正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(57)丹陽郡たんようぐん葛氏かつし葛系かつけい葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)・葛悌かつてい葛洪かつこう葛望かつぼう]です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

丹陽郡葛氏系図

丹陽郡葛氏系図

丹陽郡たんようぐん葛氏かつし系図

葛系かつけい葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)の兄弟の順は不明。


この記事では丹陽郡たんようぐん葛氏かつしの人物、

についてまとめています。


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か(57)丹陽葛氏

第1世代[葛系・葛玄(葛仙公)]

葛系かつけい

生没年不詳。揚州ようしゅう丹陽郡たんようぐん句容県こうようけんの人。子に葛悌かつてい。兄弟に葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)。

大鴻臚だいこうろとなった。


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葛玄かつげん葛仙公かつせんこう

生没年不詳。揚州ようしゅう丹陽郡たんようぐん句容県こうようけんの人。大甥おおおい(兄弟の孫)に葛洪かつこう

葛玄かつげんの時代に仙道せんどう会得えとくし、葛仙公かつせんこうと号して弟子の鄭隠ていいん練丹れんたん(不老不死の妙薬)の秘術をさずけた。


葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)は酒を飲んで酔っ払うと、他人の家の門の前にある池(陂水はすい)の中で横になり、丸1日ってからやっと出て来るのが、いつものことであった。

ある時呉主ごしゅ孫権そんけん)のお供をして洌洲れつしゅう*1に行った時のこと。その帰途に暴風に遭遇そうぐうし、百官たちが乗った船の多くが沈没し、葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)の乗った船も水に沈んでしまった。

呉主ごしゅ孫権そんけん)はひどく悲しみしんで、次の日、人々を動員して大きなかぎを水中に下ろして葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)が乗っていた船をさがさせ、自分は小高い所からその様子をうかがっていた。

大分時間がった頃、葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)が水の上を歩いて来るのが見えた。彼の衣服やき物はれておらず、しかも酒気をびていた。

呉主ごしゅ孫権そんけん)の御前に出ると、葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)は、

わたくしは昨日お供をしておりましたのですが、伍子胥ごししょ*2からまねきを受け、そちらにまいって酒を飲んでまいりました。急なことで取るものも取りあえず、ご挨拶あいさつもせぬままあちらにまいったのでございます」

と言ったという。

脚注

*1現在の安徽省あんきしょう和県わけんを流れる長江ちょうこうの中にある小島。

*2春秋しゅんじゅう時代末の呉国ごこくの政治家であるが、悲劇的な最後をげた後、人々から神としてまつられ、当時は水神すいじんとしての性格が強かった。


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第2世代(葛悌)

葛悌かつてい

生没年不詳。揚州ようしゅう丹陽郡たんようぐん句容県こうようけんの人。父は葛系かつけい葛奚かつけい)。子に葛洪かつこう従父じゅうふ葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)。しん邵陵太守しょうりょうたいしゅ

しんによって平定された後、しんに仕えて邵陵太守しょうりょうたいしゅとなった。


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第3世代(葛洪)

葛洪かつこう稚川ちせん

生没年不詳。揚州ようしゅう丹陽郡たんようぐん句容県こうようけんの人。父は葛悌かつてい。祖父に葛系かつけい葛奚かつけい)。従祖父じゅうそふ葛玄かつげん葛仙公かつせんこう)。おい葛望かつぼう

出自

葛洪かつこうは幼い頃から学問を好んだが、家が貧しく、みずかたきぎって紙筆を買い、夜な夜な書物を書き写し、繰り返し読んで学んだので、儒学者じゅがくしゃとして名を知られるようになった。

葛洪かつこうは欲が少なく愛玩あいがんする物もなく、囲碁や樗蒲ちょぼ(賭博)のルールも知らず、また栄達や利得に興味がなかった。門を閉ざしてき清め、いまかつて人と交遊したことがなく、余杭山よこうざん何幼道かようどう何準かじゅん)や郭文挙かくぶんきょを目撃した時も、言葉をわさなかった。

時には書物の意味を知るために数千里に及ぶけわしい旅をすることもいとわず、典籍を追究して「神仙しんせん導養どうようほう」に興味を持つようになった。

仙道を会得する

葛洪かつこう従祖父じゅうそふ葛玄かつげんの時代に仙道せんどう会得えとくし、葛仙公かつせんこうと号して弟子の鄭隠ていいん練丹れんたん(不老不死の妙薬)の秘術をさずけていた。そこで葛洪かつこう鄭隠ていいんに学び、その法のすべてを習得した。

その後、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上党郡じょうとうぐん出身の南海太守なんかいたいしゅ鮑玄ほうげん*3に師事し、鮑玄ほうげん*3葛洪かつこうの深重なさまを見て、むすめ葛洪かつこうの妻とした。

葛洪かつこう鮑玄ほうげん*3わざを伝えられ、また医術に広く精通した。彼の著作はどれもよく調べられ、才能にあふれていた。

脚注

*3晋書しんじょ葛洪伝かつこうでんより。晋書しんじょ鮑靚伝ほうせいでんには「鮑靚ほうせいあざな太玄たいげん徐州じょしゅう東海郡とうかいぐんの人なり。南海太守なんかいたいしゅとなり、仙人の陰君いんくんから『道教の奥義(道訣つどうけつ)』をさずかった」(一部抜粋)とある。葛洪かつこうとの関係はしるされていないが、維基百科#葛洪では鮑玄ほうげん鮑靚ほうせいとしている。

仕官

恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の太安たいあん年間(302年〜303年)中に石冰せきひょうが反乱を起こすと、呉興太守ごこうたいしゅ顧秘こひ義軍都督ぎぐんととくとして周玘しゅうきらと共にこれを討伐した。この時顧秘こひげきを発して葛洪かつこう将兵都尉しょうへいといとし、葛洪かつこうは別軍として石冰せきひょうを攻撃。これを破って伏波将軍ふくはしょうぐんに昇進した。

石冰せきひょうの反乱が平定されると葛洪かつこうは論功行賞を受けず、洛陽らくように行って異書*4を探し求め、学を広めることを希望した。

天下がすでに乱れていると見た葛洪かつこうは、南方に避難しようと広州刺史こうしゅうしし嵇含けいがんの軍事に参与し、恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の永興えいこう3年(306年)に嵇含けいがん郭勱かくばいに殺害された後も、長年南方にとどまっていた。

のちに郷里に帰り、礼をもって辟召まねかれてもみな応じなかったが、愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)の建興けんこう元年(313年)に司馬睿しばえい元帝げんてい)が丞相じょうしょうとなると、辟召まねかれてそのえん(属官)となり、ぞくを平定した功績によって関内侯かんだいこうの爵位をたまった。

成帝せいてい司馬衍しばえん)の咸和かんわ年間(326年〜334年)の初め、司徒しと王導おうどうされて州主簿しゅうしゅぼとなり、司徒しとえん(属官)に転じて諮議参軍しぎさんぐんうつった。

また、葛洪かつこうの才能を見込んだ親友の干宝かんぽうに、国史こくし散騎常侍さんきじょうじ大著作だいちょさく推薦すいせんされたが、固辞こじしてかなかった。

脚注

*4珍しい書。儒書じゅしょに対して道家どうかの書をいう。ここでは仙術など神秘的なことを書いた書物。

羅浮山に籠もる

年老いて以降、葛洪かつこうは不老長寿の練丹れんたん(仙薬)をつくってみたくなり、交阯こうしが(その材料の)たん硫化りゅうか水銀すいぎんこう辰砂しんしゃ)を産出すると聞いて、句漏令くろうれい*5となることを求めた。葛洪かつこうを高く評価していた成帝せいてい司馬衍しばえん)は許さなかったが、葛洪かつこう練丹れんたん(仙薬)づくりへの熱意に負けてこれを許した。

葛洪かつこうが息子やおいを連れて広州こうしゅうに至ると、広州刺史こうしゅうしし鄧岳とうがく葛洪かつこうが去ることを許さなかったので、葛洪かつこう広州こうしゅうとどまって羅浮山らふざんにおいて練丹れんたん(仙薬)づくりにはげんだ。

鄧岳とうがく葛洪かつこう東官太守とうかんたいしゅとするように上表したが、葛洪かつこうはまた辞退してかなかったので、鄧岳とうがく葛洪かつこうの兄の子・葛望かつぼう記室参軍きしつさんぐんとした。


葛洪かつこうは長年羅浮山らふざんもって、のんびりと静かに執筆活動を続けた。葛洪かつこうは自分が学んだ「神仙しんせんの術」をしるした内篇ないへん』『外篇がいへん合わせて116へんあらわし、みずか抱樸子ほうぼくしと命名した。*6

またその他、

  • 碑誄ひるい詩賦しふ:100巻
  • げきしょうひょう(公文書):30巻
  • 神仙伝しんせんでん』『良吏伝りょうりでん』『隠逸伝いんいつでん』『集異伝しゅういでん:各10巻
  • 五経ごきょう』『』『かん百家ひゃっかげん」「方技雑事ほうぎざつじ」のしょう抄録しょうろく):310巻
  • 金匱薬方きんひつやくほう:100巻
  • 肘後要急方ちゅうごようきゅうほう:4巻

あらわした。

葛洪かつこうは博学で、広く種々の学問に通じていた。その著作は班馬はんば*7に劣らず豊富で、その文章も絶妙にすぐれていた。(著述篇章富於班馬,又精辯玄賾,析理入微)

脚注

*5詳細不明。おそらく交州こうしゅう交阯郡こうしぐん内の県の県令けんれいと思われる。

*6維基百科#葛洪には「元帝げんてい建武けんぶ元年(317年)に抱樸子ほうぼくし内外篇ないがいへんを書き上げた」とある。

*7漢書かんじょあらわした班固はんこ史記しきあらわした司馬遷しばせんの併称。転じて史記しき漢書かんじょして言う。

葛洪の死

その後葛洪かつこうは、突然鄧岳とうがくに「遠くまでを探しに行きます。すぐに出発します*8」と手紙()を送り、その手紙()を受け取った鄧岳とうがく狼狽ろうばいして葛洪かつこうと別れた。

葛洪かつこうは日が高くのぼるまでし、じっと動かないまま、まるで眠っているかのように亡くなったが、ついに鄧岳とうがくはその姿を見ることはできなかった。

享年きょうねん81歳*9。その死に顔はまるで生きているかのようで、死後硬直もなく、遺体をひつぎに入れても空衣くうえのように軽く、世の人々は「葛洪かつこうは仙雲を得て尸解しかい*10したのだ」とうわさした。

脚注

*8原文:「當遠行尋師,克期便發」。遠行には「死ぬこと」の意味もある。

*9晋書しんじょ葛洪伝かつこうでんより。維基百科#葛洪には「西晋せいしん太康たいこう4年(283年)〜東晋とうしん建元けんげん元年(343年)没」とあり、これによると享年きょうねん61歳となる。

*10人が一旦死んだ後に生き返り、他の離れた土地で仙人になることを言う。このような仙人を「尸解仙しかいせん」と言い、尸解しかいには「死体を残して霊魂のみが抜け去るもの」と「死体が生き返ってひつぎから抜け出るもの」がある。前者の場合でも死体は腐敗ふはいせず、あたかも生きているがごとくであると言う。


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第4世代(葛望)

葛望かつぼう

生没年不詳。揚州ようしゅう丹陽郡たんようぐん句容県こうようけんの人。叔父おじ葛洪かつこう

叔父おじ葛洪かつこうと共に交州こうしゅう交阯郡こうしぐんに向かったが、その途上、広州刺史こうしゅうしし鄧岳とうがくに引き止められ、葛洪かつこうと共に広州こうしゅうとどまった。

鄧岳とうがく葛洪かつこう東官太守とうかんたいしゅとするように上表したが、葛洪かつこうは辞退してかなかったので、鄧岳とうがく葛洪かつこうの兄の子・葛望かつぼう記室参軍きしつさんぐんとした。


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