前漢・昭帝②・宣帝①時代の匈奴、壺衍鞮単于についてまとめています。
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目次
匈奴・前漢時代⑦狐鹿姑単于
匈奴(前漢時代)
壺衍鞮単于の即位【前漢:昭帝】
武帝が崩御した漢の後元2年(紀元前87年)当時、漢が20余年にわたり胡地(匈奴の土地)深く入って追い詰めたことから、匈奴では妊婦が流産するほど疲れ切って苦しみ、単于以下の者たちは常に漢との和親を望んでいました。
漢の昭帝の始元2年(紀元前85年)、狐鹿姑単于は病にかかると、その死に臨んで貴人(貴族)たちに、
「我が子は幼く、国を治めることはできない。弟の右谷蠡王を(単于に)立てよ」
と言い遺しました。
ですが単于が病死すると、衛律らは顓渠閼氏*8と謀って単于の死を隠し、単于の命令と詐って、貴人(貴族)たちと酒を飲んで盟い、改めて子の左谷蠡王を立てて壺衍鞮単于としました。
脚注
*8単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
左賢王と右谷蠡王の怨み【前漢:昭帝】
壺衍鞮単于は即位すると、漢の使者にそれとなく「和親を望む旨」をほのめかしていました。
左賢王(幼少の太子)と右谷蠡王(狐鹿姑単于が指名した後継者)は、単于に立つことができなかったことを怨み、軍勢を率いて南方の漢に帰順したいと望みましたが、自分たちだけでは不可能だと思い、「直ちに盧屠王を脅して、共に西方の烏孫国*9に投降して匈奴を攻撃しよう」と謀りました。
ですが盧屠王がこれを単于に告げたので、単于は人を遣って験問(査問)させたところ、右谷蠡王は承服せず、その罪を盧屠王に着せようとしたましたが、国人たちはみなこれを「冤である」としました。
こうして左賢王と右谷蠡王の2人の王はそれぞれの本拠に去り、二度と再び龍城に参内しようとしませんでした。
脚注
*9漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
蘇武・馬宏らを漢に帰す【前漢:昭帝】
2年後の秋、匈奴が代郡に侵入して都尉を殺害しました。
ですが、単于はまだ年少で単于に立ったばかりであり、母の顓渠閼氏*8が不正を行った(ことが知られていた)ため、国内の人心は乖き離れ、常に漢兵に襲撃されることを恐れていました。
そこで衛律は、単于のために謀って言いました。
「井戸を掘って城を築き、楼(物見櫓)を建てて穀物を蔵に蓄え、秦人(匈奴に帰服した漢人)と共にこれを守らせますように。そうすれば、漢兵が攻めて来てもどうすることもできないでしょう」
これを受け、単于は早速数百箇所に井戸を掘り、数千本の材木を伐採しましたが、ある人が、
「胡人(匈奴人)は城を(苦手で)守ることができません。これでは漢に糧を遺るに等しいことです」
と言うと、衛律は計画を中止し、改めて(拘留していても)降伏しようとしない漢の使者、蘇武・馬宏らを漢に帰し、漢に善意を通じようと謀りました。*10
脚注
*8単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
*10以前、副光禄大夫・王忠が西国(西域の国)に派遣されて匈奴に遮られた際、王忠は戦死し、馬宏は生け捕りにされましたが、馬宏は降伏を受け入れていませんでした。
衛律の死と匈奴の困窮【前漢:昭帝】
辺境に侵入する
翌年、匈奴は左右部の2万騎を発してこれを4隊に分け、同時に辺境に侵入して寇(攻撃・略奪)をなしました。漢兵はこれを追撃し、損害を受けることなく斬首・獲虜9千人を得て、甌脱*11の王を生け捕りにします。
匈奴は甌脱*11の王が漢の手に落ちたことから「漢が彼を道案内として襲撃して来ること」を恐れ、すぐさま遠く西北に去り、敢えて南方の水草を逐おうとせず、民を甌脱*11に駐屯させました。
脚注
*11匈奴が斥侯用に作った国境の土室。2つの国を隔てる緩衝地帯または中立地帯。
匈奴の困窮
翌年、匈奴はまた9千騎を受降城に駐屯させて漢に備えさせると、北方の余吾水に橋を架け、逃走経路を確保しました。
この時すでに衛律は亡くなっていました。衛律は存命中、常に「漢と和親することの利益」を説いていましたが、匈奴は信用していませんでした。そのため、衛律が亡くなると(匈奴は漢への侵入を繰り返したため)、その度に兵は困しみ、国は益々貧しくなりました。
単于の弟・左谷蠡王
単于の弟の左谷蠡王は、衛律の言葉を思って「和親したい」と思いながらも、漢に聴き入れられないことを恐れて自分から言い出そうとはせず、常に左右の近臣から漢の使者にそれとなく言わせていただけでした。
(困窮して)匈奴の侵略・略奪が稀となると、(左谷蠡王は)漢の使者を一層手厚く遇して徐々に和親に至らせようとし、漢の方でもまた匈奴を繋ぎ止めておこうとしましたが、その後、左谷蠡王は亡くなってしまいました。
張掖郡と五原郡に侵入する【前漢:昭帝】
その翌年、単于が犁汙王を遣わして辺境を窺わせたところ、犁汙王は、
「酒泉郡・張掖郡の兵は益々弱くなっております。試みに出兵してこれを攻撃すれば、再びその地を手に入れることができるでしょう」
と言いました。
ですが、漢は以前手に入れた匈奴の降伏者からその計画を聞くと、天子(昭帝)は辺境の警備を強化するように詔を下していました。
そしてその後間もなく、匈奴は右賢王と犁汙王の4千騎が3隊に分かれて、(張掖郡の)日勒県・屋蘭県・番和県の諸県に侵入しますが、張掖太守と張掖太守は兵を発してこれを大いに破り、逃げ延びた者は数百人に過ぎませんでした。
この時、属国千長*12・義渠王の騎士が犁汙王を射殺したため、黃金2百斤・馬2百頭を賜って犁汙王に封ぜられ、属国都尉の郭忠は成安侯に封ぜられました。
これ以降、匈奴は敢えて張掖郡に侵入しようとはしませんでした。
その翌年、匈奴は3千余騎で五原郡に侵入して数千人を略奪・殺害しました。
またその後、匈奴の数万騎が南の塞の傍らで狩猟し、その途上、塞外の亭長を攻め、吏民を略取して去りました。
脚注
*12張掖属国の千長。属国とは、辺境の異民族を居住させた郡のこと。
漢の待ち伏せを避ける【前漢:昭帝】
当時、漢の辺境の郡では厳重に烽火を監視していたため、匈奴が辺境を寇(攻撃・略奪)しても利益は少なく、また塞を犯すことも稀でした。
匈奴の降伏者から、
「匈奴は、かつて烏桓(烏丸)が先の単于の塚(墓)を発いたことを怨み、2万騎を発して烏桓(烏丸)を擊とうとしています」
との情報を得た大将軍・霍光は、「これを待ち伏せて急襲したい」と思い、護軍都尉の趙充国に問うたところ、趙充国は、
「烏桓(烏丸)は近頃、度々(漢の)塞を犯しています。今、匈奴が烏桓(烏丸)を擊つことは、漢にとって都合が良いことです。
また、匈奴は辺境を寇盗(侵し盗む)こと稀で、北の辺境は無事であります。蛮夷たちが自ら互いに攻撃し合っているのを兵を発してこれを待ち伏せるのは、寇(侵略)を招き面倒を引き起こすものであり、良計ではありません」
と答えました。
そこでさらに中郎将の范明友に問うと、范明友は「擊つべきです」と答えたので、(霍光は)、范明友を度遼将軍に任命し、2万騎を率いて遼東郡から出撃させました。
匈奴は「漢兵がやって来た」と聞くと、兵を退いて去りましたが、霍光から「兵は無駄に出すものではない。もし匈奴を擊つのに間に合わなかったなら、烏桓(烏丸)を擊て」と言い含められていた范明友は、匈奴との戦いで疲弊した烏桓(烏丸)を擊ち、6千余の首級を斬り、3人の王を獲って帰還し、平陵侯に封ぜられました。
匈奴の烏孫国侵攻【前漢:昭帝・宣帝】
匈奴の烏孫国侵攻
匈奴は、漢兵の待ち伏せを受けて以降、待ち伏せを恐れて烏桓(烏丸)に出兵することができずにいました。
そこで匈奴は(西域の)烏孫国*9に使者を遣って「漢の公主*13を得たい」と要求し、烏孫国*9を攻撃して車延・悪師*14の地を奪取します。
烏孫公主*13がこれを漢に上書すると、漢では公卿に下げ渡されて「烏孫国*9を救う」ことが議論されましたが、結論が出ないままに昭帝が崩御してしまいました。
宣帝が即位すると、今度は烏孫国*9の昆弥(烏孫国の王号)が上書して言いました。
「(烏孫国*9は)匈奴に侵食され続けております。昆弥は国の半数の精兵・人馬五万頭を発して、匈奴の攻撃に尽力されることを願います。ただ天子には出兵して、公主*13を哀れみ救ってくださいますようにっ!」
匈奴の衰耗【前漢:宣帝】
漢の烏孫国救援
漢の本始2年(紀元前72年)、漢は関東の軽鋭士(身軽で素早く精鋭な者)を大いに徴発し、郡国の三百石の吏の中から伉健(強健)で騎射に習熟している者を選んでみな従軍させました。
- 御史大夫・田広明を祁連将軍に任命して、4万余騎を率いて西河郡から出撃させ、
- 度遼将軍・范明友には3万余騎を率いて張掖郡から出撃させ、
- 前将軍・韓増には3万余騎を率いて雲中郡から出撃させ、
- 後将軍・趙充国を蒲類将軍に任命して、3万余騎を率いて酒泉郡から出撃させ、
- 雲中太守・田順を虎牙将軍に任命して、3万余騎を率いて五原郡から出撃させ、
凡そ5人の将軍と10余万騎が塞を出て、各々2千余里を進軍します。
また、校尉の常恵に節(使者の証)を持たせ、烏孫国*9の兵を護って西域を出発し、昆弥(烏孫国の王号)は自ら翕侯以下5万余騎を率いて西方から(匈奴に)入りました。
5人の将軍と合わせて、凡そ20余万の軍勢となります。
脚注
*9漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*13公主とは天子の娘・皇女。当時、烏孫国の昆弥(烏孫国の王号)に嫁いでいた。匈奴は公主を得て人質にしようとしたものと思われる。
*14読み方不詳。悪師?悪師?
度遼将軍・范明友方面
度遼将軍・范明友は、塞を出ること1,200余里、蒲離候水に至り、斬首・捕虜にした者・7百余り、馬・牛・羊・1万余を鹵獲しました。
前将軍・韓増方面
前将軍・韓増は、塞を出ること1,200余里、烏員に至り、斬首・捕虜を得ながら候山に至り、斬首・捕虜にした者・百余り、馬・牛・羊・2千余を鹵獲しました。
蒲類将軍・趙充国方面
蒲類将軍・趙充国は、烏孫国*9の兵と合流し、蒲類沢において匈奴を擊つ予定でしたが、烏孫兵は期日より先に来て去ってしまっていたため、漢兵は合流することも追いつくこともできませんでした。
趙充国は、塞を出ること1,800余里進んで西方の候山に去り、斬首・捕虜にした者、単于の使者・蒲陰王以下3百余り、馬・牛・羊・7千余を鹵獲しました。
その後「虜(匈奴)がすでに兵を退いて去った」と聞くと、みな期日を待たずに帰還しましたが、天子(宣帝)はその過失(期日前に帰還したこと)を許し、寛大にして罪としませんでした。
脚注
*9漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
祈連将軍・田広明方面
祁連将軍・田広明は、塞を出ること1,600里、鶏秩山に至り、斬首・捕虜にした者・19級、馬・牛・羊・百余頭を獲ました。
この時 田広明は、匈奴から還る途上の漢の使者・冉弘らと出逢い、「鶏秩山の西に虜(匈奴)の軍勢がいる」ことを聞きましたが、すぐさま冉弘を戒めて「虜(匈奴)はいない」と言わせ、兵を還そうとします。
御史の属官である公孫益寿は「そうすべきではない」と諫めたが、田広明は聴き入れず、ついに兵を退いて帰還してしまいました。
虎牙将軍・田順方面
虎牙将軍・田順は、塞を出ること800余里、丹余吾水の畔に至ると、そのまま兵を止めて進まず、斬首・捕虜にした者・1,900余級、馬・牛・羊・7万余を鹵獲して兵を退き、帰還しました。
匈奴は、漢兵が大挙して出撃したことを聞くと、老弱は奔走し、家畜を駆り立てて遠くへ遁逃していたため、5人の将軍たちが得たものは多くはありませんでした。
校尉・常恵方面
校尉・常恵は、烏孫国*9の兵と共に(匈奴の)右谷蠡庭(右谷蠡王の都)に至り、単于の父行に当たる者および、嫂・居次(単于の娘)・名王・犁汙都尉・千長・将以下3万9千余級と、馬・牛・羊・驢(驢馬)、騾馬(牡驢馬と牝馬との雑種)・橐駝(駱駝)など70余万頭を捕らえました。
論功行賞
- 虎牙将軍・田順は、期日に至る前に帰還し、鹵獲を詐って多く報告した罪により、吏(役人)に下げ渡して自殺させました。
- 祁連将軍・田広明は、前方に虜(匈奴)がいることを知りながら、逗留して進まなかった罪により、吏(役人)に下げ渡して自殺させました。
- 祁連将軍・田広明を諫めた公孫益寿は、侍御史に抜擢されました。
- 烏孫国*9の兵と共に(匈奴の)右谷蠡庭(右谷蠡王の都)に至った校尉・常恵は、長羅侯に封ぜられました。
この戦いにより、匈奴の民衆で、死傷・去った者、及び、遠くに移って死んだ家畜は数え切れないほどでした。
こうして匈奴はついに衰えて勢いがなくなり、烏孫国*9を怨むようになりました。
脚注
*9漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
匈奴の属国が離れる【前漢:宣帝】
この年[漢の本始2年(紀元前72年)]の冬、単于は自ら1万騎を率いて烏孫国*9を擊ち、多くの老弱を得て還ろうとしましたが、たまたま大雪が降り、積雪が1日で深さ丈余(1丈=約2.31m)に達したため民衆・家畜が凍死し、帰還できた者は1/10程度に過ぎませんでした。
すると丁令*15がその弱味に乗じて匈奴の北方を攻め、烏桓(烏丸)は東方から侵入し、烏孫国*9はその西方を攻撃して(匈奴の兵・)数万級、馬数万頭、甚だ多くの牛・羊を殺害しました。
また、餓死者が重なって、民衆の3/10、家畜の5/10が死に、匈奴は大いに衰弱して羈屬(従属)していた諸国はみな瓦解し、(これらの国の)侵略・略奪は手のつけられないほどになりました。
その後 漢は、3千余騎をもって3道に分かれて匈奴に入り、捕虜数千人を得て還りましたが、匈奴はついに敢えてその復讐をしようとせず、漢との和親を望んだため、辺境には事が少なくなりました。
脚注
*9漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*15北方異民族の1つ。丁零。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。
壺衍鞮単于の死
漢の地節2年(紀元前68年)、壺衍鞮単于が立って17年で亡くなると、弟の左賢王が立って虛閭権渠単于となりました。
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