正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(77)桓魋(向魋)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(77)桓
桓魋(かんたい)
桓魋(向魋)
生没年不詳。春秋時代・宋の景公の寵臣。兄は向巣。弟に子頎、子車、司馬牛(司馬耕、向犁:字は子牛)。(子頎以下の兄弟の順は不明)。
景公の寵愛
公子地との確執
宋の景公17年(紀元前500年)、宋の景公の弟・公子地は蘧富猟を寵愛し、財産の5/11を彼に与えた。
また公子地は白馬4頭を持っていたが、桓魋(向魋)がこれを欲しがると、桓魋(向魋)を寵愛する景公は、公子地から白馬を取り上げて尾と鬣を赤く染め、桓魋(向魋)に与えた。これに公子地は怒り、配下を遣って桓魋(向魋)を鞭打たせ、白馬を奪い返した。
桓魋(向魋)は懼れて逃げ、景公は宮門を閉ざして泣き、目を腫れ上がらせた。これを見た景公の同母弟・公子辰は、(庶兄の)公子地に言った。
「子は財産を蘧富猟に与えたというのに、桓魋(向魋)にだけ冷たくするのは不公平です。子は景公に礼を尽くして(国外に出て)ください。国境を越える前に、景公は必ずや引き止められるでしょう」
公子地はこれに従って陳に出奔したが、景公は引き止めなかった。公子辰がいくら引き止めるように言っても聞かないので、公子辰は、
「これでは我が吾が兄(公子地)を欺いたことになる。吾が国人と共に国を出れば、景公に與する者はいなくなるだろう」
と言い、この年の冬、公子辰は仲佗・石彄と共に陳に出奔した。
宋の景公18年(紀元前499年)秋、楽大心もこの後を追い、宋にとって甚だ憂うべき事態となった。景公が桓魋(向魋)を寵愛し過ぎたためである。
孔子を殺そうとする
宋の景公25年(紀元前492年)、孔子が曹を去って宋に行き、弟子と共に大樹の下で礼を習った。
宋の司馬・桓魋(向魋)が孔子を殺そうとしてその樹を伐ったので、孔子はそこを立ち去った。この時、弟子が「急がなくては危険です」と言ったが、孔子は「天が予に徳を与えたのだ。桓魋(向魋)ごときがどうこうできるものではないっ!」と言った。
寵愛の終わり
大叔疾(世叔斉)の美珠
宋の景公33年(紀元前484年)冬、衛の大叔疾(世叔斉)が宋に亡命し、大叔疾(世叔斉)は桓魋(向魋)の臣となり、彼に美しい珠を送って城鉏を与えられた。景公がこの美しい珠を欲しがったが、桓魋(向魋)が渡さなかったことから、桓魋(向魋)は罪を得ることとなった。
鄭に敗れる
宋の景公35年(紀元前482年)春、宋の桓魋(向魋)は(鄭に)包囲された嵓の宋軍を救援に来たが、鄭の子賸(罕達)は「桓魋(向魋)を捕らえた者には褒美を与える」と全軍に布告したので、桓魋(向魋)は逃げ帰った。
桓魋(向魋)暗殺計画
宋の景公36年(紀元前481年)5月、桓魋(向魋)への寵愛が行き過ぎて景公を脅かすまでになったので、景公は夫人に頼んで急遽桓魋(向魋)を饗応に招き、その席で彼を討とうと考えた。
ところがまだ実行されないうちに、桓魋(向魋)の方が先に計画を進め、自分の封邑の鞍と薄を交換したいと申し出たが、景公は「それは駄目だ。薄は宋の宗廟のある邑である」と言い、鞍に加えて7邑を加増した。
すると桓魋(向魋)は「お礼に景公を饗応したい」と言い、日中(正午)を約束の時間として、部下の武装を総動員して出掛けた。
これを知った景公は、皇野(字:子仲)に「余は桓魋(向魋)を育ててやったのに、桓魋(向魋)は余に禍を加えようとしている。すぐに助けてくれぬか」と言った。司馬の子仲(皇野)は「不順な臣は神が悪む存在であり、人ならば尚更です。どうして命令をお受けしないことがありましょうか。ですが、左師[桓魋(向魋)の兄・向巣]を味方につける必要があります。君命をもって召し寄せましょう」と言った。
左師(の向巣)はいつも、食事の前後に楽鐘を鳴らしていた。景公は2度目の楽鐘が鳴ったのを見計らい、(皇野に)車で迎えに行かせた。
そこで皇野は向巣に言った。
「跡人(猟場官)から『逢沢に大鹿が現れた』との報告があると、公(景公)は『桓魋(向魋)が来られなくても、左師(向巣)が来てくれるなら、共に狩猟をしたいのだが』と仰せられました。ですが、大臣の子を遊猟に誘うことを遠慮されていたので、野が『内々に話してみましょう』と申し上げると、『速やかに』との思し召しですので、車で子をお迎えに上がりました」
こうして向巣を同乗させて景公の元に至ると、景公は向巣に事情を話した。向巣は(大いに驚いて)拝礼したまま身体を起こせずにいた。
司馬(皇野)は景公に「向巣と誓約を交わしてください」と言い、景公は「もし子に難(禍)を及ぼすことがあらば、上に天あり下に先君あり(これを照覧し罰したまえ)」と誓った。
向巣は「桓魋(向魋)の不共(謀叛)は宋の禍なれば、どうして従わないことがありましょうか」と言った。
曹に亡命する
司馬(皇野)は景公に瑞(出兵の符節)を求め、部下に桓魋(向魋)攻撃を命じた。この時、(桓氏の)父兄や老臣はこれに反対したが、若い臣下は「吾が君の命に従います」と言い、ついに桓魋(向魋)を攻撃した。
これに[桓魋(向魋)の弟・]子頎は、馬を馳せて桓司馬[桓魋(向魋)]に危急を告げ、司馬[桓魋(向魋)]は公宮に攻め入ろうとしたが、(弟の)子車が引き止めて「国君に仕えることができずに、かえってこれを攻めたりすれば、民が味方となることはありません。殺されに行くようなものです」というと、桓魋(向魋)はついに曹に入って(宋から)離叛した。
桓魋(向魋)が宋から亡命すると、城鉏の人は大叔疾(世叔斉)を攻めたが、国都に戻った衛の荘公(蒯聵)は大叔疾(世叔斉)を呼び戻し、巣に住まわせた。大叔疾(世叔斉)はここで亡くなり、鄖で殯礼が行われ、少禘に埋葬された。
向巣の離反
6月、景公は左師・向巣に曹[桓魋(向魋)]を攻撃させたが、[やはり向巣は弟の桓魋(向魋)を討つ気にはなれず、宋の]大夫を人質に取って曹に入ろうとしたが、失敗した。そこで向巣は曹に入って(曹人を)人質に取った。*1
すると桓魋(向魋)は「いけません。国君に仕えることができなかった上に民からも悪まれては、どうしようもありません」と言い、曹人の人質を解放した。
ところが、(曹の)民が[桓魋(向魋)・向巣に]叛いたので、桓魋(向魋)は衛に逃げ、向巣は魯に逃げて来た。
向巣が魯に出奔すると、景公は向巣を引き止めて「寡人は子と誓約している。(宋における)向氏の祭祀を絶やすわけにはいかぬ」と言ったが、向巣は辞退して「臣の罪は大きく、桓氏(向氏)を族滅しても良いほどです。もし先臣(先代)までの縁故によって後継ぎを置いていただけるのならば、ありがたいことです。臣のような者が宋に入ることなど許されません」と言った。
脚注
*1意味が通じるように補足しました。
原文:六月,使左師巢伐之,欲質大夫以入焉,不能,亦入于曹取質,
桓魋の弟・司馬牛
[桓魋(向魋)の弟・]司馬牛(司馬耕、向犁:字は子牛)は、自分の封邑と珪(諸侯の身分を示す玉)を返納して斉に行った。
桓魋(向魋)が衛の地を通った時、(衛の大夫の)公文氏がこれを攻撃して[桓魋(向魋)が持っている]夏后氏の璜(名玉)を要求したが、桓魋(向魋)は別の玉を与えて、斉に逃げた。
斉の陳成子(陳恒)が桓魋(向魋)を次卿に任命すると、司馬牛(司馬耕、向犁:字は子牛)はまた斉からもらった邑を返納して呉に行ったが、呉の人に悪まれて宋に戻った。趙簡子(趙鞅)や陳成子に招かれたが、魯の郭門(城の外郭の門)の外で亡くなり、阬氏が丘輿に埋葬した。
斉に逃げた後の桓魋(向魋)の動向については不明。
『魏書』常林伝が注に引く『魏略』の沐並に関する記述に「桓魋(向魋)の石の椁(外棺)よりは、速やかな腐敗の方がましとなる」とある。
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