正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(84)平原(へいげん)管氏(かんし)(管孝国(かんこうこく)・管輅(かんろ)・管季儒(かんきじゅ)・管辰(かんしん))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

平原管氏系図

平原管氏系図

平原(へいげん)管氏(かんし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。管季儒(かんきじゅ)と管辰(かんしん)の兄弟の順は不明。


この記事では平原(へいげん)管氏(かんし)の人物、

についてまとめています。

管輅(かんろ)の舅氏(おじ)(母の兄弟)・夏大夫(かたいふ)

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か(84)北海管氏

第1世代(管孝国・管輅・管季儒・管辰)

管孝国(かんこうこく)

生没年不詳。冀州(きしゅう)・平原郡(へいげんぐん)の人。管輅(かんろ)の族兄(一族の同輩のうちの年長者)。

管輅(かんろ)が冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・斥丘県(せっきゅうけん)に住む管孝国(かんこうこく)の元を訪(おとず)れた時、ちょうど2人の来客があった。客が帰った後、管輅(かんろ)は管孝国(かんこうこく)に、

「あの2人は天庭(てんてい)(額(ひたい))と口、耳の間に凶の気がありますから、共に異変に見舞われ、2つの魂は住処(すみか)を失い海をさすらって、骨だけが家に帰ります。間もなく2人とも死ぬでしょう」

と言い、また、

「美味(うま)いものほど毒があるように、空気の澄(す)んだ静かな夜に、坎(かん)(水を象徴する卦(け))が棺槨(かんかく)(内棺と外棺)となり、兌(だ)(沢を象徴する卦(け))が葬儀の車となるでしょう」

と言った。

それから数十日経(た)った頃、2人は酒に酔い、夜、一緒に牛車に乗って家に帰る途上、牛が驚いて道を外れ、漳河(しょうが)に飛び込んだので、2人ともそのまま溺死(できし)してしまった。


「管孝国(かんこうこく)」の関連記事

管輅(かんろ)・公明(こうめい)

後漢(ごかん)の建安(けんあん)14年(209年)*1〜魏(ぎ)の正元(せいげん)3年(256年)没。冀州(きしゅう)・平原郡(へいげんぐん)の人。族兄に管孝国(かんこうこく)。弟に管季儒(かんきじゅ)、管辰(かんしん)。

脚注

*1裴松之(はいしょうし)は「管輅(かんろ)は自(みずか)ら『吾(わたし)の運勢は寅(いん)にある』と言っている。であるとすれば建安(けんあん)15年(210年)の生まれであり、正元(せいげん)3年(256年)に亡くなった時には、47歳であったはずであるが、『魏書(ぎしょ)』管輅伝(かんろでん)の本文には48歳とあり、符合しない」と言っている。

幼少期
天体観測を好む
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管輅(かんろ)は7、8歳の頃から星辰(せいしん)(星々)を見ることを好み、人に星の名前を尋(たず)ねて夜も寝ようとしなかった。父母は常々これを禁じたが止めさせることはできず、管輅(かんろ)は「我(ぼく)は年は小さいけど、天文を観るのが好きなんだ」と言い、また常に「家の鶏(にわとり)や野の鵠(くぐい)(白鳥)でさえ時を知っているのに、どうして人間が時を知らずにいて良いのでしょうか?」と言っていた。

隣近所の子供たちと一緒に土遊びをしている時にも、決まって地面に天文や日月星辰(太陽・月・星々)を描(えが)いた。また、彼の返答や何かを説明する言葉はいつも並外れていて、学者や老人でも言い負かすことはできず、みな「彼はやがて大いに非凡な才能を備えることになるだろう」と思っていた。

神童と呼ばれる
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父が徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・即丘県(そくきゅうけん)の県長(けんちょう)となった時、15歳であった管輅(かんろ)は、父の官舎で読書をし、『詩経(しきょう)』『論語(ろんご)』『易経(えききょう)』の本文を読んだだけで深い道理を引き出して筆に著(あらわ)すことができ、しかもその辞義(じぎ)(表現と論理)は斐然(ひぜん)(文章が美しく内容も充実していること)としていた。

当時、(官舎に付属した)学校には、遠方や琅邪国(ろうやこく)内の学生たちは4百余人いたが、みな管輅(かんろ)の才能に感服した。


琅邪太守(ろうやたいしゅ)の単子春(ぜんししゅん)は有能で度量のある人物であったが、管輅(かんろ)が学校一の俊才だと伝え聞いて「会いたい」と望み、管輅(かんろ)の父はすぐさま管輅(かんろ)を単子春(ぜんししゅん)の元に遣(や)った。単子春(ぜんししゅん)が弁舌に巧(たく)みな賓客(ひんかく)100余人を集めると、管輅(かんろ)は単子春(ぜんししゅん)に尋(たず)ねた。

「府君(ふくん)(単子春(ぜんししゅん))は名士であられ、雄(お)々(お)しく高貴な姿をされております。輅(わたし)は年少な上に胆(きも)も固まっておりません。親しくお目通りを許されましても、(緊張のために)私の精神が失われてしまうことを懼(おそ)れます。どうか先に3升(しょう)の清酒を飲ませていただき、その後でお答えさせてくださいませんか」

単子春(ぜんししゅん)は大いに喜んで、すぐさま特別に3升(しょう)の清酒を飲ませ、管輅(かんろ)が「これから私と議論をされるのは、府君(ふくん)(単子春(ぜんししゅん))の周りの方々でございますか?」と尋(たず)ねると、単子春(ぜんししゅん)は「吾(わたし)が自(みずか)ら卿(きみ)と議論を戦わせよう」と言った。

これに管輅(かんろ)が「(私は)『詩経(しきょう)』『論語(ろんご)』『易経(えききょう)』の本文を読み始めたばかりで学問は浅く、まだ聖人の道を引用したり、秦(しん)・漢(かん)の故事を並べたりすることはできません。ただ金・木・水・火・土(五行)や鬼神の様子について論じたいと思います」と言うと、単子春(ぜんししゅん)は「それは最も難しいことなのに、卿(きみ)には簡単なことだと言うのか?」と言った。

このような言葉から大議論の発端が開かれ、陰陽を軸として美しい言葉が花開き、枝や葉が盛んに伸びたが、その議論は聖人の典籍を引用することは少なく、多くは管輅(かんろ)自身の考えによるものであった。

単子春(ぜんししゅん)とその場にいた人々は共に攻め立て、反論が群がり起こったが、管輅(かんろ)は1人1人に対し常に余裕をもって返答した。

(みな論議に夢中になって、)日が暮れるまで酒も食事も摂(と)らず、最後に単子春(ぜんししゅん)は人々に向かって言った。

「この若者は、立派な才知と器量を持っている。その言論は司馬犬子(しばけんし)(司馬相如(しばしょうじょ))が作った『遊猟(ゆうりょう)の賦(ふ)』にそっくりだ。なんと磊落(らいらく)雄壮(ゆうそう)(度量が大きく意気盛ん)であることか。必ずや彼は天文地理の変化の数を解明することができるに違いなく、ただの弁舌の徒(と)ではない」

このようにして徐州(じょしゅう)の地で管輅(かんろ)の名声が高まり、神童と呼ばれた。

性格と評判

管輅(かんろ)は成人すると『周易(しゅうえき)(易経(えききょう))』に明るく、天文占いや風角(ふうかく)(風占い)、佔(せん)(吉凶の占い)、相(そう)(人相見)のすべてに精通した。

管輅(かんろ)の容貌(ようぼう)は粗末(そまつ)で醜(みにく)く、立ち居振る舞いに威厳がなかった。酒を嗜(この)み、飲食をする際には相手を選ばず冗談を言っていたので、人々はみな彼を愛しはしたが、尊敬はしていなかった。

寬大な性格で多くのことを受け入れることができ、自分を憎む者を讎(かたき)とせず、自分を愛する者を褒(ほ)めず、徳をもって怨(うら)みに報(むく)いることを心掛けていた。また、人には常に「忠孝と信義は人の根本であって、疎(おろそ)かにできるものではないが、誠実さや正直さは士人にとって虚飾に過ぎず、努力するに値(あたい)しない」と言い、自分には「我(わたし)を理解する者が稀(まれ)なのは、我(わたし)が貴(とうと)いからだ。どうして長江(ちょうこう)や漢水(かんすい)の流れを断(た)ち、石(いわ)走る清流となすことができようか?(俗(ぞく)世間に混(ま)じって生活した)司馬季主(しばきしゅ)(長安(ちょうあん)の市場にいた売卜者(ばいぼくしゃ))と道を論じたいと願っても、(清潔さを貫(つらぬ)いた)漁父(ぎょほ)と舟を同じくしたいとは思わない。これが吾(わたし)の志(こころざし)である」と言い聞かせていた。

管輅(かんろ)は父母に孝行を尽くし、兄弟に対しても篤(あつ)く、士人の友人の愛に順(したが)い、みな思いやりのある優しい心をもって接する様子は、どんな場合でも変わることがなかった。こうしたことから、彼のことをあれこれと論(あげつら)っていた者たちも、後には結局 彼に心服した。

管輅と郭恩
郭恩に『周易(しゅうえき)』を学ぶ
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管輅(かんろ)の父が利漕(りそう)(利漕県(りそうけん)?)を治めていた時のこと。利漕(りそう)(利漕県(りそうけん)?)の住民・郭恩(かくおん)には才能と学問があり、『周易(しゅうえき)』や『春秋(しゅんじゅう)』に通じ、天文占いにも巧(たく)みであった。

管輅(かんろ)は郭恩(かくおん)について『周易(しゅうえき)』を学んだが、数十日も経(た)つと、もう心に悟(さと)るところがあって、議論をすれば師の郭恩(かくおん)を凌(しの)ぎ、郭恩(かくおん)から天文占いを学ぶと、30日間夜通し寝ることがなかった。

管輅(かんろ)が学び始めて1年も経(た)たないうちに、郭恩(かくおん)の方から『周易(しゅうえき)』や天文の要(かなめ)について尋(たず)ねるようになった。

足萎(な)え(躄疾(へきしつ))の原因
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郭恩(かくおん)の兄弟3人がみな「足萎(な)え(躄疾(へきしつ))」の病(やまい)にかかったので、ある時、郭恩(かくおん)は宴席を設(もう)けて管輅(かんろ) 1人だけを招(まね)き、管輅(かんろ)にその原因について筮(うらな)ってもらった。

すると管輅(かんろ)は「(筮竹(ぜいちく)で得た)卦(け)には、君(あなた)方(がた)の家の墓が出ています。墓の中には女鬼(女の亡者(もうじゃ))がいて、君(あなた)の伯母(おば)か叔母(おば)に違いありません。昔、飢饉(ききん)があった時に、彼女が持っていた数升(しょう)の米に目をつけた者がいて、井戸の中に突き落とし、さらに大きな石を落として頭を割って止(とど)めを刺しました。その祭られない魂が怨(うら)み悲しんで、自(みずか)ら天に訴えたのです」と言った。

郭恩(かくおん)が悲しみの涙で衣服を濡らし、

「漢(かん)王朝の末年に、実際にそのようなことがありました。君(あなた)は敢(あ)えてその犯人の名前を言われなかったが、私がその名前を語らないのは礼を守るためなのです。兄弟たちは『足萎(な)え(躄疾(へきしつ))』になってから30年以上にもなり、脚は棘子(いばら)のようになっています。もう治すことはできないでしょうから、ひたすらこの災(わざわ)いが子孫に及ばないようにと祈ります」

と言うと、管輅(かんろ)は、

「火によって形づくられたものは完全には消え去ることはありませんが、水によって形づくられたものは後に残ることはありませんので、 子孫に災いが及ぶことはないでしょう」

と言った。

老人と事故
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また、管輅(かんろ)が郭恩(かくおん)の家に行った時のこと。鳩(はと)が飛んできて梁(はり)の上でひどく悲しげに鳴いた。

これを見た管輅(かんろ)は、

「きっと東方から、豚1頭と酒一壷(つぼ)を携(たずさ)えて、老人がやって来ます。君(あなた)は客人を迎えて喜ばれますが、ちょっとした事故があるでしょう」

と言った。

次の日、管輅(かんろ)が占ったとおりの客人がやって来たので、郭恩(かくおん)は客人に、酒を控(ひか)え、肉を食べず、また火に気をつけるように言って、管輅(かんろ)が予言した事故を避(さ)けようとした。

ところが、鶏(とり)を弓で射(い)て料理を作ろうとした時、箭(や)が樹々の間を抜けて、数歳の女の子の手に激しく当たり、血が流れて驚き怖(おそ)れた。*2

脚注

*2郭恩(かくおん)は客人に肉を食べないように言っておきながら、鶏(とり)を捕(と)ろうとしている。客人が持ってきた酒と豚を避(さ)けようとしたのか?

郭恩が占いを諦める
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郭恩(かくおん)が管輅(かんろ)から鳥の鳴き声による占いを習っていた時のこと。

管輅(かんろ)は、

「君(あなた)はこうした道を好んではおられますが、天から与えられた才が少ない上に、音律も理解されておりません。恐れながら、私が君(あなた)の師となることは難しいでしょう」

と言い、8つの方向の風の変化や5つの音階が持つ意味を説(と)き、音律(律呂)によって鳥たちの声の高さを定(さだ)め、六甲(ろっこう)*3を時間や日数を数えるための基本とすることを述(の)べて、繰り返し様々な方向から説明を加えた。

郭恩(かくおん)は数日間、静かにじっと深く考えを巡(めぐ)らせていたが、結局何も得るところがなく、

「才能が突出している者でもない限り、こうしたことを探求することは難しい」

と言って、ついに(占いを)止(や)めてしまった。

脚注

*3十(じっ)干(かん)と十二(じゅうに)支(し)を組み合わせてできる干支(えと)の一(ひと)巡(めぐ)り(六十干支(ろくじっかんし))のうち、甲(こう)がつくもの6つ(甲子(こうし)・甲戌(こうじゅつ)・甲申(こうしん)・甲午(こうご)・甲辰(こうしん)・甲寅(こういん))を取り出したもの。これに特別な意味を与えて占いなどに使っていた。

劉奉林と鮑子春
劉奉林(りゅうほうりん)の妻の死期を当てる
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ある正月、冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)・広平県(こうへいけん)出身の劉奉林(りゅうほうりん)の妻(婦)の病気が重くなった。

棺(ひつぎ)や送葬(そうそう)の道具が買い揃(そろ)えられ、管輅(かんろ)に占わせたところ、「8月辛卯(しんぼう)の日の日中がご寿命です」と言った。

劉奉林(りゅうほうりん)は「当たるまい」と言い、妻(婦)の病気も快方に向かっていたが、秋になって再発し、管輅(かんろ)の言った通りの時刻に死亡した。

鮑子春ほうししゅんの悟(さと)り
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冀州きしゅう・鉅鹿郡きょろくぐん・列人県れつじんけんの県令けんれい・鮑子春ほうししゅんは聡明で思慮深く、才智を持ち道理に通じていた。

ある時、鮑子春ほうししゅんは管輅かんろの元を訪(おとず)れて「聞けば君(あなた)は、劉奉林(りゅうほうりん)のために彼の妻(婦)の亡くなる日を占い当てたとのことだが、なんと詳妙なことであろう。そのようなことが可能であった理由を、試(こころ)みに論じていただけないだろうか」と言った。

すると管輅かんろは、『易(えき)』の爻(こう)や象(しょう)が意味するところを論じ、万象(ばんしょう)が流転変化してゆく道理を説明したが、その説明は、あたかもコンパスで円を描き、定規で四角を描くように、少しの齟齬(そご)もなかった(若規圓矩方,無不合也)。

鮑子春ほうししゅんは自(みずか)らを顧(かえり)みて言った。

「吾(わたし)は若い頃から『易(えき)』を語ることを好み、喜んで蓍(めどぎ)(筮竹(ぜいちく))を操作してきた。しかしそれは、まったくのところ、盲者(もうしゃ)(目が見えない人)が白黒を見分けようとし、聾者(しゅうしゃ)(耳が聞こえない人)が音の清濁を聴(き)き分けようとするようなもので、苦労しても何の成果も得られなかった。君(あなた)の言葉を聞いて自(みずか)らの素質について顧(かえり)みれば、真(まこと)に愚(おろ)かであった(真為憒憒者也)。」

管輅と王基
王基おうきのために卦(け)を立てる
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管輅かんろが冀州(きしゅう)・安平郡(あんぺいぐん)の太守たいしゅ・王基おうきの元を訪(おとず)れた時のこと。王基おうきは管輅かんろと共に『易(えき)』を論じて数日に及び、大いに楽しんだ王基おうきは、

「かねがね君(あなた)がよく占いをされると聞いてはいたが、思いがけなくも立派な議論に加わらせていただくことができた。君(あなた)は現在、並びなき優れた才能を持っておられるゆえ、必ずや書物にその名を留(とど)められることになるだろう」

と語った。管輅かんろは王基おうきのために卦(け)を立て、

「賎(いや)しい身分の婦人が男の子を生みましたが、その子供は生まれ落ちるなり走って竈(かまど)の中に入って死んだことがございました。また、床(しょう)(人が座ったり寝たりする大きな台)の上に筆を銜(くわ)えた大蛇がいるのが見つかり、家(いえ)中(じゅう)の者が集まって見ていると、間もなくどこかへ行ってしまったことがありました。また、烏(からす)が部屋の中に飛び込んで来て燕(つばめ)と争い、燕(つばめ)が死んで烏(からす)は飛び去っていきました。この3つの怪が起こったことが、卦(け)に表れております」

と言うと、王基おうきは大いに驚いて、それらが吉兆であるか凶兆であるかを問(と)うた。

管輅かんろは「役所の建物が古くなったので、魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)が怪事を引き起こしたに過ぎません。子供が生まれてすぐに走ったというのも、自分の力で走ったのではございません。宋無忌(そうむき)(火の精)という妖怪が竈(かまど)に引き入れたのです。大蛇が筆を銜(くわ)えたのは、歳を取った書佐しょさが化けたものにすぎません。烏(からす)が燕(つばめ)と争ったのは、歳を取った守衛しゅえいの仕業(しわざ)にすぎません。今、卦(け)の中にこうしたものの象(かたち)が表れてはいても、それが凶兆である気配は見えません。妖異による咎(とが)めの徵(きざし)ではないと分かりました上は、心配される必要はございません」と言い、また、

「昔、殷(いん)の高宗こうそうの鼎(かなえ)は、雉(きじ)が止まって鳴くべきところではなく、殷(いん)の階庭(かいてい)(宮殿の正面の庭)は木の生えるべきところではありませんでしたが、(鼎(かなえ)に止まった)野鳥が一度(ひとたび)鳴くと、(その妖異に驚いた武丁ぶていが身を慎(つつし)んだため)武丁ぶていは高宗こうそうと尊称されるようになり、(宮殿の正面の庭に)桑(くわ)と穀(こうぞ)が生えると、(その妖異に驚き行いを修(おさ)めた)太戊たいぼは、殷(いん)の王朝を盛んにすることになりました。どうしてご身辺に起こった3つの出来事が吉兆でないと限りましょう。どうか太守たいしゅ(王基おうき)様には心身を安(やす)らかにして徳を養われ、ゆったりとした態度で公明正大に処せられ、怪しい物(もの)の怪(け)たちの仕業(しわざ)を目撃されても、天から授(さず)かった本然(ほんぜん)の性(せい)(悪の要素を全く含まない純粋至善の性)を汚(けが)したり曲げたりなさいませぬように」

と言った。その後結局、災(わざわ)いはなかった。

信都県(しんとけん)の県令けんれいを筮(うらな)う
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またこの頃、冀州(きしゅう)・安平郡(あんぺいぐん)・信都県(しんとけん)の県令けんれいの家では「女たちが驚き恐れて次々と病気にかかる」ということがあって、王基おうきは管輅かんろにこれを筮(うらな)ってもらった。

すると管輅かんろは、

「君(あなた)の北の堂(お座敷)の西の端に2人の死んだ男子がいて、1人は矛(ほこ)を持ち、1人は弓箭(ゆみや)を持って頭は壁の内側にあり、脚は壁の外側に出ております。矛(ほこ)を持っている男が活動して生きている者の頭を矛(ほこ)で突きますので、頭がひどく痛んで重くなり、弓箭(ゆみや)を持った者が活動して胸や腹に矢を射るので、胸の内がキリキリと痛んで食物も水も取れないのです。(死人たちは)昼は外をうろつき、夜になると人を悩ませにやって来るため、驚き恐れたようになるのです」

と言った。

王基おうきはすぐさま信都県(しんとけん)の県令けんれいを帰して、その家の居間を掘らせてみたところ、地面から8尺(約184.8cm)の所で、果たして2つの棺(ひつぎ)が見つかった。1つの棺(ひつぎ)の中には矛(ほこ)が、もう1つの棺(ひつぎ)の中には角(つの)で飾った弓と箭(や)があった。箭(や)は時代が経(た)ったため木部はみな腐(くさ)ってしまい、ただ鉄と角(つの)でできた部分だけがそのまま残っていた。死骸(しがい)を運んで城(まち)から10里(約4.3km)の所に埋(う)めると、もう病気にかかることはなくなった。

王基おうきに易(えき)を教える
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(管輅かんろの筮(うらない)を目(ま)の当たりにした)王基おうきは、

「吾(わたし)は若い頃から『易(えき)』を読むのが好きで、これを久しく玩味(がんみ)してきたのではあるが、神のごとき明瞭による技が、かくのごとく精妙であるとは思ってもみなかった」

と言い、そこで管輅かんろから易(えき)を学び、天文現象の意味を推(お)しはかる術(すべ)を教わった。

管輅かんろが「変化の象」を開き示して吉凶の兆(きざ)しを説明する時、微(び)に入り細(さい)を穿(うが)って委曲(いきょく)(細かく詳(つまび)らかなこと)を尽くし、その精妙で神秘的な働きを説(と)き尽くさぬところがなかった。

ところが王基おうきは、

「君(あなた)の言葉を聞き始めた時には何か分かりそうな気がするのだが、結局は混乱して全然分からなくなってしまう。こうしたことを理解できる能力は天から授(さず)かるもので、人の努力ではどうにもならないものなのだ」

と言って『周易(しゅうえき)』をしまい込み、そうしたことを思い巡(めぐ)らすことをやめて、以後はもう卜筮(ぼくぜい)(占い)のことを学ぼうとはしなかった。

乃太原だいたいげんの問(と)い
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ある時、管輅かんろと同郷(冀州(きしゅう)・平原郡(へいげんぐん))の乃太原だいたいげんが管輅かんろに尋(たず)ねた。

「君(あなた)は以前、王府君おうふくん(王基おうき)のために怪事を論じて『歳を取った書佐しょさが蛇となり、歳を取った守衛しゅえいが烏(からす)となった』とされたが、これらは元々みな人間であるのに、なぜこんなつまらぬものに化けたりしたのだろう。爻(こう)と象(しょう)にそれが現れたというのは、君(あなた)が勝手にそう考えられたのではないのか」

すると管輅かんろは言った。

「生まれつき天道にぴったり合致している者でない限り、どうして爻(こう)と象(しょう)に背(そむ)いて自分の胸先三寸でそうしたことをきめられましょうや?そもそも万物はすべて変化してゆき、一定不変の形があるものはありません。人間が異物に変ずる場合にも定まった形がある訳(わけ)ではなく、大きい者が小さくなったり、小さい者が大きくなったりすることに優劣の差はありません。そもそも万物が変化してゆくということは、1つの例外もない原則なのです。故(ゆえ)に夏(か)王朝の鯀こんは天子(てんし)の父であり、趙王ちょうおう・如意じょいは漢(かん)の高祖こうそ(劉邦りゅうほう)の子でしたが、鯀こんは黄熊(黄色い熊またはスッポン)になり、如意じょいは黒犬となりました。これは至尊の位にありながら変化して黔喙(けんかい)(鳥獣)になった例です。ましてや蛇は辰巳(たつみ)の方角に対応する動物で、烏(からす)は太陽の精としてその中に棲(す)むものであって、これこそ騰蛇(とうだ)の星宿(せいしゅく)として夜空にくっきりと形をあらわし、輝く太陽として万物に光を注(そそ)ぐものであれば、書佐しょさや守衛しゅえいが共に卑賤(ひせん)な身体でもって蛇と烏(からす)に変化したというのは、分に過ぎたことではないでしょうか」

管輅と王経
王経(おうけい)の昇進を当てる
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冀州(きしゅう)・清河国(せいがこく)出身の王経(おうけい)は、官を辞(じ)して故郷に帰っていた。管輅かんろが彼を訪問すると、王経(おうけい)は管輅かんろに占いをさせようとしながら「占いなどは疑難の言(でたらめ)だ」と言った。

すると管輅かんろは笑って言った。

「君侯(あなたさま)は州里の達人(物に通じた人物)として知られておりますのに、なんとお言葉の狭(せま)いことっ!昔、司馬季主しばきしゅ(長安(ちょうあん)の市場にいた売卜者(ばいぼくしゃ))は次のように語っております。『そもそも卜占(ぼくせん)というものは、必ず天地に法(のっと)り、四季を象(かたど)り、仁義に順(したが)ったものでなければならない。伏羲ふっきが八卦(はっけ)を作り、周(しゅう)の文王ぶんおうがそれを384爻(こう)(64卦(け))にしたことによって天下は治まったのだ。病気の者もそれによって治ることがあり、死にかかっている者もそれによって蘇生することがある。災難もそれによって免(まぬか)れることがあり、事業もそれによって成功することがある。娘を嫁にやったり妻を娶(めと)ったりする場合にも、それによって子孫が繁栄することがあるのだ。どうして数千銭の価値がないと言えようか?』と。こうした点から推(お)して考えれば、卜占(ぼくせん)は必要不可欠なものなのです。道を明らかにするためであれば、聖者・賢人とて自分の意見を曲げて譲(ゆず)ることはいたしません。まして吾(わたし)の如(ごと)き下賤(げせん)の者であれば尚更(なおさら)のこと。敢えて反論した次第ですっ!」

これを聞いた彦緯(げんい)(王経(おうけい)の字(あざな))は「先程の言葉は戯(ざ)れ言(ごと)(冗談)だ」と言い、「近頃1つの怪事があって、ひどく気がかりに思っている。ご面倒だが卦(け)を立ててはくれまいか」と言った。

卦(け)が立つと管輅かんろは言った。

「出た爻(こう)は吉で、怪しいことではございません。君(あなた)が夜、堂(お座敷)の戸の前におられた時、小鳥のような光が流れて来て君(あなた)の懐(ふところ)に入ってゴロゴロと鳴りました。ひどく心が騒がれて上衣を脱いでうろうろされ、ご婦人方を呼んで消え残っている光を捜(さが)し求めさせられたのでありましょう」

王経(おうけい)が大いに笑って「確かに君(あなた)の言う通りなのだ」と言うと、管輅かんろは「吉です。昇官される徵(きざし)でございます。その応験(しるし)は間もなくやってまいります」と言い、程なくして王経(おうけい)は江夏太守こうかたいしゅとなった。


王経(おうけい)はいつも管輅かんろを論じて「彼は龍雲の精を得てよく和気を養(やしな)い、奥深い真理に通じた者(通幽者)であって、単なるまぐれ当たりの卜者ぼくしゃではないのだ」と言っていた。

管輅と劉長仁
劉長仁りゅうちょうじんの疑問
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冀州(きしゅう)・勃海郡(ぼっかいぐん)出身の冀州(きしゅう)・平原郡(へいげんぐん)・安徳県(あんとくけん)の県令けんれい・劉長仁りゅうちょうじんは議論が巧(たく)みで、管輅かんろが「鳥の鳴き声を理解することができる」と聞いて以来、管輅かんろと会う度(たび)に、

「そもそも人間の声を『言』と言い、鳥獣の声を『鳴』と言う。『言』と言えば知能を備(そな)えた素晴らしい働きを持つものであるのに対し、『鳴』と言えば知能のない低級なものを意味するのだ。それなのになぜ、鳥の鳴き声を『語』とし、(人間の)優れた心智の働きが他にはない特別なものであるという点を、乱してしまうのか?孔子こうしも『吾(わたし)は鳥獣と群(む)れを同じくすることはできない』と言われていた。鳥獣が人間より賤(いや)しいものであることは明白ではないか」

と言った。管輅かんろはこれに答えて、

「そもそも『天』と申しますものは大きな象(かたち)を持っておりますが、言葉を話すことはできません。故(ゆえ)に高い所に星精(ほし)を運行させて優(すぐ)れた明智を地上に伝え、風や雲を働かせて霊異を表し、鳥獣を使って霊妙な意志を人々に知らせます。霊異を表す風雲は、必ず高く昇ったり低く澱(よど)んだりすることによって兆候を示し、霊妙な天意を知らせる鳥獣は、必ず鳴き声を宮商(きゅうしょう)(五声)の音階によって応(しるし)を示すのです。それ故(ゆえ)に宋(そう)の襄公じょうこうの行動が徳に外れた時、6羽の鶂(げき)(鵜(う))が揃(そろ)って後ろ向きに飛んだのであり、宋(そう)の伯姫はくきが焼け死ぬ前には、鳥がその災(わざわ)いを告げて唱(うた)いました。また4つの国(宋(そう)・衛(えい)・陳(ちん)・鄭(てい))で大火が起きるに先だって融風(ゆうふう)(東北の風)が吹き、鳥のような赤い雲気が太陽を挟(はさ)むように見えた時、荊楚(けいそ)に殃(わざわい)が起こりました。これらことは上天の意志が表れたものであり、人為を越えた明らかな符(しるし)なのです。それぞれの音声には、律呂(りつりょ)(音楽の音階・調子)に則(のっと)ってしかるべき理由があり、これを人の事に当てはめれば、吉凶を取り間違えることはありません。昔、秦(しん)の王家の祖先に(身体は鳥で人語を話す者がおりましたが、)その子孫は代々功績を立てて諸侯しょこうに封ぜられ、また葛盧かつろは牛の鳴き声を聞き分けたと、『春秋(しゅんじゅう)』(僖公(きこう)29年)にはっきりと書かれております。これらはすべて立派な書物に書かれた真実のことで、聖人や賢者の名を借りた出鱈目(でたらめ)ではございません。商(しょう)王朝が興(おこ)ったのは、1個の燕(つばめ)の卵からです。周(しゅう)の文王ぶんおうが天命を受けた時、丹(あか)い鳥が不思議な書物を銜(くわ)えてやって来ました。これこそ天が聖人に与えられた霊妙な瑞祥(ずいしょう)であり、周(しゅう)の王室に対する めでたいしるし であって、(鳥獣によってもたらされたからといって)何の賤(いや)しむべきことがありましょうか?鳥の鳴き声を聴き取る鋭い耳は、研(と)ぎ澄(す)まされて天上の鶉火(じゅんか)の星座に結晶し、その霊妙さは神々とも通じ合うのですが、こうしたことに縁のない人々にとっては完全に理解を超えたことで、ちょうど孔子こうしに叱責(しっせき)された子路しろに生死の問題が分からなかったのと変わるところがないのです」

と言ったが、劉長仁りゅうちょうじんは「君(あなた)の言葉は豊かではあるが、花が咲いても実のならぬようなもので、信じることはできない」と言った。

鵲(かささぎ)の声を聞く
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管輅かんろが冀州(きしゅう)・平原郡(へいげんぐん)・安徳県(あんとくけん)の県令けんれい・劉長仁りゅうちょうじんの家を訪(おとず)れた時、鵲(かささぎ)が閤屋(かくおく)(高楼)の上に止まって鳴いたが、その声はひどく差し迫った調子であった。

すると管輅かんろは「鵲(かささぎ)は『昨日、東北の地で婦(おんな)が夫を殺し、その罪を西(にし)隣(どなり)の家の男になすりつけた』と鳴いております。私の見ますところ、太陽が西に沈む頃までに、このことを報告して来る者がありましょう」と言った。

その時刻になると、果たして東北から同じ伍(ご)*4の民がやって来て、「隣家の婦(おんな)がその手で夫を殺し、『西(にし)隣(どなり)の家の男が夫と仲(なか)違(たが)いをし、やって来て我(わたし)の婿(むこ)(夫)を殺した』と偽(いつわ)っている」と告げた。

劉長仁りゅうちょうじんは「管輅かんろが鳥の鳴き声を理解することができる」ということに懐疑的(かいぎてき)であったが、このことがあってから、やっと自説を曲げた。

脚注

*4後漢(ごかん)では10戸の家を「什(じゅう)」、5戸の家を「伍(ご)」としてグループをつくり、家同士で互いに監視させていた。10〜15の什(じゅう)・伍(ご)が集まった100戸程度の集落を「里(り)」と言う。

管輅と王弘直
王弘直(おうこうちょく)の息子の死を当てる
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管輅(かんろ)が冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)・列人県(れつじんけん)の典農官(てんのうかん)*5であった王弘直(おうこうちょく)の元を訪(おとず)れた時のこと。

申(しん)(西南西)の方角から高さ3尺(72.6cm)あまりの飄風(つむじかぜ)が吹いてきて、庭中をゆらゆらと回転しつつ、一旦(いったん)止(や)んではまた起こり、しばらくしてやっと消えるということがあった。

王弘直(おうこうちょく)がこの飄風(つむじかぜ)の意味を尋(たず)ねると、管輅(かんろ)は「東方から馬吏(ばり)がやって来ます。父親が子供のために泣くことになるでしょうが、どうしようもございません」と答えた。

次の日、膠東郡(こうとうぐん)(青州(せいしゅう)・北海国(ほっかいこく))から役人が到着し、はたして王弘直(おうこうちょく)の息子が死んだ。

王弘直(おうこうちょく)がそのように占った理由を尋(たず)ねると管輅(かんろ)は、

「その日は乙卯(いつぼう)でしたが、これは『長子』を表しております。木の葉は申(しん)(秋の初めの季節)に落ち、北斗七星の柄(え)は申(しん)(南西)の方角を指しており、申(しん)は寅(いん)を破ります。これらは『死亡』を表しております。また風が起こった時、太陽が午(ご)(南)の方角にありましたが、これは馬を表しております。離(り)(南を表す卦(け))は文章を象徴し、吏(やくにん)を表しております。申未(しんび)は虎(西方を表す白虎(びゃっこ)であり、虎は大人(たいじん)であって、父親を表しているのです」

と言い、また、

「風というものは時に応じて動くものであり、『易(えき)』の爻(こう)は象(しょう)に表れて事物に反応します。時間は神秘な存在が働かせているものであり、象(しょう)は神秘なものが形として表れたものです。それ故(ゆえ)に時間を事物の根本にある法則と重ね合わせて考えれば、その意味を知るのに何の困難がありましょう」

と言った。

王弘直(おうこうちょく)は学問を積み、方術にも嗜(たしな)みがあったのであるが、管輅(かんろ)の言うところの微妙な部分はまったく理解できなかったので、

「風が変転推移してゆくことについても、同様にその意味を知ることができるのだろうか」

と尋(たず)ねると管輅(かんろ)は、

「今回の件は風全体の中の、単に毛髪のごときものに過ぎません。どうして異となす程のことがありましょうか?天上の星々がその星座を離れ、神々が勝手にその職分を乱す時、八風(はっぷう)(八方の風)がてんでばらばらに起こり、猛(たけ)り狂った『気』は稲妻を走らせ、山は崩(くず)れ石は飛んで、樹木は折れ傾き、万里の高さにまで砂(すな)埃(ぼこり)が舞い上がって、仰(あお)いでも天は見えず、鳥獣は潜(ひそ)み隠れ、万民は心の平静を失わせます。こうした時になって梓慎(ししん)(風占いの名手)のような者たちを高台に登らせ、風気を観察して起こるべき災異の種類と日時を判断させますが、このようにして初めて神々の思慮の幽遠さ、霊威ある風の懼(おそ)ろしさが理解されるのです」

と言った。

脚注

*5典農(てんのう)は屯田(とんでん)(民屯)の実施地域で農業生産、民事、土地の賃貸管理などを担当する官職で、典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)、典農校尉(てんのうこうい)、典農都尉(てんのうとい)がある。

王弘直(おうこうちょく)の昇進を当てる
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また、雄(おす)の雉(きじ)が飛んできて、王弘直(おうこうちょく)の家の中の呼び鈴をかけた柱の上に止まった。王弘直(おうこうちょく)はひどく不安に思って、管輅(かんろ)に卦(け)を立てさせた。

管輅(かんろ)は「5月になれば、きっと昇進されましょう」と言い、この時はまだ3月であったが、5月になると王弘直(おうこうちょく)は はたして勃海太守(ぼっかいたいしゅ)となった。

管輅と諸葛原
賓客(ひんかく)たちと議論(ぎろん)を戦わせる
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冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・館陶県(かんとうけん)の県令けんれい・諸葛原しょかつげん(字(あざな)は景春(けいしゅん))が新興太守しんこうたいしゅに昇進して幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・新興郡(しんこうぐん)に赴任することになった時、景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)は管輅(かんろ)が送別に来る機会を捉(とら)えて議論に達者な賓客(ひんかく)を多数集めた。

人々は管輅(かんろ)が占いや天文に詳しいことは伝え聞いていたが、彼が人並み外れた異才の持ち主であることは知らなかった。

そこで先(ま)ず、管輅(かんろ)に対して聖人の著作(ちょさく)の深い意味を論じ、また五帝(ごてい)・三王(さんおう)が天命を受けためでたい符(しるし)について述(の)べた。管輅(かんろ)は景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)の微旨(びし)(それとなく示された意図(いと))を察(さっ)すると、自(みずか)らの戦地を開張して強固でないことを示し、(兵法上不利とされる)「孤虚(こきょ)」の場所に潜(ひそ)み隠れて、他の論者が攻撃をかけて来るのを待った。

景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)は敗走し、その軍師ぐんしも手(て)酷(ひど)い損害を受けて、自(みずか)ら「卿(あなた)の旗色を見るに、城壁(じょうへき)も濠(ほり)も壊されてしまったぞ」と言った。ここで戦いを望む者たちは、太鼓や角笛を鳴らして雲梯(うんてい)(梯子車(はしごしゃ))をかけ、弓や弩(ど)が盛んに発射され、牙旗(がき)が群がり集まった。

こうした状況になって初めて、管輅(かんろ)は城壁の上に立って武威を示すと、門を開いて敵を受け入れ、古くは五帝(ごてい)のことを論ずれば、あたかも長江(ちょうこう)や漢水(かんすい)の如(ごと)く滔(とう)々(とう)と述(の)べたて、下って三王(さんおう)のことを論ずれば、大空を高く翔(あまがけ)り飛ぶが如(ごと)くであった。その華やかな様子は春の花が一斉に咲き出したようであり、その鋭い攻撃は秋の風が木々の葉を散らせてゆくようであった。

これを聴いていた者は、管輅(かんろ)の言葉に目を眩(くら)まされて意味を深く知ることができず、論陣を張っていた者たちも声を潜(ひそ)めて、自分たちの敗北を心から認めない者はいなかった。秦(しん)の将軍しょうぐん・白起(はくき)が戦勝して趙(ちょう)の士卒数十万人を生き埋(う)めにし、項羽(こうう)が漢(かん)の兵を濉水(すいすい)に追い落とし、そのために濉水(すいすい)が流れなくなったという大勝利も、この管輅(かんろ)の勝利に勝るものではなかった。

そこで賓客(ひんかく)たちはみな面縛銜璧(めんばくかんぺき)*6し、管輅(かんろ)の軍鼓(ぐんこ)の下(もと)に自(みずか)ら罰を乞(こ)おうとしたが、管輅(かんろ)は山の頂上に立ってすぐには降伏を許そうとはせず、次の日、別れの時になって初めて、彼らと腹蔵(ふくぞう)のない固い交(まじ)わりを結んだ。

その中には当時、天下に聞こえた俊士(しゅんし)が8〜9人おり、蔡元才(さいげんさい)はそうした朋友(ほうゆう)の中で最も清才を備(そな)えた人物であったが、人々の前で管輅(かんろ)に「卿(あなた)のことを聞いて狗(いぬ)だと思っていたが、思いがけなくも龍となられた」と言うと管輅(かんろ)は「陽の気が潜(ひそ)んだまま未(いま)だ変化をせぬ時、卿(あなた)にはそれを察知することができません。どうして犬の耳で龍の声を聞くことができましょうやっ!」と言った。

脚注

*6自(みずか)ら両手を後ろ手に縛り、璧(へき)を銜(くわ)えて出頭する降伏の方法。

射覆(せきふ)を言い当てる
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冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・館陶県(かんとうけん)の県令けんれい・諸葛原しょかつげん(字(あざな)は景春(けいしゅん))は、学問のある人物で卜筮(うらない)を好み、しばしば管輅(かんろ)と射覆(せきふ)*7をしたが、管輅(かんろ)を降参させることができなかった。

景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)が新興太守しんこうたいしゅに昇進して幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・新興郡(しんこうぐん)に赴任することになった時、景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)は管輅(かんろ)が送別に来る機会を捉(とら)えて議論に達者な賓客(ひんかく)を多数集め、管輅(かんろ)と議論を戦わせたが、賓客(ひんかく)たちは負けを認め、腹蔵(ふくぞう)のない固い交(まじ)わりを結んだ。

その後、景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)は「今、別れて遠い地方に行くことになって、再開は期(き)しがたい。今一度、一緒に射覆(せきふ)*7をしようではないか?」と言い、自(みずか)ら立って、燕(つばめ)の卵・蜂の巣・蜘蛛(くも)を用意して器(うつわ)の中に入れ、管輅(かんろ)に射覆(せきふ)*7をさせた。

卦(け)が立つと管輅(かんろ)は「1つめの物は、天地の気を含んで生命を養(やしな)いつつ変化の時を待ち、建物の軒(のき)に身を寄せています。雄雌(しゆう)の区別はすでについていますが、翅翼(つばさ)はまだ伸びておりません。これは燕(つばめ)の卵です。2番目の物は、家室(部屋)が逆さまにぶら下がって門戸は甚(はなは)だ多く、鋭(するど)い針を隠して毒を養(やしな)い、秋の季節になると死んでしまいます。これは蜂の巣です。3番目の物は、恐ろしげに長い足を動かし、糸を吐(は)いて羅(うすぎぬ)を織り上げます。網(あみ)によって食物を得ますが、暗い夜が獲物(えもの)を得る絶好の機会です。これは蜘蛛(くも)です」と答え、多数居(い)並(なら)ぶ者たちは驚き喜んだ。

景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)は大いに笑って「我(わたし)のためにこれらの卦(け)の意味を論じて、我(わたし)の胸の内の疑問を解(と)いてはくれまいか」と言うと、管輅(かんろ)は爻(こう)の意味を明らかにし、その道理を条理立てて述(の)べ、それぞれに形象(けいしょう)を当てはめて説明した。その言葉は表現できない程の見事さであったので、景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)をはじめ多くの賓客(ひんかく)たちは「後の議論の見事さの方が、射覆(せきふ)*7の楽しさに勝った」と口を揃(そろ)えていった。

脚注

*7器(うつわ)の中に物を入れてそれを当てさせる遊び。

諸葛原しょかつげんの戒(いまし)め
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景春(けいしゅん)(諸葛原しょかつげん)は管輅(かんろ)と別れるに及んで、彼に2つの「戒(いまし)め」を言った。

「卿(あなた)は酒好きで少しのことでは乱れたりしないが、保証はできない。節制した方がよかろう。また、卿(あなた)には水鏡(すいきょう)の才*8があり、物事の機微(きび)を見通すことができる。しかし、神の如(ごと)く天文を観ることができても、禍(わざわい)は膏(あぶら)を注がれた火のようなものなので、慎重になるべきだ。卿(あなた)は叡才(えいさい)を保(たも)って雲漢(うんかん)(天の川)に遊んでいれば『富貴になれぬ』などと心配する必要はない」

すると管輅(かんろ)は「酒は無限に飲めるものではなく、才能も使い尽くすことはできませんから、酒を飲む時は礼によって自分の欲を節制し、才能は愚(おろ)かさを装(よそお)うことでしっかりと保(たも)てば、何を患(うれ)えることがあろうか?」と答えた。

脚注

*8人の手本になるような理解力や判断力に優れていること。

仕官する
冀州(きしゅう)・清河郡せいがぐんの北黌文学ほくこうぶんがくとなる
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当時、管輅(かんろ)の家の近隣では外戸を閉めていなかったが、盗み(偷窃)を働く者はいなかった。

清河太守せいがたいしゅの華表(かひょう)は、管輅(かんろ)を召(め)して文学掾ぶんがくえん(『管輅別伝(かんろべつでん)』では北黌文学ほくこうぶんがく)としたが、当時、管輅(かんろ)と交(まじ)わりを結んだ士人たちの中に、彼を慕(した)わない者はいなかった。

趙孔曜(ちょうこうよう)の推挙
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冀州(きしゅう)・安平国(あんぺいこく)出身の趙孔曜(ちょうこうよう)は、頭の働きが鋭(するど)く深い思慮と知識があって、管輅(かんろ)とはかねてから管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)のような厚い友情で結ばれた間柄であった。

(管輅(かんろ)が清河郡せいがぐんに出仕すると、)趙孔曜(ちょうこうよう)は兗州(えんしゅう)・東郡(とうぐん)・発干県(はっかんけん)から冀州(きしゅう)・清河郡せいがぐんの黌(こう)(学校)にやって来て、管輅(かんろ)に、

「卿(あなた)の胸中は充実しており*9、古(いにしえ)の聖人に匹敵し、今の世に並ぶ者はいない。当然、世俗を越えて青空に飛翔されるべきであるのに、どうしてこんな所におられるのか?卿(あなた)のこうした有り様を聞き及んで、私は食事も不味(まず)くなってしまった。冀州刺史きしゅうししの裴使君(はいしくん)(裴徽(はいき))は、頭が斬れ心は澄(す)み渡り、道の根本をよく理解しておられ、『易(えき)』や老荘(ろうそう)の道を論ぜられる時、必ず厳(げん)・瞿(く)(厳君平(げんくんぺい)・商瞿(しょうく)?)といった人々の説を、心を込めて述(の)べられる方である。また吾(わたし)にも重く目をかけてくださり、よく心の内を広げ、誠(まこと)をもって接していただいている。これから出掛けて行って、虎を感動させ石をも動かす誠(まこと)でもってあなたのために弁(べん)じてあげようと思う」

と言うと、管輅(かんろ)は、

「吾(わたし)は4つの淵(ふち)に潜(ひそ)む龍ではない。どうして曇(くも)りのない太陽を陰(かげ)らせることができようか?ただ卿(あなた)が東風を吹かせ、朝、空にたなびく雲を興(おこ)してくださるのであれば、吾(わたし)はそれを辞退しようとは思いません」

と答えた。

そこで趙孔曜(ちょうこうよう)は、そのまま冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・鄴県(ぎょうけん)*10に行って裴使君(はいしくん)(裴徽(はいき))と会った。

裴徽(はいき)「君(あなた)の顔は随分(ずいぶん)やつれているが、どうしたのだ?」

趙孔曜(ちょうこうよう)「これは薬で治る病気ではありません。ただ清河郡せいがぐんに1頭の騏驥(きき)(駿馬)がいて、長年後(うら)の厩(うまや)に繋(つな)がれ、王良(おうりょう)・伯楽(はくらく)といった良馬を見る目のある者から180里(約77.4km)も隔(へだ)たって、その天骨(才能)を騁(は)せ、風塵(ふうじん)を巻き起こすことができずにおります。憔悴(しょうすい)しているのはそのためです」

裴徽(はいき)「その騏驥(きき)(駿馬)は今どこにいる?」と言うと、趙孔曜(ちょうこうよう)は、

趙孔曜(ちょうこうよう)「その者は平原郡(へいげんぐん)出身の管輅(かんろ)、字(あざな)は公明(こうめい)と言い、歳は36歳。元々寛大な性格で世間との折り合いも良く、士人の中の雄傑(ゆうけつ)と申せます。見上げて天文を観察すれば甘公(かんこう)・石申(せきしん)*11の天文占いの精妙さに匹敵し、目を下ろして『周易(しゅうえき)』を読めば、その理解の深さは司馬季主(しばきしゅ)と変わるところがございません。また道術の世界に心を遊ばせ、その精神は広々として果てしなく、士人の中の英俊(えいしゅん)と申せます。荊山(けいざん)の璞(あらたま)(和氏(かし)の璧(へき))を抱き、夜光の宝[明珠(夜光玉)]を懐(ふところ)にしておりますのに、清河郡せいがぐんでは北黌文学ほくこうぶんがくの微官(びかん)につけられております。真(まこと)に胸が痛み頭が痛む次第でございます。使君(しくん)(裴徽(はいき))は只今(ただいま)、辺鄙(へんぴ)な田舎に住む者たちの任用に意を注(そそ)ぎ、日の当たらない場所にいる者たちの抜擢(ばってき)に心を向け、聡明な統括者が補佐のないまま政治を行うことがないよう、人並み優れた才能を持った者が長く任用されないままにならないように心掛けておられ、その高邁(こうまい)なご風化は遙(はる)かな土地にまで及び、風の前の草のように靡(なび)かない者もございません。どうか管輅(かんろ)も、特にその輝かしいお心に秘かにかなってお取り立てを蒙(こうむ)り、時を得て華々しく表舞台に立つ人々の列に加えてやってくださいますように。必ずや盛んなご教化を広く敷かれるのに役立ち、天下に御名を高らしめるに違いございません」

裴刺史(はいしし)(裴徽(はいき))はこの言葉を聞くと心を高ぶらせ、

「何としたことだっ!大きな州(の刺史ししの役目)にあるが、任用して私の心の鬱悶(うつもん)を晴らしてくれるような異才を発見することができぬまま、京師(けいし)(洛陽(らくよう))に還(かえ)って人々と道の哲学についてでも議論しようと考えていたのだ。ましてや草深い民間に、澄(す)みきって精妙な才能を持った者がいようとは。言われる通りであるならば、すぐさま紹介して欲しい。これ以上、駿馬を駑馬(どば)としておくことはできず、荊山(けいざん)の璞(あらたま)(和氏(かし)の璧(へき))をただの石ころとしておいてはならない」

と言い、すぐさま檄文(めしぶみ)を送って管輅(かんろ)を召し寄せて文学従事ぶんがくじゅうじとした。

脚注

*9原文:卿腹中汪汪。汪汪は「(涙が)いっぱいたまっている」「水が広く深い」という意味。

*10『続漢書(ぞくかんじょ)』郡国志(ぐんこくし)に「冀州(きしゅう)の州治所は常山国(じょうざんこく)・高邑県こうゆうけん」とあるが、後(のち)に管輅(かんろ)が冀州刺史きしゅうしし・裴徽(はいき)の招聘(しょうへい)に応じて冀州(きしゅう)の州治所に向かう際、清河郡せいがぐんを出発して鄴県(ぎょうけん)にある武城(ぶじょう)を通っていることから、当時、冀州(きしゅう)の州治所は魏郡(ぎぐん)・鄴県(ぎょうけん)であったと思われる。

*11戦国(せんごく)時代の天文占いの名手。伝来は怪しいが甘公(かんこう)・石申(せきしん)著の『星経(せいきょう)』が現在に伝わる。

冀州刺史きしゅうしし・裴徽(はいき)に招聘(しょうへい)される
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管輅(かんろ)が冀州刺史きしゅうしし・裴徽(はいき)の招聘(しょうへい)に応じ、弟の管季儒(かんきじゅ)と共に車に乗って武城(ぶじょう)*12の西までやって来た時、管輅(かんろ)は自分の将来の吉凶を占って、管季儒(かんきじゅ)に「(これから通る)故城(こじょう)の中で3匹の狸(のらねこ)を見ることがあったら、我らは出世するだろう*13」と言った。

そのまま河(漳河(しょうが))西の故城(こじょう)の隅(すみ)まで進んだ時、まさしく3匹の狸(のらねこ)が城壁の側(そば)にうずくまっているのが見えたので、兄弟は喜んだ。


管輅(かんろ)が冀州刺史きしゅうしし・裴徽(はいき)に目通りすると、疲れを知らず終日清論を戦わせた。ちょうど暑い盛りで、床(しょう)(人が座ったり寝たりする大きな台)を庭前の樹の下に移して議論を続け、鶏(にわとり)が鳴いて夜が明けかかる時になって、管輅(かんろ)はやっと退出した。2度目の目通りの際にはすぐさま鉅鹿郡きょろくぐんの従事じゅうじに転任され、3度目には治中従事ちちゅうじゅうじに転任され、4度目には別駕従事べつがじゅうじに転任された。

脚注

*12『続漢書(ぞくかんじょ)』郡国志(ぐんこくし)に「鄴県(ぎょうけん)には汙城(おじょう)、平陽城(へいようじょう)、武城(ぶじょう)、九侯城(きゅうこうじょう)がある」とある。

*13原文:「當在故城中見三貍,爾者乃顯」。狸(り)には「タヌキ」と「野生のネコ」の意味がある。「爾(なんじ)(お前)」の部分は、自分の将来の吉凶を占って言った言葉であることから「我ら」とした。

裴徽(はいき)の忠告
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魏(ぎ)の正始(せいし)9年(248年)10月、管輅(かんろ)は秀才(しゅうさい)に推挙されて京師(けいし)(洛陽(らくよう))に上ることになった。管輅(かんろ)が裴使君(はいしくん)(裴徽(はいき))別れの挨拶(あいさつ)を述(の)べると、裴使君(はいしくん)(裴徽(はいき))は「何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)の2人の尚書しょうしょ*14は国を治めるに足る才略を持たれ、物事の道理についても精通されている。特に何尚書(かしょうしょ)(何晏(かあん))の心の働きは物事の精髄(せいずい)を極(きわ)め、その言葉はみな巧妙で、秋毫(しゅうごう)*15のような微細なものでも破る危(あや)うさを持っている。君(あなた)も慎重に振る舞う必要があるだろう。(何晏(かあん)は)『易(えき)』について9つの不明点があると言っておられたから、きっとその事について尋(たず)ねられるに違いない。洛陽(らくよう)に着くまでに『易(えき)』の道理についてよく調べておくように」と言った。

管輅(かんろ)は「何晏(かあん)が巧妙であるとすれば、それは『攻難の才(相手の議論に対する論難の才能)』であって、未(いま)だ霊妙な部分までは達しておられないでしょう。そもそも物事の霊妙な部分にまで達した者は、天地の大きな秩序の中に歩(ほ)を進め、陰と陽の変化を推(お)しはかり、物事の奥深い原理を探(さぐ)って、幽明(冥土(めいど)とこの世)を極(きわ)め、然(しか)る後(のち)に果てしない道であることに気づくことになります。つまらない事にかかずらう暇はありません。もし老子(ろうし)と荘子(そうし)に優劣をつけて『易(えき)』の爻(こう)や象(しょう)を比べ合わせ、小さな議論に執着(しゅうちゃく)して根なし草の文飾で飾り立てようとするのであれば、それは的(まと)を射(い)る弓術の巧(たく)みさとは言えても、秋毫(しゅうごう)*15のような微細なものを破る精妙さではございません。また9つの不明点について言えば、それらはみな道理の通ったものですからわざわざ思考を労する必要もございませんし、陰陽についてならば随分前から精通しております。輅(わたし)が出発しました後、元日の朝に時刑の大風があり、その風はきっと木々を打ち砕(くだ)くでありましょう。もしその風が乾(いぬい)(北西)の方向から起こったのであれば、必ずや天帝(てんてい)の刑罰がありますが、ご相談くださるほどのことではございません」

と言った。

脚注

*14wikisourceの原文には「(丁)、鄧二尚書(丁は丁謐(ていひつ))」とあるが、その後の流れから何晏(かあん)とした。

*15秋に生え替(か)わったばかりの、細くて先端の鋭い獣類の毛。転じて、きわめて微細なこと。わずかなこと。

管輅と何晏
何晏(かあん)を戒(いまし)める
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魏(ぎ)の正始(せいし)12年(248年)12月28日、吏部尚書りぶしょうしょの何晏(かあん)が管輅(かんろ)を招待したが、その時鄧颺(とうよう)もまた何晏(かあん)の元にいた。

何晏(かあん)が管輅(かんろ)に、

「君(あなた)の立てる爻(こう)(卦(け))は神妙であると聞く。試しに私が三公さんこうに至ることができるか、1度卦(け)を立ててはくれまいか」と言い、また「『数十匹の青蠅(あおばえ)が鼻の上にたかって、追い払うことができない』という夢を幾晩(いくばん)も見たが、これは何を意味しているのだろうか?」

と問(と)うと管輅(かんろ)は、

「彼(か)の飛鴞(ふくろう)は天下の賤鳥(せんちょう)と言えども、林にありて椹(じん)(桑の実)を食べれば、美しい声で鳴くと申します。まして輅(わたし)は心のない草木ではございません。どうして忠を尽くさないことがありましょうか?
昔、八元(はちげん)・八凱(はちがい)と呼ばれた立派な臣下が舜帝(しゅんてい)を補佐し、懇(ねんご)ろで和(やわ)らいだ政治を敷(し)き広げました。また、周公(しゅうこう)が周(しゅう)の成王(せいおう)を後見して政治を行った時には、(夜中に良い施策(せさく)が思い浮かぶと、)座ったまま旦(よあけ)(夜明け)を待って、すぐさま実行に移しました。故(ゆえ)に流れ出る光を六合(りくごう)(天下)に伝え、万(よろず)の国々をあまねく安んじられたのであります。これらは正道をふみ行う休応(きゅうおう)(めでたい験(しるし))であって、卜筮(ぼくぜい)によって明らかにできることではございません。
今、君侯(あなたさま)の位は山岳のように重く、その勢いは雷や稲妻のようでございますが、その御徳(おんとく)に懐(なつ)く者は少なく、みな御威勢(ごいせい)を畏(おそ)れるばかりです。これでは小心翼翼(気が小さくてびくびくしているさま)として上帝(じょうてい)からの多福を乞(こ)い願いつつ、仁ある政治を行った文王(ぶんおう)の御心(みこころ)から外れてしまっているではありませんか。
また『鼻』は、艮(こん)の卦(け)に対応するもので、これこそ天中(てんちゅう)の山*16であって、高くとも危(あや)うからず、それこそが貴(とうと)い地位を長く守っている根拠でございますが、今、悪臭のする青蠅(あおばえ)が集まってまいりました。
位峻(いしゅん)(高い位)の者は没落し、他人を侮(あなど)り傲(おご)る者は滅びます。満ちては欠ける運勢や、繁栄と衰退の時期について考えることを怠(おこた)ってはなりません。
それ故(ゆえ)に地に山があることを『謙(けん)』と言い、天上に雷があることを『壮(そう)』と言います。『謙(けん)』とは『(自分の)多い部分を減らして少ないものを益(ま)すこと』であり、『壮(そう)』とは『礼に外れた道は行わないという勇気をもつこと』です。己(おのれ)を卑下(ひげ)すれば必ずその力が大きくなり、道に外れたことを行えば必ず失敗するのでございます。
どうか君侯(あなたさま)はには、古くは文王(ぶんおう)が『易(えき)』の六爻(りくこう)の主旨を思い起こされ、(時代を)下(くだ)っては尼父(じほ)(孔子(こうし))が作った『易(えき)』の彖伝(たんでん)・象伝(しょうでん)の意味を熟慮されますように。そうされて初めて、三公さんこうの地位は確実なものとなり、青蠅(あおばえ)も追い払うことができましょう」

と、身を慎むように言った。鄧颺(とうよう)が「そんなことは年寄りたちのいつもの譚(いいぐさ)(言い草)だ」と言うと、管輅(かんろ)はこれに答えて、

「そもそも悟(さと)りを開いた年寄りの言葉には、深い意味が表れるものでございます。(夫老生者見不生,常譚者見不譚)」

と言うと何晏(かあん)は、

「物事の微妙な兆候を神の如く見抜くことは古人にとっても難しく、深い交(まじ)わりのない人に向かって忌憚(きたん)のない言葉を吐(は)くことは今人にとっても難しい。
今、君(あなた)は1度面会しただけでこの2つの困難なことを同時になされた。思うに馨(かぐわ)しい明徳を有していると言えるだろう。『詩経(しきょう)』の言葉を借りて言おう、『私はあなたの好意を忘れないだろう(中心藏之,何日忘之)』!と」

と言い、「年が明けたらもう1度会おう」と言った。

脚注

*16人相占いの書物では鼻のある場所を天中(てんちゅう)と言い、鼻の形は山に似ている。故(ゆえ)に「天中(てんちゅう)の山」と言ったのである。

何晏(かあん)と鄧颺(とうよう)の死を当てる
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何晏(かあん)と会見した後、邑舎(ゆうしゃ)(宿舎)に帰った管輅(かんろ)が、舅氏(おじ)(母の兄弟)の夏大夫(かたいふ)に会見の様子を詳しく語ると、夏大夫(かたいふ)は「管輅(かんろ)の言葉が明け透(す)け過ぎた」と言って非難した。ところが、管輅(かんろ)はこれに「死人と話しているのに何を畏(おそ)れることがありましょうや?」と答えたので、夏大夫(かたいふ)は大いに怒り、「管輅(かんろ)は気が狂って見境(みさかい)がなくなったのだ」と考えた。

(翌年の)元旦、西北の大風が吹いて塵埃(ちりぼこり)が天を蔽(おお)い、それから10日余りして「何晏(かあん)と鄧颺(とうよう)が揃(そろ)って誅殺(ちゅうさつ)された」という風聞が伝わった。そこで初めて夏大夫(かたいふ)も管輅(かんろ)の眼識に敬服したのであった。


そこで夏大夫(かたいふ)は「以前、何晏(かあん)と鄧颺(とうよう)と会見した時に、もう既(すで)に凶気があったのか?」と尋(たず)ねると、管輅(かんろ)はこう答えた。

「禍人(かじん)と会うことによってその精神が錯乱(さくらん)していることを知り、吉人と親しむことによって聖賢が本質を求めていることを知ることができます。鄧颺(とうよう)の歩き方を見れば、筋が骨から離れ脈は肉を制御することができず、起立すれば傾きもたれて手足はないようなものでした。こうした有り様を『鬼躁(きそう)』と言います。また何晏(かあん)の目つきは魂が拠(よ)り所を失い、血も濁(にご)り精神は朦朧(もうろう)とし、その容貌(ようぼう)は枯(か)れ木のようでした。こうした有り様を『鬼幽(きゆう)』と言います。

『鬼躁(きそう)』の者は風に捕らえられ、『鬼幽(きゆう)』の者は火に焼かれるのが自然の成(な)り行きであって、誰もそれを免(まぬか)れることはできないのです」

何晏(かあん)を批評する
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管輅(かんろ)が後に、事情により休暇を得て郷里に帰った時のこと。裴使君(はいしくん)(裴徽(はいき))は、

「何平叔(かへいしゅく)(何晏(かあん))どのは一世に名高い才能を持った人物であったが、実際に会ってみてどうであったか?」

と尋(たず)ねた。管輅(かんろ)が、

「その才能は壺(つぼ)の中の水のように、人に見える部分は澄(す)んでいても、人に見えない部分は濁(にご)っておりました。知識・学識を広め、学ぶことに熱心でなければ、才能を完成させることはできません。盆盎(ぼんおう)(盆(ぼん)や鉢(はち))の水に1つの山の形を求めても形を得ることはできず、彼の智も混乱してしまったのです。故(ゆえ)に老子(ろうし)や荘子(そうし)を論ずれば巧(たく)みであっても上辺ばかり華(はな)やかで実質が伴(ともな)わず、『易(えき)』を論ずれば様々な意味づけをして華麗ではあっても偽(いつわ)りが多いのです。華美であれば上辺ばかりで実質が伴(ともな)わず、偽(いつわ)りがあればその精神は虚(うつ)ろになります。もし彼に上才が与えられていれば、浅薄な点はあっても人々から隔絶した位置に立つことができ、中才が与えられていれば、その精神を遊ばせて人々から抜きん出ることができた筈(はず)です。輅(わたし)が考えますに、彼はちっぽけな巧(たく)みさを才能としていたに過ぎないのです」

と答えると、裴使君(はいしくん)(裴徽(はいき))は、

「誠(まこと)にあなたの言われる通りだ。吾(わたし)は何度か平叔(へいしゅく)(何晏(かあん))どのと共に老子(ろうし)や荘子(そうし)、『易(えき)』を論じたが、常にその言葉が道理の微妙な部分を捉(とら)えているように覚えて、反論することができなかった。また当時の人々も慣(な)れ親しんで、みな帰服していたため、益(ます)々(ます)彼の本質が分からなくなってしまっていた。あなたに会って立派な批評を聞くことができ、初めて彼のことがはっきりと理解することができた」

管輅と鍾毓
『易(えき)』について議論する
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魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)の鍾毓(しょういく)は、俗事を超越した高い才智を持った人物であった。

管輅(かんろ)が鍾毓(しょういく)の元を訪(おとず)れた時のこと。鍾毓(しょういく)は管輅(かんろ)の『易(えき)』の議論について、20余箇条にわたって誤(あやま)りを論じ立てたが、管輅(かんろ)は打てば響くように少しの滞(とどこお)りもなく反論した。その議論は『易(えき)』の爻(こう)と象(しょう)をそれぞれに分析し、微妙な深意を得たものであったので、鍾毓(しょういく)はすぐさま管輅(かんろ)に謝罪した。

鍾毓(しょういく)の誕生日を筮(うらな)う
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管輅(かんろ)は話の成り行きから「卜(うらない)によって君(あなた)の生まれた日と死亡する日を知ることができます」と言った。そこで鍾毓(しょういく)が自分の誕生日を筮(うらな)わせると、管輅(かんろ)は少しの狂いもなく言い当てた。

鍾毓(しょういく)が大いに驚いて「聖人は思索・思考を集中させて物事の変化に通じると言うが、どのようにしてそのようなことができるのかっ!」と言うと、管輅(かんろ)は次の様に答えた。

「幽明(冥土(めいど)とこの世)は同化し、死と生は1つの道の上にあって、悠久(ゆうきゅう)不変(ふへん)の太極のように循環しています。周(しゅう)の文王(ぶんおう)は苦境に陥(おちい)った時にも憂(うれ)えたりはせず、仲尼(ちゅうじ)(孔子(こうし))は死を前にしても懼(おそ)れず杖を曳(ひ)い(て気ままに歩き回っ)ていたのは、蓍筮(しぜい)(卜筮(ぼくぜい))によって(自分の運命を)理解していたからなのです」

鍾毓(しょういく)は、

「生きることはめでたいことであり、死ぬことは厭(いと)うべきことである。その哀楽ははっきり分かれており、吾(わたし)には生と死を同様に受け入れることはできない。死は天によって定められるもので、君(あなた)によって定められるものではない」

と言って、死亡する日を筮(うらな)わせることはしなかった。

司馬懿(しばい)のクーデターを当てる
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また鍾毓(しょういく)が「天下は太平となるであろうか?」と尋(たず)ねると、管輅(かんろ)は、

「今は淵(ふち)にあった龍が正(まさ)に天に飛ぼうとし、立派な人物に会うに相応(ふさわ)しい時です。神の如(ごと)き武略を備(そな)えた人物が出現して権力を打ち建て、王者の統治が華やかに輝きます。どうして天下の乱れを憂(うれ)える必要がありましょうか?」

と答えた。鍾毓(しょういく)には管輅(かんろ)の言葉の意味がよく分からなかったが、程(ほど)なくして曹爽(そうそう)らが誅殺(ちゅうさつ)されると、やっとその意味を悟(さと)ったのであった。

管輅と石苞
姿を消す方法について語る
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石苞(せきほう)が冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・鄴県(ぎょうけん)の典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)*5であった時、管輅(かんろ)と会見して「聞けば君(あなた)と同郷の翟文耀(てきぶんよう)は姿を消すことができるとのことだが、それは本当なのだろうか?」と尋(たず)ねると、管輅(かんろ)は答えて言った。

「これは単に陰陽の持つ蔽匿(へいとく)(隠す)という作用によるものに過ぎません。その原理の働きを把握しさえすれば、四岳(しがく)*17だって隠してしまい、河や海だってどこかにやってしまうことができます。まして人間の7尺(約169.4cm)の身体を万物の変化の中に遊ばせ、散じて雲霧となして身を潜(ひそ)め、金や水など五行に分解させて跡形もなくすることなど、その術に精通し、陰陽の作用を充分に把握してさえいれば、何の造作もないことなのです」

これを受け、石苞(せきほう)が「その微妙なところを聞きたい。どうか存分に、その原理の働きについて語っていただきたいものだ」と言うと、管輅(かんろ)は答えて言った。

「この世の存在は純粋でなければ不思議な働きを示すことができず、原理の作用も精妙でなければ、それを実際の場で働かせることができません。それゆえ純粋なものには不思議な作用が合わさり、精妙なものには優れた智力がそれに対応するのです。ただこうした合致対応は極めてほのかで微妙なので、精神によってそれに精通することはできても、言語によって論じることは困難なのです。
ですから優れた工芸者の魯班(ろはん)にも、自分自身の巧(たく)みな腕前について説明させることは困難であり、鋭い目を持った離硃(りしゅ)(離朱(りしゅ))にも自分の眼の働きについて説明させることは不可能なのです。それは口に出すことが困難だというのではありません。孔子(こうし)も『書物は言葉のすべてを表現してはいない』と言われています。言いたいことの細部までは文字によって表されないということであり、また『言葉は意(こころ)をすべて表現してはいない』とも言われており、これは意(こころ)の微妙な部分までは言葉によっては表されないということなのです。これらはみな(本質的なものが言葉には表現されない)不思議で微妙なところにあることを言っているのです。
では、その大凡(おおよそ)の骨組みになる部分を挙(あ)げてこのことを証明してみましょう。太陽が天に昇(のぼ)る時、万里に光を送り照らさないものはありませんが、一度(ひとたび)地中に入ってしまえば、ほんの少しの光も見ることができなくなります。盈月(えいげつ)(十五夜の満月)が澄(す)み切った輝きで夜空を照らす時、はるか遠くまで望むことができますが、その月が昼に出れば、その明るさは鏡にも及びません。今ここで、この太陽と月の光から身を隠すことができるのは、必ずや陰陽の働きに則(のっと)っているからであり、陰陽の働きというものは万物すべてに共通しているのです。鳥獣ですら陰陽の働きに従って変化してゆくのですから、まして人間ならば言うまでもないことです。
その原理の働きを把握した者は精妙な存在となり、その原理の神秘さを把握する者は不思議な力を持った存在となります。そしてこれは生者に対してのみその実証が得られるというのではなく、死者についても同様です。だからこそ杜伯(とはく)は火の気の力を借りてその精妙な働きを人々の前に示し、彭生(ほうせい)は水の原理を借りて変化し、豕(ぶた)として姿を現したのです。故(ゆえ)に生者は姿を現すことも消すこともでき、死者も姿を顕(あらわ)すことも隠すこともできるのです。これこそ万物の精気の働きであり、それが変化してゆく過程で物から離れて遊魂となって奇怪な現象を引き起こすのであって、生者と死者が感応し合うのも、陰陽の働きがそうさせるのです」

石苞(せきほう)が「陰陽の理(ことわり)をしっかりと見通しているという点では君(あなた)に勝る者はいない。君(あなた)自身はどうして姿を消されないのか?」と問うと管輅(かんろ)は、

「そもそも高く大空を翔(かけ)る鳥はその清らかで高々とした環境を愛して、長江(ちょうこう)や漢水(かんすい)の魚となろうとは願いません。沼の淵(ふち)に住む魚はその湿潤な環境を楽しんで、風の中を飛翔する鳥に変わろうとはいたしません。その天性が異なっており、守るべき本分(ほんぶん)が同じでないからです。
僕(わたし)自身の願いは、身を正しく道を明らかにし、己(おのれ)を直(ただ)して義に親しむことにあって、陰陽の働きが見通せても取り立てて立派なことと考えず、それを発動させる術(すべ)を知っていても奇とすべきこととは考えません。ただ朝夕に事物の機微を追求し、怠(おこた)りなくこれまでに習ったことを復習しているのであって、意味もなく姿を消したり怪事を行ったりすることには、心を向ける暇(いとま)もありません」

と言った。

脚注

*5原文は典農(てんのう)。『晋書(しんじょ)』石苞伝(せきほうでん)より。典農(てんのう)は屯田(とんでん)(民屯)の実施地域で農業生産、民事、土地の賃貸管理などを担当する官職で、典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)、典農校尉(てんのうこうい)、典農都尉(てんのうとい)がある。

*17中原(ちゅうげん)の四方にあり、諸山の鎮(しず)めとされた東の泰山(たいざん)、西の華山(かざん)、南の衡山(こうざん)、北の恒山(こうざん)の4つの大山。

管輅と劉邠
射覆(せきふ)を言い当てる
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平原太守へいげんたいしゅ・劉邠(りゅうひん)(字(あざな)は令元(れいげん))は、印囊(いんのう)(印章を入れる袋)と山鶏(やまどり)の羽毛を選んで器(うつわ)の中に入れ、管輅(かんろ)に筮(うらな)わせたところ、管輅(かんろ)は、

「内側が四角で外側が丸く、5色の文様を成しており、内に宝物をひそめてしっかりと自(みずか)らを守り、外に表れるとはっきりとした章(しるし)となります。これは印囊(いんのう)(印章を入れる袋)です。ゴツゴツとした高岳に身体が硃(あか)い鳥がおり、羽翼は玄(くろ)と黄色で、夜明けには時刻を違(たが)えずに鳴きます。これは山鶏(やまどり)の羽毛です」

と答えた。

劉邠(りゅうひん)の限界を諭さと)す
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元の郡将ぐんしょう(太守たいしゅ)・劉邠(りゅうひん)は清らかで穏(おだ)やかな性格で、論理だった思考力を備(そな)えていた。彼は『易(えき)』を好んだが、その奥義を窮(きわ)めることができずにいた。

劉邠(りゅうひん)は管輅(かんろ)と会うと大変喜んで「自分は『易(えき)』に注釈をつけているが、それが完成間近であること」を語った。すると管輅(かんろ)は、

「今、明府(めいふ)(劉邠(りゅうひん))さまは、世にも稀(まれ)なお精神(こころ)を働かせ、大いなる原理に筋道をつけようとしておられますが、これこそ今の時節が誠(まこと)に素晴らしい世であることの表れでございます。ですが輅(わたし)が考えますに、『易(えき)』に注釈をつけることの緊急性は、水に溺(おぼ)れ火に焼かれている者を救うよりも切迫した要務です。水や火の災難を救うのは、その場での働きだけですが、『易(えき)』の清濁陰陽に関する解釈の善(よ)し悪(あ)しの影響するところは、万代の後にまで及ぶのです。故(ゆえ)に真っ先にその精髄(せいずい)をしっかりと見定めて、然(しか)る後に思慮を加え分析しなければならないのです。夜明けから今に至るまで、ご聖論を拝聴しておりましたが、『易(えき)』の本質は1/10も理解できておられません。これでどうして『易(えき)』に注釈をつけられましょうかっ!輅(わたし)には理解できませんが、古(いにしえ)の聖人はどうして乾(けん)を西北に位置させ、坤(こん)を西南に位置させたのでしょうか。そもそも乾(けん)と坤(こん)は天と地を象(かたど)り、天と地はこの世で最も大きいものです。神々にとっての主君や父親にあたるもので、天は万物を覆(おお)い、地は万物をその上に載(の)せて、長生させ養い育てるものです。それがどうして他の6つの卦(け)と同列に並んでいるのでしょうか?乾(けん)の卦(け)の彖伝(たんでん)は『大いなる哉(かな)、乾(けん)の元(かしら)としての存在は。万物はここから発生したのだ。こうしたものであればこそ、天をも統(す)べるのである』と言います。統(す)べるというのは自分の下に属させることであって、これ以上尊(とうと)いものがないのです。それなのにどうして西北という、他と並立する位置を持っているのでしょうか?」

と言った。劉邠(りゅうひん)は『易(えき)』の繋辞伝(けいじでん)に依拠(いきょ)してこの問題に解釈をつけようとしたが要領を得ず、管輅(かんろ)は、劉邠(りゅうひん)が1つ答えるごとにすぐさま反論し、劉邠(りゅうひん)の議論はすべて行き詰(づ)まってしまった。

管輅(かんろ)は、

「そもそも乾(けん)と坤(こん)というものは『易(えき)』の祖宗(そそう)であり、万物の変化の根源であります。今、明府(めいふ)(劉邠(りゅうひん))さまが論ぜられた陰陽清濁の議論には疑問点があり、疑問点があれば真髄(しんずい)を得ているとは言えません。おそらくは『易(えき)』を注釈されるのに適した資質はございません」

と言うと、劉邠(りゅうひん)に向かって八卦(はっけ)の道と爻(こう)と象(しょう)の持つ詳しい意義を論じて、まず根本的な大議論を繰り広げ、さらに様々にそれを変化させつつ(特殊な場合についての)議論を続けた。劉邠(りゅうひん)には、自分に分かる部分は極めて精妙に思われ、分からない部分は神秘的に感じられた。

劉邠(りゅうひん)は自(みずか)ら、

「『易(えき)』に注釈をつけようと思い始めて8年、色々と思いを巡(めぐ)らせて、長年心を休ませることがなかったが、思いがけなくもあなたのご高論を聞くことができ、私の才は『易(えき)』に注釈をつけるなど及びもつかないものだったことを知らされた。これまで久しく苦労したことを惜(お)しいとは思わない。あなたの雅言(立派な言葉)を拝聴することができて嬉しく思う。お陰でこの後は枕を高くして寛(くつろ)いで休むことができる」

と言った。

劉邠(りゅうひん)と議論する
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管輅(かんろ)の言葉を聞き、『易(えき)』に注釈をつけることを諦(あきら)めた劉邠(りゅうひん)は、今度は管輅(かんろ)に射覆(せきふ)*7について教えて欲しいと言った。

これに管輅(かんろ)が、

「明府(めいふ)(劉邠(りゅうひん))さまは『易(えき)』に注釈をつけることを諦(あきら)められました。これと同様に、霊妙な蓍(めどぎ)(筮竹(ぜいちく))の働きについても思いを絶(た)たれますように。霊妙な働きを持つ蓍(めどぎ)(筮竹(ぜいちく))とは、天と地の二儀に基(もと)づく技術であり、陰陽の働きと深く結合していて、その原理を施(ほどこ)せば天下の吉凶を定(さだ)めることができ、この技術を用(もち)いれば天下の隅(すみ)々(ずみ)まで収(おさ)めることができます。微少なものを捉(とら)えるという点で、『易(えき)』とは比べものにならないのです」

と言うと劉邠(りゅうひん)は、

「(筮竹(ぜいちく)の技術が)『易(えき)』の技術と近いことから、その一端を知ろうとしただけなのだ。あなたの言う通りであれば、どうしてこんなことに手を出したりしようか?」

と言った。

その後、劉邠(りゅうひん)は管輅(かんろ)を5日間引き留(と)めると、役所の仕事を顧(かえり)みず、ひたすら管輅(かんろ)と清譚(せいたん)(世俗を越えた議論)ばかりをしていた。劉邠(りゅうひん)が自(みずか)ら、

「私はしばしば何平叔(かへいしゅく)(何晏(かあん))どのと『易(えき)』や老子(ろうし)、荘子(そうし)の道理について議論したものだが、精神(こころ)ははるか遠くに遊んで万物の変化を取り持ち、金や水のごとく清らかで、隆盛するさまは山林のごとくある点で、君(あなた)は何平叔(かへいしゅく)(何晏(かあん))どのを遙(はる)かに超えている」

と言った。

脚注

*7器(うつわ)の中に物を入れてそれを当てさせる遊び。

平原郡(へいげんぐん)の怪異
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また劉邠(りゅうひん)が、

「郡の官舎で立て続けに奇怪な出来事が起こっており、その怪異は多種多様で、人々を恐怖に陥(おとしい)れている。君(あなた)はこうした事の起こる道理に通じておられるようだが、何が原因なのだろうか」

と尋(たず)ねると、管輅(かんろ)は、

「この郡が平原郡(へいげんぐん)と呼ばれるのは、元々ここが広々とした原野で、山があっても木や石がなく、大地の元々の姿を留(とど)めていたからです。(そうした土地(とち)柄(がら)から)大地が陰の気を含んでもそれを雲として吐(は)き出すことができず、陽の気を含んでもそれを風として吹き出させることもできないのです。陰と陽はたとえ微弱であっても、それなりに奥深く不思議な作用をいたします。その奥深く不可思議な作用が押し止められて自然のままに発揮されることがないと、多くの凶姦を集め、類は友を呼んで、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が群れをなすことになるのです。
おそらく漢(かん)末の混乱の時に兵馬が乱れ争い、兵士たちの屍(しかばね)から流れ出た血がこの辺りの丘岳を汚染しました。故(ゆえ)に横死(おうし)した者たちの霊魂が感応し合い、様々に変化して、暗い夜に乗じてしばしば奇怪な物が姿を現すのでありましょう。
昔、夏(か)の禹(う)は優れた聡明さを持たれ、黄龍(こうりゅう)が現れても怪しんだりはせず、周(しゅう)の武王(ぶおう)は時運の流れを信じて暴風に襲われた時にも心を騒がせることがありませんでした。
今、明府(めいふ)(劉邠(りゅうひん))さまは高く優れた徳をお持ちです。神秘に通じた者は妖異(ようい)を懼(おそ)れる必要はなく、天祐(てんゆう)(天の祐(たす)け)によりすべてが吉(めでた)く運びます。どうか天から降(くだ)される百禄(はくろく)(多くの幸い)をその身に受けられて、天のめでたいご加護を存分に活用されますように」

と言った。また劉邠(りゅうひん)が、

「正に怪異が起こる原因を正しく捉(とら)えている。なぜなら奇怪なことが起こる時にはいつも、軍鼓や角笛の音が聞こえ、弓や剣の形が見えることがあるからだ。考えて見るに、(木や石のない)禿(は)げ山の精(もののけ)と、(不当に殺された)伯有(はくゆう)*18の霊魂の両者が結びつくことができた時、明らかな人間世界までも侵犯してくるのだろう」

と言い、

「『易(えき)』(大畜(だいちく)・卦(け)の彖伝(たんでん))に『剛健にして篤実(とくじつ)ならば、その徳の輝光(かがやき)は日々に鮮やかとなる』とあるが、この輝と光は同じなのだろうか?」

と尋(たず)ねると、管輅(かんろ)は、

「表現が異なっているだけで、朝旦(夜明け)には輝と言い、日中には光と言うのです」

と言った。

脚注

*18春秋(しゅんじゅう)時代の鄭(てい)の大夫(たいふ)。良霄(りょうしょう)の字(あざな)。良霄(りょうしょう)に不満を持つ子晳(しせき)(公孫黒(こうそんこく))の攻撃を受けて許(きょ)に逃亡。子皮(しひ)(罕虎(かんこ))を頼って旧北門を攻めたが、駟帯(したい)に敗れて羊肆(ようし)(羊商街)で殺害された。死後、彼は幽霊となって祟(たた)りを起こし、後(のち)に不当な仕打ちを受けたり、不当に死んだりした人の代表として扱われるようになった。

管輅と徐季龍
徐季龍との議論
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清河令(せいがれい)(冀州(きしゅう)・清河郡(せいがぐん)・清河県(せいがけん)の県令(けんれい))の徐季龍(じょきりゅう)(字(あざな)は開明(かいめい))は才機のある人物であった。

徐季龍(じょきりゅう)は管輅(かんろ)と会見すると「龍が動けば景雲(めでたい雲)が立ち昇(のぼ)り、虎が吠(ほ)えると万物を生育する東の風がやって来る」とされることが議論となったが、徐季龍(じょきりゅう)の意見は「これは火星(アンタレス)が龍であり、参星(オリオン座の3つ星)が虎なのであって、火星が出れば雲が応じ、参星が出れば東の風がやって来るのであり、これは陰陽が感応して引き起こされる現象で、実際の龍や虎が招(まね)き起こすのではない」という主旨であった。

管輅(かんろ)は「議論をしたり異論を提出したりする場合には、まず真っ先にその根本を明らかにし、その後でその道理を探究しなければなりません。道理を捉(とら)え損(そこ)ねれば、その道理の働きの機(かなめ)を取り間違え、その働きの機(かなめ)を取り間違えれば、やがては名誉をもたらすべき議論が、却(かえ)ってその人に恥辱をもたらす結果となるのです。
もし(冬の星座である)参星を虎とするならば、それに反応する谷風(こくふう)(万物を養(やしな)い育てる春の東風)は却(かえ)って冬の霜(しも)をもたらす風となってしまいます。冬の霜(しも)をもたらす風を、春の東風と呼ぶことはできません。
私が考えますに、龍というものは陽の精でありますが、潜(ひそ)めば陰となります。その(陰陽を兼ねる)霊妙な力が秘かに天に伝わり、気を調和させて神々を動かし、調和した気と神々の力とがそれぞれの作用を助長し合うことによって、雲を起こすことができるのです。
虎というものは、陰の精でありながら陽の位置におり、樹木のもとで長く嘯(うそぶ)き、巽(そん)(木を象徴する卦(け))の林にその力を働かせれば、陰陽の2つの気が感応し合って、風を吹き起こすことができるのです。
ちょうど磁石が鉄を吸い付けるように、それを動かしている神秘な存在は見えなくとも金属が自然と近づくようなもので、明らかな効力を持って相手に反応を起こさせるのです。ましてや龍は淵(ふち)に潜(ひそ)んだり天を翔(か)けたりする変化の力を持ち、虎にはくっきりとした文様があって虎変(こへん)の能力を備(そな)えているのですから、雲を呼び風を招(まね)くことについて、なんの疑いを差し挟む余地がありましょうか?」

と言った。これに徐季龍(じょきりゅう)が、

「龍が淵(ふち)に潜(ひそ)む時、1つの井戸の底ほどの場所にわだかまるに過ぎない。虎が悲しげに吠(ほ)える時も、百歩の内にその声が聞こえるに過ぎない。その物としての存在も気も力の弱いものであり、その実際の作用が及ぶのも狭(せま)い範囲であるのに、どうして景雲(めでたい雲)を湧(わ)き昇(のぼ)らせ、東風を吹かせることができるのだろうか?」

と言うと、管輅(かんろ)は、

「君(あなた)はご存知ないでしょうか。陰燧(いんすい)と陽燧(ようすい)*19を掌(てのひら)の上に持てば、そのもの自体は手から離れることはなくとも、上は太陽から火を取り、下は太陰(たいいん)(月)から水を取ることができ、一(ひと)呼吸(こきゅう)の間に、そこに水気と火気とが降ってくるのです。純粋な気が感応し合いさえすれば、大空にかかる日月も陰陽2つの燧(すい)に反応し、もし感応の関係がない場合には、2人の女が同居していても、互いの心が通じ合うことはありません。このように、本来の道理の働きというものは、距離の遠近には拘(かか)わらないのです。」

と言った。また徐季龍(じょきりゅう)が、

「世に軍事(いくさ)が起ころうとする時、鶏や雉(きじ)はそれに感応して真っ先に鳴くが、どうした道理からこうしたことが起こるのだろうか?他にもそうした変化を知る手立てがあるのだろうか。鶏や雉(きじ)だけなのだろうか?」

と言うと、管輅(かんろ)は、

「貴人に何か事が起こる時、その反応は天に現れ、日月星辰(太陽・月・星々)に変化として現れます。また兵が動いて民が憂(うれ)える時、その反応は物に現れ、山林の鳥獣に変化が現れます。鶏というのは兌(だ)の卦(け)(西方を現す)に当たる家畜で、金(西方に当てられる元素)は兵器の根本的な要素であり、雉(きじ)は離(り)の卦(け)(南方を現す)に当たる鳥で、獣(けもの)は武の神秘的な力を象徴するものです。
故(ゆえ)に太白(たいはく)(金星・明けの明星(みょうじょう))が光を輝かす時に鶏は鳴き、熒惑(けいわく)(火星・火は南を象徴する)が天に動く時に雉(きじ)は驚き、それぞれ運数の変化に感応して動作を起こします。また兵事の神秘的な法則は、六甲(ろっこう)*3の中に分かれて含まれています。この六甲(ろっこう)*3の変化に対しては、その意味を知るための方法は1つと決まってはおりません。
また晋(しん)の文公(ぶんこう)の柩(ひつぎ)の中から牛の鳴き声のようなものが聞こえた時、果たして西軍が通過し、鴻嘉(こうか)年間(前漢(ぜんかん)・成帝(せいてい)期の元号)には、太鼓の形をした石が鳴り響いた時に兵事がありました。鶏や雉(きじ)といった身近なものだけにその反応が現れるとは限らないのです」

と言った。また徐季龍(じょきりゅう)が、

「魯(ろ)の昭公(しょうこう)8年に、晋(しん)で石がものを言った。師曠(しこう)は『季節外れの時に民を労役に駆り出したために民たちの間に怨讟(えんとく)(怨(うら)みの声)が起こったため、もの言わぬ物が言葉を発したのだ』と言っているが、この解釈は道理に適(かな)っているのだろうか?」

と言うと、管輅(かんろ)は、

「晋(しん)の平公(へいこう)が奢侈(しゃし)に耽(ふけ)り、宮殿を大きくしたり飾り立てたりするために山林の木々を伐採し、金や石を破壊して民の力が疲弊(ひへい)し尽くしたのに加え、山や沢までが怨(うら)みを持ちました。これにより神々は痛み、人々は憤激(ふんげき)して、両者の精気と金と石とが気を同じくしました。故(ゆえ)に兌(だ)の卦(け)が口舌を表し、口舌の怪異が不思議な石として発動したのです。『洪範五行伝(こうはんごぎょうでん)』に『百姓を軽んじて城郭を飾り立てれば、金(かね)と革(かわ)が従わなくなる』と言います。これはこうしたことを言っているのです」

と言った。

徐季龍(じょきりゅう)は心から彼の意見を褒(ほ)め、管輅(かんろ)を引き留(と)めた。

脚注

*3十(じっ)干(かん)と十二(じゅうに)支(し)を組み合わせてできる干支(えと)の一(ひと)巡(めぐ)り(六十干支(ろくじっかんし))のうち、甲(こう)がつくもの6つ(甲子(こうし)・甲戌(こうじゅつ)・甲申(こうしん)・甲午(こうご)・甲辰(こうしん)・甲寅(こういん))を取り出したもの。これに特別な意味を与えて占いなどに使っていた。

*19陽燧(ようすい)は凹面鏡の一種。太陽に向けて神聖な火を取るのに用(もち)いた。陰燧(いんすい)は、形態は不明であるが、銅盤の一種と考えられ、夜中に戸外に出して露(つゆ)を結ばせた。その露(つゆ)は月から得られたものとされ、若返りの力を持つと信じられた。

狩猟の獲物を当てる
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管輅(かんろ)を引き留(と)めて数日が経(た)った頃、徐季龍(じょきりゅう)は使用人を狩猟に行かせると、管輅(かんろ)に命じて獲物を筮(うらな)わせた。

これに管輅(かんろ)は、

「きっと小さな動物が獲(え)られるでしょう。またそれは食べられる動物ではありません。爪や牙を持っていますが、それらは小さく力は強くなく、身体にある文様ははっきりしません。虎でもなく雉(きじ)でもなく、その名は狸(やまねこ)*13です」

と答えたが、狩猟に出た者たちが夕方に帰ってくると、果たして管輅(かんろ)が言った通りであった。徐季龍(じょきりゅう)が、

「君(あなた)は精妙に道理に通じているとは言え、隠された物を推察することはあまり得意ではないのに、どうしてみな筮(うらな)い当てることができるのか?」

と尋(たず)ねたところ、管輅(かんろ)は、

「吾(わたし)は天地に精神を合わせ、蓍(めどぎ)(筮竹(ぜいちく))や(亀卜(きぼく)に用(もち)いる)亀の甲羅(こうら)に霊魂(たましい)を通(かよ)わせて、日(太陽)と月を抱いて杳冥(ようめい)(奥深く暗い)世界を遊行し、変化を見極めて未来を知るのです。ましてや(狩猟の獲物のような)手近なものを推察するのに、(吾(わたし)の)聡明さが充分に発揮できないようなことがありましょうか」

と言った。これを聞いた徐季龍(じょきりゅう)が大笑いして「君(あなた)は謙虚さを身につけなければ、近い将来、困窮(こんきゅう)することになるぞ」と言うと、管輅(かんろ)は、

「君(あなた)はまだ謙虚という言葉の意味を分かっておられません。それなのにどうして道理について議論することができましょうか?
そもそも天地というものは乾(けん)と坤(こん)の卦(け)の原理に対応するものであり、蓍(めどぎ)(筮竹(ぜいちく))や(亀卜(きぼく)に用(もち)いる)亀の甲羅(こうら)は卜筮(ぼくぜい)の原理の働きを捉(とら)えるものです。日(太陽)と月は離(り)と坎(かん)が象(かたち)として表れたものであり、万物の変化は陰と陽の爻(こう)(交(まじ)わりの表現)であって、杳冥(ようめい)(奥深く暗い)な存在が不思議な変化の源(みなもと)であり、未来というものは幽冥(ゆうめい)(暗く幽(かす)かなもの)の先にあるのです。これらはすべて『周易(しゅうえき)』の紀綱(きこう)をなすところで、(こうしたものを正しい手続きで知ることができると考える私が)どうして不遜であると言えましょうか?」

と言った。

脚注

*13狸(り)には「タヌキ」と「野生のネコ」の意味がある。ここでは「ヤマネコ」とした。

射覆(せきふ)を言い当てる
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そこで徐季龍(じょきりゅう)は管輅(かんろ)の能力の限界を試そうと、13種類の物を選んで大きな篋(はこ)の中に置き、射覆(せきふ)*7をさせた。

すると管輅(かんろ)は「器(うつわ)の中にはごちゃごちゃと13種類の物が入っています」と言い、最初に鶏の卵*20を言い当て、次に蚕(かいこ)の蛹(さなぎ)を言い当てると、次々とそれぞれの名を言い当てていき、ただ梳(くし)を枇(ひ)(歯の細かい梳(くし))と間違えただけであった。

これには徐季龍(じょきりゅう)も賛嘆(さんたん)して「物事を始める者を聖人と呼び、それを祖述(そじゅつ)*21する者を賢者と呼ぶが、それは管輅(かんろ)のような人物のことを言うのであろうかっ!」と言った。

脚注

*7器(うつわ)の中に物を入れてそれを当てさせる遊び。

*20原文:鶏子。鶏子には「鶏卵」と「ひよこ」の意味がある。

*21師や先人の説を受け継ぎ、それに基(もと)づいて学問を進め述(の)べること。

毌丘倹(毋丘倹)一族の滅亡を当てる
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管輅(かんろ)が軍隊に従って西に行き、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))一族の墓の前を通りかかった時のこと。管輅(かんろ)はそこの樹にもたれて悲しげに歌を吟(ぎん)じ、ひどく滅入(めい)った様子であった。

ある人がその理由を尋(たず)ねると、管輅(かんろ)は、

「木々は生(お)い茂(しげ)ってはいても、その形は長くは続かない。碑(ひ)に刻(きざ)まれた誄(るい)(追悼文(ついとうぶん))は立派でも、墓を守るべき子孫はいない。玄武(げんぶ)は頭を隠し、蒼龍(そうりゅう)には足がなく、白虎(びゃっこ)は屍(しかばね)を銜(くわ)え、朱雀(すざく)は悲しげに哭(な)いている。4つの危機が揃(そろ)っている以上、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))一族の滅亡は避け難(がた)い。2年以内にそのしるしがやってくるだろう」

と言い、やがて管輅(かんろ)の言った通りになった。

管輅と倪太守
雨が降る日を当てる
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後(のち)に休暇を得て、冀州(きしゅう)・清河郡(せいがぐん)の倪太守(げいたいしゅ)(清河太守(せいがたいしゅ)の倪氏(げいし))の元を訪(おとず)れた時のこと。当時は旱(ひでり)が続いていたので、倪太守(げいたいしゅ)が管輅(かんろ)に「いつになったら雨が降るのか」と尋(たず)ねた。これに管輅(かんろ)は「今夜きっと雨が降ります」と答えたが、その日は太陽がギラギラと照りつけていて雨が降りそうな気配はなく、倪太守(げいたいしゅ)にはどうしても信じられなかった。

管輅(かんろ)が、

「造化(ぞうか)*22の働きが神秘である所以(ゆえん)は、自(みずか)ら急がなくてもその作用は速(すみ)やかであり、自(みずか)らそこに行かなくてもその作用が及ぶことにあります。
16日の壬子(じんし)の日はちょうど満月で、それが畢星(すばる)の中にあって水気を有しており、水気の活動が卯辰(うたつ)(東南東)で活発化していることから、必ず雨が降る勢いにあります。
また天帝(てんてい)は昨日、檄(げき)を下して5つの星を召(め)し集め、東井(とうせい)*23に星符(せいふ)(天からのお告げ)を宣布し、南箕(なんき)(星座の名前)に命令を告げて、雷公(らいこう)・電母(でんぼ)・風伯(ふうはく)・雨師(うし)を召(め)し集めさせました。
これにより群岳(山々)は陰の気を吐(は)き、衆川(川沢)はその精気を激(たぎ)らせて、雲漢(うんかん)(天の川)からは湿気が広がり、蛟(みずち)や龍は体内に霊力を蓄えています。輝き渡る朱電(しゅでん)(赤い稲妻)は黒々とした雲霧(うんむ)を吐(は)き出し、ゴロゴロと鳴る雷声(雷鳴)は雨霊を呼吸して、谷風(こくふう)(東風)はそよそよと吹いています。天地はみな同じ屋根の下にあり、万物は簡単にその形を変えます。天には天の時があり、自然には道があります。(それを知ることは)それ程(ほど)難しいことではありません」

と言うと、倪太守(げいたいしゅ)は、

「言葉は立派でもあまり信じられない。気の毒だがあなたの言うようにはなるまい」

と言ってそのまま管輅(かんろ)を引き留(とど)め、人を遣(や)って丞(じょう)(太守(たいしゅ)の次官)と清河郡(せいがぐん)の県令(けんれい)を呼び寄せた。そこで倪太守(げいたいしゅ)が管輅(かんろ)に、

「もし夜に雨が降れば2百斤(きん)の犢(こうし)の肉をご馳走(ちそう)しよう。だが、もし雨が降らなかった時には、ここに10日間逗留(とうりゅう)してもらおうか」

と言ったところ、管輅(かんろ)は「ご出費をおかけすることになりましょう」と言った。

ところが、そのまま日暮れ方になっても雲の気配すら現れない。その場に集められた人々はみな管輅(かんろ)を嘲(あざ)笑(わら)ったが、管輅(かんろ)は、

「樹の上にはすでに少女(西)の微風があり、樹の間には陰の鳥たちが声を合わせて鳴いています。これに少男(東北)の風が起こって鳥たちが一斉に翔(と)べば、その応(しるし)がやってくるのです」

と言った。

間もなくして、管輅(かんろ)の言った通りに艮(こん)(東北)の風が吹いて鳥が鳴くと、まだ太陽が沈(しず)まないうちに東南の方角にある山から雲が湧(わ)き起こり、黃昏(たそがれ)(夕暮れ)を過ぎると、雷声(雷鳴)が天に轟(とどろ)いた。夜の到来を知らせる太鼓が鳴ると、星や月はみな隠れ、風と雲が並び起こって真っ黒な気が四方から押し寄せ、河を逆さまにぶちまけたような大雨が降り出した。

倪太守(げいたいしゅ)は悔(くや)し紛(まぎ)れに、

「これはまぐれ当たりに過ぎない。(雨が降っても)何の不思議もないことだ」

と言ったが、管輅(かんろ)は、

「まぐれ当たりで天の変化の時期とぴったり合ったのだとしても、それはそれで巧(たく)みと言えるではありませんか」

と言った*24。

脚注

*22天地万物を作ったと考えられる造物主のこと。

*23ふたご座からかに座にかけての天域。

*24以上は『魏書(ぎしょ)』方技伝(ほうぎでん)が注に引く『管輅別伝(かんろべつでん)』より。『魏書(ぎしょ)』方技伝(ほうぎでん)には「この結果を見た倪太守(げいたいしゅ)は厚く管輅(かんろ)をもてなし、共に楽しみを尽くした」とある。

自分の死を言い当てる

正元(せいげん)2年(255年)のこと。弟の管辰(かんしん)が、管輅(かんろ)に「大将軍(だいしょうぐん)(司馬昭(しばしょう))さまは兄上に目をかけてくださっていますから、富貴な身分が望めましょうね?」と言うと、管輅(かんろ)は長いため息をついて、

「吾(わたし)は自分がそうなっても良いだけの資質を備(そな)えていることを知っている。しかし天は我(わたし)に才能と聡明さを与えたが、年寿(寿命)は与えてくれなかった。おそらく47〜48歳の間に、女(むすめ)が嫁に行き、兒(ちのみご)(の息子)が嫁を娶(めと)るのを見る前に死ぬだろう。もしこの時期を免(まぬか)れることができたならば、洛陽令(らくようれい)となって、路(みち)の落とし物を着服する者がなく、(盗賊の出現を知らせる)太鼓が鳴らされることがないような政治を行いたいものだ。だがおそらく、太山(たいざん)に行って鬼を治めることになり、生者を治めることはできないだろうが、仕方のないことだっ!」

と言った。管辰(かんしん)がその理由を問(と)うと、管輅(かんろ)は次のように言った。

「吾(わたし)は額(ひたい)に生骨がなく、眼の中に守精(ひとみ)がない。鼻には梁柱がなく、脚には天根がない。また背には三甲がなく、腹には三壬がない。これらはみな不寿(短命)の験(しるし)なのだ。また吾(わたし)の運勢は寅(いん)にあり、加えて月食の夜に生まれた。天には定(さだ)まった運命があって、それを諱避(きひ)することはできない。ただ人々はそれを知らないだけなのだ。吾(わたし)はこれまで人相を占って『すぐに死ぬ』と判定した人は百人以上にもなるが、ほとんど外れることはなかった。(自分の寿命についても判断を誤(あやま)ることはあるまい)」

管輅(かんろ)はこの年の8月に、少府(しょうふ)の丞(じょう)(次官)となり、次の年の3月に亡くなった。享年(きょうねん)48歳であった。

閻続伯(閻纘)による伝
閻続伯(えんぞくはく)(閻纘(えんさん))
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近頃(西晋(せいしん)中期)、閻続伯(えんぞくはく)(閻纘(えんさん))という者がおり、物事に広く詳細に通じて、歴史の記録者としても立派な資質を持っていた。その彼が、天下の様々な事柄が忘れ去られて行くのを補(おぎな)うために、「自分が伝え聞いたこと」として、次に記(しる)すような記事を書き留(と)めている。それぞれの話は大人(たいじん)(立派な人物)や先哲(先世の賢者)たちから伝え聞いたもので、充分に信用のおけるものであって「虚偽を伝えたという非難を自分に浴(あ)びせないでくださるな」とのことである。

劉太常(りゅうたいじょう)(劉寔(りゅうしょく))の話
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ある時(閻纘(えんさん)は)管辰(かんしん)が劉太常(りゅうたいじょう)(劉寔(りゅうしょく))と呼んでいる人物から次のような話を聞いた。

「私が管輅(かんろ)の名前を初めて聞いたのは、隣家の婦人のために、彼女の逃げた牛の行方(ゆくえ)を卜(うらな)った時であった。管輅(かんろ)は『きっと西の狭(せま)い垣根(かきね)の間につかえて頭を上に向けているだろう』と言い、婦人に墓地の塚の間を探させたところ、果たして牛が見つかった。ところが婦人は『管輅(かんろ)が自分の牛を盗んで隠しておいたのだろう』と思い役所に訴え出たところ、取り調べの結果、結局彼の術によって(牛の居場所を)知ったのだと分かった。このことにより、管輅(かんろ)のことが裴冀州(はいきしゅう)(裴徽(はいき))の耳に入ったのだ。」

また劉太常(りゅうたいじょう)(劉寔(りゅうしょく))は次のようなことも語った。

「管輅(かんろ)が、路中(ろちゅう)(旅の途中?)に妻を見失った小人(しょうじん)(賤(いや)しい人物)のために卜(うらな)った時のこと。管輅(かんろ)は『次の日の朝、徐州(じょしゅう)・広陵郡(こうりょうぐん)・東陽県(とうようけん)の城門の中で豚を擔(かつ)いで来る者に因縁をつけ、取っ組み合いをするように』と指示した。小人(しょうじん)がその通りにすると豚が逃げ出したので、すぐさま2人してそれを追いかけた。その豚が他人の家に入り、主人の甕(かめ)にぶつかって壊したところ、その甕(かめ)の中から小人(しょうじん)の妻が出て来た」

劉侯(りゅうこう)[劉太常(りゅうたいじょう)(劉寔(りゅうしょく))]の話にはこうした類(たぐい)のものが多数あり、管辰(かんしん)がその伝に載(の)せているのはその内の1/10か2/10に過ぎない。

中書令史(ちゅうしょれいし)・紀玄龍(きげんりゅう)の話
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管輅(かんろ)と同郷の中書令史(ちゅうしょれいし)の紀玄龍(きげんりゅう)は次のように言った。

「管輅(かんろ)が田舎にいた頃、遠くの隣人を尋(たず)ねたが、その家の主人はしばしば起こる火事に患(わずら)わされていた。そこで管輅(かんろ)は卜(うらな)って『明日、南側の道で待っていると、きっと角巾(かくきん)をつけた書生が、黒い牛が引く古い車に乗って通るので、必ず彼を引き留(と)めて丁重にもてなしなさい。そうすれば火事は起こらなくなるはずだ』と言った。

そこで主人はすぐに管輅(かんろ)の言葉に従うと、果たして管輅(かんろ)の言葉通りの書生がやって来た。書生は『急用があるので行かせてくれ』と言ったが主人は聞き入れず、そのまま引き留(と)めて1晩泊(と)まらせた。書生はとても不安になり、『主人が自分に危害を加えるのではないか』と考えた。

そこで書生は、主人が奥に入ると刀を手に門を出て2つ並んで積まれた薪(まき)の間に寄りかかり、立ったままウトウトしていた。すると突然小さなものが現れて、真っ直ぐ目の前を通り過ぎようとしたが、それは獣のようで、手には火を持ち口でそれを吹いていた。驚いた書生は刀を振りかざしてこれに斬りつけ、ちょうど腰の辺りで断ち切った。よく見てみるとそれは狐であったが、これ以降、主人の家では火事が起こることはなくなった」

長広太守(ちょうこうたいしゅ)・陳承祐(ちんしょうゆう)の話
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前の長広太守(ちょうこうたいしゅ)(青州(せいしゅう)・長広郡(ちょうこうぐん)の太守(たいしゅ))の陳承祐(ちんしょうゆう)が、城門校尉(じょうもんこうい)の華長駿(かちょうしゅん)(華廙(かよく))から直接聞いたこととして、次のように語った。

「昔、自分の父親が清河太守(せいがたいしゅ)(冀州(きしゅう)・清河郡(せいがぐん)の太守(たいしゅ))であった時、管輅(かんろ)を招(まね)いて吏(り)(役人)としたが、管輅(かんろ)も自分が年若く、後には同郷であることも加わって深い交(まじ)わりを結び、いつも車に同乗して出掛けたりしていたので、管輅(かんろ)の事跡はよく知っている。

(管輅(かんろ)の術が的中した例は、)重要なものだけでも彼の伝に書かれている3倍はあった。(管輅(かんろ)の伝を書いた)管辰(かんしん)には才能が足らず、また若すぎる上に田舎にいたことが多いこともあって、詳しく分かっていないのだ」


また華長駿(かちょうしゅん)(華廙(かよく))は次のようなことも語った。

「管輅(かんろ)の卜(うらない)もすべてが的中した訳ではなく、10の内7か8の割合で的中した。長駿(わたし)がその理由を尋(たず)ねると、管輅(かんろ)は『その道理に差錯(ささく)(誤(あやま)り)はないのだが、卜(うらない)を頼みに来る者の言うことが事実のすべてを伝えていない場合があるので、こうした結果となるのだ』と言った」


「華城門(かじょうもん)(華廙(かよく))の夫人(ふじん)は、魏(ぎ)の故(もと)の司空(しくう)で幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)出身の盧公(ろこう)(盧毓(ろいく))の女(むすめ)であったが、病気にかかって何年も快癒(かいゆ)しなかった。当時、華家(かけ)は西城(せいじょう)下の南纏里(なんてんり)に居住しており、家の東南に3つの厩(うまや)があった。

そこで管輅(かんろ)は卜(うらな)って『東方からやって来た者が”自分が治療できる”と言うだろうから、その人物に治療を任せなさい。きっと良い結果が得られるでしょう』と言った。

それから間もなくして南征将軍(なんせいしょうぐん)の厩騶(うまかい)が兵卒に充(あ)てられることとなり、盧公(ろこう)(盧毓(ろいく))の元を訪(おとず)れたが、その彼が『お嬢さまのご病気を治すことができます』と言った。

盧公(ろこう)(盧毓(ろいく))は上表して厩騶(うまかい)を自分の家に留(とど)める許可を得ると、わざわざ息子に命じて彼を華氏(かし)(華廙(かよく))の元に連れて行き、女(むすめ)の治療に当たらせた。厩騶(うまかい)が、初めは散薬(こなぐすり)を用(もち)い、その後に丸薬を用(もち)いると、間もなく効果が現れた。

盧公(ろこう)(盧毓(ろいく))はすぐさま上表すると、彼を厩騶(うまかい)から除名して太医(たいい)とした」


また華長駿(かちょうしゅん)(華廙(かよく))は次のようなことも語った。

「管輅(かんろ)が(利漕令(りそうれい)となった)父親に従って利漕(りそう)(利漕県(りそうけん)?)にいた時のこと。その役所の近くの屯田民の1人で鹿を捕らえた者がいた。次の日の朝、もう1度その場所に行ってみると、毛と血は残っていたが、誰かが鹿を持って行ってしまっていた。そこで役所の厩(うまや)にやって来て管輅(かんろ)に事情を告げた。

そこで管輅(かんろ)は卦(け)を立てて言った。

『盗んだ者が卦(け)に表れました。汝(あなた)の家の東側の小路の3番目の家です。汝(あなた)はこれからすぐその門前に行って人がいないのを見(み)計(はか)らい、瓦(かわら)を1枚取って、分からないようにその家の臼(うす)つき場の屋根の東から7番目の椽(たるい)を持ち上げて、その下に瓦(かわら)を置きなさい。明日の食事時になるまでに、自分から返しに来るでしょう』

その夜、盗んだ者の父親の頭が痛みだし、高熱が出てひどく苦しんだ。そこでその男もやって来て管輅(かんろ)に卜(うらな)いを立ててもらった。管輅(かんろ)は彼に向かって祟(たた)りの原因になっている悪事を暴(あば)くと、盗んだ者はそれをすべて認めた。

管輅(かんろ)は『鹿の皮と肉、内臓を擔(かつ)いで元の場所に返すように。そうすれば病気も自(おの)ずと治るだろう』と命じ、その上で、鹿の本当の持ち主にこっそりと取りに行かせ、また、もう1度同じようにその家に行って、椽(たるい)を持ち上げて瓦(かわら)を棄(す)てさせた。盗みを働いた男の父親の病気は、それで治った」


「またある時、都尉(とい)の役所の内史(ないし)で物をなくした者がいた。

管輅(かんろ)は彼に、

『次の日の朝、役所の門の外を窺(うかが)っていれば、1人の男がやって来るのに逢(あ)うだろう。その男に天を指(さ)し地に線を引いて、四方に向かってそれぞれ手を挙(あ)げてもらうように。そうすれば自然と見つかるだろう』

と言った。夕方になると、果たして元の場所になくした物が見つかった」

評価

管輅(かんろ)は輝かしい才能を持っていた上に朱陽(しゅよう)(太陽)の運勢に遭遇(そうぐう)し、当時、彼の名声と勢いは光り輝き、猛火が燃え疾風が吹くかのように盛んであった。

当塗(とうと)の士(政界で実験を握る人々)もみな管輅(かんろ)と何らかの関係を持とうと務め、賓客(ひんかく)が雲の如(ごと)く集まったが、その人数がどれ程(ほど)多くてもみなに食事を出した。客人には貴賤(きせん)を問(と)わず礼をもって接したので、京城(けいじょう)(洛陽(らくよう))には彼の名声や勢いに惹(ひ)かれるだけでなく、その徳にも心を寄せる人々がたくさんいた。もし天寿を全(まっと)うすることができたならば、管輅(かんろ)が獲(え)たであろう栄耀(えいよう)栄華(えいが)のさまは、人々の想像を超えるものであったであろう。


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管季儒(かんきじゅ)

生没年不詳。冀州(きしゅう)・平原郡(へいげんぐん)の人。兄は管輅(かんろ)。弟に管辰(かんしん)。

管輅(かんろ)が冀州刺史きしゅうしし・裴徽(はいき)の招聘(しょうへい)に応じ、弟の管季儒(かんきじゅ)と共に車に乗って武城(ぶじょう)*12の西までやって来た時、管輅(かんろ)は自分の将来の吉凶を占って、管季儒(かんきじゅ)に「(これから通る)故城(こじょう)の中で3匹の狸(のらねこ)を見ることがあったら、我らは出世するだろう*13」と言った。

そのまま河(漳河(しょうが))西の故城(こじょう)の隅(すみ)まで進んだ時、まさしく3匹の狸(のらねこ)が城壁の側(そば)にうずくまっているのが見えたので、兄弟は喜んだ。

脚注

*12『続漢書(ぞくかんじょ)』郡国志(ぐんこくし)に「鄴県(ぎょうけん)には汙城(おじょう)、平陽城(へいようじょう)、武城(ぶじょう)、九侯城(きゅうこうじょう)がある」とある。

*13原文:「當在故城中見三貍,爾者乃顯」。狸(り)には「タヌキ」と「野生のネコ」の意味がある。「爾(なんじ)(お前)」の部分は、自分の将来の吉凶を占って言った言葉であることから「我ら」とした。


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管辰(かんしん)

生年不詳〜晋(しん)の太康(たいこう)元年(280年)没。冀州(きしゅう)・平原郡(へいげんぐん)の人。兄に管輅(かんろ)、管季儒(かんきじゅ)。

官は州の主簿(しゅぼ)・部従事(ぶじゅうじ)に至り、太康(たいこう)年間の初年に亡くなった。

劉寔による評価

劉侯(りゅうこう)[劉太常(りゅうたいじょう)(劉寔(りゅうしょく))]は「管辰(かんしん)は孝廉(こうれん)に推挙されるだけの才能があった」と言った。

管輅に教授を請う

管辰(かんしん)が兄の管輅(かんろ)に「卜(ぼく)(卜占(ぼくせん))と仰観(ぎょうかん)(天文占い)を教えて欲しい」と言ったことがあったが、管輅(かんろ)が、

「卿(おまえ)には教えることはできない。そもそも卜(ぼく)(卜占(ぼくせん))というものは、最大限に心を細かく働かさねばその働きを見ることができず、最大限に心を微妙に働かさねばその道理を見て取ることができない。『孝経(こうきょう)』『詩経(しきょう)』『論語(ろんご)』を習得すれば、充分に三公(さんこう)の位まで昇ることができる。卜(ぼく)(卜占(ぼくせん))など知る必要のないものだ」

と言ったので、管辰(かんしん)はついにこれを諦(あきら)めた。結局、管輅(かんろ)の子弟の中に、彼の術を伝えることのできる者はいなかった。

管辰による管輅伝
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管辰(かんしん)は管輅(かんろ)の生涯を叙(じょ)して言う。

管輅(かんろ)の書物

そもそも晋(しん)・魏(ぎ)の士は、管輅(かんろ)の道術が神妙(人智を越えて巧(たく)み)であり、占いがピタリと当たるのを見て、世間にはない書物や象甲(しょうこう)(占いの1つ)の術を伝え持っているのだろうと考えた。
しかし辰(わたし)(管辰(かんしん))は常々管輅(かんろ)の持つ書伝(古い書物や注釈書)を見てきたが、ただ『易林(えきりん)』『風角(ふうかく)』『鳥鳴(ちょうめい)』『仰観星書(ぎょうかんせいしょ)』30余巻があるだけで、それらはどこにでもあるものであった。しかも管輅(かんろ)は単身で少府(しょうふ)の官舎に住んでいて、家族や子弟が誰も一緒にいなかったので、彼が死んだ時、哀喪(あいそう)の気持ちを持たない好奇の者たちが管輅(かんろ)の書物を盗んでいったため、ただ『易林(えきりん)』『風角(ふうかく)』『鳥鳴書(ちょうめいしょ)』だけが残って家族に返された。

考えてみるに、術数を扱う流派は百数十家もあり、その書物は何千巻にものぼり決して少なくはないが、世の中に名の聞こえた方術者がほとんどいないのは、みな才能がないためであって、書物がないからではない。

管輅(かんろ)が好んだ議論

裴冀州(はいきしゅう)(裴徽(はいき))、何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)の2人の尚書しょうしょ、郷里の劉太常(りゅうたいじょう)(劉寔(りゅうしょく))・劉潁川(りゅうえいせん)(劉智(りゅうち))兄弟は「管輅(かんろ)は天から授(さず)かった才能を身に受けた、陰陽の道や吉凶の事情に明らかな者であるから、その源流を窮(きわ)めさえすれば、その流れに遊ぶことも決して困難ではない」と言い常に帰服しておられ、管輅(かんろ)自身も「この5君(5人)と語り合うと頭が冴(さ)えて寝るのを忘れてしまうが、彼ら以下の者たちと一緒だと昼間でも眠くなってしまう」と言っていた。

また管輅(かんろ)は、自(みずか)ら次のようにも言った。

「この世で望むことはできないが、ただ魯(ろ)の梓慎(ししん)、鄭(てい)の裨竈(ひそう)、晋(しん)の卜偃(ぼくえん)、宋(そう)の子韋(しい)、楚(そ)の甘公(かんこう)、魏(ぎ)の石申(せきしん)らと一緒に、霊台(れいだい)(天文と気象を観測する物見台)に登って神秘な絵図を披(ひろ)げ、日月星辰(太陽・月・星々)の三光の運行を推算して天文に示された災異の予兆を探知し、蓍(めどぎ)(筮竹(ぜいちく))や(亀卜(きぼく)に用(もち)いる)亀の甲羅(こうら)を用(もち)いて疑問を解決することができれば、何の心残りもないのだが」

辰(わたし)(管辰(かんしん))も自(みずか)らの闇浅(あんせん)(浅はかさ)を顧(かえり)みず、加えて兄弟という甚(はなは)だ親密な関係にあったこともあって、しばしば管輅(かんろ)に質問したり議論したりすることがあったが、人物を見分けてその良否を分析し、身近な道理を説(と)いてその曲直を正すことなどについては、管輅(かんろ)は不得手で何の鮮(あざ)やかさも示さなかった。

しかし、もし三皇(さんこう)や伏羲(ふっき)の典籍を敷衍(ふえん)*25し、文王(ぶんおう)や孔子(こうし)の言葉を称揚(しょうよう)し、また五曜(ごよう)(5つの惑星)が表すものをあまねく尋(たず)ねまわり、三度(さんど)(太陽・月・星々)の意味するところを正しく把握するといったことになれば、議論は口に溢(あふ)れ、深い意味のこもった言葉が風のように集中した。その様子はちょうど、目を上げて軽々と飛んで遙(はる)か彼方(かなた)に姿を没(ぼっ)してゆく鴻(おおとり)を眺めやるような、あるいは目の下に暗く底知れない深い谷に臨(のぞ)みやるようで、彼の言葉に強(し)いて反論しようとしてもその糸口がつかめず、教授を受けてその原理を求めようとしても、すぐに何が何やら分からなくなってしまって、いつも扼腕(やくわん)し指を鳴らしてやむなく響きだけを追って長いため息をつくばかりであった。

脚注

*25意味の分かりにくい所を、やさしく言い替えたり詳しく述べたりして説明すること。

管輅(かんろ)と京房(けいぼう)

昔、前漢(ぜんかん)の京房(けいぼう)は卜(ぼく)(卜占(ぼくせん))や風占い、音律による占いに巧(たく)みではあったが、結局は我が身に降りかかる禍(わざわい)を免(まぬか)れることはできなかった。それなのに管輅(かんろ)は、自分が48歳で死ぬであろうことを知っていたのである。2人の聡明さには格段の差があったと言えよう。

また京房(けいぼう)は、目には自分を主君に中傷する人々が多くいるのを見て、また耳には騒(さわ)がしい讒言(ざんげん)の声を聞いていたのに、主君に面と向かって讒言(ざんげん)しても聞き入れてもらえず、しかもなお地方への赴任の途中からも様々に上言を繰り返し、結局は我が身を滅ぼすことになった。

それに対して管輅(かんろ)は、魏(ぎ)から晋(しん)への王朝交代の時にあって、智恵を隠して何の飾ることもせず、時節の変化に巧(たく)みに対応して世に処し、その術は精妙であっても現実社会の物事の処理を要請される訳ではなく、一見愚かなようであっても人々から忘れられてしまうことがかなった。2人は事の成り行きのほのかな兆候を予知するという点でも、遙(はる)かに隔(へだ)たっていたといえよう。

京房(けいぼう)は、上は万乗(ばんじょう)(天子(てんし)の位)の主君の心をよく推察せず、下は佞諂(ねいてん)の徒(媚(こ)び諂(へつら)う輩(やから))を避(さ)けることなく、天文占いや『尚書(しょうしょ)』洪範篇(こうはんへん)の解釈によって国を益し身を利しようと計(はか)ったが、自分をうまく役立たせることができず、結局は死刑にされてしまったのである。それは干(ひ)からびた亀の甲羅(こうら)の示す最後の智恵であり、蝋燭(ろうそく)の最後の輝きに過ぎなかったということができよう。哀(かな)しいことではないかっ!世の多くの人々は管輅(かんろ)と京房(けいぼう)を同列に論じているが、辰(わたし)(管辰(かんしん))にはどうしてもそれを承認することはできない。

管輅(かんろ)の、見上げては星々の示す意味を見て取り、見下ろしては地上の出来事の吉凶を的確に知るさまは、遠い時期では何年先に起こることかを外すことがなく、近い時期では日にちや月を外すことがなかった。辰(わたし)(管辰(かんしん))が考えるに、甘氏(かんし)や石氏(せきし)でも管輅(かんろ)にはかなわないだろう。

管輅(かんろ)の射覆(せきふ)*7

射覆(せきふ)*7をしても物の名前をピタリと当て、その術の巧(たく)みさが立ち所に目の前に示されたという点では、東方朔(とうほうさく)もこれに過ぎるものではない。また、骨相や体つきを観察して将来の貴賤(きせん)を見分け、様子や顔色を見て寿命を知る点では、許負(きょふ)や唐挙(とうきょ)も彼を超えるものではなかった*26。そして風や気の様子を分析して微(かす)かな兆候を探(さぐ)り、鳥の鳴き声を聞いて人間には認識できない神機(不思議な働き)を探知するといった彼の能力は、真(まこと)に一代に抜きん出た存在であった。

脚注

*7器(うつわ)の中に物を入れてそれを当てさせる遊び。

*26東方朔(とうほうさく)は前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の側近に文辞(ぶんじ)滑稽(こっけい)で仕え、射覆(せきふ)*7に巧(たく)みであった。許負(きょふ)は前漢(ぜんかん)初の女の人相見。周亜夫(しゅうあふ)の将来を予言したことで知られる。唐挙(とうきょ)は戦国(せんごく)時代・梁(りょう)の人。人の形状顔色を見て吉凶妖祥を判断した。

総論

もし管輅(かんろ)が栄達して宰相(さいしょう)・大臣となっていたならば、この太平の時代に厚い恩恵を敷(し)き広げ、その輝かしい功績は竹帛(ちくはく)(書物)に列記されて、奥深い行いの結果もみな取り挙(あ)げられ、彼の語った神秘な言葉は千載(せんざい)(千年)の後(のち)までも忘れ去られることがなく、道を体得した者たちはみなこれを信じて貴(とうと)び、道に無縁な者はみな必ずや疑い怪しむことになったであろう。

信じる者も、彼の腕前が実際にはこれ程(ほど)まで巧妙ではなかったのだと考えるかもしれないが、巧妙な働きかけが対象の神秘な働きに合致する時、その神秘な働きを我が物とすることができるのであって、そのことに疑いはないのである。

恨(うら)むらくは、管輅(かんろ)が才能は優れていても寿命が短く、体得した道は高貴であったが時世は賤(いや)しく、賢者に親しむという風(ふう)も影を潜(ひそ)め、立派な史官(しかん)の筆でその伝記が広く人々に伝えられることがないまま、不肖(ふしょう)の弟である私によってその事跡が追述されるということになったことである。私には明晰(めいせき)な才能もない上に、(管輅(かんろ)と過ごした日々は)大分昔のこととなってしまった。ここに記載した卜占(ぼくせん)の事跡は、その元々の卦(け)の意味は分からなくなっているが、後に残ったものを拾(ひろ)って10の内の2つ程(ほど)を集めたものである。天を仰(あお)いで星々を観察し、魏(ぎ)と晋(しん)の王朝の興亡を説(と)き、五行による時世の浮沈(ふちん)、兵乱や災異などを判断したことについては、1/10も収(おさ)められていない。

水源がないのにどうして河ができようか?根がないのにどうして花を咲かせることができようか?秋の菊にも採(と)って愛(め)でるべき点はあるが、春の花には及ばない。激しく憤(いきどお)って筆を取り、机に向かって自(みずか)らの非才を哀(かな)しみ恥ずかしく思うのである。将来の君子たちよ、どうかご明察をもって私の意図するところを分かっていただきたい。

管輅(かんろ)と孟荊州(もうけいしゅう)

かつて孟荊州(もうけいしゅう)どのが冀州(きしゅう)・鉅鹿郡(きょろくぐん)・列人県(れつじんけん)の典農官(てんのうかん)*5であった時、亡(な)き兄(管輅(かんろ))に「昔、東方朔(とうほうさく)が射覆(せきふ)*7をした時、何の卦(け)が出て正しく守宮(イモリ)と蜥蜴(トカゲ)の2つであることを知ったのであろう?」とお尋(たず)ねになったことがあった。

そこで亡(な)き兄(管輅(かんろ))は卦(け)を立ててその象(しょう)を導きだし、ありのままと比喩を交(まじ)えながら微妙な意味をはっきりと表して様々に変化させ、次々に議論を展開させながら、その卦(け)が辰巳(たつみ)(南東)の方角を指(さ)すものであり、その象(しょう)である龍と蛇には区別があることを論じて、(結局、守宮(イモリ)と蜥蜴(トカゲ)を指(さ)すことになることを)それぞれ道理立てて明らかにした。(管輅(かんろ)の)言葉が終わった後、孟荊州(もうけいしゅう)どのは長くため息をついて「吾(わたし)は君(あなた)の議論を聞いていると、精神が昂(たか)ぶって飛散してしまいそうだ。なんとかくも広々としたものであることか」とおっしゃられた。

脚注

*5典農(てんのう)は屯田(とんでん)(民屯)の実施地域で農業生産、民事、土地の賃貸管理などを担当する官職で、典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)、典農校尉(てんのうこうい)、典農都尉(てんのうとい)がある。

管輅が自分の死期を当てる

正元(せいげん)2年(255年)のこと。管辰(かんしん)が、兄の管輅(かんろ)に「大将軍(だいしょうぐん)(司馬昭(しばしょう))さまは兄上に目をかけてくださっていますから、富貴な身分が望めましょうね?」と言うと、管輅(かんろ)は長いため息をついて、

「吾(わたし)は自分がそうなっても良いだけの資質を備(そな)えていることを知っている。しかし天は我(わたし)に才能と聡明さを与えたが、年寿(寿命)は与えてくれなかった。おそらく47〜48歳の間に、女(むすめ)が嫁に行き、兒(ちのみご)(の息子)が嫁を娶(めと)るのを見る前に死ぬだろう。もしこの時期を免(まぬか)れることができたならば、洛陽令(らくようれい)となって、路(みち)の落とし物を着服する者がなく、(盗賊の出現を知らせる)太鼓が鳴らされることがないような政治を行いたいものだ。だがおそらく、太山(たいざん)に行って鬼を治めることになり、生者を治めることはできないだろうが、仕方のないことだっ!」

と言った。管辰(かんしん)がその理由を問(と)うと、管輅(かんろ)は次のように言った。

「吾(わたし)は額(ひたい)に生骨がなく、眼の中に守精(ひとみ)がない。鼻には梁柱がなく、脚には天根がない。また背には三甲がなく、腹には三壬がない。これらはみな不寿(短命)の験(しるし)なのだ。また吾(わたし)の運勢は寅(いん)にあり、加えて月食の夜に生まれた。天には定(さだ)まった運命があって、それを諱避(きひ)することはできない。ただ人々はそれを知らないだけなのだ。吾(わたし)はこれまで人相を占って『すぐに死ぬ』と判定した人は百人以上にもなるが、ほとんど外れることはなかった。(自分の寿命についても判断を誤(あやま)ることはあるまい)」

管輅(かんろ)はこの年の8月に、少府(しょうふ)の丞(じょう)(次官)となり、次の年の3月に亡くなった。享年(きょうねん)48歳であった。


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