へ出て鮮卑せんぴを撃ち破り、多くの敵を討ち取り戦利品を得た。

そこでみことのりを下し、夫沈ふちんには金印紫綬きんいんしじゅが与えられ、それぞれの功績に応じて縑綵けんさい(絹織物)を下賜かしした。

秋、鮮卑せんぴとりで(長城)を突破して馬城ばじょうへ侵入した。代郡太守だいぐんたいしゅがこれを攻撃したが、勝つことはできなかった。

その後、其至鞬きしけんが亡くなると、鮮卑せんぴによる略奪・侵入は次第に少なくなった。

出典
  • 後漢書ごかんじょ烏桓鮮卑列伝うがんせんぴれつでん
  • 後漢書ごかんじょ鮮卑列伝せんぴれつでん

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