正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(81)北海ほっかい朱虚しゅきょ管氏かんし管少卿かんしょうけい管寧かんねい管邈かんばく管貢かんこう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

北海(朱虚)管氏系図

北海管氏①系図

北海ほっかい朱虚しゅきょ管氏かんし系図

管貢かんこうの世代は不詳。


この記事では北海ほっかい朱虚しゅきょ管氏かんしの人物、

についてまとめています。

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か(81)北海(朱虚)管氏

第0世代(管少卿)

管少卿かんしょうけい

生没年不詳。青州せいしゅう北海郡ほっかいぐん朱虚県しゅきょけんの人。9代後の子孫に管寧かんねい

春秋しゅんじゅう時代、せい宰相さいしょう管仲かんちゅうの子孫である。昔、田氏でんしせいの権力をにぎると、管氏かんし一族はその地を立ち去り、ある者はに行き、ある者はに行った。

かんおこると管少卿かんしょうけいがいて燕令えんれいとなり、初めて朱虚県しゅきょけんに居住し、その節義をもって名を知られた。

それから9代って管寧かんねいが生まれた。


管少卿かんしょうけい」の関連記事

第1世代(管寧)

管寧かんねい幼安ようあん

後漢ごかん延熹えんき元年(158年)〜正始せいし2年(241年)没。青州せいしゅう北海郡ほっかいぐん朱虚県しゅきょけんの人。子に管邈かんばく

出自

16歳の時に父を亡くした。管寧かんねいの親族は彼が孤独で貧しいことをあわれんで、みなでぼう(香典)をおくったが、そのすべてを辞退して受け取らず、自分の財力に見合った葬儀を行った。

管寧かんねいは身長8尺(約184.8cm)、あごひげまゆが美しかった。

青州せいしゅう平原国へいげんこく出身の華歆かきんと同郡(青州せいしゅう北海郡ほっかいぐん)出身の邴原へいげんと友人であり、共に異国に遊学し、みな陳仲弓ちんちゅうきゅう陳寔ちんしょく)を敬愛した。当時の人々は3人を「一龍」と呼んだ。華歆かきんを龍の頭、邴原へいげんを龍の腹、管寧かんねいを龍の尾と考えたのである。

公孫度の元に身を寄せる

天下が大いに乱れると、公孫度こうそんたくの威令が海外にまで行き渡っていると聞いて、邴原へいげん青州せいしゅう平原国へいげんこく出身の王烈おうれつ青州せいしゅう楽安国らくあんこく出身の国淵こくえんらと共に幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんおもむいた。

公孫度こうそんたくやかたを用意して彼らを待ったが、管寧かんねいらは公孫度こうそんたくと会見すると、山谷にいおりを結んだ。当時、避難して来た者は郡の南部に住むことが多かったが、管寧かんねいは北部に住んで「無遷むせんこころざし(他にうつらないこころざし)」を示し、のちにようやく南部に住むようになった。

管寧かんねい公孫度こうそんたくと会見した時も、ただ経典について語るだけで、世俗の事にはれなかった。退出すると山を利用していおりを建て、重なった山に横穴を掘って部屋を作った。海を越えて避難して来た者はみな彼の元にやって来て居住し、10ヶ月余りでゆう(村)ができあがった。

こうして詩経しきょう』『尚書しょうしょを講義し、俎豆そとう(祭器)を並べて威儀いぎを飾り、礼儀正しくへりくだった態度を取り、学者でなければ面会しなかった。こうしたことから、公孫度こうそんたく管寧かんねいの賢明さに安心し、人々は彼の徳に教化された。

逸話
井戸水争い

管寧かんねいが住んでいた村落では、井戸水をめぐり、男女が入りじって争いが起こっていた。

これを懸念けねんしてた管寧かんねいは、沢山の容器を買って井戸のかたわらに分散して配置し、あらかじめ水をんでおいて、誰がやったのかは内密にしておいた。

井戸に来た人は、水を手に入れるとそれを不審ふしんに思い、調べた結果、管寧かんねいがやったことだと分かった。そのことを知った村人たちは、お互いにあやまちを正して2度と争いをしなくなった。

隣家の牛

隣家の牛が管寧かんねいの田を荒らした時のこと。管寧かんねいはその牛を引いて涼しい場所に落ち着かせ、そこで自由に飲食をさせたが、そのやり方は飼い主以上だった。

飼い主は牛を捕まえると、重罪を犯したかのように大変恥じ入った。


こうしたことから、管寧かんねいの近辺からは闘争・訴訟の声がなくなり、礼儀・謙譲の気風が海の彼方(の幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん)まで伝えられたのである。

邴原への助言

邴原へいげんは剛直な性格で、高潔な議論によって物事の折り目をつけたので、公孫度こうそんたく以下、彼に対して不安な気持ちをいだいていた。

そんな邴原へいげん管寧かんねいは、

潜龍せんりゅう(潜伏している龍)は成徳(完成した徳)を見せず、時機に適さない言葉をかないものです。これらはみなわざわいまねく道ですぞ」

と言い、秘かに彼を西にかえらせた。

公孫康と管寧

公孫度こうそんたく庶子しょし公孫康こうそんこうは父に代わって郡を支配するようになると、表面では将軍しょうぐん太守たいしゅの号を称しながらも、その内実はおうとなる野心をいだいており、へりくだった態度と高い礼遇を示して管寧かんねいを任官し、自分の鎮輔ちんほ(補佐)としたいと望んでいたが、結局思い切って言い出すことができなかった。管寧かんねいに対する敬意とねはこのようであった。

曹操そうそう司空しくうとなると管寧かんねい辟召したが、公孫康こうそんこうは命令をこばんで(管寧かんねいに)伝えなかった。

その後戦乱が落ち着くと、郷里を離れていた人たちはみな帰郷したが、管寧かんねいだけは落ち着き払って(幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんで)一生を終えるような様子だった。

幽州・遼東郡を出る
徵召ちょうしょうに応じる

黄初こうしょ4年(223年)、文帝ぶんてい曹丕そうひ)は公卿こうけいみことのりを下して「独行どっこうの君子(世俗に左右されない立派な人物)」を推挙させ、司徒しと華歆かきん管寧かんねいを推挙した。

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は即位すると安車あんしゃ*3を用意して彼を徵召し出した。管寧かんねいは家族をともなって海路から郡(青州せいしゅう北海郡ほっかいぐん)に帰った。当時、公孫康こうそんこうが死んで弟の公孫恭こうそんきょうが立っていたが、公孫恭こうそんきょう柔弱にゅうじゃくであるのに対して、公孫康こうそんこう孽子げっし妾腹しょうふくの子)・公孫淵こうそんえんすぐれた才能を持っていたため、管寧かんねいは「嫡子ちゃくしを廃して庶子しょしを立てると、下の者に異心を生じ、乱が起こる原因となる」と言い、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんること37年、ここにおいておしに応じたのである。

その後、公孫淵こうそんえん公孫恭こうそんきょうを襲って位を奪い、国家()にそむいて南方のと同盟し、王号を僭称せんしょうした。明帝めいてい曹叡そうえい)は相国しょうこく司馬懿しばいに命じて征伐させ、公孫淵こうそんえんを滅ぼした。幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんにおける死者は4けたにのぼり、管寧かんねいの予想した通りの結果となった。

脚注

*3老人・女子用の座席のある安定した車。

神光の祐

公孫康こうそんこうの弟・公孫恭こうそんきょうは(幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんの郡都の)南の郊外まで見送って、衣服・器物をおくったが、管寧かんねいは東(遼東郡りょうとうぐん)で公孫度こうそんたく公孫康こうそんこう公孫恭こうそんきょうらが前後しておくった物を、全部受け取ってしまっておき、西に海を渡りきってから、それらを密封してすべてを返還した。

管寧かんねいが期間する時、海中で暴風にった。他の船はみな沈没したが、管寧かんねいの乗船だけは無傷だった。その夜、風が吹き真っ暗闇になって、乗員はみな判断力を失い、停泊できる場所も分からなかった。

彼方かなたながめると明かりが見えたので、すぐにそちらへ向かうと島に行き当たった。島には住人がおらず、また火を燃やしたあともなかった。(あの明かりは何だったのかと)みな不思議に思い、これを「神光のゆう(助け)」だと考えた。また皇甫謐こうほひつはこれを「善行を積み重ねた結果である」と言った。


文帝ぶんてい曹丕そうひ)はみことのりを下して管寧かんねい太中大夫たいちゅうたいふに任命したが、固辞して受けなかった。

明帝の徴召

明帝めいてい曹叡そうえい)が即位すると、太尉たいい華歆かきんは官位を遠慮して管寧かんねいゆずった。明帝めいてい曹叡そうえい)はみことのりを下して管寧かんねい光禄勲こうろくくんに任命し、また(管寧かんねいが住む青州せいしゅうの)刺史ししみことのりを下して「管寧かんねい行在所あんざいしょ天子てんし行幸ぎょうこう中の仮の御所ごしょ)に送り出す」ように命令したが、管寧かんねいみずからを「草莽そうもうの臣(在野の臣)」と称して上疏じょうそし、病気を理由にこれも辞退した。

司空しくう陳羣ちんぐんもまた管寧かんねい推薦すいせんし、「これまで管寧かんねいが辞退したのは、充分な礼儀をそなえていなかったことが原因である」と指摘した。

管寧かんねいへのみことのり・全文
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太中大夫たいちゅうたいふ管寧かんねいは道徳を思い、六芸りくげい*1を忘れず、古人に匹敵する清虛せいきょさ(心が清らかで汚れがまったくないこと)と、当世のをになうに廉白れんぱくさを備えている。

昔、王道が衰缺すいけつ(衰退)した時、海路から(幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに)のがれ住んだが、大魏たいぎが天命を受けると、幼子おさなごを背負ってやって来た。これはつまり、「応龍おうりゅう*2ひそんだり天にのぼること」や「聖人賢者が世に出たり隠れたりすること」と同じである。

ところが黄初こうしょ以来、何度も徵命ちょうめいし出し)を下しても、その都度つどいつも、病気を理由に拒否して応じなかった。朝廷のまつりごとあなたのお考えと異なるからと、山林に安らぎと喜びを見出みいだし、去ったまま振り向いてはくれないのだろうかっ!

そもそも姫公きこう周公しゅうこう)の聖徳をもってしても、年老いた有徳の人の協力がなければ、鳴く鳥の声を聞くこともできなかったのだ。しん穆公ぼくこうの賢明さをもってしても、黄髪こうはつ(白髪)の人に相談することを考えたのだ。まして徳が少ないちん明帝めいてい曹叡そうえい)]が、どうしてあなたのような大夫たいふに道を聞くことを願わずにいられようかっ!

今、管寧かんねい光禄勲こうろくくんに任命する。礼には大倫たいりん(人として行うべき大切な道理)があるが、君臣の道は廃することはできない。どうか必ずすみやかに参り、ちん明帝めいてい曹叡そうえい)]の気持ちをかなえてくれ。

脚注

*1詩経しきょう書経しょきょう礼記らいきまたは儀礼ぎらい楽経がっけい易経えききょう春秋しゅんじゅうの6つの経典けいてん六経りくけい

*2山海経せんがいきょうしるされる最高位の龍。 四霊しれい四瑞しずい)[礼記らいき礼運篇らいうんへんしるされる4種の瑞獣ずいじゅう麒麟きりん鳳凰ほうおう霊亀れいき応龍おうりゅう)]の1種類一種とされる。

青州刺史せいしゅうししへのみことのり・全文
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管寧かんねいは道徳と貞潔ていけつさをいだいて海辺のすみの陰にひそみ、徵書ちょうしょし出しの命令書)を下しても命令をたがえて応じず、躊躇ためらっていることを利益と考えて、高尚な生き方をつらぬこうとしている。素朴な生活と幽人ゆうじん隠者いんじゃ)のただしさが存在するとはいえ、官位が昇るにつれ、いよいよ謙虚さを増した正考父せいこうほの生き方から外れている。

ちん明帝めいてい曹叡そうえい)]が心をむなしくして何年も待ち望んでいるのに、一体何を考えているのだろうか?  (管寧かんねいは)いたずらに安寧あんねいを求め、あくまでも思いのままに生きようとしているが、古人にも「今までの生き方を改めて、民を幸福にした者」がいたことに思い至らないのかっ!

徵命ちょうめいし出し)を受けてから]月日がっても、身を清め道徳にひたっているとは、一体何のつもりか?

仲尼ちゅうじ孔子こうし)の言葉に「わたしの人のともあらずして、誰とともにせんっ!」(論語ろんご微子びし)とある。よって別駕従事べつがじゅうじや郡のじょう(次官)・えん(属官)に命じ、みことのりを奉じて、礼をもって管寧かんねい行在所あんざいしょ天子てんし行幸ぎょうこう中の仮の御所ごしょ)に送り出すように。安車あんしゃ*3吏従りじゅう(お供の役人)・茵蓐いんじょく(敷物)・道中の食事を用意し、出発したらまず報告せよ。

脚注

*3老人・女子用の座席のある安定した車。

管寧かんねい上疏じょうそ・全文
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わたくしは海浜に住む取るに足らない孤独な人間で、仲間もいない疲弊ひへいした農民でありながら、俸禄をいただけることは大きな幸福であります。

陛下は大業を受けがれ、その徳は三皇さんこう(古代の聖天子せいてんし)に等しく、教化は唐氏とうしぎょう)を越えておられ、久しく豊かな恩恵を享受きょうじゅして12年になりますが、陛下の「恩養の福」におこたえすることができずにいます。

わたくしは)重病のために弱りおとろえ、病床にしたままでおります。臣下として取るものも取りあえず駆けつけねばなりませんのに、その節義に反し、朝も夕も怖れおののき、身を置く場所もない思いです。

青龍せいりゅう)元年(233年)11月に公車司馬令こうしゃしばれいが州郡に派遣され、8月にはみことのりが下されてわたくしをおしになられました上に、安車あんしゃ*3・衣服・茵蓐いんじょく(敷物)を下賜かしされ、礼をもって送り出せとのこと。大いなるご恩寵おんちょうが次々と至り、優渥ゆうあくねんごろで手厚いこと)な命令がしきりに下されました。おそれ多く身を固くして声も出ず、胸を痛めてどうしたら良いか分かりません。

みずから陳情しておろかな気持ちを申しべたいと存じましたが、みことのりによりおさとどめられ、ほんの少しの上奏を差し出すことさえも禁じられました。そのため心の中は鬱積うっせきしたまま今日こんにちに至りました。まことに天が万物をおおうがごとき恩愛のきわみでございます。おんいつくしみがますます厚く盛んであられることは、思いもかけないことでした。

今年[青龍せいりゅう4年(236年)]の2月に、州郡に下されました(青龍せいりゅう)3年(235年)12月の詔書しょうしょをお受けしましたところ、重ねて安車あんしゃ*3・衣服を下賜かしされ、別駕従事べつがじゅうじと郡の功曹こうそうが礼をもって送り出すようにとのこと。その上、特に璽書じしょを下されわたくし光禄勲こうろくくんに任命されまして、おんみずからご功労をほこらず謙虚な態度を取られ、しゅうしんを引き合いに出されて、上の価値を低くおさえ、下の価値を高く見る見解をお示しになりました。詔書しょうしょをお受けした日は魂も飛び散りましたが、身を投げて死ぬこともかないません。

わたくしみずからをかえりみますに、東園公とうえんこう綺里季きりき*4の徳を持たずして安車あんしゃ*3の光栄をこうむり、竇融とうゆう*5の功績なくして御璽ぎょじによる任命という恩寵おんちょうこうむっております。愚鈍な楶梲うだちでありながら、棟梁むなぎの任務をにない、死にかかった生命をもって九棘きゅうきょく九卿きゅうけい)の位を獲得するのです。朱博しゅはくの引き起こした「鼓妖こようわざわい*6」が起こることが心配されます。

その上、持病は日に日に悪化し、ひどくなる一方で良くならず、車の助けを借りてみちを進むようでは大責をになえません。閶闔しょうこう[天上界にある門(宮門)]をのぞしたい、闕庭けってい(宮殿)に心をせつつつつしんで文章をたてまつり、心情を申し述べました。どうか憐憫れんびんおぼしをくださり、(任命の)ご恩顧おんこをお取り下げになって、骨を街道にうずめずに済むようにしてくださいませ。

脚注

*3老人・女子用の座席のある安定した車。

*4前漢ぜんかんの初め、皇太子こうたいしであった恵帝けいていの地位を安泰に導いた商山四皓しょうざんしこう東園公とうえんこう角里先生ろくりせんせい綺里季きりき夏黄公かこうこうの4人の隠者)の内の2人。恵帝けいてい招請しょうせいに応じて彼に仕えた。

*5後漢ごかんの初め、使者をつかわして光武帝こうぶていに帰順し、天子てんし御璽ぎょじのある詔勅しょうちょくによって涼州牧りょうしゅうぼくに任命された。

*6前漢ぜんかん哀帝あいてい建平けんぺい2年(紀元前5年)、丞相じょうしょうであった朱博しゅはくが参内して宮殿に登り策命を受けようとした時、かねが鳴り響くような大きな音が起こった。哀帝あいていが「これは何か」とうと黄門侍郎こうもんじろう李尋りじんは「尚書しょうしょ洪範こうはんに言う『鼓妖こよう』でございます。人君が聡明でなく、衆にまどわされ、虚名を博する者が出世すると起こります」と答えたという。朱博しゅはく姦謀かんぼうとがで自害した。

陳羣ちんぐん推薦すいせん・全文
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わたくしは「王者は善を顕彰けんしょうし、それによって悪を消滅させる」と聞いております。

ゆえにいん湯王とうおう伊尹いいんを起用し、その結果、不仁の者は遠くへ去りました。徵士ちょうしされた者)・青州せいしゅう北海郡ほっかいぐん出身の管寧かんねいを伏して見ますに、「管寧かんねいおこないは世の模範であり、学問は人の師となることができ、その清潔・節倹さは汚濁おだくを除き去るに充分であり、その誠実・正直さは時代を矯正きょうせいするに充分でございます。

以前、徵命ちょうめいし出し)を下されたとはいえ、充分な礼儀をそなえておりませんでした。

昔、司空しくう荀爽じゅんそうは家にいながらにして光禄勲こうろくくんを拝命し、先儒せんじゅ(昔の儒者じゅしゃ)の鄭玄じょうげん鄭玄ていげん)は司農しのうの辞令を家まで届けられました。もし、より一層の礼儀を加えられましたならば、きっとし出すことができるでしょう。

管寧かんねいを)西郊せいこうの学校に招聘しょうへいし、座ったまま道義を講じさせますれば、必ずやよく古今を明らかにして、大いなる教化に役立つでしょう。

青州刺史・程喜の上言

黄初こうしょ年間(220年〜226年)から青龍せいりゅう年間(233年〜236年)に至るまで徵命ちょうめいし出し)が何度も下り、毎年8月になると牛と酒が下賜かしされた。

ある時、青州刺史せいしゅうしし程喜ていきみことのりが下され、「管寧かんねいは高潔な生き方をつらぬこうとしているのか。それとも老いややまいに苦しんでいるのか?」とわれた。

これに程喜ていきは上言して、管寧かんねいの親族・管貢かんこうから聞いた「管寧かんねいの普段の生活の様子」を伝え、管寧かんねいの辞退が「高潔さをつらぬこうとしているわけではない」という私見をべた。

程喜ていき上言じょうげん・全文
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管寧かんねいの親族の州吏しゅうり管貢かんこうは、管寧かんねいの隣に住んでおり、わたくしは常に往き来して管寧かんねいの消息をたずねております。管貢かんこうが言うには、

管寧かんねいはいつもくろい帽子に木綿もめんの肌着とずぼん木綿もめんはかまを身につけて、季節に合わせて単衣ひとえあわせを使い分け、閨庭けいてい(家の庭)を出入りする際には自力で杖を頼りとして歩き、人の助けを借りる必要はございません。四季の祭には、いつも自分の力をしぼり、改めて衣服を加え絮巾じょきん綿わた頭巾ずきん)をかぶります。以前、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんにいた頃に持っていた白い木綿もめん単衣ひとえを着て、みずか饌饋せんき(おそなえ用の食事)を勧め、ひざまずいて拝し、儀式を行います。管寧かんねいは若くして母を失い、姿形も覚えておりませんので、いつも特別に酒杯を余分にそなえ、はらはらと涙を流しております。また住居は川から70〜80歩離れておりますが、夏には川に入って手足を洗い、果樹・野菜の畑を眺めています」

とのこと。

わたくし管寧かんねいがこれまで何度も辞退した理由を考えてみますに、1人で生活を続けていたことによって年老いて智力もおとろえたため、隠遁いんとんして常にひかえめな態度を取っているのでございましょう。高潔さをつらぬこうとしているのではないと思われます。

管寧の死

曹芳そうほう正始せいし2年(241年)、

  • 太僕たいぼく陶丘一とうきゅういつ
  • 永寧宮えいねいきゅう衛尉えいい孟観もうかん
  • 侍中じちゅう孫邕そんゆう
  • 中書侍郎ちゅうしょじろう王基おうき

らが、また管寧かんねいを推薦して上言した。

陶丘一とうきゅういつらの上言じょうげん・全文
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わたくしどもは「龍やおおとり耀かがやきを隠し 徳にこたえておとずれ、道理に明らかな人は、ひそみ隠れ 時期を待って行動する」と聞いております。

ゆえに鸞鷟がくさく鳳凰ほうおうの1種)が岐山きざんに鳴いたことによってしゅうの政道は隆興し、商山四皓しょうざんしこう東園公とうえんこう角里先生ろくりせんせい綺里季きりき夏黄公かこうこうの4人の隠者)が補佐したことによって漢帝かんてい恵帝けいてい)の地位は安定いたしました。

伏して見ますに、太中大夫たいちゅうたいふ管寧かんねい二儀にぎ*7の中に和し、完成された九徳(人の行うべき9つの徳)をそなえ、行いや文章にいろどりの素質を持ち、氷やふちのように清くみ渡り、深遠なる虚無の道理によって名声や富を求めず、気の向くままに遊覧し、黃老こうろうの思想に心を楽しませ、六芸りくげい*1に心を遊ばせて、それらの閫奧こんおう心髄しんずい)をきわめ、古今を胸の内に包み隠し、道徳のかなめを包み込んでおります。

霊帝れいていの)中平ちゅうへい年間の末期に黄巾賊こうきんぞくあばれ回り、華夏かか中華ちゅうか)はかたむき、王綱おうこう(帝国の政治の大綱たいこう)は立ちどころゆるみました。そこで(管寧かんねいは)時世の難を避け、いかだに乗って海を越え、30余年の間、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに避難しておりました。それはけんこうに移る状態に相当し、光を隠し隠遁いんとんを楽しみつつゆったりした気持ちをやしない、儒家じゅか墨家ぼくかの思想を包み隠しながら、その教化は知らぬ間にあまねく流れ、風俗をことにする人たちの間にも行き渡っております。

黄初こうしょ4年(223年)、高祖こうそ文皇帝ぶんこうてい曹丕そうひ)は群公に命じてすぐれた人材を求めさせました。これに司徒しと華歆かきん管寧かんねいを推挙してその人選におこたえし、特別に公車こうしゃをもってまねいたところ、はるか辺境から翼を振るって飛んで参りました。ところがその道中、難儀にって病気にかかってしまったため、その場で太中大夫たいちゅうたいふに任命いたしました。

その後、烈祖れつそ明皇帝めいこうてい曹叡そうえい)は彼の徳をよしみなされ、光禄勲こうろくくんに登らせましたが、管寧かんねいの病気はますます悪化し、道を進むことができずにおりました。

今、管寧かんねいの病気はすでにえ、当年とって80歳ではございますが、そのこころざしおとろえてはおりません。彼の住居はせまい屋敷にみすぼらしい門であり、むさ苦しい街でくつろぎ、1日分のかゆを2日に分けて食べています。そのような生活にもかかわらず詩経しきょう』『尚書しょうしょ吟詠ぎんえいし、その楽しみを改めようとはいたしません。みずからが困苦していても難にった者を救い、危険をおかしながらもその生き方を変えず、かねや玉の色のように、そのすぐれた徳は時間がつにつれていよいよえわたっております。

彼の人生を考えてみますに、天が福禄ふくろくを下されているように思えます。彼に大魏たいぎのために力をえさせ、のびやかな楽しい社会をつくり出すよう補佐をお命じになるべきです。袞職こんしょく天子てんしを補佐する大臣・宰相さいしょうの職)に欠員が出ましたら、群臣は(管寧かんねいが登用されることを)期待しております。

昔、いん高宗こうそうは(夢に現れた人物の)ぞうって「賢哲の士」を探し求め、しゅう文王ぶんおう亀甲きっこう卜兆ぼくちょうに啓示されてすぐれた補佐を手に入れました。

まして管寧かんねいは、前朝[明帝めいてい曹叡そうえい)]が表彰した人物で、その名声と徳はすでに明らかでありますのに、長い間隠遁いんとんさせたまま機会をとらえてまねき寄せることをしないでいるのです。これではすぐれた遺訓を遵奉じゅんぽうし、先代の意志を引き継ぎ成就じょうじゅすることにはなりますまい。

陛下は即位して大業を受け継がれて以降、ご聡明で敬虔けいけん御徳おんとくは日に日に高まってしゅう成王せいおうを超えられ、常にお恵みの言葉を発せられて、いつも師傅しふにご相談あそばされます。もし賢人をまねかれた2祖[太祖たいそ曹操そうそう)と高祖こうそ曹丕そうひ)]の典例をお継ぎになり、俊秀しゅんしゅう賓客ひんかくの礼をもって待遇なさり、それによって光り輝く御徳おんとくを行き渡らせましたならば、その盛大な教化は前代[明帝めいてい曹叡そうえい)]と等しくなりましょう。

管寧かんねいは高潔・無欲ですぐれた先人の生き方を模範としてその足跡を追い、彼の徳行は卓越して四海の内に比肩ひけんする者はおりません。前世(前漢ぜんかん後漢ごかん)の時代に、玉ときぬおくって召命しょうめいした申公しんこう枚乗ばいじょう周党しゅうとう樊英はんえいといった連中を次々と観察し、彼らの淵源えんげん(動機)をはかって彼らの清潔さの程度を見てみますに、世俗を奮い立たせ、世に屹立きつりつ(高くそびえ立つこと)する行為という点では、いま管寧かんねいに及ぶ者はおりません。

よろしく(管寧かんねいに)礼物として束帛そくはくたばねたきぬ)にへきを加え、礼を尽くして徵聘ちょうへい招聘しょうへい)されるのがよろしいでしょう。さらに几杖きじょうひじけとつえ)をさずけ、東郊とうこうの学校に招待され、墳素ふんそ(古書・典籍)を詳述しょうじゅつさせ、座ったまま道徳を論じさせますれば、上は天体の運行*8を正して皇極こうぎょく(政治の根本)を調和し、下は民を豊かにして彝倫いりん(人間の守るべき道)を秩序ちつじょ立て、必ずや見るべき成果をげて大いなる教化を輝かせ、利益を与えるでしょう。

もし管寧かんねいがあくまでも心を動かさず、箕山きざんに隠れる意志を守り、洪崖こうがい(古代の仙人)のあとを追い、巣父そうほ許由きょゆう(古代の隠者)のあとに加わろうとするならば、これまた聖朝のとうぎょう)・しゅん)と符合し、賢者を優遇し、成果のある者を起用することとなり、名声を千年の後まで残すことになるでしょう。

出仕した者と在野の者では生き方が異なり、うつむくこととあおぐことでは姿勢が異なるとは申しながら、治世をおこし風俗を美化する方法は同じであります。

脚注

*1詩経しきょう書経しょきょう礼記らいきまたは儀礼ぎらい楽経がっけい易経えききょう春秋しゅんじゅうの6つの経典けいてん六経りくけい

*7天地の間の万物をつくり出す陰と陽の2つの気。 天と地。

*8原文は璇璣せんき璇璣せんきは美しいたまで飾った天文観測の器。渾天儀こんてんぎ


この上言により、特別に蒲輪ほりん(車が揺れるのを防ぐために、がまの穂でつつんだ車輪)の安車あんしゃ*3を用意し、束帛そくはくたばねたきぬ)にへきを加えて管寧かんねい招聘しょうへいしたが、ちょうど管寧かんねいは亡くなった。84歳であった。

脚注

*3老人・女子用の座席のある安定した車。

逸話
後妻をめとらず

管寧かんねいの妻は管寧かんねいに先だって亡くなった。彼の友人知人は後妻をめとることを勧めたが、管寧かんねいは「いつも曾子そうし孔子こうしの晩年の弟子・曾参そうしん)と王駿おうしゅんの言葉*9を振り返ってみて、心中しんちゅう、常に立派だと思っていました。自分が同じ境遇となったからといって、本心をたがえることができましょうか」と言った。

氏姓論しせいろん』をあらわ

衰乱すいらんの時代となり、いい加減に自分の属する氏族を変えて他の氏族に移る者が多かったが、管寧かんねいは「それは聖人の制度に違反し、姓をつけた礼の意図にそむく」と考え、氏姓論しせいろんあらわして、世系の原本とした。

困窮者こんきゅうしゃを救う

親類・知人、同じ内に困窮こんきゅうしている者がいると、自分の家のたくわえが1、2こくに満たなくても、必ず分け与えて彼らを援助した。

管寧かんねいの徳義

人の子と話をする時にはこうを教え、人の弟と話をする時にはてい(年少者の道徳)を教え、話が人臣のことになると、ちゅうを教えさとした。

管寧かんねいの態度はとても礼儀正しく、その言葉はとても素直であった。(遠くで)彼の行動を観察してみると近寄りづらいが、直接せっしてみるととても柔和にゅうわおだやかで、人々を善に導いたので、少しでも彼に接した者で感化されない者はいなかった。

管寧かんねいが亡くなると、天下の人々は直接の知り合いもそうでない者も、それを聞いてなげかない者はいなかった。

脚注

*9曾子そうしは妻を失ってから再婚しなかった。その理由をたずねられると曾子そうしは「(2人の息子)げんが良い子だからね」と答えたという。
王駿おうしゅん前漢ぜんかん成帝せいていの時に御史大夫ぎょしたいふにまでなった名臣。彼が少府しょうふの官位にあった時に妻を亡くしたが、再婚しなかった。その理由をたずねられると王駿おうしゅんは「(私の)徳は曾子そうしとは違うし、子はげんほどではないが、どうしてあえて再婚などしようか」と言ったという。


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第2世代(管邈)

管邈かんばく

生没年不詳。青州せいしゅう北海郡ほっかいぐん朱虚県しゅきょけんの人。父は管寧かんねい

郎中ろうちゅうに任命され、のち博士はくしとなった。


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世代不明(管貢)

管貢かんこう

生没年不詳。青州せいしゅう北海郡ほっかいぐん朱虚県しゅきょけんの人。管寧かんねいの親族。

青州せいしゅう州吏しゅうり

管寧かんねいの家の隣に住んでおり、青州刺史せいしゅうしし程喜ていきに、次のように「管寧かんねいの普段の生活の様子」を伝えた。

管寧かんねいはいつもくろい帽子に木綿もめんの肌着とずぼん木綿もめんはかまを身につけて、季節に合わせて単衣ひとえあわせを使い分け、閨庭けいてい(家の庭)を出入りする際には自力で杖を頼りとして歩き、人の助けを借りる必要はございません。四季の祭には、いつも自分の力をしぼり、改めて衣服を加え絮巾じょきん綿わた頭巾ずきん)をかぶります。以前、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんにいた頃に持っていた白い木綿もめん単衣ひとえを着て、みずか饌饋せんき(おそなえ用の食事)を勧め、ひざまずいて拝し、儀式を行います。管寧かんねいは若くして母を失い、姿形も覚えておりませんので、いつも特別に酒杯を余分にそなえ、はらはらと涙を流しております。また住居は川から70〜80歩離れておりますが、夏には川に入って手足を洗い、果樹・野菜の畑を眺めています」


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