正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉗、南陽郡賈氏(賈復・賈忠・賈邯・賈宗・賈敏・賈育・賈参・賈長・賈健)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
南陽賈氏系図
南陽郡賈氏系図
この記事では南陽郡賈氏の人物、
についてまとめています。
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か㉗(南陽賈氏)
第1世代(賈復)
賈復・君文
生年不詳〜後漢の建武31年(55年)没。荊州・南陽郡・冠軍県の人。子に賈忠、賈邯、賈宗。
若い頃から学問を好み、『尚書』を学んだ。荊州・南陽郡・舞陰県出身の李生に師事し、李生は賈復を奇才として、門人に「賈君(賈復)の容貌や志気はこのようであり、しかも学問に勤めている。『将相の器』である」と評価した。
王莽の末に冠軍県の掾(属官)となったが、司隷・河東郡に塩を受け取りに行った時、たまたま盗賊に遭った。同行した10余人はみな塩を放り出して逃げたが、ただ賈復 1人だけは塩をすべて持って県に帰ったので、県の者たちは彼の信義を称賛した。
この頃、下江軍と新市軍が挙兵し、賈復も羽山に数百人の部下を集め、自ら将軍と名乗った。
更始帝(劉玄)が即位すると、早速自分の部下を率いて漢中王・劉嘉の下に行き、校尉となった。
賈復は更始帝(劉玄)の政治が乱れ、諸将が勝手に振る舞っているのを見て、劉嘉に、
「臣は『堯や舜のようにしようとして至らなかった者が、殷の湯王と周の武王であり、湯王や武王のようにしようとして至らなかった者が、斉の桓公と晋の文公であり、桓公や文公のようにしようとして至らなかった者が六国であり、六国の規範を定め、これを安んじて守ろうとして至らなかった者が、六国を滅ぼした秦である』と聞きます。今、漢室は中興し、大王(劉嘉)は親戚であることから藩屏(皇帝の守護)となられましたが、天下は未だ定まっておらず、安んじて保っている所を守ろうとしていても、保っている所を保つことはできないのではないでしょうか。(天下統一のために進んで戦われるべきです)」
と言うと、劉嘉は、
「卿の言うことは壮大過ぎて、私の手に負えることではない。大司馬の劉公(劉秀)は河北にいて、必ずや良く用いてくれるだろう。私の書状を持って行きなさい」
と言った。
そこで賈復は書状を受け取って劉嘉の下を辞去し、北へ向かって黄河を渡り、柏人で劉秀に追いつくと、鄧禹によって召されて謁見することができた。
すると劉秀は賈復を「奇才である」とし、鄧禹も「将軍の節がある」と称賛した。そこで賈復を破虜将軍(劉秀)の督盗賊に任命すると、賈復の馬が痩せていたので、劉秀は左の驂を解いて彼に下賜した。
これに劉秀の属官たちは、賈復が後から来たにもかかわらず厚遇され過ぎていると感じ、鄗県(後の冀州・常山国・高邑県)の県尉に転任させようとしたが、劉秀は「賈復は千里の外で敵を追い払うほどの威厳があり、相応しい職に任命しようと思っているのだ。勝手に任命するようなことをしてはならぬ」と言った。
劉秀は信都(冀州・信都郡・信都県)に至ると、賈復を偏将軍とし、邯鄲(冀州・趙国・邯鄲県)を攻略すると都護将軍に任命した。
従軍して射犬(司隷・河内郡・野王県)で青犢の賊を撃ち、大いに戦って正午となったが、賊の陣は堅く退かなかった。劉秀は伝令を送って賈復を呼ぶと「吏士はみな腹を空かせている。一先ず朝飯にしよう」と言ったが、賈復は「先にこいつらを破ってから食べましょうっ!」と答え、そこで旗を背負って真っ先に敵陣に赴くと、賊を敗走させたので、諸将はみなその勇気に感服した。
また、北に向かって五校の賊と真定県で戦い、大いにこれを破った。賈復が瀕死の重体となっているのを知った劉秀は大いに驚いて「私が賈復を別働隊としなかったのは、敵を軽んじるからだ。心配した通り、私は名将を失ってしまった。賈復の妻は子を孕んでいると聞く。もし女を生めば我が子が娶り、男を生めば我が娘を嫁がせよう。賈復の妻子を悲しませてはならない」と言った。
幸いにも賈復の傷は癒え、薊(幽州・広陽郡・薊県)で劉秀に追いついた。賈復と再会した劉秀は大変喜び、士卒を大いにもてなして、その際、賈復を前に居させた。その後、鄴(冀州・魏郡・鄴県)で賊を撃ち、これを破った。
光武帝(劉秀)が即位すると、賈復を執金吾とし、冠軍侯に封じた。
賈復は、先に黄河を渡って朱鮪を洛陽(雒陽)に攻め、白虎公の陳僑と戦い、何度も破って陳僑を降伏させた。
建武2年(26年)、賈復は荊州・南陽郡の穣県と朝陽県の2県を加増された。
この時まだ、更始帝(劉玄)配下の郾王・尹尊をはじめ、南方にはまだ降伏していない諸大将が多かった。
光武帝(劉秀)は諸将を召して軍議を開いたが、誰も発言する者はなかった。光武帝(劉秀)は長い間黙り込んでいたが、いきなり木簡で地面を叩き、「郾[豫州(予州)・潁川郡・郾県]が最も強く、宛(荊州・南陽郡・宛県)がそれに次ぐ。誰がこれを撃つべきか?」と言った。
これに賈復が「臣めに郾を撃たせてください」と答えると、光武帝(劉秀)は笑って「執金吾(賈復)が郾を撃つなら私には何も憂いはないっ!大司馬(呉漢)は宛を撃て」と命じた。
そこで賈復は騎都尉・陰識と驍騎将軍・劉植と共に南に向かい、五社津を渡って郾を撃ち、何度も尹尊を破った。一月余りして尹尊は降伏し、その地をすべて平定した。引き返して東に向かい、更始帝(劉玄)配下の淮陽太守・暴汜を撃つと、暴汜は降伏し、属県はすべて平定された。
その秋、南に向かって召陵[豫州(予州)・汝南郡・召陵県]と新息(同・新息県)を撃ち、これを平定した。
翌年春、左将軍に遷り、別働隊として新城(司隷・河南尹・新城県)と澠池(司隷・弘農郡・澠池県)の辺りで赤眉を撃ち、何度もこれを破り、光武帝(劉秀)と宜陽(司隷・弘農郡・宜陽県)で合流し、赤眉を降伏させた。
賈復は光武帝(劉秀)の征伐に従って、未だかつて敗北したことがなく、しばしば諸将と共に包囲を潰して危機を救い、その身体に12の傷を受けていた。光武帝(劉秀)は賈復が敢えて敵陣深くまで攻め入るので、遠征させることは稀であったが、その勇節を「壮」として常に自ら賈復を従えていた。それゆえ賈復は方面軍としての勲功は少なかった。
諸将はいつも功を論じて自分を誇っていたが、賈復は未だかつて功績を口にしたことはなかった。光武帝(劉秀)はそこで「賈君(賈復)の功績は、私自らが知っている」と言った。
建武13年(37年)、賈復は膠東侯に封ぜられ、食邑として郁秩県・壮武県・下密県・即墨県・梃県・観陽県の6県が与えられた。
賈復は光武帝(劉秀)が戦争を止めて文徳を修めようと考え、功臣たちが京師[洛陽(雒陽)]で軍隊を抱えることを望まないと知って、高密侯・鄧禹と共に兵士を削減し、熱心に儒教に努めた。光武帝(劉秀)はこれに深く頷き、ついに左右将軍を廃止した。
賈復は列侯として屋敷に帰り、特進の位を加えられた。賈復の人となりは、剛毅方直で節義に富んでいた。私邸に帰ると、門を閉ざして威厳を養った。
朱祐らは「賈復が宰相となるべきだ」と薦めたが、光武帝(劉秀)は実務によって三公を求めたので、功臣はみな用いられなかった。この時、列侯はただ高密侯・鄧禹と固始侯・李通、膠東侯・賈復の3侯のみが公卿と共に国家の大事に参議し、その恩遇は大変厚かった。
建武31年(55年)に亡くなり、剛侯と諡された。
「賈復」の関連記事
第2世代(賈忠・賈邯・賈宗)
賈忠
生没年不詳。荊州・南陽郡・冠軍県の人。父は賈復。子に賈敏。弟に賈邯、賈宗。
父の賈復が亡くなると、その後を継いだ。
賈邯
生没年不詳。荊州・南陽郡・冠軍県の人。父は賈復。子に賈育。兄に賈忠。弟に賈宗。
建初元年(76年)、賈復の嫡流の賈敏が「(賈敏の)母が人を殺したと誣告*1した罪」に連坐して国を除かれた。
章帝は改めて賈復の子・賈邯を膠東侯*2に封じ、賈邯の弟・賈宗を即墨侯に封じて、それぞれ1県を食邑とした。
脚注
*1故意に事実と異なる内容で人を訴えること。
*2父の賈復の爵位。
賈宗・武孺
生年不詳没。荊州・南陽郡・冠軍県の人。父は賈復。子に賈参。兄に賈忠、賈邯。
若くして節操のある行いをし、智略に長けていた。初め郎中を拝命し、いくつかの官職を経験して建初年間(76年〜84年)に朔方太守となった。
建初元年(76年)、賈復の嫡流の賈敏が「(賈敏の)母が人を殺したと誣告*1した罪」に連坐して国を除かれた。
章帝は改めて賈復の子・賈邯を膠東侯*2に封じ、賈邯の弟・賈宗を即墨侯に封じて、それぞれ1県を食邑とした。
中央に近い郡から移住させられて辺境にいる者は、貧しく弱い者が多く、地元の人によって使役されており、官吏となることができなかった。
賈宗は、その職に相応しい者を抜擢して用い、辺境の官吏と共に郷挙里選の対象とし、お互いに監視させて悪事を摘発させた。これにより、ある者は実力によって長吏に任命されたので、各々死ぬまで尽くそうと願った。
匈奴は賈宗を恐れ、敢えて塞(後漢の国内)に入ろうとしなかった。その後、徵召されて長水校尉となった。
賈宗は儒教に通じていたので、章帝は宴見*3するごとにいつも少府の丁鴻たちと御前で論議させた。
章和2年(88年)に亡くなり、朝廷は憐れみ惜しんだ。
脚注
*1故意に事実と異なる内容で人を訴えること。
*2父の賈復の爵位。
*3君主の暇な時に目通りすること。
第3世代(賈敏・賈育・賈参)
賈敏
生没年不詳。荊州・南陽郡・冠軍県の人。父は賈忠。
父の賈忠が亡くなると、その後を継いだ。
建初元年(76年)、(賈敏の)母が人を殺したと誣告*1した罪に連坐して国を除かれた。
脚注
*1故意に事実と異なる内容で人を訴えること。
賈育
生没年不詳。荊州・南陽郡・冠軍県の人。父は賈邯。子に賈長。
父の賈邯が亡くなると、その後を継いだ。
賈参
生没年不詳。荊州・南陽郡・冠軍県の人。父は賈宗。子に賈建。
父の賈宗が亡くなると、その後を継いだ。
第4世代(賈長・賈建)
賈長
生没年不詳。荊州・南陽郡・冠軍県の人。父は賈育。
父の賈育が亡くなると、その後を継いだ。
賈建
生没年不詳。荊州・南陽郡・冠軍県の人。父は賈参。
父の賈参が亡くなると、その後を継いだ。
元初元年(114年)、和帝の娘である臨潁長公主を妻に迎えた。臨潁長公主は豫州(予州)・潁川郡の潁陰県と許県を食邑としていたので、賈建の食邑と合わせて3県・数万戸を食邑とした。
当時、鄧太后が臨朝*4し、恩寵は最も盛んであり、賈建を侍中とした。
順帝の時に光禄勲となった。
脚注
*4幼い天子(皇帝)に代わって皇太后が政務を執ること。
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