前漢ぜんかん宣帝せんてい③・元帝げんてい時代の匈奴きょうど呼韓邪こかんや単于ぜんう屠耆とき単于ぜんう呼揭こけつ単于ぜんう車犁しゃり単于ぜんう烏藉うせき単于ぜんう閏振じゅんしん単于ぜんう郅支骨都侯しつしこつとこう単于伊利目いりもく単于ぜんうについてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑩単于並立時代

匈奴(前漢時代)

匈奴きょうど前漢ぜんかん時代)

呼韓邪単于の即位【前漢:宣帝】

烏禪幕うせんばくの元に身を寄せる

かん神爵しんしゃく2年(紀元前60年)、虛閭権渠きょろけんきょ単于ぜんうが病死すると、郝宿王かくしゅくおう刑未央けいびおうが人をって諸おうを招集しましたが、彼らがまだ到着しないうちに、顓渠せんきょ閼氏あつし*1が弟の大且渠だいしょきょ都隆奇とりゅうきはかって右賢王ゆうけんおう屠耆堂ときどうを立てて握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうとしました。

握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうは立った当初から凶悪で、虛閭権渠きょろけんきょ単于ぜんうの時代にもちいられていた貴人(貴族)・刑未央けいびおうらをことごとく殺害し、顓渠せんきょ閼氏あつし*1の弟・都隆奇とりゅうきを任用し、また虛閭権渠きょろけんきょの子弟・近親者のことごとくを罷免ひめんして、みずから自分の子弟をもってこれに代えました。


この状況に、単于ぜんうに立つことができなかった虛閭権渠きょろけんきょ単于ぜんうの子・稽侯狦けいこうさんは、逃亡して妻の父・烏禪幕うせんばくの元に身を寄せました。

脚注

*1単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

呼韓邪こかんや単于ぜんうの即位

握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうが立って2年、その暴虐殺伐さにより、国中に彼に従う者はいなくなりました。


その翌年のかん神爵しんしゃく4年(紀元前58年)、烏桓うがん烏丸うがん)が匈奴きょうどの東辺の姑夕王こせきおうってその領民の多くを得ました。

すると握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうの怒りを恐れた姑夕王こせきおうは、すぐさま単于ぜんううらみを持つ烏禪幕うせんばくや左地の貴人(貴族)らと共に稽侯狦けいこうさんを立てて呼韓邪こかんや単于ぜんうとし、左地の兵・4〜5万人を発して西方の握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうつため姑且水こしょすいの北に進軍します。

これに握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうの兵はまだ戦う前から敗走。この事態に、握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうは弟の右賢王ゆうけんおうに人をって、

匈奴きょうどが共にわたしを攻撃している。兵を発してわたしを助けてくれぬか?」

と言いましたが、右賢王ゆうけんおうは、

「お前は人を愛さず、昆弟こんてい(兄弟)や諸貴人(貴族)を殺した。お前たちはそこで死ぬが良い。来るな。わたしを汚すでない」

と答えたので、握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんういきどおって自害。立って3年でほろびました。


顓渠せんきょ閼氏あつし*1の弟の)左大且渠さだいしょきょ都隆奇とりゅうきは逃亡して右賢王ゆうけんおうの所へ行き、その民衆のことごとくが呼韓邪こかんや単于ぜんうに降伏しました。

脚注

*1単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

屠耆単于の即位【前漢:宣帝】

呼韓邪こかんや単于ぜんうていみやこ)に帰って数ヶ月でいくさめ、おのおのその故地こちに帰らせました。

そして当時民間にいた兄の呼屠吾斯ことごしを引き立てて左谷蠡王さろくりおうとし、右賢王ゆうけんおうの貴人(貴族)の元に人をり、右賢王ゆうけんおうを殺害させようとします。


その冬、都隆奇とりゅうき右賢王ゆうけんおうと共に日逐王にっちくおう薄胥堂はくしょどうを立てて屠耆とき単于ぜんうとし、数万人の兵を発して東方の呼韓邪こかんや単于ぜんうを襲撃。呼韓邪こかんや単于ぜんうの兵は敗走しました。

屠耆とき単于ぜんうは帰還すると、長子の都塗吾西ととごせい左谷蠡王さろくりおうとし、末子の姑瞀樓頭こぼうろうとう右谷蠡王ゆうろくりおうとして、単于庭ぜんうていみやこ)にとどめ置きました。

呼揭単于・車犁単于・烏藉単于の即位【前漢:宣帝】

翌年の秋、屠耆とき単于ぜんう日逐王にっちくおう先賢撣せんけんてんの兄の右奧鞬王ゆういくけんおう烏藉都尉うせきといのそれぞれ2万騎を派遣して東方に駐屯させ、呼韓邪こかんや単于ぜんうそなえさせました。

この時、西方の呼揭王こけつおうが来て唯犁当戸いりとうとはかって共に右賢王ゆうけんおう讒言ざんげんし、「(右賢王ゆうけんおうは)みずから立って烏藉うせき単于ぜんうとなろうとしている」と言いました。屠耆とき単于ぜんうはこれを聞くと右賢王ゆうけんおう父子を殺害しましたが、のちにそれが冤罪えんざいであることを知ると、今度は唯犁当戸いりとうとを殺害します。

残された呼揭王こけつおうは恐れ、ついにそむいて去ると、みずから立って呼揭こけつ単于ぜんうとなりました。


呼揭こけつ単于ぜんうが立ったことを聞いた右奧鞬王ゆういくけんおうは、すぐさまみずから立って車犁しゃり単于ぜんうとなり、烏藉都尉うせきといもまたみずから立って烏藉うせき単于ぜんうとなり、匈奴きょうどには5人の単于ぜんうが存在することとなりました。

屠耆単于と車犁単于の争い【前漢:宣帝】

屠耆とき単于ぜんうみずから兵をひきいて東方の車犁しゃり単于ぜんうち、都隆奇とりゅうきを派遣して烏藉うせき単于ぜんうたせました。烏藉うせき単于ぜんう車犁しゃり単于ぜんうはみな敗れて西北に敗走し、呼揭こけつ単于ぜんうの兵と合流して、その兵は4万人となります。

すると烏藉うせき単于ぜんう呼揭こけつ単于ぜんう単于ぜんうの号をて、共に力を合わせて車犁しゃり単于ぜんうとうとたすけることにしました。


屠耆とき単于ぜんうはこれを聞くと、左大将さたいしょう都尉といひきいる4万騎を東方に駐屯させて呼韓邪こかんや単于ぜんうそなえると、みずから4万騎をひきいて西方の車犁しゃり単于ぜんうを攻撃します。

その結果、車犁しゃり単于ぜんうは敗れて西北に敗走し、屠耆とき単于ぜんうはすぐさま西南に引き返して闟敦とうとんの地にとどまりました。

屠耆単于の死【前漢:宣帝】

その翌年、呼韓邪こかんや単于ぜんうは弟の右谷蠡王ゆうろくりおうらを派遣して、西方の屠耆とき単于ぜんうの駐屯兵を襲撃させ、1万余人を殺害・略奪しました。

屠耆とき単于ぜんうはこれを聞くと、呼韓邪こかんや単于ぜんうつため、すぐさまみずから6万騎をひきいて出陣します。

ですが、行軍すること千里(約430km)、まだ嗕姑じょくこの地に至らないうちに、呼韓邪こかんや単于ぜんうの兵4万人ばかりと遭遇そうぐうし、合戦に敗れた屠耆とき単于ぜんうは自害してしまいました。


屠耆とき単于ぜんうの配下であった)都隆奇とりゅうきは、屠耆とき単于ぜんうの末子、右谷蠡王ゆうろくりおう姑瞀楼頭こぼうろうとうと共に逃亡してかんに帰順し、車犁しゃり単于ぜんうは東方の呼韓邪こかんや単于ぜんうに降伏します。

また、呼韓邪こかんや単于ぜんう左大将さたいしょう烏厲屈うれいくつとその父、呼遫累こそくるい烏厲温敦うれいおんとん匈奴きょうどの乱れを見て、共にその兵・数万人をひきいて南方のかんに降伏。かん烏厲屈うれいくつ新城侯しんじょうこうに封じ、烏厲温敦うれいおんとん義陽侯ぎようこうに封じました。

郅支骨都侯単于が呼韓邪単于を破る【前漢:宣帝】

閏振じゅんしん単于ぜんう郅支骨都侯しつしこつとこう単于ぜんうの即位

この時、李陵りりょう*2の子がまた烏藉都尉うせきといを立てて単于ぜんうとしましたが、呼韓邪こかんや単于ぜんうはこれを捕らえて斬り、ついに再び単于庭ぜんうていみやことしましたが、そのようする兵は数万人に過ぎませんでした。

(自害した)屠耆とき単于ぜんう従弟いとこ休旬王きゅうじゅんおうは、腹心の5〜6百騎をひきいて左大且渠さだいしょきょを攻撃して殺害し、その兵を合わせて右地に至ると、みずから立って閏振じゅんしん単于ぜんうとなり、西辺に割拠しました。

その後、呼韓邪こかんや単于ぜんうの兄、左賢王さけんおう呼屠吾斯ことごしもまた、みずから立って郅支骨都侯しつしこつとこう単于ぜんうとなり、東辺に割拠します。

脚注

*2かん騎都尉きといかん天漢てんかん2年(紀元前99年)に匈奴きょうどに降伏し、且鞮侯しょていこう単于ぜんうむすめめとった。

呼韓邪こかんや単于ぜんうの敗走

その2年後、閏振じゅんしん単于ぜんうはその衆をひきいて、東方の郅支しつし単于ぜんう郅支骨都侯しつしこつとこう単于ぜんう)を攻撃しましたが、この戦いで閏振じゅんしん単于ぜんうを討ち取った郅支しつし単于ぜんうは、その敗残兵を併合へいごう。ついに軍を進めて呼韓邪こかんや単于ぜんうを攻め、これを敗走させると、単于庭ぜんうていみやことしました。

呼韓邪単于と郅支単于が漢に子を入侍させる【前漢:宣帝】

呼韓邪こかんや単于ぜんうやぶれると、左伊秩訾王さいちつしおう呼韓邪こかんや単于ぜんうのためにはかって、

「『しん』と称してかんに入朝し、かんに従属して助けを求めれば、匈奴きょうどを安定させることができるでしょう」

と勧め、呼韓邪こかんや単于ぜんうはこれを評議して諸大臣にいました。

するとみな声をそろえて、


「いけません。匈奴きょうどはこれまで、気力を『じょう』とし、服役ふくえき(服従)を『』とし、馬上の戦闘をもって国をしてきました。それゆえ百蛮ひゃくばんに対して威名を有しているのです。

戦死は壮士のならいです。今は兄弟で国を争っているのですから、たとえ(どちらかが)死んでも匈奴きょうどの威名はたもたれ、子孫は常に諸国の長でいられるでしょう。

かんは強国とはいえ、今なお匈奴きょうど兼併けんぺい併合へいごう)することができないのに、どうして『先古の制』を乱してかんに臣従し、先の単于ぜんういやしめはずかめ、諸国の笑いものとなる必要がありましょうかっ!

たとえそのようにして安定をはかったとして、どのようにして再び百蛮ひゃくばんの長となるというのですかっ!」


と反対し、左伊秩訾王さいちつしおうはこれに答えて言いました。


「そうではない。(勢力の)強弱には(天の)時があって、今やかんは盛強で、烏孫国うそんこく*3をはじめとする城郭諸国(西域さいいき諸国)もみな臣妾しんしょう(臣従)している。

且鞮侯しょていこう単于ぜんうの時代以降、匈奴きょうどは日に日に(領土を)けずられて回復することができず、(匈奴きょうどが)屈強とは言え、今日こんにちまで1日として平穏な日はなかった。

今、かんに従属すれば安全に存続でき、従属しなければ滅亡の危険にさらされることになる。どうすれば現在の危機を乗り越えられるのか(は、明らかではないか)!」


大人たいじん(貴族)たちは互いに論難*4し合って意見はまとまりませんでしたが、結局、呼韓邪こかんや左伊秩訾王さいちつしおうはかりごとに従い、その衆をひきいて南方のとりでに近づくと、子の右賢王ゆうけんおう銖婁渠堂しゅるきょどうつかわし、かんの宮中に入れて仕えさせました。


この時、郅支しつし単于ぜんうもまた子の右大将ゆうたいしょう駒于利受くうりじゅつかわし、かんの宮中に入れて仕えさせました。

この年は、かん甘露かんろ元年(紀元前53年)です。

脚注

*3かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*4不正やあやまりを論じ立てて非難し攻撃すること。

呼韓邪単于と郅支単于の参朝【前漢:宣帝】

呼韓邪こかんや単于ぜんうの参朝

翌年、呼韓邪こかんや単于ぜんう五原塞ごげんさいの門をたたいて案内を求め、翌年のかん甘露かんろ3年(紀元前51年)の正月に参朝したいと願うと、かん車騎都尉しゃきとい韓昌かんしょうつかわしてこれを迎えさせ、通過する7つの郡の郡ごとに、2千騎を発して道に並ばせ(て護衛させ)ました。

正月、単于ぜんう甘泉宮かんせんきゅうにおいて(かんの)天子てんしに朝賀すると、かん殊礼しゅれい(特別な礼)をもって寵遇ちょうぐうし、(呼韓邪こかんや単于ぜんうの)位を諸侯王しょこうおうの上位とし、献上品を奉じて謁見えっけんする際、名乗らずに「臣」と称することを許して、

  • 冠帯衣裳かんたいいしょうかんむりおびと衣服)
  • 黃金璽盭綬おうごんじれいじゅ[黄金の印璽いんじみどり色のじゅ組紐くみひも)]
  • 玉具剣ぎょくぐけんつばつかぎょくで飾った剣)
  • 佩刀はいとう(腰にびる刀)
  • 弓:1はり
  • 矢:4はつ(4本。一説に1はつを12とする)
  • 謐戟ひつげき:10本(行列の前方を行く者が持つ儀礼用のげき
  • 安車:1じょう
  • 鞍勒あんろく:1くらくつわ:1組)
  • 馬:15頭
  • 黃金:20きん
  • ぜに:20万せん
  • 衣被きぬかずき:77かさね(衣服:77着)
  • 錦鏽きんしゅう綺縠きこく雑帛ざっぱく:8千ひきにしき刺繍ししゅうほどこした織物・あや(模様)のある薄絹・色々なきぬ
  • じょ綿わた):6千きん

下賜かししました。


謁見えっけんの儀礼が終わると、(かんは)使者に先導させて単于ぜんう長平坂ちょうへいはんに宿泊させ、天子てんし宣帝せんてい)は甘泉宮かんせんきゅうから出て池陽宮ちようきゅうに宿泊します。

天子てんし宣帝せんてい)は長平坂ちょうへいはんに登ると、みことのりを下して単于ぜんう謁見えっけんを禁止し、その左当戸さとうと右当戸ゆうとうとの群臣にはみな列観(並んで観ること)を許しました。

蛮夷ばんい君長くんちょうおうこう・数万人がみな渭橋いきょうもとで道をはさんでむかえ、天子てんし宣帝せんてい)が渭橋いきょうに登ると、みな「万歳ばんざい」をとなえます。

単于ぜんう邸宅ていたくとどまること1ヶ月余りで国(匈奴きょうど)に帰りました。


その後、呼韓邪こかんや単于ぜんうは「みずか光禄塞こうろくさいの近辺にとどまり、危急の事態があれば受降城じゅこうじょうを保守したい」と(かんに)い願いました。

するとかんは、長楽衛尉ちょうらくえいい高昌侯こうしょうこう董忠とうちゅう車騎都尉しゃきとい韓昌かんしょうひきいる騎兵6千騎をつかわし、また、辺境の郡の士馬・数千(千数)を徴発して単于ぜんうを送り、朔方郡さくほうぐん鶏鹿塞けいろくさいまで進出します。

そこで[天子てんし宣帝せんてい)は]董忠とうちゅうらにみことのりを下して「(鶏鹿塞けいろくさいに)とどまって単于ぜんうを護衛し、(単于ぜんうを)助けて服従しない者を誅殺ちゅうさつするように」と命じ、また、前後3万4千こく穀米こくまいほしいいを辺境に輸送して、食糧の不足をし与えました。

郅支しつし単于ぜんうの参朝

この年、郅支しつし単于ぜんうもまた使者をつかわして貢物を献上し、かんはこれを非常に手厚くぐうしました。

翌年、呼韓邪こかんや単于ぜんう郅支しつし単于ぜんうの両単于ぜんうが共に使者をつかわして朝献*5しましたが、かん呼韓邪こかんや単于ぜんうの使者に対してより厚い待遇をしました。

翌年のかん黄龍こうりゅう元年(紀元前49年)、呼韓邪こかんや単于ぜんうが再び入朝すると、かんの待遇・下賜品は前回と同様で、

  • ころも:110かさね(前回:77かさね
  • 錦帛きんぱく:9千ひき(前回:8千ひき
  • じょ綿わた):8千きん(前回:6千きん

と、一部を加増して下賜かししましたが、すでに駐屯兵がいるため、また騎兵を出して送ることはしませんでした。

脚注

*5諸侯しょこうや外国の使いが来朝して、朝廷に貢物を奉じること。

郅支単于の拡大【前漢:宣帝】

郅支しつし単于ぜんう伊利目いりもく単于ぜんうを殺害する

郅支しつし単于ぜんうは「呼韓邪こかんや単于ぜんうかんくだったとしても、兵は弱く、再びみずから(匈奴きょうどの地に)かえることはできないだろう」と思い、すぐさま兵をひきいて西に向かい、右地を攻めて平定しようとします。

また、「(呼韓邪こかんや単于ぜんうに敗れて自害した)屠耆とき単于ぜんう」の末弟は、元は呼韓邪こかんや単于ぜんうつかえていましたが、彼もまた右地に逃亡し、2人の兄の残兵・数千人を得て、みずから立って伊利目いりもく単于ぜんうとなっていました。

そして、右地に向かった郅支しつし単于ぜんう伊利目いりもく単于ぜんうと合戦となってこれを殺害し、その兵・5万余人をあわせました。その後、「かんが兵と食糧を供出して呼韓邪こかんや単于ぜんうを援助している」ことを聞くと、郅支しつし単于ぜんうはそのまま右地にとどまります。

郅支しつし単于ぜんう烏孫国うそんこく*3を破る

郅支しつし単于ぜんうは)「自分の力では匈奴きょうどを平定することはできない」と考え、ますます西方の烏孫国うそんこく*3に接近し「共に力をあわせたい」と、小昆弥しょうこんび烏孫国うそんこく*3おう号)・烏就屠うしゅうとに使者を派遣しました。

烏就屠うしゅうとは「呼韓邪こかんや単于ぜんうかん擁立ようりつされ、郅支しつし単于ぜんうが逃亡者である」ことを見て取ると、「郅支しつし単于ぜんうを攻めてかんたたえられたい」と思い、郅支しつし単于ぜんうの使者を殺害してそのくび都護とご西域都護さいいきとご)に送ると、8千騎を発して郅支しつし単于ぜんうを迎えました。

郅支しつし単于ぜんう烏孫国うそんこく*3の兵が多く、また派遣した使者が帰って来ないのを見て、兵を整え烏孫国うそんこく*3を迎え撃ち、これを破りました。

郅支しつし単于ぜんう烏揭うけつ呼揭こけつ)・堅昆けんこん*6丁令ていれい*7併合へいごうする

郅支しつし単于ぜんうは)そのまま北方の部落国家・烏揭うけつ呼揭こけつ)を攻撃して烏揭うけつ呼揭こけつ)を降伏させ、その兵を発して西方の堅昆けんこん*6を破り、北方の丁令ていれい*7くだして、それらの3国を併合へいごう。その後もたびたび兵を派遣して烏孫国うそんこく*3を攻撃し、常にこれに勝利しました。

堅昆けんこん*6は東方の単于庭ぜんうていから7千里(約3,010km)、南方の車師国しゃしこくから5千里(約2,150km)の場所にあり、郅支しつし単于ぜんうはここにとどまってみやことしました。

脚注

*6北方異民族の1つ。中央ユーラシア北部に分布していたテュルク系遊牧民族。

*7北方異民族の1つ。丁零ていれい。モンゴル高原北部や南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。


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【後漢・三国時代の異民族】目次