前漢・宣帝②時代の匈奴、虛閭権渠単于・握衍朐鞮単于についてまとめています。
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目次
匈奴・前漢時代⑨虛閭権渠単于
匈奴(前漢時代)
虛閭権渠単于の即位【前漢:宣帝】
匈奴の衰弱
漢の本始2年(紀元前72年)冬、壺衍鞮単于は自ら1万騎を率いて烏孫国*1を擊ち、多くの老弱を得て還ろうとしましたが、たまたま大雪が降って積雪が1日で深さ丈余(1丈=約2.31m)に達したため、民衆・家畜が凍死し、帰還できた者は1割程度に過ぎませんでした。
すると丁令*2がその弱味に乗じて匈奴の北方を攻め、烏桓(烏丸)は東方から侵入し、烏孫国*1はその西方を攻撃して(匈奴の兵・)数万級、馬数万頭、甚だ多くの牛・羊を殺害しました。
また、餓死者が重なって、民衆の3割、家畜の5割が死に、匈奴は大いに衰弱して羈屬(従属)していた諸国はみな瓦解し、(これらの国の)侵略・略奪は手のつけられないほどになりました。
その後 漢は、3千余騎をもって3道に分かれて匈奴に入り、捕虜数千人を得て還りましたが、匈奴はついに敢えてその復讐をしようとせず、漢との和親を望んだため、辺境には事が少なくなりました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*2北方異民族の1つ。丁零。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。
虛閭権渠単于の即位
漢の地節2年(紀元前68年)、壺衍鞮単于が立って17年で亡くなると、弟の左賢王が立って虛閭権渠単于となりました。
顓渠閼氏の父・左大且渠【前漢:宣帝】
虛閭権渠単于は即位すると右大将の女を閼氏*3とし、前の単于が寵愛した顓渠閼氏*3を黜けたので、顓渠閼氏*3の父の左大且渠はこれを怨みに思っていました。
当時、匈奴には(漢の)辺境に侵入する国力がなかったので、漢は塞外の諸城を廃止して百姓を休養させました。
単于はこれを聞いて喜び、貴人(貴族)を召して漢と和親することを謀ろうとします。
すると、左大且渠はこれを妨げようと、
「以前、漢の使者が来た時には、その後に兵を随行させておりました。今、漢に倣って兵を発し、先に使者を入らせるのがよろしいでしょう」
と言い、自ら請うて呼盧訾王と共に各々1万騎を率いて出発すると、南方の漢の塞の傍らで狩猟し、合流して共に漢に侵入しようとしました。
ですが、まだ2人の軍が漢に到達しないうちに、その中から3騎が逃亡して投降し、「匈奴が漢に侵入しようとしている」ことを告げました。
そこで天子(宣帝)は、詔を下して辺境の騎兵を発して要害に駐屯させ、大将軍の軍監・治衆(?)ら4人に命じ、5千騎を率いて3隊に分かれ、塞を出て各々数百里出撃させました。
ですが匈奴は「3騎が逃亡した」ことから、敢えて漢に入らず兵を退いたため、漢はそれぞれ数10人の捕虜を得ただけで還りました。
この年、匈奴は飢えて、民・家畜の6〜7割が死亡し、また、両屯からそれぞれ1万騎をもって漢に備えました。
その秋、前に得た西嗕*4の左地に居住する匈奴の君長以下数千人が、みな家畜を駆り立てて行き、甌脱*5において戦いましたが、甚だ多くの者が殺傷されたため、ついに南方の漢に降りました。
脚注
*3単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
*4西羌の一種族。
*5匈奴が斥侯用に作った国境の土室。2つの国を隔てる緩衝地帯または中立地帯。
車師国を巡る争い【前漢:宣帝】
車師国の失陥
その翌年、西域の城郭諸国が共に匈奴を擊って車師国を取り、その王と民を得て去りました。
すると単于は、再び車師王の昆弟(兄弟)の兜莫を車師王とし、車師王・兜莫はその残った民を収めて東に徙り、敢えて故地(元の土地)に居ようとしませんでした。
そこで漢は益々「屯田の士」を派遣して「車師の地」を耕作し、その地を充実させました。
車師国奪還の失敗
その翌年、匈奴は西域の城郭諸国が車師国を擊ったことを怨み、左大将・右大将のそれぞれ1万余騎をもって右地に屯田させ、烏孫国*1と西域の城郭諸国を侵入・圧迫しようとしました。
その2年後、匈奴は左奧鞬・右奧鞬のそれぞれ6千騎を派遣し、左大将と共に再び車師城で耕作している漢の屯田兵を攻撃しましたが、これを降すことはできませんでした。
丁令*6の侵入を受ける
その翌年、丁令*6は3年連続で匈奴に侵入・略奪を繰り返し、数千の民を殺害して馬や家畜を駆り立てて去りました。
匈奴は1万余騎を派遣してこれを擊たせましたが、何も得るものがありませんでした。
漢への侵入の失敗
その翌年、単于は10万余騎を率いて漢の塞の傍らで狩猟をし、辺境に入って寇(侵入・略奪)しようとしました。
ですが、まだ到着しないうちに匈奴の民・題除渠堂が逃亡し、漢に降伏して(匈奴が侵入しようとしていることを)告げたため、漢は彼を言兵鹿奚盧侯に任命し、また、後将軍・趙充国に4万余騎を率いさせ、周辺の9郡に駐屯させて虜(匈奴)に備えさせました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*6北方異民族の1つ。丁零。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。
虛閭権渠単于の死【前漢:宣帝】
それから1ヶ月余りすると、単于が病んで血を歐いたため敢えて漢に侵入しようとはせず、すぐさま戦いをやめ、兵を還して去りました。
漢の神爵2年(紀元前60年)、匈奴は題王・都犁胡次らを使者として漢に遣わして和親を請いましたが、その返事が来る前に、単于は立って9年で亡くなってしまいました。
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握衍朐鞮単于
握衍朐鞮単于の即位【前漢:宣帝】
漢の地節2年(紀元前68年)に立った虛閭権渠単于が顓渠閼氏*3を黜けると、顓渠閼氏*3はすぐに右賢王と私通していました。
漢の神爵2年(紀元前60年)、右賢王が龍城に参内して帰ろうとした時、顓渠閼氏*3は単于が重病であることを告げ、「しばらく遠くへ行かないように」と言い含めます。
その数日後に単于が亡くなると、郝宿王・刑未央が人を遣って諸王を招集しましたが、彼らがまだ到着しないうちに、顓渠閼氏*3が弟の大且渠・都隆奇と謀って右賢王・屠耆堂を立てて握衍朐鞮単于としました。
握衍朐鞮単于は父に代わって右賢王となった者で、烏維単于の耳孫*7に当たります。
脚注
*3単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
*7玄孫(孫の孫)の子。
握衍朐鞮単于の粛清【前漢:宣帝】
握衍朐鞮単于が立つと、単于はまた漢との和親を求め、弟の伊酋若王・勝之を遣わし漢に入って貢献し、天子(宣帝)に見えました。
単于は立った当初から凶悪で、虛閭権渠単于の時代に用いられていた貴人(貴族)・刑未央らを悉く殺害し、顓渠閼氏*3の弟・都隆奇を任用し、また虛閭権渠の子弟・近親者の悉くを罷免して、自ら自分の子弟をもってこれに代えました。
脚注
*3単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
相継ぐ逃亡【前漢:宣帝】
虛閭権渠単于の子・稽侯狦
単于に立つことができなかった虛閭権渠単于の子・稽侯狦は、逃亡して妻の父・烏禪幕の元に身を寄せました。
烏禪幕という人物は、元は烏孫国*1と康居国*8の間にあった小国の王で、しばしば侵入を受けて荒らされたため、その衆・数千人を率いて匈奴に降りました。そして(当時の単于・)狐鹿姑単于は、弟の子・日逐王の姉を彼に娶せ、その衆の長として右地に居らせたのでした。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*8中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。
日逐王・先賢撣
4代前の且鞮侯単于の死後、単于になるはずであった日逐王・先賢撣の父(当時左大将)は、狐鹿姑単于に位を譲り、狐鹿姑単于は先賢撣の父を左賢王として、自分の後に単于に立てることを約束していました。
その後 先賢撣の父(当時左賢王)が病死すると、国人たちは「当然、先賢撣が単于になるべきだ」と言っていましたが、狐鹿姑単于は我が子を左賢王(太子)として、先賢撣を(左賢王より賎しい)日逐王としました。
日逐王・先賢撣は、平素から握衍朐鞮単于と不仲だったので、その衆・数万人を率いてすぐさま漢に帰順し、漢によって帰徳侯に封ぜられました。
すると握衍朐鞮単于は、改めて自分の従兄の薄胥堂を日逐王としました。
翌年、単于はまた先賢撣の2人の弟を殺害しました。この時、烏禪幕は彼らの助命を請いましたが聴き入れられず、心中に怒りと恨みを持ちました。
【後漢・三国時代の異民族㊾】匈奴⑨前漢時代⑦(狐鹿姑単于)
奧鞬国討伐の失敗【前漢:宣帝】
その後 左奧鞬王が亡くなると、単于は自ら自分の末子を立てて奧鞬王とし、庭(単于庭)に留め置きました。
すると、奧鞬*9の貴人(貴族)たちは、故の奧鞬王の子を王とし、王と共に東に徙ります。
これに単于は、右丞相に1万騎を率いさせこれを撃たせましたが、数千人の損害を出しただけで、勝つことができませんでした。
脚注
*9康居国に属する小国の1つ。康居国*8には蘇薤・附墨・窳匿・罽・奧鞬の5つの小国が属していた。
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握衍朐鞮単于の死【前漢:宣帝】
単于が立って2年、その暴虐殺伐さにより、国中に彼に従う者はいなくなりました。
そして、太子である左賢王が度々左地の貴人(貴族)を讒言するに及んで、左地の貴人(貴族)たちはみな怨みを持つようになります。
その翌年の漢の神爵4年(紀元前58年)、烏桓(烏丸)が匈奴の東辺の姑夕王を撃ってその領民の多くを得ました。
すると単于の怒りを恐れた姑夕王は、すぐさま(単于に恨みを持つ)烏禪幕や左地の貴人(貴族)らと共に(烏禪幕の元に身を寄せている虛閭権渠単于の子・)稽侯狦を立てて呼韓邪単于とし、左地の兵・4〜5万人を発して西方の握衍朐鞮単于を撃つため姑且水の北に進軍します。
これに握衍朐鞮単于の兵はまだ戦う前から敗走。この事態に、握衍朐鞮単于は弟の右賢王に人を遣って、
「匈奴が共に我を攻撃している。兵を発して我を助けてくれぬか?」
と言いましたが、右賢王は、
「お前は人を愛さず、昆弟(兄弟)や諸貴人(貴族)を殺した。お前たちはそこで死ぬが良い。来るな。我を汚すでない」
と答えたので、握衍朐鞮単于は憤って自害。立って3年で敗びました。
(顓渠閼氏*3の弟の)左大且渠・都隆奇は逃亡して右賢王の所へ行き、その民衆の悉くが呼韓邪単于に降伏しました。
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