正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(55)河東郡霍氏②(霍光・霍禹)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河東郡霍氏②系図
河東郡霍氏②系図
この記事では河東郡霍氏②の人物、
についてまとめています。
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か(55)霍氏②
第1世代(霍仲孺)
第2世代(霍光)
霍光・子孟
生年不詳〜地節2年(紀元前68年)没。司隷・河東郡・平陽県の人。父は霍仲孺。子に霍禹。異母兄に霍去病。
出自
霍光の父・霍仲孺は、県の役人として平陽侯・曹寿*1の家に遣わされ、給事をつとめていたが、平陽侯・曹寿*1の侍女(僮)であった衛媼の次女・衛少児と私通して霍去病を生んだ。
その後役目を終えた霍仲孺は、妻を娶って霍光を生み、以降、霍去病とは音信不通となったが、その後票騎将軍となり霍仲孺と再会した霍去病は、当時10歳であった霍光を連れて長安に還った。*2
脚注
*1武帝の姉・陽信長公主の夫。
*2詳細はこちら → 霍仲孺。
幼い昭帝を補佐する
霍光は郎に任命され、諸曹を歴任して侍中となった。
霍去病の死後は光禄大夫となり、武帝の外出には車中で仕え、宮中では左右に侍り、20余年にわたって宮廷の小門を出入りした。小心で慎み深く、かつて過失を犯したことがなく、甚だ武帝に親しまれ信用された。
征和2年(紀元前91年)、衛太子(武帝の太子・劉拠)が江充の謀略によって自害に追い込まれ、その弟の燕王・劉旦と広陵王・劉胥はいずれも過失が多かった。
当時、武帝はすでに年老いていたが、寵姫の鉤弋(趙倢伃)*3に男児が生まれた。武帝は内心、これを世嗣ぎとして大臣に補佐させたいと思い、群臣の中で霍光だけがこの重大な任務に堪えられ、社稷を任せられる人物だと思っていた。そこで武帝は黄門の画工(絵師)に命じて「周公が成王を背負って諸侯を朝見する場面」の絵を描かせ、霍光に下賜した。
後元2年(紀元前87年)春、武帝は五柞宮において病気が重くなった。
霍光が涙を流して「もし万一のことがございました場合、一体誰を世嗣ぎとお考えでしょうか」と尋ねると、武帝は「君はまだ例の絵の意味を諭らないのか。末子を立てて、君には周公の役をつとめて欲しい」と言った。
霍光は額ずいて「臣は金日磾には及びません」と辞退したが、金日磾もまた「臣は外国人*4であり、霍光には及びません」と言った。
そこで武帝は、
- 霍光を大司馬大将軍
- 金日磾を車騎将軍
- 太僕の上官桀を左将軍
- 捜粟都尉の桑弘羊を御史大夫
に任命し、みな枕元で拝命して、幼主を補佐することとなった。
その翌日、武帝は崩御して太子が尊号を嗣いだ。これが孝昭皇帝(昭帝)である。昭帝は当時まだ8歳であったので、政事の一切は霍光によって決裁された。
脚注
*3鉤弋宮に住んでいたことから鉤弋と呼ばれた。倢伃(倢妤)は皇帝の側室の称号。
*4元匈奴の休屠王の太子であった。
武帝の遺詔
これより先、後元年間(紀元前88年〜紀元前87年)、侍中僕射の莽何羅が弟の重合侯・通と叛逆を謀った際、霍光と金日磾、上官桀らが共にこれを誅したが、未だ論功行賞が行われていなかった。
その後、病床に伏した武帝は、御璽を押した詔書を封じ「帝(武帝)が崩御した後に、これを開封してその通りにせよ」と言い遺し、この遺詔によって、
- 霍光は博陸侯
- 金日磾は秺侯
- 上官桀は安陽侯
に封ぜられたが、これらは前に謀叛した者を捕らえた功績により封ぜられたものである。
すると衛尉・王莽*5の子、侍中の王忽は、
「帝(武帝)が崩御なさるまで、忽は常に左右にいたが、3人を封ずる遺詔など下されていないっ!奴ら(群児)の自作自演である」
と言いふらしたが、これを聞き知った霍光が王莽を問い詰めると、王莽は王忽を酖毒で殺害した。
脚注
*5右将軍の王莽。字は稚叔。前漢を簒奪した王莽とは別人。
人柄
霍光の人となりは、落ち着いていて細かいところにまで行き届き(沈静詳審)、身の丈7尺3寸(約168.63cm)。色白で眉目秀麗、美しい髯(䫇)をたくわえていた。
霍光が殿門に出入りする時はいつも同じ場所で立ち止まったが、郎・僕射らが窺い見たところ、その場所に寸分の狂いもなく、彼の細かさは正にこのようであった。
初めて幼主(昭帝)を補佐して政令を出した時、天下の人々は霍光の風采を噂し合った。
ある時、殿中で奇怪なことが起こり、群臣はみな一晩中驚き騒いでいた。
この時霍光は、尚符璽郎を召して御璽を渡すように言ったが、尚符璽郎は承知しなかった。そこで霍光が奪い取ろうとすると、尚符璽郎は剣に手を掛け「臣の頭を得ることはできても、御璽を得ることはできぬっ!」と言った。
すると霍光はこれを大いに褒め称え、次の日、詔を下してこの尚符璽郎の秩禄を二等級加増した。このことで霍光を褒めない者はいなかった。
上官桀父子との対立
霍光の長女が左将軍・上官桀の子・上官安の妻となって女子を生んでいたが、ちょうど昭帝と似合いの年頃だった。そこで上官桀は、昭帝の姉・鄂邑蓋主の取りなしでその子を後宮に入れて倢伃(倢妤)*3とすると、数ヶ月で皇后に立てられ、皇后の父・上官安は票騎将軍となって桑楽侯に封ぜられた。
その後、霍光が休暇を取って宮中を退出すると、霍光に代わってすぐに上官桀が入り、政務を決裁した。
こうして上官桀父子は尊貴盛大となり、長公主(鄂邑蓋主)に恩義を感じていたが、長公主(鄂邑蓋主)は身持ちが悪く、この頃は冀州・河間郡の丁外人を寵愛していた。
そこで上官桀父子は、丁外人のために爵位を求め、国家の慣例により列侯に封じて長公主(鄂邑蓋主)を妻に迎えさせようと望んだが、霍光は許さなかった。
また上官桀父子は、丁外人のために光禄大夫の官位を求め、昭帝の召見を得られるように望んだが、霍光はこれも許さなかったので、長公主(鄂邑蓋主)は大いに霍光を怨み、また上官桀父子もこれを恥じた。
上官桀は先帝(武帝)の時からすでに九卿に列なり、位は霍光の上位であった上に、今は父子共々将軍となり、さらに椒房殿・中宮の威光*6が加わっていた。また、上官安は皇后の父であり、霍光はその外祖父に過ぎないのに、霍光が朝廷を専制していることから、上官桀父子と霍光は権力を争うようになった。
脚注
*3倢伃(倢妤)は皇帝の側室の称号。
*6椒房殿・中宮は共に皇后の居所。椒房殿・中宮の威光=皇后の威光。
反霍光勢力の団結
霍光が讒言される
昭帝の兄、燕王・劉旦は、自分が帝位につけなかったために常に怨みを懐いており、また御史大夫の桑弘羊は酒と塩・鉄の専売制度を確立した功績を誇って、子弟のために官を得ようとしたが果たせず、やはり霍光を怨んだ。
そこで鄂邑蓋主、上官桀、上官安、桑弘羊らはみな燕王・劉旦と陰謀を通じ、霍光が休暇を取って宮中を退出した日を見計らい、燕王の名を偽って、
「霍光は郊外に出て郎・羽林の軍事訓練を行った際、䟆(天子が行幸する際に通行人や車の往来を止めること)を行い、太官は真っ先に霍光に飲食を提供しました。また以前、匈奴に使いした蘇武は20年間拘留されても降らなかったのに、帰国後はただ典属国*7に任命されただけであったにもかかわらず、大将軍長史の楊敞は何の功績もないのに捜粟都尉とし、また勝手に大将軍府の校尉の定員を増しています。霍光の専権・自恣(自分の思うがままに行動すること)は目に余るものがあり「非常のこと」を起こすのではないかと疑われます。臣旦は燕王の符璽を返上して宿衛に入り、姦臣の異変を監視したいと願います」
と上奏した。
上官桀は宮中においてこの件を役人に下げ渡すよう取り計らおうとし、桑弘羊は諸大臣と共に休暇退出中の霍光を捕らえようとしたが、昭帝は承知しなかった。
翌朝、このことを聞いた霍光は、昭帝の御殿の前にある西閣の画室に留まって、御殿に参内しなかった。
昭帝が「大将軍(霍光)はどこにおるのか」と問うと、左将軍・上官桀は「燕王(劉旦)に自分の罪を告発されたので、敢えて参内しようとしないのです」と答えた。
その後、昭帝は詔をもって大将軍(霍光)を召した。
霍光が参内し、冠を脱ぎ頭を地面に擦りつけて謝罪すると、昭帝は「将軍(霍光)よ、冠を着けよ。朕(私)はこの上書が偽りであることを知っている。将軍(霍光)に罪はない」と言った。
これに霍光が「陛下にはどうしてそれがお分かりになられたのでしょうか」と問うと、昭帝は「将軍(霍光)は広明亭に行って郎の属を演習させたに過ぎない。また校尉を選考してからまだ10日にもならないのに、燕王(劉旦)はどうしてそれを知ることができるだろうか。それに、将軍(霍光)が謀叛をしようとする場合、1、2人の校尉に頼るはずがない」と答えた。
当時、昭帝はまだ14歳であったので、尚書や左右の者たちはこの立派な返答にみな驚いた。
霍光を讒言する上書をした者たちは逃亡し、早急に捕り手が派遣された。上官桀らは懼れて「そこまでする必要はありません」と申し上げたが、昭帝は聴き入れなかった。
脚注
*7夷狄の投降者を司る官。官秩:二千石。
霍光暗殺計画
その後また、上官桀の一味で霍光を讒言した者があった。
昭帝は怒って「大将軍(霍光)は忠臣であり、先帝(武帝)から朕(私)の身を補佐するように託された方である。敢えて毀ろうとする者があればこれを罪に落とそう」と言った。
これ以降、上官桀らは再び讒言しようとせず、謀を巡らして「長公主(鄂邑蓋主)に宴会を催させて霍光を招待し、あらかじめ兵を伏せて彼を打ち殺し、その機会に昭帝を廃して燕王(劉旦)を迎えて天子に立てようとした」が、事が未然に発覚し、霍光は上官桀・上官安・桑弘羊・丁外人らをことごとく誅殺し、宗族の燕王・劉旦と鄂邑蓋主は自殺した。
こうして霍光の威光は海内(天下)に震い、昭帝の元服後も霍光に委任すること13年に及び、民の生活は充実し、四方の夷は貢物を入れて服従した。
宣帝の即位
元平元年(紀元前74年)、昭帝が崩御したが嗣子(後継ぎ)がなく、群臣はただ1人残った武帝の皇子、広陵王・劉胥を立てることを支持した。
霍光は、劉胥の品行が道に外れていたため、武帝の孫の昌邑王・劉賀を即位させたが、長安に来て即位して以降、昌邑王(劉賀)には淫乱な行いがあった。霍光は憂悶して、ただ1人、故吏*8の大司農・田延年に相談し、昌邑王(劉賀)を廃位させることにした。
そこで霍光は群臣と共に太后に謁見し、太后の詔をもって昌邑王(劉賀)を廃位し、皇曾孫と号して民間にいる「衛太子(武帝の太子・劉拠)の孫」を即位させた。これが孝宣皇帝(宣帝)である。
翌年、
「そもそも有徳を褒め、元勲を賞めるのは古今に通ずる道理である。大司馬大将軍光(霍光)は宮中に宿営すること忠正で、徳を宣べ恩を明らかにし、節を守り義を執って宗廟を安んじた。河北・東武陽の2県をもって光(霍光)に17,000戸を増し封ずる」
と詔が下され、霍光の封邑は合計2万戸となった。
また前後にわたって黄金7千斤、銭6千万、雑繒(敷物)3万匹、奴婢170人、馬2千頭、第1等の邸宅1区を賞賜され、霍光の一族・親戚はみな朝廷の要職に取り立てられた。
武帝の後元年間(紀元前88年〜紀元前87年)以来、霍光は政務全般を取り仕切っていた。
宣帝が即位するに及び、霍光はすぐに政務を奉還(返還)しようとしたが、宣帝は謙遜して受けず、諸事すべて霍光が先に見た上で宣帝に申し上げた。*9
霍光が朝見する度に、宣帝は萎縮して謙り、過剰なほどに礼儀正しく接していた。
脚注
*8かつて辟召を受けて(抜擢されて)上司と部下の関係になった者のこと。上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。
*9原文:上謙讓不受,諸事皆先関白光,然後奏御天子。
霍光の遺言
霍光が政務を執ること前後20年、地節2年(紀元前68年)春、霍光の病気が悪化すると、宣帝は自ら見舞い、霍光のために涙を流した。
霍光は上書して宣帝の恩に感謝し、
「願わくは私の国邑のうち3千戸を分けて、兄(霍去病)の孫・奉車都尉・霍山を封じて列侯とし、兄・票騎将軍・霍去病の祭祀を承け継がせてくださいますように」
と言った。この事は丞相・御史に下げ渡され、即日霍光の子・霍禹は右将軍を拝命した。
死後、宣成侯と謚された。
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第3世代(霍禹)
霍禹
生年不詳〜前漢の地節4年(紀元前66年)7月没。司隷・河東郡・平陽県の人。父は霍光。
霍氏の栄華
前漢・昭帝の時代から、霍光の兄・霍去病の孫、霍雲と共に中郎将となり、霍雲の弟・霍山は奉車都尉・侍中となって、胡・越の兵を領した。
宣帝の地節2年(紀元前68年)春、霍光の病気が悪化すると、霍光の上書に従って即日右将軍を拝命し、霍光が亡くなると、
「霍光の功徳の盛大なことを称えてその子孫の租税・夫役を免除し、その爵位・封邑を元の通りとし、世々これを怠ることなく、その功を蕭相国(蕭何)の如く見なせ」
と詔が下され、霍禹は父・霍光の後を継いで博陸侯に封ぜられた。
その後、霍光の夫人・顕*10は、霍光の墓を豪華に増築して奢侈淫佚な生活に耽り、霍禹や霍山は邸宅を立派にし、馬を走らせて平楽館の辺りを馳せ巡った。
脚注
*10原文:大夫人顯(顕)。太夫人とも。
宣帝の親政
宣帝は民間にいた頃から、霍氏が久しく尊盛(位が高く勢いが盛んなこと)なことを聞き知っており、内心そのことを善く思っていなかった。そこで霍光が亡くなると、宣帝は初めて親政を行い、御史大夫の魏相が給事中(顧問)を兼ねた。
霍光夫人・顕の罪
宣帝が即位した当初、微賤であった頃に娶った許妃を皇后に立てたが、霍光の夫人・顕は、秘かに産婆の淳于衍を使い、許妃に毒薬を盛って殺害すると、霍光に勧めて末娘の霍成君を宮中に入れ、許后に代えて皇后に立てた。
霍光の死後、そのことが宣帝に漏れ伝わったが、もはや確証を得ることはできなかった。そこで宣帝は、徐々に霍氏とその婿を要職から外していった。
追い詰められる霍氏
宣帝は霍禹を大司馬としたが、本来武弁大冠を用いるところを小冠とし、印綬を佩びさせず、右将軍の官を罷免してその兵権を取り上げると、胡騎・越騎・羽林、東西両宮の衛将・屯兵は、信頼できる許氏と史氏の子弟に管領させた。
霍光夫人の顕、霍禹、霍山、霍雲は、日々立場が侵害されて行く様を目の当たりにして、しばしば向き合って泣き、自分たちの運命を怨んだ。
4人で話す中で、顕から「自分が許妃を殺害したこと」を聞いた霍禹、霍山、霍雲は、
「そういう事情であったなら、どうして早く私たちに打ち明けてくださらなかったのですか。天子が婿たちを離散させたのは、それが理由です。これは一大事、誅罰は小さくありません。どうすれば良いでしょう」
と言った。彼らの邪謀はここに始まった。
廃位の陰謀
これより以前、霍光の次女の婿・趙平の食客・石夏は得意な占星術によって「霍山らに危機が迫っていること」を告げた。
また霍雲の舅・李竟と仲の良い張赦が、霍雲の家の慌ただしい様子を見て、李竟に、
「今、丞相の魏相と平恩侯・許広漢が政務を執っているが、太夫人(霍光の夫人・顕)から太后(上官太后・昭帝の皇后・顕の孫娘)に『この両人を殺す』よう言わせるべきです。その上で陛下を移すことができるのは、太后だけです」
と言った。
これが長安の男子・張章の密告により廷尉に下げ渡され、執金吾が張赦・石夏らを捕らえたが、しばらくして釈放するように詔が下った。
霍山らはいよいよ恐れ、
「これは天子が太后のために遠慮したために追究しなかったのであって、悪事の端緒がすでに露見し、また許后を弒した件もある。いかに陛下が心が広く情け深いと言っても、おそらく左右の者は承知せず、やがて発くに違いなく、発けば直ちに族滅されるだろう。先手を打つに越したことはない」
と話し合い、ついに女たちをそれぞれ夫の元に帰して報告させたが、彼らもみな「どうにも禍は避けようがない」と言った。
たまたま霍雲の舅・李竟が「諸侯王と交わり結託している」という罪に坐したが、その自白の中で霍氏のことに触れたため、詔が下って霍雲と霍山を宮中に宿衛させてはならないとし、職を免じて邸宅で謹慎させた。
宣帝はまた併せて、
- 霍光の女たちは太后(上官太后)の叔母であることをから太后に対し無礼であったこと。
- 馮子都(霍光の夫人・顕の愛人)がしばしば法を犯したこと。
などを責めたので、霍山・霍禹らは甚だ恐れ、顕・霍禹らは不吉な夢にうなされ、霍氏の一家は悩み悲しみ憂えた。
霍山は「丞相は、宗廟に供えるための羔・菟・鼃を勝手に減らしたから、このことで罪に陥れることができるだろう」と言い、
太后(上官太后)に宣帝の母方の祖母・博平君のために酒宴を設けさせて丞相・平恩侯以下を招き、霍光の女婿・范明友と霍光の長女の婿・鄧広漢には太后の制を承けさせて丞相らを斬らせ、その上で宣帝を廃して霍禹を立てようと謀った。
計画がまだ実行に移される前に霍雲が玄菟太守に任命され、太中大夫・任宣*11は代郡太守となった。
また、霍山がまた機密文書を写し取った罪に坐したため、霍光の夫人・顕が上書して城西の邸宅を献上し、馬千頭を納めて霍山の罪を贖おうとしたが、「上書が上申された」とだけ返答があった。
たまたま陰謀が発覚して、霍雲・霍山・范明友は自殺し、顕・霍禹・鄧広漢らは捕らえられた。
霍禹は腰斬の刑に処され、顕と霍光の女・兄弟たちはみな棄市(晒し首)となり、ただ霍后(霍成君)だけは廃されるだけに留まって昭台宮に居住した。
霍氏に連座して誅滅された家は千戸を数えた。
脚注
*11霍禹の故吏。故吏とは、かつて辟召を受けて(抜擢されて)上司と部下の関係になった者のこと。上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。
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