正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(56)[霍叔かくしゅく霍叔処かくしゅくしょ)・霍性かくせい霍奴かくど]です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(56)

霍(かく)

霍叔かくしゅく霍叔処かくしゅくしょ / 霍叔處かくしゅくしょ

生没年不詳。しゅう文王ぶんおうの第8子。母は文王ぶんおう正妃せいひ太姒たいじの子孫・姒氏じしむすめ)。「かく」は封国名。

霍国に封ぜられる

しゅう武王ぶおう11年(紀元前1,046年)、文王ぶんおうの後をいだ次子の武王ぶおう武王ぶおうはつ)がいん紂王ちゅうおうって天下を平定すると、功臣や兄弟を封じて諸侯とし、叔処しゅくしょ霍叔かくしゅく)はかく(現在の山西省さんせいしょう霍州市かくしゅうし)に封ぜられた。

武王ぶおうは、帝辛ていしん紂王ちゅうおう)の子・禄父ろくほ武庚ぶこう)に諸侯しょこうと同等の地位を与えて祖先の祭祀さいしやさないようにさせ、

  • 文王ぶんおうの第8子・霍叔処かくしゅくしょ霍叔かくしゅく
  • 文王ぶんおうの第3子・管叔鮮かんしゅくせん
  • 文王ぶんおうの第5子・蔡叔度さいしゅくど

武庚ぶこうを監督させてしょう朝(いん)の遺民いみんおさめさせた。彼らを称して「三監さんかん」と言う。

三監之乱

武王ぶおうの死後、太子たいししょう成王せいおう)が後をいだが、成王せいおうはまだ幼少である上に、しゅう朝はまだ政情が安定していなかったため、文王ぶんおうの第4子・周公旦しゅうこうたん摂政せっしょうとなって成王せいおうの職を代行し、国家の大事を処理した。

霍叔処かくしゅくしょ霍叔かくしゅく)、管叔鮮かんしゅくせん蔡叔度さいしゅくどの3人は、周公旦しゅうこうたんが王位を簒奪さんだつしようとしているのではないかと疑って、怒ってあちこちにうわさをばらまいた。

しゅう成王せいおう2年(紀元前1,041年)、ついに3人は武庚ぶこう擁立ようりつして叛乱はんらんを起こした。これを「三監さんかんの乱」と言う。

しゅう成王せいおう4年(紀元前1,039年)、周公旦しゅうこうたんは「しゅう成王せいおう」の名をもって叛乱はんらん軍を征伐・平定し、管叔鮮かんしゅくせん武庚ぶこう誅殺ちゅうさつ蔡叔度さいしゅくどは流罪、霍叔処かくしゅくしょ霍叔かくしゅく)は3年の間庶民しょみんに落とされた。


霍叔処かくしゅくしょ霍叔かくしゅく)の子孫・霍国かくこくは、春秋しゅんじゅう時代・しん献公けんこうに滅ぼされ、霍国かくこくの子孫は祖国を忘れないために国名を姓とし、霍氏かくしを名乗った。


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霍性かくせい

生年不詳〜延康えんこう元年(220年)没。涼州りょうしゅう雍州ようしゅう)・新平郡しんへいぐんの人。魏王ぎおう曹丕そうひ配下の度支中郎将たくしちゅうろうしょう

延康えんこう元年(220年)6月、魏王ぎおう曹丕そうひは東の郊外で軍の観閲かんえつを行い、南方征伐に出発した。

曹丕そうひが征伐のにつこうとした時、度支中郎将たくしちゅうろうしょう霍性かくせいはこの出征を諫言かんげんする上書をたてまつった。

霍性の上書・全文
タップ(クリック)すると開きます。

わたくししゅう文王ぶんおうの、いん紂王ちゅうおうに対する対処の仕方を聞いたことがございます。その頃、天下の人はふくろの口をくくるように英知を包み隠していなければ安全をたもてなかったので、すべての君子はえて能力を発揮したり意見を具申ぐしんしなかったとか。

今、大王だいおう曹丕そうひ)におかれましては、乾坤あめつちことわりを体得され、広く四方へ耳を開き、賢者・愚者を問わず各自の意見を建言することをお許しになっています(ので、えて申し述べます)。

して思いますに、先王(曹操そうそう)のご功績は比較するものがない程ですのに、(戦争に明け暮れたため)今では発言好きの連中も、(曹操そうそうの)徳を称揚しょうよういたしません。それゆえ聖人は「民(百姓)の歓心を得る(ことが大切だ)」と言い、兵書は「戦争は危険な行為である」と言うのです。

だからこそ、(戦国せんごく時代の)6ヶ国が力の限り戦った後、強国・しんはその疲弊ひへいを利用し、豳王ひんおうが争いをけたために、しゅうの政道は興隆したのです。

愚考いたしますに、大王だいおう曹丕そうひ)にはひとかん朝に責任を預けて静の態度を保持されるべきで、武威を誇示しながら虎のごと悠然ゆうぜんせておられれば、功業は成就できましょう。

ところが、今(魏国ぎこくの)基礎が築かれたばかりで、もう戦いを起こされています。武器は不吉な道具であり、(使用すれば)必ず不吉な騒擾そうじょう(騒動)が起こり、騒擾そうじょう(騒動)が起これば動乱となるのは想像にかたくありません。

動乱は思いがけない時に起こるものです。わたくしはこのあやうさは「卵を積んだ状態よりもあやうい」と思います。

昔、啓王けいおうの子)は(の死後にに服し)3年の間隠棲いんせいして精神を働かせませんでした。えき復卦ふくけに「遠くに行かぬうちに引き返す(過失が大きくならないうちに善に返る)」と言い、論語ろんご学而篇がくじへんに「(過失を犯したら)躊躇ちゅうちょなく改める」と申します。

どうか大王だいおう曹丕そうひ)には過去をかえりみ現在を明察され、深慮遠謀をめぐらせて、三公さんこうと共にその長所短所を見積もられますようにお願いいたします。

わたくしは先王(曹操そうそう)のお引き立てをこうむりました上、[大王だいおう曹丕そうひ)が]政治を改革された当初、さらに重い任務をお受けしました。発言すれば逆鱗げきりんに触れ、阿諛あゆ(おべっか)すれば福禄ふくろくに近づけると存じてはおりますが、以上に述べましたことを秘かに感じておりますので、危険を承知でえて申し上げる次第です。

上奏文が届けられると曹丕そうひは立腹し、刺姦しかん(取締官)を派遣して取り調べをさせ、とうとう彼の殺害を命じた。その後、後悔した曹丕そうひは追いかけて赦免しゃめんしたが、間に合わなかった。


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霍奴かくど

生没年不詳。幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん故安県こあんけんの人。

建安けんあん10年(205年)夏4月、幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん故安県こあんけん趙犢ちょうとく霍奴かくどらが幽州刺史ゆうしゅうしし涿郡太守たくぐんたいしゅを殺害した。


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【三国志人物伝】総索引