正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(84)平原管氏(管孝国・管輅・管季儒・管辰)です。
スポンサーリンク
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
平原管氏系図
平原管氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。管季儒と管辰の兄弟の順は不明。
この記事では平原管氏の人物、
についてまとめています。
管輅の舅氏(母の兄弟)・夏大夫
スポンサーリンク
か(84)北海管氏
第1世代(管孝国・管輅・管季儒・管辰)
管孝国
生没年不詳。冀州・平原郡の人。管輅の族兄(一族の同輩のうちの年長者)。
管輅が冀州・魏郡・斥丘県に住む管孝国の元を訪れた時、ちょうど2人の来客があった。客が帰った後、管輅は管孝国に、
「あの2人は天庭(額)と口、耳の間に凶の気がありますから、共に異変に見舞われ、2つの魂は住処を失い海をさすらって、骨だけが家に帰ります。間もなく2人とも死ぬでしょう」
と言い、また、
「美味いものほど毒があるように、空気の澄んだ静かな夜に、坎(水を象徴する卦)が棺槨(内棺と外棺)となり、兌(沢を象徴する卦)が葬儀の車となるでしょう」
と言った。
それから数十日経った頃、2人は酒に酔い、夜、一緒に牛車に乗って家に帰る途上、牛が驚いて道を外れ、漳河に飛び込んだので、2人ともそのまま溺死してしまった。
「管孝国」の関連記事
管輅・公明
後漢の建安14年(209年)*1〜魏の正元3年(256年)没。冀州・平原郡の人。族兄に管孝国。弟に管季儒、管辰。
脚注
*1裴松之は「管輅は自ら『吾の運勢は寅にある』と言っている。であるとすれば建安15年(210年)の生まれであり、正元3年(256年)に亡くなった時には、47歳であったはずであるが、『魏書』管輅伝の本文には48歳とあり、符合しない」と言っている。
幼少期
天体観測を好む
管輅は7、8歳の頃から星辰(星々)を見ることを好み、人に星の名前を尋ねて夜も寝ようとしなかった。父母は常々これを禁じたが止めさせることはできず、管輅は「我は年は小さいけど、天文を観るのが好きなんだ」と言い、また常に「家の鶏や野の鵠(白鳥)でさえ時を知っているのに、どうして人間が時を知らずにいて良いのでしょうか?」と言っていた。
隣近所の子供たちと一緒に土遊びをしている時にも、決まって地面に天文や日月星辰(太陽・月・星々)を描いた。また、彼の返答や何かを説明する言葉はいつも並外れていて、学者や老人でも言い負かすことはできず、みな「彼はやがて大いに非凡な才能を備えることになるだろう」と思っていた。
神童と呼ばれる
父が徐州・琅邪国・即丘県の県長となった時、15歳であった管輅は、父の官舎で読書をし、『詩経』『論語』『易経』の本文を読んだだけで深い道理を引き出して筆に著すことができ、しかもその辞義(表現と論理)は斐然(文章が美しく内容も充実していること)としていた。
当時、(官舎に付属した)学校には、遠方や琅邪国内の学生たちは4百余人いたが、みな管輅の才能に感服した。
琅邪太守の単子春は有能で度量のある人物であったが、管輅が学校一の俊才だと伝え聞いて「会いたい」と望み、管輅の父はすぐさま管輅を単子春の元に遣った。単子春が弁舌に巧みな賓客100余人を集めると、管輅は単子春に尋ねた。
「府君(単子春)は名士であられ、雄々しく高貴な姿をされております。輅は年少な上に胆も固まっておりません。親しくお目通りを許されましても、(緊張のために)私の精神が失われてしまうことを懼れます。どうか先に3升の清酒を飲ませていただき、その後でお答えさせてくださいませんか」
単子春は大いに喜んで、すぐさま特別に3升の清酒を飲ませ、管輅が「これから私と議論をされるのは、府君(単子春)の周りの方々でございますか?」と尋ねると、単子春は「吾が自ら卿と議論を戦わせよう」と言った。
これに管輅が「(私は)『詩経』『論語』『易経』の本文を読み始めたばかりで学問は浅く、まだ聖人の道を引用したり、秦・漢の故事を並べたりすることはできません。ただ金・木・水・火・土(五行)や鬼神の様子について論じたいと思います」と言うと、単子春は「それは最も難しいことなのに、卿には簡単なことだと言うのか?」と言った。
このような言葉から大議論の発端が開かれ、陰陽を軸として美しい言葉が花開き、枝や葉が盛んに伸びたが、その議論は聖人の典籍を引用することは少なく、多くは管輅自身の考えによるものであった。
単子春とその場にいた人々は共に攻め立て、反論が群がり起こったが、管輅は1人1人に対し常に余裕をもって返答した。
(みな論議に夢中になって、)日が暮れるまで酒も食事も摂らず、最後に単子春は人々に向かって言った。
「この若者は、立派な才知と器量を持っている。その言論は司馬犬子(司馬相如)が作った『遊猟の賦』にそっくりだ。なんと磊落雄壮(度量が大きく意気盛ん)であることか。必ずや彼は天文地理の変化の数を解明することができるに違いなく、ただの弁舌の徒ではない」
このようにして徐州の地で管輅の名声が高まり、神童と呼ばれた。
性格と評判
管輅は成人すると『周易(易経)』に明るく、天文占いや風角(風占い)、佔(吉凶の占い)、相(人相見)のすべてに精通した。
管輅の容貌は粗末で醜く、立ち居振る舞いに威厳がなかった。酒を嗜み、飲食をする際には相手を選ばず冗談を言っていたので、人々はみな彼を愛しはしたが、尊敬はしていなかった。
寬大な性格で多くのことを受け入れることができ、自分を憎む者を讎とせず、自分を愛する者を褒めず、徳をもって怨みに報いることを心掛けていた。また、人には常に「忠孝と信義は人の根本であって、疎かにできるものではないが、誠実さや正直さは士人にとって虚飾に過ぎず、努力するに値しない」と言い、自分には「我を理解する者が稀なのは、我が貴いからだ。どうして長江や漢水の流れを断ち、石走る清流となすことができようか?(俗世間に混じって生活した)司馬季主(長安の市場にいた売卜者)と道を論じたいと願っても、(清潔さを貫いた)漁父と舟を同じくしたいとは思わない。これが吾の志である」と言い聞かせていた。
管輅は父母に孝行を尽くし、兄弟に対しても篤く、士人の友人の愛に順い、みな思いやりのある優しい心をもって接する様子は、どんな場合でも変わることがなかった。こうしたことから、彼のことをあれこれと論っていた者たちも、後には結局 彼に心服した。
管輅と郭恩
郭恩に『周易』を学ぶ
管輅の父が利漕(利漕県?)を治めていた時のこと。利漕(利漕県?)の住民・郭恩には才能と学問があり、『周易』や『春秋』に通じ、天文占いにも巧みであった。
管輅は郭恩について『周易』を学んだが、数十日も経つと、もう心に悟るところがあって、議論をすれば師の郭恩を凌ぎ、郭恩から天文占いを学ぶと、30日間夜通し寝ることがなかった。
管輅が学び始めて1年も経たないうちに、郭恩の方から『周易』や天文の要について尋ねるようになった。
足萎え(躄疾)の原因
郭恩の兄弟3人がみな「足萎え(躄疾)」の病にかかったので、ある時、郭恩は宴席を設けて管輅 1人だけを招き、管輅にその原因について筮ってもらった。
すると管輅は「(筮竹で得た)卦には、君方の家の墓が出ています。墓の中には女鬼(女の亡者)がいて、君の伯母か叔母に違いありません。昔、飢饉があった時に、彼女が持っていた数升の米に目をつけた者がいて、井戸の中に突き落とし、さらに大きな石を落として頭を割って止めを刺しました。その祭られない魂が怨み悲しんで、自ら天に訴えたのです」と言った。
郭恩が悲しみの涙で衣服を濡らし、
「漢王朝の末年に、実際にそのようなことがありました。君は敢えてその犯人の名前を言われなかったが、私がその名前を語らないのは礼を守るためなのです。兄弟たちは『足萎え(躄疾)』になってから30年以上にもなり、脚は棘子のようになっています。もう治すことはできないでしょうから、ひたすらこの災いが子孫に及ばないようにと祈ります」
と言うと、管輅は、
「火によって形づくられたものは完全には消え去ることはありませんが、水によって形づくられたものは後に残ることはありませんので、 子孫に災いが及ぶことはないでしょう」
と言った。
老人と事故
また、管輅が郭恩の家に行った時のこと。鳩が飛んできて梁の上でひどく悲しげに鳴いた。
これを見た管輅は、
「きっと東方から、豚1頭と酒一壷を携えて、老人がやって来ます。君は客人を迎えて喜ばれますが、ちょっとした事故があるでしょう」
と言った。
次の日、管輅が占ったとおりの客人がやって来たので、郭恩は客人に、酒を控え、肉を食べず、また火に気をつけるように言って、管輅が予言した事故を避けようとした。
ところが、鶏を弓で射て料理を作ろうとした時、箭が樹々の間を抜けて、数歳の女の子の手に激しく当たり、血が流れて驚き怖れた。*2
脚注
*2郭恩は客人に肉を食べないように言っておきながら、鶏を捕ろうとしている。客人が持ってきた酒と豚を避けようとしたのか?
郭恩が占いを諦める
郭恩が管輅から鳥の鳴き声による占いを習っていた時のこと。
管輅は、
「君はこうした道を好んではおられますが、天から与えられた才が少ない上に、音律も理解されておりません。恐れながら、私が君の師となることは難しいでしょう」
と言い、8つの方向の風の変化や5つの音階が持つ意味を説き、音律(律呂)によって鳥たちの声の高さを定め、六甲*3を時間や日数を数えるための基本とすることを述べて、繰り返し様々な方向から説明を加えた。
郭恩は数日間、静かにじっと深く考えを巡らせていたが、結局何も得るところがなく、
「才能が突出している者でもない限り、こうしたことを探求することは難しい」
と言って、ついに(占いを)止めてしまった。
脚注
*3十干と十二支を組み合わせてできる干支の一巡り(六十干支)のうち、甲がつくもの6つ(甲子・甲戌・甲申・甲午・甲辰・甲寅)を取り出したもの。これに特別な意味を与えて占いなどに使っていた。
劉奉林と鮑子春
劉奉林の妻の死期を当てる
ある正月、冀州・鉅鹿郡・広平県出身の劉奉林の妻(婦)の病気が重くなった。
棺や送葬の道具が買い揃えられ、管輅に占わせたところ、「8月辛卯の日の日中がご寿命です」と言った。
劉奉林は「当たるまい」と言い、妻(婦)の病気も快方に向かっていたが、秋になって再発し、管輅の言った通りの時刻に死亡した。
鮑子春の悟り
冀州・鉅鹿郡・列人県の県令・鮑子春は聡明で思慮深く、才智を持ち道理に通じていた。
ある時、鮑子春は管輅の元を訪れて「聞けば君は、劉奉林のために彼の妻(婦)の亡くなる日を占い当てたとのことだが、なんと詳妙なことであろう。そのようなことが可能であった理由を、試みに論じていただけないだろうか」と言った。
すると管輅は、『易』の爻や象が意味するところを論じ、万象が流転変化してゆく道理を説明したが、その説明は、あたかもコンパスで円を描き、定規で四角を描くように、少しの齟齬もなかった(若規圓矩方,無不合也)。
鮑子春は自らを顧みて言った。
「吾は若い頃から『易』を語ることを好み、喜んで蓍(筮竹)を操作してきた。しかしそれは、まったくのところ、盲者(目が見えない人)が白黒を見分けようとし、聾者(耳が聞こえない人)が音の清濁を聴き分けようとするようなもので、苦労しても何の成果も得られなかった。君の言葉を聞いて自らの素質について顧みれば、真に愚かであった(真為憒憒者也)。」
管輅と王基
王基のために卦を立てる
管輅が冀州・安平郡の太守・王基の元を訪れた時のこと。王基は管輅と共に『易』を論じて数日に及び、大いに楽しんだ王基は、
「かねがね君がよく占いをされると聞いてはいたが、思いがけなくも立派な議論に加わらせていただくことができた。君は現在、並びなき優れた才能を持っておられるゆえ、必ずや書物にその名を留められることになるだろう」
と語った。管輅は王基のために卦を立て、
「賎しい身分の婦人が男の子を生みましたが、その子供は生まれ落ちるなり走って竈の中に入って死んだことがございました。また、床(人が座ったり寝たりする大きな台)の上に筆を銜えた大蛇がいるのが見つかり、家中の者が集まって見ていると、間もなくどこかへ行ってしまったことがありました。また、烏が部屋の中に飛び込んで来て燕と争い、燕が死んで烏は飛び去っていきました。この3つの怪が起こったことが、卦に表れております」
と言うと、王基は大いに驚いて、それらが吉兆であるか凶兆であるかを問うた。
管輅は「役所の建物が古くなったので、魑魅魍魎が怪事を引き起こしたに過ぎません。子供が生まれてすぐに走ったというのも、自分の力で走ったのではございません。宋無忌(火の精)という妖怪が竈に引き入れたのです。大蛇が筆を銜えたのは、歳を取った書佐が化けたものにすぎません。烏が燕と争ったのは、歳を取った守衛の仕業にすぎません。今、卦の中にこうしたものの象が表れてはいても、それが凶兆である気配は見えません。妖異による咎めの徵ではないと分かりました上は、心配される必要はございません」と言い、また、
「昔、殷の高宗の鼎は、雉が止まって鳴くべきところではなく、殷の階庭(宮殿の正面の庭)は木の生えるべきところではありませんでしたが、(鼎に止まった)野鳥が一度鳴くと、(その妖異に驚いた武丁が身を慎んだため)武丁は高宗と尊称されるようになり、(宮殿の正面の庭に)桑と穀が生えると、(その妖異に驚き行いを修めた)太戊は、殷の王朝を盛んにすることになりました。どうしてご身辺に起こった3つの出来事が吉兆でないと限りましょう。どうか太守(王基)様には心身を安らかにして徳を養われ、ゆったりとした態度で公明正大に処せられ、怪しい物の怪たちの仕業を目撃されても、天から授かった本然の性(悪の要素を全く含まない純粋至善の性)を汚したり曲げたりなさいませぬように」
と言った。その後結局、災いはなかった。
信都県の県令を筮う
またこの頃、冀州・安平郡・信都県の県令の家では「女たちが驚き恐れて次々と病気にかかる」ということがあって、王基は管輅にこれを筮ってもらった。
すると管輅は、
「君の北の堂(お座敷)の西の端に2人の死んだ男子がいて、1人は矛を持ち、1人は弓箭を持って頭は壁の内側にあり、脚は壁の外側に出ております。矛を持っている男が活動して生きている者の頭を矛で突きますので、頭がひどく痛んで重くなり、弓箭を持った者が活動して胸や腹に矢を射るので、胸の内がキリキリと痛んで食物も水も取れないのです。(死人たちは)昼は外をうろつき、夜になると人を悩ませにやって来るため、驚き恐れたようになるのです」
と言った。
王基はすぐさま信都県の県令を帰して、その家の居間を掘らせてみたところ、地面から8尺(約184.8cm)の所で、果たして2つの棺が見つかった。1つの棺の中には矛が、もう1つの棺の中には角で飾った弓と箭があった。箭は時代が経ったため木部はみな腐ってしまい、ただ鉄と角でできた部分だけがそのまま残っていた。死骸を運んで城から10里(約4.3km)の所に埋めると、もう病気にかかることはなくなった。
王基に易を教える
(管輅の筮を目の当たりにした)王基は、
「吾は若い頃から『易』を読むのが好きで、これを久しく玩味してきたのではあるが、神のごとき明瞭による技が、かくのごとく精妙であるとは思ってもみなかった」
と言い、そこで管輅から易を学び、天文現象の意味を推しはかる術を教わった。
管輅が「変化の象」を開き示して吉凶の兆しを説明する時、微に入り細を穿って委曲(細かく詳らかなこと)を尽くし、その精妙で神秘的な働きを説き尽くさぬところがなかった。
ところが王基は、
「君の言葉を聞き始めた時には何か分かりそうな気がするのだが、結局は混乱して全然分からなくなってしまう。こうしたことを理解できる能力は天から授かるもので、人の努力ではどうにもならないものなのだ」
と言って『周易』をしまい込み、そうしたことを思い巡らすことをやめて、以後はもう卜筮(占い)のことを学ぼうとはしなかった。
乃太原の問い
ある時、管輅と同郷(冀州・平原郡)の乃太原が管輅に尋ねた。
「君は以前、王府君(王基)のために怪事を論じて『歳を取った書佐が蛇となり、歳を取った守衛が烏となった』とされたが、これらは元々みな人間であるのに、なぜこんなつまらぬものに化けたりしたのだろう。爻と象にそれが現れたというのは、君が勝手にそう考えられたのではないのか」
すると管輅は言った。
「生まれつき天道にぴったり合致している者でない限り、どうして爻と象に背いて自分の胸先三寸でそうしたことをきめられましょうや?そもそも万物はすべて変化してゆき、一定不変の形があるものはありません。人間が異物に変ずる場合にも定まった形がある訳ではなく、大きい者が小さくなったり、小さい者が大きくなったりすることに優劣の差はありません。そもそも万物が変化してゆくということは、1つの例外もない原則なのです。故に夏王朝の鯀は天子の父であり、趙王・如意は漢の高祖(劉邦)の子でしたが、鯀は黄熊(黄色い熊またはスッポン)になり、如意は黒犬となりました。これは至尊の位にありながら変化して黔喙(鳥獣)になった例です。ましてや蛇は辰巳の方角に対応する動物で、烏は太陽の精としてその中に棲むものであって、これこそ騰蛇の星宿として夜空にくっきりと形をあらわし、輝く太陽として万物に光を注ぐものであれば、書佐や守衛が共に卑賤な身体でもって蛇と烏に変化したというのは、分に過ぎたことではないでしょうか」
管輅と王経
王経の昇進を当てる
冀州・清河国出身の王経は、官を辞して故郷に帰っていた。管輅が彼を訪問すると、王経は管輅に占いをさせようとしながら「占いなどは疑難の言(でたらめ)だ」と言った。
すると管輅は笑って言った。
「君侯は州里の達人(物に通じた人物)として知られておりますのに、なんとお言葉の狭いことっ!昔、司馬季主(長安の市場にいた売卜者)は次のように語っております。『そもそも卜占というものは、必ず天地に法り、四季を象り、仁義に順ったものでなければならない。伏羲が八卦を作り、周の文王がそれを384爻(64卦)にしたことによって天下は治まったのだ。病気の者もそれによって治ることがあり、死にかかっている者もそれによって蘇生することがある。災難もそれによって免れることがあり、事業もそれによって成功することがある。娘を嫁にやったり妻を娶ったりする場合にも、それによって子孫が繁栄することがあるのだ。どうして数千銭の価値がないと言えようか?』と。こうした点から推して考えれば、卜占は必要不可欠なものなのです。道を明らかにするためであれば、聖者・賢人とて自分の意見を曲げて譲ることはいたしません。まして吾の如き下賤の者であれば尚更のこと。敢えて反論した次第ですっ!」
これを聞いた彦緯(王経の字)は「先程の言葉は戯れ言(冗談)だ」と言い、「近頃1つの怪事があって、ひどく気がかりに思っている。ご面倒だが卦を立ててはくれまいか」と言った。
卦が立つと管輅は言った。
「出た爻は吉で、怪しいことではございません。君が夜、堂(お座敷)の戸の前におられた時、小鳥のような光が流れて来て君の懐に入ってゴロゴロと鳴りました。ひどく心が騒がれて上衣を脱いでうろうろされ、ご婦人方を呼んで消え残っている光を捜し求めさせられたのでありましょう」
王経が大いに笑って「確かに君の言う通りなのだ」と言うと、管輅は「吉です。昇官される徵でございます。その応験は間もなくやってまいります」と言い、程なくして王経は江夏太守となった。
王経はいつも管輅を論じて「彼は龍雲の精を得てよく和気を養い、奥深い真理に通じた者(通幽者)であって、単なるまぐれ当たりの卜者ではないのだ」と言っていた。
管輅と劉長仁
劉長仁の疑問
冀州・勃海郡出身の冀州・平原郡・安徳県の県令・劉長仁は議論が巧みで、管輅が「鳥の鳴き声を理解することができる」と聞いて以来、管輅と会う度に、
「そもそも人間の声を『言』と言い、鳥獣の声を『鳴』と言う。『言』と言えば知能を備えた素晴らしい働きを持つものであるのに対し、『鳴』と言えば知能のない低級なものを意味するのだ。それなのになぜ、鳥の鳴き声を『語』とし、(人間の)優れた心智の働きが他にはない特別なものであるという点を、乱してしまうのか?孔子も『吾は鳥獣と群れを同じくすることはできない』と言われていた。鳥獣が人間より賤しいものであることは明白ではないか」
と言った。管輅はこれに答えて、
「そもそも『天』と申しますものは大きな象を持っておりますが、言葉を話すことはできません。故に高い所に星精を運行させて優れた明智を地上に伝え、風や雲を働かせて霊異を表し、鳥獣を使って霊妙な意志を人々に知らせます。霊異を表す風雲は、必ず高く昇ったり低く澱んだりすることによって兆候を示し、霊妙な天意を知らせる鳥獣は、必ず鳴き声を宮商(五声)の音階によって応を示すのです。それ故に宋の襄公の行動が徳に外れた時、6羽の鶂(鵜)が揃って後ろ向きに飛んだのであり、宋の伯姫が焼け死ぬ前には、鳥がその災いを告げて唱いました。また4つの国(宋・衛・陳・鄭)で大火が起きるに先だって融風(東北の風)が吹き、鳥のような赤い雲気が太陽を挟むように見えた時、荊楚に殃が起こりました。これらことは上天の意志が表れたものであり、人為を越えた明らかな符なのです。それぞれの音声には、律呂(音楽の音階・調子)に則ってしかるべき理由があり、これを人の事に当てはめれば、吉凶を取り間違えることはありません。昔、秦の王家の祖先に(身体は鳥で人語を話す者がおりましたが、)その子孫は代々功績を立てて諸侯に封ぜられ、また葛盧は牛の鳴き声を聞き分けたと、『春秋』(僖公29年)にはっきりと書かれております。これらはすべて立派な書物に書かれた真実のことで、聖人や賢者の名を借りた出鱈目ではございません。商王朝が興ったのは、1個の燕の卵からです。周の文王が天命を受けた時、丹い鳥が不思議な書物を銜えてやって来ました。これこそ天が聖人に与えられた霊妙な瑞祥であり、周の王室に対する めでたいしるし であって、(鳥獣によってもたらされたからといって)何の賤しむべきことがありましょうか?鳥の鳴き声を聴き取る鋭い耳は、研ぎ澄まされて天上の鶉火の星座に結晶し、その霊妙さは神々とも通じ合うのですが、こうしたことに縁のない人々にとっては完全に理解を超えたことで、ちょうど孔子に叱責された子路に生死の問題が分からなかったのと変わるところがないのです」
と言ったが、劉長仁は「君の言葉は豊かではあるが、花が咲いても実のならぬようなもので、信じることはできない」と言った。
鵲の声を聞く
管輅が冀州・平原郡・安徳県の県令・劉長仁の家を訪れた時、鵲が閤屋(高楼)の上に止まって鳴いたが、その声はひどく差し迫った調子であった。
すると管輅は「鵲は『昨日、東北の地で婦が夫を殺し、その罪を西隣の家の男になすりつけた』と鳴いております。私の見ますところ、太陽が西に沈む頃までに、このことを報告して来る者がありましょう」と言った。
その時刻になると、果たして東北から同じ伍*4の民がやって来て、「隣家の婦がその手で夫を殺し、『西隣の家の男が夫と仲違いをし、やって来て我の婿(夫)を殺した』と偽っている」と告げた。
劉長仁は「管輅が鳥の鳴き声を理解することができる」ということに懐疑的であったが、このことがあってから、やっと自説を曲げた。
脚注
*4後漢では10戸の家を「什」、5戸の家を「伍」としてグループをつくり、家同士で互いに監視させていた。10〜15の什・伍が集まった100戸程度の集落を「里」と言う。
管輅と王弘直
王弘直の息子の死を当てる
管輅が冀州・鉅鹿郡・列人県の典農官*5であった王弘直の元を訪れた時のこと。
申(西南西)の方角から高さ3尺(72.6cm)あまりの飄風が吹いてきて、庭中をゆらゆらと回転しつつ、一旦止んではまた起こり、しばらくしてやっと消えるということがあった。
王弘直がこの飄風の意味を尋ねると、管輅は「東方から馬吏がやって来ます。父親が子供のために泣くことになるでしょうが、どうしようもございません」と答えた。
次の日、膠東郡(青州・北海国)から役人が到着し、はたして王弘直の息子が死んだ。
王弘直がそのように占った理由を尋ねると管輅は、
「その日は乙卯でしたが、これは『長子』を表しております。木の葉は申(秋の初めの季節)に落ち、北斗七星の柄は申(南西)の方角を指しており、申は寅を破ります。これらは『死亡』を表しております。また風が起こった時、太陽が午(南)の方角にありましたが、これは馬を表しております。離(南を表す卦)は文章を象徴し、吏を表しております。申未は虎(西方を表す白虎であり、虎は大人であって、父親を表しているのです」
と言い、また、
「風というものは時に応じて動くものであり、『易』の爻は象に表れて事物に反応します。時間は神秘な存在が働かせているものであり、象は神秘なものが形として表れたものです。それ故に時間を事物の根本にある法則と重ね合わせて考えれば、その意味を知るのに何の困難がありましょう」
と言った。
王弘直は学問を積み、方術にも嗜みがあったのであるが、管輅の言うところの微妙な部分はまったく理解できなかったので、
「風が変転推移してゆくことについても、同様にその意味を知ることができるのだろうか」
と尋ねると管輅は、
「今回の件は風全体の中の、単に毛髪のごときものに過ぎません。どうして異となす程のことがありましょうか?天上の星々がその星座を離れ、神々が勝手にその職分を乱す時、八風(八方の風)がてんでばらばらに起こり、猛り狂った『気』は稲妻を走らせ、山は崩れ石は飛んで、樹木は折れ傾き、万里の高さにまで砂埃が舞い上がって、仰いでも天は見えず、鳥獣は潜み隠れ、万民は心の平静を失わせます。こうした時になって梓慎(風占いの名手)のような者たちを高台に登らせ、風気を観察して起こるべき災異の種類と日時を判断させますが、このようにして初めて神々の思慮の幽遠さ、霊威ある風の懼ろしさが理解されるのです」
と言った。
脚注
*5典農は屯田(民屯)の実施地域で農業生産、民事、土地の賃貸管理などを担当する官職で、典農中郎将、典農校尉、典農都尉がある。
王弘直の昇進を当てる
また、雄の雉が飛んできて、王弘直の家の中の呼び鈴をかけた柱の上に止まった。王弘直はひどく不安に思って、管輅に卦を立てさせた。
管輅は「5月になれば、きっと昇進されましょう」と言い、この時はまだ3月であったが、5月になると王弘直は はたして勃海太守となった。
管輅と諸葛原
賓客たちと議論を戦わせる
冀州・魏郡・館陶県の県令・諸葛原(字は景春)が新興太守に昇進して幷州(并州)・新興郡に赴任することになった時、景春(諸葛原)は管輅が送別に来る機会を捉えて議論に達者な賓客を多数集めた。
人々は管輅が占いや天文に詳しいことは伝え聞いていたが、彼が人並み外れた異才の持ち主であることは知らなかった。
そこで先ず、管輅に対して聖人の著作の深い意味を論じ、また五帝・三王が天命を受けためでたい符について述べた。管輅は景春(諸葛原)の微旨(それとなく示された意図)を察すると、自らの戦地を開張して強固でないことを示し、(兵法上不利とされる)「孤虚」の場所に潜み隠れて、他の論者が攻撃をかけて来るのを待った。
景春(諸葛原)は敗走し、その軍師も手酷い損害を受けて、自ら「卿の旗色を見るに、城壁も濠も壊されてしまったぞ」と言った。ここで戦いを望む者たちは、太鼓や角笛を鳴らして雲梯(梯子車)をかけ、弓や弩が盛んに発射され、牙旗が群がり集まった。
こうした状況になって初めて、管輅は城壁の上に立って武威を示すと、門を開いて敵を受け入れ、古くは五帝のことを論ずれば、あたかも長江や漢水の如く滔々と述べたて、下って三王のことを論ずれば、大空を高く翔り飛ぶが如くであった。その華やかな様子は春の花が一斉に咲き出したようであり、その鋭い攻撃は秋の風が木々の葉を散らせてゆくようであった。
これを聴いていた者は、管輅の言葉に目を眩まされて意味を深く知ることができず、論陣を張っていた者たちも声を潜めて、自分たちの敗北を心から認めない者はいなかった。秦の将軍・白起が戦勝して趙の士卒数十万人を生き埋めにし、項羽が漢の兵を濉水に追い落とし、そのために濉水が流れなくなったという大勝利も、この管輅の勝利に勝るものではなかった。
そこで賓客たちはみな面縛銜璧*6し、管輅の軍鼓の下に自ら罰を乞おうとしたが、管輅は山の頂上に立ってすぐには降伏を許そうとはせず、次の日、別れの時になって初めて、彼らと腹蔵のない固い交わりを結んだ。
その中には当時、天下に聞こえた俊士が8〜9人おり、蔡元才はそうした朋友の中で最も清才を備えた人物であったが、人々の前で管輅に「卿のことを聞いて狗だと思っていたが、思いがけなくも龍となられた」と言うと管輅は「陽の気が潜んだまま未だ変化をせぬ時、卿にはそれを察知することができません。どうして犬の耳で龍の声を聞くことができましょうやっ!」と言った。
脚注
*6自ら両手を後ろ手に縛り、璧を銜えて出頭する降伏の方法。
射覆を言い当てる
冀州・魏郡・館陶県の県令・諸葛原(字は景春)は、学問のある人物で卜筮を好み、しばしば管輅と射覆*7をしたが、管輅を降参させることができなかった。
景春(諸葛原)が新興太守に昇進して幷州(并州)・新興郡に赴任することになった時、景春(諸葛原)は管輅が送別に来る機会を捉えて議論に達者な賓客を多数集め、管輅と議論を戦わせたが、賓客たちは負けを認め、腹蔵のない固い交わりを結んだ。
その後、景春(諸葛原)は「今、別れて遠い地方に行くことになって、再開は期しがたい。今一度、一緒に射覆*7をしようではないか?」と言い、自ら立って、燕の卵・蜂の巣・蜘蛛を用意して器の中に入れ、管輅に射覆*7をさせた。
卦が立つと管輅は「1つめの物は、天地の気を含んで生命を養いつつ変化の時を待ち、建物の軒に身を寄せています。雄雌の区別はすでについていますが、翅翼はまだ伸びておりません。これは燕の卵です。2番目の物は、家室(部屋)が逆さまにぶら下がって門戸は甚だ多く、鋭い針を隠して毒を養い、秋の季節になると死んでしまいます。これは蜂の巣です。3番目の物は、恐ろしげに長い足を動かし、糸を吐いて羅を織り上げます。網によって食物を得ますが、暗い夜が獲物を得る絶好の機会です。これは蜘蛛です」と答え、多数居並ぶ者たちは驚き喜んだ。
景春(諸葛原)は大いに笑って「我のためにこれらの卦の意味を論じて、我の胸の内の疑問を解いてはくれまいか」と言うと、管輅は爻の意味を明らかにし、その道理を条理立てて述べ、それぞれに形象を当てはめて説明した。その言葉は表現できない程の見事さであったので、景春(諸葛原)をはじめ多くの賓客たちは「後の議論の見事さの方が、射覆*7の楽しさに勝った」と口を揃えていった。
脚注
*7器の中に物を入れてそれを当てさせる遊び。
諸葛原の戒め
景春(諸葛原)は管輅と別れるに及んで、彼に2つの「戒め」を言った。
「卿は酒好きで少しのことでは乱れたりしないが、保証はできない。節制した方がよかろう。また、卿には水鏡の才*8があり、物事の機微を見通すことができる。しかし、神の如く天文を観ることができても、禍は膏を注がれた火のようなものなので、慎重になるべきだ。卿は叡才を保って雲漢(天の川)に遊んでいれば『富貴になれぬ』などと心配する必要はない」
すると管輅は「酒は無限に飲めるものではなく、才能も使い尽くすことはできませんから、酒を飲む時は礼によって自分の欲を節制し、才能は愚かさを装うことでしっかりと保てば、何を患えることがあろうか?」と答えた。
脚注
*8人の手本になるような理解力や判断力に優れていること。
仕官する
冀州・清河郡の北黌文学となる
当時、管輅の家の近隣では外戸を閉めていなかったが、盗み(偷窃)を働く者はいなかった。
清河太守の華表は、管輅を召して文学掾(『管輅別伝』では北黌文学)としたが、当時、管輅と交わりを結んだ士人たちの中に、彼を慕わない者はいなかった。
趙孔曜の推挙
冀州・安平国出身の趙孔曜は、頭の働きが鋭く深い思慮と知識があって、管輅とはかねてから管仲と鮑叔のような厚い友情で結ばれた間柄であった。
(管輅が清河郡に出仕すると、)趙孔曜は兗州・東郡・発干県から冀州・清河郡の黌(学校)にやって来て、管輅に、
「卿の胸中は充実しており*9、古の聖人に匹敵し、今の世に並ぶ者はいない。当然、世俗を越えて青空に飛翔されるべきであるのに、どうしてこんな所におられるのか?卿のこうした有り様を聞き及んで、私は食事も不味くなってしまった。冀州刺史の裴使君(裴徽)は、頭が斬れ心は澄み渡り、道の根本をよく理解しておられ、『易』や老荘の道を論ぜられる時、必ず厳・瞿(厳君平・商瞿?)といった人々の説を、心を込めて述べられる方である。また吾にも重く目をかけてくださり、よく心の内を広げ、誠をもって接していただいている。これから出掛けて行って、虎を感動させ石をも動かす誠でもってあなたのために弁じてあげようと思う」
と言うと、管輅は、
「吾は4つの淵に潜む龍ではない。どうして曇りのない太陽を陰らせることができようか?ただ卿が東風を吹かせ、朝、空にたなびく雲を興してくださるのであれば、吾はそれを辞退しようとは思いません」
と答えた。
そこで趙孔曜は、そのまま冀州・魏郡・鄴県*10に行って裴使君(裴徽)と会った。
裴徽「君の顔は随分やつれているが、どうしたのだ?」
趙孔曜「これは薬で治る病気ではありません。ただ清河郡に1頭の騏驥(駿馬)がいて、長年後の厩に繋がれ、王良・伯楽といった良馬を見る目のある者から180里(約77.4km)も隔たって、その天骨(才能)を騁せ、風塵を巻き起こすことができずにおります。憔悴しているのはそのためです」
裴徽「その騏驥(駿馬)は今どこにいる?」と言うと、趙孔曜は、
趙孔曜「その者は平原郡出身の管輅、字は公明と言い、歳は36歳。元々寛大な性格で世間との折り合いも良く、士人の中の雄傑と申せます。見上げて天文を観察すれば甘公・石申*11の天文占いの精妙さに匹敵し、目を下ろして『周易』を読めば、その理解の深さは司馬季主と変わるところがございません。また道術の世界に心を遊ばせ、その精神は広々として果てしなく、士人の中の英俊と申せます。荊山の璞(和氏の璧)を抱き、夜光の宝[明珠(夜光玉)]を懐にしておりますのに、清河郡では北黌文学の微官につけられております。真に胸が痛み頭が痛む次第でございます。使君(裴徽)は只今、辺鄙な田舎に住む者たちの任用に意を注ぎ、日の当たらない場所にいる者たちの抜擢に心を向け、聡明な統括者が補佐のないまま政治を行うことがないよう、人並み優れた才能を持った者が長く任用されないままにならないように心掛けておられ、その高邁なご風化は遙かな土地にまで及び、風の前の草のように靡かない者もございません。どうか管輅も、特にその輝かしいお心に秘かにかなってお取り立てを蒙り、時を得て華々しく表舞台に立つ人々の列に加えてやってくださいますように。必ずや盛んなご教化を広く敷かれるのに役立ち、天下に御名を高らしめるに違いございません」
裴刺史(裴徽)はこの言葉を聞くと心を高ぶらせ、
「何としたことだっ!大きな州(の刺史の役目)にあるが、任用して私の心の鬱悶を晴らしてくれるような異才を発見することができぬまま、京師(洛陽)に還って人々と道の哲学についてでも議論しようと考えていたのだ。ましてや草深い民間に、澄みきって精妙な才能を持った者がいようとは。言われる通りであるならば、すぐさま紹介して欲しい。これ以上、駿馬を駑馬としておくことはできず、荊山の璞(和氏の璧)をただの石ころとしておいてはならない」
と言い、すぐさま檄文を送って管輅を召し寄せて文学従事とした。
脚注
*9原文:卿腹中汪汪。汪汪は「(涙が)いっぱいたまっている」「水が広く深い」という意味。
*10『続漢書』郡国志に「冀州の州治所は常山国・高邑県」とあるが、後に管輅が冀州刺史・裴徽の招聘に応じて冀州の州治所に向かう際、清河郡を出発して鄴県にある武城を通っていることから、当時、冀州の州治所は魏郡・鄴県であったと思われる。
*11戦国時代の天文占いの名手。伝来は怪しいが甘公・石申著の『星経』が現在に伝わる。
冀州刺史・裴徽に招聘される
管輅が冀州刺史・裴徽の招聘に応じ、弟の管季儒と共に車に乗って武城*12の西までやって来た時、管輅は自分の将来の吉凶を占って、管季儒に「(これから通る)故城の中で3匹の狸を見ることがあったら、我らは出世するだろう*13」と言った。
そのまま河(漳河)西の故城の隅まで進んだ時、まさしく3匹の狸が城壁の側にうずくまっているのが見えたので、兄弟は喜んだ。
管輅が冀州刺史・裴徽に目通りすると、疲れを知らず終日清論を戦わせた。ちょうど暑い盛りで、床(人が座ったり寝たりする大きな台)を庭前の樹の下に移して議論を続け、鶏が鳴いて夜が明けかかる時になって、管輅はやっと退出した。2度目の目通りの際にはすぐさま鉅鹿郡の従事に転任され、3度目には治中従事に転任され、4度目には別駕従事に転任された。
脚注
*12『続漢書』郡国志に「鄴県には汙城、平陽城、武城、九侯城がある」とある。
*13原文:「當在故城中見三貍,爾者乃顯」。狸には「タヌキ」と「野生のネコ」の意味がある。「爾(お前)」の部分は、自分の将来の吉凶を占って言った言葉であることから「我ら」とした。
裴徽の忠告
魏の正始9年(248年)10月、管輅は秀才に推挙されて京師(洛陽)に上ることになった。管輅が裴使君(裴徽)別れの挨拶を述べると、裴使君(裴徽)は「何晏・鄧颺の2人の尚書*14は国を治めるに足る才略を持たれ、物事の道理についても精通されている。特に何尚書(何晏)の心の働きは物事の精髄を極め、その言葉はみな巧妙で、秋毫*15のような微細なものでも破る危うさを持っている。君も慎重に振る舞う必要があるだろう。(何晏は)『易』について9つの不明点があると言っておられたから、きっとその事について尋ねられるに違いない。洛陽に着くまでに『易』の道理についてよく調べておくように」と言った。
管輅は「何晏が巧妙であるとすれば、それは『攻難の才(相手の議論に対する論難の才能)』であって、未だ霊妙な部分までは達しておられないでしょう。そもそも物事の霊妙な部分にまで達した者は、天地の大きな秩序の中に歩を進め、陰と陽の変化を推しはかり、物事の奥深い原理を探って、幽明(冥土とこの世)を極め、然る後に果てしない道であることに気づくことになります。つまらない事にかかずらう暇はありません。もし老子と荘子に優劣をつけて『易』の爻や象を比べ合わせ、小さな議論に執着して根なし草の文飾で飾り立てようとするのであれば、それは的を射る弓術の巧みさとは言えても、秋毫*15のような微細なものを破る精妙さではございません。また9つの不明点について言えば、それらはみな道理の通ったものですからわざわざ思考を労する必要もございませんし、陰陽についてならば随分前から精通しております。輅が出発しました後、元日の朝に時刑の大風があり、その風はきっと木々を打ち砕くでありましょう。もしその風が乾(北西)の方向から起こったのであれば、必ずや天帝の刑罰がありますが、ご相談くださるほどのことではございません」
と言った。
脚注
*14wikisourceの原文には「(丁)、鄧二尚書(丁は丁謐)」とあるが、その後の流れから何晏とした。
*15秋に生え替わったばかりの、細くて先端の鋭い獣類の毛。転じて、きわめて微細なこと。わずかなこと。
管輅と何晏
何晏を戒める
魏の正始12年(248年)12月28日、吏部尚書の何晏が管輅を招待したが、その時鄧颺もまた何晏の元にいた。
何晏が管輅に、
「君の立てる爻(卦)は神妙であると聞く。試しに私が三公に至ることができるか、1度卦を立ててはくれまいか」と言い、また「『数十匹の青蠅が鼻の上にたかって、追い払うことができない』という夢を幾晩も見たが、これは何を意味しているのだろうか?」
と問うと管輅は、
「彼の飛鴞は天下の賤鳥と言えども、林にありて椹(桑の実)を食べれば、美しい声で鳴くと申します。まして輅は心のない草木ではございません。どうして忠を尽くさないことがありましょうか?
昔、八元・八凱と呼ばれた立派な臣下が舜帝を補佐し、懇ろで和らいだ政治を敷き広げました。また、周公が周の成王を後見して政治を行った時には、(夜中に良い施策が思い浮かぶと、)座ったまま旦(夜明け)を待って、すぐさま実行に移しました。故に流れ出る光を六合(天下)に伝え、万の国々をあまねく安んじられたのであります。これらは正道をふみ行う休応(めでたい験)であって、卜筮によって明らかにできることではございません。
今、君侯の位は山岳のように重く、その勢いは雷や稲妻のようでございますが、その御徳に懐く者は少なく、みな御威勢を畏れるばかりです。これでは小心翼翼(気が小さくてびくびくしているさま)として上帝からの多福を乞い願いつつ、仁ある政治を行った文王の御心から外れてしまっているではありませんか。
また『鼻』は、艮の卦に対応するもので、これこそ天中の山*16であって、高くとも危うからず、それこそが貴い地位を長く守っている根拠でございますが、今、悪臭のする青蠅が集まってまいりました。
位峻(高い位)の者は没落し、他人を侮り傲る者は滅びます。満ちては欠ける運勢や、繁栄と衰退の時期について考えることを怠ってはなりません。
それ故に地に山があることを『謙』と言い、天上に雷があることを『壮』と言います。『謙』とは『(自分の)多い部分を減らして少ないものを益すこと』であり、『壮』とは『礼に外れた道は行わないという勇気をもつこと』です。己を卑下すれば必ずその力が大きくなり、道に外れたことを行えば必ず失敗するのでございます。
どうか君侯はには、古くは文王が『易』の六爻の主旨を思い起こされ、(時代を)下っては尼父(孔子)が作った『易』の彖伝・象伝の意味を熟慮されますように。そうされて初めて、三公の地位は確実なものとなり、青蠅も追い払うことができましょう」
と、身を慎むように言った。鄧颺が「そんなことは年寄りたちのいつもの譚(言い草)だ」と言うと、管輅はこれに答えて、
「そもそも悟りを開いた年寄りの言葉には、深い意味が表れるものでございます。(夫老生者見不生,常譚者見不譚)」
と言うと何晏は、
「物事の微妙な兆候を神の如く見抜くことは古人にとっても難しく、深い交わりのない人に向かって忌憚のない言葉を吐くことは今人にとっても難しい。
今、君は1度面会しただけでこの2つの困難なことを同時になされた。思うに馨しい明徳を有していると言えるだろう。『詩経』の言葉を借りて言おう、『私はあなたの好意を忘れないだろう(中心藏之,何日忘之)』!と」
と言い、「年が明けたらもう1度会おう」と言った。
脚注
*16人相占いの書物では鼻のある場所を天中と言い、鼻の形は山に似ている。故に「天中の山」と言ったのである。
何晏と鄧颺の死を当てる
何晏と会見した後、邑舎(宿舎)に帰った管輅が、舅氏(母の兄弟)の夏大夫に会見の様子を詳しく語ると、夏大夫は「管輅の言葉が明け透け過ぎた」と言って非難した。ところが、管輅はこれに「死人と話しているのに何を畏れることがありましょうや?」と答えたので、夏大夫は大いに怒り、「管輅は気が狂って見境がなくなったのだ」と考えた。
(翌年の)元旦、西北の大風が吹いて塵埃が天を蔽い、それから10日余りして「何晏と鄧颺が揃って誅殺された」という風聞が伝わった。そこで初めて夏大夫も管輅の眼識に敬服したのであった。
そこで夏大夫は「以前、何晏と鄧颺と会見した時に、もう既に凶気があったのか?」と尋ねると、管輅はこう答えた。
「禍人と会うことによってその精神が錯乱していることを知り、吉人と親しむことによって聖賢が本質を求めていることを知ることができます。鄧颺の歩き方を見れば、筋が骨から離れ脈は肉を制御することができず、起立すれば傾きもたれて手足はないようなものでした。こうした有り様を『鬼躁』と言います。また何晏の目つきは魂が拠り所を失い、血も濁り精神は朦朧とし、その容貌は枯れ木のようでした。こうした有り様を『鬼幽』と言います。
『鬼躁』の者は風に捕らえられ、『鬼幽』の者は火に焼かれるのが自然の成り行きであって、誰もそれを免れることはできないのです」
何晏を批評する
管輅が後に、事情により休暇を得て郷里に帰った時のこと。裴使君(裴徽)は、
「何平叔(何晏)どのは一世に名高い才能を持った人物であったが、実際に会ってみてどうであったか?」
と尋ねた。管輅が、
「その才能は壺の中の水のように、人に見える部分は澄んでいても、人に見えない部分は濁っておりました。知識・学識を広め、学ぶことに熱心でなければ、才能を完成させることはできません。盆盎(盆や鉢)の水に1つの山の形を求めても形を得ることはできず、彼の智も混乱してしまったのです。故に老子や荘子を論ずれば巧みであっても上辺ばかり華やかで実質が伴わず、『易』を論ずれば様々な意味づけをして華麗ではあっても偽りが多いのです。華美であれば上辺ばかりで実質が伴わず、偽りがあればその精神は虚ろになります。もし彼に上才が与えられていれば、浅薄な点はあっても人々から隔絶した位置に立つことができ、中才が与えられていれば、その精神を遊ばせて人々から抜きん出ることができた筈です。輅が考えますに、彼はちっぽけな巧みさを才能としていたに過ぎないのです」
と答えると、裴使君(裴徽)は、
「誠にあなたの言われる通りだ。吾は何度か平叔(何晏)どのと共に老子や荘子、『易』を論じたが、常にその言葉が道理の微妙な部分を捉えているように覚えて、反論することができなかった。また当時の人々も慣れ親しんで、みな帰服していたため、益々彼の本質が分からなくなってしまっていた。あなたに会って立派な批評を聞くことができ、初めて彼のことがはっきりと理解することができた」
管輅と鍾毓
『易』について議論する
魏郡太守の鍾毓は、俗事を超越した高い才智を持った人物であった。
管輅が鍾毓の元を訪れた時のこと。鍾毓は管輅の『易』の議論について、20余箇条にわたって誤りを論じ立てたが、管輅は打てば響くように少しの滞りもなく反論した。その議論は『易』の爻と象をそれぞれに分析し、微妙な深意を得たものであったので、鍾毓はすぐさま管輅に謝罪した。
鍾毓の誕生日を筮う
管輅は話の成り行きから「卜によって君の生まれた日と死亡する日を知ることができます」と言った。そこで鍾毓が自分の誕生日を筮わせると、管輅は少しの狂いもなく言い当てた。
鍾毓が大いに驚いて「聖人は思索・思考を集中させて物事の変化に通じると言うが、どのようにしてそのようなことができるのかっ!」と言うと、管輅は次の様に答えた。
「幽明(冥土とこの世)は同化し、死と生は1つの道の上にあって、悠久不変の太極のように循環しています。周の文王は苦境に陥った時にも憂えたりはせず、仲尼(孔子)は死を前にしても懼れず杖を曳い(て気ままに歩き回っ)ていたのは、蓍筮(卜筮)によって(自分の運命を)理解していたからなのです」
鍾毓は、
「生きることはめでたいことであり、死ぬことは厭うべきことである。その哀楽ははっきり分かれており、吾には生と死を同様に受け入れることはできない。死は天によって定められるもので、君によって定められるものではない」
と言って、死亡する日を筮わせることはしなかった。
司馬懿のクーデターを当てる
また鍾毓が「天下は太平となるであろうか?」と尋ねると、管輅は、
「今は淵にあった龍が正に天に飛ぼうとし、立派な人物に会うに相応しい時です。神の如き武略を備えた人物が出現して権力を打ち建て、王者の統治が華やかに輝きます。どうして天下の乱れを憂える必要がありましょうか?」
と答えた。鍾毓には管輅の言葉の意味がよく分からなかったが、程なくして曹爽らが誅殺されると、やっとその意味を悟ったのであった。
管輅と石苞
姿を消す方法について語る
石苞が冀州・魏郡・鄴県の典農中郎将*5であった時、管輅と会見して「聞けば君と同郷の翟文耀は姿を消すことができるとのことだが、それは本当なのだろうか?」と尋ねると、管輅は答えて言った。
「これは単に陰陽の持つ蔽匿(隠す)という作用によるものに過ぎません。その原理の働きを把握しさえすれば、四岳*17だって隠してしまい、河や海だってどこかにやってしまうことができます。まして人間の7尺(約169.4cm)の身体を万物の変化の中に遊ばせ、散じて雲霧となして身を潜め、金や水など五行に分解させて跡形もなくすることなど、その術に精通し、陰陽の作用を充分に把握してさえいれば、何の造作もないことなのです」
これを受け、石苞が「その微妙なところを聞きたい。どうか存分に、その原理の働きについて語っていただきたいものだ」と言うと、管輅は答えて言った。
「この世の存在は純粋でなければ不思議な働きを示すことができず、原理の作用も精妙でなければ、それを実際の場で働かせることができません。それゆえ純粋なものには不思議な作用が合わさり、精妙なものには優れた智力がそれに対応するのです。ただこうした合致対応は極めてほのかで微妙なので、精神によってそれに精通することはできても、言語によって論じることは困難なのです。
ですから優れた工芸者の魯班にも、自分自身の巧みな腕前について説明させることは困難であり、鋭い目を持った離硃(離朱)にも自分の眼の働きについて説明させることは不可能なのです。それは口に出すことが困難だというのではありません。孔子も『書物は言葉のすべてを表現してはいない』と言われています。言いたいことの細部までは文字によって表されないということであり、また『言葉は意をすべて表現してはいない』とも言われており、これは意の微妙な部分までは言葉によっては表されないということなのです。これらはみな(本質的なものが言葉には表現されない)不思議で微妙なところにあることを言っているのです。
では、その大凡の骨組みになる部分を挙げてこのことを証明してみましょう。太陽が天に昇る時、万里に光を送り照らさないものはありませんが、一度地中に入ってしまえば、ほんの少しの光も見ることができなくなります。盈月(十五夜の満月)が澄み切った輝きで夜空を照らす時、はるか遠くまで望むことができますが、その月が昼に出れば、その明るさは鏡にも及びません。今ここで、この太陽と月の光から身を隠すことができるのは、必ずや陰陽の働きに則っているからであり、陰陽の働きというものは万物すべてに共通しているのです。鳥獣ですら陰陽の働きに従って変化してゆくのですから、まして人間ならば言うまでもないことです。
その原理の働きを把握した者は精妙な存在となり、その原理の神秘さを把握する者は不思議な力を持った存在となります。そしてこれは生者に対してのみその実証が得られるというのではなく、死者についても同様です。だからこそ杜伯は火の気の力を借りてその精妙な働きを人々の前に示し、彭生は水の原理を借りて変化し、豕として姿を現したのです。故に生者は姿を現すことも消すこともでき、死者も姿を顕すことも隠すこともできるのです。これこそ万物の精気の働きであり、それが変化してゆく過程で物から離れて遊魂となって奇怪な現象を引き起こすのであって、生者と死者が感応し合うのも、陰陽の働きがそうさせるのです」
石苞が「陰陽の理をしっかりと見通しているという点では君に勝る者はいない。君自身はどうして姿を消されないのか?」と問うと管輅は、
「そもそも高く大空を翔る鳥はその清らかで高々とした環境を愛して、長江や漢水の魚となろうとは願いません。沼の淵に住む魚はその湿潤な環境を楽しんで、風の中を飛翔する鳥に変わろうとはいたしません。その天性が異なっており、守るべき本分が同じでないからです。
僕自身の願いは、身を正しく道を明らかにし、己を直して義に親しむことにあって、陰陽の働きが見通せても取り立てて立派なことと考えず、それを発動させる術を知っていても奇とすべきこととは考えません。ただ朝夕に事物の機微を追求し、怠りなくこれまでに習ったことを復習しているのであって、意味もなく姿を消したり怪事を行ったりすることには、心を向ける暇もありません」
と言った。
脚注
*5原文は典農。『晋書』石苞伝より。典農は屯田(民屯)の実施地域で農業生産、民事、土地の賃貸管理などを担当する官職で、典農中郎将、典農校尉、典農都尉がある。
*17中原の四方にあり、諸山の鎮めとされた東の泰山、西の華山、南の衡山、北の恒山の4つの大山。
管輅と劉邠
射覆を言い当てる
平原太守・劉邠(字は令元)は、印囊(印章を入れる袋)と山鶏の羽毛を選んで器の中に入れ、管輅に筮わせたところ、管輅は、
「内側が四角で外側が丸く、5色の文様を成しており、内に宝物をひそめてしっかりと自らを守り、外に表れるとはっきりとした章となります。これは印囊(印章を入れる袋)です。ゴツゴツとした高岳に身体が硃い鳥がおり、羽翼は玄と黄色で、夜明けには時刻を違えずに鳴きます。これは山鶏の羽毛です」
と答えた。
劉邠の限界を諭す
元の郡将(太守)・劉邠は清らかで穏やかな性格で、論理だった思考力を備えていた。彼は『易』を好んだが、その奥義を窮めることができずにいた。
劉邠は管輅と会うと大変喜んで「自分は『易』に注釈をつけているが、それが完成間近であること」を語った。すると管輅は、
「今、明府(劉邠)さまは、世にも稀なお精神を働かせ、大いなる原理に筋道をつけようとしておられますが、これこそ今の時節が誠に素晴らしい世であることの表れでございます。ですが輅が考えますに、『易』に注釈をつけることの緊急性は、水に溺れ火に焼かれている者を救うよりも切迫した要務です。水や火の災難を救うのは、その場での働きだけですが、『易』の清濁陰陽に関する解釈の善し悪しの影響するところは、万代の後にまで及ぶのです。故に真っ先にその精髄をしっかりと見定めて、然る後に思慮を加え分析しなければならないのです。夜明けから今に至るまで、ご聖論を拝聴しておりましたが、『易』の本質は1/10も理解できておられません。これでどうして『易』に注釈をつけられましょうかっ!輅には理解できませんが、古の聖人はどうして乾を西北に位置させ、坤を西南に位置させたのでしょうか。そもそも乾と坤は天と地を象り、天と地はこの世で最も大きいものです。神々にとっての主君や父親にあたるもので、天は万物を覆い、地は万物をその上に載せて、長生させ養い育てるものです。それがどうして他の6つの卦と同列に並んでいるのでしょうか?乾の卦の彖伝は『大いなる哉、乾の元としての存在は。万物はここから発生したのだ。こうしたものであればこそ、天をも統べるのである』と言います。統べるというのは自分の下に属させることであって、これ以上尊いものがないのです。それなのにどうして西北という、他と並立する位置を持っているのでしょうか?」
と言った。劉邠は『易』の繋辞伝に依拠してこの問題に解釈をつけようとしたが要領を得ず、管輅は、劉邠が1つ答えるごとにすぐさま反論し、劉邠の議論はすべて行き詰まってしまった。
管輅は、
「そもそも乾と坤というものは『易』の祖宗であり、万物の変化の根源であります。今、明府(劉邠)さまが論ぜられた陰陽清濁の議論には疑問点があり、疑問点があれば真髄を得ているとは言えません。おそらくは『易』を注釈されるのに適した資質はございません」
と言うと、劉邠に向かって八卦の道と爻と象の持つ詳しい意義を論じて、まず根本的な大議論を繰り広げ、さらに様々にそれを変化させつつ(特殊な場合についての)議論を続けた。劉邠には、自分に分かる部分は極めて精妙に思われ、分からない部分は神秘的に感じられた。
劉邠は自ら、
「『易』に注釈をつけようと思い始めて8年、色々と思いを巡らせて、長年心を休ませることがなかったが、思いがけなくもあなたのご高論を聞くことができ、私の才は『易』に注釈をつけるなど及びもつかないものだったことを知らされた。これまで久しく苦労したことを惜しいとは思わない。あなたの雅言(立派な言葉)を拝聴することができて嬉しく思う。お陰でこの後は枕を高くして寛いで休むことができる」
と言った。
劉邠と議論する
管輅の言葉を聞き、『易』に注釈をつけることを諦めた劉邠は、今度は管輅に射覆*7について教えて欲しいと言った。
これに管輅が、
「明府(劉邠)さまは『易』に注釈をつけることを諦められました。これと同様に、霊妙な蓍(筮竹)の働きについても思いを絶たれますように。霊妙な働きを持つ蓍(筮竹)とは、天と地の二儀に基づく技術であり、陰陽の働きと深く結合していて、その原理を施せば天下の吉凶を定めることができ、この技術を用いれば天下の隅々まで収めることができます。微少なものを捉えるという点で、『易』とは比べものにならないのです」
と言うと劉邠は、
「(筮竹の技術が)『易』の技術と近いことから、その一端を知ろうとしただけなのだ。あなたの言う通りであれば、どうしてこんなことに手を出したりしようか?」
と言った。
その後、劉邠は管輅を5日間引き留めると、役所の仕事を顧みず、ひたすら管輅と清譚(世俗を越えた議論)ばかりをしていた。劉邠が自ら、
「私はしばしば何平叔(何晏)どのと『易』や老子、荘子の道理について議論したものだが、精神ははるか遠くに遊んで万物の変化を取り持ち、金や水のごとく清らかで、隆盛するさまは山林のごとくある点で、君は何平叔(何晏)どのを遙かに超えている」
と言った。
脚注
*7器の中に物を入れてそれを当てさせる遊び。
平原郡の怪異
また劉邠が、
「郡の官舎で立て続けに奇怪な出来事が起こっており、その怪異は多種多様で、人々を恐怖に陥れている。君はこうした事の起こる道理に通じておられるようだが、何が原因なのだろうか」
と尋ねると、管輅は、
「この郡が平原郡と呼ばれるのは、元々ここが広々とした原野で、山があっても木や石がなく、大地の元々の姿を留めていたからです。(そうした土地柄から)大地が陰の気を含んでもそれを雲として吐き出すことができず、陽の気を含んでもそれを風として吹き出させることもできないのです。陰と陽はたとえ微弱であっても、それなりに奥深く不思議な作用をいたします。その奥深く不可思議な作用が押し止められて自然のままに発揮されることがないと、多くの凶姦を集め、類は友を呼んで、魑魅魍魎が群れをなすことになるのです。
おそらく漢末の混乱の時に兵馬が乱れ争い、兵士たちの屍から流れ出た血がこの辺りの丘岳を汚染しました。故に横死した者たちの霊魂が感応し合い、様々に変化して、暗い夜に乗じてしばしば奇怪な物が姿を現すのでありましょう。
昔、夏の禹は優れた聡明さを持たれ、黄龍が現れても怪しんだりはせず、周の武王は時運の流れを信じて暴風に襲われた時にも心を騒がせることがありませんでした。
今、明府(劉邠)さまは高く優れた徳をお持ちです。神秘に通じた者は妖異を懼れる必要はなく、天祐(天の祐け)によりすべてが吉く運びます。どうか天から降される百禄(多くの幸い)をその身に受けられて、天のめでたいご加護を存分に活用されますように」
と言った。また劉邠が、
「正に怪異が起こる原因を正しく捉えている。なぜなら奇怪なことが起こる時にはいつも、軍鼓や角笛の音が聞こえ、弓や剣の形が見えることがあるからだ。考えて見るに、(木や石のない)禿げ山の精と、(不当に殺された)伯有*18の霊魂の両者が結びつくことができた時、明らかな人間世界までも侵犯してくるのだろう」
と言い、
「『易』(大畜・卦の彖伝)に『剛健にして篤実ならば、その徳の輝光は日々に鮮やかとなる』とあるが、この輝と光は同じなのだろうか?」
と尋ねると、管輅は、
「表現が異なっているだけで、朝旦(夜明け)には輝と言い、日中には光と言うのです」
と言った。
脚注
*18春秋時代の鄭の大夫。良霄の字。良霄に不満を持つ子晳(公孫黒)の攻撃を受けて許に逃亡。子皮(罕虎)を頼って旧北門を攻めたが、駟帯に敗れて羊肆(羊商街)で殺害された。死後、彼は幽霊となって祟りを起こし、後に不当な仕打ちを受けたり、不当に死んだりした人の代表として扱われるようになった。
管輅と徐季龍
徐季龍との議論
清河令(冀州・清河郡・清河県の県令)の徐季龍(字は開明)は才機のある人物であった。
徐季龍は管輅と会見すると「龍が動けば景雲(めでたい雲)が立ち昇り、虎が吠えると万物を生育する東の風がやって来る」とされることが議論となったが、徐季龍の意見は「これは火星(アンタレス)が龍であり、参星(オリオン座の3つ星)が虎なのであって、火星が出れば雲が応じ、参星が出れば東の風がやって来るのであり、これは陰陽が感応して引き起こされる現象で、実際の龍や虎が招き起こすのではない」という主旨であった。
管輅は「議論をしたり異論を提出したりする場合には、まず真っ先にその根本を明らかにし、その後でその道理を探究しなければなりません。道理を捉え損ねれば、その道理の働きの機を取り間違え、その働きの機を取り間違えれば、やがては名誉をもたらすべき議論が、却ってその人に恥辱をもたらす結果となるのです。
もし(冬の星座である)参星を虎とするならば、それに反応する谷風(万物を養い育てる春の東風)は却って冬の霜をもたらす風となってしまいます。冬の霜をもたらす風を、春の東風と呼ぶことはできません。
私が考えますに、龍というものは陽の精でありますが、潜めば陰となります。その(陰陽を兼ねる)霊妙な力が秘かに天に伝わり、気を調和させて神々を動かし、調和した気と神々の力とがそれぞれの作用を助長し合うことによって、雲を起こすことができるのです。
虎というものは、陰の精でありながら陽の位置におり、樹木のもとで長く嘯き、巽(木を象徴する卦)の林にその力を働かせれば、陰陽の2つの気が感応し合って、風を吹き起こすことができるのです。
ちょうど磁石が鉄を吸い付けるように、それを動かしている神秘な存在は見えなくとも金属が自然と近づくようなもので、明らかな効力を持って相手に反応を起こさせるのです。ましてや龍は淵に潜んだり天を翔けたりする変化の力を持ち、虎にはくっきりとした文様があって虎変の能力を備えているのですから、雲を呼び風を招くことについて、なんの疑いを差し挟む余地がありましょうか?」
と言った。これに徐季龍が、
「龍が淵に潜む時、1つの井戸の底ほどの場所にわだかまるに過ぎない。虎が悲しげに吠える時も、百歩の内にその声が聞こえるに過ぎない。その物としての存在も気も力の弱いものであり、その実際の作用が及ぶのも狭い範囲であるのに、どうして景雲(めでたい雲)を湧き昇らせ、東風を吹かせることができるのだろうか?」
と言うと、管輅は、
「君はご存知ないでしょうか。陰燧と陽燧*19を掌の上に持てば、そのもの自体は手から離れることはなくとも、上は太陽から火を取り、下は太陰(月)から水を取ることができ、一呼吸の間に、そこに水気と火気とが降ってくるのです。純粋な気が感応し合いさえすれば、大空にかかる日月も陰陽2つの燧に反応し、もし感応の関係がない場合には、2人の女が同居していても、互いの心が通じ合うことはありません。このように、本来の道理の働きというものは、距離の遠近には拘わらないのです。」
と言った。また徐季龍が、
「世に軍事が起ころうとする時、鶏や雉はそれに感応して真っ先に鳴くが、どうした道理からこうしたことが起こるのだろうか?他にもそうした変化を知る手立てがあるのだろうか。鶏や雉だけなのだろうか?」
と言うと、管輅は、
「貴人に何か事が起こる時、その反応は天に現れ、日月星辰(太陽・月・星々)に変化として現れます。また兵が動いて民が憂える時、その反応は物に現れ、山林の鳥獣に変化が現れます。鶏というのは兌の卦(西方を現す)に当たる家畜で、金(西方に当てられる元素)は兵器の根本的な要素であり、雉は離の卦(南方を現す)に当たる鳥で、獣は武の神秘的な力を象徴するものです。
故に太白(金星・明けの明星)が光を輝かす時に鶏は鳴き、熒惑(火星・火は南を象徴する)が天に動く時に雉は驚き、それぞれ運数の変化に感応して動作を起こします。また兵事の神秘的な法則は、六甲*3の中に分かれて含まれています。この六甲*3の変化に対しては、その意味を知るための方法は1つと決まってはおりません。
また晋の文公の柩の中から牛の鳴き声のようなものが聞こえた時、果たして西軍が通過し、鴻嘉年間(前漢・成帝期の元号)には、太鼓の形をした石が鳴り響いた時に兵事がありました。鶏や雉といった身近なものだけにその反応が現れるとは限らないのです」
と言った。また徐季龍が、
「魯の昭公8年に、晋で石がものを言った。師曠は『季節外れの時に民を労役に駆り出したために民たちの間に怨讟(怨みの声)が起こったため、もの言わぬ物が言葉を発したのだ』と言っているが、この解釈は道理に適っているのだろうか?」
と言うと、管輅は、
「晋の平公が奢侈に耽り、宮殿を大きくしたり飾り立てたりするために山林の木々を伐採し、金や石を破壊して民の力が疲弊し尽くしたのに加え、山や沢までが怨みを持ちました。これにより神々は痛み、人々は憤激して、両者の精気と金と石とが気を同じくしました。故に兌の卦が口舌を表し、口舌の怪異が不思議な石として発動したのです。『洪範五行伝』に『百姓を軽んじて城郭を飾り立てれば、金と革が従わなくなる』と言います。これはこうしたことを言っているのです」
と言った。
徐季龍は心から彼の意見を褒め、管輅を引き留めた。
脚注
*3十干と十二支を組み合わせてできる干支の一巡り(六十干支)のうち、甲がつくもの6つ(甲子・甲戌・甲申・甲午・甲辰・甲寅)を取り出したもの。これに特別な意味を与えて占いなどに使っていた。
*19陽燧は凹面鏡の一種。太陽に向けて神聖な火を取るのに用いた。陰燧は、形態は不明であるが、銅盤の一種と考えられ、夜中に戸外に出して露を結ばせた。その露は月から得られたものとされ、若返りの力を持つと信じられた。
狩猟の獲物を当てる
管輅を引き留めて数日が経った頃、徐季龍は使用人を狩猟に行かせると、管輅に命じて獲物を筮わせた。
これに管輅は、
「きっと小さな動物が獲られるでしょう。またそれは食べられる動物ではありません。爪や牙を持っていますが、それらは小さく力は強くなく、身体にある文様ははっきりしません。虎でもなく雉でもなく、その名は狸*13です」
と答えたが、狩猟に出た者たちが夕方に帰ってくると、果たして管輅が言った通りであった。徐季龍が、
「君は精妙に道理に通じているとは言え、隠された物を推察することはあまり得意ではないのに、どうしてみな筮い当てることができるのか?」
と尋ねたところ、管輅は、
「吾は天地に精神を合わせ、蓍(筮竹)や(亀卜に用いる)亀の甲羅に霊魂を通わせて、日(太陽)と月を抱いて杳冥(奥深く暗い)世界を遊行し、変化を見極めて未来を知るのです。ましてや(狩猟の獲物のような)手近なものを推察するのに、(吾の)聡明さが充分に発揮できないようなことがありましょうか」
と言った。これを聞いた徐季龍が大笑いして「君は謙虚さを身につけなければ、近い将来、困窮することになるぞ」と言うと、管輅は、
「君はまだ謙虚という言葉の意味を分かっておられません。それなのにどうして道理について議論することができましょうか?
そもそも天地というものは乾と坤の卦の原理に対応するものであり、蓍(筮竹)や(亀卜に用いる)亀の甲羅は卜筮の原理の働きを捉えるものです。日(太陽)と月は離と坎が象として表れたものであり、万物の変化は陰と陽の爻(交わりの表現)であって、杳冥(奥深く暗い)な存在が不思議な変化の源であり、未来というものは幽冥(暗く幽かなもの)の先にあるのです。これらはすべて『周易』の紀綱をなすところで、(こうしたものを正しい手続きで知ることができると考える私が)どうして不遜であると言えましょうか?」
と言った。
脚注
*13狸には「タヌキ」と「野生のネコ」の意味がある。ここでは「ヤマネコ」とした。
射覆を言い当てる
そこで徐季龍は管輅の能力の限界を試そうと、13種類の物を選んで大きな篋の中に置き、射覆*7をさせた。
すると管輅は「器の中にはごちゃごちゃと13種類の物が入っています」と言い、最初に鶏の卵*20を言い当て、次に蚕の蛹を言い当てると、次々とそれぞれの名を言い当てていき、ただ梳を枇(歯の細かい梳)と間違えただけであった。
これには徐季龍も賛嘆して「物事を始める者を聖人と呼び、それを祖述*21する者を賢者と呼ぶが、それは管輅のような人物のことを言うのであろうかっ!」と言った。
脚注
*7器の中に物を入れてそれを当てさせる遊び。
*20原文:鶏子。鶏子には「鶏卵」と「ひよこ」の意味がある。
*21師や先人の説を受け継ぎ、それに基づいて学問を進め述べること。
毌丘倹(毋丘倹)一族の滅亡を当てる
管輅が軍隊に従って西に行き、毌丘倹(毋丘倹)一族の墓の前を通りかかった時のこと。管輅はそこの樹にもたれて悲しげに歌を吟じ、ひどく滅入った様子であった。
ある人がその理由を尋ねると、管輅は、
「木々は生い茂ってはいても、その形は長くは続かない。碑に刻まれた誄(追悼文)は立派でも、墓を守るべき子孫はいない。玄武は頭を隠し、蒼龍には足がなく、白虎は屍を銜え、朱雀は悲しげに哭いている。4つの危機が揃っている以上、毌丘倹(毋丘倹)一族の滅亡は避け難い。2年以内にそのしるしがやってくるだろう」
と言い、やがて管輅の言った通りになった。
管輅と倪太守
雨が降る日を当てる
後に休暇を得て、冀州・清河郡の倪太守(清河太守の倪氏)の元を訪れた時のこと。当時は旱が続いていたので、倪太守が管輅に「いつになったら雨が降るのか」と尋ねた。これに管輅は「今夜きっと雨が降ります」と答えたが、その日は太陽がギラギラと照りつけていて雨が降りそうな気配はなく、倪太守にはどうしても信じられなかった。
管輅が、
「造化*22の働きが神秘である所以は、自ら急がなくてもその作用は速やかであり、自らそこに行かなくてもその作用が及ぶことにあります。
16日の壬子の日はちょうど満月で、それが畢星の中にあって水気を有しており、水気の活動が卯辰(東南東)で活発化していることから、必ず雨が降る勢いにあります。
また天帝は昨日、檄を下して5つの星を召し集め、東井*23に星符(天からのお告げ)を宣布し、南箕(星座の名前)に命令を告げて、雷公・電母・風伯・雨師を召し集めさせました。
これにより群岳(山々)は陰の気を吐き、衆川(川沢)はその精気を激らせて、雲漢(天の川)からは湿気が広がり、蛟や龍は体内に霊力を蓄えています。輝き渡る朱電(赤い稲妻)は黒々とした雲霧を吐き出し、ゴロゴロと鳴る雷声(雷鳴)は雨霊を呼吸して、谷風(東風)はそよそよと吹いています。天地はみな同じ屋根の下にあり、万物は簡単にその形を変えます。天には天の時があり、自然には道があります。(それを知ることは)それ程難しいことではありません」
と言うと、倪太守は、
「言葉は立派でもあまり信じられない。気の毒だがあなたの言うようにはなるまい」
と言ってそのまま管輅を引き留め、人を遣って丞(太守の次官)と清河郡の県令を呼び寄せた。そこで倪太守が管輅に、
「もし夜に雨が降れば2百斤の犢の肉をご馳走しよう。だが、もし雨が降らなかった時には、ここに10日間逗留してもらおうか」
と言ったところ、管輅は「ご出費をおかけすることになりましょう」と言った。
ところが、そのまま日暮れ方になっても雲の気配すら現れない。その場に集められた人々はみな管輅を嘲笑ったが、管輅は、
「樹の上にはすでに少女(西)の微風があり、樹の間には陰の鳥たちが声を合わせて鳴いています。これに少男(東北)の風が起こって鳥たちが一斉に翔べば、その応がやってくるのです」
と言った。
間もなくして、管輅の言った通りに艮(東北)の風が吹いて鳥が鳴くと、まだ太陽が沈まないうちに東南の方角にある山から雲が湧き起こり、黃昏(夕暮れ)を過ぎると、雷声(雷鳴)が天に轟いた。夜の到来を知らせる太鼓が鳴ると、星や月はみな隠れ、風と雲が並び起こって真っ黒な気が四方から押し寄せ、河を逆さまにぶちまけたような大雨が降り出した。
倪太守は悔し紛れに、
「これはまぐれ当たりに過ぎない。(雨が降っても)何の不思議もないことだ」
と言ったが、管輅は、
「まぐれ当たりで天の変化の時期とぴったり合ったのだとしても、それはそれで巧みと言えるではありませんか」
と言った*24。
脚注
*22天地万物を作ったと考えられる造物主のこと。
*23ふたご座からかに座にかけての天域。
*24以上は『魏書』方技伝が注に引く『管輅別伝』より。『魏書』方技伝には「この結果を見た倪太守は厚く管輅をもてなし、共に楽しみを尽くした」とある。
自分の死を言い当てる
正元2年(255年)のこと。弟の管辰が、管輅に「大将軍(司馬昭)さまは兄上に目をかけてくださっていますから、富貴な身分が望めましょうね?」と言うと、管輅は長いため息をついて、
「吾は自分がそうなっても良いだけの資質を備えていることを知っている。しかし天は我に才能と聡明さを与えたが、年寿(寿命)は与えてくれなかった。おそらく47〜48歳の間に、女が嫁に行き、兒(の息子)が嫁を娶るのを見る前に死ぬだろう。もしこの時期を免れることができたならば、洛陽令となって、路の落とし物を着服する者がなく、(盗賊の出現を知らせる)太鼓が鳴らされることがないような政治を行いたいものだ。だがおそらく、太山に行って鬼を治めることになり、生者を治めることはできないだろうが、仕方のないことだっ!」
と言った。管辰がその理由を問うと、管輅は次のように言った。
「吾は額に生骨がなく、眼の中に守精(ひとみ)がない。鼻には梁柱がなく、脚には天根がない。また背には三甲がなく、腹には三壬がない。これらはみな不寿(短命)の験なのだ。また吾の運勢は寅にあり、加えて月食の夜に生まれた。天には定まった運命があって、それを諱避することはできない。ただ人々はそれを知らないだけなのだ。吾はこれまで人相を占って『すぐに死ぬ』と判定した人は百人以上にもなるが、ほとんど外れることはなかった。(自分の寿命についても判断を誤ることはあるまい)」
管輅はこの年の8月に、少府の丞(次官)となり、次の年の3月に亡くなった。享年48歳であった。
閻続伯(閻纘)による伝
閻続伯(閻纘)
近頃(西晋中期)、閻続伯(閻纘)という者がおり、物事に広く詳細に通じて、歴史の記録者としても立派な資質を持っていた。その彼が、天下の様々な事柄が忘れ去られて行くのを補うために、「自分が伝え聞いたこと」として、次に記すような記事を書き留めている。それぞれの話は大人(立派な人物)や先哲(先世の賢者)たちから伝え聞いたもので、充分に信用のおけるものであって「虚偽を伝えたという非難を自分に浴びせないでくださるな」とのことである。
劉太常(劉寔)の話
ある時(閻纘は)管辰が劉太常(劉寔)と呼んでいる人物から次のような話を聞いた。
「私が管輅の名前を初めて聞いたのは、隣家の婦人のために、彼女の逃げた牛の行方を卜った時であった。管輅は『きっと西の狭い垣根の間につかえて頭を上に向けているだろう』と言い、婦人に墓地の塚の間を探させたところ、果たして牛が見つかった。ところが婦人は『管輅が自分の牛を盗んで隠しておいたのだろう』と思い役所に訴え出たところ、取り調べの結果、結局彼の術によって(牛の居場所を)知ったのだと分かった。このことにより、管輅のことが裴冀州(裴徽)の耳に入ったのだ。」
また劉太常(劉寔)は次のようなことも語った。
「管輅が、路中(旅の途中?)に妻を見失った小人(賤しい人物)のために卜った時のこと。管輅は『次の日の朝、徐州・広陵郡・東陽県の城門の中で豚を擔いで来る者に因縁をつけ、取っ組み合いをするように』と指示した。小人がその通りにすると豚が逃げ出したので、すぐさま2人してそれを追いかけた。その豚が他人の家に入り、主人の甕にぶつかって壊したところ、その甕の中から小人の妻が出て来た」
劉侯[劉太常(劉寔)]の話にはこうした類のものが多数あり、管辰がその伝に載せているのはその内の1/10か2/10に過ぎない。
中書令史・紀玄龍の話
管輅と同郷の中書令史の紀玄龍は次のように言った。
「管輅が田舎にいた頃、遠くの隣人を尋ねたが、その家の主人はしばしば起こる火事に患わされていた。そこで管輅は卜って『明日、南側の道で待っていると、きっと角巾をつけた書生が、黒い牛が引く古い車に乗って通るので、必ず彼を引き留めて丁重にもてなしなさい。そうすれば火事は起こらなくなるはずだ』と言った。
そこで主人はすぐに管輅の言葉に従うと、果たして管輅の言葉通りの書生がやって来た。書生は『急用があるので行かせてくれ』と言ったが主人は聞き入れず、そのまま引き留めて1晩泊まらせた。書生はとても不安になり、『主人が自分に危害を加えるのではないか』と考えた。
そこで書生は、主人が奥に入ると刀を手に門を出て2つ並んで積まれた薪の間に寄りかかり、立ったままウトウトしていた。すると突然小さなものが現れて、真っ直ぐ目の前を通り過ぎようとしたが、それは獣のようで、手には火を持ち口でそれを吹いていた。驚いた書生は刀を振りかざしてこれに斬りつけ、ちょうど腰の辺りで断ち切った。よく見てみるとそれは狐であったが、これ以降、主人の家では火事が起こることはなくなった」
長広太守・陳承祐の話
前の長広太守(青州・長広郡の太守)の陳承祐が、城門校尉の華長駿(華廙)から直接聞いたこととして、次のように語った。
「昔、自分の父親が清河太守(冀州・清河郡の太守)であった時、管輅を招いて吏(役人)としたが、管輅も自分が年若く、後には同郷であることも加わって深い交わりを結び、いつも車に同乗して出掛けたりしていたので、管輅の事跡はよく知っている。
(管輅の術が的中した例は、)重要なものだけでも彼の伝に書かれている3倍はあった。(管輅の伝を書いた)管辰には才能が足らず、また若すぎる上に田舎にいたことが多いこともあって、詳しく分かっていないのだ」
また華長駿(華廙)は次のようなことも語った。
「管輅の卜もすべてが的中した訳ではなく、10の内7か8の割合で的中した。長駿がその理由を尋ねると、管輅は『その道理に差錯(誤り)はないのだが、卜を頼みに来る者の言うことが事実のすべてを伝えていない場合があるので、こうした結果となるのだ』と言った」
「華城門(華廙)の夫人は、魏の故の司空で幽州・涿郡出身の盧公(盧毓)の女であったが、病気にかかって何年も快癒しなかった。当時、華家は西城下の南纏里に居住しており、家の東南に3つの厩があった。
そこで管輅は卜って『東方からやって来た者が”自分が治療できる”と言うだろうから、その人物に治療を任せなさい。きっと良い結果が得られるでしょう』と言った。
それから間もなくして南征将軍の厩騶が兵卒に充てられることとなり、盧公(盧毓)の元を訪れたが、その彼が『お嬢さまのご病気を治すことができます』と言った。
盧公(盧毓)は上表して厩騶を自分の家に留める許可を得ると、わざわざ息子に命じて彼を華氏(華廙)の元に連れて行き、女の治療に当たらせた。厩騶が、初めは散薬を用い、その後に丸薬を用いると、間もなく効果が現れた。
盧公(盧毓)はすぐさま上表すると、彼を厩騶から除名して太医とした」
また華長駿(華廙)は次のようなことも語った。
「管輅が(利漕令となった)父親に従って利漕(利漕県?)にいた時のこと。その役所の近くの屯田民の1人で鹿を捕らえた者がいた。次の日の朝、もう1度その場所に行ってみると、毛と血は残っていたが、誰かが鹿を持って行ってしまっていた。そこで役所の厩にやって来て管輅に事情を告げた。
そこで管輅は卦を立てて言った。
『盗んだ者が卦に表れました。汝の家の東側の小路の3番目の家です。汝はこれからすぐその門前に行って人がいないのを見計らい、瓦を1枚取って、分からないようにその家の臼つき場の屋根の東から7番目の椽を持ち上げて、その下に瓦を置きなさい。明日の食事時になるまでに、自分から返しに来るでしょう』
その夜、盗んだ者の父親の頭が痛みだし、高熱が出てひどく苦しんだ。そこでその男もやって来て管輅に卜いを立ててもらった。管輅は彼に向かって祟りの原因になっている悪事を暴くと、盗んだ者はそれをすべて認めた。
管輅は『鹿の皮と肉、内臓を擔いで元の場所に返すように。そうすれば病気も自ずと治るだろう』と命じ、その上で、鹿の本当の持ち主にこっそりと取りに行かせ、また、もう1度同じようにその家に行って、椽を持ち上げて瓦を棄てさせた。盗みを働いた男の父親の病気は、それで治った」
「またある時、都尉の役所の内史で物をなくした者がいた。
管輅は彼に、
『次の日の朝、役所の門の外を窺っていれば、1人の男がやって来るのに逢うだろう。その男に天を指し地に線を引いて、四方に向かってそれぞれ手を挙げてもらうように。そうすれば自然と見つかるだろう』
と言った。夕方になると、果たして元の場所になくした物が見つかった」
評価
管輅は輝かしい才能を持っていた上に朱陽(太陽)の運勢に遭遇し、当時、彼の名声と勢いは光り輝き、猛火が燃え疾風が吹くかのように盛んであった。
当塗の士(政界で実験を握る人々)もみな管輅と何らかの関係を持とうと務め、賓客が雲の如く集まったが、その人数がどれ程多くてもみなに食事を出した。客人には貴賤を問わず礼をもって接したので、京城(洛陽)には彼の名声や勢いに惹かれるだけでなく、その徳にも心を寄せる人々がたくさんいた。もし天寿を全うすることができたならば、管輅が獲たであろう栄耀栄華のさまは、人々の想像を超えるものであったであろう。
「管輅」の関連記事
管季儒
生没年不詳。冀州・平原郡の人。兄は管輅。弟に管辰。
管輅が冀州刺史・裴徽の招聘に応じ、弟の管季儒と共に車に乗って武城*12の西までやって来た時、管輅は自分の将来の吉凶を占って、管季儒に「(これから通る)故城の中で3匹の狸を見ることがあったら、我らは出世するだろう*13」と言った。
そのまま河(漳河)西の故城の隅まで進んだ時、まさしく3匹の狸が城壁の側にうずくまっているのが見えたので、兄弟は喜んだ。
脚注
*12『続漢書』郡国志に「鄴県には汙城、平陽城、武城、九侯城がある」とある。
*13原文:「當在故城中見三貍,爾者乃顯」。狸には「タヌキ」と「野生のネコ」の意味がある。「爾(お前)」の部分は、自分の将来の吉凶を占って言った言葉であることから「我ら」とした。
「管季儒」の関連記事
管辰
生年不詳〜晋の太康元年(280年)没。冀州・平原郡の人。兄に管輅、管季儒。
官は州の主簿・部従事に至り、太康年間の初年に亡くなった。
劉寔による評価
劉侯[劉太常(劉寔)]は「管辰は孝廉に推挙されるだけの才能があった」と言った。
管輅に教授を請う
管辰が兄の管輅に「卜(卜占)と仰観(天文占い)を教えて欲しい」と言ったことがあったが、管輅が、
「卿には教えることはできない。そもそも卜(卜占)というものは、最大限に心を細かく働かさねばその働きを見ることができず、最大限に心を微妙に働かさねばその道理を見て取ることができない。『孝経』『詩経』『論語』を習得すれば、充分に三公の位まで昇ることができる。卜(卜占)など知る必要のないものだ」
と言ったので、管辰はついにこれを諦めた。結局、管輅の子弟の中に、彼の術を伝えることのできる者はいなかった。
管辰による管輅伝
管辰は管輅の生涯を叙して言う。
管輅の書物
そもそも晋・魏の士は、管輅の道術が神妙(人智を越えて巧み)であり、占いがピタリと当たるのを見て、世間にはない書物や象甲(占いの1つ)の術を伝え持っているのだろうと考えた。
しかし辰(管辰)は常々管輅の持つ書伝(古い書物や注釈書)を見てきたが、ただ『易林』『風角』『鳥鳴』『仰観星書』30余巻があるだけで、それらはどこにでもあるものであった。しかも管輅は単身で少府の官舎に住んでいて、家族や子弟が誰も一緒にいなかったので、彼が死んだ時、哀喪の気持ちを持たない好奇の者たちが管輅の書物を盗んでいったため、ただ『易林』『風角』『鳥鳴書』だけが残って家族に返された。
考えてみるに、術数を扱う流派は百数十家もあり、その書物は何千巻にものぼり決して少なくはないが、世の中に名の聞こえた方術者がほとんどいないのは、みな才能がないためであって、書物がないからではない。
管輅が好んだ議論
裴冀州(裴徽)、何晏・鄧颺の2人の尚書、郷里の劉太常(劉寔)・劉潁川(劉智)兄弟は「管輅は天から授かった才能を身に受けた、陰陽の道や吉凶の事情に明らかな者であるから、その源流を窮めさえすれば、その流れに遊ぶことも決して困難ではない」と言い常に帰服しておられ、管輅自身も「この5君(5人)と語り合うと頭が冴えて寝るのを忘れてしまうが、彼ら以下の者たちと一緒だと昼間でも眠くなってしまう」と言っていた。
また管輅は、自ら次のようにも言った。
「この世で望むことはできないが、ただ魯の梓慎、鄭の裨竈、晋の卜偃、宋の子韋、楚の甘公、魏の石申らと一緒に、霊台(天文と気象を観測する物見台)に登って神秘な絵図を披げ、日月星辰(太陽・月・星々)の三光の運行を推算して天文に示された災異の予兆を探知し、蓍(筮竹)や(亀卜に用いる)亀の甲羅を用いて疑問を解決することができれば、何の心残りもないのだが」
辰(管辰)も自らの闇浅(浅はかさ)を顧みず、加えて兄弟という甚だ親密な関係にあったこともあって、しばしば管輅に質問したり議論したりすることがあったが、人物を見分けてその良否を分析し、身近な道理を説いてその曲直を正すことなどについては、管輅は不得手で何の鮮やかさも示さなかった。
しかし、もし三皇や伏羲の典籍を敷衍*25し、文王や孔子の言葉を称揚し、また五曜(5つの惑星)が表すものをあまねく尋ねまわり、三度(太陽・月・星々)の意味するところを正しく把握するといったことになれば、議論は口に溢れ、深い意味のこもった言葉が風のように集中した。その様子はちょうど、目を上げて軽々と飛んで遙か彼方に姿を没してゆく鴻を眺めやるような、あるいは目の下に暗く底知れない深い谷に臨みやるようで、彼の言葉に強いて反論しようとしてもその糸口がつかめず、教授を受けてその原理を求めようとしても、すぐに何が何やら分からなくなってしまって、いつも扼腕し指を鳴らしてやむなく響きだけを追って長いため息をつくばかりであった。
脚注
*25意味の分かりにくい所を、やさしく言い替えたり詳しく述べたりして説明すること。
管輅と京房
昔、前漢の京房は卜(卜占)や風占い、音律による占いに巧みではあったが、結局は我が身に降りかかる禍を免れることはできなかった。それなのに管輅は、自分が48歳で死ぬであろうことを知っていたのである。2人の聡明さには格段の差があったと言えよう。
また京房は、目には自分を主君に中傷する人々が多くいるのを見て、また耳には騒がしい讒言の声を聞いていたのに、主君に面と向かって讒言しても聞き入れてもらえず、しかもなお地方への赴任の途中からも様々に上言を繰り返し、結局は我が身を滅ぼすことになった。
それに対して管輅は、魏から晋への王朝交代の時にあって、智恵を隠して何の飾ることもせず、時節の変化に巧みに対応して世に処し、その術は精妙であっても現実社会の物事の処理を要請される訳ではなく、一見愚かなようであっても人々から忘れられてしまうことがかなった。2人は事の成り行きのほのかな兆候を予知するという点でも、遙かに隔たっていたといえよう。
京房は、上は万乗(天子の位)の主君の心をよく推察せず、下は佞諂の徒(媚び諂う輩)を避けることなく、天文占いや『尚書』洪範篇の解釈によって国を益し身を利しようと計ったが、自分をうまく役立たせることができず、結局は死刑にされてしまったのである。それは干からびた亀の甲羅の示す最後の智恵であり、蝋燭の最後の輝きに過ぎなかったということができよう。哀しいことではないかっ!世の多くの人々は管輅と京房を同列に論じているが、辰(管辰)にはどうしてもそれを承認することはできない。
管輅の、見上げては星々の示す意味を見て取り、見下ろしては地上の出来事の吉凶を的確に知るさまは、遠い時期では何年先に起こることかを外すことがなく、近い時期では日にちや月を外すことがなかった。辰(管辰)が考えるに、甘氏や石氏でも管輅にはかなわないだろう。
管輅の射覆*7
射覆*7をしても物の名前をピタリと当て、その術の巧みさが立ち所に目の前に示されたという点では、東方朔もこれに過ぎるものではない。また、骨相や体つきを観察して将来の貴賤を見分け、様子や顔色を見て寿命を知る点では、許負や唐挙も彼を超えるものではなかった*26。そして風や気の様子を分析して微かな兆候を探り、鳥の鳴き声を聞いて人間には認識できない神機(不思議な働き)を探知するといった彼の能力は、真に一代に抜きん出た存在であった。
脚注
*7器の中に物を入れてそれを当てさせる遊び。
*26東方朔は前漢・武帝の側近に文辞滑稽で仕え、射覆*7に巧みであった。許負は前漢初の女の人相見。周亜夫の将来を予言したことで知られる。唐挙は戦国時代・梁の人。人の形状顔色を見て吉凶妖祥を判断した。
総論
もし管輅が栄達して宰相・大臣となっていたならば、この太平の時代に厚い恩恵を敷き広げ、その輝かしい功績は竹帛(書物)に列記されて、奥深い行いの結果もみな取り挙げられ、彼の語った神秘な言葉は千載(千年)の後までも忘れ去られることがなく、道を体得した者たちはみなこれを信じて貴び、道に無縁な者はみな必ずや疑い怪しむことになったであろう。
信じる者も、彼の腕前が実際にはこれ程まで巧妙ではなかったのだと考えるかもしれないが、巧妙な働きかけが対象の神秘な働きに合致する時、その神秘な働きを我が物とすることができるのであって、そのことに疑いはないのである。
恨むらくは、管輅が才能は優れていても寿命が短く、体得した道は高貴であったが時世は賤しく、賢者に親しむという風も影を潜め、立派な史官の筆でその伝記が広く人々に伝えられることがないまま、不肖の弟である私によってその事跡が追述されるということになったことである。私には明晰な才能もない上に、(管輅と過ごした日々は)大分昔のこととなってしまった。ここに記載した卜占の事跡は、その元々の卦の意味は分からなくなっているが、後に残ったものを拾って10の内の2つ程を集めたものである。天を仰いで星々を観察し、魏と晋の王朝の興亡を説き、五行による時世の浮沈、兵乱や災異などを判断したことについては、1/10も収められていない。
水源がないのにどうして河ができようか?根がないのにどうして花を咲かせることができようか?秋の菊にも採って愛でるべき点はあるが、春の花には及ばない。激しく憤って筆を取り、机に向かって自らの非才を哀しみ恥ずかしく思うのである。将来の君子たちよ、どうかご明察をもって私の意図するところを分かっていただきたい。
管輅と孟荊州
かつて孟荊州どのが冀州・鉅鹿郡・列人県の典農官*5であった時、亡き兄(管輅)に「昔、東方朔が射覆*7をした時、何の卦が出て正しく守宮と蜥蜴の2つであることを知ったのであろう?」とお尋ねになったことがあった。
そこで亡き兄(管輅)は卦を立ててその象を導きだし、ありのままと比喩を交えながら微妙な意味をはっきりと表して様々に変化させ、次々に議論を展開させながら、その卦が辰巳(南東)の方角を指すものであり、その象である龍と蛇には区別があることを論じて、(結局、守宮と蜥蜴を指すことになることを)それぞれ道理立てて明らかにした。(管輅の)言葉が終わった後、孟荊州どのは長くため息をついて「吾は君の議論を聞いていると、精神が昂ぶって飛散してしまいそうだ。なんとかくも広々としたものであることか」とおっしゃられた。
脚注
*5典農は屯田(民屯)の実施地域で農業生産、民事、土地の賃貸管理などを担当する官職で、典農中郎将、典農校尉、典農都尉がある。
管輅が自分の死期を当てる
正元2年(255年)のこと。管辰が、兄の管輅に「大将軍(司馬昭)さまは兄上に目をかけてくださっていますから、富貴な身分が望めましょうね?」と言うと、管輅は長いため息をついて、
「吾は自分がそうなっても良いだけの資質を備えていることを知っている。しかし天は我に才能と聡明さを与えたが、年寿(寿命)は与えてくれなかった。おそらく47〜48歳の間に、女が嫁に行き、兒(の息子)が嫁を娶るのを見る前に死ぬだろう。もしこの時期を免れることができたならば、洛陽令となって、路の落とし物を着服する者がなく、(盗賊の出現を知らせる)太鼓が鳴らされることがないような政治を行いたいものだ。だがおそらく、太山に行って鬼を治めることになり、生者を治めることはできないだろうが、仕方のないことだっ!」
と言った。管辰がその理由を問うと、管輅は次のように言った。
「吾は額に生骨がなく、眼の中に守精(ひとみ)がない。鼻には梁柱がなく、脚には天根がない。また背には三甲がなく、腹には三壬がない。これらはみな不寿(短命)の験なのだ。また吾の運勢は寅にあり、加えて月食の夜に生まれた。天には定まった運命があって、それを諱避することはできない。ただ人々はそれを知らないだけなのだ。吾はこれまで人相を占って『すぐに死ぬ』と判定した人は百人以上にもなるが、ほとんど外れることはなかった。(自分の寿命についても判断を誤ることはあるまい)」
管輅はこの年の8月に、少府の丞(次官)となり、次の年の3月に亡くなった。享年48歳であった。
「管辰」の関連記事
スポンサーリンク