前漢ぜんかん元帝げんてい成帝せいてい①時代の匈奴きょうど呼韓邪こかんや単于ぜんう郅支骨都侯しつしこつとこう単于ぜんうについてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑪単于並立時代

匈奴(前漢時代)

匈奴きょうど前漢ぜんかん時代)

単于並立時代【前漢:宣帝】

握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうの即位

かん神爵しんしゃく2年(紀元前60年)に虛閭権渠きょろけんきょ単于ぜんうが病死すると、顓渠せんきょ閼氏あつし*1は弟の大且渠だいしょきょ都隆奇とりゅうきはかって、虛閭権渠きょろけんきょ単于ぜんうの子・稽侯狦けいこうさんではなく、右賢王ゆうけんおう屠耆堂ときどうを立てて握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうとし、単于ぜんうとなるはずであった稽侯狦けいこうさんは、逃亡して妻の父・烏禪幕うせんばくの元に身を寄せました。

その後、暴虐非道な握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうの怒りを恐れた姑夕王こせきおうらが稽侯狦けいこうさんを立てて呼韓邪こかんや単于ぜんうとし、握衍朐鞮あくえんくてい単于ぜんうを攻撃して自害させると、

  • 呼韓邪こかんや単于ぜんう
  • 屠耆とき単于ぜんう
  • 呼揭こけつ単于ぜんう
  • 車犁しゃり単于ぜんう
  • 烏藉うせき単于ぜんう
  • 閏振じゅんしん単于ぜんう
  • 郅支骨都侯しつしこつとこう単于郅支しつし単于ぜんう
  • 伊利目いりもく単于ぜんう

相継あいついで単于ぜんうが立ちましたが、次第に淘汰とうたされ、呼韓邪こかんや単于ぜんう郅支しつし単于ぜんうの2人の単于ぜんうが残ります。その結果、匈奴きょうど困窮こんきゅうし、それぞれかん侍子じし*2を出して参朝しました。

脚注

*1単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*2諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおうが「天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせる」という名目でかんみやこに送った子息のこと。人質の一種。

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郅支単于が漢の使者を殺害する【前漢:元帝】

かん元帝げんていが即位した当初、呼韓邪こかんや単于ぜんうはまた上書して(匈奴きょうどの)民衆の困窮こんきゅううったえ、かん雲中郡うんちゅうぐん五原郡ごげんぐん穀物こくもつ2万こくを供給してこたえました。


一方、郅支しつし単于ぜんうは、自分が(かんから)遠く離れており、またかん呼韓邪こかんや単于ぜんう擁護ようごしていることをうらんで、使者を派遣して「侍子じし*2の返還を求める」上書をしました。

これにかんは、谷吉こくきつつかわしてこれを送らせましたが、郅支しつし単于ぜんう谷吉こくきつを殺害してしまいます。

当初、かん谷吉こくきつが消息不明となった理由を知りませんでしたが、それについてたずねてみると、匈奴きょうどの降伏者たちはみな「甌脱おうだつ*3で(谷吉こくきつを)殺害したと聞きました」と言いました。

脚注

*2諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおうが「天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせる」という名目でかんみやこに送った子息のこと。人質の一種。

*3匈奴きょうど斥侯せっこう用に作った国境の土室。2つの国をへだてる緩衝かんしょう地帯または中立地帯。

呼韓邪単于が漢と盟約を結ぶ【前漢:元帝】

その後、呼韓邪こかんや単于ぜんうの使者がやって来ると、かんはすぐさま帳簿ちょうぼに照らして厳しく問責もんせきしました。

翌年、かん車騎都尉しゃきとい韓昌かんしょう光禄大夫こうろくたいふ張猛ちょうもうつかわして呼韓邪こかんや単于ぜんう侍子じし*2を送り返すと、谷吉こくきつらの消息を求めてい、その罪をゆるして、(呼韓邪こかんや単于ぜんうが「かんが自分を討伐するのではないか」と)みずから疑うことがないように手を打ちます。


匈奴きょうどおとずれた)韓昌かんしょう張猛ちょうもうは、呼韓邪こかんや単于ぜんうの民衆がますますさかんとなってとりで周辺の禽獣きんじゅう(鳥獣)はり尽くされ、その力は自衛するにりて、郅支しつし単于ぜんうおそれていないように見て取りました。

また「(匈奴きょうどの)大臣たちの多くが呼韓邪こかんや単于ぜんうに北に帰るように勧めている」と聞いて、呼韓邪こかんや単于ぜんうが北に帰った後では約束を結びがたくなることを恐れ、韓昌かんしょう張猛ちょうもうは急いで盟約の話を切り出して言いました。


「今後、かん匈奴きょうどは一家(家族)となり、代々、互いにあざむき攻め合うことのないようにしよう。

窃盗せっとうをする者がいれば互いに報告して誅罰ちゅうばつを行い、被害にった物をつぐない合おう。

(どちらかが)侵略を受けた場合は、兵を発して助け合おう。

かん匈奴きょうどえて先にこの盟約にそむいた者は、天の不祥わざわいを受けるであろう。代々の子孫のことごとく、この盟約を実行させよう」


韓昌かんしょう張猛ちょうもうは、呼韓邪こかんや単于ぜんう及び大臣たちと共に匈奴きょうど諾水だくすい東山とうざんに登り、そこで白馬をころすと、単于ぜんう径路刀けいろとうで金をけずり、けずった金と酒を留犁りゅうり杓文字しゃもじ)でかきぜ、かつて老上ろうじょう単于ぜんうが破った月氏国げっしこくおう頭蓋骨ずがいこつ飲器さかずきとして共に飲み、血盟(互いに血をすすり合って固く誓うこと)しました。*4


韓昌かんしょう張猛ちょうもうが帰還してこれを奏上すると、公卿こうけいの議者たちは言いました。


単于ぜんうはすでにとりでたもってかん藩屏はんぺい(守護者)となっておりますから、たとえ北方に去ろうとしたとしても、(かんに)危害を加えるはずはございません。

韓昌かんしょう張猛ちょうもうは、独断で漢国かんこくの代々の子孫と夷狄いてき詛盟そめい(神に誓って盟約を結ぶこと)させ、単于ぜんうに悪言をもって天に上告しました。これは国家をはずかしめ威厳を傷つけるものです。(この盟約を)施行させてはいけません。

使者をつかわし(匈奴きょうどに)告げて天をまつり、共に盟約を解消するべきです。韓昌かんしょう張猛ちょうもうは、使者の役目を奉じて手柄も立てず、功績もありません。これは『不道の罪』に至ります」


ですが、天子てんし元帝げんてい)はそのあやまちをかるくし、みことのりを下して韓昌かんしょう張猛ちょうもうの罪を論じてあがなわせることとし、(匈奴きょうどとの)盟約はかせませんでした。

その後、呼韓邪こかんや単于ぜんうは北方のてい単于庭ぜんうてい)に帰り、民も次第に呼韓邪こかんや単于ぜんうに帰服して、(匈奴きょうどの)国内はついに安定しました。

脚注

*4顏師古がんしこ漢書注かんじょちゅうが注に引く応劭おうしょういわく、
径路けいろ匈奴きょうどの宝刀なり。金は契金(けずった金)なり。留犁りゅうり飯匕はんび杓文字しゃもじ)なり。どうなり。
宝刀の『径路けいろ』でけずった金を酒の中に入れ、飯匕はんび杓文字しゃもじ)の『留犁りゅうり』でかき混ぜ、血盟の酒とした。これはかん代に、かん匈奴きょうどの間で盟約を結ぶ際に行われた一種の儀式である。
のちに、漢族かんぞく王朝とその他少数民族の統治者との間で和平条約が結ばれた際に『留犁撓酒りゅうりどうしゅ』という言葉が使われるようになった」

郅支単于の死【前漢:元帝】

一方、郅支しつし単于ぜんうは「かんの使者(・谷吉こくきつ)を殺害したことで自分がかんを裏切ったこと」を知っており、また呼韓邪こかんや単于ぜんうますます強くなったと聞いて襲擊されることを恐れ、遠くに去ろうと思っていました。


当時、康居王こうきょおう康居国こうきょこく*5おう)はたびたび烏孫国うそんこく*6に苦しめられていたため、翕侯きゅうこうたちとはかったところ、

匈奴きょうどは大国で、元々烏孫国うそんこく*6匈奴きょうどに服属していたが、今、郅支しつし単于ぜんう困窮こんきゅうして(匈奴きょうどの)国外にいるため、これを迎え入れて(烏孫国うそんこく*6と接する康居国こうきょこく*5の)東辺に置き、兵を合わせて烏孫国うそんこく*6を攻め取ってそこに郅支しつし単于ぜんうを立てたなら、長く匈奴きょうどうれいはなくなるだろう」

という結論に至りました。

そこで康居王こうきょおうは、堅昆けんこん*7に使者を派遣し、堅昆けんこん*7を通じて郅支しつし単于ぜんうに取り次がせます。


すると、郅支しつし単于ぜんうは元々烏孫国うそんこく*6を恐れうらんでいたので、康居国こうきょこく*5はかりごとを聞くと大いに喜んでついに互いに結び、兵をひき いて西方に向かいました。そして康居国こうきょこく*5もまた貴人(貴族)をつかわし、槖駝たくだ駱駝らくだ)・驢馬ろば数千頭をもって郅支しつし単于ぜんうを迎えます。

ですが、郅支しつし単于ぜんうの軍勢は道中の寒さによって死亡し、康居国こうきょこく*5辿たどり着いたのは3千人余りに過ぎませんでした。


かん建昭けんしょう3年(紀元前36年)、都護とご西域都護さいいきとご)の甘延寿かんえんじゅ西域副校尉さいいきふくこうい陳湯ちんとうが、戊己校尉ぼきこういが管轄する西域さいいき諸国の兵を徴発し、漢兵かんぺい胡兵こへい合わせて4万余人をひきいて康居国こうきょこく*5に至り、郅支しつし単于ぜんう誅滅ちゅうめつしました。

脚注

*5中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

*6かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*7北方異民族の1つ。中央ユーラシア北部に分布していたテュルク系遊牧民族。

【前漢:元帝】

かんに入朝する

郅支しつし単于ぜんう誅殺ちゅうさつされた後、呼韓邪こかんや単于ぜんうはこれをよろこおそれ、かんに上書して言いました。

「常に天子てんし元帝げんてい)に謁見したいと願っておりましたが、西方にいる郅支しつし烏孫国うそんこく*6と共にやって来てわたくしつことを恐れ、これまでかんに行くことができませんでした。今、郅支しつしがすでに誅殺ちゅうさつされましたので、願わくは入って朝見したいと存じます」


かん竟寧しょうねい元年(紀元前33年)、呼韓邪こかんや単于ぜんうはまた入朝し、待遇・下賜品は初回と同様で、衣服・錦帛きんぱくじょ綿わた)はみな、かん黄龍こうりゅう元年(紀元前49年)の時の2倍の量をたまわりました。

そこで呼韓邪こかんや単于ぜんうみずから「漢氏かんし婿むことなり親善する」ことを申し出ると、元帝げんていは後宮の良家の子・王牆おうしょうあざな昭君しょうくん王昭君おうしょうくん)という者を呼韓邪こかんや単于ぜんう下賜かししました。

呼韓邪こかんや単于ぜんうの提案

呼韓邪こかんや単于ぜんうは歓喜し、また上書して、

「(わたくしが)上谷郡じょうこくぐん以西の敦煌郡とんこうぐんに至るまでのとりでたもって無窮むきゅう(永遠)に伝えますので、辺境のとりでを防備する官吏と兵卒をめさせ、天子てんし元帝げんてい)の民を休ませてください」

と願い出ました。

天子てんし元帝げんてい)がこれを有司ゆうし(役人)に下げ渡して評議させたところ、議者はみな「好都合である」と言いましたが、辺境の事情に通じている郎中ろうちゅう侯応こうおうだけは「許してはならない」と言いました。

天子てんし元帝げんてい)がその理由をうと、侯応こうおうは「戍卒じゅそつ(守備兵)をめさせてはならない10の理由」をげて、そのいに答えました。

侯応の返答・全文
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第1の理由

しゅうしん以来、匈奴きょうど凶暴強悍きょうぼうきょうかんで辺境に侵寇しんこうしてきましたが、かんおこって以降、甚大じんだいな害をこうむってきました。

わたくしは(匈奴きょうどについて)次のように聞いております。

「北辺のとりで遼東郡りょうとうぐんに至り、外には陰山いんざんがあって、東西千余里にわたって草木が茂盛もせいし、禽獣きんじゅう(鳥獣)が多い。元々冒頓ぼくとつ単于ぜんうがその中をり所とし、弓矢を作り外へ出てあだ(侵略)をなし、これをその苑囿えんゆう*8とした」

と。

孝武こうぶ武帝ぶてい)のに至ると、出師すいし(出兵)征伐してこの地(匈奴きょうどの地)を奪い、幕北(砂漠の北)に追い払いました。その後、塞徼さいきょう(辺境のとりで)を建てて亭隧ていすい*9を起こし、外城を築いて屯戍とんじゅ*10もうけてこれを守ったため、辺境は少しだけ安らかになったのです。

幕北(砂漠の北)の地は、平坦で草木が少なく大沙(大砂漠)が多く、匈奴きょうど来寇らいこう(来襲)した時に隠れる所が少ないですが、辺境のとりでより南のみちは山や谷が深く、往来に難があります。

また、辺境の長老は「匈奴きょうど陰山いんざんを失ってからのち、涙を流さずにそこを通り過ぎることはできなかった」と言っております。

もし、とりでの防備にあたる戍卒じゅそつ(守備兵)をめさせてしまったならば、夷狄いてき(異民族)に対して大きな利益を示すこととなります。これが(呼韓邪こかんや単于ぜんうの要求を)許してはならない第1の理由です。

脚注

*8広大な範囲に禽獣きんじゅう(鳥獣)を放し飼いにした自然庭園。

*9敵をけるためにとりでの地中深く掘って作った小道。

*10辺境を守るために兵をとどまらせた陣営。


第2の理由

今、匈奴きょうどは広く天をおおうような(かんの)聖徳をこうむっているお陰で、充実した生活に恵まれておりますので、稽首けいしゅ(頭を地につける礼)して臣従しているのです。

そもそも夷狄いてき(異民族)の情として、困窮こんきゅうすれば卑下ひげしてしたがい、強ければ驕慢きょうまんに逆らいますが、これは(匈奴きょうどの)天性の性質です。

以前、外城をめて亭隧ていすい*9はぶいたため、今はわずかに情況をうかがい望み烽火のろしを通じることができるのみとなっております。

昔から『やすきにいてあやうきを忘れず』と申します。これが[戍卒じゅそつ(守備兵)を]めさせてはならない第2の理由です。

脚注

*9敵をけるためにとりでの地中深く掘って作った小道。


第3の理由

中国には「礼義の教え」と「刑罰によるちゅう」がありますが、それでもなおおろかな民は禁をおかしております。

ましてや単于ぜんうやその衆(匈奴きょうど)が、必ず約定をおかさないでいられるでしょうかっ!これが第3の理由です。


第4の理由

中国がなお関梁かんりょう(関所と橋)を建てて諸侯しょこうを制してきたのは、臣下の分不相応な望みをつためであります。

また、塞徼さいきょう(辺境のとりで)をもうけて屯戍とんじゅ*10を置いているのは、ただ匈奴きょうどのためだけではなく、元は匈奴きょうどの民であった諸属国の降民たちが、むかしを思って逃亡することを恐れているからでもあります。これが第4の理由です。

脚注

*10辺境を守るために兵をとどまらせた陣営。


第5の理由

近頃は西羌せいきょうとりでたもって漢人かんじんと交通しておりますが、(かんの)吏民が利益をむさぼり(匈奴きょうどの)畜産や妻子をおかし盗んできた怨恨えんこんから、代々えず背叛が起こってきました。

今、とりでに登って守ることをめれば、あざむあなどり分かれて争うきざしをを生じさせることになります。これが第5の理由です。


第6の理由

これまで従軍した多くの兵士が戦死してかえらなかったため、その子孫は貧困におちいって逃亡し、親戚の家に身を寄せました。これが第6の理由です。


第7の理由

また、辺境の人の奴婢どひは思いなやんで苦しみ、みな「匈奴きょうどの国内は安楽だと聞くが、国境の監視が厳しくて逃亡することができないっ!」と言いながら、それでも時には逃亡してとりでの外に出る者がおります。これが第7の理由です。


第8の理由

盗賊たちは悪がしこく群れをなして法を犯しておりますが、もしその中に窮迫きゅうはくして北に逃亡する者がでれば、制することができません。これが第8の理由です。


第9の理由

(辺境に)とりでを築いてから百有余年、そのすべてが土垣どえんではなく、あるいは山の巌石がんせきれ落ちた木柴、谿谷けいこくや水門を利用し、兵卒らがこれをややならして築いたもので、その工事費用の莫大なことはかり知れません。

わたくしは、議題の終始を深慮しない議者*11らが願うように、繇戍ようじゅ夫役ぶやく衛戍まもり)をはぶいたならば、10年から100年のうちに、にわかに変事が起こり、(守備隊のいない)障塞しょうさい亭隧ていすい*9は破壊されてしまうでしょう。

そうなれば、改めて屯兵を発して修築しなければならず、もはや累世の功績を回復することは不可能です。これが第9の理由です。

脚注

*9敵をけるためにとりでの地中深く掘って作った小道。

*11辺境のとりでの防備をめさせることに賛成の者たち。


第10の理由

もし戍卒じゅそつ(守備兵)をめさせ候望こうぼう(見張り)をはぶいてしまったならば、単于ぜんうみずかとりでたもち守護して、必ずや深くかんに恩を着せ、その請求はやむことがないでしょう。

小事によってそのおもわくを失するならその結果ははかり知れず、夷狄いてき(異民族)に乗ずる隙を開き、中国のかためをく(欠く)ことになります。これが第10の理由です。


ゆえに(辺境のとりでを防備する兵卒をめさせることは)平和と安全をながく維持し、(かんの)威信によって百蛮を制する長期戦略とはなり得ません。


すると天子てんし元帝げんてい)は「辺塞へんさい(辺境のとりで)の防備をめさせる議論をしてはならない」とみことのりを下し、車騎将軍しゃきしょうぐんに命じて呼韓邪こかんや単于ぜんうに口頭で次のようにさとさせました。


単于ぜんうは上書して『北方の辺境の(かんの)吏士・屯戍とんじゅ*10めさせ、(匈奴きょうどの)子孫が代々とりでを防備すること』を願った。

単于ぜんうが(かんの)礼儀をしたい、民のためにはなはだ厚い『長久の策』をはかったこと、ちん天子てんしの一人称)はこれをはなはよみする(たたえる)。

中国が四方に関梁かんりょう障塞しょうさい(関所・橋・とりで)を有するのは、ただとりでの外にそなえるためだけではなく、中国の放縦な姦邪かんじゃ(悪人)が塞外さいがいに出て寇害こうがいをなすことを防ぐためでもあり、ゆえに法度はっとを明らかにし、衆心を第一とするのである。

つつしんでちん単于ぜんうの意向を疑うものではない。単于ぜんうが『屯戍とんじゅ*10めさせない』ことをあやしむことをかんがみ、大司馬だいしば車騎将軍しゃきしょうぐん許嘉きょかつかわして、単于ぜんうに(ちんの真意を)あきらかにさせたのである」


単于ぜんうは感謝して、

おろかで大計を知らないわたくしに、さいわいにも天子てんしは大臣をつかわし告げ語ってくださいました。身に余る光栄でございますっ!」

と答えました。

脚注

*6かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*10辺境を守るために兵をとどまらせた陣営。

左伊秩訾王が漢に降る【前漢:元帝】

左伊秩訾王さいちつしおうかんくだ

これまで左伊秩訾王さいちつしおう呼韓邪こかんや単于ぜんうのためにはかってかんに帰服させ、ついに(匈奴きょうどを)安定させることができました。

ですがその後、「左伊秩訾王さいちつしおうみずからその功をほこっている」と讒言ざんげんする者があり、左伊秩訾王さいちつしおうは常に鞅々おうおうとして心楽しまず、呼韓邪こかんや単于ぜんうもまた彼を疑うようになってしまいます。

そしてついに左伊秩訾王さいちつしおう誅殺ちゅうさつされることをおそれ、その衆・千余人をひきいてかんくだり、かん左伊秩訾王さいちつしおう関内侯かんだいこうに封じて食邑しょくゆう300戸を与え、そのおう匈奴きょうどおう)の印綬いんじゅびさせました。

左伊秩訾王さいちつしおうとの再会

竟寧きょうねい元年(紀元前33年)、呼韓邪こかんや単于ぜんうが来朝して左伊秩訾王さいちつしおうあいまみえると、呼韓邪こかんや単于ぜんう左伊秩訾王さいちつしおうに謝罪して言いました。


おう左伊秩訾王さいちつしおう)がわたくしのためにはかっていただいたことははなはだ厚く、匈奴きょうどを今日の安寧あんねいに至らしめたのはおうの力です。どうしてその徳を忘れることができましょうかっ!

わたしおうを誤解し、とどめることなく去らせてしまったのは、みなわたくしあやまちでした。今、天子てんし元帝げんてい)に『おう単于庭ぜんうていに帰す』よう願おうと思っております」


すると左伊秩訾王さいちつしおうは、


単于ぜんうは天命によってみずかかんに帰服されたのですから、(匈奴きょうどが今日の)安寧あんねいを得ることができたのは、単于ぜんうの神霊(霊妙な徳)と天子てんし元帝げんてい)のゆう(助け)によるものであり、わたくしの力を得たことによるものではありませんっ!

わたくしは)すでにかんくだった者、また匈奴きょうどに復帰すれば、これは両心ふたごころとなります。単于ぜんうのため、かんはべり仕えたいと願っておりますので、あえて(『匈奴きょうどに復帰せよ』という)命令をくことはできません」


と答え、単于ぜんうは再三強くい願いましたが、良い返事を得られないまま匈奴きょうどに還りました。

呼韓邪単于の死【前漢:成帝】

王昭君おうしょうくん寧胡ねいこ閼氏あつし*1と号し、1人の男子・伊屠智牙師いとしがちを生み、右日逐王ゆうにっちくおうとなっていました。


呼韓邪こかんや単于ぜんう左伊秩訾王さいちつしおうの兄・呼衍王こえんおうむすめ2人を寵愛ちょうあいし、長女の顓渠せんきょ閼氏あつし*1且莫車しょばくしゃ囊知牙斯のうちがしの2人の男子を生み、少女いもうと大閼氏だいあつしとなって4人の男子を生み、長子の雕陶莫皋ちょうとうばくこうと次子の且麋胥しょびしょ且莫車しょばくしゃより年長で、弟のかんがくの2人は囊知牙斯のうちがしより年少でした。また、他の閼氏あつし*1にも10余人の子がありました。

呼韓邪こかんや単于ぜんう閼氏あつし*1の中でも顓渠せんきょ閼氏あつし*1とうとび、その長子の且莫車しょばくしゃを愛していたので、やまいとなり死にのぞんで且莫車しょばくしゃを(世継ぎに)立てようとします。

すると顓渠せんきょ閼氏あつし*1は、


匈奴きょうどは10余年にわたって乱れ、髪の毛のように細々と命脈をたもってきましたが、かんの力を頼って再び安らかになることができました。

今はまだ国内は安定して間がなく、民は戦闘にり恐れております。また、且莫車しょばくしゃは年少で百姓たみはまだなついておらず、再び国があやうくなることを恐れます。

わたくし大閼氏だいあつしは家族であり、その子は我が子同然です。(大閼氏だいあつしの長子の)雕陶莫皋ちょうとうばくこうを立てた方がよろしいかと存じます」


と言い、大閼氏だいあつしは、


且莫車しょばくしゃは年少といえども、大臣たちが共同して国事を保持しますので問題ありません。今、を捨ててせんを立てれば、後世、必ず乱れるに違いありません」


と言いました。

結局、呼韓邪こかんや単于ぜんう顓渠せんきょ閼氏あつし*1の言葉に従って(大閼氏だいあつしの長子の)雕陶莫皋ちょうとうばくこうを立て、そののちは国を弟(の且麋胥しょびしょ)に伝えるように約束させます。


かん建始けんし2年(紀元前31年)、呼韓邪こかんや単于ぜんうは立って28年で亡くなりました。

呼韓邪こかんや単于ぜんうが亡くなると、雕陶莫皋ちょうとうばくこうが立って復株絫若鞮ふくしゅるいじゃくてい単于ぜんうとなりました。

脚注

*1単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。


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【後漢・三国時代の異民族】目次