後漢・三国時代の異民族の内、西羌に分類される湟中月氏胡についてまとめています。
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湟中月氏胡
湟中月氏胡の紀元
湟中*1の月氏胡は、その祖先が(西域の)大月氏から分かれた種族です。
元は涼州の張掖郡と酒泉郡に居住していましたが、月氏王が匈奴の冒頓単于に殺害されると、残された月氏胡は分散して西方の逾葱(パミール高原一帯)を越えて移住しました。
その内の羸弱(体が著しく弱いこと)な者は南方の険阻な山々に入り、羌族の諸種族に依存して居住し、彼らと婚姻関係を結びました。これが湟中月氏胡です。
脚注
*1現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
湟中月氏胡の風俗
風俗
月氏胡の被服・飲食・言語はおおよそ羌族と同じであり、父の名と母の姓を種族名としました。
種族
その大種には7種族あり、精兵は合わせて9千余人、湟中*1と涼州・金城郡・令居県に分かれて居住し、またその内の数百戸は涼州・張掖郡に居住して「義従胡」と号しました。
脚注
*1現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
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湟中月氏胡と中国の関係
漢に降伏する
前漢の武帝期、驃騎将軍の霍去病が匈奴を破り、幷州(并州)・西河郡を奪取して湟中*1を開拓するに及んで、月氏胡は漢に降伏して漢人と雑居するようになりました。
ですが、漢の県官に従属してはいるものの、月氏胡はどっちつかずの曖昧な態度を取り、漢兵に従って戦闘する場合でも、漢に従うかどうかは勢力の強弱によりました。
反乱
中平元年(184年)冬、黄巾の乱が終息に向かおうとしている頃、湟中義従胡の北宮伯玉と李文侯が、涼州・北地郡の先零羌と枹罕県・河関県の盗賊・宋建、王国と共に反乱を起こし、護羌校尉の伶徴と金城太守の陳懿を殺害して隴右を侵略しました。
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