管寧・幼安
後漢の延熹元年(158年)〜魏の正始2年(241年)没。青州・北海郡・朱虚県の人。子に管邈。
出自
16歳の時に父を亡くした。管寧の親族は彼が孤独で貧しいことを憐れんで、みなで賵(香典)を贈ったが、そのすべてを辞退して受け取らず、自分の財力に見合った葬儀を行った。
管寧は身長8尺(約184.8cm)、鬚と眉が美しかった。
青州・平原国出身の華歆と同郡(青州・北海郡)出身の邴原と友人であり、共に異国に遊学し、みな陳仲弓(陳寔)を敬愛した。当時の人々は3人を「一龍」と呼んだ。華歆を龍の頭、邴原を龍の腹、管寧を龍の尾と考えたのである。
公孫度の元に身を寄せる
天下が大いに乱れると、公孫度の威令が海外にまで行き渡っていると聞いて、邴原や青州・平原国出身の王烈、青州・楽安国出身の国淵らと共に幽州・遼東郡に赴いた。
公孫度は館を用意して彼らを待ったが、管寧らは公孫度と会見すると、山谷に廬を結んだ。当時、避難して来た者は郡の南部に住むことが多かったが、管寧は北部に住んで「無遷の志(他に遷らない志)」を示し、後にようやく南部に住むようになった。
管寧は公孫度と会見した時も、ただ経典について語るだけで、世俗の事には触れなかった。退出すると山を利用して廬を建て、重なった山に横穴を掘って部屋を作った。海を越えて避難して来た者はみな彼の元にやって来て居住し、10ヶ月余りで邑(村)ができあがった。
こうして『詩経』『尚書』を講義し、俎豆(祭器)を並べて威儀を飾り、礼儀正しく謙った態度を取り、学者でなければ面会しなかった。こうしたことから、公孫度は管寧の賢明さに安心し、人々は彼の徳に教化された。
逸話
井戸水争い
管寧が住んでいた村落では、井戸水をめぐり、男女が入り交じって争いが起こっていた。
これを懸念してた管寧は、沢山の容器を買って井戸の傍らに分散して配置し、あらかじめ水を汲んでおいて、誰がやったのかは内密にしておいた。
井戸に来た人は、水を手に入れるとそれを不審に思い、調べた結果、管寧がやったことだと分かった。そのことを知った村人たちは、お互いに過ちを正して2度と争いをしなくなった。
隣家の牛
隣家の牛が管寧の田を荒らした時のこと。管寧はその牛を引いて涼しい場所に落ち着かせ、そこで自由に飲食をさせたが、そのやり方は飼い主以上だった。
飼い主は牛を捕まえると、重罪を犯したかのように大変恥じ入った。
こうしたことから、管寧の近辺からは闘争・訴訟の声がなくなり、礼儀・謙譲の気風が海の彼方(の幽州・遼東郡)まで伝えられたのである。
邴原への助言
邴原は剛直な性格で、高潔な議論によって物事の折り目をつけたので、公孫度以下、彼に対して不安な気持ちを抱いていた。
そんな邴原に管寧は、
「潜龍(潜伏している龍)は成徳(完成した徳)を見せず、時機に適さない言葉を吐かないものです。これらはみな禍を招く道ですぞ」
と言い、秘かに彼を西に還らせた。
公孫康と管寧
公孫度の庶子の公孫康は父に代わって郡を支配するようになると、表面では将軍・太守の号を称しながらも、その内実は王となる野心を抱いており、謙った態度と高い礼遇を示して管寧を任官し、自分の鎮輔(補佐)としたいと望んでいたが、結局思い切って言い出すことができなかった。管寧に対する敬意と気兼ねはこのようであった。
曹操は司空となると管寧を辟召したが、公孫康は命令を拒んで(管寧に)伝えなかった。
その後戦乱が落ち着くと、郷里を離れていた人たちはみな帰郷したが、管寧だけは落ち着き払って(幽州・遼東郡で)一生を終えるような様子だった。
幽州・遼東郡を出る
徵召に応じる
魏の黄初4年(223年)、文帝(曹丕)は公卿に詔を下して「独行の君子(世俗に左右されない立派な人物)」を推挙させ、司徒の華歆は管寧を推挙した。
文帝(曹丕)は即位すると安車*3を用意して彼を徵召し出した。管寧は家族を伴って海路から郡(青州・北海郡)に帰った。当時、公孫康が死んで弟の公孫恭が立っていたが、公孫恭が柔弱であるのに対して、公孫康の孽子(妾腹の子)・公孫淵が優れた才能を持っていたため、管寧は「嫡子を廃して庶子を立てると、下の者に異心を生じ、乱が起こる原因となる」と言い、幽州・遼東郡に居ること37年、ここにおいてお召しに応じたのである。
その後、公孫淵は公孫恭を襲って位を奪い、国家(魏)に背いて南方の呉と同盟し、王号を僭称した。明帝(曹叡)は相国の司馬懿に命じて征伐させ、公孫淵を滅ぼした。幽州・遼東郡における死者は4桁にのぼり、管寧の予想した通りの結果となった。
脚注
*3老人・女子用の座席のある安定した車。
神光の祐
公孫康の弟・公孫恭は(幽州・遼東郡の郡都の)南の郊外まで見送って、衣服・器物を贈ったが、管寧は東(遼東郡)で公孫度・公孫康・公孫恭らが前後して贈った物を、全部受け取ってしまっておき、西に海を渡りきってから、それらを密封してすべてを返還した。
管寧が期間する時、海中で暴風に遭った。他の船はみな沈没したが、管寧の乗船だけは無傷だった。その夜、風が吹き真っ暗闇になって、乗員はみな判断力を失い、停泊できる場所も分からなかった。
彼方を眺めると明かりが見えたので、すぐにそちらへ向かうと島に行き当たった。島には住人がおらず、また火を燃やした跡もなかった。(あの明かりは何だったのかと)みな不思議に思い、これを「神光の祐(助け)」だと考えた。また皇甫謐はこれを「善行を積み重ねた結果である」と言った。
文帝(曹丕)は詔を下して管寧を太中大夫に任命したが、固辞して受けなかった。
明帝の徴召
明帝(曹叡)が即位すると、太尉の華歆は官位を遠慮して管寧に譲った。明帝(曹叡)は詔を下して管寧を光禄勲に任命し、また(管寧が住む青州の)刺史に詔を下して「管寧を行在所(天子の行幸中の仮の御所)に送り出す」ように命令したが、管寧は自らを「草莽の臣(在野の臣)」と称して上疏し、病気を理由にこれも辞退した。
司空の陳羣もまた管寧を推薦し、「これまで管寧が辞退したのは、充分な礼儀を備えていなかったことが原因である」と指摘した。
管寧への詔・全文
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太中大夫の管寧は道徳を思い、六芸*1を忘れず、古人に匹敵する清虛さ(心が清らかで汚れがまったくないこと)と、当世のを担うに足る廉白さを備えている。
昔、王道が衰缺(衰退)した時、海路から(幽州・遼東郡に)逃れ住んだが、大魏が天命を受けると、幼子を背負ってやって来た。これはつまり、「応龍*2が潜んだり天に昇ること」や「聖人賢者が世に出たり隠れたりすること」と同じである。
ところが黄初以来、何度も徵命(召し出し)を下しても、その都度いつも、病気を理由に拒否して応じなかった。朝廷の政が生のお考えと異なるからと、山林に安らぎと喜びを見出し、去ったまま振り向いてはくれないのだろうかっ!
そもそも姫公(周公)の聖徳をもってしても、年老いた有徳の人の協力がなければ、鳴く鳥の声を聞くこともできなかったのだ。秦の穆公の賢明さをもってしても、黄髪(白髪)の人に相談することを考えたのだ。まして徳が少ない朕[明帝(曹叡)]が、どうして子のような大夫に道を聞くことを願わずにいられようかっ!
今、管寧を光禄勲に任命する。礼には大倫(人として行うべき大切な道理)があるが、君臣の道は廃することはできない。どうか必ず速やかに参り、朕[明帝(曹叡)]の気持ちを叶えてくれ。
脚注
*1『詩経』、『書経』、『礼記』または『儀礼』、『楽経』、『易経』、『春秋』の6つの経典。六経。
*2『山海経』に記される最高位の龍。 四霊(四瑞)[『礼記』礼運篇に記される4種の瑞獣(麒麟・鳳凰・霊亀・応龍)]の1種類一種とされる。
青州刺史への詔・全文
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管寧は道徳と貞潔さを抱いて海辺の隅の陰に潜み、徵書(召し出しの命令書)を下しても命令を違えて応じず、躊躇っていることを利益と考えて、高尚な生き方を貫こうとしている。素朴な生活と幽人(隠者)の貞しさが存在するとはいえ、官位が昇るにつれ、いよいよ謙虚さを増した正考父の生き方から外れている。
朕[明帝(曹叡)]が心を空しくして何年も待ち望んでいるのに、一体何を考えているのだろうか? (管寧は)いたずらに安寧を求め、あくまでも思いのままに生きようとしているが、古人にも「今までの生き方を改めて、民を幸福にした者」がいたことに思い至らないのかっ!
[徵命(召し出し)を受けてから]月日が経っても、身を清め道徳に浸っているとは、一体何のつもりか?
仲尼(孔子)の言葉に「吾は斯の人の徒と与に非ずして、誰と与にせんっ!」(『論語』微子)とある。よって別駕従事や郡の丞(次官)・掾(属官)に命じ、詔を奉じて、礼をもって管寧を行在所(天子の行幸中の仮の御所)に送り出すように。安車*3・吏従(お供の役人)・茵蓐(敷物)・道中の食事を用意し、出発したらまず報告せよ。
脚注
*3老人・女子用の座席のある安定した車。
管寧の上疏・全文
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臣は海浜に住む取るに足らない孤独な人間で、仲間もいない疲弊した農民でありながら、俸禄をいただけることは大きな幸福であります。
陛下は大業を受け嗣がれ、その徳は三皇(古代の聖天子)に等しく、教化は唐氏(堯)を越えておられ、久しく豊かな恩恵を享受して12年になりますが、陛下の「恩養の福」にお応えすることができずにいます。
(臣は)重病のために弱り衰え、病床に伏したままでおります。臣下として取るものも取りあえず駆けつけねばなりませんのに、その節義に反し、朝も夕も怖れ戦き、身を置く場所もない思いです。
(青龍)元年(233年)11月に公車司馬令が州郡に派遣され、8月には詔が下されて臣をお徵しになられました上に、安車*3・衣服・茵蓐(敷物)を下賜され、礼をもって送り出せとのこと。大いなるご恩寵が次々と至り、優渥(懇ろで手厚いこと)な命令がしきりに下されました。畏れ多く身を固くして声も出ず、胸を痛めてどうしたら良いか分かりません。
自ら陳情して愚かな気持ちを申し述べたいと存じましたが、詔により抑え留められ、ほんの少しの上奏を差し出すことさえも禁じられました。そのため心の中は鬱積したまま今日に至りました。誠に天が万物を覆うがごとき恩愛の極みでございます。御慈しみが益々厚く盛んであられることは、思いもかけないことでした。
今年[青龍4年(236年)]の2月に、州郡に下されました(青龍)3年(235年)12月の詔書をお受けしましたところ、重ねて安車*3・衣服を下賜され、別駕従事と郡の功曹が礼をもって送り出すようにとのこと。その上、特に璽書を下され臣を光禄勲に任命されまして、御自らご功労を誇らず謙虚な態度を取られ、周と秦を引き合いに出されて、上の価値を低く抑え、下の価値を高く見る見解をお示しになりました。詔書をお受けした日は魂も飛び散りましたが、身を投げて死ぬこともかないません。
臣は自らを省みますに、東園公・綺里季*4の徳を持たずして安車*3の光栄を被り、竇融*5の功績なくして御璽による任命という恩寵を被っております。愚鈍な楶梲でありながら、棟梁の任務を担い、死にかかった生命をもって九棘(九卿)の位を獲得するのです。朱博の引き起こした「鼓妖の眚*6」が起こることが心配されます。
その上、持病は日に日に悪化し、ひどくなる一方で良くならず、車の助けを借りて路を進むようでは大責を担えません。閶闔[天上界にある門(宮門)]を望み慕い、闕庭(宮殿)に心を馳せつつ謹んで文章を奉り、心情を申し述べました。どうか憐憫の思し召しをくださり、(任命の)ご恩顧をお取り下げになって、骨を街道に埋めずに済むようにしてくださいませ。
脚注
*3老人・女子用の座席のある安定した車。
*4前漢の初め、皇太子であった恵帝の地位を安泰に導いた商山四皓(東園公・角里先生・綺里季・夏黄公の4人の隠者)の内の2人。恵帝の招請に応じて彼に仕えた。
*5後漢の初め、使者を遣わして光武帝に帰順し、天子の御璽のある詔勅によって涼州牧に任命された。
*6前漢・哀帝の建平2年(紀元前5年)、丞相であった朱博が参内して宮殿に登り策命を受けようとした時、鐘が鳴り響くような大きな音が起こった。哀帝が「これは何か」と問うと黄門侍郎の李尋は「『尚書』洪範に言う『鼓妖』でございます。人君が聡明でなく、衆に惑わされ、虚名を博する者が出世すると起こります」と答えたという。朱博は姦謀の咎で自害した。
陳羣の推薦・全文
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臣は「王者は善を顕彰し、それによって悪を消滅させる」と聞いております。
ゆえに殷の湯王は伊尹を起用し、その結果、不仁の者は遠くへ去りました。徵士(召された者)・青州・北海郡出身の管寧を伏して見ますに、「管寧の行いは世の模範であり、学問は人の師となることができ、その清潔・節倹さは汚濁を除き去るに充分であり、その誠実・正直さは時代を矯正するに充分でございます。
以前、徵命(召し出し)を下されたとはいえ、充分な礼儀を備えておりませんでした。
昔、司空の荀爽は家にいながらにして光禄勲を拝命し、先儒(昔の儒者)の鄭玄(鄭玄)は司農の辞令を家まで届けられました。もし、より一層の礼儀を加えられましたならば、きっと徵し出すことができるでしょう。
(管寧を)西郊の学校に招聘し、座ったまま道義を講じさせますれば、必ずやよく古今を明らかにして、大いなる教化に役立つでしょう。
青州刺史・程喜の上言
黄初年間(220年〜226年)から青龍年間(233年〜236年)に至るまで徵命(召し出し)が何度も下り、毎年8月になると牛と酒が下賜された。
ある時、青州刺史の程喜に詔が下され、「管寧は高潔な生き方を貫こうとしているのか。それとも老いや病に苦しんでいるのか?」と問われた。
これに程喜は上言して、管寧の親族・管貢から聞いた「管寧の普段の生活の様子」を伝え、管寧の辞退が「高潔さを貫こうとしているわけではない」という私見を述べた。
程喜の上言・全文
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管寧の親族の州吏・管貢は、管寧の隣に住んでおり、臣は常に往き来して管寧の消息を尋ねております。管貢が言うには、
「管寧はいつも皁い帽子に木綿の肌着と袴、木綿の裠を身につけて、季節に合わせて単衣と袷を使い分け、閨庭(家の庭)を出入りする際には自力で杖を頼りとして歩き、人の助けを借りる必要はございません。四季の祭には、いつも自分の力を振り絞り、改めて衣服を加え絮巾(綿の頭巾)をかぶります。以前、幽州・遼東郡にいた頃に持っていた白い木綿の単衣を着て、自ら饌饋(お供え用の食事)を勧め、跪いて拝し、儀式を行います。管寧は若くして母を失い、姿形も覚えておりませんので、いつも特別に酒杯を余分に供え、はらはらと涙を流しております。また住居は川から70〜80歩離れておりますが、夏には川に入って手足を洗い、果樹・野菜の畑を眺めています」
とのこと。
臣が管寧がこれまで何度も辞退した理由を考えてみますに、1人で生活を続けていたことによって年老いて智力も衰えたため、隠遁して常に控えめな態度を取っているのでございましょう。高潔さを貫こうとしているのではないと思われます。
管寧の死
曹芳の正始2年(241年)、
- 太僕の陶丘一、
- 永寧宮の衛尉・孟観、
- 侍中の孫邕、
- 中書侍郎の王基が
らが、また管寧を推薦して上言した。
陶丘一らの上言・全文
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臣どもは「龍や鳳は耀きを隠し 徳に応えて訪れ、道理に明らかな人は、潜み隠れ 時期を待って行動する」と聞いております。
ゆえに鸞鷟(鳳凰の1種)が岐山に鳴いたことによって周の政道は隆興し、商山四皓(東園公・角里先生・綺里季・夏黄公の4人の隠者)が補佐したことによって漢帝(恵帝)の地位は安定いたしました。
伏して見ますに、太中大夫の管寧は二儀*7の中に和し、完成された九徳(人の行うべき9つの徳)を備え、行いや文章に彩りの素質を持ち、氷や淵のように清く澄み渡り、深遠なる虚無の道理によって名声や富を求めず、気の向くままに遊覧し、黃老の思想に心を楽しませ、六芸*1に心を遊ばせて、それらの閫奧(心髄)を究め、古今を胸の内に包み隠し、道徳の要を包み込んでおります。
(霊帝の)中平年間の末期に黄巾賊が暴れ回り、華夏(中華)は傾き、王綱(帝国の政治の大綱)は立ち所に弛みました。そこで(管寧は)時世の難を避け、桴に乗って海を越え、30余年の間、幽州・遼東郡に避難しておりました。それは乾の卦が姤の卦に移る状態に相当し、光を隠し隠遁を楽しみつつゆったりした気持ちを養い、儒家・墨家の思想を包み隠しながら、その教化は知らぬ間にあまねく流れ、風俗を異にする人たちの間にも行き渡っております。
黄初4年(223年)、高祖文皇帝(曹丕)は群公に命じて優れた人材を求めさせました。これに司徒の華歆は管寧を推挙してその人選にお応えし、特別に公車をもって徵いたところ、遙か辺境から翼を振るって飛んで参りました。ところがその道中、難儀に遭って病気にかかってしまったため、その場で太中大夫に任命いたしました。
その後、烈祖明皇帝(曹叡)は彼の徳を嘉みなされ、光禄勲に登らせましたが、管寧の病気は益々悪化し、道を進むことができずにおりました。
今、管寧の病気はすでに癒え、当年とって80歳ではございますが、その志は衰えてはおりません。彼の住居は狭い屋敷にみすぼらしい門であり、むさ苦しい街でくつろぎ、1日分の粥を2日に分けて食べています。そのような生活にもかかわらず『詩経』『尚書』を吟詠し、その楽しみを改めようとはいたしません。自らが困苦していても難に遭った者を救い、危険を冒しながらもその生き方を変えず、鐘の音や玉の色のように、その優れた徳は時間が経つにつれていよいよ冴えわたっております。
彼の人生を考えてみますに、天が福禄を下されているように思えます。彼に大魏のために力を添えさせ、のびやかな楽しい社会をつくり出すよう補佐をお命じになるべきです。袞職(天子を補佐する大臣・宰相の職)に欠員が出ましたら、群臣は(管寧が登用されることを)期待しております。
昔、殷の高宗は(夢に現れた人物の)像を彫って「賢哲の士」を探し求め、周の文王は亀甲の卜兆に啓示されて優れた補佐を手に入れました。
まして管寧は、前朝[明帝(曹叡)]が表彰した人物で、その名声と徳はすでに明らかでありますのに、長い間隠遁させたまま機会を捉えて招き寄せることをしないでいるのです。これでは優れた遺訓を遵奉し、先代の意志を引き継ぎ成就することにはなりますまい。
陛下は即位して大業を受け継がれて以降、ご聡明で敬虔な御徳は日に日に高まって周の成王を超えられ、常にお恵みの言葉を発せられて、いつも師傅にご相談あそばされます。もし賢人を招かれた2祖[太祖(曹操)と高祖(曹丕)]の典例をお継ぎになり、俊秀を賓客の礼をもって待遇なさり、それによって光り輝く御徳を行き渡らせましたならば、その盛大な教化は前代[明帝(曹叡)]と等しくなりましょう。
管寧は高潔・無欲で優れた先人の生き方を模範としてその足跡を追い、彼の徳行は卓越して四海の内に比肩する者はおりません。前世(前漢と後漢)の時代に、玉と帛を贈って召命した申公、枚乗、周党、樊英といった連中を次々と観察し、彼らの淵源(動機)を推し測って彼らの清潔さの程度を見てみますに、世俗を奮い立たせ、世に屹立(高くそびえ立つこと)する行為という点では、未だ管寧に及ぶ者はおりません。
よろしく(管寧に)礼物として束帛(束ねた帛)に璧を加え、礼を尽くして徵聘(招聘)されるのがよろしいでしょう。さらに几杖(肘掛けと杖)を授け、東郊の学校に招待され、墳素(古書・典籍)を詳述させ、座ったまま道徳を論じさせますれば、上は天体の運行*8を正して皇極(政治の根本)を調和し、下は民を豊かにして彝倫(人間の守るべき道)を秩序立て、必ずや見るべき成果を挙げて大いなる教化を輝かせ、利益を与えるでしょう。
もし管寧があくまでも心を動かさず、箕山に隠れる意志を守り、洪崖(古代の仙人)の跡を追い、巣父・許由(古代の隠者)の蹤に加わろうとするならば、これまた聖朝の唐(堯)・虞(舜)と符合し、賢者を優遇し、成果のある者を起用することとなり、名声を千年の後まで残すことになるでしょう。
出仕した者と在野の者では生き方が異なり、俯くことと仰ぐことでは姿勢が異なるとは申しながら、治世を興し風俗を美化する方法は同じであります。
脚注
*1『詩経』、『書経』、『礼記』または『儀礼』、『楽経』、『易経』、『春秋』の6つの経典。六経。
*7天地の間の万物をつくり出す陰と陽の2つの気。 天と地。
*8原文は璇璣。璇璣は美しい珠で飾った天文観測の器。渾天儀。
この上言により、特別に蒲輪(車が揺れるのを防ぐために、蒲の穂でつつんだ車輪)の安車*3を用意し、束帛(束ねた帛)に璧を加えて管寧を招聘したが、ちょうど管寧は亡くなった。84歳であった。
脚注
*3老人・女子用の座席のある安定した車。
逸話
後妻を娶らず
管寧の妻は管寧に先だって亡くなった。彼の友人知人は後妻を娶ることを勧めたが、管寧は「いつも曾子(孔子の晩年の弟子・曾参)と王駿の言葉*9を振り返ってみて、心中、常に立派だと思っていました。自分が同じ境遇となったからといって、本心を違えることができましょうか」と言った。
『氏姓論』を著す
衰乱の時代となり、いい加減に自分の属する氏族を変えて他の氏族に移る者が多かったが、管寧は「それは聖人の制度に違反し、姓をつけた礼の意図に背く」と考え、『氏姓論』を著して、世系の原本とした。
困窮者を救う
親類・知人、同じ里内に困窮している者がいると、自分の家の貯えが1、2石に満たなくても、必ず分け与えて彼らを援助した。
管寧の徳義
人の子と話をする時には孝を教え、人の弟と話をする時には悌(年少者の道徳)を教え、話が人臣のことになると、忠を教え諭した。
管寧の態度はとても礼儀正しく、その言葉はとても素直であった。(遠くで)彼の行動を観察してみると近寄りづらいが、直接接してみるととても柔和で穏やかで、人々を善に導いたので、少しでも彼に接した者で感化されない者はいなかった。
管寧が亡くなると、天下の人々は直接の知り合いもそうでない者も、それを聞いて嘆かない者はいなかった。
脚注
*9曾子は妻を失ってから再婚しなかった。その理由を尋ねられると曾子は「(2人の息子)華と元が良い子だからね」と答えたという。
王駿は前漢・成帝の時に御史大夫にまでなった名臣。彼が少府の官位にあった時に妻を亡くしたが、再婚しなかった。その理由を尋ねられると王駿は「(私の)徳は曾子とは違うし、子は華・元ほどではないが、どうしてあえて再婚などしようか」と言ったという。