正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑨季雍(きよう)です。

スポンサーリンク

凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

スポンサーリンク


き⑨

季雍

季雍(きよう)

生没年不詳。冀州(きしゅう)・清河国(せいがこく)の人。袁紹(えんしょう)の部将であったが、公孫瓚(こうそんさん)に降伏した。

鄃県をめぐる戦い

冀州(きしゅう)・清河国(せいがこく)の季雍(きよう)は鄃県(ゆけん)をあげて袁紹(えんしょう)に叛(そむ)き、公孫瓚(こうそんさん)に降伏した。すると公孫瓚(こうそんさん)は兵を派遣して鄃県(ゆけん)を護(まも)らせ、袁紹(えんしょう)は朱霊(しゅれい)を派遣してこれを攻めさせた。

公孫瓚(こうそんさん)の将は、鄃県(ゆけん)の城中にいた朱霊(しゅれい)の母と弟を城壁の上に立たせ、朱霊(しゅれい)に呼びかけて降伏を誘った。

すると朱霊(しゅれい)は城壁を仰(あお)ぎ見て涙を流しながら言った。

「丈夫(じょうぶ)(立派な男子)たる者、ひとたび身を投じて主君に仕えた以上、どうして再び家のことを顧(かえり)みることができようか!」

こう言うと、朱霊(しゅれい)は力戦してついに城を攻め落とし、季雍(きよう)を生け捕(ど)りにしたが、朱霊(しゅれい)の家族はみな殺された。

生け捕(ど)りにされた後の季雍(きよう)の処遇は記述されていないが、おそらく処刑されたものと思われる。

考察

季雍(きよう)が公孫瓚(こうそんさん)に降伏した時期について、

袁紹(えんしょう)が韓馥(かんふく)から冀州(きしゅう)を譲(ゆず)られたのは初平(しょへい)2年(191年)。この年に公孫瓚(こうそんさん)は磐河(ばんが)に出陣し、冀州(きしゅう)・勃海郡(ぼっかいぐん)を版図に収(おさ)めている。そして同年11月、公孫瓚(こうそんさん)は冀州(きしゅう)・勃海郡(ぼっかいぐん)に侵攻した青州(せいしゅう)の黄巾賊(こうきんぞく)30万を大いに打ち破った。


『魏書(かんじょ)』袁紹伝(えんしょうでん)・裴松之注(はいしょうしちゅう)『英雄記(えいゆうき)』に次のような記述がある。

公孫瓚(こうそんさん)は青州(せいしゅう)の黄巾賊(こうきんぞく)を攻撃して大いに撃ち破ると、軍を還(かえ)して冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)・広宗県(こうそうけん)に駐屯させた。

そこで(冀州(きしゅう)の)太守(たいしゅ)や県令(けんれい)を交代させたところ、冀州(きしゅう)の長吏(ちょうり)(地方長官)たちはその勢いを見て次々に呼応し、城門を開いてこれ(公孫瓚(こうそんさん))を迎え入れた。

これに対し、袁紹(えんしょう)は自(みずか)ら公孫瓚(こうそんさん)の討伐に向かい、界橋(かいきょう)の南20里(約8.6km)の地点で戦いを交(まじ)えた。


鄃県(ゆけん)がある清河国(せいがこく)は、公孫瓚(こうそんさん)が黄巾賊(こうきんぞく)を撃ち破った勃海郡(ぼっかいぐん)と、軍を駐屯させた鉅鹿郡(きょろくぐん)の通り道にあたり、次々に降伏した長吏(ちょうり)(地方長官)たちの中に季雍(きよう)がいたものと考えられる。

界橋(かいきょう)の戦いが起こったのは、初平(しょへい)3年(192年)1月なので、季雍(きよう)が公孫瓚(こうそんさん)に降伏したのは、初平(しょへい)2年(191年)11月〜初平(しょへい)3年(192年)1月の間となる。

出典
  • 『魏書(かんじょ)』張楽于張徐伝(ちょうがくうちょうじょでん)
  • 『魏書(かんじょ)』朱霊伝(しゅれいでん)・裴松之注(はいしょうしちゅう)『九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)』
  • 『魏書(かんじょ)』董二袁劉伝(とうにえんりゅうでん)
  • 『魏書(かんじょ)』袁紹伝(えんしょうでん)・裴松之注(はいしょうしちゅう)『英雄記(えいゆうき)』

「季雍(きよう)」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引