正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉙(賈氏・賈信・賈琮・賈彪・賈輔・賈龍)です。
スポンサーリンク
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
スポンサーリンク
か㉙
賈(か)
賈氏(鍾繇の妻)
生没年不詳。鍾繇の後妻。
鍾繇の夫人・張氏が妊娠すると、正室の孫氏は嫉妬により、張氏の食事の中に毒薬を入れた。
張氏は中毒症状を起こし、気がついて吐き出したが、目眩が数日間続いた。張氏は孫氏と争うことは「家を破滅させ国を危険に陥れる行為」だと言い、ただ病気と称して鍾繇と会わなかった。
すると孫氏は鍾繇に「側室が男の子を欲しがりましたので、男の子をもうける薬を飲ませたのに、毒を入れられたと申しております」と言った。これを不審に思った鍾繇は「男の子をもうける薬なら良いことだ。それをこっそり食事の中に入れて与えるとは、人情に外れているぞ」と言い、世話係に訊問するとすっかり白状したので、孫氏は離縁された。黄初6年(225年)、張氏は鍾会を生み、恩寵はいよいよ高まった。
鍾繇は孫氏を離縁した後、改めて賈氏を正妻として娶った。
『魏書』鍾会伝の注で裴松之は「鍾繇は当時年老いていたのに正妻を娶っている。おそらく『礼記』曾子問篇に述べる『宗子(本家の嫡男)は70歳になっても、主婦(家を切り盛りする妻)がなくてはならぬ』という建前からであろう」と言っている。
「賈氏」の関連記事
賈信
生没年不詳。曹操の部将。
建安8年(203年)春3月、曹操は冀州・魏郡・黎陽県を攻撃して袁尚・袁譚を大いに撃ち破った。
夏4月、曹操は袁尚・袁譚を鄴県まで追撃してその地の麦を奪取し、さらに張遼と楽進に命じて冀州・魏郡・陰安邑を陥落させ、その住民を司隷・河南尹に移住させた。
この時、将軍たちは勝ちに乗じて最後まで彼らを攻撃しようとしたが、郭嘉は、
「袁紹はこの2人の男子(袁尚・袁譚)を可愛がっていましたが、後継者を選べませんでした。郭図と逢紀が彼らの謀臣となっていますが、その間で必ずや争いが起こり、離れ離れとなるでしょう。事を急げば彼らは助け合います。攻撃を緩めれば、後に争いの心を起こします。ここは南方の荊州に向かい、劉表を征伐するような振りをして、彼らの変化を待つ方がよろしいでしょう。変化がはっきりした後に彼らを攻撃すれば、一挙に平定できます」
と言った。
5月、曹操は郭嘉の進言に従い、黎陽県に賈信を残して駐屯させ、軍を引いて豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還した。
建安16年(211年)、曹操が馬超を征討した時、曹丕が留守を守り、程昱を軍事に参与させた。
田銀・蘇伯らが冀州・河間国で反乱を起こすと、曹丕は将軍の賈信を派遣して彼らを討伐し、賊のうち千余人が降伏を願い出た。
「賈信」の関連記事
賈琮・孟堅
生没年不詳。兗州・東郡・聊城県の人。霊帝期の交阯刺史・冀州刺史。
孝廉に推挙され、再遷して司隷・河南尹・京県の県令となり、その治政に功績があった。
元々交阯刺史部には珍しい産物が多く、明璣(透き通った珠)・翠羽(翡翠)・犀・象・玳瑁(鼈甲)・珍しい香料・美しい材木など、自然に生じない物はなかった。
前後の刺史は大抵品行方正ではなく、上は権力者の意向を受け、下は私材を蓄え、財産が充足すると、また交阯刺史部から転任されることを求めたので、吏民は怨み叛いた。
中平元年(184年)、交阯刺史部の駐屯兵が謀反し、交阯刺史と合浦太守を捕らえて自ら柱天将軍と称した。
これに対応するため、霊帝が特に三府に勅命を与えて能吏を選出させたところ、役人が賈琮を推挙し、賈琮は交阯刺史に任命された。
州に到着した賈琮が反乱の実情を尋ねたところ、みな「税の取り立てが厳しく、人々はみな財産が尽き果ててしまいましたが、京師[洛陽(雒陽)]は遙か遠くて窮状を報告することもできず、民は生活を楽しまず、そのため集まって盗賊になっているのです」と言った。
賈琮は直ちに布告文を出して告示し、それぞれ自分の生業に戻らせ、逃げ去った者を呼び戻し、徭役(労役)を免除し、賊の頭で大きな損害を与えた者を誅殺し、善良な官吏を選んで、諸県で試験・採用した。これにより、交阯刺史部の混乱は1年で平定され、人々は落ち着くことができた。
世間ではこれについて、「賈父(賈琮)の到来が遅かったから、私に先に反乱を起こさせたのだ。今、平静な世の中となり、役人は民家に立ち寄って飯を食べなくなった」と歌った。
賈琮が在任して3年、13州の中で治績が最も優れていたため、徵召されて議郎を拝命した。
当時、黄巾賊が敗れたばかりで、兵禍の後のため郡県では税が重く、あれこれと因縁をつけて姦悪な事態が生じていた。
詔書によって刺史と二千石以上の官を選定し、改めて清廉で能力のある役人を選んだところ、賈琮は冀州刺史に任命された。
旧典によれば「4頭立ての馬車に赤い垂れ幕を着けて新たな刺史を州の境まで出迎える」ものであるが、賈琮は州に向かうにあたって車に登り、「刺史とは遠くまでよく見て、広きに渡ってよく聞き、美悪を糾明し、見極めるべきものである。どうして垂れ幕などを着けて自分を掩い塞ぐ必要があろうか?」と言い、御者に命じて垂れ幕を上げさせた。
この噂を聞いた冀州の郡県では、みな賈琮を慎み畏れ、収賄の罪がある者は勝手に印綬を置いて去って行った。
ただ冀州・鉅鹿郡・癭陶県の県長・董昭と冀州・安平国・観津県の県長・黄就だけが官に残ったまま賈琮の到着を待った。これにより州境は1つにまとまった。
霊帝が崩御すると、大将軍の何進は賈琮を表彰して度遼将軍に任命したが、在職中に亡くなった。
「賈琮」の関連記事
賈彪・偉節
生年不詳〜建寧2年(169年)以降没。豫州(予州)・潁川郡・定陵県の人。
若い頃、何顒・郭泰らと京師[洛陽(雒陽)]に遊学し、慷慨の志*2を持ち、同郡出身の荀爽と名声を等しくした。
初めて州郡に出仕し、孝廉に挙げられ、豫州(予州)・汝南郡・新息県の県長となった。
当時の領民は貧困に喘いでおり、多くの者は生んだ子を育てられない有り様だったので、賈彪は厳しく間引き(口減らしのため嬰児を殺すこと)を取り締まる制度を作り、「嬰児を殺すことは殺人と同罪である」とした。
ある時、城の南に殺人を犯した強盗がおり、北には子を殺した婦人がいた。城を出て事件現場に赴いて取り調べることになったが、掾吏は賈彪を南に連れて行こうとした。
すると賈彪は怒って「強盗が人を殺すことは普通の道理である。母子がお互いに殺し合うのは、天に逆らい道に違う行為である」と言い、そのまま車を駆って北へ行き、子を殺した母の罪を取り調べた。城の南の賊はこれを聞き、自ら後ろ手に縛った状態で自首した。
数年の間に、子を育てる人は千を単位に数えられ、みなが「賈父(賈彪)がお育てになった」と言い、男を生めば賈子と名付け、女を生めば賈女と名付けた。
延熹9年(166年)、「第1次党錮の禁」が起こり、太尉の陳蕃はこれと争ったが勝つことはできなかった。朝廷の人々は肝を冷やし、この事についてあえて口にする者はいなかった。
賈彪は志を同じくする者に「吾が西[洛陽(雒陽)]に行かなければ、大きな禍(党錮の禁)は解けない」と言って洛陽(雒陽)に入ると、城門校尉の竇武・尚書の霍諝を説得した。これにより竇武たちは党錮の解除を訴え、桓帝は党人に大赦を行った。
李膺は出獄すると「吾が赦免されたのは、賈彪の謀のお陰である」と言った。
これより以前、岑晊は「党錮の禁」に遭って逃亡し、親友の多くは彼を匿ったが、1人賈彪だけは門を閉じて受け入れなかった。当時の人はこれを怨んだが、賈彪は「『春秋左氏伝』隠公11年に『時勢を見て行動し、後世の人を煩わせることのないようにする』とある。岑晊は君(の成瑨に張汎を捕らえるよう)求めて罪を得たのであり、自分から咎を残したのである。吾は武器を振るって追っ手の役人と対することはできない。却ってこれを匿うことなどできようか?」と言ったので、みなその判断の正しさに感服した。
(第2次党錮の禁の際、)党人であるとして官途を閉ざされ、自宅で亡くなった。
賈彪の兄弟3人はいずれも高い名声があり、賈彪が最も優れていた。ゆえに天下の者は彼らを称して「賈氏の三虎、偉節(賈彪の字)最も勇猛なり」と言った。
脚注
*2世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。
「賈彪」の関連記事
賈輔
生没年不詳。魏の中領軍司馬。
魏の景元4年(263年)、魏によって蜀が平定されると、鍾会は反乱を計画して遠征中の将兵を集め、武力によって威嚇し、初めて悪巧みを口にした。その発言は凶悪を極め、人々を脅迫して互いに議論させたが、突然の事態っだったのでみな驚愕し、恐怖に打ち震えていた。
この時、相国左司馬の夏侯和(夏侯和)と騎士曹属の朱撫は使者として成都に滞在しており、中領軍司馬の賈輔と郎中の羊琇はそれぞれ鍾会の軍務に参与していたが、夏侯和(夏侯和)・羊琇・朱撫はみな節義を高く掲げて挫けることなく、鍾会の凶悪な発言を拒否し、危険を前にして一身を顧みず、正義の言葉は激烈を極めた。
賈輔は、散将の王起に「鍾会は邪悪で凶暴な男だ。将兵を悉く殺そうとしている」と語り、また「相国(司馬昭)はすでに30万の軍勢を率いて西へ向かい、鍾会を討伐しようとしておられる」と言うなど、有利な状勢を誇張して宣伝し、人々の心を奮い立たせようとした。
王起は退出すると、賈輔の言葉を諸軍に言いふらしたため、将兵の心はいよいよ勇み立った。
この働きにより、夏侯和(夏侯和)と賈輔は郷侯に、羊琇と朱撫は関内侯に封ぜられ、王起は賈輔の言葉を宣伝し、将兵に知らせた功績によって特別の恩賞が与えられ、部曲(部隊)の将に任命された。
「賈輔」の関連記事
賈龍
生没年不詳。益州・蜀郡の人。後漢末期の益州従事。
中平5年(188年)、益州の逆賊・馬相、趙祗らは益州・広漢郡・緜竹県において自ら黄巾と号し、役務に疲れ切った民衆を寄せ集めて1、2日のうちに数千人を手に入れ、まず手始めに緜竹県の県令・李升を殺害し、官民を糾合して合計1万余人にふくれ上がった。
馬相、趙祗らはたちまち進攻して雒県を撃ち破り、益州を攻撃して刺史の郤険を殺害し、さらに蜀郡・犍為郡に到達し、1ヶ月のうちに蜀郡・広漢郡・犍為郡の3つの郡を破壊した。
馬相は自ら天子と称し、その軍勢は5桁の数に達した。
益州の従事・賈龍は、私兵・数百人を率いて犍為郡の東の境にいたが、官民を配下に収め、千余人の手勢を獲得して馬相らを攻撃し、数日にして敗走させたので、州内は平穏になった。
賈龍はそこで吏卒を選んで劉焉を迎えにやった。ところが劉焉は、秘かに独立の計画を推し進め、州内の豪族・王咸・李権ら10人余りを殺害して自己の権力を示した。
犍為太守の任岐と賈龍は、この事件により背いて劉焉を攻撃したが、劉焉は任岐と賈龍を撃破して殺害した。
『蜀書』劉焉伝が注に引く『英雄記』には、
「劉焉は旗揚げはしたものの、天下の人々と協力して董卓を討伐しようとせず、益州を保持して自己の地位を守るのみだった。犍為太守の任岐は勝手に将軍と名乗り、従事の陳超と共に兵を挙げ、劉焉を攻撃したが、劉焉はこれを撃破した。
董卓は司徒の趙謙*3に軍隊を統率させて益州に向かわせると、校尉の賈龍を説得して、軍隊を引き返して劉焉を攻撃させた。
劉焉は青羌の部隊を出陣させて彼らと戦わせたため、賈龍を撃ち破り殺すことができた」
と、賈龍の死についての異説が載せられている。
脚注
*3趙謙が司徒になったのは、王允が董卓を殺害し、董卓の配下によって殺された後である。従って、官名もしくは人名に誤りがあると思われる。
「賈龍」の関連記事
スポンサーリンク