正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(54)河東郡霍氏①[霍仲孺・霍去病・霍嬗(霍善)・霍雲・霍山]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河東郡霍氏①系図
河東郡霍氏①系図
この記事では河東郡霍氏①の人物、
についてまとめています。
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か(54)河東霍氏①
第1世代(霍仲孺)
霍仲孺
生没年不詳。司隷・河東郡・平陽県の人。子に霍去病、霍光。
霍仲孺は県の役人として平陽侯・曹寿*1の家に遣わされ、給事をつとめていたが、平陽侯・曹寿*1の侍女(僮)であった衛媼の次女・衛少児(後の大将軍・衛青の姉)と私通して霍去病を生んだ。
その後役目を終えて家に帰り、妻を娶って霍光が生まれたが、以降、霍去病とは音信不通となり、年月が過ぎていった。
その後、衛少児の妹・衛子夫が武帝の寵愛を得て皇后に立てられると、霍去病は皇后の姉の子として恩寵を受けた。
霍去病は壮年になって初めて自分の父が霍仲孺であることを知ったが、未だ本人に確認できずにいた。
票騎将軍となった霍去病が匈奴征伐に出陣する途中、司隷・河東郡を通った時のこと。河東太守が郊外に出迎えて弩矢を背に先導し、平陽県の宿舎に着くと、役人を遣わして霍仲孺を迎えに行かせ、霍仲孺は小走り*2に入って霍去病に拝謁した。
霍去病は彼を迎え入れて一拝し、そのまま跪いて「去病はずっと後になるまで大人の子であることを知りませんでした」と言うと、霍仲孺は叩頭して「老いぼれの臣が将軍(霍去病)に命を託すことができますことは、天の力によるものでしょう」と言った。
霍去病は霍仲孺のために多くの田宅や奴婢を買い与えて去り、匈奴征伐から帰還する際に再び平陽県を訪れ、当時10歳であった霍光を連れて長安に還った。
脚注
*1武帝の姉・陽信長公主の夫。
*2原文:趨。貴人の前で小走りに歩く礼儀。
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第2世代(霍去病)
霍去病
建元元年(紀元前140年)〜元狩6年(紀元前117年)没。司隷・河東郡・平陽県の人。父は霍仲孺。大将軍・衛青の姉・少児(少兒)の子。異母弟に霍光。
出自
霍去病は父・霍仲孺が、平陽侯・曹寿の召使い(僮)であった衛媼の次女・少児と私通して生まれた。
少児の妹・衛子夫が宮中に入って武帝の寵愛を受け、男児を生んで皇后となると、少児は改めて詹事・陳掌の妻となり、霍去病は皇后の姉の子として18歳で侍中となった。
匈奴征伐
前漢・武帝の元朔6年(紀元前123年)、騎射に巧みなことから再度大将軍・衛青に従って出陣し、衛青は詔により霍去病に壮士を与え、票姚校尉に任命した。
霍去病は軽装で勇敢な8百騎を率いて直ちに大軍を離れ、数百里の遠方に赴いて戦い、斬首・捕虜にした敵の損害は味方のそれより遙かに多かった。
この時霍去病は、敵兵2,028人を斬首・捕虜として敵の相国・当戸を捕らえ、単于の祖父・行藉若侯・産を斬り、単于の末の叔父・羅姑比を捕らえ、この功により冠軍侯に封ぜられ、食邑2,500戸を与えられた。
前漢・武帝の元狩2年(紀元前121年)、霍去病は票騎将軍として1万騎を率いて隴西郡から出陣し、軍功があった。
この時霍去病は戎士を率いて烏盭山を越え、遫濮(匈奴の部落名)を討ち、輜重人に臆病者を用いずに狐奴水を渡り五王国を経たが、惜しくも単于の子を取り逃がした。
6日にわたって転戦し、焉支山を過ぎて進むこと千余里、白刃を接えて皋蘭山下に敵を皆殺しにし、折蘭王を殺し、盧侯王を斬り、鋭悍な者を誅殺し、全軍1兵も失わずに敵の衆を捕らえ、渾邪王の子及び相国・都尉を捕らえ、敵を斬首・捕虜とすること8,960級、休屠王が天を祭る金人を手中に収め、概ね敵兵力の7/10を減殺した。この功により食邑2,200戸を加えられた。
夏、霍去病は合騎侯・公孫敖と共に北地郡から出陣して分かれて進み、博望侯・張騫と郎中令・李広は共に右北平郡から出陣してまた道を別にした。
霍去病は鈞耆水と居延水を渡ってついに小月氏の国に至り、祁連山を攻めて鱳得に武威を掲げ、単于・単桓と酋涂王及び、相国・都尉の兵・2,500人を投降させた。
敵の首級・捕虜30,200人を勝ち取り、五王(5人の王?)と王の母、単于の妻・閼氏、王子59人、相国・将軍・当戸・都尉など63人を捕らえ、概ね敵兵力の3/10を減殺した。この功により食邑5,400戸を加えられた。
霍去病が率いる部隊は常時選りすぐりの精鋭である上に、霍去病自らも敢えて敵地深く攻め入って壮騎と共に常にその大軍の先頭に立とうとし、また軍にも天運が味方したため、これまで極度に困苦欠乏したことがなかったが、それに引き替え老練な諸将たちは常に遅滞落伍して調子が出ず、軍功がなかった。
その結果、霍去病は日増しに天子に親しみ貴ばれ、大将軍と肩を並べた。
その後単于は、渾邪王が西方にいてしばしば漢に撃ち破られ、霍去病の兵によって数万人を失ったことを怒り、渾邪王を召して誅殺しようとした。渾邪王と休屠王らは漢に投降しようと謀り、先に人を遣わして申し入れて来た。
当時、大行・李息が黄河の畔で城を築こうとしていたが、渾邪王の使者が来ると直ちに駅伝の馬を馳せてその旨を上聞した。
武帝は「渾邪王が投降を偽って辺境を襲撃するのではないか」と恐れ、そこで霍去病に命じ兵を率いてそれを迎えに行かせた。霍去病が黄河を渡って渾邪王の兵を眺め見ると、渾邪王の裨王や裨将たちの中には漢軍を見て心変わりした者が多く、逃げ去った者も少なくなかった。
そこで霍去病は、そこへ馳せ入って渾邪王と会見し、逃亡しようとする者たち8千人を斬り、まず渾邪王一人だけを駅伝の馬に乗せて行在所(天子の宿泊所・仮の御殿)に送り届け、その後で渾邪王の兵、悉くを率いて黄河を渡った。この時投降した者は数万人だったが、10万人と号した。
この功により霍去病は、食邑1,700戸を加えられ、また隴西郡・北地郡・上郡の国境守備の兵卒を半減して、天下の夫役(繇役)を緩和した。
その翌年、匈奴は右北平郡・定襄郡の2郡に侵入し、漢人千余人を殺害・略奪した。
元狩4年(紀元前119年)春、武帝は大将軍・衛青と票騎将軍・霍去病に命じてそれぞれ5万騎を率いさせ、歩兵・輜重・後詰め(步兵轉者踵軍)合わせて数十万がその後に続いたが、力戦を厭わず敵中深く侵入しようとする士卒は、みな霍去病に所属する兵だった。
霍去病は初め、定襄郡から出撃して単于に当たる予定であったが、捕虜が「単于は東へ移動した」と言うと、改めて霍去病を代郡から出撃させ、衛青を定襄郡から出撃させた。
この戦いにおいて霍去病は、降伏した葷允(匈奴)の士を自ら率いて軽装で大砂漠を横断し、敵に突入して単于の章渠を捕らえ、比車耆*3を誅殺し、転戦して左大将・雙を撃ってその旗と太鼓を奪い、難侯山を越え弓盧水を渡って屯頭王・韓王ら3人に加え、敵の将軍・相国・当戸・都尉など83人を捕らえ、狼居胥山に天を祭り、姑衍山に地を祭り、翰海(ゴビ砂漠)に登って見渡し、捕虜を訊問して70,443人を捕虜にし、概ね敵兵力の2/10を減殺した。
この時霍去病は敵地で食糧を奪って深く攻め入り、遠く僻地に赴いても糧食を絶やさなかった。この功により食邑5,400戸を加えられた。その他、霍去病の吏卒の多くは官位を得て賞賜されたが、衛青は食邑を加増されず、彼の吏卒にも侯に封ぜられた者はいなかった。
大司馬となる
両軍が塞を出た(出陣した)時、官・私の馬は14万頭であったが、塞に帰還した時には3万頭に満たなかった。そこで新たに大司馬の官を置き、大将軍と票騎将軍を共に大司馬とし、法令を定めて票騎将軍の秩禄を大将軍と同じくした。
その後、衛青の勢力は日に日に衰え、霍去病の勢力は日増しに貴くなった。衛青の故人(縁故者)や門人の多くが衛青から離れて霍去病に仕え、霍去病に仕えたことによってすぐに官爵を得たが、ただ1人・任安だけは衛青のもとを去ろうとしなかった。
人柄
霍去病は元々口数が少なく、秘密を漏らさず、意気昂く、進んで自ら事に当たる性質であった。
かつて武帝が、霍去病に「呉起・孫武の兵法」を教えようとしたところ、霍去病は「どんな方法・策略を採るかは、よく考えればよろしいのであって、必ずしも昔の兵法など学ばなくてもよいと思います」と言った。
武帝が霍去病のために邸宅を普請して彼に見せたところ、霍去病は「匈奴はまだ滅亡に至っておりません。邸宅など必要ではございません」と答えた。こうしたこともあって、益々武帝に尊重され寵愛された。
その一方で、霍去病は若くして侍中となった尊貴の身であったため、部下を慈しむことに乏しかった。
出征に際して、武帝はわざわざ太官(膳食を司る官)を遣わして車に数十台の飲食物を贈ったが、霍去病の軍が帰還した時、輜重車には上等な穀物や肉が棄てるほど余っていながら、部下には飢えた者がいた。
また塞外(長城の外)では兵卒の糧食が足らず、自ら起ち上がる気力さえない者がいたのに、霍去病はなお地を穿ち区画をつくって蹴鞠を楽しむなど、万事これに類することが多かった。
これに対し衛青は、仁慈・善良・謙虚、優しく穏やかで自ら武帝に媚び風があったが、天下に彼を称賛する者はいなかった。
霍去病は元狩6年(紀元前117年)に亡くなった。
武帝は彼を悼み、儀仗として辺境属国の鉄甲部隊を繰り出して長安から茂陵まで行列させ、そこに墓をつくってその形を祁連山に象った。その武勇と広地(領土を広げること)の意味を合わせて景桓侯と諡した。
票騎将軍・霍去病はおよそ6度出陣して匈奴を撃ったが、そのうち4度は将軍としてであった。斬首・捕虜11万余級、その他渾邪王がその衆数万人を率いて降伏した。
河西・酒泉の地を開き、西方は益々胡に侵寇されることが少なくなった。4度食邑を加増され、合計17,700戸にもなった。その部下の将校・軍吏で軍功により列侯となった者が6人、将軍となった者が2人あった。
脚注
*3原文:北車耆。ちくま学芸文庫『漢書』5の注に従って改めた。
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第2世代[霍嬗(霍善)]
霍嬗・子侯(霍善)
生没年不詳。司隷・河東郡・平陽県の人。父は霍去病。
父・霍去病の後を継いだ。
武帝は彼を寵愛し、壮年になった暁には将軍にしたいと願った。
奉車都尉となり、武帝の泰山を封ずる行幸に従っている時に亡くなり、哀侯と諡された。
子がなく封国は除かれた。
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第3世代
霍雲
生年不詳〜前漢の地節4年(紀元前66年)7月没。司隷・河東郡・平陽県の人。弟に霍山。祖父は霍去病。大叔父に霍光。
霍氏の栄華
前漢・昭帝の時代、霍光の子・霍禹と共に中郎将となった。
宣帝の地節2年(紀元前68年)に大叔父の大司馬大将軍・霍光が亡くなると、
「霍光の功徳の盛大なことを称えてその子孫の租税・夫役を免除し、その爵位・封邑を元の通りとし、世々これを怠ることなく、その功を蕭相国(蕭何)の如く見なせ」
と詔が下され、翌年の地節3年(紀元前67年)夏、宣帝は霍光の功績を偲んで、霍光の兄の孫・霍雲を冠陽侯に封じた。
その後、霍光の夫人・顕*10は、霍光の墓を豪華に増築して奢侈淫佚な生活に耽るようになり、霍雲は朝見すべき時にもしばしば病気と称して秘かに外出し、賓客を従え、網を張ったり囲んだりして黄山苑の中で狩猟し、朝会には自分の代わりに蒼頭奴を出席させたが、敢えて彼を非難する者は誰もいなかった。
宣帝の親政
宣帝は民間にいた頃から、霍氏が久しく尊盛(位が高く勢いが盛んなこと)なことを聞き知っており、内心そのことを善く思っていなかった。そこで霍光が亡くなると、宣帝は初めて親政を行い、御史大夫の魏相が給事中(顧問)を兼ねた。
霍光夫人・顕の罪
宣帝が即位した当初、微賤であった頃に娶った許妃を皇后に立てたが、霍光の夫人・顕は、秘かに産婆の淳于衍を使い、許妃に毒薬を盛って殺害すると、霍光に勧めて末娘の霍成君を宮中に入れ、許后に代えて皇后に立てた。
霍光の死後、そのことが宣帝に漏れ伝わったが、もはや確証を得ることはできなかった。そこで宣帝は、徐々に霍氏とその婿を要職から外していった。
追い詰められる霍氏
霍光夫人の顕、霍禹、霍山、霍雲は、日々立場が侵害されて行く様を目の当たりにして、しばしば向き合って泣き、自分たちの運命を怨んだ。
4人で話す中で、顕から「自分が許妃を殺害したこと」を聞いた霍禹、霍山、霍雲は、
「そういう事情であったなら、どうして早く私たちに打ち明けてくださらなかったのですか。天子が婿たちを離散させたのは、それが理由です。これは一大事、誅罰は小さくありません。どうすれば良いでしょう」
と言った。彼らの邪謀はここに始まった。
廃位の陰謀
これより以前、霍光の次女の婿・趙平の食客・石夏は得意な占星術によって「霍山らに危機が迫っていること」を告げた。
また霍雲の舅・李竟と仲の良い張赦が、霍雲の家の慌ただしい様子を見て、李竟に、
「今、丞相の魏相と平恩侯・許広漢が政務を執っているが、太夫人(霍光の夫人・顕)から太后(上官太后・昭帝の皇后・顕の孫娘)に『この両人を殺す』よう言わせるべきです。その上で陛下を移すことができるのは、太后だけです」
と言った。
これが長安の男子・張章の密告により廷尉に下げ渡され、執金吾が張赦・石夏らを捕らえたが、しばらくして釈放するように詔が下った。
霍山らはいよいよ恐れ、
「これは天子が太后のために遠慮したために追究しなかったのであって、悪事の端緒がすでに露見し、また許后を弒した件もある。いかに陛下が心が広く情け深いと言っても、おそらく左右の者は承知せず、やがて発くに違いなく、発けば直ちに族滅されるだろう。先手を打つに越したことはない」
と話し合い、ついに女たちをそれぞれ夫の元に帰して報告させたが、彼らもみな「どうにも禍は避けようがない」と言った。
たまたま霍雲の舅・李竟が「諸侯王と交わり結託している」という罪に坐したが、その自白の中で霍氏のことに触れたため、詔が下って霍雲と霍山を宮中に宿衛させてはならないとし、職を免じて邸宅で謹慎させた。
宣帝はまた併せて、
- 霍光の女たちは太后(上官太后)の叔母であることをから太后に対し無礼であったこと。
- 馮子都(霍光の夫人・顕の愛人)がしばしば法を犯したこと。
などを責めたので、霍山・霍禹らは甚だ恐れ、顕・霍禹らは不吉な夢にうなされ、霍氏の一家は悩み悲しみ憂えた。
霍山は「丞相は、宗廟に供えるための羔・菟・鼃を勝手に減らしたから、このことで罪に陥れることができるだろう」と言い、
太后(上官太后)に宣帝の母方の祖母・博平君のために酒宴を設けさせて丞相・平恩侯以下を招き、霍光の女婿・范明友と霍光の長女の婿・鄧広漢には太后の制を承けさせて丞相らを斬らせ、その上で宣帝を廃して霍禹を立てようと謀った。
計画がまだ実行に移される前に霍雲が玄菟太守に任命され、太中大夫・任宣*11は代郡太守となった。
また、霍山がまた機密文書を写し取った罪に坐したため、霍光の夫人・顕が上書して城西の邸宅を献上し、馬千頭を納めて霍山の罪を贖おうとしたが、「上書が上申された」とだけ返答があった。
たまたま陰謀が発覚して、霍雲・霍山・范明友は自殺し、顕・霍禹・鄧広漢らは捕らえられた。
霍禹は腰斬の刑に処され、顕と霍光の女・兄弟たちはみな棄市(晒し首)となり、ただ霍后(霍成君)だけは廃されるだけに留まって昭台宮に居住した。
霍氏に連座して誅滅された家は千戸を数えた。
脚注
*11霍禹の故吏。故吏とは、かつて辟召を受けて(抜擢されて)上司と部下の関係になった者のこと。上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。
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霍山
生年不詳〜前漢の地節4年(紀元前66年)7月没。司隷・河東郡・平陽県の人。兄に霍雲。祖父は霍去病。大叔父に霍光。
霍氏の栄華
前漢・昭帝の時代から奉車都尉・侍中となって、胡・越の兵を領した。
宣帝の地節2年(紀元前68年)、大叔父の大司馬大将軍・霍光が亡くなると、宣帝は霍光の遺言に従って霍山を楽平侯に封じ、霍光の封邑3千戸を分け与え、奉車都尉・領尚書事に任命した。
また「霍光の功徳の盛大なことを称えてその子孫の租税・夫役を免除し、その爵位・封邑を元の通りとし、世々これを怠ることなく、その功を蕭相国(蕭何)の如く見なせ」と詔が下された。
その後、霍光の夫人・顕*10は、霍光の墓を豪華に増築して奢侈淫佚な生活に耽り、霍禹や霍山は邸宅を立派にし、馬を走らせて平楽館の辺りを馳せ巡った。
宣帝の親政
宣帝は民間にいた頃から、霍氏が久しく尊盛(位が高く勢いが盛んなこと)なことを聞き知っており、内心そのことを善く思っていなかった。そこで霍光が亡くなると、宣帝は初めて親政を行い、御史大夫の魏相が給事中(顧問)を兼ねた。
当時霍山はなお尚書を管領していたが、宣帝は吏民に封事(密封された上書)を上奏することができるようにし、また群臣が進言する場合のいずれも、尚書を通さずに言上できるように改めた。(これにより領尚書事の特権が失われ)霍氏はこのことを甚だ憎悪した。
霍光夫人・顕の罪
宣帝が即位した当初、微賤であった頃に娶った許妃を皇后に立てたが、霍光の夫人・顕は、秘かに産婆の淳于衍を使い、許妃に毒薬を盛って殺害すると、霍光に勧めて末娘の霍成君を宮中に入れ、許后に代えて皇后に立てた。
霍光の死後、そのことが宣帝に漏れ伝わったが、もはや確証を得ることはできなかった。そこで宣帝は、徐々に霍氏とその婿を要職から外していった。
追い詰められる霍氏
霍光夫人の顕、霍禹、霍山、霍雲は、日々立場が侵害されて行く様を目の当たりにして、しばしば向き合って泣き、自分たちの運命を怨んだ。
4人で話す中で、顕から「自分が許妃を殺害したこと」を聞いた霍禹、霍山、霍雲は、
「そういう事情であったなら、どうして早く私たちに打ち明けてくださらなかったのですか。天子が婿たちを離散させたのは、それが理由です。これは一大事、誅罰は小さくありません。どうすれば良いでしょう」
と言った。彼らの邪謀はここに始まった。
廃位の陰謀
これより以前、霍光の次女の婿・趙平の食客・石夏は得意な占星術によって「霍山らに危機が迫っていること」を告げた。
また霍雲の舅・李竟と仲の良い張赦が、霍雲の家の慌ただしい様子を見て、李竟に、
「今、丞相の魏相と平恩侯・許広漢が政務を執っているが、太夫人(霍光の夫人・顕)から太后(上官太后・昭帝の皇后・顕の孫娘)に『この両人を殺す』よう言わせるべきです。その上で陛下を移すことができるのは、太后だけです」
と言った。
これが長安の男子・張章の密告により廷尉に下げ渡され、執金吾が張赦・石夏らを捕らえたが、しばらくして釈放するように詔が下った。
霍山らはいよいよ恐れ、
「これは天子が太后のために遠慮したために追究しなかったのであって、悪事の端緒がすでに露見し、また許后を弒した件もある。いかに陛下が心が広く情け深いと言っても、おそらく左右の者は承知せず、やがて発くに違いなく、発けば直ちに族滅されるだろう。先手を打つに越したことはない」
と話し合い、ついに女たちをそれぞれ夫の元に帰して報告させたが、彼らもみな「どうにも禍は避けようがない」と言った。
たまたま霍雲の舅・李竟が「諸侯王と交わり結託している」という罪に坐したが、その自白の中で霍氏のことに触れたため、詔が下って霍雲と霍山を宮中に宿衛させてはならないとし、職を免じて邸宅で謹慎させた。
宣帝はまた併せて、
- 霍光の女たちは太后(上官太后)の叔母であることをから太后に対し無礼であったこと。
- 馮子都(霍光の夫人・顕の愛人)がしばしば法を犯したこと。
などを責めたので、霍山・霍禹らは甚だ恐れ、顕・霍禹らは不吉な夢にうなされ、霍氏の一家は悩み悲しみ憂えた。
霍山は「丞相は、宗廟に供えるための羔・菟・鼃を勝手に減らしたから、このことで罪に陥れることができるだろう」と言い、
太后(上官太后)に宣帝の母方の祖母・博平君のために酒宴を設けさせて丞相・平恩侯以下を招き、霍光の女婿・范明友と霍光の長女の婿・鄧広漢には太后の制を承けさせて丞相らを斬らせ、その上で宣帝を廃して霍禹を立てようと謀った。
計画がまだ実行に移される前に霍雲が玄菟太守に任命され、太中大夫・任宣*11は代郡太守となった。
また、霍山がまた機密文書を写し取った罪に坐したため、霍光の夫人・顕が上書して城西の邸宅を献上し、馬千頭を納めて霍山の罪を贖おうとしたが、「上書が上申された」とだけ返答があった。
地節4年(紀元前66年)7月、たまたま陰謀が発覚して、霍雲・霍山・范明友は自殺し、顕・霍禹・鄧広漢らは捕らえられた。
霍禹は腰斬の刑に処され、顕と霍光の女・兄弟たちはみな棄市(晒し首)となり、ただ霍后(霍成君)だけは廃されるだけに留まって昭台宮に居住した。
霍氏に連座して誅滅された家は千戸を数えた。
脚注
*11霍禹の故吏。故吏とは、かつて辟召を受けて(抜擢されて)上司と部下の関係になった者のこと。上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。
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