前漢(ぜんかん)・元帝(げんてい)・成帝(せいてい)①時代の匈奴(きょうど)、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)・郅支骨都侯(しつしこつとこう)単于(ぜんう)についてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑪単于並立時代

匈奴(前漢時代)

匈奴(きょうど)(前漢(ぜんかん)時代)

単于並立時代【前漢:宣帝】

握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)の即位

漢(かん)の神爵(しんしゃく)2年(紀元前60年)に虛閭権渠(きょろけんきょ)単于(ぜんう)が病死すると、顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*1は弟の大且渠(だいしょきょ)・都隆奇(とりゅうき)と謀(はか)って、虛閭権渠(きょろけんきょ)単于(ぜんう)の子・稽侯狦(けいこうさん)ではなく、右賢王(ゆうけんおう)・屠耆堂(ときどう)を立てて握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)とし、単于(ぜんう)となる筈(はず)であった稽侯狦(けいこうさん)は、逃亡して妻の父・烏禪幕(うせんばく)の元に身を寄せました。

その後、暴虐非道な握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)の怒りを恐れた姑夕王(こせきおう)らが稽侯狦(けいこうさん)を立てて呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)とし、握衍朐鞮(あくえんくてい)単于(ぜんう)を攻撃して自害させると、

  • 呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)
  • 屠耆(とき)単于(ぜんう)
  • 呼揭(こけつ)単于(ぜんう)
  • 車犁(しゃり)単于(ぜんう)
  • 烏藉(うせき)単于(ぜんう)
  • 閏振(じゅんしん)単于(ぜんう)
  • 郅支骨都侯(しつしこつとこう)単于(郅支(しつし)単于(ぜんう))
  • 伊利目(いりもく)単于(ぜんう)

と相継(あいつ)いで単于(ぜんう)が立ちましたが、次第に淘汰(とうた)され、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)と郅支(しつし)単于(ぜんう)の2人の単于(ぜんう)が残ります。その結果、匈奴(きょうど)は困窮(こんきゅう)し、それぞれ漢(かん)に侍子(じし)*2を出して参朝しました。

脚注

*1単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*2諸侯王(しょこうおう)や帰服した非漢人の王(おう)が「天子(てんし)(皇帝)の側近(そばちか)くに侍(はべ)らせる」という名目で漢(かん)の都(みやこ)に送った子息のこと。人質の一種。

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郅支単于が漢の使者を殺害する【前漢:元帝】

漢(かん)に元帝(げんてい)が即位した当初、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)はまた上書して(匈奴(きょうど)の)民衆の困窮(こんきゅう)を訴(うった)え、漢(かん)は雲中郡(うんちゅうぐん)・五原郡(ごげんぐん)の穀物(こくもつ)2万斛(こく)を供給して応(こた)えました。


一方、郅支(しつし)単于(ぜんう)は、自分が(漢(かん)から)遠く離れており、また漢(かん)が呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)を擁護(ようご)していることを怨(うら)んで、使者を派遣して「侍子(じし)*2の返還を求める」上書をしました。

これに漢(かん)は、谷吉(こくきつ)を遣(つか)わしてこれを送らせましたが、郅支(しつし)単于(ぜんう)は谷吉(こくきつ)を殺害してしまいます。

当初、漢(かん)は谷吉(こくきつ)が消息不明となった理由を知りませんでしたが、それについて尋(たず)ねてみると、匈奴(きょうど)の降伏者たちはみな「甌脱(おうだつ)*3で(谷吉(こくきつ)を)殺害したと聞きました」と言いました。

脚注

*2諸侯王(しょこうおう)や帰服した非漢人の王(おう)が「天子(てんし)(皇帝)の側近(そばちか)くに侍(はべ)らせる」という名目で漢(かん)の都(みやこ)に送った子息のこと。人質の一種。

*3匈奴(きょうど)が斥侯(せっこう)用に作った国境の土室。2つの国を隔(へだ)てる緩衝(かんしょう)地帯または中立地帯。

呼韓邪単于が漢と盟約を結ぶ【前漢:元帝】

その後、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の使者がやって来ると、漢(かん)はすぐさま帳簿(ちょうぼ)に照らして厳しく問責(もんせき)しました。

翌年、漢(かん)は車騎都尉(しゃきとい)・韓昌(かんしょう)と光禄大夫(こうろくたいふ)・張猛(ちょうもう)を遣(つか)わして呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の侍子(じし)*2を送り返すと、谷吉(こくきつ)らの消息を求めて問(と)い、その罪を赦(ゆる)して、(呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が「漢(かん)が自分を討伐するのではないか」と)自(みずか)ら疑うことがないように手を打ちます。


(匈奴(きょうど)を訪(おとず)れた)韓昌(かんしょう)と張猛(ちょうもう)は、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の民衆が益(ます)々(ます)盛(さか)んとなって塞(とりで)周辺の禽獣(きんじゅう)(鳥獣)は獲(と)り尽くされ、その力は自衛するに足(た)りて、郅支(しつし)単于(ぜんう)を畏(おそ)れていないように見て取りました。

また「(匈奴(きょうど)の)大臣たちの多くが呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に北に帰るように勧めている」と聞いて、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が北に帰った後では約束を結び難(がた)くなることを恐れ、韓昌(かんしょう)と張猛(ちょうもう)は急いで盟約の話を切り出して言いました。


「今後、漢(かん)と匈奴(きょうど)は一家(家族)となり、代々、互いに詐(あざむ)き攻め合うことのないようにしよう。

窃盗(せっとう)をする者がいれば互いに報告して誅罰(ちゅうばつ)を行い、被害に遭(あ)った物を償(つぐな)い合おう。

(どちらかが)侵略を受けた場合は、兵を発して助け合おう。

漢(かん)と匈奴(きょうど)、敢(あ)えて先にこの盟約に背(そむ)いた者は、天の不祥(わざわい)を受けるであろう。代々の子孫の悉(ことごと)く、この盟約を実行させよう」


韓昌(かんしょう)と張猛(ちょうもう)は、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)及び大臣たちと共に匈奴(きょうど)の諾水(だくすい)の東山(とうざん)に登り、そこで白馬を刑(ころ)すと、単于(ぜんう)は径路刀(けいろとう)で金を削(けず)り、削(けず)った金と酒を留犁(りゅうり)(杓文字(しゃもじ))でかき混(ま)ぜ、かつて老上(ろうじょう)単于(ぜんう)が破った月氏国(げっしこく)の王(おう)の頭蓋骨(ずがいこつ)を飲器(さかずき)として共に飲み、血盟(互いに血を啜(すす)り合って固く誓うこと)しました。*4


韓昌(かんしょう)と張猛(ちょうもう)が帰還してこれを奏上すると、公卿(こうけい)の議者たちは言いました。


「単于(ぜんう)はすでに塞(とりで)を保(たも)って漢(かん)の藩屏(はんぺい)(守護者)となっておりますから、たとえ北方に去ろうとしたとしても、(漢(かん)に)危害を加えるはずはございません。

韓昌(かんしょう)と張猛(ちょうもう)は、独断で漢国(かんこく)の代々の子孫と夷狄(いてき)を詛盟(そめい)(神に誓って盟約を結ぶこと)させ、単于(ぜんう)に悪言をもって天に上告しました。これは国家を羞(はずかし)め威厳を傷つけるものです。(この盟約を)施行させてはいけません。

使者を遣(つか)わし(匈奴(きょうど)に)告げて天を祠(まつ)り、共に盟約を解消するべきです。韓昌(かんしょう)と張猛(ちょうもう)は、使者の役目を奉じて手柄も立てず、功績もありません。これは『不道の罪』に至ります」


ですが、天子(てんし)(元帝(げんてい))はその過(あやま)ちを薄(かる)くし、詔(みことのり)を下して韓昌(かんしょう)と張猛(ちょうもう)の罪を論じて贖(あがな)わせることとし、(匈奴(きょうど)との)盟約は解(と)かせませんでした。

その後、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は北方の庭(てい)(単于庭(ぜんうてい))に帰り、民も次第に呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に帰服して、(匈奴(きょうど)の)国内はついに安定しました。

脚注

*4顏師古(がんしこ)の『漢書注(かんじょちゅう)』が注に引く応劭(おうしょう)曰(いわ)く、
「径路(けいろ)は匈奴(きょうど)の宝刀なり。金は契金(削(けず)った金)なり。留犁(りゅうり)は飯匕(はんび)(杓文字(しゃもじ))なり。撓(どう)は和(わ)なり。
宝刀の『径路(けいろ)』で削(けず)った金を酒の中に入れ、飯匕(はんび)(杓文字(しゃもじ))の『留犁(りゅうり)』でかき混ぜ、血盟の酒とした。これは漢(かん)代に、漢(かん)と匈奴(きょうど)の間で盟約を結ぶ際に行われた一種の儀式である。
後(のち)に、漢族(かんぞく)王朝とその他少数民族の統治者との間で和平条約が結ばれた際に『留犁撓酒(りゅうりどうしゅ)』という言葉が使われるようになった」

郅支単于の死【前漢:元帝】

一方、郅支(しつし)単于(ぜんう)は「漢(かん)の使者(・谷吉(こくきつ))を殺害したことで自分が漢(かん)を裏切ったこと」を知っており、また呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が益(ます)々(ます)強くなったと聞いて襲擊されることを恐れ、遠くに去ろうと思っていました。


当時、康居王(こうきょおう)(康居国(こうきょこく)*5の王(おう))は度(たび)々(たび)烏孫国(うそんこく)*6に苦しめられていたため、翕侯(きゅうこう)たちと計(はか)ったところ、

「匈奴(きょうど)は大国で、元々烏孫国(うそんこく)*6は匈奴(きょうど)に服属していたが、今、郅支(しつし)単于(ぜんう)が困窮(こんきゅう)して(匈奴(きょうど)の)国外にいるため、これを迎え入れて(烏孫国(うそんこく)*6と接する康居国(こうきょこく)*5の)東辺に置き、兵を合わせて烏孫国(うそんこく)*6を攻め取ってそこに郅支(しつし)単于(ぜんう)を立てたなら、長く匈奴(きょうど)の憂(うれ)いはなくなるだろう」

という結論に至りました。

そこで康居王(こうきょおう)は、堅昆(けんこん)*7に使者を派遣し、堅昆(けんこん)*7を通じて郅支(しつし)単于(ぜんう)に取り次がせます。


すると、郅支(しつし)単于(ぜんう)は元々烏孫国(うそんこく)*6を恐れ怨(うら)んでいたので、康居国(こうきょこく)*5の計(はかりごと)を聞くと大いに喜んでついに互いに結び、兵を率(ひき )いて西方に向かいました。そして康居国(こうきょこく)*5もまた貴人(貴族)を遣(つか)わし、槖駝(たくだ)(駱駝(らくだ))・驢馬(ろば)数千頭をもって郅支(しつし)単于(ぜんう)を迎えます。

ですが、郅支(しつし)単于(ぜんう)の軍勢は道中の寒さによって死亡し、康居国(こうきょこく)*5に辿(たど)り着いたのは3千人余りに過ぎませんでした。


漢(かん)の建昭(けんしょう)3年(紀元前36年)、都護(とご)(西域都護(さいいきとご))の甘延寿(かんえんじゅ)と西域副校尉(さいいきふくこうい)の陳湯(ちんとう)が、戊己校尉(ぼきこうい)が管轄する西域(さいいき)諸国の兵を徴発し、漢兵(かんぺい)・胡兵(こへい)合わせて4万余人を率(ひき)いて康居国(こうきょこく)*5に至り、郅支(しつし)単于(ぜんう)を誅滅(ちゅうめつ)しました。

脚注

*5中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

*6漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

*7北方異民族の1つ。中央ユーラシア北部に分布していたテュルク系遊牧民族。

【前漢:元帝】

漢(かん)に入朝する

郅支(しつし)単于(ぜんう)が誅殺(ちゅうさつ)された後、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)はこれを喜(よろこ)び懼(おそ)れ、漢(かん)に上書して言いました。

「常に天子(てんし)(元帝(げんてい))に謁見したいと願っておりましたが、西方にいる郅支(しつし)が烏孫国(うそんこく)*6と共にやって来て臣(わたくし)を擊(う)つことを恐れ、これまで漢(かん)に行くことができませんでした。今、郅支(しつし)がすでに誅殺(ちゅうさつ)されましたので、願わくは入って朝見したいと存じます」


漢(かん)の竟寧(しょうねい)元年(紀元前33年)、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)はまた入朝し、待遇・下賜品は初回と同様で、衣服・錦帛(きんぱく)・絮(じょ)(綿(わた))はみな、漢(かん)の黄龍(こうりゅう)元年(紀元前49年)の時の2倍の量を賜(たまわ)りました。

そこで呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が自(みずか)ら「漢氏(かんし)の婿(むこ)となり親善する」ことを申し出ると、元帝(げんてい)は後宮の良家の子・王牆(おうしょう)、字(あざな)は昭君(しょうくん)(王昭君(おうしょうくん))という者を呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に下賜(かし)しました。

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の提案

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は歓喜し、また上書して、

「(臣(わたくし)が)上谷郡(じょうこくぐん)以西の敦煌郡(とんこうぐん)に至るまでの塞(とりで)を保(たも)って無窮(むきゅう)(永遠)に伝えますので、辺境の塞(とりで)を防備する官吏と兵卒を罷(や)めさせ、天子(てんし)(元帝(げんてい))の民を休ませてください」

と願い出ました。

天子(てんし)(元帝(げんてい))がこれを有司(ゆうし)(役人)に下げ渡して評議させたところ、議者はみな「好都合である」と言いましたが、辺境の事情に通じている郎中(ろうちゅう)の侯応(こうおう)だけは「許してはならない」と言いました。

天子(てんし)(元帝(げんてい))がその理由を問(と)うと、侯応(こうおう)は「戍卒(じゅそつ)(守備兵)を罷(や)めさせてはならない10の理由」を挙(あ)げて、その問(と)いに答えました。

侯応の返答・全文
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第1の理由

周(しゅう)・秦(しん)以来、匈奴(きょうど)は凶暴強悍(きょうぼうきょうかん)で辺境に侵寇(しんこう)してきましたが、漢(かん)が興(おこ)って以降、甚大(じんだい)な害を被(こうむ)ってきました。

臣(わたくし)は(匈奴(きょうど)について)次のように聞いております。

「北辺の塞(とりで)は遼東郡(りょうとうぐん)に至り、外には陰山(いんざん)があって、東西千余里にわたって草木が茂盛(もせい)し、禽獣(きんじゅう)(鳥獣)が多い。元々冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)がその中を依(よ)り所とし、弓矢を作り外へ出て寇(あだ)(侵略)をなし、これをその苑囿(えんゆう)*8とした」

と。

孝武(こうぶ)(武帝(ぶてい))の世(よ)に至ると、出師(すいし)(出兵)征伐してこの地(匈奴(きょうど)の地)を奪い、幕北(砂漠の北)に追い払いました。その後、塞徼(さいきょう)(辺境の塞(とりで))を建てて亭隧(ていすい)*9を起こし、外城を築いて屯戍(とんじゅ)*10を設(もう)けてこれを守ったため、辺境は少しだけ安らかになったのです。

幕北(砂漠の北)の地は、平坦で草木が少なく大沙(大砂漠)が多く、匈奴(きょうど)が来寇(らいこう)(来襲)した時に隠れる所が少ないですが、辺境の塞(とりで)より南の径(みち)は山や谷が深く、往来に難があります。

また、辺境の長老は「匈奴(きょうど)は陰山(いんざん)を失ってから後(のち)、涙を流さずにそこを通り過ぎることはできなかった」と言っております。

もし、塞(とりで)の防備にあたる戍卒(じゅそつ)(守備兵)を罷(や)めさせてしまったならば、夷狄(いてき)(異民族)に対して大きな利益を示すこととなります。これが(呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)の要求を)許してはならない第1の理由です。

脚注

*8広大な範囲に禽獣(きんじゅう)(鳥獣)を放し飼いにした自然庭園。

*9敵を避(さ)けるために塞(とりで)の地中深く掘って作った小道。

*10辺境を守るために兵を留(とど)まらせた陣営。


第2の理由

今、匈奴(きょうど)は広く天を覆(おお)うような(漢(かん)の)聖徳を被(こうむ)っているお陰で、充実した生活に恵まれておりますので、稽首(けいしゅ)(頭を地につける礼)して臣従しているのです。

そもそも夷狄(いてき)(異民族)の情として、困窮(こんきゅう)すれば卑下(ひげ)して順(したが)い、強ければ驕慢(きょうまん)に逆らいますが、これは(匈奴(きょうど)の)天性の性質です。

以前、外城を罷(や)めて亭隧(ていすい)*9を省(はぶ)いたため、今はわずかに情況を候(うかが)い望み烽火(のろし)を通じることができるのみとなっております。

昔から『安(やす)きにいて危(あや)うきを忘れず』と申します。これが[戍卒(じゅそつ)(守備兵)を]罷(や)めさせてはならない第2の理由です。

脚注

*9敵を避(さ)けるために塞(とりで)の地中深く掘って作った小道。


第3の理由

中国には「礼義の教え」と「刑罰による誅(ちゅう)」がありますが、それでもなお愚(おろ)かな民は禁を犯(おか)しております。

ましてや単于(ぜんう)やその衆(匈奴(きょうど))が、必ず約定を犯(おか)さないでいられるでしょうかっ!これが第3の理由です。


第4の理由

中国がなお関梁(かんりょう)(関所と橋)を建てて諸侯(しょこう)を制してきたのは、臣下の分不相応な望みを絶(た)つためであります。

また、塞徼(さいきょう)(辺境の塞(とりで))を設(もう)けて屯戍(とんじゅ)*10を置いているのは、ただ匈奴(きょうど)のためだけではなく、元は匈奴(きょうど)の民であった諸属国の降民たちが、旧(むかし)を思って逃亡することを恐れているからでもあります。これが第4の理由です。

脚注

*10辺境を守るために兵を留(とど)まらせた陣営。


第5の理由

近頃は西羌(せいきょう)が塞(とりで)を保(たも)って漢人(かんじん)と交通しておりますが、(漢(かん)の)吏民が利益を貪(むさぼ)り(匈奴(きょうど)の)畜産や妻子を侵(おか)し盗んできた怨恨(えんこん)から、代々絶(た)えず背叛が起こってきました。

今、塞(とりで)に登って守ることを罷(や)めれば、欺(あざむ)き侮(あなど)り分かれて争う漸(きざし)をを生じさせることになります。これが第5の理由です。


第6の理由

これまで従軍した多くの兵士が戦死して還(かえ)らなかったため、その子孫は貧困に陥(おちい)って逃亡し、親戚の家に身を寄せました。これが第6の理由です。


第7の理由

また、辺境の人の奴婢(どひ)は思いなやんで苦しみ、みな「匈奴(きょうど)の国内は安楽だと聞くが、国境の監視が厳しくて逃亡することができないっ!」と言いながら、それでも時には逃亡して塞(とりで)の外に出る者がおります。これが第7の理由です。


第8の理由

盗賊たちは悪がしこく群れをなして法を犯しておりますが、もしその中に窮迫(きゅうはく)して北に逃亡する者がでれば、制することができません。これが第8の理由です。


第9の理由

(辺境に)塞(とりで)を築いてから百有余年、そのすべてが土垣(どえん)ではなく、或(ある)いは山の巌石(がんせき)や枯(か)れ落ちた木柴、谿谷(けいこく)や水門を利用し、兵卒らがこれをやや平(なら)して築いたもので、その工事費用の莫大なこと計(はか)り知れません。

臣(わたくし)は、議題の終始を深慮しない議者*11らが願うように、繇戍(ようじゅ)(夫役(ぶやく)の衛戍(まもり))を省(はぶ)いたならば、10年から100年のうちに、にわかに変事が起こり、(守備隊のいない)障塞(しょうさい)や亭隧(ていすい)*9は破壊されてしまうでしょう。

そうなれば、改めて屯兵を発して修築しなければならず、もはや累世の功績を回復することは不可能です。これが第9の理由です。

脚注

*9敵を避(さ)けるために塞(とりで)の地中深く掘って作った小道。

*11辺境の塞(とりで)の防備を罷(や)めさせることに賛成の者たち。


第10の理由

もし戍卒(じゅそつ)(守備兵)を罷(や)めさせ候望(こうぼう)(見張り)を省(はぶ)いてしまったならば、単于(ぜんう)は自(みずか)ら塞(とりで)を保(たも)ち守護して、必ずや深く漢(かん)に恩を着せ、その請求はやむことがないでしょう。

小事によってその意(おもわく)を失するならその結果は測(はか)り知れず、夷狄(いてき)(異民族)に乗ずる隙を開き、中国の固(かた)めを虧(か)く(欠く)ことになります。これが第10の理由です。


ゆえに(辺境の塞(とりで)を防備する兵卒を罷(や)めさせることは)平和と安全を永(なが)く維持し、(漢(かん)の)威信によって百蛮を制する長期戦略とはなり得ません。


すると天子(てんし)(元帝(げんてい))は「辺塞(へんさい)(辺境の塞(とりで))の防備を罷(や)めさせる議論をしてはならない」と詔(みことのり)を下し、車騎将軍(しゃきしょうぐん)に命じて呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)に口頭で次のように諭(さと)させました。


「単于(ぜんう)は上書して『北方の辺境の(漢(かん)の)吏士・屯戍(とんじゅ)*10を罷(や)めさせ、(匈奴(きょうど)の)子孫が代々塞(とりで)を防備すること』を願った。

単于(ぜんう)が(漢(かん)の)礼儀を慕(した)い、民のために甚(はなは)だ厚い『長久の策』を計(はか)ったこと、朕(ちん)(天子(てんし)の一人称)はこれを甚(はなは)だ嘉(よみ)する(褒(ほ)め称(たた)える)。

中国が四方に関梁(かんりょう)障塞(しょうさい)(関所・橋・塞(とりで))を有するのは、ただ塞(とりで)の外に備(そな)えるためだけではなく、中国の放縦な姦邪(かんじゃ)(悪人)が塞外(さいがい)に出て寇害(こうがい)をなすことを防ぐためでもあり、ゆえに法度(はっと)を明らかにし、衆心を第一とするのである。

敬(つつし)んで朕(ちん)は単于(ぜんう)の意向を疑うものではない。単于(ぜんう)が『屯戍(とんじゅ)*10を罷(や)めさせない』ことを怪(あや)しむことを鑑(かんが)み、大司馬(だいしば)車騎将軍(しゃきしょうぐん)・許嘉(きょか)を遣(つか)わして、単于(ぜんう)に(朕(ちん)の真意を)曉(あき)らかにさせたのである」


単于(ぜんう)は感謝して、

「愚(おろ)かで大計を知らない我(わたくし)に、幸(さいわ)いにも天子(てんし)は大臣を遣(つか)わし告げ語ってくださいました。身に余る光栄でございますっ!」

と答えました。

脚注

*6漢(かん)代の西域(さいいき)最大の国。新疆(しんきょう)・温宿(おんじゅく)以北、伊黎(いれい)以南の地。その民は青眼赤須(せきしゅ)(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏(だいげっし)と共に敦煌(とんこう)・祁連(きれん)の間にいたが、後(のち)に大月氏(だいげっし)を破って烏孫国(うそんこく)を建国し、漢(かん)と和親した。

*10辺境を守るために兵を留(とど)まらせた陣営。

左伊秩訾王が漢に降る【前漢:元帝】

左伊秩訾王(さいちつしおう)が漢(かん)に降(くだ)る

これまで左伊秩訾王(さいちつしおう)は呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)のために計(はか)って漢(かん)に帰服させ、ついに(匈奴(きょうど)を)安定させることができました。

ですがその後、「左伊秩訾王(さいちつしおう)は自(みずか)らその功を伐(ほこ)っている」と讒言(ざんげん)する者があり、左伊秩訾王(さいちつしおう)は常に鞅々(おうおう)として心楽しまず、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)もまた彼を疑うようになってしまいます。

そしてついに左伊秩訾王(さいちつしおう)は誅殺(ちゅうさつ)されることを懼(おそ)れ、その衆・千余人を率(ひき)いて漢(かん)に降(くだ)り、漢(かん)は左伊秩訾王(さいちつしおう)を関内侯(かんだいこう)に封じて食邑(しょくゆう)300戸を与え、その王(おう)(匈奴(きょうど)の王(おう))の印綬(いんじゅ)を佩(お)びさせました。

左伊秩訾王(さいちつしおう)との再会

竟寧(きょうねい)元年(紀元前33年)、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が来朝して左伊秩訾王(さいちつしおう)と相(あい)見(まみ)えると、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は左伊秩訾王(さいちつしおう)に謝罪して言いました。


「王(おう)(左伊秩訾王(さいちつしおう))が我(わたくし)のために計(はか)っていただいたことは甚(はなは)だ厚く、匈奴(きょうど)を今日の安寧(あんねい)に至らしめたのは王(おう)の力です。どうしてその徳を忘れることができましょうかっ!

我(わたし)は王(おう)を誤解し、留(とど)めることなく去らせてしまったのは、みな我(わたくし)の過(あやま)ちでした。今、天子(てんし)(元帝(げんてい))に『王(おう)を単于庭(ぜんうてい)に帰す』よう願おうと思っております」


すると左伊秩訾王(さいちつしおう)は、


「単于(ぜんう)は天命によって自(みずか)ら漢(かん)に帰服されたのですから、(匈奴(きょうど)が今日の)安寧(あんねい)を得ることができたのは、単于(ぜんう)の神霊(霊妙な徳)と天子(てんし)(元帝(げんてい))の祐(ゆう)(助け)によるものであり、我(わたくし)の力を得たことによるものではありませんっ!

(我(わたくし)は)すでに漢(かん)に降(くだ)った者、また匈奴(きょうど)に復帰すれば、これは両心(ふたごころ)となります。単于(ぜんう)のため、漢(かん)に侍(はべ)り仕えたいと願っておりますので、あえて(『匈奴(きょうど)に復帰せよ』という)命令を聴(き)くことはできません」


と答え、単于(ぜんう)は再三強く請(こ)い願いましたが、良い返事を得られないまま匈奴(きょうど)に還りました。

呼韓邪単于の死【前漢:成帝】

王昭君(おうしょうくん)は寧胡(ねいこ)閼氏(あつし)*1と号し、1人の男子・伊屠智牙師(いとしがち)を生み、右日逐王(ゆうにっちくおう)となっていました。


呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は左伊秩訾王(さいちつしおう)の兄・呼衍王(こえんおう)の女(むすめ)2人を寵愛(ちょうあい)し、長女の顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*1は且莫車(しょばくしゃ)と囊知牙斯(のうちがし)の2人の男子を生み、少女(いもうと)は大閼氏(だいあつし)となって4人の男子を生み、長子の雕陶莫皋(ちょうとうばくこう)と次子の且麋胥(しょびしょ)は且莫車(しょばくしゃ)より年長で、弟の咸(かん)と楽(がく)の2人は囊知牙斯(のうちがし)より年少でした。また、他の閼氏(あつし)*1にも10余人の子がありました。

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は閼氏(あつし)*1の中でも顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*1を貴(とうと)び、その長子の且莫車(しょばくしゃ)を愛していたので、病(やまい)となり死に臨(のぞ)んで且莫車(しょばくしゃ)を(世継ぎに)立てようとします。

すると顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*1は、


「匈奴(きょうど)は10余年にわたって乱れ、髪の毛のように細々と命脈を保(たも)ってきましたが、漢(かん)の力を頼って再び安らかになることができました。

今はまだ国内は安定して間がなく、民は戦闘に懲(こ)り恐れております。また、且莫車(しょばくしゃ)は年少で百姓(たみ)はまだ懐(なつ)いておらず、再び国が危(あや)うくなることを恐れます。

我(わたくし)と大閼氏(だいあつし)は家族であり、その子は我が子同然です。(大閼氏(だいあつし)の長子の)雕陶莫皋(ちょうとうばくこう)を立てた方がよろしいかと存じます」


と言い、大閼氏(だいあつし)は、


「且莫車(しょばくしゃ)は年少と雖(いえど)も、大臣たちが共同して国事を保持しますので問題ありません。今、貴(き)を捨てて賎(せん)を立てれば、後世、必ず乱れるに違いありません」


と言いました。

結局、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は顓渠(せんきょ)閼氏(あつし)*1の言葉に従って(大閼氏(だいあつし)の長子の)雕陶莫皋(ちょうとうばくこう)を立て、その後(のち)は国を弟(の且麋胥(しょびしょ))に伝えるように約束させます。


漢(かん)の建始(けんし)2年(紀元前31年)、呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)は立って28年で亡くなりました。

呼韓邪(こかんや)単于(ぜんう)が亡くなると、雕陶莫皋(ちょうとうばくこう)が立って復株絫若鞮(ふくしゅるいじゃくてい)単于(ぜんう)となりました。

脚注

*1単于(ぜんう)の后妃(こうひ)の称号。匈奴(きょうど)部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。


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