後漢・三国時代の異民族である西域諸国の内、大月氏国・大夏国・高附国についてまとめています。
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西域諸国⑳都護の管轄外④
大月氏国*1
大月氏国
大月氏国とは
月氏は元々敦煌と祁連山の間*2にいましたが、匈奴の攻撃を受けて西に徙り、大夏国*3を撃ってそこに国を建てました。
この西に徙った月氏を大月氏、その他の小勢で故地を去ることができなかった月氏を小月氏(湟中月氏胡)と言います。
脚注
*1新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*2涼州・張掖郡、酒泉郡の辺り。
*3バルフをを中心とするアフガニスタン北部。
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前漢期
大月氏国*1
※国境線は現代のもの。
所在地・戸数・人口・兵力
大月氏国*1の王治(王の治所)の監氏城は、長安から11,600里(約4,988km)の場所にあり、都護(西域都護)の管轄に属していません。
東の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは4,740里(約2,038.2km)、西の安息国*4まで徒歩で49日、南は罽賓国*5と接しています。
- 戸数:10万戸
- 人口:40万人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):10万人
- 控弦(弓兵):10余万人
風土・風俗
- 土地・気候、所有物、民俗、銭貨は安息国*4と同様です。
- 一封橐駝(一瘤駱駝)が生息しています。
- 大月氏国*1は元々定住しない国で、家畜と共に移動し、匈奴と習俗が同じです。
脚注
*1新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*5カシミール地方のシュリーナガル付近。
後漢期
大月氏国*1
※国境線は現代のもの。
所在地・戸数・人口・兵力
大月氏国*1の王治(王の治所)の藍氏城は、(後漢の都)洛陽(雒陽)から16,370里(約7,039.1km)の場所にあり、東の長史(西域長史)の治所(柳中城)までは6,537里(約2,733.51km)、西の安息国*4には徒歩で49日で到着します。
- 戸数:100,000戸
- 人口:400,000人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):10余万人
- 控弦(弓兵):10余万人
脚注
*1新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
大月氏国の歴史
月氏の西徙
月氏は元々敦煌と祁連山の間*2にいましたが、控弦(弓兵)が10余万人いたため、その強盛を恃んで匈奴を侮っていました。
ところが、匈奴が冒頓単于(在位:B.C.209年〜B.C.174年)の代に至ると匈奴が月氏を攻め破り、次の代の老上単于(在位:B.C.174年〜B.C.161年)は月氏の王*6を殺害してその頭蓋骨を酒杯としました。
以降、月氏は遠く西に徙り、その他の小勢で故地を去ることができなかった者たちは、南山羌を恃んで小月氏(湟中月氏胡)と号しました。
脚注
*2涼州・張掖郡、酒泉郡の辺り。
*6原文:而老上単于殺月氏,以其頭為飲器,(以下略)。原文には「殺月氏」とだけあるが、その後月氏が遠くに徙っていることから、ただの領民ではなく「王」を加えた
大夏国を臣従させる
匈奴に敗れた月氏は、大宛国を過ぎて西の大夏国*3を撃ち、これを臣従させて媯水の北に都し、そこを王庭(朝庭)としました。
月氏はその国を、
- 休密
- 雙靡(双靡)
- 貴霜
- 駙頓(肹頓)
- 都密
の5部に分けてそれぞれ翕侯を置きました。
脚注
*3バルフを中心とするアフガニスタン北部。
クシャーナ朝の建国
百年余り後、貴霜翕侯の丘就卻*7は他の4翕侯を攻め滅ぼすと、自ら立って王となり、国号を貴霜国(クシャーナ)としました。
その後貴霜国(クシャーナ)は安息国*4に侵略し、高附国*8の地を取り、濮達国*9と罽賓国*5を滅ぼして、それらの国のことごとくを領有しました。
丘就卻*7が80余歳で亡くなって子の閻膏珍*10が代わって王となると、さらに天竺国(インド)を滅ぼし、将・1人を置いてこれを監督させました。
月氏はこれ以降最も豊かで盛んとなり、諸国はみなその王を貴霜王と称しました。
クシャーナ朝が建国された後も、漢は元々の呼称である「大月氏国*1」を使い続けました。
脚注
*1新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*5カシミール地方のシュリーナガル付近。
*7クジュラ・カドフィセス。クシャーナ朝の初代王・カドフィセス1世。カニシカ王の曾祖父。
*8アフガニスタンのカブール。
*9諸説あり。フランスの歴史学者:エドゥアール・シャヴァンヌ(沙畹)は、現在のアフガニスタン北部の巴爾赫だと言う。
*10クシャーナ朝・第2代王・ヴィマ・タクト。ヴィマ・タクトの子・ヴィマ・カドフィセス説や兄弟のサダシュカナ説など諸説ある。
大夏国
前漢期
大夏国*3
※国境線は現代のもの。
統治
大夏国*3には元々大君長(王)がおらず、城邑にはそれぞれ小長が置かれていましたが、その民は弱く戦闘を畏れたので、月氏が徙って来ると、みな臣従して月氏を養い、共に漢(前漢)の使者に糧食を供給しました。
所在地
大夏国*3は、
- 休密
- 雙靡(双靡)
- 貴霜
- 肹頓
- 離附(高附)*11
の5部の翕侯に分かれています。
- 休密翕侯の治所は和墨城*12。都護(西域都護)の治所(烏塁城)から2,841里(約1,221.63km)、陽関から7,802里(約3,354.86km)。
- 雙靡翕侯の治所は雙靡城。都護(西域都護)の治所(烏塁城)から3,741里(約1,608.63km)、陽関から7,782里(約3,346.26km)。
- 貴霜翕侯の治所は護澡城。都護(西域都護)の治所(烏塁城)から5,940里(約2,554.2km)、陽関から7,982里(約3,432.26km)。
- 肹頓翕侯の治所は薄茅城。都護(西域都護)の治所(烏塁城)から5,962里(約2,563.66km)、陽関から8,202里(約3,526.86km)。
- 離附翕侯*11の治所は高附城。都護(西域都護)の治所(烏塁城)から6,041里(約2,597.63km)、陽関から9,283里(約3,991.69km)。
の場所にあり、月氏が徙って来るとみな大月氏国*1に服属しました。
脚注
*1新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*11『後漢書』西域伝に「『漢書』西域伝上では(高附国を)五部翕侯の1つに数えているが、事実ではない(大夏国とは別の国である)」とある。
*12中央アジアのサリク・カウバンの地。
高附国
後漢期
高附国*11
※国境線は現代のもの。
天竺国の首都の位置は不詳。
所在地
- 高附国は大月氏国*1の西南にある大国です。
風俗
- その風俗は天竺国(インド)に似ており、弱く服属しやすい国民性です。
- 商売に長け、国内は財に富んでいます。
高附国の歴史
(高附国*11が)従属する国は一定ではなく、天竺国(インド)・罽賓国*5・安息国*4の3国は、盛強な時は高附国*11を服属させ、弱体化すると高附国*11を失いましたが、未だかつて高附国*11は、月氏国(大月氏国*1)に服属したことはありませんでした。
後に高附国*11は安息国*4に服属していましたが、月氏国(大月氏国*1)が安息国*4を破ると、初めて月氏国(大月氏国*1)に服属しました。
脚注
*1新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*5カシミール地方のシュリーナガル付近。
*11『後漢書』西域伝に「『漢書』西域伝上では(高附国を)五部翕侯の1つに数えているが、事実ではない(大夏国とは別の国である)」とある。
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