前漢(ぜんかん)・昭帝(しょうてい)②・宣帝(せんてい)①時代の匈奴(きょうど)、壺衍鞮(こえんてい)単于(ぜんう)についてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑦狐鹿姑単于

匈奴(前漢時代)

匈奴(きょうど)(前漢(ぜんかん)時代)

壺衍鞮単于の即位【前漢:昭帝】

武帝(ぶてい)が崩御(ほうぎょ)した漢(かん)の後元(こうげん)2年(紀元前87年)当時、漢(かん)が20余年にわたり胡地(こち)(匈奴(きょうど)の土地)深く入って追い詰(つ)めたことから、匈奴(きょうど)では妊婦が流産するほど疲れ切って苦しみ、単于(ぜんう)以下の者たちは常に漢(かん)との和親を望んでいました。


漢(かん)の昭帝(しょうてい)の始元(しげん)2年(紀元前85年)、狐鹿姑(ごろくこ)単于(ぜんう)は病(やまい)にかかると、その死に臨(のぞ)んで貴人(貴族)たちに、

「我が子は幼(おさな)く、国を治めることはできない。弟の右谷蠡王(ゆうろくりおう)を(単于(ぜんう)に)立てよ」

と言い遺(のこ)しました。

ですが単于(ぜんう)が病死すると、衛律(えいりつ)らは顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*8と謀(はか)って単于(ぜんう)の死を隠し、単于(ぜんう)の命令と詐(いつわ)って、貴人(貴族)たちと酒を飲んで盟(ちか)い、改めて子の左谷蠡王(さろくりおう)を立てて壺衍鞮(こえんてい)単于(ぜんう)としました。

脚注

*8単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

左賢王と右谷蠡王の怨み【前漢:昭帝】

壺衍鞮(こえんてい)単于(ぜんう)は即位すると、漢(かん)の使者にそれとなく「和親を望む旨(むね)」をほのめかしていました。

左賢王(さけんおう)(幼少の太子(たいし))と右谷蠡王(ゆうこくりおう)(狐鹿姑(ごろくこ)単于(ぜんう)が指名した後継者)は、単于(ぜんう)に立つことができなかったことを怨(うら)み、軍勢を率(ひき)いて南方の漢(かん)に帰順したいと望みましたが、自分たちだけでは不可能だと思い、「直(ただ)ちに盧屠王(ろとおう)を脅(おど)して、共に西方の烏孫国(うそんこく)*9に投降して匈奴(きょうど)を攻撃しよう」と謀(はか)りました。

ですが盧屠王(ろとおう)がこれを単于(ぜんう)に告げたので、単于(ぜんう)は人を遣(や)って験問(査問(さもん))させたところ、右谷蠡王(ゆうこくりおう)は承服せず、その罪を盧屠王(ろとおう)に着せようとしたましたが、国人たちはみなこれを「冤(ぬれぎぬ)である」としました。

こうして左賢王(さけんおう)と右谷蠡王(ゆうこくりおう)の2人の王(おう)はそれぞれの本拠に去り、二度と再び龍城(りゅうじょう)に参内しようとしませんでした。

脚注

*9漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

蘇武・馬宏らを漢に帰す【前漢:昭帝】

2年後の秋、匈奴(きょうど)が代郡(だいぐん)に侵入して都尉(とい)を殺害しました。

ですが、単于(ぜんう)はまだ年少で単于(ぜんう)に立ったばかりであり、母の顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*8が不正を行った(ことが知られていた)ため、国内の人心は乖(そむ)き離れ、常に漢兵(かんぺい)に襲撃されることを恐れていました。

そこで衛律(えいりつ)は、単于(ぜんう)のために謀(はか)って言いました。

「井戸を掘って城を築(きず)き、楼(ろう)(物見櫓(ものみやぐら))を建てて穀物を蔵(くら)に蓄(たくわ)え、秦人(しんじん)(匈奴(きょうど)に帰服した漢人(かんじん))と共にこれを守らせますように。そうすれば、漢兵(かんぺい)が攻めて来てもどうすることもできないでしょう」

これを受け、単于(ぜんう)は早速数百箇所に井戸を掘り、数千本の材木を伐採しましたが、ある人が、

「胡人(こじん)(匈奴人(きょうどじん))は城を(苦手(にがて)で)守ることができません。これでは漢(かん)に糧(かて)を遺(おく)るに等しいことです」

と言うと、衛律(えいりつ)は計画を中止し、改めて(拘留(こうりゅう)していても)降伏しようとしない漢(かん)の使者、蘇武(そぶ)・馬宏(ばこう)らを漢(かん)に帰し、漢(かん)に善意を通じようと謀(はか)りました。*10

脚注

*8単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*10以前、副光禄大夫(ふくこうろくたいふ)・王忠(おうちゅう)が西国(さいごく)(西域(さいいき)の国)に派遣されて匈奴(きょうど)に遮(さえぎ)られた際、王忠(おうちゅう)は戦死し、馬宏(ばこう)は生け捕りにされましたが、馬宏(ばこう)は降伏を受け入れていませんでした。

衛律の死と匈奴の困窮【前漢:昭帝】

辺境に侵入する

翌年、匈奴(きょうど)は左右部の2万騎を発してこれを4隊に分け、同時に辺境に侵入して寇(あだ)(攻撃・略奪)をなしました。漢兵(かんぺい)はこれを追撃し、損害を受けることなく斬首・獲虜9千人を得て、甌脱(おうだつ)*11の王(おう)を生け捕りにします。

匈奴(きょうど)は甌脱(おうだつ)*11の王(おう)が漢(かん)の手に落ちたことから「漢(かん)が彼を道案内として襲撃して来ること」を恐れ、すぐさま遠く西北に去り、敢(あ)えて南方の水草を逐(お)おうとせず、民を甌脱(おうだつ)*11に駐屯させました。

脚注

*11匈奴(きょうど)が斥侯(せっこう)用に作った国境の土室。2つの国を隔(へだ)てる緩衝(かんしょう)地帯または中立地帯。

匈奴(きょうど)の困窮(こんきゅう)

翌年、匈奴(きょうど)はまた9千騎を受降城(じゅこうじょう)に駐屯させて漢(かん)に備(そな)えさせると、北方の余吾水(よごすい)に橋を架(か)け、逃走経路を確保しました。

この時すでに衛律(えいりつ)は亡くなっていました。衛律(えいりつ)は存命中、常に「漢(かん)と和親することの利益」を説(と)いていましたが、匈奴(きょうど)は信用していませんでした。そのため、衛律(えいりつ)が亡くなると(匈奴(きょうど)は漢(かん)への侵入を繰り返したため)、その度に兵は困(くる)しみ、国は益(ます)々(ます)貧(まず)しくなりました。

単于(ぜんう)の弟・左谷蠡王(さろくりおう)

単于(ぜんう)の弟の左谷蠡王(さろくりおう)は、衛律(えいりつ)の言葉を思って「和親したい」と思いながらも、漢(かん)に聴(き)き入れられないことを恐れて自分から言い出そうとはせず、常に左右の近臣から漢(かん)の使者にそれとなく言わせていただけでした。

(困窮(こんきゅう)して)匈奴(きょうど)の侵略・略奪が稀(まれ)となると、(左谷蠡王(さろくりおう)は)漢(かん)の使者を一層手厚く遇(ぐう)して徐々に和親に至らせようとし、漢(かん)の方でもまた匈奴(きょうど)を繋(つな)ぎ止めておこうとしましたが、その後、左谷蠡王(さろくりおう)は亡くなってしまいました。

張掖郡と五原郡に侵入する【前漢:昭帝】

その翌年、単于(ぜんう)が犁汙王(りうおう)を遣(つか)わして辺境を窺(うかが)わせたところ、犁汙王(りうおう)は、

「酒泉郡(しゅせんぐん)・張掖郡(ちょうえきぐん)の兵は益(ます)々(ます)弱くなっております。試(こころ)みに出兵してこれを攻撃すれば、再びその地を手に入れることができるでしょう」

と言いました。

ですが、漢(かん)は以前手に入れた匈奴(きょうど)の降伏者からその計画を聞くと、天子(てんし)(昭帝(しょうてい))は辺境の警備を強化するように詔(みことのり)を下していました。

そしてその後間もなく、匈奴(きょうど)は右賢王(ゆうけんおう)と犁汙王(りうおう)の4千騎が3隊に分かれて、(張掖郡(ちょうえきぐん)の)日勒県(じつろくけん)・屋蘭県(おくらんけん)・番和県(ばんかけん)の諸県に侵入しますが、張掖太守(ちょうえきたいしゅ)と張掖太守(ちょうえきたいしゅ)は兵を発してこれを大いに破り、逃げ延(の)びた者は数百人に過ぎませんでした。

この時、属国千長(ぞっこくせんちょう)*12・義渠王(ぎきょおう)の騎士が犁汙王(りうおう)を射(い)殺(ころ)したため、黃金2百斤(きん)・馬2百頭を賜(たまわ)って犁汙王(りうおう)に封ぜられ、属国都尉(ぞっこくとい)の郭忠(かくちゅう)は成安侯(せいあんこう)に封ぜられました。

これ以降、匈奴(きょうど)は敢(あ)えて張掖郡(ちょうえきぐん)に侵入しようとはしませんでした。


その翌年、匈奴(きょうど)は3千余騎で五原郡(ごげんぐん)に侵入して数千人を略奪・殺害しました。

またその後、匈奴(きょうど)の数万騎が南の塞(とりで)の傍(かたわ)らで狩猟し、その途上、塞外(さいがい)の亭長(ていちょう)を攻め、吏民を略取して去りました。

脚注

*12張掖属国(ちょうえきぞっこく)の千長(せんちょう)。属国(ぞっこく)とは、辺境の異民族を居住させた郡のこと。

漢の待ち伏せを避ける【前漢:昭帝】

当時、漢(かん)の辺境の郡では厳重に烽火(のろし)を監視していたため、匈奴(きょうど)が辺境を寇(あだ)(攻撃・略奪)しても利益は少なく、また塞(とりで)を犯すことも稀(まれ)でした。


匈奴(きょうど)の降伏者から、

「匈奴(きょうど)は、かつて烏桓(うがん)(烏丸(うがん))が先の単于(ぜんう)の塚(墓)を発(あば)いたことを怨(うら)み、2万騎を発して烏桓(うがん)(烏丸(うがん))を擊(う)とうとしています」

との情報を得た大将軍(だいしょうぐん)・霍光(かくこう)は、「これを待ち伏せて急襲したい」と思い、護軍都尉(ごぐんとい)の趙充国(ちょうじゅうこく)に問(と)うたところ、趙充国(ちょうじゅうこく)は、


「烏桓(うがん)(烏丸(うがん))は近頃、度(たび)々(たび)(漢(かん)の)塞(とりで)を犯しています。今、匈奴(きょうど)が烏桓(うがん)(烏丸(うがん))を擊(う)つことは、漢(かん)にとって都合が良いことです。

また、匈奴(きょうど)は辺境を寇盗(こうとう)(侵(おか)し盗む)こと稀(まれ)で、北の辺境は無事であります。蛮夷(ばんい)たちが自(みずか)ら互いに攻撃し合っているのを兵を発してこれを待ち伏せるのは、寇(こう)(侵略)を招(まね)き面倒を引き起こすものであり、良計ではありません」


と答えました。

そこでさらに中郎将(ちゅうろうしょう)の范明友(はんめいゆう)に問(と)うと、范明友(はんめいゆう)は「擊(う)つべきです」と答えたので、(霍光(かくこう)は)、范明友(はんめいゆう)を度遼将軍(とりょうしょうぐん)に任命し、2万騎を率(ひき)いて遼東郡(りょうとうぐん)から出撃させました。


匈奴(きょうど)は「漢兵(かんぺい)がやって来た」と聞くと、兵を退いて去りましたが、霍光(かくこう)から「兵は無駄に出すものではない。もし匈奴(きょうど)を擊(う)つのに間に合わなかったなら、烏桓(うがん)(烏丸(うがん))を擊(う)て」と言い含められていた范明友(はんめいゆう)は、匈奴(きょうど)との戦いで疲弊(ひへい)した烏桓(うがん)(烏丸(うがん))を擊(う)ち、6千余の首級を斬り、3人の王(おう)を獲(と)って帰還し、平陵侯(へいりょうこう)に封ぜられました。

匈奴の烏孫国侵攻【前漢:昭帝・宣帝】

匈奴(きょうど)の烏孫国(うそんこく)侵攻

匈奴(きょうど)は、漢兵(かんぺい)の待ち伏せを受けて以降、待ち伏せを恐れて烏桓(うがん)(烏丸(うがん))に出兵することができずにいました。

そこで匈奴(きょうど)は(西域(さいいき)の)烏孫国(うそんこく)*9に使者を遣(や)って「漢(かん)の公主(こうしゅ)*13を得たい」と要求し、烏孫国(うそんこく)*9を攻撃して車延(しゃえん)・悪師(あくし)*14の地を奪取します。

烏孫公主(うそんこうしゅ)*13がこれを漢(かん)に上書すると、漢(かん)では公卿(こうけい)に下げ渡されて「烏孫国(うそんこく)*9を救う」ことが議論されましたが、結論が出ないままに昭帝(しょうてい)が崩御してしまいました。


宣帝(せんてい)が即位すると、今度は烏孫国(うそんこく)*9の昆弥(こんび)(烏孫国(うそんこく)の王(おう)号)が上書して言いました。

「(烏孫国(うそんこく)*9は)匈奴(きょうど)に侵食され続けております。昆弥(わたし)は国の半数の精兵・人馬五万頭を発して、匈奴(きょうど)の攻撃に尽力されることを願います。ただ天子(てんし)には出兵して、公主(こうしゅ)*13を哀(あわ)れみ救ってくださいますようにっ!」

匈奴の衰耗【前漢:宣帝】

漢(かん)の烏孫国(うそんこく)救援

漢(かん)の本始(ほんし)2年(紀元前72年)、漢(かん)は関東(かんとう)の軽鋭士(身軽で素早く精鋭な者)を大いに徴発し、郡国の三百石(さんびゃくこく)の吏(り)の中から伉健(こうけん)(強健)で騎射に習熟している者を選んでみな従軍させました。

  • 御史大夫(ぎょしたいふ)・田広明(でんこうめい)を祁連将軍(きれんしょうぐん)に任命して、4万余騎を率(ひき)いて西河郡(せいかぐん)から出撃させ、
  • 度遼将軍(とりょうしょうぐん)・范明友(はんめいゆう)には3万余騎を率(ひき)いて張掖郡(ちょうえきぐん)から出撃させ、
  • 前将軍(ぜんしょうぐん)・韓増(かんぞう)には3万余騎を率(ひき)いて雲中郡(うんちゅうぐん)から出撃させ、
  • 後将軍(こうしょうぐん)・趙充国(ちょうじゅうこく)を蒲類将軍(ほるいしょうぐん)に任命して、3万余騎を率(ひき)いて酒泉郡(しゅせんぐん)から出撃させ、
  • 雲中太守(うんちゅうたいしゅ)・田順(でんじゅん)を虎牙将軍(こがしょうぐん)に任命して、3万余騎を率(ひき)いて五原郡(ごげんぐん)から出撃させ、

凡(およ)そ5人の将軍(しょうぐん)と10余万騎が塞(とりで)を出て、各(おの)々(おの)2千余里を進軍します。

また、校尉(こうい)の常恵(じょうけい)に節(せつ)(使者の証(しるし))を持たせ、烏孫国(うそんこく)*9の兵を護(まも)って西域(さいいき)を出発し、昆弥(こんび)(烏孫国(うそんこく)の王(おう)号)は自(みずか)ら翕侯(きゅうこう)以下5万余騎を率(ひき)いて西方から(匈奴(きょうど)に)入りました。

5人の将軍(しょうぐん)と合わせて、凡(およ)そ20余万の軍勢となります。

脚注

*9漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

*13公主(こうしゅ)とは天子(てんし)の娘・皇女。当時、烏孫国(うそんこく)の昆弥(こんび)(烏孫国(うそんこく)の王(おう)号)に嫁(とつ)いでいた。匈奴(きょうど)は公主(こうしゅ)を得て人質にしようとしたものと思われる。

*14読み方不詳。悪師(あくし)?悪師(おし)?

度遼将軍(とりょうしょうぐん)・范明友(はんめいゆう)方面

度遼将軍(とりょうしょうぐん)・范明友(はんめいゆう)は、塞(とりで)を出ること1,200余里、蒲離候水(ほりこうすい)に至り、斬首・捕虜にした者・7百余り、馬・牛・羊・1万余を鹵獲(ろかく)しました。

前将軍(ぜんしょうぐん)・韓増(かんぞう)方面

前将軍(ぜんしょうぐん)・韓増(かんぞう)は、塞(とりで)を出ること1,200余里、烏員(ういん)に至り、斬首・捕虜を得ながら候山(こうざん)に至り、斬首・捕虜にした者・百余り、馬・牛・羊・2千余を鹵獲(ろかく)しました。

蒲類将軍(ほるいしょうぐん)・趙充国(ちょうじゅうこく)方面

蒲類将軍(ほるいしょうぐん)・趙充国(ちょうじゅうこく)は、烏孫国(うそんこく)*9の兵と合流し、蒲類沢(ほるいたく)において匈奴(きょうど)を擊(う)つ予定でしたが、烏孫兵(うそんへい)は期日より先に来て去ってしまっていたため、漢兵(かんぺい)は合流することも追いつくこともできませんでした。

趙充国(ちょうじゅうこく)は、塞(とりで)を出ること1,800余里進んで西方の候山(こうざん)に去り、斬首・捕虜にした者、単于(ぜんう)の使者・蒲陰王(ほいんおう)以下3百余り、馬・牛・羊・7千余を鹵獲(ろかく)しました。

その後「虜(りょ)(匈奴(きょうど))がすでに兵を退(ひ)いて去った」と聞くと、みな期日を待たずに帰還しましたが、天子(てんし)(宣帝(せんてい))はその過失(期日前に帰還したこと)を許し、寛大にして罪としませんでした。

脚注

*9漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

祈連将軍(きれんしょうぐん)・田広明(でんこうめい)方面

祁連将軍(きれんしょうぐん)・田広明(でんこうめい)は、塞(とりで)を出ること1,600里、鶏秩山(けいちつざん)に至り、斬首・捕虜にした者・19級(きゅう)、馬・牛・羊・百余頭を獲(え)ました。

この時 田広明(でんこうめい)は、匈奴(きょうど)から還(かえ)る途上の漢(かん)の使者・冉弘(ぜんこう)らと出(で)逢(あ)い、「鶏秩山(けいちつざん)の西に虜(りょ)(匈奴(きょうど))の軍勢がいる」ことを聞きましたが、すぐさま冉弘(ぜんこう)を戒(いまし)めて「虜(りょ)(匈奴(きょうど))はいない」と言わせ、兵を還(かえ)そうとします。

御史(ぎょし)の属官である公孫益寿(こうそんえきじゅ)は「そうすべきではない」と諫(いさ)めたが、田広明(でんこうめい)は聴(き)き入れず、ついに兵を退(ひ)いて帰還してしまいました。

虎牙将軍(こがしょうぐん)・田順(でんじゅん)方面

虎牙将軍(こがしょうぐん)・田順(でんじゅん)は、塞(とりで)を出ること800余里、丹余吾水(たんよごすい)の畔(ほとり)に至ると、そのまま兵を止(とど)めて進まず、斬首・捕虜にした者・1,900余級(きゅう)、馬・牛・羊・7万余を鹵獲(ろかく)して兵を退(ひ)き、帰還しました。


匈奴(きょうど)は、漢兵(かんぺい)が大挙して出撃したことを聞くと、老弱は奔走(ほんそう)し、家畜を駆り立てて遠くへ遁逃(とんとう)していたため、5人の将軍(しょうぐん)たちが得たものは多くはありませんでした。

校尉(こうい)・常恵(じょうけい)方面

校尉(こうい)・常恵(じょうけい)は、烏孫国(うそんこく)*9の兵と共に(匈奴(きょうど)の)右谷蠡庭(ゆうろくりてい)(右谷蠡王(ゆうろくりおう)の都(みやこ))に至り、単于(ぜんう)の父行(ちちかた)に当たる者および、嫂(あによめ)・居次(きょじ)(単于(ぜんう)の娘)・名王(めいおう)・犁汙都尉(りうとい)・千長(せんちょう)・将(しょう)以下3万9千余級(きゅう)と、馬・牛・羊・驢(ろ)(驢馬(ろば))、騾馬(らば)(牡驢馬(おすろば)と牝馬(ひんば)との雑種)・橐駝(たくだ)(駱駝(らくだ))など70余万頭を捕らえました。

論功行賞

  • 虎牙将軍(こがしょうぐん)・田順(でんじゅん)は、期日に至る前に帰還し、鹵獲(ろかく)を詐(いつわ)って多く報告した罪により、吏(り)(役人)に下げ渡して自殺させました。
  • 祁連将軍(きれんしょうぐん)・田広明(でんこうめい)は、前方に虜(りょ)(匈奴(きょうど))がいることを知りながら、逗留(とうりゅう)して進まなかった罪により、吏(り)(役人)に下げ渡して自殺させました。
  • 祁連将軍(きれんしょうぐん)・田広明(でんこうめい)を諫(いさ)めた公孫益寿(こうそんえきじゅ)は、侍御史(じぎょし)に抜擢(ばってき)されました。
  • 烏孫国(うそんこく)*9の兵と共に(匈奴(きょうど)の)右谷蠡庭(ゆうろくりてい)(右谷蠡王(ゆうろくりおう)の都(みやこ))に至った校尉(こうい)・常恵(じょうけい)は、長羅侯(ちょうらこう)に封ぜられました。

この戦いにより、匈奴(きょうど)の民衆で、死傷・去った者、及び、遠くに移って死んだ家畜は数え切れないほどでした。

こうして匈奴(きょうど)はついに衰(おとろ)えて勢いがなくなり、烏孫国(うそんこく)*9を怨(うら)むようになりました。

脚注

*9漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

匈奴の属国が離れる【前漢:宣帝】

この年[漢(かん)の本始(ほんし)2年(紀元前72年)]の冬、単于(ぜんう)は自(みずか)ら1万騎を率(ひき)いて烏孫国(うそんこく)*9を擊(う)ち、多くの老弱を得て還(かえ)ろうとしましたが、たまたま大雪が降り、積雪が1日で深さ丈(じょう)余(1丈(じょう)=約2.31m)に達したため民衆・家畜が凍死し、帰還できた者は1/10程度に過ぎませんでした。

すると丁令(ていれい)*15がその弱味に乗じて匈奴(きょうど)の北方を攻め、烏桓(うがん)(烏丸(うがん))は東方から侵入し、烏孫国(うそんこく)*9はその西方を攻撃して(匈奴(きょうど)の兵・)数万級(きゅう)、馬数万頭、甚(はなは)だ多くの牛・羊を殺害しました。

また、餓死者が重なって、民衆の3/10、家畜の5/10が死に、匈奴(きょうど)は大いに衰弱(すいじゃく)して羈屬(きぞく)(従属)していた諸国はみな瓦解(がかい)し、(これらの国の)侵略・略奪は手のつけられないほどになりました。


その後 漢(かん)は、3千余騎をもって3道に分かれて匈奴(きょうど)に入り、捕虜数千人を得て還(かえ)りましたが、匈奴(きょうど)はついに敢(あ)えてその復讐をしようとせず、漢(かん)との和親を望んだため、辺境には事が少なくなりました。

脚注

*9漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

*15北方異民族の1つ。丁零(ていれい)。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。

壺衍鞮単于の死

漢(かん)の地節(ちせつ)2年(紀元前68年)、壺衍鞮(こえんてい)単于(ぜんう)が立って17年で亡くなると、弟の左賢王(さけんおう)が立って虛閭権渠(きょろけんきょ)単于(ぜんう)となりました。


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