前漢(ぜんかん)・宣帝(せんてい)③時代の匈奴(きょうど)、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)・屠耆(とき)単于(ぜんう)・呼揭(こけつ)単于(ぜんう)・車犁(しゃり)単于(ぜんう)・烏藉(うせき)単于(ぜんう)・閏振(じゅんしん)単于(ぜんう)・郅支骨都侯(しつしこつとこう)単于・伊利目(いりもく)単于(ぜんう)についてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑩単于並立時代

匈奴(前漢時代)

匈奴(きょうど)(前漢(ぜんかん)時代)

呼韓邪単于の即位【前漢:宣帝】

烏禪幕(うせんばく)の元に身を寄せる

漢(かん)の神爵(しんしゃく)2年(紀元前60年)、虛閭権渠(きょろけんきょ)単于(ぜんう)が病死すると、郝宿王(かくしゅくおう)・刑未央(けいびおう)が人を遣(や)って諸王(おう)を招集しましたが、彼らがまだ到着しないうちに、顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*1が弟の大且渠(だいしょきょ)・都隆奇(とりゅうき)と謀(はか)って右賢王(ゆうけんおう)・屠耆堂(ときどう)を立てて握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)としました。

握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)は立った当初から凶悪で、虛閭権渠(きょろけんきょ)単于(ぜんう)の時代に用(もち)いられていた貴人(貴族)・刑未央けいびおうらを悉(ことごと)く殺害し、顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*1の弟・都隆奇(とりゅうき)を任用し、また虛閭権渠(きょろけんきょ)の子弟・近親者の悉(ことごと)くを罷免(ひめん)して、自(みずか)ら自分の子弟をもってこれに代えました。


この状況に、単于(ぜんう)に立つことができなかった虛閭権渠(きょろけんきょ)単于(ぜんう)の子・稽侯狦(けいこうさん)は、逃亡して妻の父・烏禪幕(うせんばく)の元に身を寄せました。

脚注

*1単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の即位

握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)が立って2年、その暴虐殺伐さにより、国中に彼に従う者はいなくなりました。


その翌年の漢(かん)の神爵(しんしゃく)4年(紀元前58年)、烏桓(うがん)(烏丸(うがん))が匈奴(きょうど)の東辺の姑夕王(こせきおう)を撃(う)ってその領民の多くを得ました。

すると握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)の怒りを恐れた姑夕王(こせきおう)は、すぐさま単于(ぜんう)に恨(うら)みを持つ烏禪幕(うせんばく)や左地の貴人(貴族)らと共に稽侯狦(けいこうさん)を立てて呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)とし、左地の兵・4〜5万人を発して西方の握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)を撃(う)つため姑且水(こしょすい)の北に進軍します。

これに握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)の兵はまだ戦う前から敗走。この事態に、握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)は弟の右賢王(ゆうけんおう)に人を遣(や)って、

「匈奴(きょうど)が共に我(わたし)を攻撃している。兵を発して我(わたし)を助けてくれぬか?」

と言いましたが、右賢王(ゆうけんおう)は、

「お前は人を愛さず、昆弟(こんてい)(兄弟)や諸貴人(貴族)を殺した。お前たちはそこで死ぬが良い。来るな。我(わたし)を汚すでない」

と答えたので、握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)は憤(いきどお)って自害。立って3年で敗(ほろ)びました。


(顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*1の弟の)左大且渠(さだいしょきょ)・都隆奇(とりゅうき)は逃亡して右賢王(ゆうけんおう)の所へ行き、その民衆の悉(ことごと)くが呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に降伏しました。

脚注

*1単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

屠耆単于の即位【前漢:宣帝】

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は庭(てい)(都(みやこ))に帰って数ヶ月で兵(いくさ)を罷(や)め、各(おの)々(おの)その故地(こち)に帰らせました。

そして当時民間にいた兄の呼屠吾斯(ことごし)を引き立てて左谷蠡王(さろくりおう)とし、右賢王(ゆうけんおう)の貴人(貴族)の元に人を遣(や)り、右賢王(ゆうけんおう)を殺害させようとします。


その冬、都隆奇(とりゅうき)は右賢王(ゆうけんおう)と共に日逐王(にっちくおう)・薄胥堂(はくしょどう)を立てて屠耆(とき)単于(ぜんう)とし、数万人の兵を発して東方の呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)を襲撃。呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の兵は敗走しました。

屠耆(とき)単于(ぜんう)は帰還すると、長子の都塗吾西(ととごせい)を左谷蠡王(さろくりおう)とし、末子の姑瞀樓頭(こぼうろうとう)を右谷蠡王(ゆうろくりおう)として、単于庭(ぜんうてい)(都(みやこ))に留(とど)め置きました。

呼揭単于・車犁単于・烏藉単于の即位【前漢:宣帝】

翌年の秋、屠耆(とき)単于(ぜんう)は日逐王(にっちくおう)・先賢撣(せんけんてん)の兄の右奧鞬王(ゆういくけんおう)と烏藉都尉(うせきとい)のそれぞれ2万騎を派遣して東方に駐屯させ、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に備(そな)えさせました。

この時、西方の呼揭王(こけつおう)が来て唯犁当戸(いりとうと)と謀(はか)って共に右賢王(ゆうけんおう)を讒言(ざんげん)し、「(右賢王(ゆうけんおう)は)自(みずか)ら立って烏藉(うせき)単于(ぜんう)となろうとしている」と言いました。屠耆(とき)単于(ぜんう)はこれを聞くと右賢王(ゆうけんおう)父子を殺害しましたが、後(のち)にそれが冤罪(えんざい)であることを知ると、今度は唯犁当戸(いりとうと)を殺害します。

残された呼揭王(こけつおう)は恐れ、ついに叛(そむ)いて去ると、自(みずか)ら立って呼揭(こけつ)単于(ぜんう)となりました。


呼揭(こけつ)単于(ぜんう)が立ったことを聞いた右奧鞬王(ゆういくけんおう)は、すぐさま自(みずか)ら立って車犁(しゃり)単于(ぜんう)となり、烏藉都尉(うせきとい)もまた自(みずか)ら立って烏藉(うせき)単于(ぜんう)となり、匈奴(きょうど)には5人の単于(ぜんう)が存在することとなりました。

屠耆単于と車犁単于の争い【前漢:宣帝】

屠耆(とき)単于(ぜんう)は自(みずか)ら兵を率(ひき)いて東方の車犁(しゃり)単于(ぜんう)を擊(う)ち、都隆奇(とりゅうき)を派遣して烏藉(うせき)単于(ぜんう)を擊(う)たせました。烏藉(うせき)単于(ぜんう)と車犁(しゃり)単于(ぜんう)はみな敗れて西北に敗走し、呼揭(こけつ)単于(ぜんう)の兵と合流して、その兵は4万人となります。

すると烏藉(うせき)単于(ぜんう)と呼揭(こけつ)単于(ぜんう)は単于(ぜんう)の号を棄(す)て、共に力を合わせて車犁(しゃり)単于(ぜんう)を尊(とうと)び輔(たす)けることにしました。


屠耆(とき)単于(ぜんう)はこれを聞くと、左大将(さたいしょう)と都尉(とい)が率(ひき)いる4万騎を東方に駐屯させて呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に備(そな)えると、自(みずか)ら4万騎を率(ひき)いて西方の車犁(しゃり)単于(ぜんう)を攻撃します。

その結果、車犁(しゃり)単于(ぜんう)は敗れて西北に敗走し、屠耆(とき)単于(ぜんう)はすぐさま西南に引き返して闟敦(とうとん)の地に留(とど)まりました。

屠耆単于の死【前漢:宣帝】

その翌年、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は弟の右谷蠡王(ゆうろくりおうらを派遣して、西方の屠耆(とき)単于(ぜんう)の駐屯兵を襲撃させ、1万余人を殺害・略奪しました。

屠耆(とき)単于(ぜんう)はこれを聞くと、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)を擊(う)つため、すぐさま自(みずか)ら6万騎を率(ひき)いて出陣します。

ですが、行軍すること千里(約430km)、まだ嗕姑(じょくこ)の地に至らないうちに、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の兵4万人ばかりと遭遇(そうぐう)し、合戦に敗れた屠耆(とき)単于(ぜんう)は自害してしまいました。


(屠耆(とき)単于(ぜんう)の配下であった)都隆奇(とりゅうき)は、屠耆(とき)単于(ぜんう)の末子、右谷蠡王(ゆうろくりおう・姑瞀楼頭(こぼうろうとう)と共に逃亡して漢(かん)に帰順し、車犁(しゃり)単于(ぜんう)は東方の呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に降伏します。

また、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の左大将(さたいしょう)・烏厲屈(うれいくつ)とその父、呼遫累(こそくるい・烏厲温敦(うれいおんとん)は匈奴(きょうど)の乱れを見て、共にその兵・数万人を率(ひき)いて南方の漢(かん)に降伏。漢(かん)は烏厲屈(うれいくつ)を新城侯(しんじょうこうに封じ、烏厲温敦(うれいおんとん)を義陽侯(ぎようこうに封じました。

郅支骨都侯単于が呼韓邪単于を破る【前漢:宣帝】

閏振(じゅんしん)単于(ぜんう)と郅支骨都侯(しつしこつとこう)単于(ぜんう)の即位

この時、李陵(りりょう)*2の子がまた烏藉都尉(うせきとい)を立てて単于(ぜんう)としましたが、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)はこれを捕らえて斬り、ついに再び単于庭(ぜんうてい)を都(みやこ)としましたが、その擁(よう)する兵は数万人に過ぎませんでした。

(自害した)屠耆(とき)単于(ぜんう)の従弟(いとこ)の休旬王(きゅうじゅんおう)は、腹心の5〜6百騎を率(ひき)いて左大且渠(さだいしょきょ)を攻撃して殺害し、その兵を合わせて右地に至ると、自(みずか)ら立って閏振(じゅんしん)単于(ぜんう)となり、西辺に割拠しました。

その後、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の兄、左賢王(さけんおう)・呼屠吾斯(ことごし)もまた、自(みずか)ら立って郅支骨都侯(しつしこつとこう)単于(ぜんう)となり、東辺に割拠します。

脚注

*2元漢(かん)の騎都尉(きとい)。漢(かん)の天漢(てんかん)2年(紀元前99年)に匈奴(きょうど)に降伏し、且鞮侯(しょていこう)単于(ぜんう)の女(むすめ)を娶(めと)った。

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の敗走

その2年後、閏振(じゅんしん)単于(ぜんう)はその衆を率(ひき)いて、東方の郅支(しつし)単于(ぜんう)(郅支骨都侯(しつしこつとこう)単于(ぜんう))を攻撃しましたが、この戦いで閏振(じゅんしん)単于(ぜんう)を討ち取った郅支(しつし)単于(ぜんう)は、その敗残兵を併合(へいごう)。ついに軍を進めて呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)を攻め、これを敗走させると、単于庭(ぜんうてい)を都(みやこ)としました。

呼韓邪単于と郅支単于が漢に子を入侍させる【前漢:宣帝】

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が敗(やぶ)れると、左伊秩訾王(さいちつしおう)は呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)のために計(はか)って、

「『臣(しん)』と称して漢(かん)に入朝し、漢(かん)に従属して助けを求めれば、匈奴(きょうど)を安定させることができるでしょう」

と勧め、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)はこれを評議して諸大臣に問(と)いました。

するとみな声を揃(そろ)えて、


「いけません。匈奴(きょうど)はこれまで、気力を『上(じょう)』とし、服役(ふくえき)(服従)を『下(げ)』とし、馬上の戦闘をもって国を為(な)してきました。それ故(ゆえ)に百蛮(ひゃくばん)に対して威名を有しているのです。

戦死は壮士の習(なら)いです。今は兄弟で国を争っているのですから、たとえ(どちらかが)死んでも匈奴(きょうど)の威名は保(たも)たれ、子孫は常に諸国の長でいられるでしょう。

漢(かん)は強国とはいえ、今なお匈奴(きょうど)を兼併(けんぺい)(併合(へいごう))することができないのに、どうして『先古の制』を乱して漢(かん)に臣従し、先の単于(ぜんう)を卑(いや)しめ辱(はずか)め、諸国の笑いものとなる必要がありましょうかっ!

たとえそのようにして安定を図(はか)ったとして、どのようにして再び百蛮(ひゃくばん)の長となるというのですかっ!」


と反対し、左伊秩訾王(さいちつしおう)はこれに答えて言いました。


「そうではない。(勢力の)強弱には(天の)時があって、今や漢(かん)は盛強で、烏孫国(うそんこく)*3をはじめとする城郭諸国(西域(さいいき)諸国)もみな臣妾(しんしょう)(臣従)している。

且鞮侯(しょていこう)単于(ぜんう)の時代以降、匈奴(きょうど)は日に日に(領土を)削(けず)られて回復することができず、(匈奴(きょうど)が)屈強とは言え、今日(こんにち)まで1日として平穏な日はなかった。

今、漢(かん)に従属すれば安全に存続でき、従属しなければ滅亡の危険に晒(さら)されることになる。どうすれば現在の危機を乗り越えられるのか(は、明らかではないか)!」


諸大人(たいじん)(貴族)たちは互いに論難*4し合って意見はまとまりませんでしたが、結局、呼韓邪(こかんや)は左伊秩訾王(さいちつしおう)の計(はかりごと)に従い、その衆を率(ひき)いて南方の塞(とりで)に近づくと、子の右賢王(ゆうけんおう)・銖婁渠堂(しゅるきょどう)を遣(つか)わし、漢(かん)の宮中に入れて仕えさせました。


この時、郅支(しつし)単于(ぜんう)もまた子の右大将(ゆうたいしょう)・駒于利受(くうりじゅ)を遣(つか)わし、漢(かん)の宮中に入れて仕えさせました。

この年は、漢(かん)の甘露(かんろ)元年(紀元前53年)です。

脚注

*3漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

*4不正や誤(あやま)りを論じ立てて非難し攻撃すること。

呼韓邪単于と郅支単于の参朝【前漢:宣帝】

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の参朝

翌年、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は五原塞(ごげんさい)の門を叩(たた)いて案内を求め、翌年の漢(かん)の甘露(かんろ)3年(紀元前51年)の正月に参朝したいと願うと、漢(かん)は車騎都尉(しゃきとい)・韓昌(かんしょう)を遣(つか)わしてこれを迎えさせ、通過する7つの郡の郡ごとに、2千騎を発して道に並ばせ(て護衛させ)ました。

正月、単于(ぜんう)は甘泉宮(かんせんきゅう)において(漢(かん)の)天子(てんし)に朝賀すると、漢(かん)は殊礼(しゅれい)(特別な礼)をもって寵遇(ちょうぐう)し、(呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の)位を諸侯王(しょこうおう)の上位とし、献上品を奉じて謁見(えっけん)する際、名乗らずに「臣」と称することを許して、

  • 冠帯衣裳(かんたいいしょう)(冠(かんむり)と帯(おび)と衣服)
  • 黃金璽盭綬(おうごんじれいじゅ)[黄金の印璽(いんじ)と盭(みどり)色の綬(じゅ)(組紐(くみひも))]
  • 玉具剣(ぎょくぐけん)(鍔(つば)や柄(つか)を玉(ぎょく)で飾った剣)
  • 佩刀(はいとう)(腰に佩(お)びる刀)
  • 弓:1張(はり)
  • 矢:4発(はつ)(4本。一説に1発(はつ)を12矢(し)とする)
  • 謐戟(ひつげき):10本(行列の前方を行く者が持つ儀礼用の戟(げき))
  • 安車:1乗(じょう)
  • 鞍勒(あんろく):1具(ぐ)(鞍(くら)と勒(くつわ):1組)
  • 馬:15頭
  • 黃金:20斤(きん)
  • 銭(ぜに):20万銭(せん)
  • 衣被(きぬかずき):77襲(かさね)(衣服:77着)
  • 錦鏽(きんしゅう)・綺縠(きこく)・雑帛(ざっぱく):8千匹(ひき)[錦(にしき)と刺繍(ししゅう)を施(ほどこ)した織物・綾(あや)(模様)のある薄絹・色々な絹(きぬ)]
  • 絮(じょ)(綿(わた)):6千斤(きん

を下賜(かし)しました。


謁見(えっけん)の儀礼が終わると、(漢(かん)は)使者に先導させて単于(ぜんう)を長平坂(ちょうへいはん)に宿泊させ、天子(てんし)(宣帝(せんてい))は甘泉宮(かんせんきゅう)から出て池陽宮(ちようきゅう)に宿泊します。

天子(てんし)(宣帝(せんてい))は長平坂(ちょうへいはん)に登ると、詔(みことのり)を下して単于(ぜんう)の謁見(えっけん)を禁止し、その左当戸(さとうと)・右当戸(ゆうとうと)の群臣にはみな列観(並んで観ること)を許しました。

諸蛮夷(ばんい)の君長(くんちょう)・王(おう)・侯(こう)・数万人がみな渭橋(いきょう)の下(もと)で道を挟(はさ)んで迎(むか)え、天子(てんし)(宣帝(せんてい))が渭橋(いきょう)に登ると、みな「万歳(ばんざい)」を称(とな)えます。

単于(ぜんう)は邸宅(ていたく)に留(とど)まること1ヶ月余りで国(匈奴(きょうど))に帰りました。


その後、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は「自(みずか)ら光禄塞(こうろくさい)の近辺に留(とど)まり、危急の事態があれば受降城(じゅこうじょう)を保守したい」と(漢(かん)に)請(こ)い願いました。

すると漢(かん)は、長楽衛尉(ちょうらくえいい)の高昌侯(こうしょうこう)・董忠(とうちゅう)と車騎都尉(しゃきとい)・韓昌(かんしょう)が率(ひき)いる騎兵6千騎を遣(つか)わし、また、辺境の郡の士馬・数千(千数)を徴発して単于(ぜんう)を送り、朔方郡(さくほうぐん)の鶏鹿塞(けいろくさい)まで進出します。

そこで[天子(てんし)(宣帝(せんてい))は]董忠(とうちゅう)らに詔(みことのり)を下して「(鶏鹿塞(けいろくさい)に)留(とど)まって単于(ぜんう)を護衛し、(単于(ぜんう)を)助けて服従しない者を誅殺(ちゅうさつ)するように」と命じ、また、前後3万4千斛(こく)の穀米(こくまい)・糒(ほしいい)を辺境に輸送して、食糧の不足を足(た)し与えました。

郅支(しつし)単于(ぜんう)の参朝

この年、郅支(しつし)単于(ぜんう)もまた使者を遣(つか)わして貢物を献上し、漢(かん)はこれを非常に手厚く遇(ぐう)しました。

翌年、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)と郅支(しつし)単于(ぜんう)の両単于(ぜんう)が共に使者を遣(つか)わして朝献*5しましたが、漢(かん)は呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の使者に対してより厚い待遇をしました。

翌年の漢(かん)の黄龍(こうりゅう)元年(紀元前49年)、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が再び入朝すると、漢(かん)の待遇・下賜品は前回と同様で、

  • 衣(ころも):110襲(かさね)(前回:77襲(かさね))
  • 錦帛(きんぱく):9千匹(ひき)(前回:8千匹(ひき))
  • 絮(じょ)(綿(わた)):8千斤(きん(前回:6千斤(きん)

と、一部を加増して下賜(かし)しましたが、すでに駐屯兵がいるため、また騎兵を出して送ることはしませんでした。

脚注

*5諸侯(しょこう)や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物を奉じること。

郅支単于の拡大【前漢:宣帝】

郅支(しつし)単于(ぜんう)が伊利目(いりもく)単于(ぜんう)を殺害する

郅支(しつし)単于(ぜんう)は「呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が漢(かん)に降(くだ)ったとしても、兵は弱く、再び自(みずか)ら(匈奴(きょうど)の地に)還(かえ)ることはできないだろう」と思い、すぐさま兵を率(ひき)いて西に向かい、右地を攻めて平定しようとします。

また、「(呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に敗れて自害した)屠耆(とき)単于(ぜんう)」の末弟は、元は呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に侍(つか)えていましたが、彼もまた右地に逃亡し、2人の兄の残兵・数千人を得て、自(みずか)ら立って伊利目(いりもく)単于(ぜんう)となっていました。

そして、右地に向かった郅支(しつし)単于(ぜんう)は伊利目(いりもく)単于(ぜんう)と合戦となってこれを殺害し、その兵・5万余人を併(あわ)せました。その後、「漢(かん)が兵と食糧を供出して呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)を援助している」ことを聞くと、郅支(しつし)単于(ぜんう)はそのまま右地に留(とど)まります。

郅支(しつし)単于(ぜんう)が烏孫国(うそんこく)*3を破る

(郅支(しつし)単于(ぜんう)は)「自分の力では匈奴(きょうど)を平定することはできない」と考え、益(ます)々(ます)西方の烏孫国(うそんこく)*3に接近し「共に力を併(あわ)せたい」と、小昆弥(しょうこんび)(烏孫国(うそんこく)*3の王(おう)号)・烏就屠(うしゅうと)に使者を派遣しました。

烏就屠(うしゅうと)は「呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が漢(かん)に擁立(ようりつ)され、郅支(しつし)単于(ぜんう)が逃亡者である」ことを見て取ると、「郅支(しつし)単于(ぜんう)を攻めて漢(かん)に称(たた)えられたい」と思い、郅支(しつし)単于(ぜんう)の使者を殺害してその頭(くび)を都護(とご)(西域都護(さいいきとご))に送ると、8千騎を発して郅支(しつし)単于(ぜんう)を迎えました。

郅支(しつし)単于(ぜんう)は烏孫国(うそんこく)*3の兵が多く、また派遣した使者が帰って来ないのを見て、兵を整え烏孫国(うそんこく)*3を迎え撃ち、これを破りました。

郅支(しつし)単于(ぜんう)が烏揭(うけつ)(呼揭(こけつ))・堅昆(けんこん)*6・丁令(ていれい)*7を併合(へいごう)する

(郅支(しつし)単于(ぜんう)は)そのまま北方の部落国家・烏揭(うけつ)(呼揭(こけつ))を攻撃して烏揭(うけつ)(呼揭(こけつ))を降伏させ、その兵を発して西方の堅昆(けんこん)*6を破り、北方の丁令(ていれい)*7を降(くだ)して、それらの3国を併合(へいごう)。その後もたびたび兵を派遣して烏孫国(うそんこく)*3を攻撃し、常にこれに勝利しました。

堅昆(けんこん)*6は東方の単于庭(ぜんうてい)から7千里(約3,010km)、南方の車師国(しゃしこく)から5千里(約2,150km)の場所にあり、郅支(しつし)単于(ぜんう)はここに留(とど)まって都(みやこ)としました。

脚注

*6北方異民族の1つ。中央ユーラシア北部に分布していたテュルク系遊牧民族。

*7北方異民族の1つ。丁零(ていれい)。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。


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