正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊿南陽郡なんようぐん楽氏がくし楽方がくほう楽広がくこう楽凱がくがい楽肇がくちょう楽謨がくぼ)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

南陽楽氏系図

南陽郡楽氏系図

南陽郡なんようぐん楽氏がくし系図


※親が同一人物の場合、左側が年長。
郭永かくえい郭表かくひょうの父の兄弟の順は不明。


この記事では南陽郡なんようぐん楽氏がくしの人物、

についてまとめています。


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か㊾(衛国楽氏)

第1世代(楽方)

楽方がくほう

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん淯陽県いくようけんの人。子は楽広がくこう

『晋書』楽広伝

征西将軍せいせいしょうぐん夏侯玄かこうげん参軍事さんぐんじであった。

楽方がくほうの子・楽広がくこうが8歳の時、夏侯玄かこうげんは道で楽広がくこうを見かけ、呼び止めて話しかけた。

のちに帰った夏侯玄かこうげん楽方がくほうに、

「先程あなたの息子の楽広がくこうを見かけたが、神童のおもむきがある。きっと名士になるだろう。あなたの家は貧しいが、彼を学問に専念させれば、必ずやあなたの家を繁栄させるだろう」

と言ったが、楽方がくほうは早くに亡くなってしまった。

『魏書』斉王紀・注・『魏略』

晋書しんしょ斉王紀せいおうぎが注に引く魏略ぎりゃくに、

嘉平かへい5年(253年)5月、太傅たいふ諸葛恪しょかつかく合肥がっぴの新城を包囲した時、牙門将軍がもんしょうぐん張特ちょうとく将軍しょうぐん楽方がくほうらと全軍合わせて3千人の軍勢をようしていたが、病気や戦死した官兵が半分以上にも達していた。(以下略)

とある。この「将軍しょうぐん楽方がくほう」が、「楽広がくこうの父」と同一人物なのか別人なのかは不明だが、年代的には同一人物でもおかしくはない。


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第2世代(楽広)

楽広がくこう彦輔げんほ

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん淯陽県いくようけんの人。父は楽方がくほう

父の楽方がくほうが早くに亡くなってしまったため、楽広がくこうは貧しい孤児となって兗州えんしゅう山陽郡さんようぐんに仮住まいをしていたので、彼を知る者は誰もいなかった。

楽広がくこうは無欲な性格で見識にすぐれ、欲望のために他人と争うことがなかった。非常に談論にすぐれ、いつも短い言葉でわかりやすく話したが、自分が知らない事に関しては口を出さなかった。

ある時、裴楷はいかい楽広がくこうまねいて夕方から朝方まで語り合ったが、互いに敬意を払い続けていたので、裴楷はいかいは「私にはかなわない」と感歎かんたんしたと言う。


王戎おうじゅう荊州刺史けいしゅうししとなると、「楽広がくこう夏侯玄かこうげんに高く評価された話」を聞いて楽広がくこう秀才しゅうさいに推挙し、裴楷はいかいもまた楽広がくこう賈充かじゅうに推薦したので、ついに太尉掾たいいえんまねかれ、太子舎人たいししゃじんに転任した。

朝廷の長老(耆旧ききゅう)である尚書令しょうしょれい衛瓘えいかんは、正始せいし年間に名士たちと談論してきたが、楽広がくこうを高く評価して息子たちに楽広がくこうを訪ねるように命じ、王衍おうえんも「人と語る時は簡潔を心掛けてきたが、楽広がくこうを見ると『自分の言葉は繁雑はんざつだった』とさとったよ」と言った。

その後楽広がくこうは地方に出て元城県令げんじょうけんれいに任命され、中書侍郎ちゅうしょじろううつり、太子中庶子たいしちゅうしょしに転任し、侍中じちゅう河南尹かなんいんを歴任した。

逸話①
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潘岳(潘嶽)の名文

楽広がくこうきよらかな言葉をつむぐことを得意としていたが、文章を書くことは苦手としていたので、河南尹かなんいんを辞退するに及んで、文章が得意な潘岳はんがく潘嶽はんがく)に上表文の作成をうた。

そこで、潘岳はんがく潘嶽はんがく)に思いをたずねられた楽広がくこうが2百句語にまとめて思いを述べ、潘岳はんがく潘嶽はんがく)がそれを元に名文を作り上げた。当時の人々は「もし楽広がくこう潘岳はんがく潘嶽はんがく)の筆を借りず、潘岳はんがく潘嶽はんがく)が楽広がくこうの思いを聞かなければ、この名文はできなかっただろう」と言った。

杯中の蛇影

親しかった客が久しくたずねて来ないので、楽広がくこうがその理由を聞くと、客は「以前、酒を頂戴ちょうだいしたが、さかずきの中に蛇がいるのを見て気持ちが悪くなり、その酒を飲んで体調を崩したからです」と答えた。

当時、河南尹かなんいんの役所の壁の上部に突起(角)があり、そこにうるしで蛇がえがかれていたので、楽広がくこうは「さかずきの中の蛇はこれがうつったものである」と思い、前回と同じ場所で客に酒を振る舞った。

楽広がくこうが「酒の中に何か見えるかね?」と聞くと、客は「前回と同じです」と言った。そこで楽広がくこうが理由を話して聞かせると、客は納得して体調もすぐに治った。

夢問答

衛瓘えいかんの孫・衛玠えいかいがまだおさなかった時のこと。楽広がくこうに「人々はなぜ夢を見るのか」とたずね、楽広がくこうは「想像によるものだ」と答えたが、納得がいかない衛玠えいかいは悩み続け、ついには体調を崩してしまった。

そのことを聞いた楽広がくこうはすぐに車の準備を命じ、衛玠えいかいに詳しく説明してあげたところ、衛玠えいかいの病気はたちまち治ってしまった。楽広がくこう嘆息たんそくして「このかしこい子の胸中には、きっと不治のやまいこうこうしつ)などないのだろうなっ!」と言った。


楽広がくこうは地方官として在任していた当時こそ目立った功績はなかったが、職を去る時はいつも、彼が残した恩愛が人々にしたわれた。

楽広がくこうが人を論評する時はいつも、まずその人の長所をめたので、言葉にせずとも短所を気づかせることができた。また人に過失があれば、まず寛容かんように許し、しかる後に善悪を気づかせた。

楽広がくこう王衍おうえんは共に心を世俗の外に置いており、当時から名声が高かった。ゆえに天下の人々は王衍おうえん楽広がくこうを「風流者」の筆頭にげた。

逸話②
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裴頠と楽広の人物評

楽広がくこうは若い頃、司隷しれい弘農郡こうのうぐん出身の楊準ようじゅん楊准ようじゅん)と仲が良かった。

楊準ようじゅん楊准ようじゅん)には楊喬ようきょう楊髦ようぼうという2人の息子がおり、どちらも世に名を知られていた。

楊準ようじゅん楊准ようじゅん)がまず2人の息子に裴頠はいぎを訪問させたところ、裴頠はいぎ寛容かんよう実直じっちょく(弘方)な性格で、楊喬ようきょうに高尚なおもむきがある(高韻)ことを気に入り、「楊喬ようきょうけいとなるだろう。楊髦ようぼうは兄より少し劣る」と言った。

次に楽広がくこうを訪問させると、楽広がくこう清廉せいれん質朴しつぼくな性格で、楊髦ようぼう清廉せいれんで礼儀正しい*1ことを気に入り、「楊喬ようきょうおのずとけいとなるだろう。楊髦ようぼうもまた清廉せいれんさによって出世するだろう」と言った。

2人の批評を聞いた楊準ようじゅん楊准ようじゅん)は笑って「我が子2人の優劣は、そのまま裴氏はいし裴頠はいぎ)と楽氏がくし楽広がくこう)の優劣である」と言い、論者は「楊喬ようきょうには高尚なおもむきがあるが、清廉せいれんさや礼儀正しさに欠ける。楽広がくこうの批評の方が的を得ている」と言った。 


当時、王澄おうちょう胡毋輔之こぶほしらはみな奔放ほんぽうで、裸になる者までいた。楽広がくこうはそれを聞くと笑って「儒教じゅきょうの教え(名教)の中に楽しめる境地があるのに、どうしてそんなことをする必要があろうか」と言った。

楽広がくこうがふとした時に物事の真理を言い当てる様子はいつもこのようであり、世の中が危機にひんして朝廷の秩序が乱れていても、楽広がくこうみずからの清廉せいれんさと中立をたもっていた。

官舍の怪奇現象

これより以前、河南尹かなんいんの官舍には怪奇現象(妖怪)が多かったので、前任の河南尹かなんいんは官舍の寝室を利用しなかったが、楽広がくこうは気にせずその部屋で過ごした。

またある時、外扉が勝手に閉まったことがあり、左右にいた人々はみな驚いたが、楽広がくこうだけは平然としていた。外扉の方を見てみると壁に穴があったので、使用人に掘り広げさせてみると、たぬきが見つかり、そのたぬきを殺したところ、怪奇現象はなくなった。


西晋せいしん永康えいこう元年(300年)に愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)が廃位されると、みことのりを下して太子たいし司馬遹しばいつ)の旧臣たちに見送りを禁じたが、その多くは気持ちをおさえきれず、みな禁令を破って太子たいし司馬遹しばいつ)を見送った。

司隷校尉しれいこうい満奮まんふん河南中部かなんちゅうぶに命じ、見送った者を捕縛して牢獄に送らせたが、楽広がくこうはすぐに彼らを釈放してしまったので、人々は楽広がくこうに代わってあやぶみおそれた。

そこで孫琰そんえん賈謐かひついて、

「以前、太子たいし司馬遹しばいつ)に罪悪があったとして廃位されましたが、太子たいし司馬遹しばいつ)の旧臣たちは厳格なみことのりおそれず、罪を犯してまで見送りました。今もし旧臣たちをごくつなげば、太子たいし司馬遹しばいつ)の善行を際立たせてしまいます。釈放すべきです」

と言った。賈謐かひつ孫琰そんえんの言葉に納得し、楽広がくこうは罪に問われずに済んだ。


吏部尚書左僕射りぶしょうしょさぼくやうつった。のち東安王とうあんおう司馬繇しばよう尚書僕射しょうしょぼくやとなるにあたり、楽広がくこう尚書右僕射しょうしょゆうぼくやに転任させて吏部尚書りぶしょうしょを取り仕切らせ、その後、王戎おうじゅうに代えて尚書令しょうしょれいとした。*2

楽広がくこうは、王戎おうじゅうによって秀才しゅうさいに推挙されたのを初めとして、最終的に王戎おうじゅうの位を継承するところまで昇ったので、当時の人々はこれをたたえた。


成都王せいとおう司馬穎しばえい楽広がくこう婿むこであった。

司馬穎しばえい長沙王ちょうさおう司馬乂しばがいと対立するに及び、地位が低い者たち(群小)は、朝廷の高官であった楽広がくこう司馬乂しばがい誹謗中傷ひぼうちゅうしょうした。

司馬乂しばがい楽広がくこうを問いめると、楽広がくこうは顔色1つ変えず「1人の娘のために5人の息子を犠牲ぎせいにするでしょうか?(司馬穎しばえいと内通するわけがありません)」と答えたが、司馬乂しばがいはそれでも疑念を解かなかったので、楽広がくこううれいの中で亡くなってしまった。

楽広がくこうが助からなかったと聞いた荀籓じゅんはんは、彼のために涙を流した。

脚注

*1原文:神検(指清秀超逸的儀表)。

*2尚書令しょうしょれい尚書台しょうしょだいの長。
尚書僕射しょうしょぼくや尚書右僕射しょうしょゆうぼくや尚書令しょうしょれいの次官。
吏部尚書りぶしょうしょ尚書しょうしょそう(部門)の1つ。
吏部尚書左僕射りぶしょうしょさぼくや吏部尚書りぶしょうしょの次官?


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楽凱がくがい弘緒こうしょ

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大司馬だいしば斉王せいおう司馬冏しばけいえん(属官)となり、その後参驃騎軍事さんひょうきぐんじとなった。


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太傅たいふ東海王とうかいおう司馬越しばえつえん(属官)となった。

西晋せいしん永嘉えいか5年(311年)に洛陽らくよう陥落かんらくすると、兄弟で連れ立って南に向かい長江ちょうこうを渡った。


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【三国志人物伝】総索引