正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧④季孫氏きそんし④[季平子きへいし季孫意如きそんいじょ)]です。

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凡例・関連記事

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き④

季平子

季平子きへいし季孫意如きそんいじょ

生年不詳〜定公ていこうの5年(紀元前505年)没。名は意如いじょ。父は季悼子きとうし季孫紇きそんこつ)。祖父は季武子きぶし季孫宿きそんしゅく)。正卿せいけい宰相さいしょう)。

苑囿を築く

昭公しょうこうの9年(紀元前533年)冬、ろう苑囿えんゆう(狩猟や娯楽のための庭園)をきずいた。

季平子きへいしはその工事が早く完成することを望んだが、叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は、

に『事業を始めるにあたっては、あわて急いではならない。急がなければ、多くの民がみずからやって来て協力する』とあります。どうして急いで完成させる必要があるのでしょうか? それでは民を疲弊ひへいさせてしまうだけです。 苑囿えんゆうなどなくても良いが、民がいなくなってしまって良いはずがない」

いさめた。

人を生贄にする

昭公しょうこうの10年(紀元前532年)秋7月、季孫意如きそんいじょ季平子きへいし)と叔弓しゅくきゅう仲孫貜ちゅうそんわくきょってこうを攻め取ったが、(季平子きへいしは)その捕虜を宗廟そうびょうに献上し、初めて亳社はくしゃいん代のやしろ)の祭祀さいしにおいて、人を(生贄いけにえに)もちいた。

せいにいた臧武仲ぞうぶちゅうはこれを聞くと、

周公しゅうこうは、おそらく祭祀さいしけないであろう。そもそも周公しゅうこう祭祀さいしけるのは、義があるからであるが、には義がない。
に『徳ある者の評判は明らかで、 民を粗末そまつに扱うことはない』とある。民を粗末そまつに扱うだけでもはなはだしくひどいことなのに、人を(牛や羊のように生贄いけにえに)もちいて、神はいったい誰に福をもたらすというのか!」

と言った。

厥憖の会に出席する

昭公しょうこうの11年(紀元前531年)秋、季孫意如きそんいじょ季平子きへいし)はしん韓起かんき韓宣子かんせんし)、せい国弱こくじゃくそう華亥かがいえい北宮佗ほくきゅうたてい子皮しひそうひとひとえい厥憖けつきんで会合したが、これは、に攻められているさいを救う相談をしたものである。

南蒯が費で叛乱を起こす

昭公しょうこうの12年(紀元前530年)冬、季平子きへいし南蒯なんかい*1に礼をもって待遇しなかったので、南蒯なんかい*1子仲しちゅう公子こうしきん)に言った。

わたし季氏きしを追い出して(季氏きしの領地・財産を)公室に返しますので、あなたは(季氏きしに代わって)その位についてください。わたしの代官として公室の臣下となります」

子仲しちゅうはこれを許し、南蒯なんかい*1はまた、叔仲穆子しゅくちゅうぼくし叔仲帯しゅくちゅうたいの子)にも打ち明けた。


季悼子きとうし季孫紇きそんこつ*2が亡くなった時、叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)が再命*3けいとなり、平子へいし季平子きへいし)が[昭公しょうこうの10年(紀元前532年)に]きょって勝った時、平子へいし季平子きへいし)は三命*3けいとなったが、叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)も三命*3けいとなった。


そこで叔仲子しゅくちゅうし叔仲穆子しゅくそんぼくし)は叔孫しゅくそん季孫きそんの2家を争わせようと考え、平子へいし季平子きへいし)に「三命*3けいとなって父兄を越えた待遇を受けているのは、礼にかなっていません」と言うと、平子へいし季平子きへいし)は「その通りだ」と言って、叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)にみずから辞退させようとした。

すると叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は言った。

叔孫氏しゅくそんしには[昭公しょうこうの4年(紀元前538年)に]わざわいが起こり、嫡子ちゃくしを殺して庶子しょしを立てることになり、わたしがこうして後を継いでいるのです。もし、わざわいを理由に(叔孫氏しゅくそんしを)ほろぼすということならば、おおせに従いましょう。ですがもし、君命をはいするのでなければ、わたしの地位はゆるるぎようがありません」

その後、叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)が朝廷の役人に命じて「わたし季氏きし季平子きへいし)を告訴する。文書の内容は偏りなく書くように」と言うと、季孫きそん季平子きへいし)はおそれて、その罪を叔仲子しゅくちゅうし叔仲穆子しゅくそんぼくし)に着せた。


これを受け、叔仲小しゅくちゅうしょう叔仲穆子しゅくそんぼくし)・南蒯なんかい*1公子こうしきんの3人は、季氏きし季平子きへいし)を謀議ぼうぎをした。公子こうしきんはそのはかりごと昭公しょうこうに報告し、昭公しょうこうのお供をして(援助を求めるために)しんへ出かけた。

南蒯なんかい*1は「季氏きし季平子きへいし)に勝てないであろう」とおそれて叛乱はんらんを起こし、せいへ出かけてその援助を求めた。

子仲しちゅう公子こうしきん)は、しんからかえってえいまで来たところで叛乱はんらんが起こったことを聞き、副使ふくしの役をすっぽかして先に帰ったが、郊外まで来て「南蒯なんかい*1そむいたこと」を聞くと、そのまませいに逃亡した。


南蒯なんかい*1が(叛乱はんらんを起こそうとして)に出かけようとした時、郷人むらびとに酒を振る舞った。すると郷人むらびとのある者が歌って言った。


わたし(畑)にくこを植えて荒らそうとしているよ
わたしについて来る者は立派な人
わたしの元を去る者はいやしい人
隣人にそむく者は恥を受けるよ
やめようよ、やめようよ
われらの仲間ではないか


平子へいし季平子きへいし)が叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)に命じて叔仲小しゅくちゅうしょう叔仲穆子しゅくそんぼくし)を追放させようとしたところ、それを聞いた叔仲小しゅくちゅうしょう叔仲穆子しゅくそんぼくし)は朝廷に出仕しなくなった。

そこで叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は(役人)に命じて、叔仲小しゅくちゅうしょう叔仲穆子しゅくそんぼくし)に「朝廷で政務を待て」と伝えさせ、「わたしうらみを集める者にはなりたくない」と言った。

脚注

*1南遺なんいの子で季子きし領邑りょうゆうの代官。

*2季武子きぶし季孫宿きそんしゅく)の子。季平子きへいし季孫意如きそんいじょ)の父。

*3再命・三命は九儀之命きゅうぎのめい(身分格式の等級体系)の1つ。一命:大国の下大夫かたいふ・小国のけい。再命:大国の下卿かけい。三命:大国の上卿じょうけい。参考: 金藤行雄かなふじゆきお「『周礼しゅらい』の命について」

費を取り戻す

昭公しょうこうの13年(紀元前529年)春、叔弓しゅくきゅうを包囲したが勝つことができず、逆に敗れた。

これに怒った平子へいし季平子きへいし)は「ひとを見つけたららえて捕虜にせよ」と命じたが、冶区夫やおうふは、


「いけません。もしひとを見つけましたならば、寒さにこごえている者には衣服を与え、えた者には食事を与え、き主人となって彼らの困窮こんきゅうを救ってやるのがよろしい。

そうなされたならば、の人々は(季氏きしもとに)帰り、南氏なんし南蒯なんかい*1)は滅びるでしょう。民がそむいたなら、[南氏なんし南蒯なんかい*1)は]いったい誰と一緒にに居続けることができるでしょうか。

もしの民をおどし、怒りをもっておそれさせたならば、民はにくんで(季氏きしに)そむき、南氏なんし南蒯なんかい*1)のもとに集まるでしょう。もし諸侯しょこうがみなそのようにしたならば、ひとには帰るところがなく、南氏なんし南蒯なんかい*1)に親しむ以外に、どこにその身をやすんじる場所があるでしょうか」


と言った。平子へいし季平子きへいし)はこれに従い、その結果、ひと南氏なんし南蒯なんかい*1)にそむいた。

脚注

*1南遺なんいの子で季子きし領邑りょうゆうの代官。

晋に捕らえられる

昭公しょうこうの10年(紀元前532年)に]が(きょの)こうを攻め取ったため、しん諸侯しょこうの軍をひきいてとうと考えた。そこで(晋侯しんこうは)あまねく諸侯しょこうに会合を命じ、7月丙寅へいいんの日(30日)、しゅの南に兵車4千じょうそろえ、羊舌鮒ようぜつふ司馬しばを代行させた。

こうして昭公しょうこうは(東周とうしゅうの)劉子りゅうし晋侯しんこう斉侯せいこう宋公そうこう衛侯えいこう鄭伯ていはく曹伯そうはく莒子きょし邾子しゅし滕子とうし薛伯せつはく杞伯きはく小邾子しょうしゅしと、平丘へいきゅうで会合した。

この時、しゅひときょひとしんに訴えて、

が朝夕、我らをつため、もはや滅びかかっております。わたしどもが貴国に貢物をおさめられないのは、のためでございます」

と言ったので、晋侯しんこう昭公しょうこうに会おうとせず、叔向しゅくきょうつかわして、

諸侯しょこう甲戌こうじゅつの日(8月8日)にちかいを結ぼうとしておりますが、寡君かくん(我が君)は君(昭公しょうこう)にお仕えすることができない*4と考えております。どうかちかいに参加なされませんように」

挨拶あいさつさせた。これに子服恵伯しふくけいはく孟椒もうしょう)は、

「君(晋侯しんこう)は蛮夷ばんいしゅきょ)の訴えを信じて、兄弟関係にあるとの縁を断ち切り、周公しゅうこうの子孫をてようとしておられる。これもただ、君(晋侯しんこう)のお考え次第です。寡君かくん(我が君)にはおおせのほどうけたまわりました」

と反論したが、しんの強大な軍事力をおそれてその命令に従い、昭公しょうこうちかいに参加しなかった。

諸侯しょこう甲戌こうじゅつの日(8月8日)に平丘へいきゅうちかいを結んだのは、せいしんに服従したからである。


しんひと季孫意如きそんいじょ季平子きへいし)をらえてまくおおい、(しんに属していた)てきひと(北方異民族)に見張りをさせた。

大夫たいふ司鐸射したくせきは、にしきふところに入れて一壺ひとつぼの飲み物と氷を持ち、腹ばいになって季孫意如きそんいじょ季平子きへいし)を助けに出かけたが、見張りの者が通さなかったので、にしきを与えて中に入った。

しんひと平子へいし季平子きへいし)を連れて国に帰ったが、(の)子服湫しふくしょう子服恵伯しふくけいはく孟椒もうしょう)]はこれに従ってしんに行った。

脚注

*4と絶交する」ということをへりくだって言った言葉。

魯に帰還する

冬10月、昭公しょうこうが(しんらわれている季平子きへいしもらい受けるため)しんに出かけた。

するとしん荀呉じゅんごは、韓宣子かんせんし韓起かんき)に言った。

諸侯しょこうがお互いに朝見し合うのは、旧来の友好関係を確認するためです。今、その国のけいらえておきながら、その君(国君)に朝見させるというのは好ましくありません。ことわった方がよろしいでしょう」

そこでしん士景伯しけいはくつかわし、黄河こうがのほとりで昭公しょうこうに会って辞退させた。


子服恵伯しふくけいはく孟椒もうしょう)は、私的にしん中行穆子ちゅうこうぼくし荀呉じゅんご)と会って言った。


しんに仕えておりますが、どうしてえびす(異民族)の小国よりも劣った扱いを受けるのでしょうか。しんは兄弟の国であり、土地も(しゅきょより)広く、命じられれば必要なことは整えて差し出すことができます。

もし(しんが)えびす(異民族)のために見棄みすて、(その結果、)せいに仕えたならば、それはしんにとって何の利益があるのでしょうか?

親類に親しみ大国を尊重し、賞を共にし罰を異にすることこそが、盟主というものではありませんか。 どうかよくお考えください。

臣一主二しんいつしゅに(誰に仕えるかは個人の自由)』ということわざがあります。には(しんの他に仕えるべき)大国がないと思っておられるのでしょうか?」


そこで中行穆子ちゅうこうぼくし荀呉じゅんご)は、韓宣子かんせんし韓起かんき)に報告した上で、

ちんさいを滅ぼした時、(しんは)この2国を救うことができなかった。それなのに(しんは)また、えびす(異民族)のために親類であるけいらえている。どうしてこんなことをする必要があるというのか」

と言い、季孫きそん季平子きへいし)をに帰すことにした。

すると子服恵伯しふくけいはく孟椒もうしょう)は、


寡君かくん(我が君)はその罪を知らされることもなく、居並ぶ諸侯しょこうたちの前で その重臣をらえられました。

もしに罪があると言われるのなら、死を命じられても従います。ですが、罪がないとのおめぐみをたまわって(季平子きへいしを)帰されましても、諸侯しょこうたちがの無罪を知らされていなければ、(しんの)ご命令にそむいて逃げ出したと思うでしょう。

それでどうしてお許しをたまわったと言えるのでしょうか。どうか、諸侯しょこうの会合の席において、君(晋侯しんこう)のお許しをたまわることをお許しください」


と言った。

返答に困った韓宣子かんせんし韓起かんき)が叔向しゅくきょうに「あなたなら(が納得した上で)季孫きそん季平子きへいし)をに帰すことができるか?」とたずねたところ、叔向しゅくきょうは「できません。羊舌鮒ようぜつふ叔魚しゅくぎょ)ならできるでしょう」と答えた。

そこで叔魚しゅくぎょ羊舌鮒ようぜつふ)をつかわして季孫きそん季平子きへいし)に言った。


「昔[襄公じょうこうの21年(紀元前552年)]、わたし晋君しんくん平公へいこう)に罪を得て魯君ろくん襄公じょうこう)の元に身を寄せたことがありましたが、[季平子きへいしの祖父・]武子ぶし季武子きぶし)のご厚意をたまわることができなかったならば、わたしは今日、こうしていることができなかったでしょう。

骨となってしんに帰るべきところを、あなたがたが生かして帰してくださったのです。どうして真心を尽くさずにおられましょうか。

あなたを(に)帰国させることができないのなら、わたしも(ご恩を返せないまま)帰ることはできません。わたし(役人)から『あなたのために西河せいがの地にある宿舎を掃除して、お待ちすることになっている*5』と聞いております。どうなさるおつもりですか?」


叔魚しゅくぎょ羊舌鮒ようぜつふ)が涙を流しながら言うと、平子へいし季平子きへいし)はおそれて先に帰り、子服恵伯しふくけいはく孟椒もうしょう)は、後に残って「正式に許されて帰される礼」を待った。

昭公しょうこうの14年(紀元前528年)春、季孫意如きそんいじょ季平子きへいし)はしんから帰国した。

脚注

*5季平子きへいしを「からはるか遠くへだたる西河せいがの地に幽閉する」ことを婉曲えんきょくに言ったもの。

子服恵伯の子・子服昭伯

昭公しょうこうの16年(紀元前526年)夏、前年の冬からしんに出かけていた昭公しょうこうが帰国した。

昭公しょうこうに従ってしんから帰国した)子服昭伯しふくしょうはく子服恵伯しふくけいはくの子・子服回しふくかい)が季平子きへいしに、

しんの公室は間もなくおとろえるでしょう。君(しん昭公しょうこう)は幼弱で、六卿りくけいの勢力は強大でおごり高ぶっていますので、彼らの勝手な振る舞いは常態化するでしょう。そうなってしまえば、どうしておとろえずにいられるでしょうか」

と言ったが、平子へいし季平子きへいし)は「おまえはまだわかい。どうして国家のことが分かるのか?」と言って信用しなかった。


秋8月、しん昭公しょうこうが亡くなった。

冬10月、季平子きへいししん昭公しょうこうの葬儀に参列するためしんおもむいたが、(しんの様子を見た)平子へいし季平子きへいし)は「子服回しふくかい子服昭伯しふくしょうはく)の言ったことは本当だった。子服氏しふくしには良い子がいるものだ」と言った。

小邾の穆公の来朝

昭公しょうこうの17年(紀元前525年)春、小邾しょうちゅうげい)の穆公ぼくこうに来朝し、昭公しょうこううたげを共にした。

季平子きへいしうたげの席で(詩経しきょう小雅しょうが桑扈そうこじゅう・)采菽さいしゅく*6(立派な君子の来朝を歓迎する)を歌い、穆公ぼくこうは(詩経しきょう小雅しょうが彤弓とうきゅうじゅう・)菁菁者莪せいせいしゃが[君子(季平子きへいし)に会えた嬉しさを歌った]を歌った。

これについて昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は「あの謙虚にして礼儀ある態度をもって国を治めたのでなければ、どうしてこんなに長く国君の位をたもつことができようか*7」と言った。

脚注

*6原文は采叔さいしゅく

*7明治書院めいじしょいん新釈漢文大系しんしゃくかんぶんたいけい春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん(四)』より。原文は「不有以國,其能久乎?」。

日食をめぐる議論

夏6月、甲戌こうじゅつついたちに日食があった。祝史しゅくし(神事官)が日食にもちいる幣帛へいはくそなえ物)をうと、昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は、

「日食の場合には、天子てんしはご馳走の品を減らしてやしろ(土地の神)で鼓を打ち鳴らし、諸侯しょこう幣帛へいはくやしろそなえて朝廷で鼓を打ち鳴らすのが礼です」

と言った。

平子へいし季平子きへいし)はこれを止めて、

「やめなさい。ただ正月のついたちには陰気がまだ起こらないもので、その日に日食があれば、鼓を打ち鳴らし幣帛へいはくもちいるのが礼である。他の月の日食には、そうはしないものである」

と言ったので、大史たいしは、


「その正月とはこの月(6月)のことです。太陽が春分を過ぎてもまだ夏至になっていない時に、三辰(日・月・星)に災異が起これば、百官は飾りのある衣服をけて素服(白い朝服)を着ます。君(国君)は、(日食が終わるまで)ご馳走の品を減らし、正寝を離れて過ごします。祝史しゅくし(神事官)は幣帛へいはくやしろそなえ、右筆ゆうひつは祭文をささげます。

夏書かしょに『しんぼうに集まらず(日と月がその居場所に落ち着かないで日食が起こり)、(楽官)は鼓を打ち鳴らし、嗇夫しょくふ幣帛へいはくつかさどる役人)は走り回り、庶人は奔走ほんそうした』とあるのは、この月(6月)のついたちのことを言ったものです。それはの時代の4月にあたっており、これを孟夏もうか(初夏)と言います」


と反論したが、平子へいし季平子きへいし)は聞き入れなかった。

昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は退出すると「あの方は良からぬ心をいだいている。君(国君)を君(国君)とも思っていない」と言った。

饗応を妨害する

昭公しょうこうの21年(紀元前521年)夏、しん士鞅しおう范鞅はんおう范献子はんけんし)が来聘らいへいした。

当時は叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)が政務を担当していたが、(かねてより叔孫昭子しゅくそんしょうしと仲が悪かった)季孫きそん季平子きへいし)は「しん叔孫昭子しゅくそんしょうしのことを悪く思わせよう」と考え、有司ゆうし(役人)に命じて[昭公しょうこうの14年(紀元前528年)に]せい鮑国ほうこくを返しに来た時と同じ礼で士鞅しおう范献子はんけんし)を接待させた。

これに士鞅しおう范献子はんけんし)が怒って、

鮑国ほうこくの位は低く、その国も小さいのに、わたし鮑国ほうこくと同じ牢礼ろうれい*8で接待した。これは敝邑へいゆう(我が国)をいやしめるものだ。このことは寡君かくん(我が君)に報告させてもらおう」

と言ったので、ひとは恐れ、四牢 を加えて 十一牢 とした。

脚注

*8ろう饗応きょうおうもちいる犠牲獣(牛・羊・豚)のセット数を表し、その数量によって外交上の待遇の等級が決まる。周礼しゅうらい正義せいぎに「上公じょうこう:九牢、諸侯しょこうこうはく):七牢、諸子しょしだん):五牢」とある。

妻を迎える

昭公しょうこうの25年(紀元前517年)春、叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)がそう聘問へいもんして、そう元公げんこう公女こうじょ季平子きへいしの妻に迎えた。(季武子きぶしの末子・)季公若きこうじゃくの姉は小邾しょうしゅ夫人ふじんとなってそう元公げんこう夫人ふじん曹氏そうし)を生んだが、この曹氏そうしが生んだ公女こうじょ季平子きへいしの妻としたのである。

つのる季平子への怨み
季公若きこうじゃくうら

以前、(季公若きこうじゃくの兄・)季公鳥きこうちょうせい鮑文子ほうぶんしから妻を迎えて、こうという子を生んだ。季公鳥きこうちょうが亡くなると、季公亥きこうがい季公若きこうじゃく)と(季氏きしの一族である)公思展こうしてんの2人が、季公鳥きこうちょうの家臣・申夜姑しんやこと一緒に季公鳥きこうちょうの家の世話をした。

ところがその後、(季公鳥きこうちょうの未亡人の)季姒きじ饔人ようじん(料理人)と擅通せんつう(密通)するようになると、(季公若きこうじゃくたちに)発覚することをおそれた季姒きじ侍女じじょに自分の身体をむち打たせ、その傷を(大夫たいふ・)秦遄しんせんの妻(季公鳥きこうちょうの妹・秦姫しんき)に見せて、

公若こうじゃく季公若きこうじゃく)がわたしを自由にしようとしたが、わたしが言いなりにならなかったのでむち打ったのです」

と言い、さらに(季平子きへいしの弟・)公甫こうほうったえて「てん公思展こうしてん)と夜姑やこ申夜姑しんやこ)がわたしおどして無礼な振る舞いをしようとしました」と言った。


このことを、秦姫しんきが(季平子きへいしの弟・)公之こうし季公之きこうし)に話し、公之こうし季公之きこうし)と公甫こうほ平子へいし季平子きへいし)に報告すると、平子へいし季平子きへいし)はてん公思展こうしてん)をべん拘留こうりゅうし、夜姑やこ申夜姑しんやこ)をらえて処刑しようとした。

公若こうじゃく季公若きこうじゃく)は泣いて悲しみ、「申夜姑しんやこを殺すことは、わたしを殺すようなものだ」と言って、夜姑やこ申夜姑しんやこ)のいのちいをしようとした。

すると平子へいし季平子きへいし)は、じゅ(召使い)に命じて面会させないようにしたので、公若こうじゃく季公若きこうじゃく)は正午になってもいのちいをすることができないまま、公之こうし季公之きこうし)が有司ゆうし(役人)に命じて夜姑やこ申夜姑しんやこ)を処刑してしまったので、公若こうじゃく季公若きこうじゃく)は平子へいし季平子きへいし)をうらむようになった。

郈昭伯こうしょうはくうら

季平子きへいし)とこう郈昭伯こうしょうはく)の家が近かったので、両家のにわとり喧嘩けんかをした。すると季氏きし季平子きへいし)は自分のにわとりの胸にかわよろいのようにかぶせ、郈氏こうし郈昭伯こうしょうはく)は蹴爪けづめに金属をかぶせた。

これに怒った平子へいし季平子きへいし)は、自分の邸宅を郈氏こうし郈昭伯こうしょうはく)の邸宅の方に広げて建て増ししておきながら、「郈氏こうし郈昭伯こうしょうはく)の方が自分の邸宅の領域をおかした」と責め立てたので、郈昭伯こうしょうはくもまた平子へいし季平子きへいし)をうらむようになった。

臧昭伯ぞうしょうはくうら

臧昭伯ぞうしょうはくの従弟の臧会ぞうかい臧氏ぞうし讒言ざんげんして季氏きしの元へ逃げ込んだが、臧氏ぞうし臧昭伯ぞうしょうはく)がかいらえると、平子へいし季平子きへいし)は怒って臧氏ぞうし臧昭伯ぞうしょうはく)の家老をらえた。

また、襄公じょうこうてい祭祀さいし)を行おうとした時、襄公じょうこうびょうで舞った楽人はわずか2人であったが、その他多くの楽人が季氏きし季平子きへいし)の家廟かびょうで舞っていた。

これについて臧孫ぞうそん臧昭伯ぞうしょうはく)は「こうしたことを『先君のびょうないがしろにして正しい礼を行わない』と言うのだ」と言った。

こうしたことから、大夫たいふたちは平子へいし季平子きへいし)をうらむようになった。

昭公を追放する
季平子きへいし追放計画

公若こうじゃく季公若きこうじゃく)と(昭公しょうこうの子・)公為こうい公果こうか公賁こうふん、(昭公しょうこうの)侍者じしゃ僚柤りょうさらが、季氏きし季平子きへいし)を追い出すように申し上げた。

そこで昭公しょうこうは、臧孫ぞうそん臧昭伯ぞうしょうはく)と郈昭伯こうしょうはく子家懿伯しかいはくの3人に相談したが、賛成したのは郈昭伯こうしょうはくだけで、臧孫ぞうそん臧昭伯ぞうしょうはく)と子家懿伯しかいはくは、その困難さと失敗した時の昭公しょうこうへのリスクを指摘して反対した。

昭公しょうこう季平子きへいしを攻める

叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)が(ゆうの)かんに出かけると、昭公しょうこう長府ちょうふに移った。9月戊戌ぼじゅつの日(11日)、(昭公しょうこうは)季氏きし季平子きへいし)を攻めて(季平子きへいしの弟・)公之こうし季公之きこうし)を(季氏きしの邸宅の)門で殺害し、そのまま中へなだれ込んだ。

すると平子へいし季平子きへいし)は、台(高楼たかどの)に登って、

わたくしの罪をよくお調べにならずに、有司ゆうし(役人)に命じて武器をもってわたくしたせるとは。我が君、わたくし沂水きすいのほとりでお待ちしておりますので、どうかわたくしの罪をよくお調べください」

うたが、昭公しょうこうは許さなかった。そこで季平子きへいしは「に幽閉してほしい」とうたが許さず、また「5じょうの車で逃亡させてほしい」とうても、昭公しょうこうは許さなかった。

すると子家子しかし子家懿伯しかいはく)は、


「我が君、どうか季氏きし季平子きへいし)をお許しください。(の)まつりごと季氏きし季平子きへいし)によって行われるようになってから、長い年月がっています。民の中には季氏きし季平子きへいし)から生活のかてを得ている者が多く、その配下となっている者も多数おります。日がれれば(季平子きへいしを助けようとする者が出て)変事が起こるかもしれず、予測できません。

季氏きし季平子きへいし)を助けようとする者たちの怒りはおさえることはできず、たとえおさえることができてもおさめることができなければ、その怒りは積もってゆきます。怒りを積もらせれば、民は反乱の心を起こし、互いに結びつきます。我が君は、必ず後悔なさるでしょう」


と言ったが、昭公しょうこうは許さなかった。

そこで郈孫こうそん郈昭伯こうしょうはく)が「必ず殺すべきです」と言うと、昭公しょうこう郈孫こうそん郈昭伯こうしょうはく)に命じて孟懿子もういし仲孫何忌ちゅうそんかき)を(味方にするために)むかえに行かせることにした。

叔孫氏しゅくそんしの反応

叔孫氏しゅくそんし叔孫婼しゅくそんしゃく)の司馬しば鬷戻そうれい*9は、叔孫氏しゅくそんしの家来たちに「どうするべきか?」と言ったが、誰も答えなかった。そこでまた、

わたしは家臣にすぎず、国の(政治の)ことは分からない。季氏きし季平子きへいし)がいるのといないのとでは、わたしたちにとってどちらが利益になるだろうか?」

と言うと、みな

季氏きし季平子きへいし)がいなければ、叔孫氏しゅくそんし叔孫婼しゅくそんしゃく)も存在することができません」

と言った。すると鬷戻そうれい*9は「では救おう」と言い、兵をひきいて季氏きし季平子きへいし)の邸宅に向かうと、邸宅を包囲していた西北の一角いっかくを破って邸宅に入った。

この時 昭公しょうこうの兵は、よろいを脱いでひょう(矢筒のふた)に酒をぎ、しゃがみ込んで酒を飲んでいたので、(鬷戻そうれい*9は)容易たやすくこれを追い払った。

脚注

*9原文:叔孫氏之司馬鬷戾言於其眾曰:。明治書院めいじしょいん新釈漢文大系しんしゃくかんぶんたいけい春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん(四)』では「叔孫氏しゅくそんしの臣、司馬鬷戻しばそうれいと訳す。参考:維基百科:鬷戾

昭公しょうこうが亡命する

孟氏もうし孟懿子もういし)は(自分の邸宅の)西北に人を登らせて、季氏きし季平子きへいし)の邸宅の様子を見張らせていたが、そこに叔孫氏しゅくそんし叔孫婼しゅくそんしゃく)のはたを見つけると、(自分をむかえに来た)郈孫こうそん郈昭伯こうしょうはく)をらえて南門の西で殺害し、昭公しょうこうの兵を攻撃した。


これを受け、子家子しかし子家懿伯しかいはく)は昭公しょうこうに、

「臣下たちは『君(昭公しょうこう)をおどして季氏きし季平子きへいし)をたせた』と、いつわりの罪を着せて外に逃がし、君(昭公しょうこう)はここにおとどまりください。そうすれば、意如いじょ季平子きへいし)も君(昭公しょうこう)へのつかえ方を改めるでしょう」

と言ったが、昭公しょうこうは「(臣下たちに罪を着せるのは)しのびない」と言い、臧孫ぞうそん臧昭伯ぞうしょうはく)とはかに出かけて相談すると、己亥きがいの日(9月12日)にせいに亡命して陽州ようしゅうとどまった。

叔孫昭子しゅくそんしょうしの死

ゆうの)かんから帰って来た昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は、平子へいし季平子きへいし)と会った。

平子へいし季平子きへいし)が稽顙けいそうひたいを地につけて敬礼すること)して「あなたわたしをどうなさるおつもりですか?」と言うと、昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は言った。

「人は誰も死ぬものです。あなたは君(昭公しょうこう)を追放してした名は、子孫の代まで忘れないでしょう。なんと痛ましいことではありませんか。(私は)あなたをどうするべきでしょうか?」

すると平子へいし季平子きへいし)は、

「もし意如わたしが、改めて君(昭公しょうこう)に仕えることを許されるならば、それはまさに死者を生き返らせ、白骨に肉をつけるようなものです」

と言った。


そこで昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は、せいとどまっている昭公しょうこうの元に行き、季平子きへいしが後悔していることを話した。これを知った子家子しかし子家懿伯しかいはく)は「昭公しょうこう幄舎あくしゃ内に行く者をらえよ」と命じた。

昭公しょうこう昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は幄舎あくしゃ内で話し、昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は「国に帰って人々を安心させ、公(昭公しょうこう)を国におむかえしましょう」と言った。

この時、昭公しょうこうの従者は、昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)を殺そうとして道に兵をせていたが、大夫たいふ左師展さしてんがそのことを昭公しょうこうに報告したので、昭公しょうこう昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)に命じ、(伏兵ふくへいけて)自分のゆうであるしゅへ帰らせた。

ところが、平子へいし季平子きへいし)は心変わりして昭公しょうこうに入れようとしなかった。

冬10月辛酉しんゆうの日(5日)、昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)は(責任と腹立たしさのあまり)自分の寝所で身を清め、祝宗しゅくそう(神官)に命じて「自分が死ぬように」といのらせた。戊辰ぼしんの日(12日)に亡くなった。

左師展さしてん昭公しょうこうをお連れして馬に乗って急いで帰ろうとしたが、昭公しょうこうの従者が左師展さしてんらえて帰さなかった。

臧会に臧氏を継がせる

12月庚辰こうしんの日(25日)、斉侯せいこうは(昭公しょうこうを住まわせようとして、ゆう・)うんを包囲した。

臧昭伯ぞうしょうはく昭公しょうこうに従って国外に出てから、平子へいし季平子きへいし)は臧氏ぞうしの家を(臧昭伯ぞうしょうはくと反目する従弟の)臧会ぞうかいに継がせた。

斉による昭公の帰還計画

昭公しょうこうの26年(紀元前516年)春、王正月庚申こうしんの日(6日)、斉侯せいこうが(包囲していた)ゆううんを攻め取った。3月、昭公しょうこうせいから帰国してうんに居住した。

夏、斉侯せいこう昭公しょうこうに入れるため「季平子きへいし)の賄賂わいろを受け取ってはならない」と命じたが、(斉侯せいこう寵臣ちょうしん・)子猶しゆう梁丘拠りょうきゅうきょ)は賄賂わいろを受け取って、斉侯せいこうに言った。


「(せいの)群臣が魯君ろくん昭公しょうこう)のために尽力しないのは、決して我が君(斉侯せいこう)の責任ではありません。ですが、わたしには不審に思う所がございます。

そう元公げんこう魯君ろくん昭公しょうこう)のためにしんに出かけて曲棘きょくきょくで亡くなり、(の)叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)はその君(昭公しょうこう)をに入れようとして病気でもないのに死にました。これは天がを見捨てたのでしょうか。それとも魯君ろくん昭公しょうこう)が鬼神のたたりを受けて、このような結果になったのでしょうか。

我が君(斉侯せいこう)がもし、曲棘きょくきょくでお待ちくださるならば、群臣に命じて魯君ろくん昭公しょうこう)に従って戦いの成否をうらなわせましょう。もし『可』ならば、軍は成功します。そこへ我が君(斉侯せいこう)が続いて進まれれば、もはや敵はいなくなりましょう。もし成功しなかったとしても、我が君(斉侯せいこう)の恥辱ちじょくとはなりません」


これを聞き入れた斉侯せいこうは、公子こうししょに命じ、軍をひきいて魯君ろくん昭公しょうこう)に従わせた。

炊鼻の戦い

孟孫氏もうそんしゆう・)せい大夫たいふ公孫朝こうそんちょうが「地方にある都城は国をまもるためのものです。わたしせいの軍をひきいてせいの軍に当たりたいと存じます」と願い出たので、平子へいし季平子きへいし)にはそれを許した。

そこで公孫朝こうそんちょうが(季平子きへいしに)人質を入れることを申し出ると、季平子きへいしは「おまえの言葉を信じよう、それで十分だ(原文:信女,足矣)」と言った。


そこで公孫朝こうそんちょうは、せい軍に(いつわって)言った。

「(私の主人の)孟氏もうし敝室へいしつ(没落した家)です。(季平子きへいしが)せいもちいることはなはだしく、もはや耐えられません。どうかせいに身を寄せさせてください」

これを信じたせい軍がせいを包囲したが、せいひとは降伏せず、淄水しすいで馬に水を飲ませていたせい軍の者を攻撃した。こうして軍とせい軍は、炊鼻すいびで激戦となったが、せい軍はせいおとすことはできなかった。

昭公への贈り物をやめる

昭公しょうこうの28年(紀元前514年)、昭公しょうこうしんに出かけて、しん乾侯けんこうに行こうとした。

すると子家子しかし子家懿伯しかいはく)は「人に求めようとしていながら、安楽な所に身を落ち着けるようでは、誰があわれんでくれるでしょうか。まず(しんの)国境に行って、先方の命令を待たれるのがよろしいでしょう」と言ったが、昭公しょうこうはそれを聞き入れずに乾侯けんこうに行き、しんに「むかえ入れて欲しい」と申し入れをさせた。

これにしんひとは、

「天は国にわざわいおろし、ご主君(昭公しょうこう)には長い間苦労して他国(せい)におられましたが、我が君(しん頃公けいこう)にたった1人の使者をつかわして挨拶あいさつすることすらしないで、異姓の国(せい)に落ち着いておられました。それなのに、今になってご主君(昭公しょうこう)をむかえ入れて欲しいと言われるのですか」

と言って、昭公しょうこうを一旦国境に戻らせてからむかえることにした。


昭公しょうこうの29年(紀元前513年)、これまで平子へいし季平子きへいし)は毎年馬を買い求め、昭公しょうこうの従者の衣服やき物までをそろえて、乾侯けんこうにいる昭公しょうこうの元におくり届けていたが、昭公しょうこうは馬をおくり届けて来た者をらえてその馬を売ったので、平子へいし季平子きへいし)は馬をおくることをやめてしまった。

晋に呼び出される

昭公しょうこうの31年(紀元前511年)春、晋侯しんこう定公ていこう)が「軍をひきいて昭公しょうこうに入れよう」としたところ、范献子はんけんし范鞅はんおう士鞅しおう)は、

季孫きそん季平子きへいし)をし出して来なかったとしたら、それこそ本当の不忠の臣です。そのようにしてから季孫きそん季平子きへいし)をつことにしたらいかがでしょうか」

と言った。これに従ってしんひと季孫きそん季平子きへいし)をし出したが、この時 范献子はんけんしは、こっそりと(季平子きへいしに)人をつかわして「必ず来るように。とがめを受けないことは、わたしが保証します」と言わせた。

そこで季孫意如きそんいじょ季平子きへいし)はしんに出かけて、しん荀躒じゅんれき適歴てきれきで会合した。そこで荀躒じゅんれきが、

寡君かくん(我が君)はわたしに命じて吾子あなたに『なぜ君(昭公しょうこう)を国外へ追放したのか。君(昭公しょうこう)がありながら仕えないと言うのならば、しゅうには定まった刑罰がある。よく考えなさい』と伝えるようにおっしゃられました」

と言うと、季孫きそん季平子きへいし)は練冠れんかん喪時そうじかんむり)をかぶり、麻衣を着て裸足はだしで進み出ると、ひれ伏して、


「我が君(昭公しょうこう)に仕えようと致しましても、(帰国されないため)どうにもかなわないことでございます。決しておさばきからのがれようとの心はございません。

もし我が君(昭公しょうこう)が、わたくしに罪があるとお考えなら、どうか私をに幽閉してください。そこで我が君(昭公しょうこう)がお調べになられるのをお待ちしたいと思います。

季孫きそんの)先代のことを考えていただけますならば、季氏きしの家をやさずに(私だけに)死をたまわってください。もしこの身を殺さず、我が家を滅ぼさずにいただけるなら、それは君(昭公しょうこう)のご恩徳でございます。たとえ死んでもそのご恩は忘れません。

もし君(昭公しょうこう)に従って国に帰ることができますならば、それこそがわたくしの心からの願いでございます。どうして異心いしん(裏切りの心)などございましょうか」


と答えた。


夏4月、季孫きそん季平子きへいし)は知伯ちはく荀躒じゅんれき)に従って(昭公しょうこうがいる)乾侯けんこうに行った。

この時、子家子しかし子家懿伯しかいはく)が昭公しょうこうに、

「我が君(昭公しょうこう)は(季平子きへいしと一緒にに)お帰りください。一時いっときの恥をしのばずに、一生の恥をうおつもりですか?」

と言い、昭公しょうこうはこれを承諾したが、他の臣下たちは「(我が君が)一言ひとことおっしゃれば、季平子きへいしは追放されます!」と言って反対した。

荀躒じゅんれき晋侯しんこうの命を受けて昭公しょうこうを見舞ってなぐさめ、

寡君かくん(我が君)はわたしに命じられ、君命をもって意如いじょ季平子きへいし)をめさせましたが、意如いじょ季平子きへいし)は決して死をのがれようとは致しませんでした。(季平子きへいしと一緒に)国にお帰りください」

と言ったが、昭公しょうこうは、


「君(晋侯しんこう)には先君以来のよしみを思われ、また亡命中のこの身まで恩恵をほどこしてくださいました。

もし帰国して、宗廟そうびょうを清めて君(晋侯しんこう)にお仕えすることをお許しくださるなら、それはありがたいことでございます。

ですが、黄河こうがに誓って『再び夫人ふじん季平子きへいし)に会うこと』は決してありません!*10


と答えたので、荀躒じゅんれきは(意外な答えに驚いて)耳をふさいで走り去りながら、

寡君かくん(我が君)は(昭公しょうこう国に帰すことができない)罪を恐れたのです。もう国の難には関与しません。寡君かくん(我が君)に事の次第をご報告します」

と言い、退出して季孫きそん季平子きへいし)に、

「君(昭公しょうこう)の怒りはまだおさまっていません。あなたは国に帰ってお祭り(祭祀さいし)の世話でもなさるのがよろしいでしょう」

と言った。


一方、子家子しかし子家懿伯しかいはく)は、

「我が君(昭公しょうこう)には馬車1じょうで単身、の軍にお入りになれば、季孫きそん季平子きへいし)は必ずや我が君(昭公しょうこう)をお連れして国へ帰るでしょう」

と言い、昭公しょうこうもこれに従おうとしたが、多くの従者たちが昭公しょうこうを押しとどめたため、結局、帰ることができなかった。


昭公しょうこうの32年(紀元前510年)12月、昭公しょうこうは病気になり、己未きびの日(12月5日)に亡くなった。

脚注

*10原文:「君惠顧先君之好,施及亡人,將使歸糞除宗祧以事君,則不能見夫人。已所能見夫人者,有如河!」

子家子(子家懿伯)を求める

定公ていこうの元年(紀元前509年)夏、叔孫成子しゅくそんせいし叔孫不敢しゅくそんふかん*11が、乾侯けんこう昭公しょうこうひつぎを受け取りに行った。

この時 季孫きそん季平子きへいし)は、

子家子しかし子家懿伯しかいはく)はたびたびわたしに意見してくれたが、1度としてわたしの考えに合わなかったことはなかった。わたしは彼と共に政治を行いたいと思っている。あなたは必ず彼を引き止めて、この命令を伝えてほしい」

と言った。

ところが、子家子しかし子家懿伯しかいはく)は叔孫しゅくそん叔孫不敢しゅくそんふかん*11と会おうとせず、朝夕の哭礼こくれいの際にも時刻を変えて行った。

叔孫しゅくそん叔孫不敢しゅくそんふかん*11は面会を求めたが、子家子しかし子家懿伯しかいはく子家羈しかき)は辞退して言った。

わたしはまだお目にかかれないうちに、我が君(昭公しょうこう)に従って国外へ出ました。我が君(昭公しょうこう)から(あなたにお目にかかれとの)命令を受けないまま亡くなられた以上、わたしはお会いすることができません」

そこで叔孫しゅくそん叔孫不敢しゅくそんふかん*11子家子しかし子家懿伯しかいはく)に使者をつかわして、


公衍こうえん公為こうい(の昭公しょうこうの2人の子)が実際には群臣が我が君(昭公しょうこう)に仕えることをさまたげていたのです。もし公子こうしそう昭公しょうこうの弟・定公ていこう)が社稷しゃしょく(国家)を継がれるならば、それこそ群臣の願いです。

かつて我が君(昭公しょうこう)に従って国外へ出た者で帰国できる者は、すべてあなたの指示に従うでしょう。子家氏しかしにはまだ後継ぎがおられません。季孫きそん季平子きへいし)はあなたと共に政治を行いたいと望んでいます。

これらはすべて季孫きそん季平子きへいし)の願いであり、不敢わたしに命じて申し上げさせる次第です」


と言わせた。すると子家子しかし子家懿伯しかいはく)は答えて言った。


「どなたを国君に立てるかは、けい大夫たいふ守亀しゅき卜亀ぼくき)の者がいるので、わたしは関与する立場にありません。

我が君(昭公しょうこう)に従って国外へ出た者の中で、礼に従って国外へ出た者は帰国するべきであり、敵(季平子きへいし)に追われて国外へ出た者はそのまま去るべきです。

ですがわたしに限って言えば、我が君(昭公しょうこう)はわたしが国外へ出たことはご存じでしたが、帰国についての命令は受けていません。ゆえにわたしは立ち去りたいと存じます*12


昭公しょうこうひつぎ壊隤かいたいに着くと、公子こうしそう昭公しょうこうの弟・定公ていこう)が都に入ったが、昭公しょうこうに従っていた者たちは、みな壊隤かいたいから他国へ去ってしまった。

6月癸亥きがいの日(22日)、昭公しょうこうひつぎ乾侯けんこうからに入り、戊辰ぼしんの日(27日)に定公ていこうが位についた。

脚注

*11叔孫昭子しゅくそんしょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)の子。

*12原文:若立君,則有卿大夫與守龜在,羈弗敢知,若從君者,則貌而出者,入可也,寇而出者,行可也。若羈也,則君知其出也,而未知其入也,羈將逃也。

あああ

季孫きそん季平子きへいし)は人夫にんぷに命じ、かんにある公室の墓地に(昭公しょうこうの墓を先代の墓と隔離かくりさせるため、墓の周囲に)みぞを掘らせようとしたが、大夫たいふ営鴐鵝えいかがが、

「君(昭公しょうこう)の在世中は(国外に追い出して)お仕えせず、亡くなられた後もまた、その墓を先代の墓から切り離そうとするのは、みずから『君(昭公しょうこう)を追い出した自分の悪事を世に明らかにする』行為です。あなたは平気でも、のちの子孫たちはこれを恥じることでしょう」

と言ったので、これを中止した。


また季孫きそん季平子きへいし)は営鴐鵝えいかがに、

わたしは君(昭公しょうこう)に(悪い)おくりなおくり、子孫に(良からぬ国君であったことを)知らせたい」

と言ったが、営鴐鵝えいかがが、

「君(昭公しょうこう)の在世中は(国外に追い出して)お仕えせず、亡くなられた後もまた、悪いおくりなおくるのは、みずから『自分の悪を明らかにする』行為です。どうしてそのようなことをするのですか?」

と言ったので、これを中止した。*13


秋7月癸巳きしの日(22日)、昭公しょうこうは代々の墓の道の南側にほうむられた。孔子こうし司寇しこうとなった時に、昭公しょうこうの墓の外側にみぞを掘ってかこみ、代々の墓と地続きにした。

昭公しょうこうが国外に追放された事情があったため、季平子きへいしは(兄の後を継いだの第3代国君である)煬公ようこう祈祷きとうを行った。

脚注

*13原文:季孫問於榮鴐鵝曰:「吾欲為君謚,使子孫知之。」對曰:「生弗能事,死又惡之,以自信也。將焉用之?」乃止。
本文は意訳。季平子きへいしは「悪いおくりなおくる」とは言っていない。営鴐鵝えいかがは「おくりなおくる」行為自体を悪(偽善ぎぜん)と言っている可能性もある。

季平子の死

定公ていこうの5年(紀元前505年)6月、季平子きへいし東野とうやの地を巡察したが、そこから帰る途中の丙申へいしんの日(18日)、まだ都に着かないうちにぼうで亡くなった。


陽虎ようこが、季平子きへいしの遺体に(魯君ろくんびる)璵璠よはんという美玉をびさせて納棺しようとしたところ、仲梁懐ちゅうりょうかいはこれに賛成せず、「歩(喪礼そうれいの節)やびさせる玉を変えてはならない*14」と言った。

そこで陽虎ようこ公山不狃こうざんふじゅうに「仲梁懐ちゅうりょうかいを追放しよう」と言ったが、不狃ふじゅうは「彼は君(季平子きへいし)のために言っているのです。何のうらみがあるのですか?」と言った。


季平子きへいしの)葬儀が終わると、桓子かんし季平子きへいしの子・季桓子きかんし)は東野とうやの地を巡察し、まで行った。

費宰ひさいの長官)であった子洩しせつ公山不狃こうざんふじゅう*16桓子かんし季桓子きかんし)を迎えて郊外でねぎらったが、桓子かんし季桓子きかんし)は子洩しせつ公山不狃こうざんふじゅう*16に対して敬意をもって接した。ところが、(季桓子きかんしに同行していた)仲梁懐ちゅうりょうかいねぎらったところ、仲梁懐ちゅうりょうかい子洩しせつ公山不狃こうざんふじゅう*16に対して敬意を払わなかった。

子洩しせつ公山不狃こうざんふじゅう*16は腹を立て、陽虎ようこに「仲梁懐ちゅうりょうかいを追放してくれないか?」と言った。

脚注

*14原文:仲梁懷弗與,曰:「改步改玉」。季平子きへいしは国君ではないのだから、国君待遇の葬礼は不可の意。

*15原文:不狃曰:「彼為君也,子何怨焉?」。君を季平子きへいしとして訳した。

*16子洩しせつ公山不狃こうざんふじゅうあざな子泄しせつ表記の方が一般的?せつせつは異体字。


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