正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧④季孫氏④[季平子(季孫意如)]です。
スポンサーリンク
凡例・関連記事
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
関連記事
スポンサーリンク
き④
季平子
季平子(季孫意如)
生年不詳〜魯の定公の5年(紀元前505年)没。名は意如。父は季悼子(季孫紇)。祖父は季武子(季孫宿)。魯の正卿(宰相)。
苑囿を築く
魯の昭公の9年(紀元前533年)冬、魯は郎に苑囿(狩猟や娯楽のための庭園)を築いた。
季平子はその工事が早く完成することを望んだが、叔孫昭子(叔孫婼)は、
「『詩』に『事業を始めるにあたっては、慌て急いではならない。急がなければ、多くの民が自らやって来て協力する』とあります。どうして急いで完成させる必要があるのでしょうか? それでは民を疲弊させてしまうだけです。 苑囿などなくても良いが、民がいなくなってしまって良いはずがない」
と諌めた。
人を生贄にする
魯の昭公の10年(紀元前532年)秋7月、季孫意如(季平子)と叔弓、仲孫貜が莒を伐って郠を攻め取ったが、(季平子は)その捕虜を宗廟に献上し、初めて亳社(殷代の社)の祭祀において、人を(生贄に)用いた。
斉にいた臧武仲はこれを聞くと、
「周公は、おそらく魯の祭祀を享けないであろう。そもそも周公が祭祀を享けるのは、義があるからであるが、魯には義がない。
『詩』 に『徳ある者の評判は明らかで、 民を粗末に扱うことはない』とある。民を粗末に扱うだけでも甚だしく酷いことなのに、人を(牛や羊のように生贄に)用いて、神はいったい誰に福をもたらすというのか!」
と言った。
厥憖の会に出席する
魯の昭公の11年(紀元前531年)秋、季孫意如(季平子)は晋の韓起(韓宣子)、斉の国弱、 宋の華亥、衛の北宮佗、鄭の子皮、曹人、杞人と衛の厥憖で会合したが、これは、楚に攻められている蔡を救う相談をしたものである。
南蒯が費で叛乱を起こす
魯の昭公の12年(紀元前530年)冬、季平子は南蒯*1に礼をもって待遇しなかったので、南蒯*1は子仲(公子憖)に言った。
「吾は季氏を追い出して(季氏の領地・財産を)公室に返しますので、子は(季氏に代わって)その位についてください。我は費の代官として公室の臣下となります」
子仲はこれを許し、南蒯*1はまた、叔仲穆子(叔仲帯の子)にも打ち明けた。
季悼子(季孫紇)*2が亡くなった時、叔孫昭子(叔孫婼)が再命*3の卿となり、平子(季平子)が[魯の昭公の10年(紀元前532年)に]莒を伐って勝った時、平子(季平子)は三命*3の卿となったが、叔孫昭子(叔孫婼)も三命*3の卿となった。
そこで叔仲子(叔仲穆子)は叔孫・季孫の2家を争わせようと考え、平子(季平子)に「三命*3の卿となって父兄を越えた待遇を受けているのは、礼に適っていません」と言うと、平子(季平子)は「その通りだ」と言って、叔孫昭子(叔孫婼)に自ら辞退させようとした。
すると叔孫昭子(叔孫婼)は言った。
「叔孫氏には[魯の昭公の4年(紀元前538年)に]禍が起こり、嫡子を殺して庶子を立てることになり、婼がこうして後を継いでいるのです。もし、禍を理由に(叔孫氏を)斃ぼすということならば、仰せに従いましょう。ですがもし、君命を廃するのでなければ、婼の地位は揺るぎようがありません」
その後、叔孫昭子(叔孫婼)が朝廷の役人に命じて「婼は季氏(季平子)を告訴する。文書の内容は偏りなく書くように」と言うと、季孫(季平子)は懼れて、その罪を叔仲子(叔仲穆子)に着せた。
これを受け、叔仲小(叔仲穆子)・南蒯*1・公子憖の3人は、季氏(季平子)を伐つ謀議をした。公子憖はその謀を昭公に報告し、昭公のお供をして(援助を求めるために)晋へ出かけた。
南蒯*1は「季氏(季平子)に勝てないであろう」と懼れて費で叛乱を起こし、斉へ出かけてその援助を求めた。
子仲(公子憖)は、晋から還って衛まで来たところで叛乱が起こったことを聞き、副使の役をすっぽかして先に帰ったが、郊外まで来て「費で南蒯*1が叛いたこと」を聞くと、そのまま斉に逃亡した。
南蒯*1が(叛乱を起こそうとして)費に出かけようとした時、郷人に酒を振る舞った。すると郷人のある者が歌って言った。
〽我の圃(畑)に杞を植えて荒らそうとしているよ
我について来る者は立派な人
我の元を去る者は卑しい人
隣人に背く者は恥を受けるよ
やめようよ、やめようよ
吾らの仲間ではないか
平子(季平子)が叔孫昭子(叔孫婼)に命じて叔仲小(叔仲穆子)を追放させようとしたところ、それを聞いた叔仲小(叔仲穆子)は朝廷に出仕しなくなった。
そこで叔孫昭子(叔孫婼)は吏(役人)に命じて、叔仲小(叔仲穆子)に「朝廷で政務を待て」と伝えさせ、「吾は怨みを集める者にはなりたくない」と言った。
脚注
*1南遺の子で季子の領邑・費の代官。
*2季武子(季孫宿)の子。季平子(季孫意如)の父。
*3再命・三命は九儀之命(身分格式の等級体系)の1つ。一命:大国の下大夫・小国の卿。再命:大国の下卿。三命:大国の上卿。参考: 金藤行雄「『周礼』の命について」
費を取り戻す
魯の昭公の13年(紀元前529年)春、魯の叔弓が費を包囲したが勝つことができず、逆に敗れた。
これに怒った平子(季平子)は「費人を見つけたら捕らえて捕虜にせよ」と命じたが、冶区夫は、
「いけません。もし費人を見つけましたならば、寒さに凍えている者には衣服を与え、飢えた者には食事を与え、善き主人となって彼らの困窮を救ってやるのがよろしい。
そうなされたならば、費の人々は(季氏の下に)帰り、南氏(南蒯*1)は滅びるでしょう。民が叛いたなら、[南氏(南蒯*1)は]いったい誰と一緒に費に居続けることができるでしょうか。
もし費の民を脅し、怒りをもって懼れさせたならば、民は憎んで(季氏に)叛き、南氏(南蒯*1)の下に集まるでしょう。もし諸侯がみなそのようにしたならば、費人には帰るところがなく、南氏(南蒯*1)に親しむ以外に、どこにその身を安んじる場所があるでしょうか」
と言った。平子(季平子)はこれに従い、その結果、費人は南氏(南蒯*1)に叛いた。
脚注
*1南遺の子で季子の領邑・費の代官。
晋に捕らえられる
[魯の昭公の10年(紀元前532年)に]魯が(莒の)郠を攻め取ったため、晋は諸侯の軍を率いて魯を討とうと考えた。そこで(晋侯は)あまねく諸侯に会合を命じ、7月丙寅の日(30日)、邾の南に兵車4千乗を揃え、羊舌鮒に司馬を代行させた。
こうして魯の昭公は(東周の)劉子・晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と、平丘で会合した。
この時、邾人と莒人が晋に訴えて、
「魯が朝夕、我らを伐つため、もはや滅びかかっております。我どもが貴国に貢物を納められないのは、魯のためでございます」
と言ったので、晋侯は魯の昭公に会おうとせず、叔向を遣わして、
「諸侯は甲戌の日(8月8日)に盟を結ぼうとしておりますが、寡君(我が君)は君(魯の昭公)にお仕えすることができない*4と考えております。どうか盟に参加なされませんように」
と挨拶させた。これに魯の子服恵伯(孟椒)は、
「君(晋侯)は蛮夷(邾・莒)の訴えを信じて、兄弟関係にある魯との縁を断ち切り、周公の子孫を棄てようとしておられる。これもただ、君(晋侯)のお考え次第です。寡君(我が君)には仰せの程を承りました」
と反論したが、晋の強大な軍事力を懼れてその命令に従い、魯の昭公は盟に参加しなかった。
諸侯が甲戌の日(8月8日)に平丘で盟を結んだのは、斉が晋に服従したからである。
晋人は季孫意如(季平子)を捕らえて幕で覆い、(晋に属していた)狄人(北方異民族)に見張りをさせた。
魯の大夫・司鐸射は、錦を懐に入れて一壺の飲み物と氷を持ち、腹ばいになって季孫意如(季平子)を助けに出かけたが、見張りの者が通さなかったので、錦を与えて中に入った。
晋人は平子(季平子)を連れて国に帰ったが、(魯の)子服湫[子服恵伯(孟椒)]はこれに従って晋に行った。
脚注
*4「魯と絶交する」ということを謙って言った言葉。
魯に帰還する
冬10月、魯の昭公が(晋に捕らわれている季平子を貰い受けるため)晋に出かけた。
すると晋の荀呉は、韓宣子(韓起)に言った。
「諸侯がお互いに朝見し合うのは、旧来の友好関係を確認するためです。今、その国の卿を捕らえておきながら、その君(国君)に朝見させるというのは好ましくありません。断った方がよろしいでしょう」
そこで晋は士景伯を遣わし、黄河のほとりで魯の昭公に会って辞退させた。
魯の子服恵伯(孟椒)は、私的に晋の中行穆子(荀呉)と会って言った。
「魯は晋に仕えておりますが、どうして夷(異民族)の小国よりも劣った扱いを受けるのでしょうか。魯と晋は兄弟の国であり、土地も(邾・莒より)広く、命じられれば必要なことは整えて差し出すことができます。
もし(晋が)夷(異民族)のために魯を見棄て、(その結果、)魯が斉や楚に仕えたならば、それは晋にとって何の利益があるのでしょうか?
親類に親しみ大国を尊重し、賞を共にし罰を異にすることこそが、盟主というものではありませんか。 どうかよくお考えください。
『臣一主二(誰に仕えるかは個人の自由)』という諺があります。魯には(晋の他に仕えるべき)大国がないと思っておられるのでしょうか?」
そこで中行穆子(荀呉)は、韓宣子(韓起)に報告した上で、
「楚が陳と蔡を滅ぼした時、(晋は)この2国を救うことができなかった。それなのに(晋は)また、夷(異民族)のために親類である魯の卿を捕らえている。どうしてこんなことをする必要があるというのか」
と言い、季孫(季平子)を魯に帰すことにした。
すると子服恵伯(孟椒)は、
「寡君(我が君)はその罪を知らされることもなく、居並ぶ諸侯たちの前で その重臣を捕らえられました。
もし魯に罪があると言われるのなら、死を命じられても従います。ですが、罪がないとのお恵みを賜って(季平子を)帰されましても、諸侯たちが魯の無罪を知らされていなければ、(晋の)ご命令に背いて逃げ出したと思うでしょう。
それでどうしてお許しを賜ったと言えるのでしょうか。どうか、諸侯の会合の席において、君(晋侯)のお許しを賜ることをお許しください」
と言った。
返答に困った韓宣子(韓起)が叔向に「子なら(魯が納得した上で)季孫(季平子)を魯に帰すことができるか?」と尋ねたところ、叔向は「できません。羊舌鮒(叔魚)ならできるでしょう」と答えた。
そこで叔魚(羊舌鮒)を遣わして季孫(季平子)に言った。
「昔[魯の襄公の21年(紀元前552年)]、鮒は晋君(平公)に罪を得て魯君(襄公)の元に身を寄せたことがありましたが、[季平子の祖父・]武子(季武子)のご厚意を賜ることができなかったならば、鮒は今日、こうしていることができなかったでしょう。
骨となって晋に帰るべきところを、子方が生かして帰してくださったのです。どうして真心を尽くさずにおられましょうか。
子を(魯に)帰国させることができないのなら、鮒も(ご恩を返せないまま)帰ることはできません。鮒は吏(役人)から『子のために西河の地にある宿舎を掃除して、お待ちすることになっている*5』と聞いております。どうなさるおつもりですか?」
叔魚(羊舌鮒)が涙を流しながら言うと、平子(季平子)は懼れて先に帰り、子服恵伯(孟椒)は、後に残って「正式に許されて帰される礼」を待った。
魯の昭公の14年(紀元前528年)春、季孫意如(季平子)は晋から帰国した。
脚注
*5季平子を「魯から遥か遠く隔たる西河の地に幽閉する」ことを婉曲に言ったもの。
子服恵伯の子・子服昭伯
魯の昭公の16年(紀元前526年)夏、前年の冬から晋に出かけていた魯の昭公が帰国した。
(魯の昭公に従って晋から帰国した)子服昭伯(子服恵伯の子・子服回)が季平子に、
「晋の公室は間もなく衰えるでしょう。君(晋の昭公)は幼弱で、六卿の勢力は強大で驕り高ぶっていますので、彼らの勝手な振る舞いは常態化するでしょう。そうなってしまえば、どうして衰えずにいられるでしょうか」
と言ったが、平子(季平子)は「爾はまだ幼い。どうして国家のことが分かるのか?」と言って信用しなかった。
秋8月、晋の昭公が亡くなった。
冬10月、季平子は晋の昭公の葬儀に参列するため晋に赴いたが、(晋の様子を見た)平子(季平子)は「子服回(子服昭伯)の言ったことは本当だった。子服氏には良い子がいるものだ」と言った。
小邾の穆公の来朝
魯の昭公の17年(紀元前525年)春、小邾(郳)の穆公が魯に来朝し、昭公は宴を共にした。
季平子は宴の席で(『詩経』小雅・桑扈の什・)采菽*6(立派な君子の来朝を歓迎する賦)を歌い、穆公は(『詩経』小雅・彤弓の什・)菁菁者莪[君子(季平子)に会えた嬉しさを歌った賦]を歌った。
これについて魯の昭子(叔孫婼)は「あの謙虚にして礼儀ある態度をもって国を治めたのでなければ、どうしてこんなに長く国君の位を保つことができようか*7」と言った。
脚注
*6原文は『采叔』。
*7明治書院『新釈漢文大系・春秋左氏伝(四)』より。原文は「不有以國,其能久乎?」。
日食をめぐる議論
夏6月、甲戌の朔に日食があった。祝史(神事官)が日食に用いる幣帛(供え物)を請うと、昭子(叔孫婼)は、
「日食の場合には、天子はご馳走の品を減らして社(土地の神)で鼓を打ち鳴らし、諸侯は幣帛を社に供えて朝廷で鼓を打ち鳴らすのが礼です」
と言った。
平子(季平子)はこれを止めて、
「やめなさい。ただ正月の朔には陰気がまだ起こらないもので、その日に日食があれば、鼓を打ち鳴らし幣帛を用いるのが礼である。他の月の日食には、そうはしないものである」
と言ったので、大史は、
「その正月とはこの月(6月)のことです。太陽が春分を過ぎてもまだ夏至になっていない時に、三辰(日・月・星)に災異が起これば、百官は飾りのある衣服を避けて素服(白い朝服)を着ます。君(国君)は、(日食が終わるまで)ご馳走の品を減らし、正寝を離れて過ごします。祝史(神事官)は幣帛を社に供え、右筆は祭文を捧げます。
『夏書』に『辰が房に集まらず(日と月がその居場所に落ち着かないで日食が起こり)、瞽(楽官)は鼓を打ち鳴らし、嗇夫(幣帛を司る役人)は走り回り、庶人は奔走した』とあるのは、この月(6月)の朔のことを言ったものです。それは夏の時代の4月にあたっており、これを孟夏(初夏)と言います」
と反論したが、平子(季平子)は聞き入れなかった。
昭子(叔孫婼)は退出すると「あの方は良からぬ心を抱いている。君(国君)を君(国君)とも思っていない」と言った。
饗応を妨害する
魯の昭公の21年(紀元前521年)夏、晋の士鞅(范鞅、范献子)が来聘した。
当時は叔孫昭子(叔孫婼)が政務を担当していたが、(かねてより叔孫昭子と仲が悪かった)季孫(季平子)は「晋に叔孫昭子のことを悪く思わせよう」と考え、有司(役人)に命じて[魯の昭公の14年(紀元前528年)に]斉の鮑国が費を返しに来た時と同じ礼で士鞅(范献子)を接待させた。
これに士鞅(范献子)が怒って、
「鮑国の位は低く、その国も小さいのに、鞅を鮑国と同じ牢礼*8で接待した。これは敝邑(我が国)を卑しめるものだ。このことは寡君(我が君)に報告させてもらおう」
と言ったので、魯人は恐れ、四牢 を加えて 十一牢 とした。
脚注
*8牢は饗応に用いる犠牲獣(牛・羊・豚)のセット数を表し、その数量によって外交上の待遇の等級が決まる。『周礼』正義に「上公:九牢、諸侯(侯・伯):七牢、諸子(子・男):五牢」とある。
妻を迎える
魯の昭公の25年(紀元前517年)春、魯の叔孫昭子(叔孫婼)が宋を聘問して、宋の元公の公女を季平子の妻に迎えた。(季武子の末子・)季公若の姉は小邾の夫人となって宋の元公の夫人(曹氏)を生んだが、この曹氏が生んだ公女を季平子の妻としたのである。
募る季平子への怨み
季公若の怨み
以前、(季公若の兄・)季公鳥が斉の鮑文子から妻を迎えて、甲という子を生んだ。季公鳥が亡くなると、季公亥(季公若)と(季氏の一族である)公思展の2人が、季公鳥の家臣・申夜姑と一緒に季公鳥の家の世話をした。
ところがその後、(季公鳥の未亡人の)季姒が饔人(料理人)と擅通(密通)するようになると、(季公若たちに)発覚することを懼れた季姒は侍女に自分の身体を鞭打たせ、その傷を(魯の大夫・)秦遄の妻(季公鳥の妹・秦姫)に見せて、
「公若(季公若)が余を自由にしようとしたが、余が言いなりにならなかったので鞭打ったのです」
と言い、さらに(季平子の弟・)公甫に訴えて「展(公思展)と夜姑(申夜姑)が余を脅して無礼な振る舞いをしようとしました」と言った。
このことを、秦姫が(季平子の弟・)公之(季公之)に話し、公之(季公之)と公甫が平子(季平子)に報告すると、平子(季平子)は展(公思展)を卞に拘留し、夜姑(申夜姑)を捕らえて処刑しようとした。
公若(季公若)は泣いて悲しみ、「申夜姑を殺すことは、余を殺すようなものだ」と言って、夜姑(申夜姑)の命乞いをしようとした。
すると平子(季平子)は、豎(召使い)に命じて面会させないようにしたので、公若(季公若)は正午になっても命乞いをすることができないまま、公之(季公之)が有司(役人)に命じて夜姑(申夜姑)を処刑してしまったので、公若(季公若)は平子(季平子)を怨むようになった。
郈昭伯の怨み
季(季平子)と郈(郈昭伯)の家が近かったので、両家の鶏が喧嘩をした。すると季氏(季平子)は自分の鶏の胸に革を甲のように被せ、郈氏(郈昭伯)は蹴爪に金属を被せた。
これに怒った平子(季平子)は、自分の邸宅を郈氏(郈昭伯)の邸宅の方に広げて建て増ししておきながら、「郈氏(郈昭伯)の方が自分の邸宅の領域を侵した」と責め立てたので、郈昭伯もまた平子(季平子)を怨むようになった。
臧昭伯の怨み
臧昭伯の従弟の臧会が臧氏を讒言して季氏の元へ逃げ込んだが、臧氏(臧昭伯)が会を捕らえると、平子(季平子)は怒って臧氏(臧昭伯)の家老を捕らえた。
また、襄公の褅(祭祀)を行おうとした時、襄公の廟で舞った楽人は僅か2人であったが、その他多くの楽人が季氏(季平子)の家廟で舞っていた。
これについて臧孫(臧昭伯)は「こうしたことを『先君の廟を蔑ろにして正しい礼を行わない』と言うのだ」と言った。
こうしたことから、魯の大夫たちは平子(季平子)を怨むようになった。
昭公を追放する
季平子追放計画
公若(季公若)と(魯の昭公の子・)公為、公果、公賁、(昭公の)侍者の僚柤らが、季氏(季平子)を追い出すように申し上げた。
そこで昭公は、臧孫(臧昭伯)と郈昭伯、子家懿伯の3人に相談したが、賛成したのは郈昭伯だけで、臧孫(臧昭伯)と子家懿伯は、その困難さと失敗した時の昭公へのリスクを指摘して反対した。
昭公が季平子を攻める
叔孫昭子(叔孫婼)が(魯の邑の)闞に出かけると、魯の昭公は長府に移った。9月戊戌の日(11日)、(昭公は)季氏(季平子)を攻めて(季平子の弟・)公之(季公之)を(季氏の邸宅の)門で殺害し、そのまま中へなだれ込んだ。
すると平子(季平子)は、台(高楼)に登って、
「臣の罪をよくお調べにならずに、有司(役人)に命じて武器をもって臣を討たせるとは。我が君、臣は沂水のほとりでお待ちしておりますので、どうか臣の罪をよくお調べください」
と請うたが、昭公は許さなかった。そこで季平子は「費に幽閉してほしい」と請うたが許さず、また「5乗の車で逃亡させてほしい」と請うても、昭公は許さなかった。
すると子家子(子家懿伯)は、
「我が君、どうか季氏(季平子)をお許しください。(魯の)政が季氏(季平子)によって行われるようになってから、長い年月が経っています。民の中には季氏(季平子)から生活の糧を得ている者が多く、その配下となっている者も多数おります。日が暮れれば(季平子を助けようとする者が出て)変事が起こるかもしれず、予測できません。
季氏(季平子)を助けようとする者たちの怒りは抑えることはできず、たとえ抑えることができても治めることができなければ、その怒りは積もってゆきます。怒りを積もらせれば、民は反乱の心を起こし、互いに結びつきます。我が君は、必ず後悔なさるでしょう」
と言ったが、昭公は許さなかった。
そこで郈孫(郈昭伯)が「必ず殺すべきです」と言うと、昭公は郈孫(郈昭伯)に命じて孟懿子(仲孫何忌)を(味方にするために)迎えに行かせることにした。
叔孫氏の反応
叔孫氏(叔孫婼)の司馬・鬷戻*9は、叔孫氏の家来たちに「どうするべきか?」と言ったが、誰も答えなかった。そこでまた、
「我は家臣にすぎず、国の(政治の)ことは分からない。季氏(季平子)がいるのといないのとでは、我たちにとってどちらが利益になるだろうか?」
と言うと、皆、
「季氏(季平子)がいなければ、叔孫氏(叔孫婼)も存在することができません」
と言った。すると鬷戻*9は「では救おう」と言い、兵を率いて季氏(季平子)の邸宅に向かうと、邸宅を包囲していた西北の一角を破って邸宅に入った。
この時 昭公の兵は、甲を脱いで冰(矢筒の蓋)に酒を注ぎ、しゃがみ込んで酒を飲んでいたので、(鬷戻*9は)容易くこれを追い払った。
脚注
*9原文:叔孫氏之司馬鬷戾言於其眾曰:。明治書院『新釈漢文大系・春秋左氏伝(四)』では「叔孫氏の臣、司馬鬷戻と訳す。参考:維基百科:鬷戾
昭公が亡命する
孟氏(孟懿子)は(自分の邸宅の)西北に人を登らせて、季氏(季平子)の邸宅の様子を見張らせていたが、そこに叔孫氏(叔孫婼)の旌を見つけると、(自分を迎えに来た)郈孫(郈昭伯)を捕らえて南門の西で殺害し、昭公の兵を攻撃した。
これを受け、子家子(子家懿伯)は昭公に、
「臣下たちは『君(昭公)を脅して季氏(季平子)を討たせた』と、偽りの罪を着せて外に逃がし、君(昭公)はここにお留まりください。そうすれば、意如(季平子)も君(昭公)への仕え方を改めるでしょう」
と言ったが、昭公は「(臣下たちに罪を着せるのは)忍びない」と言い、臧孫(臧昭伯)と墓に出かけて相談すると、己亥の日(9月12日)に斉に亡命して陽州に留まった。
叔孫昭子の死
(魯の邑の)闞から帰って来た昭子(叔孫婼)は、平子(季平子)と会った。
平子(季平子)が稽顙(額を地につけて敬礼すること)して「子は我をどうなさるおつもりですか?」と言うと、昭子(叔孫婼)は言った。
「人は誰も死ぬものです。子は君(昭公)を追放して成した名は、子孫の代まで忘れないでしょう。なんと痛ましいことではありませんか。(私は)子をどうするべきでしょうか?」
すると平子(季平子)は、
「もし意如が、改めて君(昭公)に仕えることを許されるならば、それはまさに死者を生き返らせ、白骨に肉をつけるようなものです」
と言った。
そこで昭子(叔孫婼)は、斉に留まっている魯の昭公の元に行き、季平子が後悔していることを話した。これを知った子家子(子家懿伯)は「昭公の幄舎内に行く者を捕らえよ」と命じた。
昭公と昭子(叔孫婼)は幄舎内で話し、昭子(叔孫婼)は「国に帰って人々を安心させ、公(昭公)を国にお迎えしましょう」と言った。
この時、昭公の従者は、昭子(叔孫婼)を殺そうとして道に兵を伏せていたが、大夫の左師展がそのことを昭公に報告したので、昭公は昭子(叔孫婼)に命じ、(伏兵を避けて)自分の邑である鑄へ帰らせた。
ところが、平子(季平子)は心変わりして昭公を魯に入れようとしなかった。
冬10月辛酉の日(5日)、昭子(叔孫婼)は(責任と腹立たしさのあまり)自分の寝所で身を清め、祝宗(神官)に命じて「自分が死ぬように」と祈らせた。戊辰の日(12日)に亡くなった。
左師展は昭公をお連れして馬に乗って急いで帰ろうとしたが、昭公の従者が左師展を捕らえて帰さなかった。
臧会に臧氏を継がせる
12月庚辰の日(25日)、斉侯は(魯の昭公を住まわせようとして、魯の邑・)鄆を包囲した。
臧昭伯が昭公に従って国外に出てから、平子(季平子)は臧氏の家を(臧昭伯と反目する従弟の)臧会に継がせた。
斉による昭公の帰還計画
魯の昭公の26年(紀元前516年)春、王正月庚申の日(6日)、斉侯が(包囲していた)魯の邑・鄆を攻め取った。3月、昭公が斉から帰国して鄆に居住した。
夏、斉侯は昭公を魯に入れるため「魯(季平子)の賄賂を受け取ってはならない」と命じたが、(斉侯の寵臣・)子猶(梁丘拠)は賄賂を受け取って、斉侯に言った。
「(斉の)群臣が魯君(昭公)のために尽力しないのは、決して我が君(斉侯)の責任ではありません。ですが、拠には不審に思う所がございます。
宋の元公は魯君(昭公)のために晋に出かけて曲棘で亡くなり、(魯の)叔孫昭子(叔孫婼)はその君(昭公)を魯に入れようとして病気でもないのに死にました。これは天が魯を見捨てたのでしょうか。それとも魯君(昭公)が鬼神の祟りを受けて、このような結果になったのでしょうか。
我が君(斉侯)がもし、曲棘でお待ちくださるならば、群臣に命じて魯君(昭公)に従って戦いの成否を卜わせましょう。もし『可』ならば、軍は成功します。そこへ我が君(斉侯)が続いて進まれれば、もはや敵はいなくなりましょう。もし成功しなかったとしても、我が君(斉侯)の恥辱とはなりません」
これを聞き入れた斉侯は、公子鉏に命じ、軍を率いて魯君(昭公)に従わせた。
炊鼻の戦い
(魯の孟孫氏の邑・)成の大夫・公孫朝が「地方にある都城は国を衛るためのものです。我も成の軍を率いて斉の軍に当たりたいと存じます」と願い出たので、平子(季平子)にはそれを許した。
そこで公孫朝が(季平子に)人質を入れることを申し出ると、季平子は「汝の言葉を信じよう、それで十分だ(原文:信女,足矣)」と言った。
そこで公孫朝は、斉軍に(偽って)言った。
「(私の主人の)孟氏は魯の敝室(没落した家)です。(季平子が)成を用いること甚だしく、もはや耐えられません。どうか斉に身を寄せさせてください」
これを信じた斉軍が成を包囲したが、成人は降伏せず、淄水で馬に水を飲ませていた斉軍の者を攻撃した。こうして魯軍と斉軍は、魯の炊鼻で激戦となったが、斉軍は成を陥すことはできなかった。
昭公への贈り物をやめる
魯の昭公の28年(紀元前514年)、魯の昭公は晋に出かけて、晋の乾侯に行こうとした。
すると子家子(子家懿伯)は「人に求めようとしていながら、安楽な所に身を落ち着けるようでは、誰が憐んでくれるでしょうか。まず(晋の)国境に行って、先方の命令を待たれるのがよろしいでしょう」と言ったが、昭公はそれを聞き入れずに乾侯に行き、晋に「迎え入れて欲しい」と申し入れをさせた。
これに晋人は、
「天は魯国に禍を降し、ご主君(昭公)には長い間苦労して他国(斉)におられましたが、我が君(晋の頃公)にたった1人の使者を遣わして挨拶することすらしないで、異姓の国(斉)に落ち着いておられました。それなのに、今になってご主君(昭公)を迎え入れて欲しいと言われるのですか」
と言って、昭公を一旦国境に戻らせてから迎えることにした。
魯の昭公の29年(紀元前513年)、これまで平子(季平子)は毎年馬を買い求め、昭公の従者の衣服や履き物までを揃えて、乾侯にいる昭公の元に贈り届けていたが、昭公は馬を贈り届けて来た者を捕らえてその馬を売ったので、平子(季平子)は馬を贈ることをやめてしまった。
晋に呼び出される
魯の昭公の31年(紀元前511年)春、晋侯(定公)が「軍を率いて昭公を魯に入れよう」としたところ、范献子(范鞅、士鞅)は、
「季孫(季平子)を召し出して来なかったとしたら、それこそ本当の不忠の臣です。そのようにしてから季孫(季平子)を伐つことにしたらいかがでしょうか」
と言った。これに従って晋人は季孫(季平子)を召し出したが、この時 范献子は、こっそりと(季平子に)人を遣わして「必ず来るように。咎めを受けないことは、我が保証します」と言わせた。
そこで季孫意如(季平子)は晋に出かけて、晋の荀躒と適歴で会合した。そこで荀躒が、
「寡君(我が君)は躒に命じて吾子に『なぜ君(昭公)を国外へ追放したのか。君(昭公)がありながら仕えないと言うのならば、周には定まった刑罰がある。よく考えなさい』と伝えるようにおっしゃられました」
と言うと、季孫(季平子)は練冠(喪時の冠)をかぶり、麻衣を着て裸足で進み出ると、ひれ伏して、
「我が君(昭公)に仕えようと致しましても、(帰国されないため)どうにもかなわないことでございます。決してお裁きから逃れようとの心はございません。
もし我が君(昭公)が、臣に罪があるとお考えなら、どうか私を費に幽閉してください。そこで我が君(昭公)がお調べになられるのをお待ちしたいと思います。
(季孫の)先代のことを考えていただけますならば、季氏の家を絶やさずに(私だけに)死を賜ってください。もしこの身を殺さず、我が家を滅ぼさずにいただけるなら、それは君(昭公)のご恩徳でございます。たとえ死んでもそのご恩は忘れません。
もし君(昭公)に従って国に帰ることができますならば、それこそが臣の心からの願いでございます。どうして異心(裏切りの心)などございましょうか」
と答えた。
夏4月、季孫(季平子)は知伯(荀躒)に従って(昭公がいる)乾侯に行った。
この時、子家子(子家懿伯)が昭公に、
「我が君(昭公)は(季平子と一緒に魯に)お帰りください。一時の恥を忍ばずに、一生の恥を負うおつもりですか?」
と言い、昭公はこれを承諾したが、他の臣下たちは「(我が君が)一言おっしゃれば、季平子は追放されます!」と言って反対した。
荀躒は晋侯の命を受けて昭公を見舞って慰め、
「寡君(我が君)は躒に命じられ、君命をもって意如(季平子)を責めさせましたが、意如(季平子)は決して死を逃れようとは致しませんでした。(季平子と一緒に)国にお帰りください」
と言ったが、昭公は、
「君(晋侯)には先君以来の好を思われ、また亡命中のこの身まで恩恵を施してくださいました。
もし帰国して、宗廟を清めて君(晋侯)にお仕えすることをお許しくださるなら、それはありがたいことでございます。
ですが、黄河に誓って『再び夫人(季平子)に会うこと』は決してありません!*10」
と答えたので、荀躒は(意外な答えに驚いて)耳を塞いで走り去りながら、
「寡君(我が君)は(昭公を魯国に帰すことができない)罪を恐れたのです。もう魯国の難には関与しません。寡君(我が君)に事の次第をご報告します」
と言い、退出して季孫(季平子)に、
「君(昭公)の怒りはまだ収まっていません。子は国に帰ってお祭り(祭祀)の世話でもなさるのがよろしいでしょう」
と言った。
一方、子家子(子家懿伯)は、
「我が君(昭公)には馬車1乗で単身、魯の軍にお入りになれば、季孫(季平子)は必ずや我が君(昭公)をお連れして国へ帰るでしょう」
と言い、昭公もこれに従おうとしたが、多くの従者たちが昭公を押し留めたため、結局、帰ることができなかった。
魯の昭公の32年(紀元前510年)12月、昭公は病気になり、己未の日(12月5日)に亡くなった。
脚注
*10原文:「君惠顧先君之好,施及亡人,將使歸糞除宗祧以事君,則不能見夫人。已所能見夫人者,有如河!」
子家子(子家懿伯)を求める
魯の定公の元年(紀元前509年)夏、叔孫成子(叔孫不敢)*11が、乾侯に昭公の柩を受け取りに行った。
この時 季孫(季平子)は、
「子家子(子家懿伯)はたびたび我に意見してくれたが、1度として吾の考えに合わなかったことはなかった。吾は彼と共に政治を行いたいと思っている。子は必ず彼を引き止めて、この命令を伝えてほしい」
と言った。
ところが、子家子(子家懿伯)は叔孫(叔孫不敢)*11と会おうとせず、朝夕の哭礼の際にも時刻を変えて行った。
叔孫(叔孫不敢)*11は面会を求めたが、子家子(子家懿伯、子家羈)は辞退して言った。
「羈はまだお目にかかれないうちに、我が君(昭公)に従って国外へ出ました。我が君(昭公)から(あなたにお目にかかれとの)命令を受けないまま亡くなられた以上、羈はお会いすることができません」
そこで叔孫(叔孫不敢)*11は子家子(子家懿伯)に使者を遣わして、
「公衍と公為(の昭公の2人の子)が実際には群臣が我が君(昭公)に仕えることを妨げていたのです。もし公子宋(昭公の弟・定公)が社稷(国家)を継がれるならば、それこそ群臣の願いです。
かつて我が君(昭公)に従って国外へ出た者で帰国できる者は、すべて子の指示に従うでしょう。子家氏にはまだ後継ぎがおられません。季孫(季平子)は子と共に政治を行いたいと望んでいます。
これらはすべて季孫(季平子)の願いであり、不敢に命じて申し上げさせる次第です」
と言わせた。すると子家子(子家懿伯)は答えて言った。
「どなたを国君に立てるかは、卿・大夫や守亀(卜亀)の者がいるので、羈は関与する立場にありません。
我が君(昭公)に従って国外へ出た者の中で、礼に従って国外へ出た者は帰国するべきであり、敵(季平子)に追われて国外へ出た者はそのまま去るべきです。
ですが羈に限って言えば、我が君(昭公)は羈が国外へ出たことはご存じでしたが、帰国についての命令は受けていません。ゆえに羈は立ち去りたいと存じます*12」
昭公の柩が魯の壊隤に着くと、公子宋(昭公の弟・定公)が都に入ったが、昭公に従っていた者たちは、みな壊隤から他国へ去ってしまった。
6月癸亥の日(22日)、昭公の柩が乾侯から魯に入り、戊辰の日(27日)に定公が位についた。
脚注
*11叔孫昭子(叔孫婼)の子。
*12原文:若立君,則有卿大夫與守龜在,羈弗敢知,若從君者,則貌而出者,入可也,寇而出者,行可也。若羈也,則君知其出也,而未知其入也,羈將逃也。
あああ
季孫(季平子)は人夫に命じ、闞にある公室の墓地に(昭公の墓を先代の墓と隔離させるため、墓の周囲に)溝を掘らせようとしたが、大夫の営鴐鵝が、
「君(昭公)の在世中は(国外に追い出して)お仕えせず、亡くなられた後もまた、その墓を先代の墓から切り離そうとするのは、自ら『君(昭公)を追い出した自分の悪事を世に明らかにする』行為です。子は平気でも、後の子孫たちはこれを恥じることでしょう」
と言ったので、これを中止した。
また季孫(季平子)は営鴐鵝に、
「吾は君(昭公)に(悪い)謚を贈り、子孫に(良からぬ国君であったことを)知らせたい」
と言ったが、営鴐鵝が、
「君(昭公)の在世中は(国外に追い出して)お仕えせず、亡くなられた後もまた、悪い謚を贈るのは、自ら『自分の悪を明らかにする』行為です。どうしてそのようなことをするのですか?」
と言ったので、これを中止した。*13
秋7月癸巳の日(22日)、昭公は代々の墓の道の南側に葬られた。孔子が魯の司寇となった時に、昭公の墓の外側に溝を掘って囲み、代々の墓と地続きにした。
昭公が国外に追放された事情があったため、季平子は(兄の後を継いだ魯の第3代国君である)煬公に祈祷を行った。
脚注
*13原文:季孫問於榮鴐鵝曰:「吾欲為君謚,使子孫知之。」對曰:「生弗能事,死又惡之,以自信也。將焉用之?」乃止。
本文は意訳。季平子は「悪い謚を贈る」とは言っていない。営鴐鵝は「謚を贈る」行為自体を悪(偽善)と言っている可能性もある。
季平子の死
魯の定公の5年(紀元前505年)6月、季平子は東野の地を巡察したが、そこから帰る途中の丙申の日(18日)、まだ都に着かないうちに房で亡くなった。
陽虎が、季平子の遺体に(魯君が佩びる)璵璠という美玉を佩びさせて納棺しようとしたところ、仲梁懐はこれに賛成せず、「歩(喪礼の節)や佩びさせる玉を変えてはならない*14」と言った。
そこで陽虎は公山不狃に「仲梁懐を追放しよう」と言ったが、不狃は「彼は君(季平子)のために言っているのです。何の怨みがあるのですか?」と言った。
(季平子の)葬儀が終わると、桓子(季平子の子・季桓子)は東野の地を巡察し、費まで行った。
費宰(費の長官)であった子洩(公山不狃)*16は桓子(季桓子)を迎えて郊外で労ったが、桓子(季桓子)は子洩(公山不狃)*16に対して敬意をもって接した。ところが、(季桓子に同行していた)仲梁懐を労ったところ、仲梁懐は子洩(公山不狃)*16に対して敬意を払わなかった。
子洩(公山不狃)*16は腹を立て、陽虎に「仲梁懐を追放してくれないか?」と言った。
脚注
*14原文:仲梁懷弗與,曰:「改步改玉」。季平子は国君ではないのだから、国君待遇の葬礼は不可の意。
*15原文:不狃曰:「彼為君也,子何怨焉?」。君を季平子として訳した。
*16子洩は公山不狃の字。子泄表記の方が一般的?洩と泄は異体字。
「季成子」の関連記事
スポンサーリンク

