正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(82)管仲かんちゅう管夷吾かんいご)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次

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か(82)管②

管仲(管夷吾)

管仲かんちゅう管夷吾かんいご

生年不詳〜せい桓公かんこう41年(紀元前645年)没。潁上けいじょう潁水けいすいほとり)の人。管仲夷吾かんちゅういご。姓はかん、名は夷吾いごあざなちゅう

管鮑の交わり

若い頃、常に鮑叔牙ほうしゅくが鮑叔ほうしゅく)と交遊し、鮑叔ほうしゅくはその頃から管仲かんちゅうの賢明さを知っていた。

管仲かんちゅうは貧困のあまりよく鮑叔ほうしゅくあざむいたが、鮑叔ほうしゅくは終始管仲かんちゅうを厚遇して、(あざむかれても)何も言わなかった。


やがて鮑叔ほうしゅくせい公子こうし小白しょうはくに仕え、管仲かんちゅう公子こうしきゅう小白しょうはくの兄)に仕えたが、小白しょうはくが即位して桓公かんこうとなると(小白しょうはくと争っていた)きゅうは敗死し、管仲かんちゅうは捕らえられた。

この時、鮑叔ほうしゅくは(桓公かんこうに)管仲かんちゅうを推挙し、管仲かんちゅうは登用されせいの政治を任された。せい桓公かんこうが覇者となって諸侯しょこう糾合きゅうごうし、天下をただすことができたのは、管仲かんちゅうはかりごとによりものである。

ある時、管仲かんちゅうは言った。


わたしはかつて困窮こんきゅうしていた時に鮑叔ほうしゅくと共に商売をしたことがあり、利益を配分する時に自分の利益を多くしたが、鮑叔ほうしゅくはそれを欲深いこととは思わなかった。わたしまずしいことを知っていたからである。
わたしはかつて鮑叔ほうしゅくのために事をはかって失敗し、さら困窮こんきゅうしたことがあるが、鮑叔ほうしゅくわたしおろかだとは思わなかった。時に有利と不利があることを知っていたからである。
わたしはかつて3度仕えて3度追放されたが、鮑叔ほうしゅくわたし不肖ふしょう(無能)だとは思わなかった。わたしに運がなかったことを知っていたからである。
わたしはかつて3度戦って3度敗走したが、鮑叔ほうしゅくわたし臆病おくびょうだとは思わなかった。わたしに老母がいることを知っていたからである。
公子こうしきゅうが敗れた時、同僚の召忽しょうこつは戦死し、わたし虜囚りょしゅうはずかしめを受けたが、鮑叔ほうしゅくわたしを恥知らずだとは思わなかった。わたしが小さな節義にこだわらず、天下に功名を立てられないことを恥とすることを知っていたからである。
私を生んでくれたのは父母であるが、本当に私を理解している者は鮑子ほうし鮑叔ほうしゅく)だけである」


管仲かんちゅうを推挙した後、鮑叔ほうしゅくみずか管仲かんちゅうの下位となって敬意を払った。彼の子孫は代々せいの俸禄をたまわり、10余代にわたって封邑ほうゆうを有し、常に有能な大夫たいふ輩出はいしゅつした。天下には管仲かんちゅうの「賢才」を評価する者よりも、鮑叔ほうしゅくの「人物を見極める力」を評価する者の方が多かった。

管仲の政治

管仲かんちゅう宰相さいしょうとなって国政を担当すると、せいは取るに足りない小国であったが、海に面した地の利をかし、海産物を交易して財宝を貯蓄し、富国強兵につとめて、良いことも悪いことも領民と共有した。

ゆえにその著書ちょしょ管子かんしでも、

倉廩そうりん穀物こくもつを蓄えておくくら)が満ちて礼節を知り、衣食が足りて栄辱を知る。上に立つ者が節度を守れば六親*1の結束は固くなる。四維しい*2ゆるめば国は滅亡する。命令を発する際は水源から流れるように、民心に従った命令を出すべきである。(これらを守って)命令を下せば、水が低い方へ流れるように、民心は命令にしたがう」

と言っており、その論ずるところは単純で行いやすく、民の望むものは望み通りに与え、拒否するものはそれに従って取り除いた。


管仲かんちゅうの政治手法は、わざわいさえも利用して福となし、失敗を転じて成功に導き、およそ事の軽重をはかることをたっとび、均衡きんこうを得ることに慎重であった。

例えば、実際は桓公かんこう夫人ふじん少姫しょうきのことを怒って、(その実家である)南のさい国を襲ったのに、管仲かんちゅうは事の軽重をはかって、これを機会にさい国に近い国をち、国がしゅうの王室に包茅ほうぼうたばねたちがや。祭時に酒をすためにもちいる)を入貢していないことを責めて、その大義名分とした。

また、実際は桓公かんこうが北の山戎さんじゅうったのに、管仲かんちゅうは事の均衡きんこうを得ようと、えん国に恩を売った機会に、えん国に建国の祖・召公しょうこうまつりごとを復活させるように強制した。

また、河南かなん内黄ないこうの東北)の会合で、桓公かんこうは(国から奪った土地をかえすという)曹沫そうかい曹沫そうばつ)との約束にそむいていたのに、管仲かんちゅうわざわいを転じて福となそうとし、桓公かんこういて約束を実行させ、諸侯しょこうせいに心服させた。

ゆえに「『与えることこそが取る手段である』と知ることが、政治の秘訣である」と言われるのである。

脚注

*1父・母・兄・弟・妻・子または父・子・兄・弟・夫・妻。

*2国家を維持するために必要な4つの大綱である、礼・義・廉・恥の4つの道徳。

管仲の死

管仲かんちゅうとみ(私財)はせいの公室に匹敵し、三帰さんき*3反坫はんてん*4を有していたが、せいの人々はこれを分不相応の贅沢ぜいたくだとは思わなかった。

管仲かんちゅうの死後も、せい管仲かんちゅうの政策を遵奉じゅんぽうし、諸侯しょこうの中で常に強国であり続けた。

脚注

*3朝廷から退出して帰る家が3ヶ所あること。

*4諸侯しょこうが会見の際、献酬けんしゅうの礼(酒をわすこと)が終わってさかずきを返す土製の台のこと。

評論

太史公たいしこうは言う。

わたし管氏かんし管仲かんちゅう)があらわした管子かんし山高さんこう」「乗馬じょうば」「軽重けいちょう」「九府きゅうふの諸篇を読んだが、その論ずるところはまことに詳密である。

管仲かんちゅうは世に言うところの賢臣であるが、孔子こうしは彼を小人物とした。これは、「しゅうの王道が衰微すいびしていた当時、せい桓公かんこうは既に賢才をもって知られていたのに、管仲かんちゅうしゅうたすけることを勧めず、ただ覇者はしゃの名を成さしめた」からであろうか?

古文孝経こぶんこうけい事君章じくんしょうに「その君(主君)の長所を助長し、その短所を匡正きょうせいしてこそ、上下(君臣)よくあいしたしむ」と言うのは、管仲かんちゅうのような者に対して言っているのであろうか?(いや、そんなはずはない)。


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【三国志人物伝】総索引