正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉘(賈華・賈季・賈栩・賈原・賈洪)です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か㉘
賈(か)
賈華
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第53回と第54回に登場する。孫権の部将。
合肥の戦い
赤壁の戦いの後、孫権は揚州・九江郡・合肥国を攻めたが、未だ落とせずにいた。
ちょうど孫権の元に「程普の援軍が到着する」という報告が届いた頃、守将の張遼が挑戦状を送って来た。
これに孫権は自ら出陣し、左に宋謙、右に賈華の2人の大将が、方天画戟を手にこれを護衛した。対する曹操軍は、中央に張遼、左に李典、右に楽進である。張遼が真っ先に馬を出して孫権に戦いを挑むと、孫権が応じるよりも早く駆け出した太史慈がその相手となった。
すると楽進がただ1騎、1振りの刀を取って横合いから孫権に斬りかかる。これを宋謙と賈華は2本の戟で受け止めたが、戟は2つに斬り折られ、残った柄で馬の頭を叩きつけると、楽進の馬は後ろに退いた。
宋謙は足軽の槍を取り上げてこれを追ったが、李典の放った矢に射貫かれて落馬し、これに気づいた太史慈は本陣へと引き返した。これにより孫権軍は劣勢となったが、横合いから程普の軍勢が現れたため、張遼も合肥城に引き揚げた。
甘露寺の対面
甘夫人を亡くした劉備は、孫権から「孫権の妹との縁談」を持ちかけられ、これを承諾して南徐を訪れた。
この縁談は「劉備をおびき寄せて荊州を取る」という周瑜の計略であったが、出発の際に孔明が授けた策によって孫権の母・呉太夫人の知る所となり、呉太夫人は「もし劉備を殺したならば、娘は嫁に行かぬ先から若後家となる」と猛反対した。
その結果、劉備と孫権の妹を本当に結婚させることになったが、呉太夫人は「私は婿の顔を見たことがない。もし気に入らなければお前たちの好きにするが良い。もし気に入ったなら、私が娘を(劉備に)やります」と言い、甘露寺で劉備と対面することになった。
この時呂範は「賈華に申しつけて3百人の兵を伏せておき、太夫人がお気に入らぬようであれば、一声の合図で斬って出て、劉備を討ち果たしてはいかがでございましょう」と進言し、孫権は賈華を呼び出してそのように言いつけた。
孫権との挨拶が終わり、呉太夫人と対面すると、呉太夫人は劉備をたいそう気に入った。そこへ趙雲がやって来て、劉備に「伏兵の存在」を耳打ちすると、劉備は太夫人の前に跪き、涙を流して、「劉備を討ち果たさんとのお心ならば、この場において御手にかかりたく存じまする」と言った。
「何ゆえそのようなことをされるのか」と驚く呉太夫人に、劉備が「廊下に兵が隠れておりますのは、私を討たんとの手筈に相違ございますまい」と言うと、呉太夫人は大いに立腹し、孫権を叱りつけた。
孫権は「自分は知らないことです」と言い、呂範を呼んで問うた。呂範もまた「賈華がやったことです」と言うので、呉太夫人は彼を呼ばせたが、賈華は黙ったまま言葉を返すことができなかった。
呉太夫人は「こ奴の首を打てっ!」と叱りつけたが、劉備と喬国老の取りなしによって許された。
賈季(狐射姑)
生没年不詳。春秋時代の晋の大夫・狐偃の長子。晋の文公の表弟*1にあたる。元の名は狐射姑、字は季。狐夜姑とも。
晋の重耳(文公)に従って19年間流浪し、文公が即位すると賈に封侯され、賈季と称するようになった。『新唐書』宰相世系五下によると、賈詡の家系の始祖にあたる。
晋の襄公の死後、趙盾との政争に敗れて狄に亡命して起用された。
『魏書』邴原伝の中で、北海相・孔融が、自分の下を去った邴原に送った書簡の中に名前が登場する。
脚注
*1父の姉妹、または母の兄弟姉妹の息子で年下の従兄弟。
賈栩
生没年不詳。司馬懿の部将。
魏の太和5年(231年)、蜀の諸葛亮が祁山を包囲したが、魏では大司馬の曹真が病気のため、司馬懿が荊州より入朝して祁山の救援にあたることとなった。
この時司馬懿は、雍州・永陽郡・上邽県の東で諸葛亮の軍と遭遇したが、軍兵を引っ込めて要害に立て籠もったため、諸葛亮は戦いを交えることができずに引き揚げた。
司馬懿が諸葛亮を追って鹵城まで来たところで、張郃が「この地に駐留し、兵を分けて奇襲部隊を編成し、敵の背後を突く態勢を示す」よう進言したが、司馬懿は承知せず、そのまま諸葛亮を追った。
到着すると、司馬懿はまたもや山上に登って塹壕を掘り、戦おうとしなかった。
この時、賈栩や魏平は「公(司馬懿)は蜀を虎のように恐れておいでです。世間の笑いものになったらどうなさいますか」と度々戦うことを要請し、諸将もみな戦うことを求めたので、司馬懿は悩まされた。
5月、司馬懿は張郃に、祁山を囲んで南に陣取る無当監(蜀の精鋭軍の指揮官)・何平(王平)を攻撃させ、自らは真ん中の道から諸葛亮に向かった。
何平(王平)は守りを固めて動かず、諸葛亮は魏延・高翔・呉班を防衛に送り、これを大いに破って、3千級の首、5千領の玄の鎧、3,100張の弩を獲得した。司馬懿は陣に帰って立て籠もった。
「賈栩」の関連記事
賈原
生没年不詳。呉の御史。
孫権は心中秘かに、輔義中郎将の張温が蜀の政治を賛美したことを不快に思っており、加えて彼の名声が大きく、人々の心を惹きつけており、結局は自分の言うままに働かないであろうと疑って、彼を貶める機会を窺っていた。
張温と親しかった曁豔(曁艶)と徐彪が讒言されて自殺すると、孫権は張温を幽閉してその罪を言い立てたが、その中で、
「張温は、賈原に対して『あなたを御史にしてやろう』と言い、蔣康(蒋康)には『あなたを賈原の後のポストにつけよう』と言ったが、これは妄りに国家の恩恵をちらつかせて、自分の勢力を増そうとしたものだ」
と言った。これに将軍の駱統は、
「賈原がその職務に励まず、事を処理する能力がなかった時、張温はしばしば面と向かって蔑みの表情を見せ、きつい言葉で彼を弾劾いたしました。もし本当に恩を売って仲間を集め、叛逆を企てるのでありますならば、賈原ばかりに執着する必要もなかったのでございます」
と張温を擁護したが、孫権は結局この意見を取り上げなかった。
賈洪・叔業
生没年不詳。司隷・京兆尹・新豊県の人。7人の儒学の宗家の1人。
学問好きで才能があり、特に『春秋左氏伝』に詳しかった。
建安年間(196年〜220年)の初め、郡に仕えて計掾に取り立てられ、州の辟召きに応じた。
当時、州には参軍事以下・百余人の顧問がいたが、ただ賈洪と左馮翊出身の厳苞だけが才能学識共に最も高かった。賈洪は3つの県令を歴任したが、どこにおいても必ず厩舍を改造して自ら学生に教授した。
後に馬超が反乱を起こすと、馬超は賈洪を脅迫して司隷・弘農郡・華陰県に出頭させ、宣伝文を作らせようとしたので、賈洪は仕方なくそれを作ってやった。
司隷校尉の鍾繇は東にいたが、その文を見分け、「これは賈洪の作だ」と言った。
馬超が敗走すると、曹操は賈洪を召し出して軍謀掾に任命したが、それでも彼が以前、馬超のために宣伝文を作ったことから官位にはつけなかった。
晩年になってやっと陰泉県長となり、延康年間(220年)に白馬王(曹彪)の相に転任した。賈洪は冗談がうまく、白馬王・曹彪も元々学問好きであったから、常に彼を師と仰ぎ、三卿(王国の3人の大臣)以上に大事にされた。
それから数年、50余歳で病死したが、当時の人々は「彼の官位が二千石に昇らなかった」ことを残念に思った。
『魏略』は賈洪・董遇・邯鄲淳・薛夏・隗禧・蘇林・楽詳ら7人を儒学の宗家としている。
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