前漢・元帝・成帝①時代の匈奴、呼韓邪単于・郅支骨都侯単于についてまとめています。
スポンサーリンク
匈奴・前漢時代⑪単于並立時代

匈奴(前漢時代)
単于並立時代【前漢:宣帝】
握衍朐鞮単于の即位
漢の神爵2年(紀元前60年)に虛閭権渠単于が病死すると、顓渠閼氏*1は弟の大且渠・都隆奇と謀って、虛閭権渠単于の子・稽侯狦ではなく、右賢王・屠耆堂を立てて握衍朐鞮単于とし、単于となる筈であった稽侯狦は、逃亡して妻の父・烏禪幕の元に身を寄せました。
その後、暴虐非道な握衍朐鞮単于の怒りを恐れた姑夕王らが稽侯狦を立てて呼韓邪単于とし、握衍朐鞮単于を攻撃して自害させると、
- 呼韓邪単于
- 屠耆単于
- 呼揭単于
- 車犁単于
- 烏藉単于
- 閏振単于
- 郅支骨都侯単于(郅支単于)
- 伊利目単于
と相継いで単于が立ちましたが、次第に淘汰され、呼韓邪単于と郅支単于の2人の単于が残ります。その結果、匈奴は困窮し、それぞれ漢に侍子*2を出して参朝しました。
脚注
*1単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
*2諸侯王や帰服した非漢人の王が「天子(皇帝)の側近くに侍らせる」という名目で漢の都に送った子息のこと。人質の一種。
関連記事
郅支単于が漢の使者を殺害する【前漢:元帝】
漢に元帝が即位した当初、呼韓邪単于はまた上書して(匈奴の)民衆の困窮を訴え、漢は雲中郡・五原郡の穀物2万斛を供給して応えました。
一方、郅支単于は、自分が(漢から)遠く離れており、また漢が呼韓邪単于を擁護していることを怨んで、使者を派遣して「侍子*2の返還を求める」上書をしました。
これに漢は、谷吉を遣わしてこれを送らせましたが、郅支単于は谷吉を殺害してしまいます。
当初、漢は谷吉が消息不明となった理由を知りませんでしたが、それについて尋ねてみると、匈奴の降伏者たちはみな「甌脱*3で(谷吉を)殺害したと聞きました」と言いました。
脚注
*2諸侯王や帰服した非漢人の王が「天子(皇帝)の側近くに侍らせる」という名目で漢の都に送った子息のこと。人質の一種。
*3匈奴が斥侯用に作った国境の土室。2つの国を隔てる緩衝地帯または中立地帯。
呼韓邪単于が漢と盟約を結ぶ【前漢:元帝】
その後、呼韓邪単于の使者がやって来ると、漢はすぐさま帳簿に照らして厳しく問責しました。
翌年、漢は車騎都尉・韓昌と光禄大夫・張猛を遣わして呼韓邪単于の侍子*2を送り返すと、谷吉らの消息を求めて問い、その罪を赦して、(呼韓邪単于が「漢が自分を討伐するのではないか」と)自ら疑うことがないように手を打ちます。
(匈奴を訪れた)韓昌と張猛は、呼韓邪単于の民衆が益々盛んとなって塞周辺の禽獣(鳥獣)は獲り尽くされ、その力は自衛するに足りて、郅支単于を畏れていないように見て取りました。
また「(匈奴の)大臣たちの多くが呼韓邪単于に北に帰るように勧めている」と聞いて、呼韓邪単于が北に帰った後では約束を結び難くなることを恐れ、韓昌と張猛は急いで盟約の話を切り出して言いました。
「今後、漢と匈奴は一家(家族)となり、代々、互いに詐き攻め合うことのないようにしよう。
窃盗をする者がいれば互いに報告して誅罰を行い、被害に遭った物を償い合おう。
(どちらかが)侵略を受けた場合は、兵を発して助け合おう。
漢と匈奴、敢えて先にこの盟約に背いた者は、天の不祥を受けるであろう。代々の子孫の悉く、この盟約を実行させよう」
韓昌と張猛は、呼韓邪単于及び大臣たちと共に匈奴の諾水の東山に登り、そこで白馬を刑すと、単于は径路刀で金を削り、削った金と酒を留犁(杓文字)でかき混ぜ、かつて老上単于が破った月氏国の王の頭蓋骨を飲器として共に飲み、血盟(互いに血を啜り合って固く誓うこと)しました。*4
韓昌と張猛が帰還してこれを奏上すると、公卿の議者たちは言いました。
「単于はすでに塞を保って漢の藩屏(守護者)となっておりますから、たとえ北方に去ろうとしたとしても、(漢に)危害を加えるはずはございません。
韓昌と張猛は、独断で漢国の代々の子孫と夷狄を詛盟(神に誓って盟約を結ぶこと)させ、単于に悪言をもって天に上告しました。これは国家を羞め威厳を傷つけるものです。(この盟約を)施行させてはいけません。
使者を遣わし(匈奴に)告げて天を祠り、共に盟約を解消するべきです。韓昌と張猛は、使者の役目を奉じて手柄も立てず、功績もありません。これは『不道の罪』に至ります」
ですが、天子(元帝)はその過ちを薄くし、詔を下して韓昌と張猛の罪を論じて贖わせることとし、(匈奴との)盟約は解かせませんでした。
その後、呼韓邪単于は北方の庭(単于庭)に帰り、民も次第に呼韓邪単于に帰服して、(匈奴の)国内はついに安定しました。
脚注
*4顏師古の『漢書注』が注に引く応劭曰く、
「径路は匈奴の宝刀なり。金は契金(削った金)なり。留犁は飯匕(杓文字)なり。撓は和なり。
宝刀の『径路』で削った金を酒の中に入れ、飯匕(杓文字)の『留犁』でかき混ぜ、血盟の酒とした。これは漢代に、漢と匈奴の間で盟約を結ぶ際に行われた一種の儀式である。
後に、漢族王朝とその他少数民族の統治者との間で和平条約が結ばれた際に『留犁撓酒』という言葉が使われるようになった」
郅支単于の死【前漢:元帝】
一方、郅支単于は「漢の使者(・谷吉)を殺害したことで自分が漢を裏切ったこと」を知っており、また呼韓邪単于が益々強くなったと聞いて襲擊されることを恐れ、遠くに去ろうと思っていました。
当時、康居王(康居国*5の王)は度々烏孫国*6に苦しめられていたため、翕侯たちと計ったところ、
「匈奴は大国で、元々烏孫国*6は匈奴に服属していたが、今、郅支単于が困窮して(匈奴の)国外にいるため、これを迎え入れて(烏孫国*6と接する康居国*5の)東辺に置き、兵を合わせて烏孫国*6を攻め取ってそこに郅支単于を立てたなら、長く匈奴の憂いはなくなるだろう」
という結論に至りました。
そこで康居王は、堅昆*7に使者を派遣し、堅昆*7を通じて郅支単于に取り次がせます。
すると、郅支単于は元々烏孫国*6を恐れ怨んでいたので、康居国*5の計を聞くと大いに喜んでついに互いに結び、兵を率いて西方に向かいました。そして康居国*5もまた貴人(貴族)を遣わし、槖駝(駱駝)・驢馬数千頭をもって郅支単于を迎えます。
ですが、郅支単于の軍勢は道中の寒さによって死亡し、康居国*5に辿り着いたのは3千人余りに過ぎませんでした。
漢の建昭3年(紀元前36年)、都護(西域都護)の甘延寿と西域副校尉の陳湯が、戊己校尉が管轄する西域諸国の兵を徴発し、漢兵・胡兵合わせて4万余人を率いて康居国*5に至り、郅支単于を誅滅しました。
脚注
*5中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。
*6漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*7北方異民族の1つ。中央ユーラシア北部に分布していたテュルク系遊牧民族。
【前漢:元帝】
漢に入朝する
郅支単于が誅殺された後、呼韓邪単于はこれを喜び懼れ、漢に上書して言いました。
「常に天子(元帝)に謁見したいと願っておりましたが、西方にいる郅支が烏孫国*6と共にやって来て臣を擊つことを恐れ、これまで漢に行くことができませんでした。今、郅支がすでに誅殺されましたので、願わくは入って朝見したいと存じます」
漢の竟寧元年(紀元前33年)、呼韓邪単于はまた入朝し、待遇・下賜品は初回と同様で、衣服・錦帛・絮(綿)はみな、漢の黄龍元年(紀元前49年)の時の2倍の量を賜りました。
そこで呼韓邪単于が自ら「漢氏の婿となり親善する」ことを申し出ると、元帝は後宮の良家の子・王牆、字は昭君(王昭君)という者を呼韓邪単于に下賜しました。
呼韓邪単于の提案
呼韓邪単于は歓喜し、また上書して、
「(臣が)上谷郡以西の敦煌郡に至るまでの塞を保って無窮(永遠)に伝えますので、辺境の塞を防備する官吏と兵卒を罷めさせ、天子(元帝)の民を休ませてください」
と願い出ました。
天子(元帝)がこれを有司(役人)に下げ渡して評議させたところ、議者はみな「好都合である」と言いましたが、辺境の事情に通じている郎中の侯応だけは「許してはならない」と言いました。
天子(元帝)がその理由を問うと、侯応は「戍卒(守備兵)を罷めさせてはならない10の理由」を挙げて、その問いに答えました。
侯応の返答・全文
タップ(クリック)すると開きます。
第1の理由
周・秦以来、匈奴は凶暴強悍で辺境に侵寇してきましたが、漢が興って以降、甚大な害を被ってきました。
臣は(匈奴について)次のように聞いております。
「北辺の塞は遼東郡に至り、外には陰山があって、東西千余里にわたって草木が茂盛し、禽獣(鳥獣)が多い。元々冒頓単于がその中を依り所とし、弓矢を作り外へ出て寇(侵略)をなし、これをその苑囿*8とした」
と。
孝武(武帝)の世に至ると、出師(出兵)征伐してこの地(匈奴の地)を奪い、幕北(砂漠の北)に追い払いました。その後、塞徼(辺境の塞)を建てて亭隧*9を起こし、外城を築いて屯戍*10を設けてこれを守ったため、辺境は少しだけ安らかになったのです。
幕北(砂漠の北)の地は、平坦で草木が少なく大沙(大砂漠)が多く、匈奴が来寇(来襲)した時に隠れる所が少ないですが、辺境の塞より南の径は山や谷が深く、往来に難があります。
また、辺境の長老は「匈奴は陰山を失ってから後、涙を流さずにそこを通り過ぎることはできなかった」と言っております。
もし、塞の防備にあたる戍卒(守備兵)を罷めさせてしまったならば、夷狄(異民族)に対して大きな利益を示すこととなります。これが(呼韓邪単于の要求を)許してはならない第1の理由です。
脚注
*8広大な範囲に禽獣(鳥獣)を放し飼いにした自然庭園。
*9敵を避けるために塞の地中深く掘って作った小道。
*10辺境を守るために兵を留まらせた陣営。
第2の理由
今、匈奴は広く天を覆うような(漢の)聖徳を被っているお陰で、充実した生活に恵まれておりますので、稽首(頭を地につける礼)して臣従しているのです。
そもそも夷狄(異民族)の情として、困窮すれば卑下して順い、強ければ驕慢に逆らいますが、これは(匈奴の)天性の性質です。
以前、外城を罷めて亭隧*9を省いたため、今はわずかに情況を候い望み烽火を通じることができるのみとなっております。
昔から『安きにいて危うきを忘れず』と申します。これが[戍卒(守備兵)を]罷めさせてはならない第2の理由です。
脚注
*9敵を避けるために塞の地中深く掘って作った小道。
第3の理由
中国には「礼義の教え」と「刑罰による誅」がありますが、それでもなお愚かな民は禁を犯しております。
ましてや単于やその衆(匈奴)が、必ず約定を犯さないでいられるでしょうかっ!これが第3の理由です。
第4の理由
中国がなお関梁(関所と橋)を建てて諸侯を制してきたのは、臣下の分不相応な望みを絶つためであります。
また、塞徼(辺境の塞)を設けて屯戍*10を置いているのは、ただ匈奴のためだけではなく、元は匈奴の民であった諸属国の降民たちが、旧を思って逃亡することを恐れているからでもあります。これが第4の理由です。
脚注
*10辺境を守るために兵を留まらせた陣営。
第5の理由
近頃は西羌が塞を保って漢人と交通しておりますが、(漢の)吏民が利益を貪り(匈奴の)畜産や妻子を侵し盗んできた怨恨から、代々絶えず背叛が起こってきました。
今、塞に登って守ることを罷めれば、欺き侮り分かれて争う漸をを生じさせることになります。これが第5の理由です。
第6の理由
これまで従軍した多くの兵士が戦死して還らなかったため、その子孫は貧困に陥って逃亡し、親戚の家に身を寄せました。これが第6の理由です。
第7の理由
また、辺境の人の奴婢は思いなやんで苦しみ、みな「匈奴の国内は安楽だと聞くが、国境の監視が厳しくて逃亡することができないっ!」と言いながら、それでも時には逃亡して塞の外に出る者がおります。これが第7の理由です。
第8の理由
盗賊たちは悪がしこく群れをなして法を犯しておりますが、もしその中に窮迫して北に逃亡する者がでれば、制することができません。これが第8の理由です。
第9の理由
(辺境に)塞を築いてから百有余年、そのすべてが土垣ではなく、或いは山の巌石や枯れ落ちた木柴、谿谷や水門を利用し、兵卒らがこれをやや平して築いたもので、その工事費用の莫大なこと計り知れません。
臣は、議題の終始を深慮しない議者*11らが願うように、繇戍(夫役の衛戍)を省いたならば、10年から100年のうちに、にわかに変事が起こり、(守備隊のいない)障塞や亭隧*9は破壊されてしまうでしょう。
そうなれば、改めて屯兵を発して修築しなければならず、もはや累世の功績を回復することは不可能です。これが第9の理由です。
脚注
*9敵を避けるために塞の地中深く掘って作った小道。
*11辺境の塞の防備を罷めさせることに賛成の者たち。
第10の理由
もし戍卒(守備兵)を罷めさせ候望(見張り)を省いてしまったならば、単于は自ら塞を保ち守護して、必ずや深く漢に恩を着せ、その請求はやむことがないでしょう。
小事によってその意を失するならその結果は測り知れず、夷狄(異民族)に乗ずる隙を開き、中国の固めを虧く(欠く)ことになります。これが第10の理由です。
ゆえに(辺境の塞を防備する兵卒を罷めさせることは)平和と安全を永く維持し、(漢の)威信によって百蛮を制する長期戦略とはなり得ません。
すると天子(元帝)は「辺塞(辺境の塞)の防備を罷めさせる議論をしてはならない」と詔を下し、車騎将軍に命じて呼韓邪単于に口頭で次のように諭させました。
「単于は上書して『北方の辺境の(漢の)吏士・屯戍*10を罷めさせ、(匈奴の)子孫が代々塞を防備すること』を願った。
単于が(漢の)礼儀を慕い、民のために甚だ厚い『長久の策』を計ったこと、朕(天子の一人称)はこれを甚だ嘉する(褒め称える)。
中国が四方に関梁障塞(関所・橋・塞)を有するのは、ただ塞の外に備えるためだけではなく、中国の放縦な姦邪(悪人)が塞外に出て寇害をなすことを防ぐためでもあり、ゆえに法度を明らかにし、衆心を第一とするのである。
敬んで朕は単于の意向を疑うものではない。単于が『屯戍*10を罷めさせない』ことを怪しむことを鑑み、大司馬車騎将軍・許嘉を遣わして、単于に(朕の真意を)曉らかにさせたのである」
単于は感謝して、
「愚かで大計を知らない我に、幸いにも天子は大臣を遣わし告げ語ってくださいました。身に余る光栄でございますっ!」
と答えました。
脚注
*6漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*10辺境を守るために兵を留まらせた陣営。
左伊秩訾王が漢に降る【前漢:元帝】
左伊秩訾王が漢に降る
これまで左伊秩訾王は呼韓邪単于のために計って漢に帰服させ、ついに(匈奴を)安定させることができました。
ですがその後、「左伊秩訾王は自らその功を伐っている」と讒言する者があり、左伊秩訾王は常に鞅々として心楽しまず、呼韓邪単于もまた彼を疑うようになってしまいます。
そしてついに左伊秩訾王は誅殺されることを懼れ、その衆・千余人を率いて漢に降り、漢は左伊秩訾王を関内侯に封じて食邑300戸を与え、その王(匈奴の王)の印綬を佩びさせました。
左伊秩訾王との再会
竟寧元年(紀元前33年)、呼韓邪単于が来朝して左伊秩訾王と相見えると、呼韓邪単于は左伊秩訾王に謝罪して言いました。
「王(左伊秩訾王)が我のために計っていただいたことは甚だ厚く、匈奴を今日の安寧に至らしめたのは王の力です。どうしてその徳を忘れることができましょうかっ!
我は王を誤解し、留めることなく去らせてしまったのは、みな我の過ちでした。今、天子(元帝)に『王を単于庭に帰す』よう願おうと思っております」
すると左伊秩訾王は、
「単于は天命によって自ら漢に帰服されたのですから、(匈奴が今日の)安寧を得ることができたのは、単于の神霊(霊妙な徳)と天子(元帝)の祐(助け)によるものであり、我の力を得たことによるものではありませんっ!
(我は)すでに漢に降った者、また匈奴に復帰すれば、これは両心となります。単于のため、漢に侍り仕えたいと願っておりますので、あえて(『匈奴に復帰せよ』という)命令を聴くことはできません」
と答え、単于は再三強く請い願いましたが、良い返事を得られないまま匈奴に還りました。
呼韓邪単于の死【前漢:成帝】
王昭君は寧胡閼氏*1と号し、1人の男子・伊屠智牙師を生み、右日逐王となっていました。
呼韓邪単于は左伊秩訾王の兄・呼衍王の女2人を寵愛し、長女の顓渠閼氏*1は且莫車と囊知牙斯の2人の男子を生み、少女は大閼氏となって4人の男子を生み、長子の雕陶莫皋と次子の且麋胥は且莫車より年長で、弟の咸と楽の2人は囊知牙斯より年少でした。また、他の閼氏*1にも10余人の子がありました。
呼韓邪単于は閼氏*1の中でも顓渠閼氏*1を貴び、その長子の且莫車を愛していたので、病となり死に臨んで且莫車を(世継ぎに)立てようとします。
すると顓渠閼氏*1は、
「匈奴は10余年にわたって乱れ、髪の毛のように細々と命脈を保ってきましたが、漢の力を頼って再び安らかになることができました。
今はまだ国内は安定して間がなく、民は戦闘に懲り恐れております。また、且莫車は年少で百姓はまだ懐いておらず、再び国が危うくなることを恐れます。
我と大閼氏は家族であり、その子は我が子同然です。(大閼氏の長子の)雕陶莫皋を立てた方がよろしいかと存じます」
と言い、大閼氏は、
「且莫車は年少と雖も、大臣たちが共同して国事を保持しますので問題ありません。今、貴を捨てて賎を立てれば、後世、必ず乱れるに違いありません」
と言いました。
結局、呼韓邪単于は顓渠閼氏*1の言葉に従って(大閼氏の長子の)雕陶莫皋を立て、その後は国を弟(の且麋胥)に伝えるように約束させます。
漢の建始2年(紀元前31年)、呼韓邪単于は立って28年で亡くなりました。
呼韓邪単于が亡くなると、雕陶莫皋が立って復株絫若鞮単于となりました。
脚注
*1単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
スポンサーリンク
【後漢・三国時代の異民族】目次