正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(54)河東郡かとうぐん霍氏かくし①[霍仲孺かくちゅうじゅ霍去病かくきょへい霍嬗かくぜん霍善かくぜん)・霍雲かくうん霍山かくさん]です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東郡霍氏①系図

河東郡霍氏①系図

河東郡かとうぐん霍氏かくし①系図


この記事では河東郡かとうぐん霍氏かくし①の人物、

についてまとめています。

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か(54)河東霍氏①

第1世代(霍仲孺)

霍仲孺かくちゅうじゅ

生没年不詳。司隷しれい河東郡かとうぐん平陽県へいようけんの人。子に霍去病かくきょへい霍光かくこう

霍仲孺かくちゅうじゅは県の役人として平陽侯へいようこう曹寿そうじゅ*1の家につかわされ、給事きゅうじをつとめていたが、平陽侯へいようこう曹寿そうじゅ*1侍女じじょどう)であった衛媼えいおうの次女・衛少児えいしょうじのち大将軍だいしょうぐん衛青えいせいの姉)と私通して霍去病かくきょへいを生んだ。

その後役目を終えて家に帰り、妻をめとって霍光かくこうが生まれたが、以降、霍去病かくきょへいとは音信不通となり、年月が過ぎていった。


その後、衛少児えいしょうじの妹・衛子夫えいしふ武帝ぶてい寵愛ちょうあいを得て皇后こうごうに立てられると、霍去病かくきょへい皇后こうごうの姉の子として恩寵おんちょうを受けた。

霍去病かくきょへいは壮年になって初めて自分の父が霍仲孺かくちゅうじゅであることを知ったが、いまだ本人に確認できずにいた。

票騎将軍ひょうきしょうぐんとなった霍去病かくきょへい匈奴きょうど征伐に出陣する途中、司隷しれい河東郡かとうぐんを通った時のこと。河東太守かとうたいしゅが郊外に出迎えて弩矢どやを背に先導し、平陽県へいようけんの宿舎に着くと、役人をつかわして霍仲孺かくちゅうじゅを迎えに行かせ、霍仲孺かくちゅうじゅは小走り*2に入って霍去病かくきょへい拝謁はいえつした。

霍去病かくきょへいは彼を迎え入れて一拝いっぱいし、そのままひざまずいて「去病わたくしはずっと後になるまで大人あなたの子であることを知りませんでした」と言うと、霍仲孺かくちゅうじゅ叩頭こうとうして「いぼれのわたくし将軍しょうぐん霍去病かくきょへい)にいのちたくすことができますことは、天の力によるものでしょう」と言った。

霍去病かくきょへい霍仲孺かくちゅうじゅのために多くの田宅や奴婢ぬひを買い与えて去り、匈奴きょうど征伐から帰還する際に再び平陽県へいようけんおとずれ、当時10歳であった霍光かくこうを連れて長安ちょうあんかえった。

脚注

*1武帝ぶていの姉・陽信長公主ようしんちょうこうしゅの夫。

*2原文:すう。貴人の前で小走りに歩く礼儀。


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第2世代(霍去病)

霍去病かくきょへい

建元けんげん元年(紀元前140年)〜元狩げんしゅ6年(紀元前117年)没。司隷しれい河東郡かとうぐん平陽県へいようけんの人。父は霍仲孺かくちゅうじゅ大将軍だいしょうぐん衛青えいせいの姉・少児しょうじ少兒しょうじ)の子。異母弟に霍光かくこう

出自

霍去病かくきょへいは父・霍仲孺かくちゅうじゅが、平陽侯へいようこう曹寿そうじゅの召使い(どう)であった衛媼えいおうの次女・少児しょうじと私通して生まれた。

少児しょうじの妹・衛子夫えいしふが宮中に入って武帝ぶてい寵愛ちょうあいを受け、男児を生んで皇后こうごうとなると、少児しょうじは改めて詹事せんじ陳掌ちんしょうの妻となり、霍去病かくきょへい皇后こうごうの姉の子として18歳で侍中じちゅうとなった。

匈奴征伐

前漢ぜんかん武帝ぶてい元朔げんさく6年(紀元前123年)、騎射にたくみなことから再度大将軍だいしょうぐん衛青えいせいに従って出陣し、衛青えいせいみことのりにより霍去病かくきょへい壮士そうしを与え、票姚校尉ひょうようこういに任命した。

霍去病かくきょへいは軽装で勇敢な8百騎をひきいてただちに大軍を離れ、数百里の遠方におもむいて戦い、斬首・捕虜にした敵の損害は味方のそれよりはるかに多かった。

この時霍去病かくきょへいは、敵兵2,028人を斬首・捕虜として敵の相国しょうこく当戸とうこを捕らえ、単于ぜんうの祖父・行藉若侯こうせきじゃくこうさんを斬り、単于ぜんうすえ叔父おじ羅姑比らこひを捕らえ、この功により冠軍侯かんぐんこうに封ぜられ、食邑しょくゆう2,500戸を与えられた。


前漢ぜんかん武帝ぶてい元狩げんしゅ2年(紀元前121年)、霍去病かくきょへい票騎将軍ひょうきしょうぐんとして1万騎をひきいて隴西郡ろうせいぐんから出陣し、軍功があった。

この時霍去病かくきょへい戎士じゅうしひきいて烏盭山うれいさんを越え、遫濮そくぼく匈奴きょうどの部落名)を討ち、輜重人しちょうにんに臆病者をもちいずに狐奴水こどすいを渡り五王国ごおうこくたが、しくも単于ぜんうの子を取り逃がした。

6日にわたって転戦し、焉支山えんしさんを過ぎて進むこと千余里、白刃はくじんまじえて皋蘭山こうらんさん下に敵を皆殺しにし、折蘭王せつらんおうを殺し、盧侯王ろこうおうを斬り、鋭悍えいかんな者を誅殺ちゅうさつし、全軍1兵も失わずに敵の衆を捕らえ、渾邪王こんやおうの子及び相国しょうこく都尉といを捕らえ、敵を斬首・捕虜とすること8,960級、休屠王きゅうとおうが天を祭る金人きんじんを手中におさめ、おおむね敵兵力の7/10を減殺げんさいした。この功により食邑しょくゆう2,200戸を加えられた。

夏、霍去病かくきょへい合騎侯ごうきこう公孫敖こうそんごうと共に北地郡ほくちぐんから出陣して分かれて進み、博望侯はくぼうこう張騫ちょうけん郎中令ろうちゅうれい李広りこうは共に右北平郡ゆうほくへいぐんから出陣してまた道を別にした。

霍去病かくきょへい鈞耆水きんきすい居延水きょえんすいを渡ってついに小月氏しょうげっしの国に至り、祁連山きれんざんを攻めて鱳得ろうとくに武威をかかげ、単于ぜんう単桓ぜんかん酋涂王しゅうとおう及び、相国しょうこく都尉といの兵・2,500人を投降させた。

敵の首級・捕虜30,200人を勝ち取り、五王ごおう(5人のおう?)とおうの母、単于ぜんうの妻・閼氏あつし王子おうじ59人、相国しょうこく将軍しょうぐん当戸とうこ都尉といなど63人を捕らえ、おおむね敵兵力の3/10を減殺げんさいした。この功により食邑しょくゆう5,400戸を加えられた。

霍去病かくきょへいひきいる部隊は常時選りすぐりの精鋭である上に、霍去病かくきょへいみずからもえて敵地深く攻め入って壮騎そうきと共に常にその大軍の先頭に立とうとし、また軍にも天運が味方したため、これまで極度に困苦欠乏したことがなかったが、それに引き替え老練ろうれんな諸将たちは常に遅滞ちたい落伍らくごして調子が出ず、軍功がなかった。

その結果、霍去病かくきょへいしに天子てんしに親しみとうとばれ、大将軍だいしょうぐんと肩を並べた。


その後単于ぜんうは、渾邪王こんやおうが西方にいてしばしばかんに撃ち破られ、霍去病かくきょへいの兵によって数万人を失ったことを怒り、渾邪王こんやおうして誅殺ちゅうさつしようとした。渾邪王こんやおう休屠王きゅうとおうらはかんに投降しようとはかり、先に人をつかわして申し入れて来た。

当時、大行だいこう李息りそく黄河こうがほとりで城を築こうとしていたが、渾邪王こんやおうの使者が来るとただちに駅伝の馬をせてそのむねを上聞した。

武帝ぶていは「渾邪王こんやおうが投降をいつわって辺境を襲撃するのではないか」と恐れ、そこで霍去病かくきょへいに命じ兵をひきいてそれを迎えに行かせた。霍去病かくきょへい黄河こうがを渡って渾邪王こんやおうの兵をながめ見ると、渾邪王こんやおう裨王ひおう裨将ひしょうたちの中にはかん軍を見て心変わりした者が多く、逃げ去った者も少なくなかった。

そこで霍去病かくきょへいは、そこへせ入って渾邪王こんやおうと会見し、逃亡しようとする者たち8千人を斬り、まず渾邪王こんやおう一人だけを駅伝の馬に乗せて行在所あんざいしょ天子てんしの宿泊所・仮の御殿)に送り届け、その後で渾邪王こんやおうの兵、ことごとくをひきいて黄河こうがを渡った。この時投降した者は数万人だったが、10万人と号した。

この功により霍去病かくきょへいは、食邑しょくゆう1,700戸を加えられ、また隴西郡ろうせいぐん北地郡ほくちぐん上郡じょうぐんの国境守備の兵卒を半減して、天下の夫役ぶやく繇役ろうえき)を緩和かんわした。


その翌年、匈奴きょうど右北平郡ゆうほくへいぐん定襄郡ていじょうぐんの2郡に侵入し、漢人かんじん千余人を殺害・略奪した。

元狩げんしゅ4年(紀元前119年)春、武帝ぶてい大将軍だいしょうぐん衛青えいせい票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへいに命じてそれぞれ5万騎をひきいさせ、歩兵・輜重しちょうめ(步兵轉者踵軍)合わせて数十万がそのあとに続いたが、力戦をいとわず敵中深く侵入しようとする士卒は、みな霍去病かくきょへいに所属する兵だった。

霍去病かくきょへいは初め、定襄郡ていじょうぐんから出撃して単于ぜんうに当たる予定であったが、捕虜が「単于ぜんうは東へ移動した」と言うと、改めて霍去病かくきょへい代郡だいぐんから出撃させ、衛青えいせい定襄郡ていじょうぐんから出撃させた。

この戦いにおいて霍去病かくきょへいは、降伏した葷允くんいん匈奴きょうど)の士をみずかひきいて軽装で大砂漠を横断し、敵に突入して単于ぜんう章渠しょうきょを捕らえ、比車耆ひしゃき*3誅殺ちゅうさつし、転戦して左大将さだいしょうそうを撃ってその旗と太鼓を奪い、難侯山りこうざんを越え弓盧水きゅうりょすいを渡って屯頭王とんとうおう韓王かんおうら3人に加え、敵の将軍しょうぐん相国しょうこく当戸とうこ都尉といなど83人を捕らえ、狼居胥山ろうきょしょざんに天を祭り、姑衍山こえんざんに地を祭り、翰海かんかいゴビ砂漠)に登って見渡し、捕虜を訊問じんもんして70,443人を捕虜にし、おおむね敵兵力の2/10を減殺げんさいした。

この時霍去病かくきょへいは敵地で食糧を奪って深く攻め入り、遠く僻地へきちおもむいても糧食をやさなかった。この功により食邑しょくゆう5,400戸を加えられた。その他、霍去病かくきょへいの吏卒の多くは官位を得て賞賜しょうしされたが、衛青えいせい食邑しょくゆうを加増されず、彼の吏卒にもこうに封ぜられた者はいなかった。

大司馬となる

両軍がとりでを出た(出陣した)時、官・私の馬は14万頭であったが、とりでに帰還した時には3万頭に満たなかった。そこで新たに大司馬だいしばの官を置き、大将軍だいしょうぐん票騎将軍ひょうきしょうぐんを共に大司馬だいしばとし、法令を定めて票騎将軍ひょうきしょうぐん秩禄ちつろく大将軍だいしょうぐんと同じくした。

その後、衛青えいせいの勢力は日に日におとろえ、霍去病かくきょへいの勢力は日増しにとうとくなった。衛青えいせいの故人(縁故者)や門人の多くが衛青えいせいから離れて霍去病かくきょへいに仕え、霍去病かくきょへいに仕えたことによってすぐに官爵を得たが、ただ1人・任安じんあんだけは衛青えいせいのもとを去ろうとしなかった。

人柄

霍去病かくきょへいは元々口数が少なく、秘密をらさず、意気たかく、進んでみずから事に当たる性質であった。

かつて武帝ぶていが、霍去病かくきょへいに「呉起ごき孫武そんぶの兵法」を教えようとしたところ、霍去病かくきょへいは「どんな方法・策略をるかは、よく考えればよろしいのであって、必ずしも昔の兵法など学ばなくてもよいと思います」と言った。

武帝ぶてい霍去病かくきょへいのために邸宅を普請ふしんして彼に見せたところ、霍去病かくきょへいは「匈奴きょうどはまだ滅亡に至っておりません。邸宅など必要ではございません」と答えた。こうしたこともあって、益々武帝ぶていに尊重され寵愛ちょうあいされた。


その一方で、霍去病かくきょへいは若くして侍中じちゅうとなった尊貴の身であったため、部下をいつくしむことにとぼしかった。

出征に際して、武帝ぶていはわざわざ太官たいかん膳食ぜんしょくつかさどる官)をつかわして車に数十台の飲食物をおくったが、霍去病かくきょへいの軍が帰還した時、輜重車しちょうしゃには上等な穀物こくもつや肉がてるほど余っていながら、部下にはえた者がいた。

また塞外さいがい(長城の外)では兵卒の糧食が足らず、みずから起ち上がる気力さえない者がいたのに、霍去病かくきょへいはなお地を穿うがち区画をつくって蹴鞠けまりを楽しむなど、万事これに類することが多かった。

これに対し衛青えいせいは、仁慈じんじ・善良・謙虚、優しくおだやかでみずか武帝ぶていび風があったが、天下に彼を称賛する者はいなかった。


霍去病かくきょへい元狩げんしゅ6年(紀元前117年)に亡くなった。

武帝ぶていは彼をいたみ、儀仗ぎじょうとして辺境属国の鉄甲部隊を繰り出して長安ちょうあんから茂陵もりょうまで行列させ、そこに墓をつくってその形を祁連山きれんざんかたどった。その武勇と広地(領土を広げること)の意味を合わせて景桓侯けいかんこうおくりなした。


票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへいはおよそ6度出陣して匈奴きょうどを撃ったが、そのうち4度は将軍しょうぐんとしてであった。斬首・捕虜11万余級、その他渾邪王こんやおうがその衆数万人をひきいて降伏した。

河西かせい酒泉しゅせんの地を開き、西方は益々えびす侵寇しんこうされることが少なくなった。4度食邑しょくゆうを加増され、合計17,700戸にもなった。その部下の将校・軍吏で軍功により列侯れっこうとなった者が6人、将軍しょうぐんとなった者が2人あった。

脚注

*3原文:北車耆。ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ漢書かんじょ』5の注に従って改めた。


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第2世代[霍嬗(霍善)]

霍嬗かくぜん子侯しこう霍善かくぜん

生没年不詳。司隷しれい河東郡かとうぐん平陽県へいようけんの人。父は霍去病かくきょへい

父・霍去病かくきょへいの後を継いだ。

武帝ぶていは彼を寵愛ちょうあいし、壮年になったあかつきには将軍しょうぐんにしたいと願った。

奉車都尉ほうしゃといとなり、武帝ぶてい泰山たいざんを封ずる行幸ぎょうこうに従っている時に亡くなり、哀侯あいこうおくりなされた。

子がなく封国は除かれた。


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第3世代

霍雲かくうん

生年不詳〜前漢ぜんかん地節ちせつ4年(紀元前66年)7月没。司隷しれい河東郡かとうぐん平陽県へいようけんの人。弟に霍山かくさん。祖父は霍去病かくきょへい大叔父おおおじ霍光かくこう

霍氏の栄華

前漢ぜんかん昭帝しょうていの時代、霍光かくこうの子・霍禹かくうと共に中郎将ちゅうろうしょうとなった。

宣帝せんてい地節ちせつ2年(紀元前68年)に大叔父おおおじ大司馬だいしば大将軍だいしょうぐん霍光かくこうが亡くなると、

霍光かくこうの功徳の盛大なことをたたえてその子孫の租税そぜい夫役ぶやくを免除し、その爵位しゃくい封邑ほうゆうを元の通りとし、世々これをおこたることなく、その功を蕭相国しょうしょうこく蕭何しょうか)のごとく見なせ」

みことのりが下され、翌年の地節ちせつ3年(紀元前67年)夏、宣帝せんてい霍光かくこうの功績をしのんで、霍光かくこうの兄の孫・霍雲かくうん冠陽侯かんようこうに封じた。

その後、霍光かくこうの夫人・けん*10は、霍光かくこうの墓を豪華に増築して奢侈淫佚しゃしいんいつな生活にふけるようになり、霍雲かくうんは朝見すべき時にもしばしば病気と称して秘かに外出し、賓客ひんかくを従え、あみを張ったり囲んだりして黄山苑こうざんえんの中で狩猟し、朝会には自分の代わりに蒼頭奴しもべを出席させたが、えて彼を非難する者は誰もいなかった。

宣帝の親政

宣帝せんていは民間にいた頃から、霍氏かくしが久しく尊盛そんせい(位が高く勢いが盛んなこと)なことを聞き知っており、内心そのことをく思っていなかった。そこで霍光かくこうが亡くなると、宣帝せんていは初めて親政しんせいを行い、御史大夫ぎょしたいふ魏相ぎしょう給事中きゅうじちゅう顧問こもん)を兼ねた。

霍光かくこう夫人・けんの罪

宣帝せんていが即位した当初、微賤びせんであった頃にめとった許妃きょき皇后こうごうに立てたが、霍光かくこうの夫人・けんは、秘かに産婆さんば淳于衍じゅんうえんを使い、許妃きょきに毒薬を盛って殺害すると、霍光かくこうに勧めて末娘の霍成君かくせいくんを宮中に入れ、許后きょこうに代えて皇后こうごうに立てた。

霍光かくこうの死後、そのことが宣帝せんていれ伝わったが、もはや確証を得ることはできなかった。そこで宣帝せんていは、徐々に霍氏かくしとその婿むこを要職から外していった。

追い詰められる霍氏かくし

霍光かくこう夫人のけん霍禹かくう霍山かくさん霍雲かくうんは、日々立場が侵害されて行くさまの当たりにして、しばしば向き合って泣き、自分たちの運命をうらんだ。

4人で話す中で、けんから「自分が許妃きょきを殺害したこと」を聞いた霍禹かくう霍山かくさん霍雲かくうんは、

「そういう事情であったなら、どうして早く私たちに打ち明けてくださらなかったのですか。天子てんし婿むこたちを離散させたのは、それが理由です。これは一大事、誅罰ちゅうばつは小さくありません。どうすれば良いでしょう」

と言った。彼らの邪謀じゃぼうはここに始まった。

廃位の陰謀

これより以前、霍光かくこうの次女の婿むこ趙平ちょうへい食客しょっかく石夏せきかは得意な占星術によって「霍山かくさんらに危機が迫っていること」を告げた。

また霍雲かくうんおじ李竟りきょうと仲の良い張赦ちょうしゃが、霍雲かくうんの家のあわただしい様子を見て、李竟りきょうに、

「今、丞相じょうしょう魏相ぎしょう平恩侯へいおんこう許広漢きょこうかんが政務をっているが、太夫人たいふじん霍光かくこうの夫人・けん)から太后たいこう上官太后じょうかんたいこう昭帝しょうてい皇后こうごうけんの孫娘)に『この両人を殺す』よう言わせるべきです。その上で陛下を移すことができるのは、太后たいこうだけです」

と言った。

これが長安ちょうあんの男子・張章ちょうしょうの密告により廷尉ていいに下げ渡され、執金吾しつきんご張赦ちょうしゃ石夏せきからを捕らえたが、しばらくして釈放するようにみことのりが下った。

霍山かくさんらはいよいよ恐れ、

「これは天子てんし太后たいこうのために遠慮したために追究しなかったのであって、悪事の端緒たんしょがすでに露見ろけんし、また許后きょこうしいした件もある。いかに陛下が心が広く情け深いと言っても、おそらく左右の者は承知せず、やがてあばくに違いなく、あばけばただちに族滅されるだろう。先手を打つに越したことはない」

と話し合い、ついにむすめたちをそれぞれ夫の元に帰して報告させたが、彼らもみな「どうにもわざわいは避けようがない」と言った。


たまたま霍雲かくうんおじ李竟りきょうが「諸侯王しょこうおうまじわり結託けったくしている」という罪にしたが、その自白の中で霍氏かくしのことに触れたため、みことのりが下って霍雲かくうん霍山かくさんを宮中に宿衛させてはならないとし、職を免じて邸宅で謹慎きんしんさせた。

宣帝せんていはまたあわせて、

  • 霍光かくこうむすめたちは太后たいこう上官太后じょうかんたいこう)の叔母おばであることをから太后たいこうに対し無礼であったこと。
  • 馮子都ふうしと霍光かくこうの夫人・けんの愛人)がしばしば法をおかしたこと。

などを責めたので、霍山かくさん霍禹かくうらははなはだ恐れ、けん霍禹かくうらは不吉な夢にうなされ、霍氏かくしの一家は悩み悲しみうれえた。


霍山かくさんは「丞相じょうしょうは、宗廟そうびょうそなえるためのこひつじうさぎあおがえるを勝手に減らしたから、このことで罪におとしいれることができるだろう」と言い、

太后たいこう上官太后じょうかんたいこう)に宣帝せんていの母方の祖母・博平君はくへいくんのために酒宴をもうけさせて丞相じょうしょう平恩侯へいおんこう以下をまねき、霍光かくこう女婿むすめむこ范明友はんめいゆう霍光かくこうの長女の婿むこ鄧広漢とうこうかんには太后たいこうみことのりけさせて丞相じょうしょうらを斬らせ、その上で宣帝せんていを廃して霍禹かくうを立てようとはかった。


計画がまだ実行に移される前に霍雲かくうん玄菟太守げんとたいしゅに任命され、太中大夫たいちゅうたいふ任宣じんせん*11代郡太守だいぐんたいしゅとなった。

また、霍山かくさんがまた機密文書を写し取った罪にしたため、霍光かくこうの夫人・けんが上書して城西の邸宅を献上し、馬千頭をおさめて霍山かくさんの罪をあがなおうとしたが、「上書が上申された」とだけ返答があった。


たまたま陰謀が発覚して、霍雲かくうん霍山かくさん范明友はんめいゆうは自殺し、けん霍禹かくう鄧広漢とうこうかんらは捕らえられた。

霍禹かくう腰斬ようざんの刑に処され、けん霍光かくこうむすめ・兄弟たちはみな棄市きしさらし首)となり、ただ霍后かくこう霍成君かくせいくん)だけは廃されるだけにとどまって昭台宮しょうだいきゅうに居住した。

霍氏かくしに連座して誅滅ちゅうめつされた家は千戸を数えた。

脚注

*11霍禹かくう故吏こり故吏こりとは、かつて辟召へきしょうを受けて(抜擢ばってきされて)上司と部下の関係になった者のこと。上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。


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霍山かくさん

生年不詳〜前漢ぜんかん地節ちせつ4年(紀元前66年)7月没。司隷しれい河東郡かとうぐん平陽県へいようけんの人。兄に霍雲かくうん。祖父は霍去病かくきょへい大叔父おおおじ霍光かくこう

霍氏の栄華

前漢ぜんかん昭帝しょうていの時代から奉車都尉ほうしゃとい侍中じちゅうとなって、えつの兵を領した。

宣帝せんてい地節ちせつ2年(紀元前68年)、大叔父おおおじ大司馬だいしば大将軍だいしょうぐん霍光かくこうが亡くなると、宣帝せんてい霍光かくこう遺言ゆいごんに従って霍山かくさん楽平侯らくへいこうに封じ、霍光かくこう封邑ほうゆう3千戸を分け与え、奉車都尉ほうしゃとい領尚書事りょうしょうしょじに任命した。

また「霍光かくこうの功徳の盛大なことをたたえてその子孫の租税そぜい夫役ぶやくを免除し、その爵位しゃくい封邑ほうゆうを元の通りとし、世々これをおこたることなく、その功を蕭相国しょうしょうこく蕭何しょうか)のごとく見なせ」とみことのりが下された。

その後、霍光かくこうの夫人・けん*10は、霍光かくこうの墓を豪華に増築して奢侈淫佚しゃしいんいつな生活にふけり、霍禹かくう霍山かくさんは邸宅を立派にし、馬を走らせて平楽館へいらくかんの辺りをめぐった。

宣帝の親政

宣帝せんていは民間にいた頃から、霍氏かくしが久しく尊盛そんせい(位が高く勢いが盛んなこと)なことを聞き知っており、内心そのことをく思っていなかった。そこで霍光かくこうが亡くなると、宣帝せんていは初めて親政しんせいを行い、御史大夫ぎょしたいふ魏相ぎしょう給事中きゅうじちゅう顧問こもん)を兼ねた。

当時霍山かくさんはなお尚書しょうしょを管領していたが、宣帝せんていは吏民に封事(密封された上書)を上奏することができるようにし、また群臣が進言する場合のいずれも、尚書しょうしょを通さずに言上できるように改めた。(これにより領尚書事りょうしょうしょじの特権が失われ)霍氏かくしはこのことをはなはだ憎悪した。

霍光かくこう夫人・けんの罪

宣帝せんていが即位した当初、微賤びせんであった頃にめとった許妃きょき皇后こうごうに立てたが、霍光かくこうの夫人・けんは、秘かに産婆さんば淳于衍じゅんうえんを使い、許妃きょきに毒薬を盛って殺害すると、霍光かくこうに勧めて末娘の霍成君かくせいくんを宮中に入れ、許后きょこうに代えて皇后こうごうに立てた。

霍光かくこうの死後、そのことが宣帝せんていれ伝わったが、もはや確証を得ることはできなかった。そこで宣帝せんていは、徐々に霍氏かくしとその婿むこを要職から外していった。

追い詰められる霍氏かくし

霍光かくこう夫人のけん霍禹かくう霍山かくさん霍雲かくうんは、日々立場が侵害されて行くさまの当たりにして、しばしば向き合って泣き、自分たちの運命をうらんだ。

4人で話す中で、けんから「自分が許妃きょきを殺害したこと」を聞いた霍禹かくう霍山かくさん霍雲かくうんは、

「そういう事情であったなら、どうして早く私たちに打ち明けてくださらなかったのですか。天子てんし婿むこたちを離散させたのは、それが理由です。これは一大事、誅罰ちゅうばつは小さくありません。どうすれば良いでしょう」

と言った。彼らの邪謀じゃぼうはここに始まった。

廃位の陰謀

これより以前、霍光かくこうの次女の婿むこ趙平ちょうへい食客しょっかく石夏せきかは得意な占星術によって「霍山かくさんらに危機が迫っていること」を告げた。

また霍雲かくうんおじ李竟りきょうと仲の良い張赦ちょうしゃが、霍雲かくうんの家のあわただしい様子を見て、李竟りきょうに、

「今、丞相じょうしょう魏相ぎしょう平恩侯へいおんこう許広漢きょこうかんが政務をっているが、太夫人たいふじん霍光かくこうの夫人・けん)から太后たいこう上官太后じょうかんたいこう昭帝しょうてい皇后こうごうけんの孫娘)に『この両人を殺す』よう言わせるべきです。その上で陛下を移すことができるのは、太后たいこうだけです」

と言った。

これが長安ちょうあんの男子・張章ちょうしょうの密告により廷尉ていいに下げ渡され、執金吾しつきんご張赦ちょうしゃ石夏せきからを捕らえたが、しばらくして釈放するようにみことのりが下った。

霍山かくさんらはいよいよ恐れ、

「これは天子てんし太后たいこうのために遠慮したために追究しなかったのであって、悪事の端緒たんしょがすでに露見ろけんし、また許后きょこうしいした件もある。いかに陛下が心が広く情け深いと言っても、おそらく左右の者は承知せず、やがてあばくに違いなく、あばけばただちに族滅されるだろう。先手を打つに越したことはない」

と話し合い、ついにむすめたちをそれぞれ夫の元に帰して報告させたが、彼らもみな「どうにもわざわいは避けようがない」と言った。


たまたま霍雲かくうんおじ李竟りきょうが「諸侯王しょこうおうまじわり結託けったくしている」という罪にしたが、その自白の中で霍氏かくしのことに触れたため、みことのりが下って霍雲かくうん霍山かくさんを宮中に宿衛させてはならないとし、職を免じて邸宅で謹慎きんしんさせた。

宣帝せんていはまたあわせて、

  • 霍光かくこうむすめたちは太后たいこう上官太后じょうかんたいこう)の叔母おばであることをから太后たいこうに対し無礼であったこと。
  • 馮子都ふうしと霍光かくこうの夫人・けんの愛人)がしばしば法をおかしたこと。

などを責めたので、霍山かくさん霍禹かくうらははなはだ恐れ、けん霍禹かくうらは不吉な夢にうなされ、霍氏かくしの一家は悩み悲しみうれえた。


霍山かくさんは「丞相じょうしょうは、宗廟そうびょうそなえるためのこひつじうさぎあおがえるを勝手に減らしたから、このことで罪におとしいれることができるだろう」と言い、

太后たいこう上官太后じょうかんたいこう)に宣帝せんていの母方の祖母・博平君はくへいくんのために酒宴をもうけさせて丞相じょうしょう平恩侯へいおんこう以下をまねき、霍光かくこう女婿むすめむこ范明友はんめいゆう霍光かくこうの長女の婿むこ鄧広漢とうこうかんには太后たいこうみことのりけさせて丞相じょうしょうらを斬らせ、その上で宣帝せんていを廃して霍禹かくうを立てようとはかった。


計画がまだ実行に移される前に霍雲かくうん玄菟太守げんとたいしゅに任命され、太中大夫たいちゅうたいふ任宣じんせん*11代郡太守だいぐんたいしゅとなった。

また、霍山かくさんがまた機密文書を写し取った罪にしたため、霍光かくこうの夫人・けんが上書して城西の邸宅を献上し、馬千頭をおさめて霍山かくさんの罪をあがなおうとしたが、「上書が上申された」とだけ返答があった。


地節ちせつ4年(紀元前66年)7月、たまたま陰謀が発覚して、霍雲かくうん霍山かくさん范明友はんめいゆうは自殺し、けん霍禹かくう鄧広漢とうこうかんらは捕らえられた。

霍禹かくう腰斬ようざんの刑に処され、けん霍光かくこうむすめ・兄弟たちはみな棄市きしさらし首)となり、ただ霍后かくこう霍成君かくせいくん)だけは廃されるだけにとどまって昭台宮しょうだいきゅうに居住した。

霍氏かくしに連座して誅滅ちゅうめつされた家は千戸を数えた。

脚注

*11霍禹かくう故吏こり故吏こりとは、かつて辟召へきしょうを受けて(抜擢ばってきされて)上司と部下の関係になった者のこと。上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。


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