正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(55)河東郡かとうぐん霍氏かくし②(霍光かくこう霍禹かくう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東郡霍氏②系図

河東郡霍氏②系図

河東郡かとうぐん霍氏かくし②系図


この記事では河東郡かとうぐん霍氏かくし②の人物、

についてまとめています。

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か(55)霍氏②

第1世代(霍仲孺)

第2世代(霍光)

霍光かくこう子孟しもう

生年不詳〜地節ちせつ2年(紀元前68年)没。司隷しれい河東郡かとうぐん平陽県へいようけんの人。父は霍仲孺かくちゅうじゅ。子に霍禹かくう。異母兄に霍去病かくきょへい

出自

霍光かくこうの父・霍仲孺かくちゅうじゅは、県の役人として平陽侯へいようこう曹寿そうじゅ*1の家につかわされ、給事きゅうじをつとめていたが、平陽侯へいようこう曹寿そうじゅ*1侍女じじょどう)であった衛媼えいおうの次女・衛少児えいしょうじと私通して霍去病かくきょへいを生んだ。

その後役目を終えた霍仲孺かくちゅうじゅは、妻をめとって霍光かくこうを生み、以降、霍去病かくきょへいとは音信不通となったが、その後票騎将軍ひょうきしょうぐんとなり霍仲孺かくちゅうじゅと再会した霍去病かくきょへいは、当時10歳であった霍光かくこうを連れて長安ちょうあんかえった。*2

脚注

*1武帝ぶていの姉・陽信長公主ようしんちょうこうしゅの夫。

*2詳細はこちら → 霍仲孺かくちゅうじゅ

幼い昭帝を補佐する

霍光かくこうろうに任命され、諸曹しょそうを歴任して侍中じちゅうとなった。

霍去病かくきょへいの死後は光禄大夫こうろくたいふとなり、武帝ぶていの外出には車中で仕え、宮中では左右にはべり、20余年にわたって宮廷の小門を出入りした。小心でつつしみ深く、かつて過失をおかしたことがなく、はなは武帝ぶていに親しまれ信用された。

征和せいわ2年(紀元前91年)、衛太子えいたいし武帝ぶてい太子たいし劉拠りゅうきょ)が江充こうじゅう謀略ぼうりゃくによって自害に追い込まれ、その弟の燕王えんおう劉旦りゅうたん広陵王こうりょうおう劉胥りゅうしょはいずれも過失が多かった。

当時、武帝ぶていはすでに年老いていたが、寵姫ちょうき鉤弋こうよく趙倢伃ちょうしょうよ*3に男児が生まれた。武帝ぶていは内心、これを世嗣よつぎとして大臣に補佐させたいと思い、群臣の中で霍光かくこうだけがこの重大な任務にえられ、社稷しゃしょくを任せられる人物だと思っていた。そこで武帝ぶてい黄門こうもん画工がこう(絵師)に命じて「周公しゅうこう成王せいおうを背負って諸侯しょこうを朝見する場面」の絵を描かせ、霍光かくこう下賜かしした。


後元こうげん2年(紀元前87年)春、武帝ぶてい五柞宮ごさくきゅうにおいて病気が重くなった。

霍光かくこうが涙を流して「もし万一のことがございました場合、一体誰を世嗣よつぎとお考えでしょうか」とたずねると、武帝ぶていは「君はまだ例の絵の意味をさとらないのか。末子を立てて、君には周公しゅうこうの役をつとめて欲しい」と言った。

霍光かくこうぬかずいて「わたくし金日磾きんびつていには及びません」と辞退したが、金日磾きんびつていもまた「わたくしは外国人*4であり、霍光かくこうには及びません」と言った。

そこで武帝ぶていは、

  • 霍光かくこう大司馬だいしば大将軍だいしょうぐん
  • 金日磾きんびつてい車騎将軍しゃきしょうぐん
  • 太僕たいぼく上官桀じょうかんけつ左将軍さしょうぐん
  • 捜粟都尉そうぞくとい桑弘羊そうこうよう御史大夫ぎょしたいふ

に任命し、みな枕元で拝命して、幼主を補佐することとなった。

その翌日、武帝ぶてい崩御ほうぎょして太子たいしが尊号をいだ。これが孝昭皇帝こうしょうこうてい昭帝しょうてい)である。昭帝しょうていは当時まだ8歳であったので、政事まつりごとの一切は霍光かくこうによって決裁された。

脚注

*3鉤弋宮こうよくきゅうに住んでいたことから鉤弋こうよくと呼ばれた。倢伃しょうよ倢妤しょうよ)は皇帝の側室の称号。

*4匈奴きょうど休屠王きゅうとおう太子たいしであった。

武帝の遺詔

これより先、後元こうげん年間(紀元前88年〜紀元前87年)、侍中僕射じちゅうぼくや莽何羅もうからが弟の重合侯じゅうごうこうつう叛逆はんぎゃくはかった際、霍光かくこう金日磾きんびつてい上官桀じょうかんけつらが共にこれをちゅうしたが、いまだ論功行賞が行われていなかった。

その後、病床びょうしょうした武帝ぶていは、御璽ぎょじを押した詔書しょうしょを封じ「みかど武帝ぶてい)が崩御ほうぎょした後に、これを開封してその通りにせよ」と言いのこし、この遺詔いしょうによって、

  • 霍光かくこう博陸侯はくりょうこう
  • 金日磾きんびつてい秺侯とこう
  • 上官桀じょうかんけつ安陽侯あんようこう

に封ぜられたが、これらはさき謀叛むほんした者を捕らえた功績により封ぜられたものである。

すると衛尉えいい王莽おうもう*5の子、侍中じちゅう王忽おうこつは、

みかど武帝ぶてい)が崩御ほうぎょなさるまで、わたくしは常に左右にいたが、3人を封ずる遺詔いしょうなど下されていないっ!奴ら(群児)の自作自演である」

と言いふらしたが、これを聞き知った霍光かくこう王莽おうもうを問いめると、王莽おうもう王忽おうこつ酖毒ちんどくで殺害した。

脚注

*5右将軍ゆうしょうぐん王莽おうもうあざな稚叔ちしゅく前漢ぜんかん簒奪さんだつした王莽おうもうとは別人。

人柄

霍光かくこうの人となりは、落ち着いていて細かいところにまで行き届き(沈静詳審)、身のたけ7尺3寸(約168.63cm)。色白で眉目秀麗びもくしゅうれい、美しいほおひげぜん)をたくわえていた。

霍光かくこうが殿門に出入りする時はいつも同じ場所で立ち止まったが、ろう僕射ぼくやらがうかがい見たところ、その場所に寸分の狂いもなく、彼のこまかさは正にこのようであった。


初めて幼主(昭帝しょうてい)を補佐して政令を出した時、天下の人々は霍光かくこう風采ふうさいうわさし合った。


ある時、殿中で奇怪なことが起こり、群臣はみな一晩中驚きさわいでいた。

この時霍光かくこうは、尚符璽郎しょうふじろうして御璽ぎょじを渡すように言ったが、尚符璽郎しょうふじろうは承知しなかった。そこで霍光かくこうが奪い取ろうとすると、尚符璽郎しょうふじろうは剣に手を掛け「わたくしくびを得ることはできても、御璽ぎょじを得ることはできぬっ!」と言った。

すると霍光かくこうはこれを大いにたたえ、次の日、みことのりを下してこの尚符璽郎しょうふじろう秩禄ちつろくを二等級加増した。このことで霍光かくこうめない者はいなかった。

上官桀父子との対立

霍光かくこうの長女が左将軍さしょうぐん上官桀じょうかんけつの子・上官安じょうかんあんの妻となって女子を生んでいたが、ちょうど昭帝しょうていと似合いの年頃だった。そこで上官桀じょうかんけつは、昭帝しょうていの姉・鄂邑蓋主がくゆうこうしゅの取りなしでその子を後宮に入れて倢伃しょうよ倢妤しょうよ*3とすると、数ヶ月で皇后こうごうに立てられ、皇后こうごうの父・上官安じょうかんあん票騎将軍ひょうきしょうぐんとなって桑楽侯そうらくこうに封ぜられた。

その後、霍光かくこうが休暇を取って宮中を退出すると、霍光かくこうに代わってすぐに上官桀じょうかんけつが入り、政務を決裁した。

こうして上官桀じょうかんけつ父子は尊貴盛大となり、長公主ちょうこうしゅ鄂邑蓋主がくゆうこうしゅ)に恩義を感じていたが、長公主ちょうこうしゅ鄂邑蓋主がくゆうこうしゅ)は身持ちが悪く、この頃は冀州きしゅう河間郡かかんぐん丁外人ていがいじん寵愛ちょうあいしていた。

そこで上官桀じょうかんけつ父子は、丁外人ていがいじんのために爵位を求め、国家の慣例により列侯れっこうに封じて長公主ちょうこうしゅ鄂邑蓋主がくゆうこうしゅ)を妻に迎えさせようと望んだが、霍光かくこうは許さなかった。

また上官桀じょうかんけつ父子は、丁外人ていがいじんのために光禄大夫こうろくたいふの官位を求め、昭帝しょうてい召見しょうけんを得られるように望んだが、霍光かくこうはこれも許さなかったので、長公主ちょうこうしゅ鄂邑蓋主がくゆうこうしゅ)は大いに霍光かくこううらみ、また上官桀じょうかんけつ父子もこれを恥じた。

上官桀じょうかんけつは先帝(武帝ぶてい)の時からすでに九卿きゅうけいつらなり、位は霍光かくこうの上位であった上に、今は父子共々将軍しょうぐんとなり、さらに椒房殿しょうぼうでん中宮ちゅうぐうの威光*6が加わっていた。また、上官安じょうかんあん皇后こうごうの父であり、霍光かくこうはその外祖父に過ぎないのに、霍光かくこうが朝廷を専制していることから、上官桀じょうかんけつ父子と霍光かくこうは権力を争うようになった。

脚注

*3倢伃しょうよ倢妤しょうよ)は皇帝の側室の称号。

*6椒房殿しょうぼうでん中宮ちゅうぐうは共に皇后こうごうの居所。椒房殿しょうぼうでん中宮ちゅうぐうの威光=皇后こうごうの威光。

反霍光勢力の団結
霍光かくこう讒言ざんげんされる

昭帝しょうていの兄、燕王えんおう劉旦りゅうたんは、自分が帝位につけなかったために常にうらみをいだいており、また御史大夫ぎょしたいふ桑弘羊そうこうようは酒と塩・鉄の専売制度を確立した功績をほこって、子弟のために官を得ようとしたが果たせず、やはり霍光かくこううらんだ。

そこで鄂邑蓋主がくゆうこうしゅ上官桀じょうかんけつ上官安じょうかんあん桑弘羊そうこうようらはみな燕王えんおう劉旦りゅうたんと陰謀を通じ、霍光かくこうが休暇を取って宮中を退出した日を見計みはからい、燕王えんおうの名をいつわって、

霍光かくこうは郊外に出てろう羽林うりんの軍事訓練を行った際、ひつ天子てんし行幸ぎょうこうする際に通行人や車の往来を止めること)を行い、太官たいかんは真っ先に霍光かくこうに飲食を提供しました。また以前、匈奴きょうどに使いした蘇武そぶは20年間拘留こうりゅうされてもくだらなかったのに、帰国後はただ典属国てんぞっこく*7に任命されただけであったにもかかわらず、大将軍だいしょうぐん長史ちょうし楊敞ようしょうは何の功績もないのに捜粟都尉そうぞくといとし、また勝手に大将軍府だいしょうぐんふ校尉こういの定員を増しています。霍光かくこうの専権・自恣じし(自分の思うがままに行動すること)は目に余るものがあり「非常のこと」を起こすのではないかと疑われます。しんたん燕王えんおう符璽ふじを返上して宿衛に入り、姦臣の異変を監視したいと願います」

と上奏した。

上官桀じょうかんけつは宮中においてこの件を役人に下げ渡すよう取りはからおうとし、桑弘羊そうこうようは諸大臣と共に休暇退出中の霍光かくこうを捕らえようとしたが、昭帝しょうていは承知しなかった。


翌朝、このことを聞いた霍光かくこうは、昭帝しょうていの御殿の前にある西閣せいかく画室がしつとどまって、御殿に参内しなかった。

昭帝しょうていが「大将軍だいしょうぐん霍光かくこう)はどこにおるのか」と問うと、左将軍さしょうぐん上官桀じょうかんけつは「燕王えんおう劉旦りゅうたん)に自分の罪を告発されたので、えて参内しようとしないのです」と答えた。


その後、昭帝しょうていみことのりをもって大将軍だいしょうぐん霍光かくこう)をした。

霍光かくこうが参内し、かんむりを脱ぎ頭を地面にこすりつけて謝罪すると、昭帝しょうていは「将軍しょうぐん霍光かくこう)よ、かんむりを着けよ。ちん(私)はこの上書がいつわりであることを知っている。将軍しょうぐん霍光かくこう)に罪はない」と言った。

これに霍光かくこうが「陛下にはどうしてそれがお分かりになられたのでしょうか」と問うと、昭帝しょうていは「将軍しょうぐん霍光かくこう)は広明亭こうめいていに行ってろうやからを演習させたに過ぎない。また校尉こういを選考してからまだ10日にもならないのに、燕王えんおう劉旦りゅうたん)はどうしてそれを知ることができるだろうか。それに、将軍しょうぐん霍光かくこう)が謀叛むほんをしようとする場合、1、2人の校尉こういに頼るはずがない」と答えた。

当時、昭帝しょうていはまだ14歳であったので、尚書しょうしょや左右の者たちはこの立派な返答にみな驚いた。

霍光かくこう讒言ざんげんする上書をした者たちは逃亡し、早急にり手が派遣された。上官桀じょうかんけつらはおそれて「そこまでする必要はありません」と申し上げたが、昭帝しょうていは聴き入れなかった。

脚注

*7夷狄いてきの投降者をつかさどる官。官秩かんちつ二千石にせんせき

霍光かくこう暗殺計画

その後また、上官桀じょうかんけつの一味で霍光かくこう讒言ざんげんした者があった。

昭帝しょうていは怒って「大将軍だいしょうぐん霍光かくこう)は忠臣であり、先帝(武帝ぶてい)からちん(私)の身を補佐するようにたくされた方である。えてそしろうとする者があればこれを罪に落とそう」と言った。

これ以降、上官桀じょうかんけつらは再び讒言ざんげんしようとせず、はかりごとめぐらして「長公主ちょうこうしゅ鄂邑蓋主がくゆうこうしゅ)に宴会をもよおさせて霍光かくこうを招待し、あらかじめ兵を伏せて彼を打ち殺し、その機会に昭帝しょうていを廃して燕王えんおう劉旦りゅうたん)を迎えて天子てんしに立てようとした」が、事が未然に発覚し、霍光かくこう上官桀じょうかんけつ上官安じょうかんあん桑弘羊そうこうよう丁外人ていがいじんらをことごとく誅殺ちゅうさつし、宗族の燕王えんおう劉旦りゅうたん鄂邑蓋主がくゆうこうしゅは自殺した。


こうして霍光かくこうの威光は海内かいだい(天下)にふるい、昭帝しょうていの元服後も霍光かくこうに委任すること13年に及び、民の生活は充実し、四方のえびすは貢物を入れて服従した。

宣帝の即位

元平げんぺい元年(紀元前74年)、昭帝しょうてい崩御ほうぎょしたが嗣子しし(後継ぎ)がなく、群臣はただ1人残った武帝ぶてい皇子おうじ広陵王こうりょうおう劉胥りゅうしょを立てることを支持した。

霍光かくこうは、劉胥りゅうしょの品行が道に外れていたため、武帝ぶていの孫の昌邑王しょうゆうおう劉賀りゅうがを即位させたが、長安ちょうあんに来て即位して以降、昌邑王しょうゆうおう劉賀りゅうが)には淫乱いんらんな行いがあった。霍光かくこう憂悶ゆうもんして、ただ1人、故吏こり*8大司農だいしのう田延年でんえんねんに相談し、昌邑王しょうゆうおう劉賀りゅうが)を廃位させることにした。

そこで霍光かくこうは群臣と共に太后たいこう謁見えっけんし、太后たいこうみことのりをもって昌邑王しょうゆうおう劉賀りゅうが)を廃位し、皇曾孫こうそうそんと号して民間にいる「衛太子えいたいし武帝ぶてい太子たいし劉拠りゅうきょ)の孫」を即位させた。これが孝宣皇帝こうせんこうてい宣帝せんてい)である。

翌年、

「そもそも有徳をめ、元勲げんくんめるのは古今ここんに通ずる道理である。大司馬だいしば大将軍だいしょうぐんこう霍光かくこう)は宮中に宿営すること忠正で、徳をべ恩を明らかにし、節を守り義をって宗廟そうびょうやすんじた。河北かほく東武陽とうぶようの2県をもってこう霍光かくこう)に17,000戸を増し封ずる」

みことのりが下され、霍光かくこう封邑ほうゆうは合計2万戸となった。

また前後にわたって黄金7千きん、銭6千万、雑繒ざっそう(敷物)3万ひき奴婢どひ170人、馬2千頭、第1等の邸宅1区を賞賜しょうしされ、霍光かくこうの一族・親戚はみな朝廷の要職に取り立てられた。


武帝ぶてい後元こうげん年間(紀元前88年〜紀元前87年)以来、霍光かくこうは政務全般を取り仕切っていた。

宣帝せんていが即位するに及び、霍光かくこうはすぐに政務を奉還(返還)しようとしたが、宣帝せんてい謙遜けんそんして受けず、諸事すべて霍光かくこうが先に見た上で宣帝せんていに申し上げた。*9

霍光かくこうが朝見するたびに、宣帝せんてい萎縮いしゅくしてへりくだり、過剰なほどに礼儀正しく接していた。

脚注

*8かつて辟召へきしょうを受けて(抜擢ばってきされて)上司と部下の関係になった者のこと。上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。

*9原文:上謙讓不受,諸事皆先関白光,然後奏御天子。

霍光の遺言

霍光かくこうが政務をること前後20年、地節ちせつ2年(紀元前68年)春、霍光かくこうの病気が悪化すると、宣帝せんていみずから見舞い、霍光かくこうのために涙を流した。

霍光かくこうは上書して宣帝せんていの恩に感謝し、

「願わくは私の国邑こくゆうのうち3千戸を分けて、兄(霍去病かくきょへい)の孫・奉車都尉ほうしゃとい霍山かくさんを封じて列侯れっこうとし、兄・票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへい祭祀さいしけ継がせてくださいますように」

と言った。この事は丞相じょうしょう御史ぎょしに下げ渡され、即日霍光かくこうの子・霍禹かくう右将軍ゆうしょうぐんを拝命した。

死後、宣成侯せんせいこうおくりなされた。


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第3世代(霍禹)

霍禹かくう

生年不詳〜前漢ぜんかん地節ちせつ4年(紀元前66年)7月没。司隷しれい河東郡かとうぐん平陽県へいようけんの人。父は霍光かくこう

霍氏の栄華

前漢ぜんかん昭帝しょうていの時代から、霍光かくこうの兄・霍去病かくきょへいの孫、霍雲かくうんと共に中郎将ちゅうろうしょうとなり、霍雲かくうんの弟・霍山かくさん奉車都尉ほうしゃとい侍中じちゅうとなって、えつの兵を領した。

宣帝せんてい地節ちせつ2年(紀元前68年)春、霍光かくこうの病気が悪化すると、霍光かくこうの上書に従って即日右将軍ゆうしょうぐんを拝命し、霍光かくこうが亡くなると、

霍光かくこうの功徳の盛大なことをたたえてその子孫の租税そぜい夫役ぶやくを免除し、その爵位しゃくい封邑ほうゆうを元の通りとし、世々これをおこたることなく、その功を蕭相国しょうしょうこく蕭何しょうか)のごとく見なせ」

みことのりが下され、霍禹かくうは父・霍光かくこうの後を継いで博陸侯はくりょうこうに封ぜられた。

その後、霍光かくこうの夫人・けん*10は、霍光かくこうの墓を豪華に増築して奢侈淫佚しゃしいんいつな生活にふけり、霍禹かくう霍山かくさんは邸宅を立派にし、馬を走らせて平楽館へいらくかんの辺りをめぐった。

脚注

*10原文:大夫人顯(顕)。太夫人とも。

宣帝の親政

宣帝せんていは民間にいた頃から、霍氏かくしが久しく尊盛そんせい(位が高く勢いが盛んなこと)なことを聞き知っており、内心そのことをく思っていなかった。そこで霍光かくこうが亡くなると、宣帝せんていは初めて親政しんせいを行い、御史大夫ぎょしたいふ魏相ぎしょう給事中きゅうじちゅう顧問こもん)を兼ねた。

霍光かくこう夫人・けんの罪

宣帝せんていが即位した当初、微賤びせんであった頃にめとった許妃きょき皇后こうごうに立てたが、霍光かくこうの夫人・けんは、秘かに産婆さんば淳于衍じゅんうえんを使い、許妃きょきに毒薬を盛って殺害すると、霍光かくこうに勧めて末娘の霍成君かくせいくんを宮中に入れ、許后きょこうに代えて皇后こうごうに立てた。

霍光かくこうの死後、そのことが宣帝せんていれ伝わったが、もはや確証を得ることはできなかった。そこで宣帝せんていは、徐々に霍氏かくしとその婿むこを要職から外していった。

追い詰められる霍氏かくし

宣帝せんてい霍禹かくう大司馬だいしばとしたが、本来武弁ぶべん大冠たいかんもちいるところを小冠しょうかんとし、印綬いんじゅびさせず、右将軍ゆうしょうぐんの官を罷免ひめんしてその兵権を取り上げると、胡騎こき越騎えっき羽林うりん、東西両宮の衛将えいしょう屯兵とんへいは、信頼できる許氏きょし史氏ししの子弟に管領させた。

霍光かくこう夫人のけん霍禹かくう霍山かくさん霍雲かくうんは、日々立場が侵害されて行くさまの当たりにして、しばしば向き合って泣き、自分たちの運命をうらんだ。

4人で話す中で、けんから「自分が許妃きょきを殺害したこと」を聞いた霍禹かくう霍山かくさん霍雲かくうんは、

「そういう事情であったなら、どうして早く私たちに打ち明けてくださらなかったのですか。天子てんし婿むこたちを離散させたのは、それが理由です。これは一大事、誅罰ちゅうばつは小さくありません。どうすれば良いでしょう」

と言った。彼らの邪謀じゃぼうはここに始まった。

廃位の陰謀

これより以前、霍光かくこうの次女の婿むこ趙平ちょうへい食客しょっかく石夏せきかは得意な占星術によって「霍山かくさんらに危機が迫っていること」を告げた。

また霍雲かくうんおじ李竟りきょうと仲の良い張赦ちょうしゃが、霍雲かくうんの家のあわただしい様子を見て、李竟りきょうに、

「今、丞相じょうしょう魏相ぎしょう平恩侯へいおんこう許広漢きょこうかんが政務をっているが、太夫人たいふじん霍光かくこうの夫人・けん)から太后たいこう上官太后じょうかんたいこう昭帝しょうてい皇后こうごうけんの孫娘)に『この両人を殺す』よう言わせるべきです。その上で陛下を移すことができるのは、太后たいこうだけです」

と言った。

これが長安ちょうあんの男子・張章ちょうしょうの密告により廷尉ていいに下げ渡され、執金吾しつきんご張赦ちょうしゃ石夏せきからを捕らえたが、しばらくして釈放するようにみことのりが下った。

霍山かくさんらはいよいよ恐れ、

「これは天子てんし太后たいこうのために遠慮したために追究しなかったのであって、悪事の端緒たんしょがすでに露見ろけんし、また許后きょこうしいした件もある。いかに陛下が心が広く情け深いと言っても、おそらく左右の者は承知せず、やがてあばくに違いなく、あばけばただちに族滅されるだろう。先手を打つに越したことはない」

と話し合い、ついにむすめたちをそれぞれ夫の元に帰して報告させたが、彼らもみな「どうにもわざわいは避けようがない」と言った。


たまたま霍雲かくうんおじ李竟りきょうが「諸侯王しょこうおうまじわり結託けったくしている」という罪にしたが、その自白の中で霍氏かくしのことに触れたため、みことのりが下って霍雲かくうん霍山かくさんを宮中に宿衛させてはならないとし、職を免じて邸宅で謹慎きんしんさせた。

宣帝せんていはまたあわせて、

  • 霍光かくこうむすめたちは太后たいこう上官太后じょうかんたいこう)の叔母おばであることをから太后たいこうに対し無礼であったこと。
  • 馮子都ふうしと霍光かくこうの夫人・けんの愛人)がしばしば法をおかしたこと。

などを責めたので、霍山かくさん霍禹かくうらははなはだ恐れ、けん霍禹かくうらは不吉な夢にうなされ、霍氏かくしの一家は悩み悲しみうれえた。


霍山かくさんは「丞相じょうしょうは、宗廟そうびょうそなえるためのこひつじうさぎあおがえるを勝手に減らしたから、このことで罪におとしいれることができるだろう」と言い、

太后たいこう上官太后じょうかんたいこう)に宣帝せんていの母方の祖母・博平君はくへいくんのために酒宴をもうけさせて丞相じょうしょう平恩侯へいおんこう以下をまねき、霍光かくこう女婿むすめむこ范明友はんめいゆう霍光かくこうの長女の婿むこ鄧広漢とうこうかんには太后たいこうみことのりけさせて丞相じょうしょうらを斬らせ、その上で宣帝せんていを廃して霍禹かくうを立てようとはかった。


計画がまだ実行に移される前に霍雲かくうん玄菟太守げんとたいしゅに任命され、太中大夫たいちゅうたいふ任宣じんせん*11代郡太守だいぐんたいしゅとなった。

また、霍山かくさんがまた機密文書を写し取った罪にしたため、霍光かくこうの夫人・けんが上書して城西の邸宅を献上し、馬千頭をおさめて霍山かくさんの罪をあがなおうとしたが、「上書が上申された」とだけ返答があった。


たまたま陰謀が発覚して、霍雲かくうん霍山かくさん范明友はんめいゆうは自殺し、けん霍禹かくう鄧広漢とうこうかんらは捕らえられた。

霍禹かくう腰斬ようざんの刑に処され、けん霍光かくこうむすめ・兄弟たちはみな棄市きしさらし首)となり、ただ霍后かくこう霍成君かくせいくん)だけは廃されるだけにとどまって昭台宮しょうだいきゅうに居住した。

霍氏かくしに連座して誅滅ちゅうめつされた家は千戸を数えた。

脚注

*11霍禹かくう故吏こり故吏こりとは、かつて辟召へきしょうを受けて(抜擢ばってきされて)上司と部下の関係になった者のこと。上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。


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