正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(81)北海(ほっかい)(朱虚(しゅきょ))管氏(かんし)(管少卿(かんしょうけい)・管寧(かんねい)・管邈(かんばく)・管貢(かんこう))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

北海(朱虚)管氏系図

北海管氏①系図

北海(ほっかい)(朱虚(しゅきょ))管氏(かんし)系図

※管貢(かんこう)の世代は不詳。


この記事では北海(ほっかい)(朱虚(しゅきょ))管氏(かんし)の人物、

についてまとめています。

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か(81)北海(朱虚)管氏

第0世代(管少卿)

管少卿(かんしょうけい)

生没年不詳。青州(せいしゅう)・北海郡(ほっかいぐん)・朱虚県(しゅきょけん)の人。9代後の子孫に管寧(かんねい)。

春秋(しゅんじゅう)時代、斉(せい)の宰相(さいしょう)・管仲(かんちゅう)の子孫である。昔、田氏(でんし)が斉(せい)の権力を握(にぎ)ると、管氏(かんし)一族はその地を立ち去り、ある者は魯(ろ)に行き、ある者は楚(そ)に行った。

漢(かん)が興(おこ)ると管少卿(かんしょうけい)がいて燕令(えんれい)となり、初めて朱虚県(しゅきょけん)に居住し、その節義をもって名を知られた。

それから9代経(た)って管寧(かんねい)が生まれた。


「管少卿(かんしょうけい)」の関連記事

第1世代(管寧)

管寧(かんねい)・幼安(ようあん)

後漢(ごかん)の延熹(えんき)元年(158年)〜魏(ぎ)の正始(せいし)2年(241年)没。青州(せいしゅう)・北海郡(ほっかいぐん)・朱虚県(しゅきょけん)の人。子に管邈(かんばく)。

出自

16歳の時に父を亡くした。管寧(かんねい)の親族は彼が孤独で貧しいことを憐(あわ)れんで、みなで賵(ぼう)(香典)を贈(おく)ったが、そのすべてを辞退して受け取らず、自分の財力に見合った葬儀を行った。

管寧(かんねい)は身長8尺(約184.8cm)、鬚(あごひげ)と眉(まゆ)が美しかった。

青州(せいしゅう)・平原国(へいげんこく)出身の華歆(かきん)と同郡(青州(せいしゅう)・北海郡(ほっかいぐん))出身の邴原(へいげん)と友人であり、共に異国に遊学し、みな陳仲弓(ちんちゅうきゅう)(陳寔(ちんしょく))を敬愛した。当時の人々は3人を「一龍」と呼んだ。華歆(かきん)を龍の頭、邴原(へいげん)を龍の腹、管寧(かんねい)を龍の尾と考えたのである。

公孫度の元に身を寄せる

天下が大いに乱れると、公孫度(こうそんたく)の威令が海外にまで行き渡っていると聞いて、邴原(へいげん)や青州(せいしゅう)・平原国(へいげんこく)出身の王烈(おうれつ)、青州(せいしゅう)・楽安国(らくあんこく)出身の国淵(こくえん)らと共に幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に赴(おもむ)いた。

公孫度(こうそんたく)は館(やかた)を用意して彼らを待ったが、管寧(かんねい)らは公孫度(こうそんたく)と会見すると、山谷に廬(いおり)を結んだ。当時、避難して来た者は郡の南部に住むことが多かったが、管寧(かんねい)は北部に住んで「無遷(むせん)の志(こころざし)(他に遷(うつ)らない志(こころざし))」を示し、後(のち)にようやく南部に住むようになった。

管寧(かんねい)は公孫度(こうそんたく)と会見した時も、ただ経典について語るだけで、世俗の事には触(ふ)れなかった。退出すると山を利用して廬(いおり)を建て、重なった山に横穴を掘って部屋を作った。海を越えて避難して来た者はみな彼の元にやって来て居住し、10ヶ月余りで邑(ゆう)(村)ができあがった。

こうして『詩経(しきょう)』『尚書(しょうしょ)』を講義し、俎豆(そとう)(祭器)を並べて威儀(いぎ)を飾り、礼儀正しく謙(へりくだ)った態度を取り、学者でなければ面会しなかった。こうしたことから、公孫度(こうそんたく)は管寧(かんねい)の賢明さに安心し、人々は彼の徳に教化された。

逸話
井戸水争い

管寧(かんねい)が住んでいた村落では、井戸水をめぐり、男女が入り交(ま)じって争いが起こっていた。

これを懸念(けねん)してた管寧(かんねい)は、沢山の容器を買って井戸の傍(かたわ)らに分散して配置し、あらかじめ水を汲(く)んでおいて、誰がやったのかは内密にしておいた。

井戸に来た人は、水を手に入れるとそれを不審(ふしん)に思い、調べた結果、管寧(かんねい)がやったことだと分かった。そのことを知った村人たちは、お互いに過(あやま)ちを正して2度と争いをしなくなった。

隣家の牛

隣家の牛が管寧(かんねい)の田を荒らした時のこと。管寧(かんねい)はその牛を引いて涼しい場所に落ち着かせ、そこで自由に飲食をさせたが、そのやり方は飼い主以上だった。

飼い主は牛を捕まえると、重罪を犯したかのように大変恥じ入った。


こうしたことから、管寧(かんねい)の近辺からは闘争・訴訟の声がなくなり、礼儀・謙譲の気風が海の彼方(の幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん))まで伝えられたのである。

邴原への助言

邴原(へいげん)は剛直な性格で、高潔な議論によって物事の折り目をつけたので、公孫度(こうそんたく)以下、彼に対して不安な気持ちを抱(いだ)いていた。

そんな邴原(へいげん)に管寧(かんねい)は、

「潜龍(せんりゅう)(潜伏している龍)は成徳(完成した徳)を見せず、時機に適さない言葉を吐(は)かないものです。これらはみな禍(わざわい)を招(まね)く道ですぞ」

と言い、秘かに彼を西に還(かえ)らせた。

公孫康と管寧

公孫度(こうそんたく)の庶子(しょし)の公孫康(こうそんこう)は父に代わって郡を支配するようになると、表面では将軍(しょうぐん)・太守(たいしゅ)の号を称しながらも、その内実は王(おう)となる野心を抱(いだ)いており、謙(へりくだ)った態度と高い礼遇を示して管寧(かんねい)を任官し、自分の鎮輔(ちんほ)(補佐)としたいと望んでいたが、結局思い切って言い出すことができなかった。管寧(かんねい)に対する敬意と気(き)兼(が)ねはこのようであった。

曹操(そうそう)は司空(しくう)となると管寧(かんねい)を辟召(め)したが、公孫康(こうそんこう)は命令を拒(こば)んで(管寧(かんねい)に)伝えなかった。

その後戦乱が落ち着くと、郷里を離れていた人たちはみな帰郷したが、管寧(かんねい)だけは落ち着き払って(幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)で)一生を終えるような様子だった。

幽州・遼東郡を出る
徵召(ちょうしょう)に応じる

魏(ぎ)の黄初(こうしょ)4年(223年)、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は公卿(こうけい)に詔(みことのり)を下して「独行(どっこう)の君子(世俗に左右されない立派な人物)」を推挙させ、司徒(しと)の華歆(かきん)は管寧(かんねい)を推挙した。

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は即位すると安車(あんしゃ)*3を用意して彼を徵召(め)し出した。管寧(かんねい)は家族を伴(ともな)って海路から郡(青州(せいしゅう)・北海郡(ほっかいぐん))に帰った。当時、公孫康(こうそんこう)が死んで弟の公孫恭(こうそんきょう)が立っていたが、公孫恭(こうそんきょう)が柔弱(にゅうじゃく)であるのに対して、公孫康(こうそんこう)の孽子(げっし)(妾腹(しょうふく)の子)・公孫淵(こうそんえん)が優(すぐ)れた才能を持っていたため、管寧(かんねい)は「嫡子(ちゃくし)を廃して庶子(しょし)を立てると、下の者に異心を生じ、乱が起こる原因となる」と言い、幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に居(い)ること37年、ここにおいてお召(め)しに応じたのである。

その後、公孫淵(こうそんえん)は公孫恭(こうそんきょう)を襲って位を奪い、国家(魏(ぎ))に背(そむ)いて南方の呉(ご)と同盟し、王号を僭称(せんしょう)した。明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は相国(しょうこく)の司馬懿(しばい)に命じて征伐させ、公孫淵(こうそんえん)を滅ぼした。幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)における死者は4桁(けた)にのぼり、管寧(かんねい)の予想した通りの結果となった。

脚注

*3老人・女子用の座席のある安定した車。

神光の祐

公孫康(こうそんこう)の弟・公孫恭(こうそんきょう)は(幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)の郡都の)南の郊外まで見送って、衣服・器物を贈(おく)ったが、管寧(かんねい)は東(遼東郡(りょうとうぐん))で公孫度(こうそんたく)・公孫康(こうそんこう)・公孫恭(こうそんきょう)らが前後して贈(おく)った物を、全部受け取ってしまっておき、西に海を渡りきってから、それらを密封してすべてを返還した。

管寧(かんねい)が期間する時、海中で暴風に遭(あ)った。他の船はみな沈没したが、管寧(かんねい)の乗船だけは無傷だった。その夜、風が吹き真っ暗闇になって、乗員はみな判断力を失い、停泊できる場所も分からなかった。

彼方(かなた)を眺(なが)めると明かりが見えたので、すぐにそちらへ向かうと島に行き当たった。島には住人がおらず、また火を燃やした跡(あと)もなかった。(あの明かりは何だったのかと)みな不思議に思い、これを「神光の祐(ゆう)(助け)」だと考えた。また皇甫謐(こうほひつ)はこれを「善行を積み重ねた結果である」と言った。


文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は詔(みことのり)を下して管寧(かんねい)を太中大夫(たいちゅうたいふ)に任命したが、固辞して受けなかった。

明帝の徴召

明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が即位すると、太尉(たいい)の華歆(かきん)は官位を遠慮して管寧(かんねい)に譲(ゆず)った。明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は詔(みことのり)を下して管寧(かんねい)を光禄勲(こうろくくん)に任命し、また(管寧(かんねい)が住む青州(せいしゅう)の)刺史(しし)に詔(みことのり)を下して「管寧(かんねい)を行在所(あんざいしょ)(天子(てんし)の行幸(ぎょうこう)中の仮の御所(ごしょ))に送り出す」ように命令したが、管寧(かんねい)は自(みずか)らを「草莽(そうもう)の臣(在野の臣)」と称して上疏(じょうそ)し、病気を理由にこれも辞退した。

司空(しくう)の陳羣(ちんぐん)もまた管寧(かんねい)を推薦(すいせん)し、「これまで管寧(かんねい)が辞退したのは、充分な礼儀を備(そな)えていなかったことが原因である」と指摘した。

管寧(かんねい)への詔(みことのり)・全文
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太中大夫(たいちゅうたいふ)の管寧(かんねい)は道徳を思い、六芸(りくげい)*1を忘れず、古人に匹敵する清虛(せいきょ)さ(心が清らかで汚れがまったくないこと)と、当世のを担(にな)うに足(た)る廉白(れんぱく)さを備えている。

昔、王道が衰缺(すいけつ)(衰退)した時、海路から(幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に)逃(のが)れ住んだが、大魏(たいぎ)が天命を受けると、幼子(おさなご)を背負ってやって来た。これはつまり、「応龍(おうりゅう)*2が潜(ひそ)んだり天に昇(のぼ)ること」や「聖人賢者が世に出たり隠れたりすること」と同じである。

ところが黄初(こうしょ)以来、何度も徵命(ちょうめい)(召(め)し出し)を下しても、その都度(つど)いつも、病気を理由に拒否して応じなかった。朝廷の政(まつりごと)が生(あなた)のお考えと異なるからと、山林に安らぎと喜びを見出(みいだ)し、去ったまま振り向いてはくれないのだろうかっ!

そもそも姫公(きこう)(周公(しゅうこう))の聖徳をもってしても、年老いた有徳の人の協力がなければ、鳴く鳥の声を聞くこともできなかったのだ。秦(しん)の穆公(ぼくこう)の賢明さをもってしても、黄髪(こうはつ)(白髪)の人に相談することを考えたのだ。まして徳が少ない朕(ちん)[明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))]が、どうして子(あなた)のような大夫(たいふ)に道を聞くことを願わずにいられようかっ!

今、管寧(かんねい)を光禄勲(こうろくくん)に任命する。礼には大倫(たいりん)(人として行うべき大切な道理)があるが、君臣の道は廃することはできない。どうか必ず速(すみ)やかに参り、朕(ちん)[明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))]の気持ちを叶(かな)えてくれ。

脚注

*1『詩経(しきょう)』、『書経(しょきょう)』、『礼記(らいき)』または『儀礼(ぎらい)』、『楽経(がっけい)』、『易経(えききょう)』、『春秋(しゅんじゅう)』の6つの経典(けいてん)。六経(りくけい)。

*2『山海経(せんがいきょう)』に記(しる)される最高位の龍。 四霊(しれい)(四瑞(しずい))[『礼記(らいき)』礼運篇(らいうんへん)に記(しる)される4種の瑞獣(ずいじゅう)(麒麟(きりん)・鳳凰(ほうおう)・霊亀(れいき)・応龍(おうりゅう))]の1種類一種とされる。

青州刺史(せいしゅうしし)への詔(みことのり)・全文
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管寧(かんねい)は道徳と貞潔(ていけつ)さを抱(いだ)いて海辺の隅(すみ)の陰に潜(ひそ)み、徵書(ちょうしょ)(召(め)し出しの命令書)を下しても命令を違(たが)えて応じず、躊躇(ためら)っていることを利益と考えて、高尚な生き方を貫(つらぬ)こうとしている。素朴な生活と幽人(ゆうじん)(隠者(いんじゃ))の貞(ただ)しさが存在するとはいえ、官位が昇るにつれ、いよいよ謙虚さを増した正考父(せいこうほ)の生き方から外れている。

朕(ちん)[明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))]が心を空(むな)しくして何年も待ち望んでいるのに、一体何を考えているのだろうか?  (管寧(かんねい)は)いたずらに安寧(あんねい)を求め、あくまでも思いのままに生きようとしているが、古人にも「今までの生き方を改めて、民を幸福にした者」がいたことに思い至らないのかっ!

[徵命(ちょうめい)(召(め)し出し)を受けてから]月日が経(た)っても、身を清め道徳に浸(ひた)っているとは、一体何のつもりか?

仲尼(ちゅうじ)(孔子(こうし))の言葉に「吾(わたし)は斯(こ)の人の徒(と)と与(とも)に非(あら)ずして、誰と与(とも)にせんっ!」(『論語(ろんご)』微子(びし))とある。よって別駕従事(べつがじゅうじ)や郡の丞(じょう)(次官)・掾(えん)(属官)に命じ、詔(みことのり)を奉じて、礼をもって管寧(かんねい)を行在所(あんざいしょ)(天子(てんし)の行幸(ぎょうこう)中の仮の御所(ごしょ))に送り出すように。安車(あんしゃ)*3・吏従(りじゅう)(お供の役人)・茵蓐(いんじょく)(敷物)・道中の食事を用意し、出発したらまず報告せよ。

脚注

*3老人・女子用の座席のある安定した車。

管寧(かんねい)の上疏(じょうそ)・全文
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臣(わたくし)は海浜に住む取るに足らない孤独な人間で、仲間もいない疲弊(ひへい)した農民でありながら、俸禄をいただけることは大きな幸福であります。

陛下は大業を受け嗣(つ)がれ、その徳は三皇(さんこう)(古代の聖天子(せいてんし))に等しく、教化は唐氏(とうし)(堯(ぎょう))を越えておられ、久しく豊かな恩恵を享受(きょうじゅ)して12年になりますが、陛下の「恩養の福」にお応(こた)えすることができずにいます。

(臣(わたくし)は)重病のために弱り衰(おとろ)え、病床に伏(ふ)したままでおります。臣下として取るものも取りあえず駆けつけねばなりませんのに、その節義に反し、朝も夕も怖れ戦(おのの)き、身を置く場所もない思いです。

(青龍(せいりゅう))元年(233年)11月に公車司馬令(こうしゃしばれい)が州郡に派遣され、8月には詔(みことのり)が下されて臣(わたくし)をお徵(め)しになられました上に、安車(あんしゃ)*3・衣服・茵蓐(いんじょく)(敷物)を下賜(かし)され、礼をもって送り出せとのこと。大いなるご恩寵(おんちょう)が次々と至り、優渥(ゆうあく)(懇(ねんご)ろで手厚いこと)な命令がしきりに下されました。畏(おそ)れ多く身を固くして声も出ず、胸を痛めてどうしたら良いか分かりません。

自(みずか)ら陳情して愚(おろ)かな気持ちを申し述(の)べたいと存じましたが、詔(みことのり)により抑(おさ)え留(とど)められ、ほんの少しの上奏を差し出すことさえも禁じられました。そのため心の中は鬱積(うっせき)したまま今日(こんにち)に至りました。誠(まこと)に天が万物を覆(おお)うがごとき恩愛の極(きわ)みでございます。御(おん)慈(いつく)しみが益(ます)々(ます)厚く盛んであられることは、思いもかけないことでした。

今年[青龍(せいりゅう)4年(236年)]の2月に、州郡に下されました(青龍(せいりゅう))3年(235年)12月の詔書(しょうしょ)をお受けしましたところ、重ねて安車(あんしゃ)*3・衣服を下賜(かし)され、別駕従事(べつがじゅうじ)と郡の功曹(こうそう)が礼をもって送り出すようにとのこと。その上、特に璽書(じしょ)を下され臣(わたくし)を光禄勲(こうろくくん)に任命されまして、御(おん)自(みずか)らご功労を誇(ほこ)らず謙虚な態度を取られ、周(しゅう)と秦(しん)を引き合いに出されて、上の価値を低く抑(おさ)え、下の価値を高く見る見解をお示しになりました。詔書(しょうしょ)をお受けした日は魂も飛び散りましたが、身を投げて死ぬこともかないません。

臣(わたくし)は自(みずか)らを省(かえり)みますに、東園公(とうえんこう)・綺里季(きりき)*4の徳を持たずして安車(あんしゃ)*3の光栄を被(こうむ)り、竇融(とうゆう)*5の功績なくして御璽(ぎょじ)による任命という恩寵(おんちょう)を被(こうむ)っております。愚鈍な楶梲(うだち)でありながら、棟梁(むなぎ)の任務を担(にな)い、死にかかった生命をもって九棘(きゅうきょく)(九卿(きゅうけい))の位を獲得するのです。朱博(しゅはく)の引き起こした「鼓妖(こよう)の眚(わざわい)*6」が起こることが心配されます。

その上、持病は日に日に悪化し、ひどくなる一方で良くならず、車の助けを借りて路(みち)を進むようでは大責を担(にな)えません。閶闔(しょうこう)[天上界にある門(宮門)]を望(のぞ)み慕(した)い、闕庭(けってい)(宮殿)に心を馳(は)せつつ謹(つつし)んで文章を奉(たてまつ)り、心情を申し述べました。どうか憐憫(れんびん)の思(おぼ)し召(め)しをくださり、(任命の)ご恩顧(おんこ)をお取り下げになって、骨を街道に埋(うず)めずに済むようにしてくださいませ。

脚注

*3老人・女子用の座席のある安定した車。

*4前漢(ぜんかん)の初め、皇太子(こうたいし)であった恵帝(けいてい)の地位を安泰に導いた商山四皓(しょうざんしこう)(東園公(とうえんこう)・角里先生(ろくりせんせい)・綺里季(きりき)・夏黄公(かこうこう)の4人の隠者)の内の2人。恵帝(けいてい)の招請(しょうせい)に応じて彼に仕えた。

*5後漢(ごかん)の初め、使者を遣(つか)わして光武帝(こうぶてい)に帰順し、天子(てんし)の御璽(ぎょじ)のある詔勅(しょうちょく)によって涼州牧(りょうしゅうぼく)に任命された。

*6前漢(ぜんかん)・哀帝(あいてい)の建平(けんぺい)2年(紀元前5年)、丞相(じょうしょう)であった朱博(しゅはく)が参内して宮殿に登り策命を受けようとした時、鐘(かね)が鳴り響くような大きな音が起こった。哀帝(あいてい)が「これは何か」と問(と)うと黄門侍郎(こうもんじろう)の李尋(りじん)は「『尚書(しょうしょ)』洪範(こうはん)に言う『鼓妖(こよう)』でございます。人君が聡明でなく、衆に惑(まど)わされ、虚名を博する者が出世すると起こります」と答えたという。朱博(しゅはく)は姦謀(かんぼう)の咎(とが)で自害した。

陳羣(ちんぐん)の推薦(すいせん)・全文
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臣(わたくし)は「王者は善を顕彰(けんしょう)し、それによって悪を消滅させる」と聞いております。

ゆえに殷(いん)の湯王(とうおう)は伊尹(いいん)を起用し、その結果、不仁の者は遠くへ去りました。徵士(ちょうし)(召(め)された者)・青州(せいしゅう)・北海郡(ほっかいぐん)出身の管寧(かんねい)を伏して見ますに、「管寧(かんねい)の行(おこな)いは世の模範であり、学問は人の師となることができ、その清潔・節倹さは汚濁(おだく)を除き去るに充分であり、その誠実・正直さは時代を矯正(きょうせい)するに充分でございます。

以前、徵命(ちょうめい)(召(め)し出し)を下されたとはいえ、充分な礼儀を備(そな)えておりませんでした。

昔、司空(しくう)の荀爽(じゅんそう)は家にいながらにして光禄勲(こうろくくん)を拝命し、先儒(せんじゅ)(昔の儒者(じゅしゃ))の鄭玄(じょうげん)(鄭玄(ていげん))は司農(しのう)の辞令を家まで届けられました。もし、より一層の礼儀を加えられましたならば、きっと徵(め)し出すことができるでしょう。

(管寧(かんねい)を)西郊(せいこう)の学校に招聘(しょうへい)し、座ったまま道義を講じさせますれば、必ずやよく古今を明らかにして、大いなる教化に役立つでしょう。

青州刺史・程喜の上言

黄初(こうしょ)年間(220年〜226年)から青龍(せいりゅう)年間(233年〜236年)に至るまで徵命(ちょうめい)(召(め)し出し)が何度も下り、毎年8月になると牛と酒が下賜(かし)された。

ある時、青州刺史(せいしゅうしし)の程喜(ていき)に詔(みことのり)が下され、「管寧(かんねい)は高潔な生き方を貫(つらぬ)こうとしているのか。それとも老いや病(やまい)に苦しんでいるのか?」と問(と)われた。

これに程喜(ていき)は上言して、管寧(かんねい)の親族・管貢(かんこう)から聞いた「管寧(かんねい)の普段の生活の様子」を伝え、管寧(かんねい)の辞退が「高潔さを貫(つらぬ)こうとしているわけではない」という私見を述(の)べた。

程喜(ていき)の上言(じょうげん)・全文
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管寧(かんねい)の親族の州吏(しゅうり)・管貢(かんこう)は、管寧(かんねい)の隣に住んでおり、臣(わたくし)は常に往き来して管寧(かんねい)の消息を尋(たず)ねております。管貢(かんこう)が言うには、

「管寧(かんねい)はいつも皁(くろ)い帽子に木綿(もめん)の肌着と袴(ずぼん)、木綿(もめん)の裠(はかま)を身につけて、季節に合わせて単衣(ひとえ)と袷(あわせ)を使い分け、閨庭(けいてい)(家の庭)を出入りする際には自力で杖を頼りとして歩き、人の助けを借りる必要はございません。四季の祭には、いつも自分の力を振(ふ)り絞(しぼ)り、改めて衣服を加え絮巾(じょきん)(綿(わた)の頭巾(ずきん))をかぶります。以前、幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)にいた頃に持っていた白い木綿(もめん)の単衣(ひとえ)を着て、自(みずか)ら饌饋(せんき)(お供(そな)え用の食事)を勧め、跪(ひざまず)いて拝し、儀式を行います。管寧(かんねい)は若くして母を失い、姿形も覚えておりませんので、いつも特別に酒杯を余分に供(そな)え、はらはらと涙を流しております。また住居は川から70〜80歩離れておりますが、夏には川に入って手足を洗い、果樹・野菜の畑を眺めています」

とのこと。

臣(わたくし)が管寧(かんねい)がこれまで何度も辞退した理由を考えてみますに、1人で生活を続けていたことによって年老いて智力も衰(おとろ)えたため、隠遁(いんとん)して常に控(ひか)えめな態度を取っているのでございましょう。高潔さを貫(つらぬ)こうとしているのではないと思われます。

管寧の死

曹芳(そうほう)の正始(せいし)2年(241年)、

  • 太僕(たいぼく)の陶丘一(とうきゅういつ)、
  • 永寧宮(えいねいきゅう)の衛尉(えいい)・孟観(もうかん)、
  • 侍中(じちゅう)の孫邕(そんゆう)、
  • 中書侍郎(ちゅうしょじろう)の王基(おうき)が

らが、また管寧(かんねい)を推薦して上言した。

陶丘一(とうきゅういつ)らの上言(じょうげん)・全文
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臣(わたくし)どもは「龍や鳳(おおとり)は耀(かがや)きを隠し 徳に応(こた)えて訪(おとず)れ、道理に明らかな人は、潜(ひそ)み隠れ 時期を待って行動する」と聞いております。

ゆえに鸞鷟(がくさく)(鳳凰(ほうおう)の1種)が岐山(きざん)に鳴いたことによって周(しゅう)の政道は隆興し、商山四皓(しょうざんしこう)(東園公(とうえんこう)・角里先生(ろくりせんせい)・綺里季(きりき)・夏黄公(かこうこう)の4人の隠者)が補佐したことによって漢帝(かんてい)(恵帝(けいてい))の地位は安定いたしました。

伏して見ますに、太中大夫(たいちゅうたいふ)の管寧(かんねい)は二儀(にぎ)*7の中に和し、完成された九徳(人の行うべき9つの徳)を備(そな)え、行いや文章に彩(いろど)りの素質を持ち、氷や淵(ふち)のように清く澄(す)み渡り、深遠なる虚無の道理によって名声や富を求めず、気の向くままに遊覧し、黃老(こうろう)の思想に心を楽しませ、六芸(りくげい)*1に心を遊ばせて、それらの閫奧(こんおう)(心髄(しんずい))を究(きわ)め、古今を胸の内に包み隠し、道徳の要(かなめ)を包み込んでおります。

(霊帝(れいてい)の)中平(ちゅうへい)年間の末期に黄巾賊(こうきんぞく)が暴(あば)れ回り、華夏(かか)(中華(ちゅうか))は傾(かたむ)き、王綱(おうこう)(帝国の政治の大綱(たいこう))は立ち所(どころ)に弛(ゆる)みました。そこで(管寧(かんねい)は)時世の難を避け、桴(いかだ)に乗って海を越え、30余年の間、幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に避難しておりました。それは乾(けん)の卦(け)が姤(こう)の卦(け)に移る状態に相当し、光を隠し隠遁(いんとん)を楽しみつつゆったりした気持ちを養(やしな)い、儒家(じゅか)・墨家(ぼくか)の思想を包み隠しながら、その教化は知らぬ間にあまねく流れ、風俗を異(こと)にする人たちの間にも行き渡っております。

黄初(こうしょ)4年(223年)、高祖(こうそ)文皇帝(ぶんこうてい)(曹丕(そうひ))は群公に命じて優(すぐ)れた人材を求めさせました。これに司徒(しと)の華歆(かきん)は管寧(かんねい)を推挙してその人選にお応(こた)えし、特別に公車(こうしゃ)をもって徵(まね)いたところ、遙(はる)か辺境から翼を振るって飛んで参りました。ところがその道中、難儀に遭(あ)って病気にかかってしまったため、その場で太中大夫(たいちゅうたいふ)に任命いたしました。

その後、烈祖(れつそ)明皇帝(めいこうてい)(曹叡(そうえい))は彼の徳を嘉(よし)みなされ、光禄勲(こうろくくん)に登らせましたが、管寧(かんねい)の病気は益(ます)々(ます)悪化し、道を進むことができずにおりました。

今、管寧(かんねい)の病気はすでに癒(い)え、当年とって80歳ではございますが、その志(こころざし)は衰(おとろ)えてはおりません。彼の住居は狭(せま)い屋敷にみすぼらしい門であり、むさ苦しい街でくつろぎ、1日分の粥(かゆ)を2日に分けて食べています。そのような生活にもかかわらず『詩経(しきょう)』『尚書(しょうしょ)』を吟詠(ぎんえい)し、その楽しみを改めようとはいたしません。自(みずか)らが困苦していても難に遭(あ)った者を救い、危険を冒(おか)しながらもその生き方を変えず、鐘(かね)の音(ね)や玉の色のように、その優(すぐ)れた徳は時間が経(た)つにつれていよいよ冴(さ)えわたっております。

彼の人生を考えてみますに、天が福禄(ふくろく)を下されているように思えます。彼に大魏(たいぎ)のために力を添(そ)えさせ、のびやかな楽しい社会をつくり出すよう補佐をお命じになるべきです。袞職(こんしょく)(天子(てんし)を補佐する大臣・宰相(さいしょう)の職)に欠員が出ましたら、群臣は(管寧(かんねい)が登用されることを)期待しております。

昔、殷(いん)の高宗(こうそう)は(夢に現れた人物の)像(ぞう)を彫(ほ)って「賢哲の士」を探し求め、周(しゅう)の文王(ぶんおう)は亀甲(きっこう)の卜兆(ぼくちょう)に啓示されて優(すぐ)れた補佐を手に入れました。

まして管寧(かんねい)は、前朝[明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))]が表彰した人物で、その名声と徳はすでに明らかでありますのに、長い間隠遁(いんとん)させたまま機会を捉(とら)えて招(まね)き寄せることをしないでいるのです。これでは優(すぐ)れた遺訓を遵奉(じゅんぽう)し、先代の意志を引き継ぎ成就(じょうじゅ)することにはなりますまい。

陛下は即位して大業を受け継がれて以降、ご聡明で敬虔(けいけん)な御徳(おんとく)は日に日に高まって周(しゅう)の成王(せいおう)を超えられ、常にお恵みの言葉を発せられて、いつも師傅(しふ)にご相談あそばされます。もし賢人を招(まね)かれた2祖[太祖(たいそ)(曹操(そうそう))と高祖(こうそ)(曹丕(そうひ))]の典例をお継ぎになり、俊秀(しゅんしゅう)を賓客(ひんかく)の礼をもって待遇なさり、それによって光り輝く御徳(おんとく)を行き渡らせましたならば、その盛大な教化は前代[明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))]と等しくなりましょう。

管寧(かんねい)は高潔・無欲で優(すぐ)れた先人の生き方を模範としてその足跡を追い、彼の徳行は卓越して四海の内に比肩(ひけん)する者はおりません。前世(前漢(ぜんかん)と後漢(ごかん))の時代に、玉と帛(きぬ)を贈(おく)って召命(しょうめい)した申公(しんこう)、枚乗(ばいじょう)、周党(しゅうとう)、樊英(はんえい)といった連中を次々と観察し、彼らの淵源(えんげん)(動機)を推(お)し測(はか)って彼らの清潔さの程度を見てみますに、世俗を奮い立たせ、世に屹立(きつりつ)(高くそびえ立つこと)する行為という点では、未(いま)だ管寧(かんねい)に及ぶ者はおりません。

よろしく(管寧(かんねい)に)礼物として束帛(そくはく)(束(たば)ねた帛(きぬ))に璧(へき)を加え、礼を尽くして徵聘(ちょうへい)(招聘(しょうへい))されるのがよろしいでしょう。さらに几杖(きじょう)(肘(ひじ)掛(か)けと杖(つえ))を授(さず)け、東郊(とうこう)の学校に招待され、墳素(ふんそ)(古書・典籍)を詳述(しょうじゅつ)させ、座ったまま道徳を論じさせますれば、上は天体の運行*8を正して皇極(こうぎょく)(政治の根本)を調和し、下は民を豊かにして彝倫(いりん)(人間の守るべき道)を秩序(ちつじょ)立て、必ずや見るべき成果を挙(あ)げて大いなる教化を輝かせ、利益を与えるでしょう。

もし管寧(かんねい)があくまでも心を動かさず、箕山(きざん)に隠れる意志を守り、洪崖(こうがい)(古代の仙人)の跡(あと)を追い、巣父(そうほ)・許由(きょゆう)(古代の隠者)の蹤(あと)に加わろうとするならば、これまた聖朝の唐(とう)(堯(ぎょう))・虞(ぐ)(舜(しゅん))と符合し、賢者を優遇し、成果のある者を起用することとなり、名声を千年の後まで残すことになるでしょう。

出仕した者と在野の者では生き方が異なり、俯(うつむ)くことと仰(あお)ぐことでは姿勢が異なるとは申しながら、治世を興(おこ)し風俗を美化する方法は同じであります。

脚注

*1『詩経(しきょう)』、『書経(しょきょう)』、『礼記(らいき)』または『儀礼(ぎらい)』、『楽経(がっけい)』、『易経(えききょう)』、『春秋(しゅんじゅう)』の6つの経典(けいてん)。六経(りくけい)。

*7天地の間の万物をつくり出す陰と陽の2つの気。 天と地。

*8原文は璇璣(せんき)。璇璣(せんき)は美しい珠(たま)で飾った天文観測の器。渾天儀(こんてんぎ)。


この上言により、特別に蒲輪(ほりん)(車が揺れるのを防ぐために、蒲(がま)の穂でつつんだ車輪)の安車(あんしゃ)*3を用意し、束帛(そくはく)(束(たば)ねた帛(きぬ))に璧(へき)を加えて管寧(かんねい)を招聘(しょうへい)したが、ちょうど管寧(かんねい)は亡くなった。84歳であった。

脚注

*3老人・女子用の座席のある安定した車。

逸話
後妻を娶(めと)らず

管寧(かんねい)の妻は管寧(かんねい)に先だって亡くなった。彼の友人知人は後妻を娶(めと)ることを勧めたが、管寧(かんねい)は「いつも曾子(そうし)(孔子(こうし)の晩年の弟子・曾参(そうしん))と王駿(おうしゅん)の言葉*9を振り返ってみて、心中(しんちゅう)、常に立派だと思っていました。自分が同じ境遇となったからといって、本心を違(たが)えることができましょうか」と言った。

『氏姓論(しせいろん)』を著(あらわ)す

衰乱(すいらん)の時代となり、いい加減に自分の属する氏族を変えて他の氏族に移る者が多かったが、管寧(かんねい)は「それは聖人の制度に違反し、姓をつけた礼の意図に背(そむ)く」と考え、『氏姓論(しせいろん)』を著(あらわ)して、世系の原本とした。

困窮者(こんきゅうしゃ)を救う

親類・知人、同じ里(り)内に困窮(こんきゅう)している者がいると、自分の家の貯(たくわ)えが1、2石(こく)に満たなくても、必ず分け与えて彼らを援助した。

管寧(かんねい)の徳義

人の子と話をする時には孝(こう)を教え、人の弟と話をする時には悌(てい)(年少者の道徳)を教え、話が人臣のことになると、忠(ちゅう)を教え諭(さと)した。

管寧(かんねい)の態度はとても礼儀正しく、その言葉はとても素直であった。(遠くで)彼の行動を観察してみると近寄りづらいが、直接接(せっ)してみるととても柔和(にゅうわ)で穏(おだ)やかで、人々を善に導いたので、少しでも彼に接した者で感化されない者はいなかった。

管寧(かんねい)が亡くなると、天下の人々は直接の知り合いもそうでない者も、それを聞いて嘆(なげ)かない者はいなかった。

脚注

*9曾子(そうし)は妻を失ってから再婚しなかった。その理由を尋(たず)ねられると曾子(そうし)は「(2人の息子)華(か)と元(げん)が良い子だからね」と答えたという。
王駿(おうしゅん)は前漢(ぜんかん)・成帝(せいてい)の時に御史大夫(ぎょしたいふ)にまでなった名臣。彼が少府(しょうふ)の官位にあった時に妻を亡くしたが、再婚しなかった。その理由を尋(たず)ねられると王駿(おうしゅん)は「(私の)徳は曾子(そうし)とは違うし、子は華(か)・元(げん)ほどではないが、どうしてあえて再婚などしようか」と言ったという。


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第2世代(管邈)

管邈(かんばく)

生没年不詳。青州(せいしゅう)・北海郡(ほっかいぐん)・朱虚県(しゅきょけん)の人。父は管寧(かんねい)。

郎中(ろうちゅう)に任命され、後(のち)に博士(はくし)となった。


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世代不明(管貢)

管貢(かんこう)

生没年不詳。青州(せいしゅう)・北海郡(ほっかいぐん)・朱虚県(しゅきょけん)の人。管寧(かんねい)の親族。

青州(せいしゅう)の州吏(しゅうり)。

管寧(かんねい)の家の隣に住んでおり、青州刺史(せいしゅうしし)の程喜(ていき)に、次のように「管寧(かんねい)の普段の生活の様子」を伝えた。

「管寧(かんねい)はいつも皁(くろ)い帽子に木綿(もめん)の肌着と袴(ずぼん)、木綿(もめん)の裠(はかま)を身につけて、季節に合わせて単衣(ひとえ)と袷(あわせ)を使い分け、閨庭(けいてい)(家の庭)を出入りする際には自力で杖を頼りとして歩き、人の助けを借りる必要はございません。四季の祭には、いつも自分の力を振(ふ)り絞(しぼ)り、改めて衣服を加え絮巾(じょきん)(綿(わた)の頭巾(ずきん))をかぶります。以前、幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)にいた頃に持っていた白い木綿(もめん)の単衣(ひとえ)を着て、自(みずか)ら饌饋(せんき)(お供(そな)え用の食事)を勧め、跪(ひざまず)いて拝し、儀式を行います。管寧(かんねい)は若くして母を失い、姿形も覚えておりませんので、いつも特別に酒杯を余分に供(そな)え、はらはらと涙を流しております。また住居は川から70〜80歩離れておりますが、夏には川に入って手足を洗い、果樹・野菜の畑を眺めています」


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