正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(107)介子推(王光)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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か(107)介子推(王光)
介子推(王光)
介子推(王光)
生没年不詳。春秋時代・晋の献公の公子・重耳(晋の文公)の従者。介之推とも。
『史記』晋世家
晋の公子・重耳の亡命
春秋時代・晋の献公には、申生、重耳、夷吾の3人の公子がいたが、献公の寵姫・驪姫は自分が生んだ奚斉に後を継がせようと画策し、太子・申生を自殺に追い込んだ。
献公の22年(紀元前655年)、献公は公子の重耳にも宦官・勃鞮(履鞮)を派遣して自殺を迫ったが、重耳は逃れて母の祖国である狄に亡命した。
献公の26年(紀元前651年)秋9月、献公が亡くなると、晋では裏克(里克)と邳鄭が反乱を起こして奚斉とその弟・悼子を殺害。使者を遣わして重耳を迎え入れようとしたが、重耳が辞退したため、梁に亡命していた夷吾を迎えて晋の国君とした。これが晋の恵公である。
恵公の7年(紀元前644年)、恵公は重耳の存在を恐れ、宦官・勃鞮(履鞮)に命じて壮士と共に重耳を殺害しようとした。
これを聞いた重耳は、5人の賢士*1の他、無名の士・数十人を従えて斉に亡命した。
狄に滞在すること12年、これ以降 重耳は、衛・斉・曹・宋・鄭・楚と、諸侯の間を渡り歩くこととなる。
脚注
*1趙衰、重耳の舅である狐偃・咎犯、賈佗、先軫、魏武子の5人。
重耳の帰還
重耳が楚に滞在してから9ヶ月、秦の人質となっていた晋の太子・圉が逃亡した。秦の穆公(繆公)はこれを恨みに思い、重耳が楚にいることを聞いて彼を招いた。
晋の恵公の14年(紀元前637年)9月、恵公が亡くなり子の圉が立った。これが晋の懐公である。
12月、晋の大夫・欒枝、郤穀らは重耳が秦にいることを聞き、みなで秘かに秦に来て重耳に帰国を勧め、その他多くの者が内応した。
そこで秦の穆公は、出兵して重耳が晋に帰るのを援け、重耳は国外に亡命すること19年で晋に帰ることができた。この時 重耳は62歳。晋人の多くが彼に従った。
介子推の批判
晋の文公(重耳)の元年(紀元前636年)春、秦が重耳を送って黄河まで来た時、咎犯(狐偃)が重耳に言った。
「臣は君(重耳)に従って天下を周遊する間、多くの過ちを犯しました。臣自身で分かっているくらいですから、なおさら君(重耳)にはお分かりのことでしょう。どうかここでお暇をいただきたく存じます」
すると重耳は、
「もし国へ帰った後に子犯(狐偃)を遠ざけるようなことがあれば、河伯(黄河の河神)が見ておられるだろうっ!」
と言い、璧を河中に投じて子犯(狐偃)に誓った。
船中に従っていた介子推は笑って、
「その実、天が公子(重耳)の運を開かれたのに、子犯(狐偃)はそれを己の功績として君(重耳)に報酬を求めている。何と恥知らずなことか。吾は彼と同位にいることが忍びない」
と言い、黄河を渡ると自ら隠者となった。
晋の内乱
2月、重耳は即位して晋の国君となった。これが晋の文公である。懐公(圉)は髙梁に出奔したが、文公(重耳)は人を遣って懐公(圉)を殺害させた。
3月、元懐公(圉)の大臣・呂省と郤芮が反乱を起こしたが、宦官・勃鞮(履鞮)の密告によりそのことを知っていた文公(重耳)は、秘かに抜け出して秦の穆公と王城(陝西・朝邑)で会見していたため、難を逃れることができた。
呂省・郤芮らは兵を率いて出奔しようとしたが、秦の穆公が2人を誘い出して黄河の畔で殺害した。
こうして文公(重耳)はまた晋国に帰ることができたのである。
文公(重耳)の論功行賞
文公(重耳)は政治を修め、民に恵みを施した。
また文公(重耳)は、亡命に従った者および功臣に褒賞し、功績の大きな者には封邑を、功績の小さな者には尊爵を与えた。
ところが、まだ行賞が終わらないうちに、弟・帯の乱を避けて鄭の地にいる周の襄王が危急を告げて来た。晋は出兵したいと思ったが、国内が平定されたばかりだったので、また乱が起こることを恐れ(て評議に時間がかかってしまっ)た。
そのため亡命に従った者を褒賞しながら、未だ隠者となった介子推まで至らなかった。
介子推もまた禄(賞賜)のことを言わなかったので、禄(賞賜)もまた介子推まで至らなかったのである。
介子推が姿をくらます
介子推は母親に言った。
介子推:
「献公には9人の公子がおりましたが、今はただ君[文公(重耳)]だけとなりました。恵公(夷吾)と懐公(圉)には親愛し信用できる臣下がおらず、内外から見棄てられました。
天がまだ晋を滅ぼさないのなら、どうしても誰かが国君とならねばなりません。その場合、晋の祭祀を司る者は、君[文公(重耳)]以外に誰がいるというのでしょうか?
君[文公(重耳)]の運を開いたのは天に他なりません。それを2、3人の者が己の功績だと思い上がっています。何という誣りでしょう?
人の財を竊むことを『盗』と言いますが、天の功績を貪り己の功績とすることは、何と言えば良いのでしょうか?
下(臣下)はこのような罪を犯し、上(国君)はそのような姦人を賞し、上下互いに欺き合っているようでは、このような者たちと一緒にいることなどできませんっ!」
母親:
「どうしてお前も禄(賞賜)を求めないのか。それで死んでしまっては、誰を懟むこともできないではないか?」
介子推:
「人を咎めておきながら自分も同じことをするなど、なんと恐ろしい罪でしょう。怨言を吐いたからには、禄(俸禄)を食むことはできません」
母親:
「お上[文公(重耳)]にお前の意見を知っていただいたらどうだろう?」
介子推:
「言葉というものは『身の文』です。身を隠そうと思っていながら、どうして身を飾る必要があるのでしょうか?身を飾るということは、顕彰されることを求める行為です」
母親:
「お前がそう思うのなら、女もお前と一緒に隠れましょう」
これ以降、(介子推は姿をくらまし、)生涯、2度と君[文公(重耳)]と見えることはなかった。
文公に顕彰される
介子推の従者は、主人を憐れに思って宮門に次のような書を懸けた。
龍は天に上らんと欲し、五蛇は輔けを為す。
龍は已に雲に升り、四蛇は各々その宇に入る。
一蛇は独り怨み、終に処所を見ず。*2
文公(重耳)はその書を見ると、
「これは介子推のことだ。吾は王室の心配ばかりして、まだ彼の功績を褒賞していなかった」
と言い、使者を遣って彼を召し出そうとしたが、介子推は逃亡した後であった。
その所在を求めて「介子推が綿上(山西・介休)の山中に入った」ことを聞いた文公(重耳)は、綿上の山中を周囲から区切って「介推の田」とし、これを介山と号した。
こうして文公(重耳)は自らの過ちを記して善人を顕彰したのである。
脚注
*2原文:龍欲上天,五蛇爲輔。龍已升雲,四蛇各入其宇,一蛇獨怨,終不見處所。
亡命に従った賢士は趙衰、狐偃、賈佗、先軫、魏武子の5人で、この中に介子推の名前はない。介子推は無名の士・数十人の中に数えられていたと思われる。
『十八史略』晋(割股奉君)
驪姫を寵愛する晋の献公は、太子の申生を殺害し、蒲において(公子の)重耳を伐った。そのため重耳は出奔し、19年経ってようやく晋国に帰って来ることができた。
かつて重耳が曹国に身を寄せていた時のこと。介子推は自分の股の肉を切り取って、飢えた重耳に食べさせたことがあった。
重耳が晋国に帰ると、重耳に従って亡命した狐偃、趙衰、顚頡、魏犨(魏武子)の4人には賞賜があったが、介子推には賞賜が及ばなかった。
これに介子推の従者は、(主人を憐れに思って)宮門に次のような書を懸けた。
気高き龍はその居場所を失い、五蛇がこれに従って天下をさまよい歩いた。
龍が飢えに苦しむと、一蛇は自らの股の肉を切り裂いて龍に食べさせた。
龍は(元の棲家の)淵に帰ってその土地に落ち着き、四蛇は穴に入ってみなそれぞれ棲家を得たが、(龍の飢えを救った)一蛇は入るべき穴もなく、野原の中で泣いている。*3
これを見た文公(重耳)は「あぁ、寡人の過ちであった」と言い、人を遣って介子推を捜させたが、すぐには見つけることができなかった。
「(介子推が)綿上(山西・介休)の山中に隠れている」ことが分かると、文公(重耳)は(山を焼けば出て来るだろうと思い)山に火をかけたが、介子推が出て来ることはなく、そのまま焼死してしまった。
後の人は(介子推の死を気の毒に思い、)毎年その日に火を焚くことを禁じ、冷たい食事だけで過ごしてその霊を弔った。(寒食節)
文公(重耳)は綿上の周囲の田を「介子推の封地」として(祭祀の費用に宛て、)これを介山と号した。
脚注
*3原文:有龍矯矯,頃失其所。五蛇従之,周流天下。龍饑乏食。一蛇刲股。輔返於淵,安其壌土。四蛇入穴,皆有處處。一蛇無穴。號于中野。
『列仙伝』介子推
介子推は、姓は王、名は光と言い、晋の人である。世に隠れて無名のまま、ただ趙成子(趙衰)と親交があるだけであった。
ある時、夜明けに黄雀(ニュウナイスズメ)が門の上にとまっているのを見た介子推は、晋の公子・重耳を非凡とみて、共に(亡命して)国外に暮らすこと10余年、どのような労苦も厭わなかった。
ついに帰国するに及び、介山の伯子常という者が夜明け時にやって来て、介子推を呼び出して「逃げるが良い」と言った。そこで介子推は(封禄を)辞退して母と共に山中に入り、伯子常に従って彼と交際した。
後に文公(重耳)は、数千人を遣わし玉帛を贈ったが、介子推は山を出ることはなかった。
30年後、東海(山東省東南部の海岸地域)の辺りに姿を現し、王俗と名乗って扇を売っていたが、その数十年後には行方が知れなくなった。
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