正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑦季札(きさつ)です。

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凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き⑦

季札

季札(きさつ)

生没年不詳。姫(き)姓(周(しゅう)王室の姓)。名は札(さつ)。春秋(しゅんじゅう)時代の初代呉王(ごおう)・寿夢(じゅぼう)の第4子(末子)。公子(こうし)札(さつ)、延陵季子(えんりょうきし)、延州来季子(えんしゅうらいきし)、あるいは単に季子(きし)とも呼ばれる。

王位を辞退する

呉王(ごおう)寿夢(じゅぼう)の25年(紀元前561年)、呉王(ごおう)・寿夢(じゅぼう)が亡くなった。呉王(ごおう)・寿夢(じゅぼう)には4人の子があり、長男を諸樊(しょはん)、次男を余祭(よさい)、三男を余昧(よばい)、四男を季札(きさつ)といった。

その中でも季札(きさつ)が賢(けん)(徳と能力を備(そな)えた君主に相応(ふさわ)しい人物)だったので、呉王(ごおう)・寿夢(じゅぼう)は彼を後継者に立てようとしたが、季札(きさつ)は辞退して受けなかったため、長男の諸樊(しょはん)を立てて国政を代行させた。


呉王(ごおう)諸樊(しょはん)の元年(紀元前560年)、喪(も)が明けると、諸樊(しょはん)は王位を季札(きさつ)に譲(ゆず)ろうとしたが、季札(きさつ)は辞退して言った。


「かつて曹(そう)の宣公(せんこう)が亡くなった時、諸侯(しょこう)や曹(そう)人(ひと)は曹君(そうくん)(成公(せいこう))を『不義(道に外れた者)』として、子臧(しぞう)を立てようとしましたが、子臧(しぞう)はこれを辞退して国を去り、曹君(そうくん)(成公(せいこう))が立ちました。これを君子は『よく節義を守った』と言っております。

我が君(諸樊(しょはん))は『義(正しい道理)』によって王位を継がれました。いったい誰が我が君(諸樊(しょはん))の地位を侵(おか)すことができましょうか。

国を有することは、私の守るべき節義ではありません。私は不才ではありますが、子臧(しぞう)の節義に従いたいと願います」


呉(ご)人(ひと)はそれでも季札(きさつ)を王(おう)に立てようとしたが、季札(きさつ)は自分の家を捨てて耕作に従事したので、ついにその意志を認めて王(おう)に立てることを諦(あきら)めた。

延陵に封ぜられる

呉王(ごおう)諸樊(しょはん)の13年(紀元前548年)秋、楚(そ)の属国である舒鳩(じょきゅう)が叛(そむ)いたため、楚(そ)の令尹(れいいん)(宰相)・屈建(くつけん)が軍を率(ひき)いて舒鳩(じょきゅう)を討伐した。呉(ご)は舒鳩(じょきゅう)を救援したが、楚(そ)軍は呉(ご)軍を大いに打ち破り、舒鳩(じょきゅう)を滅ぼした。

12月、呉王(ごおう)・諸樊(しょはん)は楚(そ)を討伐するために出兵したが、巣(そう)の城門を攻撃した際、敵将の牛臣(ぎゅうしん)に狙撃されて戦死した。


呉王(ごおう)・諸樊(しょはん)の遺命(いめい)には「兄弟で順番に王位を伝えていき、必ず季札(きさつ)まで国を伝えよ」とあったが、これは先王・寿夢(じゅぼう)の意に適(かな)うようにするためであり、また季札(きさつ)の節義を称揚(しょうよう)するためでもあった。

兄弟はみな季札(きさつ)に国を伝えたいと望んでいたので、遺命(いめい)の通りに王位が継がれるように定めた。

季札(きさつ)は延陵(えんりょう)に封ぜられ、延陵季子(えんりょうきし)と号された。

呉王・余祭の死

呉王(ごおう)余祭(よさい)の4年(紀元前544年)、呉(ご)が楚(そ)を攻めた時のこと。俘(ふ)(捕虜)を得たので、その捕虜を閽(こん)(門番)として舟の番をさせた。呉王(ごおう)・余祭(よさい)が船を視察したところ、その門番が刀で余祭(よさい)を殺害した。*3


脚注

*3『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』襄公(じょうこう)29年より。『史記(しき)』呉太伯世家(ごたいはくせいか)には「呉王(ごおう)余祭(よさい)の17年(紀元前531年)、呉王(ごおう)・余祭(よさい)が亡くなり、弟の余昧(よばい)が立った」とある。

諸国歴訪

同年、季札(きさつ)は新しい国君が即位したことを知らせるために、呉(ご)の使者として諸侯(しょこう)を聘問(へいもん)した。

魯(ろ)

まず、魯(ろ)への通り道の徐(じょ)に立ち寄って、その後で魯(ろ)を聘問(へいもん)したが、そこで(三桓氏(さんかんし)*1の1人である)叔孫穆子(しゅくそんぼくし)(叔孫豹(しゅくそんほう))と会見すると、季札(きさつ)は彼に説(と)いて言った。

「子(あなた)はまともな最期を遂(と)げることができません。善を好みながら人を見極(みきわ)めて用(もち)いることができていないからです。吾(わたし)は『君子は人材を選ぶことを第一とする』と聞いています。吾子(あなた)は魯(ろ)の宗卿(そうけい)として国家の大政を任されながら、人材登用を慎重に行っていません。それでどうして禍(わざわい)を支えきれましょうか。きっと子(あなた)に禍(わざわい)が及ぶでしょう」*2

そう言うと、季札(きさつ)は「周楽(しゅうがく)を観せてほしい」と願い出て、そこで歌われた歌や舞の1つ1つに感想を述(の)べ、叔孫穆子(しゅくそんぼくし)(叔孫豹(しゅくそんほう))に「理想的な王朝である周(しゅう)の規範」を再確認させた。


脚注

*1魯(ろ)の第15代国君・桓公(かんこう)の子孫である孟孫氏(もうそんし)(仲孫氏(ちゅうそんし))・叔孫氏(しゅくそんし)・季孫氏(きそんし)は三桓氏(さんかんし)と呼ばれ、代々魯国(ろこく)の実権を握っていた。季孫氏(きそんし)はその主席であった。

*2叔孫穆子(しゅくそんぼくし)(叔孫豹(しゅくそんほう))は豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))の陰謀によって餓死した。

斉(せい)

斉(せい)を聘問(へいもん)した季札(きさつ)は、晏平仲(あんへいちゅう)(晏嬰(あんえい))と会見して言った。

「子(あなた)は速(すみ)やかに、采邑(さいゆう)(領地)と政権を返上しなさい。采邑(さいゆう)も政権も持たなければ禍(わざわい)を免(まぬか)れるでしょう。斉(せい)国の政権は、未(いま)だ帰するところが定(さだ)まっていません。定(さだ)まるまでは災難は止みません」

そこで晏子(あんし)(晏嬰(あんえい))は陳桓子(ちんかんし)を通じて采邑(さいゆう)と政権を返上し、「欒氏(らんし)・高氏(こうし)の難」を免(まぬか)れることができた。

鄭(てい)

鄭(てい)を聘問(へいもん)した季札(きさつ)は、子産(しさん)(公孫僑(こうそんきょう))と会見した。旧知のように親しく語り合い、季札(きさつ)は縞帯(こうたい)(白絹の帯)を贈(おく)り、子産(しさん)(公孫僑(こうそんきょう))は紵衣(ちょい)(上質の麻布の衣(ころも))を贈(おく)った。

そこで季札(きさつ)は子産(しさん)(公孫僑(こうそんきょう))に、

「鄭(てい)の執政(しっせい)(政務を執(と)り行う人)は贅沢(ぜいたく)にふけっています。まもなく災難が起こり、必ず子(あなた)に政権が回ってくるはずです。子(あなた)が政権を執(と)ることになったなら、礼を重んじて慎(つつし)みなさい。そうしなければ、鄭(てい)国は滅びてしまうでしょう」

と言った。

衛(えい)

衛(えい)を聘問(へいもん)した季札(きさつ)は、蘧瑗(きょえん)、史狗(しこう)、史鰌(ししゅう)、公子(こうし)荊(けい)、公叔発(こうしゅくはつ)、公子(こうし)朝(ちょう)と会見して「衛(えい)には君子が多い。まだ心配することはないでしょう」と言った。

季札(きさつ)が衛(えい)から晋(しん)に向かい、(衛(えい)の)戚(せき)に宿泊しようとした時、鐘の音(ね)が聞こえてきた。すると季札(きさつ)は、

「これはおかしい。吾(わたし)は『口先だけで徳がなければ、必ず処刑される』と聞いている。あの方(衛(えい)の孫文子(そんぶんし))は君主に罪を得てこの地にいるというのに、恐れ慎(つつし)むどころか、どうして楽しんでいられるのか。あの方(孫文子(そんぶんし))がここにいるのは、まるで燕(つばめ)が幕の上に巣を作るようなもの(非常に危(あや)うい状態)だ。君主の遺体がまだ棺(ひつぎ)にあるのに、どうして楽しむことができようか」

と言って、すぐにその場を立ち去った。

このことを聞いた文子(ぶんし)(孫文子(そんぶんし))は、生涯二度と琴(こと)や瑟(しつ)の音(ね)を聴くことはなかった。

晋(しん)

晋(しん)を聘問(へいもん)した季札(きさつ)は、趙文子(ちょうぶんし)、韓宣子(かんせんし)、魏献子(ぎけんし)と会見して「晋(しん)国(の政権)はやがてこの3家に集まるだろう」と言った。

また季札(きさつ)は叔向(しゅくきょう)とも会見し、別れ際に、

「吾子(あなた)も努力なされよ。君(平公(へいこう))は奢侈(しゃし)(贅沢(ぜいたく))だが良臣が多く、大夫(たいふ)たちはみな富んでいます。政権はやがて3家に帰するでしょう。吾子(あなた)は正直を好む人ですから、必ず災難から身を守る方法を考えておきなさい」

と言った。

徐(じょ)

季札(きさつ)が使者として出発し、(魯(ろ)を聘問(へいもん)する前に)北の徐君(じょくん)(徐(じょ)の国君)の元に立ち寄った時のこと。

徐君(じょくん)は季札(きさつ)の佩剣(はいけん)を気に入ったが、口に出して求めることはしなかった。季札(きさつ)はそのことに気づいていたが、今は上国(魯(ろ))への使者としての任務中であったため、献上しなかった。

季札(きさつ)は使者の任務を終えた帰りに徐(じょ)に立ち寄ったが、その時すでに徐君(じょくん)は亡くなっていた。そこで季札(きさつ)は宝剣を解(と)き、徐君(じょくん)の冢樹(ちょうじゅ)(墓の木)に立て掛けて立ち去った。

従者が「徐君(じょくん)はすでに亡くなっています。いったい誰に与えたのですか?」と問(と)うと、季札(きさつ)は「そうではない。吾(わたし)はすでにこれを与えるつもりでいた。相手が亡くなったからといって、どうして吾(わたし)の心に背(そむ)くことができようか」と言った。

遺命に反する

呉王(ごおう)余昧(よばい)の17年(紀元前527年)、呉王(ごおう)・余眛(よばい)が亡くなった。(生前、余眛(よばい)は)弟の季札(きさつ)に王位を譲(ゆず)ろうとしていたが、季札(きさつ)は辞退して逃げ去った。*4

この状況に呉(ご)人(ひと)は、

「先王の遺命(いめい)では、兄が死ねば弟が代わって即位し、最後には必ず季子(きし)(季札(きさつ))に王位を伝えることになっているはずだ。ところが今、季子(きし)(季札(きさつ))は王位を避(さ)けて逃げ去ってしまったのだから、余眛(よばい)の後継者を立てるべきである。今、余眛(よばい)が亡くなった以上、その子が代わって即位するのが当然である」

と言い、余眛(よばい)の子・僚(りょう)を呉王(ごおう)に立てた。

脚注

*4『史記(しき)』呉太伯世家(ごたいはくせいか)原文:(呉王餘眛)四年,王餘眛卒,欲授弟季札。紀元前544年に呉王(ごおう)・余祭(よさい)が亡くなったとする『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』襄公(じょうこう)29年の記述に合わせた。参考:維基百科:余眛

公子光の野心

呉王(ごおう)僚(りょう)の5年(紀元前523年)、楚(そ)から亡命してきた臣下の伍子胥(ごししょ)が呉(ご)に逃(のが)れて来たので、公子(こうし)光(こう)は彼を客として迎え入れた。

この公子(こうし)光(こう)とは呉王(ごおう)・諸樊(しょはん)の子で、常々こう考えていた。

「吾父(わがちち)・諸樊(しょはん)には兄弟が4人おり、王位は順に伝えられて、最後には季子(きし)(季札(きさつ))に至るはずであった。季子(きし)(季札(きさつ))が国(王位)を受けないのであれば、(余眛(よばい)の子・僚(りょう)ではなく、)長兄・諸樊(しょはん)の子である光(わたし)が先に立つべきである」

そこで公子(こうし)光(こう)はひそかに賢士たちを迎え入れ、呉王(ごおう)・僚(りょう)を襲おうとした。

呉王僚の暗殺

呉王(ごおう)僚(りょう)の12年(紀元前514年)冬、楚(そ)の平王(へいおう)が亡くなった。

呉王(ごおう)僚(りょう)の13年(紀元前515年)春、呉(ご)は楚(そ)の喪(も)に乗じて公子(こうし)蓋余(がいよ)と燭庸(しょくよう)に兵を率(ひき)いさせ、楚(そ)の六(りく)と潜(がん)を包囲させると共に、季札(きさつ)を上国(中原諸国)と晋(しん)に使者として赴(おもむ)かせ、諸侯(しょこう)の動向を観察させた。

ところが、楚(そ)は兵を発して呉(ご)軍の退路を断ったので、呉(ご)軍は帰還できなくなった。


公子(こうし)光(こう)は「この機会を逃(のが)してはならない」と言い、(伍子胥(ごししょ)に推薦された)専諸(せんしょ)に告げて言った。

公子(こうし)光(こう)「求めなければ、どうして得られようか!我(わたし)こそが正統な王位継承者である。吾(わたし)は王位を求める。たとえ季子(きし)(季札(きさつ))が帰国しても、吾(わたし)を廃することはあるまい」

専諸(せんしょ)「呉王(ごおう)・僚(りょう)の母は年老い、2人の公子(こうし)は兵を率(ひき)いて楚(そ)を攻めており、しかも楚(そ)に退路を絶(た)たれております。今、呉(ご)は外では楚(そ)に苦しめられ、国内には骨鯁(こっこう)の臣(忠義で剛直な重臣)がいない状態です。我々をどうすることもできません。呉王(ごおう)・僚(りょう)を殺すことができます」

公子(こうし)光(こう)「我(わたし)の身は、子(あなた)の身でもある」


4月丙子(へいし)の日、公子(こうし)光(こう)は甲士(こうし)(武装兵)を窟室(くっしつ)(地下室)に潜(ひそ)ませて、呉王(ごおう)・僚(りょう)を酒宴に招(まね)いた。

すると呉王(ごおう)・僚(りょう)は兵を道路に並べさせ、王宮から公子(こうし)光(こう)の屋敷に至るまで、門・階段・戸口・座席に至るまで、みな呉王(ごおう)・僚(りょう)の近臣で固め、左右から鈹(ひ)(長柄の武器)を持って警護させた。

公子(こうし)光(こう)はわざと足の病気を装って窟室(くっしつ)(地下室)に入ると、専諸(せんしょ)に命じて匕首(ひしゅ)(鍔(つば)のない短刀)を炙魚(しゃぎょ)(焼き魚)の中に隠して進上させた。

専諸(せんしょ)はその匕首(ひしゅ)(鍔(つば)のない短刀)で呉王(ごおう)・僚(りょう)を刺したが、専諸(せんしょ)も胸に護衛の鈹(ひ)(長柄の武器)を突き立てられて絶命した。

こうして公子(こうし)光(こう)は代わって呉王(ごおう)となった。これが呉王(ごおう)・闔廬(こうりょ)である。その後、闔廬(こうりょ)は専諸(せんしょ)の子を卿(けい)とした。

呉王・闔廬に仕える

呉(ご)に帰還した季子(きし)(季札(きさつ))は、


「もし先君(呉王(ごおう)・僚(りょう))の祭祀(さいし)を絶(た)やさず、民に主(あるじ)が廃されることもなく、社稷(しゃしょく)(国家)に奉仕する者であれば、その者こそ吾君(わがきみ)である。

吾(わたし)が誰を怨(うら)むことがあろうか? 死者を哀悼(あいとう)して生者(君主)に仕え、天命を待つのみである。乱を起こしたのは我(わたし)ではない。すでに立てられた者に従おう。これこそ先人の道である」


と言い、(使者の役目の)報告をすると、僚(りょう)の墓で哭礼(こくれい)を行い、元の位(くらい)に復して命令を待った。


公子(こうし)蓋余(がいよ)と燭庸(しょくよう)の2人は兵を率(ひき)いて楚(そ)軍に包囲されていたが、「公子(こうし)光(こう)が呉王(ごおう)・僚(りょう)を弑逆(しいぎゃく)して自立した」と聞くと、その兵を率(ひき)いたまま楚(そ)に降伏し、楚(そ)は彼らを舒(じょ)の地に封じた。


太史公(たいしこう)曰(いわ)く、

「延陵季子(えんりょうきし)(季札(きさつ))の仁の心は義を慕(した)うこと限りなく、わずかな兆(きざ)しを見ただけで、物事の清濁(正邪・善悪)を見分けることができた。嗚呼(ああ)、またなんと見聞広く万事に通じた君子であったことかっ!」

出典
  • 『史記(しき)』呉太伯世家(ごたいはくせいか)
  • 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』襄公(じょうこう)14年、29年

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