正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧④季孫氏(きそんし)④[季平子(きへいし)(季孫意如(きそんいじょ))]です。

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凡例・関連記事

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き⑥

季平子

季平子(きへいし)(季孫意如(きそんいじょ))

生年不詳〜魯(ろ)の定公(ていこう)の5年(紀元前505年)没。名は意如(いじょ)。父は季悼子(きとうし)(季孫紇(きそんこつ))。祖父は季武子(きぶし)(季孫宿(きそんしゅく))。魯(ろ)の正卿(せいけい)(宰相(さいしょう))。

苑囿を築く

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の9年(紀元前533年)冬、魯(ろ)は郎(ろう)に苑囿(えんゆう)(狩猟や娯楽のための庭園)を築(きず)いた。

季平子(きへいし)はその工事が早く完成することを望んだが、叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は、

「『詩(し)』に『事業を始めるにあたっては、慌(あわ)て急いではならない。急がなければ、多くの民が自(みずか)らやって来て協力する』とあります。どうして急いで完成させる必要があるのでしょうか? それでは民を疲弊(ひへい)させてしまうだけです。 苑囿(えんゆう)などなくても良いが、民がいなくなってしまって良いはずがない」

と諌(いさ)めた。

人を生贄にする

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の10年(紀元前532年)秋7月、季孫意如(きそんいじょ)(季平子(きへいし))と叔弓(しゅくきゅう)、仲孫貜(ちゅうそんわく)が莒(きょ)を伐(う)って郠(こう)を攻め取ったが、(季平子(きへいし)は)その捕虜を宗廟(そうびょう)に献上し、初めて亳社(はくしゃ)(殷(いん)代の社(やしろ))の祭祀(さいし)において、人を(生贄(いけにえ)に)用(もち)いた。

斉(せい)にいた臧武仲(ぞうぶちゅう)はこれを聞くと、

「周公(しゅうこう)は、おそらく魯(ろ)の祭祀(さいし)を享(う)けないであろう。そもそも周公(しゅうこう)が祭祀(さいし)を享(う)けるのは、義があるからであるが、魯(ろ)には義がない。
『詩(し)』 に『徳ある者の評判は明らかで、 民を粗末(そまつ)に扱うことはない』とある。民を粗末(そまつ)に扱うだけでも甚(はなは)だしく酷(ひど)いことなのに、人を(牛や羊のように生贄(いけにえ)に)用(もち)いて、神はいったい誰に福をもたらすというのか!」

と言った。

厥憖の会に出席する

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の11年(紀元前531年)秋、季孫意如(きそんいじょ)(季平子(きへいし))は晋(しん)の韓起(かんき)(韓宣子(かんせんし))、斉(せい)の国弱(こくじゃく)、 宋(そう)の華亥(かがい)、衛(えい)の北宮佗(ほくきゅうた)、鄭(てい)の子皮(しひ)、曹(そう)人(ひと)、杞(き)人(ひと)と衛(えい)の厥憖(けつきん)で会合したが、これは、楚(そ)に攻められている蔡(さい)を救う相談をしたものである。

南蒯が費で叛乱を起こす

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の12年(紀元前530年)冬、季平子(きへいし)は南蒯(なんかい)*1に礼をもって待遇しなかったので、南蒯(なんかい)*1は子仲(しちゅう)(公子(こうし)憖(きん))に言った。

「吾(わたし)は季氏(きし)を追い出して(季氏(きし)の領地・財産を)公室に返しますので、子(あなた)は(季氏(きし)に代わって)その位についてください。我(わたし)は費(ひ)の代官として公室の臣下となります」

子仲(しちゅう)はこれを許し、南蒯(なんかい)*1はまた、叔仲穆子(しゅくちゅうぼくし)(叔仲帯(しゅくちゅうたい)の子)にも打ち明けた。


季悼子(きとうし)(季孫紇(きそんこつ))*2が亡くなった時、叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))が再命*3の卿(けい)となり、平子(へいし)(季平子(きへいし))が[魯(ろ)の昭公(しょうこう)の10年(紀元前532年)に]莒(きょ)を伐(う)って勝った時、平子(へいし)(季平子(きへいし))は三命*3の卿(けい)となったが、叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))も三命*3の卿(けい)となった。


そこで叔仲子(しゅくちゅうし)(叔仲穆子(しゅくそんぼくし))は叔孫(しゅくそん)・季孫(きそん)の2家を争わせようと考え、平子(へいし)(季平子(きへいし))に「三命*3の卿(けい)となって父兄を越えた待遇を受けているのは、礼に適(かな)っていません」と言うと、平子(へいし)(季平子(きへいし))は「その通りだ」と言って、叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))に自(みずか)ら辞退させようとした。

すると叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は言った。

「叔孫氏(しゅくそんし)には[魯(ろ)の昭公(しょうこう)の4年(紀元前538年)に]禍(わざわい)が起こり、嫡子(ちゃくし)を殺して庶子(しょし)を立てることになり、婼(わたし)がこうして後を継いでいるのです。もし、禍(わざわい)を理由に(叔孫氏(しゅくそんし)を)斃(ほろ)ぼすということならば、仰(おお)せに従いましょう。ですがもし、君命を廃(はい)するのでなければ、婼(わたし)の地位は揺(ゆる)るぎようがありません」

その後、叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))が朝廷の役人に命じて「婼(わたし)は季氏(きし)(季平子(きへいし))を告訴する。文書の内容は偏りなく書くように」と言うと、季孫(きそん)(季平子(きへいし))は懼(おそ)れて、その罪を叔仲子(しゅくちゅうし)(叔仲穆子(しゅくそんぼくし))に着せた。


これを受け、叔仲小(しゅくちゅうしょう)(叔仲穆子(しゅくそんぼくし))・南蒯(なんかい)*1・公子(こうし)憖(きん)の3人は、季氏(きし)(季平子(きへいし))を伐(う)つ謀議(ぼうぎ)をした。公子(こうし)憖(きん)はその謀(はかりごと)を昭公(しょうこう)に報告し、昭公(しょうこう)のお供をして(援助を求めるために)晋(しん)へ出かけた。

南蒯(なんかい)*1は「季氏(きし)(季平子(きへいし))に勝てないであろう」と懼(おそ)れて費(ひ)で叛乱(はんらん)を起こし、斉(せい)へ出かけてその援助を求めた。

子仲(しちゅう)(公子(こうし)憖(きん))は、晋(しん)から還(かえ)って衛(えい)まで来たところで叛乱(はんらん)が起こったことを聞き、副使(ふくし)の役をすっぽかして先に帰ったが、郊外まで来て「費(ひ)で南蒯(なんかい)*1が叛(そむ)いたこと」を聞くと、そのまま斉(せい)に逃亡した。


南蒯(なんかい)*1が(叛乱(はんらん)を起こそうとして)費(ひ)に出かけようとした時、郷人(むらびと)に酒を振る舞った。すると郷人(むらびと)のある者が歌って言った。


〽我(わたし)の圃(ほ)(畑)に杞(くこ)を植えて荒らそうとしているよ
我(わたし)について来る者は立派な人
我(わたし)の元を去る者は卑(いや)しい人
隣人に背(そむ)く者は恥を受けるよ
やめようよ、やめようよ
吾(われ)らの仲間ではないか


平子(へいし)(季平子(きへいし))が叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))に命じて叔仲小(しゅくちゅうしょう)(叔仲穆子(しゅくそんぼくし))を追放させようとしたところ、それを聞いた叔仲小(しゅくちゅうしょう)(叔仲穆子(しゅくそんぼくし))は朝廷に出仕しなくなった。

そこで叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は吏(り)(役人)に命じて、叔仲小(しゅくちゅうしょう)(叔仲穆子(しゅくそんぼくし))に「朝廷で政務を待て」と伝えさせ、「吾(わたし)は怨(うら)みを集める者にはなりたくない」と言った。

脚注

*1南遺(なんい)の子で季子(きし)の領邑(りょうゆう)・費(ひ)の代官。

*2季武子(きぶし)(季孫宿(きそんしゅく))の子。季平子(きへいし)(季孫意如(きそんいじょ))の父。

*3再命・三命は九儀之命(きゅうぎのめい)(身分格式の等級体系)の1つ。一命:大国の下大夫(かたいふ)・小国の卿(けい)。再命:大国の下卿(かけい)。三命:大国の上卿(じょうけい)。参考: 金藤行雄(かなふじゆきお)「『周礼(しゅらい)』の命について」

費を取り戻す

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の13年(紀元前529年)春、魯(ろ)の叔弓(しゅくきゅう)が費(ひ)を包囲したが勝つことができず、逆に敗れた。

これに怒った平子(へいし)(季平子(きへいし))は「費(ひ)人(ひと)を見つけたら捕(と)らえて捕虜にせよ」と命じたが、冶区夫(やおうふ)は、


「いけません。もし費(ひ)人(ひと)を見つけましたならば、寒さに凍(こご)えている者には衣服を与え、飢(う)えた者には食事を与え、善(よ)き主人となって彼らの困窮(こんきゅう)を救ってやるのがよろしい。

そうなされたならば、費(ひ)の人々は(季氏(きし)の下(もと)に)帰り、南氏(なんし)(南蒯(なんかい)*1)は滅びるでしょう。民が叛(そむ)いたなら、[南氏(なんし)(南蒯(なんかい)*1)は]いったい誰と一緒に費(ひ)に居続けることができるでしょうか。

もし費(ひ)の民を脅(おど)し、怒りをもって懼(おそ)れさせたならば、民は憎(にく)んで(季氏(きし)に)叛(そむ)き、南氏(なんし)(南蒯(なんかい)*1)の下(もと)に集まるでしょう。もし諸侯(しょこう)がみなそのようにしたならば、費(ひ)人(ひと)には帰るところがなく、南氏(なんし)(南蒯(なんかい)*1)に親しむ以外に、どこにその身を安(やす)んじる場所があるでしょうか」


と言った。平子(へいし)(季平子(きへいし))はこれに従い、その結果、費(ひ)人(ひと)は南氏(なんし)(南蒯(なんかい)*1)に叛(そむ)いた。

脚注

*1南遺(なんい)の子で季子(きし)の領邑(りょうゆう)・費(ひ)の代官。

晋に捕らえられる

[魯(ろ)の昭公(しょうこう)の10年(紀元前532年)に]魯(ろ)が(莒(きょ)の)郠(こう)を攻め取ったため、晋(しん)は諸侯(しょこう)の軍を率(ひき)いて魯(ろ)を討(う)とうと考えた。そこで(晋侯(しんこう)は)あまねく諸侯(しょこう)に会合を命じ、7月丙寅(へいいん)の日(30日)、邾(ちゅう)の南に兵車4千乗(じょう)を揃(そろ)え、羊舌鮒(ようぜつふ)に司馬(しば)を代行させた。

こうして魯(ろ)の昭公(しょうこう)は(東周(とうしゅう)の)劉子(りゅうし)・晋侯(しんこう)・斉侯(せいこう)・宋公(そうこう)・衛侯(えいこう)・鄭伯(ていはく)・曹伯(そうはく)・莒子(きょし)・邾子(ちゅうし)・滕子(とうし)・薛伯(せつはく)・杞伯(きはく)・小邾子(しょうちゅうし)と、平丘(へいきゅう)で会合した。

この時、邾(ちゅう)人(ひと)と莒(きょ)人(ひと)が晋(しん)に訴えて、

「魯(ろ)が朝夕、我らを伐(う)つため、もはや滅びかかっております。我(わたし)どもが貴国に貢物を納(おさ)められないのは、魯(ろ)のためでございます」

と言ったので、晋侯(しんこう)は魯(ろ)の昭公(しょうこう)に会おうとせず、叔向(しゅくきょう)を遣(つか)わして、

「諸侯(しょこう)は甲戌(こうじゅつ)の日(8月8日)に盟(ちかい)を結ぼうとしておりますが、寡君(かくん)(我が君)は君(魯(ろ)の昭公(しょうこう))にお仕えすることができない*4と考えております。どうか盟(ちかい)に参加なされませんように」

と挨拶(あいさつ)させた。これに魯(ろ)の子服恵伯(しふくけいはく)(孟椒(もうしょう))は、

「君(晋侯(しんこう))は蛮夷(ばんい)(邾(ちゅう)・莒(きょ))の訴えを信じて、兄弟関係にある魯(ろ)との縁を断ち切り、周公(しゅうこう)の子孫を棄(す)てようとしておられる。これもただ、君(晋侯(しんこう))のお考え次第です。寡君(かくん)(我が君)には仰(おお)せの程(ほど)を承(うけたまわ)りました」

と反論したが、晋(しん)の強大な軍事力を懼(おそ)れてその命令に従い、魯(ろ)の昭公(しょうこう)は盟(ちかい)に参加しなかった。

諸侯(しょこう)が甲戌(こうじゅつ)の日(8月8日)に平丘(へいきゅう)で盟(ちかい)を結んだのは、斉(せい)が晋(しん)に服従したからである。


晋(しん)人(ひと)は季孫意如(きそんいじょ)(季平子(きへいし))を捕(と)らえて幕(まく)で覆(おお)い、(晋(しん)に属していた)狄(てき)人(ひと)(北方異民族)に見張りをさせた。

魯(ろ)の大夫(たいふ)・司鐸射(したくせき)は、錦(にしき)を懐(ふところ)に入れて一壺(ひとつぼ)の飲み物と氷を持ち、腹ばいになって季孫意如(きそんいじょ)(季平子(きへいし))を助けに出かけたが、見張りの者が通さなかったので、錦(にしき)を与えて中に入った。

晋(しん)人(ひと)は平子(へいし)(季平子(きへいし))を連れて国に帰ったが、(魯(ろ)の)子服湫(しふくしょう)[子服恵伯(しふくけいはく)(孟椒(もうしょう))]はこれに従って晋(しん)に行った。

脚注

*4「魯(ろ)と絶交する」ということを謙(へりくだ)って言った言葉。

魯に帰還する

冬10月、魯(ろ)の昭公(しょうこう)が(晋(しん)に捕(と)らわれている季平子(きへいし)を貰(もら)い受けるため)晋(しん)に出かけた。

すると晋(しん)の荀呉(じゅんご)は、韓宣子(かんせんし)(韓起(かんき))に言った。

「諸侯(しょこう)がお互いに朝見し合うのは、旧来の友好関係を確認するためです。今、その国の卿(けい)を捕(と)らえておきながら、その君(国君)に朝見させるというのは好ましくありません。断(ことわ)った方がよろしいでしょう」

そこで晋(しん)は士景伯(しけいはく)を遣(つか)わし、黄河(こうが)のほとりで魯(ろ)の昭公(しょうこう)に会って辞退させた。


魯(ろ)の子服恵伯(しふくけいはく)(孟椒(もうしょう))は、私的に晋(しん)の中行穆子(ちゅうこうぼくし)(荀呉(じゅんご))と会って言った。


「魯(ろ)は晋(しん)に仕えておりますが、どうして夷(えびす)(異民族)の小国よりも劣った扱いを受けるのでしょうか。魯(ろ)と晋(しん)は兄弟の国であり、土地も(邾(ちゅう)・莒(きょ)より)広く、命じられれば必要なことは整えて差し出すことができます。

もし(晋(しん)が)夷(えびす)(異民族)のために魯(ろ)を見棄(みす)て、(その結果、)魯(ろ)が斉(せい)や楚(そ)に仕えたならば、それは晋(しん)にとって何の利益があるのでしょうか?

親類に親しみ大国を尊重し、賞を共にし罰を異にすることこそが、盟主というものではありませんか。 どうかよくお考えください。

『臣一主二(しんいつしゅに)(誰に仕えるかは個人の自由)』という諺(ことわざ)があります。魯(ろ)には(晋(しん)の他に仕えるべき)大国がないと思っておられるのでしょうか?」


そこで中行穆子(ちゅうこうぼくし)(荀呉(じゅんご))は、韓宣子(かんせんし)(韓起(かんき))に報告した上で、

「楚(そ)が陳(ちん)と蔡(さい)を滅ぼした時、(晋(しん)は)この2国を救うことができなかった。それなのに(晋(しん)は)また、夷(えびす)(異民族)のために親類である魯(ろ)の卿(けい)を捕(と)らえている。どうしてこんなことをする必要があるというのか」

と言い、季孫(きそん)(季平子(きへいし))を魯(ろ)に帰すことにした。

すると子服恵伯(しふくけいはく)(孟椒(もうしょう))は、


「寡君(かくん)(我が君)はその罪を知らされることもなく、居並ぶ諸侯(しょこう)たちの前で その重臣を捕(と)らえられました。

もし魯(ろ)に罪があると言われるのなら、死を命じられても従います。ですが、罪がないとのお恵(めぐ)みを賜(たまわ)って(季平子(きへいし)を)帰されましても、諸侯(しょこう)たちが魯(ろ)の無罪を知らされていなければ、(晋(しん)の)ご命令に背(そむ)いて逃げ出したと思うでしょう。

それでどうしてお許しを賜(たまわ)ったと言えるのでしょうか。どうか、諸侯(しょこう)の会合の席において、君(晋侯(しんこう))のお許しを賜(たまわ)ることをお許しください」


と言った。

返答に困った韓宣子(かんせんし)(韓起(かんき))が叔向(しゅくきょう)に「子(あなた)なら(魯(ろ)が納得した上で)季孫(きそん)(季平子(きへいし))を魯(ろ)に帰すことができるか?」と尋(たず)ねたところ、叔向(しゅくきょう)は「できません。羊舌鮒(ようぜつふ)(叔魚(しゅくぎょ))ならできるでしょう」と答えた。

そこで叔魚(しゅくぎょ)(羊舌鮒(ようぜつふ))を遣(つか)わして季孫(きそん)(季平子(きへいし))に言った。


「昔[魯(ろ)の襄公(じょうこう)の21年(紀元前552年)]、鮒(わたし)は晋君(しんくん)(平公(へいこう))に罪を得て魯君(ろくん)(襄公(じょうこう))の元に身を寄せたことがありましたが、[季平子(きへいし)の祖父・]武子(ぶし)(季武子(きぶし))のご厚意を賜(たまわ)ることができなかったならば、鮒(わたし)は今日、こうしていることができなかったでしょう。

骨となって晋(しん)に帰るべきところを、子(あなた)方(がた)が生かして帰してくださったのです。どうして真心を尽くさずにおられましょうか。

子(あなた)を(魯(ろ)に)帰国させることができないのなら、鮒(わたし)も(ご恩を返せないまま)帰ることはできません。鮒(わたし)は吏(り)(役人)から『子(あなた)のために西河(せいが)の地にある宿舎を掃除して、お待ちすることになっている*5』と聞いております。どうなさるおつもりですか?」


叔魚(しゅくぎょ)(羊舌鮒(ようぜつふ))が涙を流しながら言うと、平子(へいし)(季平子(きへいし))は懼(おそ)れて先に帰り、子服恵伯(しふくけいはく)(孟椒(もうしょう))は、後に残って「正式に許されて帰される礼」を待った。

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の14年(紀元前528年)春、季孫意如(きそんいじょ)(季平子(きへいし))は晋(しん)から帰国した。

脚注

*5季平子(きへいし)を「魯(ろ)から遥(はる)か遠く隔(へだ)たる西河(せいが)の地に幽閉する」ことを婉曲(えんきょく)に言ったもの。

子服恵伯の子・子服昭伯

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の16年(紀元前526年)夏、前年の冬から晋(しん)に出かけていた魯(ろ)の昭公(しょうこう)が帰国した。

(魯(ろ)の昭公(しょうこう)に従って晋(しん)から帰国した)子服昭伯(しふくしょうはく)(子服恵伯(しふくけいはく)の子・子服回(しふくかい))が季平子(きへいし)に、

「晋(しん)の公室は間もなく衰(おとろ)えるでしょう。君(晋(しん)の昭公(しょうこう))は幼弱で、六卿(りくけい)の勢力は強大で驕(おご)り高ぶっていますので、彼らの勝手な振る舞いは常態化するでしょう。そうなってしまえば、どうして衰(おとろ)えずにいられるでしょうか」

と言ったが、平子(へいし)(季平子(きへいし))は「爾(おまえ)はまだ幼(わか)い。どうして国家のことが分かるのか?」と言って信用しなかった。


秋8月、晋(しん)の昭公(しょうこう)が亡くなった。

冬10月、季平子(きへいし)は晋(しん)の昭公(しょうこう)の葬儀に参列するため晋(しん)に赴(おもむ)いたが、(晋(しん)の様子を見た)平子(へいし)(季平子(きへいし))は「子服回(しふくかい)(子服昭伯(しふくしょうはく))の言ったことは本当だった。子服氏(しふくし)には良い子がいるものだ」と言った。

小邾の穆公の来朝

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の17年(紀元前525年)春、小邾(しょうちゅう)(郳(げい))の穆公(ぼくこう)が魯(ろ)に来朝し、昭公(しょうこう)は宴(うたげ)を共にした。

季平子(きへいし)は宴(うたげ)の席で(『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・桑扈(そうこ)の什(じゅう)・)采菽(さいしゅく)*6(立派な君子の来朝を歓迎する賦(ふ))を歌い、穆公(ぼくこう)は(『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・彤弓(とうきゅう)の什(じゅう)・)菁菁者莪(せいせいしゃが)[君子(季平子(きへいし))に会えた嬉しさを歌った賦(ふ)]を歌った。

これについて魯(ろ)の昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は「あの謙虚にして礼儀ある態度をもって国を治めたのでなければ、どうしてこんなに長く国君の位を保(たも)つことができようか*7」と言った。

脚注

*6原文は『采叔(さいしゅく)』。

*7明治書院(めいじしょいん)()『新釈漢文大系(しんしゃくかんぶんたいけい)・春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)(四)』より。原文は「不有以國,其能久乎?」。

日食をめぐる議論

夏6月、甲戌(こうじゅつ)の朔(ついたち)に日食があった。祝史(しゅくし)(神事官)が日食に用(もち)いる幣帛(へいはく)(供(そな)え物)を請(こ)うと、昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は、

「日食の場合には、天子(てんし)はご馳走の品を減らして社(やしろ)(土地の神)で鼓を打ち鳴らし、諸侯(しょこう)は幣帛(へいはく)を社(やしろ)に供(そな)えて朝廷で鼓を打ち鳴らすのが礼です」

と言った。

平子(へいし)(季平子(きへいし))はこれを止めて、

「やめなさい。ただ正月の朔(ついたち)には陰気がまだ起こらないもので、その日に日食があれば、鼓を打ち鳴らし幣帛(へいはく)を用(もち)いるのが礼である。他の月の日食には、そうはしないものである」

と言ったので、大史(たいし)は、


「その正月とはこの月(6月)のことです。太陽が春分を過ぎてもまだ夏至になっていない時に、三辰(日・月・星)に災異が起これば、百官は飾りのある衣服を避(さ)けて素服(白い朝服)を着ます。君(国君)は、(日食が終わるまで)ご馳走の品を減らし、正寝を離れて過ごします。祝史(しゅくし)(神事官)は幣帛(へいはく)を社(やしろ)に供(そな)え、右筆(ゆうひつ)は祭文を捧(ささ)げます。

『夏書(かしょ)』に『辰(しん)が房(ぼう)に集まらず(日と月がその居場所に落ち着かないで日食が起こり)、瞽(こ)(楽官)は鼓を打ち鳴らし、嗇夫(しょくふ)(幣帛(へいはく)を司(つかさど)る役人)は走り回り、庶人は奔走(ほんそう)した』とあるのは、この月(6月)の朔(ついたち)のことを言ったものです。それは夏(か)の時代の4月にあたっており、これを孟夏(もうか)(初夏)と言います」


と反論したが、平子(へいし)(季平子(きへいし))は聞き入れなかった。

昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は退出すると「あの方は良からぬ心を抱(いだ)いている。君(国君)を君(国君)とも思っていない」と言った。

饗応を妨害する

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の21年(紀元前521年)夏、晋(しん)の士鞅(しおう)(范鞅(はんおう)、范献子(はんけんし))が来聘(らいへい)した。

当時は叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))が政務を担当していたが、(かねてより叔孫昭子(しゅくそんしょうし)と仲が悪かった)季孫(きそん)(季平子(きへいし))は「晋(しん)に叔孫昭子(しゅくそんしょうし)のことを悪く思わせよう」と考え、有司(ゆうし)(役人)に命じて[魯(ろ)の昭公(しょうこう)の14年(紀元前528年)に]斉(せい)の鮑国(ほうこく)が費(ひ)を返しに来た時と同じ礼で士鞅(しおう)(范献子(はんけんし))を接待させた。

これに士鞅(しおう)(范献子(はんけんし))が怒って、

「鮑国(ほうこく)の位は低く、その国も小さいのに、鞅(わたし)を鮑国(ほうこく)と同じ牢礼(ろうれい)*8で接待した。これは敝邑(へいゆう)(我が国)を卑(いや)しめるものだ。このことは寡君(かくん)(我が君)に報告させてもらおう」

と言ったので、魯(ろ)人(ひと)は恐れ、四牢 を加えて 十一牢 とした。

脚注

*8牢(ろう)は饗応(きょうおう)に用(もち)いる犠牲獣(牛・羊・豚)のセット数を表し、その数量によって外交上の待遇の等級が決まる。『周礼(しゅうらい)』正義(せいぎ)に「上公(じょうこう):九牢、諸侯(しょこう)(侯(こう)・伯(はく)):七牢、諸子(しょし)(子(し)・男(だん)):五牢」とある。

妻を迎える

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の25年(紀元前517年)春、魯(ろ)の叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))が宋(そう)を聘問(へいもん)して、宋(そう)の元公(げんこう)の公女(こうじょ)を季平子(きへいし)の妻に迎えた。(季武子(きぶし)の末子・)季公若(きこうじゃく)の姉は小邾(しょうちゅう)の夫人(ふじん)となって宋(そう)の元公(げんこう)の夫人(ふじん)(曹氏(そうし))を生んだが、この曹氏(そうし)が生んだ公女(こうじょ)を季平子(きへいし)の妻としたのである。

募(つの)る季平子への怨み
季公若(きこうじゃく)の怨(うら)み

以前、(季公若(きこうじゃく)の兄・)季公鳥(きこうちょう)が斉(せい)の鮑文子(ほうぶんし)から妻を迎えて、甲(こう)という子を生んだ。季公鳥(きこうちょう)が亡くなると、季公亥(きこうがい)(季公若(きこうじゃく))と(季氏(きし)の一族である)公思展(こうしてん)の2人が、季公鳥(きこうちょう)の家臣・申夜姑(しんやこ)と一緒に季公鳥(きこうちょう)の家の世話をした。

ところがその後、(季公鳥(きこうちょう)の未亡人の)季姒(きじ)が饔人(ようじん)(料理人)と擅通(せんつう)(密通)するようになると、(季公若(きこうじゃく)たちに)発覚することを懼(おそ)れた季姒(きじ)は侍女(じじょ)に自分の身体を鞭(むち)打たせ、その傷を(魯(ろ)の大夫(たいふ)・)秦遄(しんせん)の妻(季公鳥(きこうちょう)の妹・秦姫(しんき))に見せて、

「公若(こうじゃく)(季公若(きこうじゃく))が余(わたし)を自由にしようとしたが、余(わたし)が言いなりにならなかったので鞭(むち)打ったのです」

と言い、さらに(季平子(きへいし)の弟・)公甫(こうほ)に訴(うった)えて「展(てん)(公思展(こうしてん))と夜姑(やこ)(申夜姑(しんやこ))が余(わたし)を脅(おど)して無礼な振る舞いをしようとしました」と言った。


このことを、秦姫(しんき)が(季平子(きへいし)の弟・)公之(こうし)(季公之(きこうし))に話し、公之(こうし)(季公之(きこうし))と公甫(こうほ)が平子(へいし)(季平子(きへいし))に報告すると、平子(へいし)(季平子(きへいし))は展(てん)(公思展(こうしてん))を卞(べん)に拘留(こうりゅう)し、夜姑(やこ)(申夜姑(しんやこ))を捕(と)らえて処刑しようとした。

公若(こうじゃく)(季公若(きこうじゃく))は泣いて悲しみ、「申夜姑(しんやこ)を殺すことは、余(わたし)を殺すようなものだ」と言って、夜姑(やこ)(申夜姑(しんやこ))の命(いのち)乞(ご)いをしようとした。

すると平子(へいし)(季平子(きへいし))は、豎(じゅ)(召使い)に命じて面会させないようにしたので、公若(こうじゃく)(季公若(きこうじゃく))は正午になっても命(いのち)乞(ご)いをすることができないまま、公之(こうし)(季公之(きこうし))が有司(ゆうし)(役人)に命じて夜姑(やこ)(申夜姑(しんやこ))を処刑してしまったので、公若(こうじゃく)(季公若(きこうじゃく))は平子(へいし)(季平子(きへいし))を怨(うら)むようになった。

郈昭伯(こうしょうはく)の怨(うら)み

季(き)(季平子(きへいし))と郈(こう)(郈昭伯(こうしょうはく))の家が近かったので、両家の鶏(にわとり)が喧嘩(けんか)をした。すると季氏(きし)(季平子(きへいし))は自分の鶏(にわとり)の胸に革(かわ)を甲(よろい)のように被(かぶ)せ、郈氏(こうし)(郈昭伯(こうしょうはく))は蹴爪(けづめ)に金属を被(かぶ)せた。

これに怒った平子(へいし)(季平子(きへいし))は、自分の邸宅を郈氏(こうし)(郈昭伯(こうしょうはく))の邸宅の方に広げて建て増ししておきながら、「郈氏(こうし)(郈昭伯(こうしょうはく))の方が自分の邸宅の領域を侵(おか)した」と責め立てたので、郈昭伯(こうしょうはく)もまた平子(へいし)(季平子(きへいし))を怨(うら)むようになった。

臧昭伯(ぞうしょうはく)の怨(うら)み

臧昭伯(ぞうしょうはく)の従弟の臧会(ぞうかい)が臧氏(ぞうし)を讒言(ざんげん)して季氏(きし)の元へ逃げ込んだが、臧氏(ぞうし)(臧昭伯(ぞうしょうはく))が会(かい)を捕(と)らえると、平子(へいし)(季平子(きへいし))は怒って臧氏(ぞうし)(臧昭伯(ぞうしょうはく))の家老を捕(と)らえた。

また、襄公(じょうこう)の褅(てい)(祭祀(さいし))を行おうとした時、襄公(じょうこう)の廟(びょう)で舞った楽人は僅(わず)か2人であったが、その他多くの楽人が季氏(きし)(季平子(きへいし))の家廟(かびょう)で舞っていた。

これについて臧孫(ぞうそん)(臧昭伯(ぞうしょうはく))は「こうしたことを『先君の廟(びょう)を蔑(ないがし)ろにして正しい礼を行わない』と言うのだ」と言った。

こうしたことから、魯(ろ)の大夫(たいふ)たちは平子(へいし)(季平子(きへいし))を怨(うら)むようになった。

昭公を追放する
季平子(きへいし)追放計画

公若(こうじゃく)(季公若(きこうじゃく))と(魯(ろ)の昭公(しょうこう)の子・)公為(こうい)、公果(こうか)、公賁(こうふん)、(昭公(しょうこう)の)侍者(じしゃ)の僚柤(りょうさ)らが、季氏(きし)(季平子(きへいし))を追い出すように申し上げた。

そこで昭公(しょうこう)は、臧孫(ぞうそん)(臧昭伯(ぞうしょうはく))と郈昭伯(こうしょうはく)、子家懿伯(しかいはく)の3人に相談したが、賛成したのは郈昭伯(こうしょうはく)だけで、臧孫(ぞうそん)(臧昭伯(ぞうしょうはく))と子家懿伯(しかいはく)は、その困難さと失敗した時の昭公(しょうこう)へのリスクを指摘して反対した。

昭公(しょうこう)が季平子(きへいし)を攻める

叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))が(魯(ろ)の邑(ゆう)の)闞(かん)に出かけると、魯(ろ)の昭公(しょうこう)は長府(ちょうふ)に移った。9月戊戌(ぼじゅつ)の日(11日)、(昭公(しょうこう)は)季氏(きし)(季平子(きへいし))を攻めて(季平子(きへいし)の弟・)公之(こうし)(季公之(きこうし))を(季氏(きし)の邸宅の)門で殺害し、そのまま中へなだれ込んだ。

すると平子(へいし)(季平子(きへいし))は、台(高楼(たかどの))に登って、

「臣(わたくし)の罪をよくお調べにならずに、有司(ゆうし)(役人)に命じて武器をもって臣(わたくし)を討(う)たせるとは。我が君、臣(わたくし)は沂水(きすい)のほとりでお待ちしておりますので、どうか臣(わたくし)の罪をよくお調べください」

と請(こ)うたが、昭公(しょうこう)は許さなかった。そこで季平子(きへいし)は「費(ひ)に幽閉してほしい」と請(こ)うたが許さず、また「5乗(じょう)の車で逃亡させてほしい」と請(こ)うても、昭公(しょうこう)は許さなかった。

すると子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))は、


「我が君、どうか季氏(きし)(季平子(きへいし))をお許しください。(魯(ろ)の)政(まつりごと)が季氏(きし)(季平子(きへいし))によって行われるようになってから、長い年月が経(た)っています。民の中には季氏(きし)(季平子(きへいし))から生活の糧(かて)を得ている者が多く、その配下となっている者も多数おります。日が暮(く)れれば(季平子(きへいし)を助けようとする者が出て)変事が起こるかもしれず、予測できません。

季氏(きし)(季平子(きへいし))を助けようとする者たちの怒りは抑(おさ)えることはできず、たとえ抑(おさ)えることができても治(おさ)めることができなければ、その怒りは積もってゆきます。怒りを積もらせれば、民は反乱の心を起こし、互いに結びつきます。我が君は、必ず後悔なさるでしょう」


と言ったが、昭公(しょうこう)は許さなかった。

そこで郈孫(こうそん)(郈昭伯(こうしょうはく))が「必ず殺すべきです」と言うと、昭公(しょうこう)は郈孫(こうそん)(郈昭伯(こうしょうはく))に命じて孟懿子(もういし)(仲孫何忌(ちゅうそんかき))を(味方にするために)迎(むか)えに行かせることにした。

叔孫氏(しゅくそんし)の反応

叔孫氏(しゅくそんし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))の司馬(しば)・鬷戻(そうれい)*9は、叔孫氏(しゅくそんし)の家来たちに「どうするべきか?」と言ったが、誰も答えなかった。そこでまた、

「我(わたし)は家臣にすぎず、国の(政治の)ことは分からない。季氏(きし)(季平子(きへいし))がいるのといないのとでは、我(わたし)たちにとってどちらが利益になるだろうか?」

と言うと、皆(みな)、

「季氏(きし)(季平子(きへいし))がいなければ、叔孫氏(しゅくそんし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))も存在することができません」

と言った。すると鬷戻(そうれい)*9は「では救おう」と言い、兵を率(ひき)いて季氏(きし)(季平子(きへいし))の邸宅に向かうと、邸宅を包囲していた西北の一角(いっかく)を破って邸宅に入った。

この時 昭公(しょうこう)の兵は、甲(よろい)を脱いで冰(ひょう)(矢筒の蓋(ふた))に酒を注(つ)ぎ、しゃがみ込んで酒を飲んでいたので、(鬷戻(そうれい)*9は)容易(たやす)くこれを追い払った。

脚注

*9原文:叔孫氏之司馬鬷戾言於其眾曰:。明治書院(めいじしょいん)()『新釈漢文大系(しんしゃくかんぶんたいけい)・春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)(四)』では「叔孫氏(しゅくそんし)の臣、司馬鬷戻(しばそうれい)と訳す。参考:維基百科:鬷戾

昭公(しょうこう)が亡命する

孟氏(もうし)(孟懿子(もういし))は(自分の邸宅の)西北に人を登らせて、季氏(きし)(季平子(きへいし))の邸宅の様子を見張らせていたが、そこに叔孫氏(しゅくそんし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))の旌(はた)を見つけると、(自分を迎(むか)えに来た)郈孫(こうそん)(郈昭伯(こうしょうはく))を捕(と)らえて南門の西で殺害し、昭公(しょうこう)の兵を攻撃した。


これを受け、子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))は昭公(しょうこう)に、

「臣下たちは『君(昭公(しょうこう))を脅(おど)して季氏(きし)(季平子(きへいし))を討(う)たせた』と、偽(いつわ)りの罪を着せて外に逃がし、君(昭公(しょうこう))はここにお留(とど)まりください。そうすれば、意如(いじょ)(季平子(きへいし))も君(昭公(しょうこう))への仕(つか)え方を改めるでしょう」

と言ったが、昭公(しょうこう)は「(臣下たちに罪を着せるのは)忍(しの)びない」と言い、臧孫(ぞうそん)(臧昭伯(ぞうしょうはく))と墓(はか)に出かけて相談すると、己亥(きがい)の日(9月12日)に斉(せい)に亡命して陽州(ようしゅう)に留(とど)まった。

叔孫昭子(しゅくそんしょうし)の死

(魯(ろ)の邑(ゆう)の)闞(かん)から帰って来た昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は、平子(へいし)(季平子(きへいし))と会った。

平子(へいし)(季平子(きへいし))が稽顙(けいそう)(額(ひたい)を地につけて敬礼すること)して「子(あなた)は我(わたし)をどうなさるおつもりですか?」と言うと、昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は言った。

「人は誰も死ぬものです。子(あなた)は君(昭公(しょうこう))を追放して成(な)した名は、子孫の代まで忘れないでしょう。なんと痛ましいことではありませんか。(私は)子(あなた)をどうするべきでしょうか?」

すると平子(へいし)(季平子(きへいし))は、

「もし意如(わたし)が、改めて君(昭公(しょうこう))に仕えることを許されるならば、それはまさに死者を生き返らせ、白骨に肉をつけるようなものです」

と言った。


そこで昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は、斉(せい)に留(とど)まっている魯(ろ)の昭公(しょうこう)の元に行き、季平子(きへいし)が後悔していることを話した。これを知った子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))は「昭公(しょうこう)の幄舎(あくしゃ)内に行く者を捕(と)らえよ」と命じた。

昭公(しょうこう)と昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は幄舎(あくしゃ)内で話し、昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は「国に帰って人々を安心させ、公(昭公(しょうこう))を国にお迎(むか)えしましょう」と言った。

この時、昭公(しょうこう)の従者は、昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))を殺そうとして道に兵を伏(ふ)せていたが、大夫(たいふ)の左師展(さしてん)がそのことを昭公(しょうこう)に報告したので、昭公(しょうこう)は昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))に命じ、(伏兵(ふくへい)を避(さ)けて)自分の邑(ゆう)である鑄(しゅ)へ帰らせた。

ところが、平子(へいし)(季平子(きへいし))は心変わりして昭公(しょうこう)を魯(ろ)に入れようとしなかった。

冬10月辛酉(しんゆう)の日(5日)、昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))は(責任と腹立たしさのあまり)自分の寝所で身を清め、祝宗(しゅくそう)(神官)に命じて「自分が死ぬように」と祈(いの)らせた。戊辰(ぼしん)の日(12日)に亡くなった。

左師展(さしてん)は昭公(しょうこう)をお連れして馬に乗って急いで帰ろうとしたが、昭公(しょうこう)の従者が左師展(さしてん)を捕(と)らえて帰さなかった。

臧会に臧氏を継がせる

12月庚辰(こうしん)の日(25日)、斉侯(せいこう)は(魯(ろ)の昭公(しょうこう)を住まわせようとして、魯(ろ)の邑(ゆう)・)鄆(うん)を包囲した。

臧昭伯(ぞうしょうはく)が昭公(しょうこう)に従って国外に出てから、平子(へいし)(季平子(きへいし))は臧氏(ぞうし)の家を(臧昭伯(ぞうしょうはく)と反目する従弟の)臧会(ぞうかい)に継がせた。

斉による昭公の帰還計画

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の26年(紀元前516年)春、王正月庚申(こうしん)の日(6日)、斉侯(せいこう)が(包囲していた)魯(ろ)の邑(ゆう)・鄆(うん)を攻め取った。3月、昭公(しょうこう)が斉(せい)から帰国して鄆(うん)に居住した。

夏、斉侯(せいこう)は昭公(しょうこう)を魯(ろ)に入れるため「魯(ろ)(季平子(きへいし))の賄賂(わいろ)を受け取ってはならない」と命じたが、(斉侯(せいこう)の寵臣(ちょうしん)・)子猶(しゆう)(梁丘拠(りょうきゅうきょ))は賄賂(わいろ)を受け取って、斉侯(せいこう)に言った。


「(斉(せい)の)群臣が魯君(ろくん)(昭公(しょうこう))のために尽力しないのは、決して我が君(斉侯(せいこう))の責任ではありません。ですが、拠(わたし)には不審に思う所がございます。

宋(そう)の元公(げんこう)は魯君(ろくん)(昭公(しょうこう))のために晋(しん)に出かけて曲棘(きょくきょく)で亡くなり、(魯(ろ)の)叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))はその君(昭公(しょうこう))を魯(ろ)に入れようとして病気でもないのに死にました。これは天が魯(ろ)を見捨てたのでしょうか。それとも魯君(ろくん)(昭公(しょうこう))が鬼神の祟(たた)りを受けて、このような結果になったのでしょうか。

我が君(斉侯(せいこう))がもし、曲棘(きょくきょく)でお待ちくださるならば、群臣に命じて魯君(ろくん)(昭公(しょうこう))に従って戦いの成否を卜(うらな)わせましょう。もし『可』ならば、軍は成功します。そこへ我が君(斉侯(せいこう))が続いて進まれれば、もはや敵はいなくなりましょう。もし成功しなかったとしても、我が君(斉侯(せいこう))の恥辱(ちじょく)とはなりません」


これを聞き入れた斉侯(せいこう)は、公子(こうし)鉏(しょ)に命じ、軍を率(ひき)いて魯君(ろくん)(昭公(しょうこう))に従わせた。

炊鼻の戦い

(魯(ろ)の孟孫氏(もうそんし)の邑(ゆう)・)成(せい)の大夫(たいふ)・公孫朝(こうそんちょう)が「地方にある都城は国を衛(まも)るためのものです。我(わたし)も成(せい)の軍を率(ひき)いて斉(せい)の軍に当たりたいと存じます」と願い出たので、平子(へいし)(季平子(きへいし))にはそれを許した。

そこで公孫朝(こうそんちょう)が(季平子(きへいし)に)人質を入れることを申し出ると、季平子(きへいし)は「汝(おまえ)の言葉を信じよう、それで十分だ(原文:信女,足矣)」と言った。


そこで公孫朝(こうそんちょう)は、斉(せい)軍に(偽(いつわ)って)言った。

「(私の主人の)孟氏(もうし)は魯(ろ)の敝室(へいしつ)(没落した家)です。(季平子(きへいし)が)成(せい)を用(もち)いること甚(はなは)だしく、もはや耐えられません。どうか斉(せい)に身を寄せさせてください」

これを信じた斉(せい)軍が成(せい)を包囲したが、成(せい)人(ひと)は降伏せず、淄水(しすい)で馬に水を飲ませていた斉(せい)軍の者を攻撃した。こうして魯(ろ)軍と斉(せい)軍は、魯(ろ)の炊鼻(すいび)で激戦となったが、斉(せい)軍は成(せい)を陥(おと)すことはできなかった。

昭公への贈り物をやめる

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の28年(紀元前514年)、魯(ろ)の昭公(しょうこう)は晋(しん)に出かけて、晋(しん)の乾侯(けんこう)に行こうとした。

すると子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))は「人に求めようとしていながら、安楽な所に身を落ち着けるようでは、誰が憐(あわれ)んでくれるでしょうか。まず(晋(しん)の)国境に行って、先方の命令を待たれるのがよろしいでしょう」と言ったが、昭公(しょうこう)はそれを聞き入れずに乾侯(けんこう)に行き、晋(しん)に「迎(むか)え入れて欲しい」と申し入れをさせた。

これに晋(しん)人(ひと)は、

「天は魯(ろ)国に禍(わざわい)を降(おろ)し、ご主君(昭公(しょうこう))には長い間苦労して他国(斉(せい))におられましたが、我が君(晋(しん)の頃公(けいこう))にたった1人の使者を遣(つか)わして挨拶(あいさつ)することすらしないで、異姓の国(斉(せい))に落ち着いておられました。それなのに、今になってご主君(昭公(しょうこう))を迎(むか)え入れて欲しいと言われるのですか」

と言って、昭公(しょうこう)を一旦国境に戻らせてから迎(むか)えることにした。


魯(ろ)の昭公(しょうこう)の29年(紀元前513年)、これまで平子(へいし)(季平子(きへいし))は毎年馬を買い求め、昭公(しょうこう)の従者の衣服や履(は)き物までを揃(そろ)えて、乾侯(けんこう)にいる昭公(しょうこう)の元に贈(おく)り届けていたが、昭公(しょうこう)は馬を贈(おく)り届けて来た者を捕(と)らえてその馬を売ったので、平子(へいし)(季平子(きへいし))は馬を贈(おく)ることをやめてしまった。

晋に呼び出される

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の31年(紀元前511年)春、晋侯(しんこう)(定公(ていこう))が「軍を率(ひき)いて昭公(しょうこう)を魯(ろ)に入れよう」としたところ、范献子(はんけんし)(范鞅(はんおう)、士鞅(しおう))は、

「季孫(きそん)(季平子(きへいし))を召(め)し出して来なかったとしたら、それこそ本当の不忠の臣です。そのようにしてから季孫(きそん)(季平子(きへいし))を伐(う)つことにしたらいかがでしょうか」

と言った。これに従って晋(しん)人(ひと)は季孫(きそん)(季平子(きへいし))を召(め)し出したが、この時 范献子(はんけんし)は、こっそりと(季平子(きへいし)に)人を遣(つか)わして「必ず来るように。咎(とが)めを受けないことは、我(わたし)が保証します」と言わせた。

そこで季孫意如(きそんいじょ)(季平子(きへいし))は晋(しん)に出かけて、晋(しん)の荀躒(じゅんれき)と適歴(てきれき)で会合した。そこで荀躒(じゅんれき)が、

「寡君(かくん)(我が君)は躒(わたし)に命じて吾子(あなた)に『なぜ君(昭公(しょうこう))を国外へ追放したのか。君(昭公(しょうこう))がありながら仕えないと言うのならば、周(しゅう)には定まった刑罰がある。よく考えなさい』と伝えるようにおっしゃられました」

と言うと、季孫(きそん)(季平子(きへいし))は練冠(れんかん)(喪時(そうじ)の冠(かんむり))をかぶり、麻衣を着て裸足(はだし)で進み出ると、ひれ伏して、


「我が君(昭公(しょうこう))に仕えようと致しましても、(帰国されないため)どうにもかなわないことでございます。決してお裁(さば)きから逃(のが)れようとの心はございません。

もし我が君(昭公(しょうこう))が、臣(わたくし)に罪があるとお考えなら、どうか私を費(ひ)に幽閉してください。そこで我が君(昭公(しょうこう))がお調べになられるのをお待ちしたいと思います。

(季孫(きそん)の)先代のことを考えていただけますならば、季氏(きし)の家を絶(た)やさずに(私だけに)死を賜(たまわ)ってください。もしこの身を殺さず、我が家を滅ぼさずにいただけるなら、それは君(昭公(しょうこう))のご恩徳でございます。たとえ死んでもそのご恩は忘れません。

もし君(昭公(しょうこう))に従って国に帰ることができますならば、それこそが臣(わたくし)の心からの願いでございます。どうして異心(いしん)(裏切りの心)などございましょうか」


と答えた。


夏4月、季孫(きそん)(季平子(きへいし))は知伯(ちはく)(荀躒(じゅんれき))に従って(昭公(しょうこう)がいる)乾侯(けんこう)に行った。

この時、子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))が昭公(しょうこう)に、

「我が君(昭公(しょうこう))は(季平子(きへいし)と一緒に魯(ろ)に)お帰りください。一時(いっとき)の恥を忍(しの)ばずに、一生の恥を負(お)うおつもりですか?」

と言い、昭公(しょうこう)はこれを承諾したが、他の臣下たちは「(我が君が)一言(ひとこと)おっしゃれば、季平子(きへいし)は追放されます!」と言って反対した。

荀躒(じゅんれき)は晋侯(しんこう)の命を受けて昭公(しょうこう)を見舞って慰(なぐさ)め、

「寡君(かくん)(我が君)は躒(わたし)に命じられ、君命をもって意如(いじょ)(季平子(きへいし))を責(せ)めさせましたが、意如(いじょ)(季平子(きへいし))は決して死を逃(のが)れようとは致しませんでした。(季平子(きへいし)と一緒に)国にお帰りください」

と言ったが、昭公(しょうこう)は、


「君(晋侯(しんこう))には先君以来の好(よしみ)を思われ、また亡命中のこの身まで恩恵を施(ほどこ)してくださいました。

もし帰国して、宗廟(そうびょう)を清めて君(晋侯(しんこう))にお仕えすることをお許しくださるなら、それはありがたいことでございます。

ですが、黄河(こうが)に誓って『再び夫人(ふじん)(季平子(きへいし))に会うこと』は決してありません!*10」


と答えたので、荀躒(じゅんれき)は(意外な答えに驚いて)耳を塞(ふさ)いで走り去りながら、

「寡君(かくん)(我が君)は(昭公(しょうこう)を魯(ろ)国に帰すことができない)罪を恐れたのです。もう魯(ろ)国の難には関与しません。寡君(かくん)(我が君)に事の次第をご報告します」

と言い、退出して季孫(きそん)(季平子(きへいし))に、

「君(昭公(しょうこう))の怒りはまだ収(おさ)まっていません。子(あなた)は国に帰ってお祭り(祭祀(さいし))の世話でもなさるのがよろしいでしょう」

と言った。


一方、子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))は、

「我が君(昭公(しょうこう))には馬車1乗(じょう)で単身、魯(ろ)の軍にお入りになれば、季孫(きそん)(季平子(きへいし))は必ずや我が君(昭公(しょうこう))をお連れして国へ帰るでしょう」

と言い、昭公(しょうこう)もこれに従おうとしたが、多くの従者たちが昭公(しょうこう)を押し留(とど)めたため、結局、帰ることができなかった。


魯(ろ)の昭公(しょうこう)の32年(紀元前510年)12月、昭公(しょうこう)は病気になり、己未(きび)の日(12月5日)に亡くなった。

脚注

*10原文:「君惠顧先君之好,施及亡人,將使歸糞除宗祧以事君,則不能見夫人。已所能見夫人者,有如河!」

子家子(子家懿伯)を求める

魯(ろ)の定公(ていこう)の元年(紀元前509年)夏、叔孫成子(しゅくそんせいし)(叔孫不敢(しゅくそんふかん))*11が、乾侯(けんこう)に昭公(しょうこう)の柩(ひつぎ)を受け取りに行った。

この時 季孫(きそん)(季平子(きへいし))は、

「子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))はたびたび我(わたし)に意見してくれたが、1度として吾(わたし)の考えに合わなかったことはなかった。吾(わたし)は彼と共に政治を行いたいと思っている。子(あなた)は必ず彼を引き止めて、この命令を伝えてほしい」

と言った。

ところが、子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))は叔孫(しゅくそん)(叔孫不敢(しゅくそんふかん))*11と会おうとせず、朝夕の哭礼(こくれい)の際にも時刻を変えて行った。

叔孫(しゅくそん)(叔孫不敢(しゅくそんふかん))*11は面会を求めたが、子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく)、子家羈(しかき))は辞退して言った。

「羈(わたし)はまだお目にかかれないうちに、我が君(昭公(しょうこう))に従って国外へ出ました。我が君(昭公(しょうこう))から(あなたにお目にかかれとの)命令を受けないまま亡くなられた以上、羈(わたし)はお会いすることができません」

そこで叔孫(しゅくそん)(叔孫不敢(しゅくそんふかん))*11は子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))に使者を遣(つか)わして、


「公衍(こうえん)と公為(こうい)(の昭公(しょうこう)の2人の子)が実際には群臣が我が君(昭公(しょうこう))に仕えることを妨(さまた)げていたのです。もし公子(こうし)宋(そう)(昭公(しょうこう)の弟・定公(ていこう))が社稷(しゃしょく)(国家)を継がれるならば、それこそ群臣の願いです。

かつて我が君(昭公(しょうこう))に従って国外へ出た者で帰国できる者は、すべて子(あなた)の指示に従うでしょう。子家氏(しかし)にはまだ後継ぎがおられません。季孫(きそん)(季平子(きへいし))は子(あなた)と共に政治を行いたいと望んでいます。

これらはすべて季孫(きそん)(季平子(きへいし))の願いであり、不敢(わたし)に命じて申し上げさせる次第です」


と言わせた。すると子家子(しかし)(子家懿伯(しかいはく))は答えて言った。


「どなたを国君に立てるかは、卿(けい)・大夫(たいふ)や守亀(しゅき)(卜亀(ぼくき))の者がいるので、羈(わたし)は関与する立場にありません。

我が君(昭公(しょうこう))に従って国外へ出た者の中で、礼に従って国外へ出た者は帰国するべきであり、敵(季平子(きへいし))に追われて国外へ出た者はそのまま去るべきです。

ですが羈(わたし)に限って言えば、我が君(昭公(しょうこう))は羈(わたし)が国外へ出たことはご存じでしたが、帰国についての命令は受けていません。ゆえに羈(わたし)は立ち去りたいと存じます*12」


昭公(しょうこう)の柩(ひつぎ)が魯(ろ)の壊隤(かいたい)に着くと、公子(こうし)宋(そう)(昭公(しょうこう)の弟・定公(ていこう))が都に入ったが、昭公(しょうこう)に従っていた者たちは、みな壊隤(かいたい)から他国へ去ってしまった。

6月癸亥(きがい)の日(22日)、昭公(しょうこう)の柩(ひつぎ)が乾侯(けんこう)から魯(ろ)に入り、戊辰(ぼしん)の日(27日)に定公(ていこう)が位についた。

脚注

*11叔孫昭子(しゅくそんしょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))の子。

*12原文:若立君,則有卿大夫與守龜在,羈弗敢知,若從君者,則貌而出者,入可也,寇而出者,行可也。若羈也,則君知其出也,而未知其入也,羈將逃也。

あああ

季孫(きそん)(季平子(きへいし))は人夫(にんぷ)に命じ、闞(かん)にある公室の墓地に(昭公(しょうこう)の墓を先代の墓と隔離(かくり)させるため、墓の周囲に)溝(みぞ)を掘らせようとしたが、大夫(たいふ)の営鴐鵝(えいかが)が、

「君(昭公(しょうこう))の在世中は(国外に追い出して)お仕えせず、亡くなられた後もまた、その墓を先代の墓から切り離そうとするのは、自(みずか)ら『君(昭公(しょうこう))を追い出した自分の悪事を世に明らかにする』行為です。子(あなた)は平気でも、後(のち)の子孫たちはこれを恥じることでしょう」

と言ったので、これを中止した。


また季孫(きそん)(季平子(きへいし))は営鴐鵝(えいかが)に、

「吾(わたし)は君(昭公(しょうこう))に(悪い)謚(おくりな)を贈(おく)り、子孫に(良からぬ国君であったことを)知らせたい」

と言ったが、営鴐鵝(えいかが)が、

「君(昭公(しょうこう))の在世中は(国外に追い出して)お仕えせず、亡くなられた後もまた、悪い謚(おくりな)を贈(おく)るのは、自(みずか)ら『自分の悪を明らかにする』行為です。どうしてそのようなことをするのですか?」

と言ったので、これを中止した。*13


秋7月癸巳(きし)の日(22日)、昭公(しょうこう)は代々の墓の道の南側に葬(ほうむ)られた。孔子(こうし)が魯(ろ)の司寇(しこう)となった時に、昭公(しょうこう)の墓の外側に溝(みぞ)を掘って囲(かこ)み、代々の墓と地続きにした。

昭公(しょうこう)が国外に追放された事情があったため、季平子(きへいし)は(兄の後を継いだ魯(ろ)の第3代国君である)煬公(ようこう)に祈祷(きとう)を行った。

脚注

*13原文:季孫問於榮鴐鵝曰:「吾欲為君謚,使子孫知之。」對曰:「生弗能事,死又惡之,以自信也。將焉用之?」乃止。
本文は意訳。季平子(きへいし)は「悪い謚(おくりな)を贈(おく)る」とは言っていない。営鴐鵝(えいかが)は「謚(おくりな)を贈(おく)る」行為自体を悪(偽善(ぎぜん))と言っている可能性もある。

季平子の死

魯(ろ)の定公(ていこう)の5年(紀元前505年)6月、季平子(きへいし)は東野(とうや)の地を巡察したが、そこから帰る途中の丙申(へいしん)の日(18日)、まだ都に着かないうちに房(ぼう)で亡くなった。


陽虎(ようこ)が、季平子(きへいし)の遺体に(魯君(ろくん)が佩(お)びる)璵璠(よはん)という美玉を佩(お)びさせて納棺しようとしたところ、仲梁懐(ちゅうりょうかい)はこれに賛成せず、「歩(喪礼(そうれい)の節)や佩(お)びさせる玉を変えてはならない*14」と言った。

そこで陽虎(ようこ)は公山不狃(こうざんふじゅう)に「仲梁懐(ちゅうりょうかい)を追放しよう」と言ったが、不狃(ふじゅう)は「彼は君(季平子(きへいし))のために言っているのです。何の怨(うら)みがあるのですか?」と言った。


(季平子(きへいし)の)葬儀が終わると、桓子(かんし)(季平子(きへいし)の子・季桓子(きかんし))は東野(とうや)の地を巡察し、費(ひ)まで行った。

費宰(ひさい)(費(ひ)の長官)であった子洩(しせつ)(公山不狃(こうざんふじゅう))*16は桓子(かんし)(季桓子(きかんし))を迎えて郊外で労(ねぎら)ったが、桓子(かんし)(季桓子(きかんし))は子洩(しせつ)(公山不狃(こうざんふじゅう))*16に対して敬意をもって接した。ところが、(季桓子(きかんし)に同行していた)仲梁懐(ちゅうりょうかい)を労(ねぎら)ったところ、仲梁懐(ちゅうりょうかい)は子洩(しせつ)(公山不狃(こうざんふじゅう))*16に対して敬意を払わなかった。

子洩(しせつ)(公山不狃(こうざんふじゅう))*16は腹を立て、陽虎(ようこ)に「仲梁懐(ちゅうりょうかい)を追放してくれないか?」と言った。

脚注

*14原文:仲梁懷弗與,曰:「改步改玉」。季平子(きへいし)は国君ではないのだから、国君待遇の葬礼は不可の意。

*15原文:不狃曰:「彼為君也,子何怨焉?」。君を季平子(きへいし)として訳した。

*16子洩(しせつ)は公山不狃(こうざんふじゅう)の字(あざな)。子泄(しせつ)表記の方が一般的?洩(せつ)と泄(せつ)は異体字。


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