後漢・三国時代の異民族である西域諸国の内、天竺国・東離国についてまとめています。
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西域諸国㉑都護の管轄外⑤
天竺国
後漢期
天竺国*1
※国境線は現代のもの。
天竺国*1の治所(首都)の正確な位置は不詳。
所在地
天竺国*1は一名を身毒国と言い、月氏国(大月氏国*2)の東南・数千里の場所にあります。
月氏国(大月氏国*2)・高附国より西、南は西海*3、東は磐起国(バングラデシュ)に至るまで、みな身毒国(天竺国*1)の領土です。
風土
- 気候は猛暑で、低湿地にあって大河(インダス川とガンジス川)に面しています。
- 象・犀・玳瑁(ウミガメの一種)・金・銀・銅・鉄・鉛・錫を産出します。
- 西は大秦国(ローマ帝国)と通じており、大秦国(ローマ帝国)の珍しい物品があります。
- 細布(綿織物の一種)・良質な毾氍(毛布)・様々な香・石蜜(氷砂糖)・胡椒・生姜・黒塩があります。
風俗
- 風俗は月氏国(大月氏国*2)と同じですが、月氏国(大月氏国*2)よりも弱く、人々は浮図道(仏教)を信仰し、殺伐としておらず穏やかな人柄です。
統治
- 天竺国*1の兵は象に乗って戦います。
- 别城(属城)が数百あり、城ごとに長が置かれています。
- 别国(属国)が数十あり、国ごとに王が置かれています。
- 别国(属国)はそれぞれ多少の違いはありますが、共に身毒国の名を冠していました。
脚注
*1インド。
*2新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*3ペルシャ湾・紅海・アラビア海・インド洋の北西部。
天竺国の歴史
1世紀半ば
大月氏国*2を滅ぼしたクシャーナ朝*4の第2代王・閻膏珍*5が天竺国*1を従属させ、その王を殺害して将を置き、これを監督させました。
【後漢】和帝期
和帝(在位:88年〜106年)の時代、天竺国*1は度々後漢に貢ぎ物を献じていましたが、後に西域が反乱を起こすと、後漢との通交を絶ちました。
【後漢】桓帝期
桓帝の延熹2年(159年)・延熹4年(161年)に至ると、頻繁に交趾刺史部・日南郡の塞外からやって来て貢ぎ物を献じるようになりました。
脚注
*2新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*4クシャーナ朝が建国された後も、漢は元々の呼称である「大月氏国*2」を使い続けた。
*5クシャーナ朝・第2代王・ヴィマ・タクト。ヴィマ・タクトの子・ヴィマ・カドフィセス説や兄弟のサダシュカナ説など諸説ある。
仏教の伝来
ある時、後漢の明帝(在位:57年〜75年)が夢の中で「頭頂部に光明が差している巨大な金人」を見ました。そのことを群臣に尋ねたところ、ある者が、
「西方に神がおり、名を佛(仏)と申します。それは身の丈・1丈8尺(約415.8cm)あり、黄金色をしています」
と答えました。
そこで明帝は、天竺国*1に使者を派遣して「佛道法(仏教)」について質問させ、ついに中国において佛(仏)の姿形を描かせました。楚王・劉英が初めてその術(仏教)を信じ、これにより中国でもその道(仏教)を信仰する者が現れるようになりました。
後の桓帝は神を好み、度々佛(仏)や老子を祀ったので、徐々に民の中にも(仏教を)信仰する者が現れ、後に益々盛んとなりました。
脚注
*1インド。
東離国
後漢期
東離国
※国境線は現代のもの。
東離国の治所(首都)の正確な位置は不詳。
所在地
東離国が居城を置く沙奇城*6は天竺国*1の東南3千余里(約1,290km)の場所にあり、大国です。
大月氏国*2を滅ぼしたクシャーナ朝*4の第2代王・閻膏珍*5の討伐を受け、これに臣従しました。
脚注
*1インド。
*6インドの科羅曼徳爾付近。
風土
- 風土・気候・産出物は、天竺国*1と同じです。
- 象や駱駝に乗って隣国と往来します。
- 人々の身長は男女共にみな8尺(約184.8cm)程ありますが、臆病な性格をしています。
統治
- 数十の城が列なり、みな王を称しています。
- 侵略を受けた時は、象に乗って戦います。
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