正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧④。陳国何氏[何英・何熙・何臨・何瑾・何阜・何衡・何夔・何曾・何遵・何劭(何邵)・何嵩・何綏・何機・何羨・何蕤(何岐)]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
陳国何氏系図
陳国何氏系図
この記事では陳国何氏の人物、
についてまとめています。
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か③(陳国何氏)
第1世代(何英)
何英
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。子に何熙。
琅邪相[徐州・琅邪国の相(太守)]。
高柔の高祖父(祖父の祖父)・高慎は、誠実そのものの性格で華やかさは少なく、沈着で思慮深い器量を具えており、孤児となった兄の子5人をかわいがって育て、恩義は甚だ厚かった。
琅邪相であった何英はその行為に感心し、娘を娶せた。
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第2世代(何熙)
何熙・孟孫
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。父は何英。子に何臨、何瑾、何阜。曾孫に何夔。
若くして大志を抱き、小さな礼節にはこだわらなかった。身長8尺5寸(約196.35cm)。体格・容貌は大きく立派で、立ち居振る舞いは見事だった。
和帝の永元年間に孝廉に推挙されて謁者となり、殿中で臣下が拝謁する際に号令をかける役となって、その声を辺りに響き渡らせたので、和帝は感心した。その後、選ばれて御史中丞となり、司隷校尉、大司農を歴任する。
安帝の永初3年(109年)、南単于が烏丸と共に背いたので、何熙に車騎将軍を兼ねさせて討伐させた。次々と功績を建てたので、烏丸は降伏を願い出て単于はまた元の通り臣と称したが、たまたま急病で亡くなった。「葬儀は簡略にせよ」と遺言したという。
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第3世代(何臨・何瑾・何阜)
第4世代(何衡)
何衡
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。父は何臨。何夔の叔父。
宦官が政権を握っていた漢末にあって、尚書であった何衡は率直な発言をしたため、党(宦官に反対する儒学者たちの仲間)の中に入れられ、父兄たちはみな官吏の資格を剥奪された。
そのため何夔は、慨嘆(気が高ぶるほど嘆いて心配すること)して「天地は閉ざされ、賢人は隠れた(『易』坤卦)」と言い、首長の任命に応じなかった。
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第5世代(何夔)
何夔・叔龍
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。子に何曾。叔父に何衡。曾祖父に何熙。
幼くして父を失い、母・兄と一緒に暮らしたが、孝行と兄弟の仲の良さを称賛された。身長8尺3寸(約191.73cm)、謹み深く威厳のある容貌だった。
戦乱を避けて淮南に行った。後に寿春に進出した袁術が彼を召し出した時、何夔は応じなかったが、結局袁術に引き止められた。
建安2年(197年)、袁術が橋蕤と豫州(予州)・沛国・蘄県*1を攻撃・包囲した時、袁術は何夔がその郡の人であることから、彼を脅迫して蘄県を説得させようとしたが、何夔は揚州・廬江郡の灊山に逃れ隠れた。袁術の兄・袁遺の母が何夔の従姑であったことから、袁術は何夔を恨みはしたが害を加えることはなかった。
翌年になって陳国に帰ってくると、曹操に召し出されて司空の掾属(属官)となる。曹操は厳しい性格だったので、掾属(属官)はしばしば杖で叩かれたが、何夔は死んでも恥辱を受けまいと、常に毒薬を所持していたので、被害を被ることはなかった。
その後、地方に出て城父県令となり、長広太守に昇進。離反者の多い青州・長広郡*2では黄巾の残党・管承が乱暴を働いていたが、何夔は事の利害を説いて服従させ、牟平県の賊・従銭は張遼と、昌陽県の賊・王営は王欽と共に平定にあたり、10ヶ月の間にすべて平定した。
建安5年(200年)、曹操は初めて新しい条例を制定して州郡に下し、また租税と綿絹を取り立てた。何夔は、郡が設けられたばかりであるし、最近出兵した後であることから、急に法律で取り締まるべきでないと考え、「3年ほどして民が各自の生業に落ち着いた頃を見計らい、改めて彼らを法律によって取り締まる」ように進言し、曹操はこれに従った。
その後[建安13年(208年)以降]、中央に召し返されて丞相(曹操)の軍事に参与したが、海賊の郭祖が青州の楽安国と済南国を荒らし回ったので、その地で権威と信頼をえていたことから楽安太守に任命され、着任数ヶ月で諸城をすべて平定した。
中央に戻って丞相の東曹掾となると、人材登用の方法が乱れていることを指摘して改善策を提示し、曹操を納得させる。魏が建国された後、尚書僕射に任命された。
曹丕が太子に立てられると、何夔は太子少傅に任命され、太子太傅の涼茂が亡くなると何夔が彼に代わった。
太子・曹丕は、太子太傅(何夔)が参内する毎月朔には正式の服装を整えて礼を尽くしたが、他の日には会見の儀礼をとらなかった。
何夔が太僕に昇進すると、太子・曹丕は彼と別れを告げたいと思い、あらかじめ供応の用意をさせ、手紙をやって招待した。ところが何夔は「国家には不変の制度が存在する」と言って、結局この供応の招きに応じなかった。
彼の正道を踏む有り様はこのようであったが、節約・倹約の時代にあって、最も贅沢であった。
文帝(曹丕)が天子の位につくと、成陽亭侯に取り立られ、3百戸の封邑が与えられた。その後重病にかかり、しばしば官位を譲りたいと申し出たが、文帝(曹丕)は「そもそも賢者を礼遇し旧知に親しむのは、帝王の不変のつとめである。親しいということからすれば、君には補佐の勲功があり、賢ということからすれば、君には純粋の美徳がある。そもそも『人知れぬ恩義を施した者は、必ず目に見える返礼を受ける』(『淮南子』人間訓)ものである。今、君の病はまだ癒えないとはいえ、神はそれを知っていらっしゃるであろう。君よ、さあ心を落ち着かせて朕(私)の意に従ってくれよ」と詔勅を下し、何夔の申し出を認めなかった。
死後、靖侯と諡された。
脚注
*1原文は蘄陽。『資治通鑑』胡三省注に従った。蘄県は沛国に属し、何夔は陳国の人なので矛盾する。
*2『資治通鑑』胡三省注に「青州・東萊郡・長広県。当時、曹操は楽進を青州に侵入させ、長広県を収めて郡とした」とある。
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第6世代(何曾)
何曾・穎考
建安4年(199年)〜咸寧4年(278年)没。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。父は何夔。子に何遵(庶子)、何劭(何邵)。
父・何夔の後を嗣いだ。若くして爵位を受け、学問を好んだことで、同郡出身の袁侃と共に名を知られた。
魏の明帝(曹叡)が平原侯であった時にその文学となり、明帝(曹叡)が即位すると、散騎侍郎、汲郡の典農中郎将、給事黄門侍郎、散騎常侍に昇進した。
司馬懿が幽州・遼東郡の公孫淵を討伐しようとした時、何曾は明帝(曹叡)に「今、北伐軍の諸将と太尉の軍はそれぞれバラバラに所属しており、いざという時に互いに連携して統御できません。 臣が思いますに、北伐軍に任命される大臣(司馬懿)には、高い地位と名声を持つ者を選んで顧問兼副官として軍に配属するのが望ましいと思われます。そうすれば、予測できない変化があったとしても心配はありません」と上疏したが、明帝(曹叡)は従わなかった。
地方に出て河内太守となるとその威厳をもって知られ、侍中に任命されたが、母のために官を去った。
魏の嘉平年間(249年〜254年)に司隸校尉に任命されると、天子(曹芳)の寵愛を笠に着る撫軍校事の尹模らを弾劾し、朝廷で称えられた。
曹爽が政権を握り司馬懿が病を称すると、何曾もまた司馬懿に倣って病となり、曹爽が誅殺されると、何曾は曹芳廃位の謀議を預かった。
当時歩兵校尉であった阮籍は才能を誇って驕り、喪中の礼を無視していたので、何曾は司馬昭がいる前で阮籍を責め、司馬昭に彼を排除するように言った。司馬昭は阮籍を庇って排除することはなかったが、人々はこのことによって何曾を敬い憚った。
正元2年(255年)、反乱を起こした毌丘倹(毋丘倹)が誅殺されると、毌丘倹(毋丘倹)の孫娘で潁川太守・劉子元に嫁入りしていた毌丘芝(毋丘芝)が、毌丘倹(毋丘倹)の罪によって身重の身で廷尉に拘留された。娘の母の荀氏は武衛将軍・荀顗の上表のお陰で死刑にされず、すでに放免されていたが、廷尉の元に出頭して官婢となって娘の命を償いたいと願い出た。
何曾は主簿の程咸に次のような審議書を作らせた。
「大魏は秦・漢の疲弊の後を受け、まだ制度を改革するには至っておりません。すでに嫁に出した娘を後から処刑する理由は、実際、悪人の一族を絶滅したいからです。しかし、もしすでに子をもうけております時には、他家の母となっているわけです。それを処刑するとなると、予防の観点からすれば姦悪反乱の根源を懲らしめるに不充分ですし、心情の観点からすれば、孝子の思慕の念を損なうことになります。男は他の氏族の罪に連座することはございませんのに、女だけが両家の処刑に引っかかるのは、弱い女を哀れみ、法律制度の大原則を平等に施行するやり方に外れております。臣が考えますには、嫁入り前の娘は父母の刑罰に従うのがよろしく、すでに婚礼の杯を受けた嫁は、夫の家の処刑に従わせるのが良いと存じます」
朝廷はこの意見に従って法律を制定した。
長年司隸校尉を務めた後で尚書に遷り、魏の正元年間(254年〜256年)に鎮北将軍・都督・河北諸軍事・仮節に任命され、その後征北将軍・潁昌郷侯に進んで、咸熙年間(264年〜265年)の初めには司徒を拝命して郎陵侯に改封された。
司馬昭が晋王となった時、何曾と高柔、鄭沖の3人が三公に任命されたが、謁見の際、何曾だけが深く拝礼し、他の2人は会釈*3しただけであった。
司馬炎が王位につくと、晋の丞相に任命され、侍中を加えられた。
裴秀、王沈らと司馬炎に帝位につくことを勧め、武帝(司馬炎)が即位すると太尉に任命されて公に爵位を進め、食邑1,800戸を与えられる。
西晋の泰始年間(265年〜274年)の初めには、詔によってこれまでの功績を称えられ、太保に任命される。その後司徒に任命され、何曾は固辞したが許されなかった。
その後さらに太傅に位を進め、老齢になって度々辞職を申し出たが認められず、太宰に任命され、前漢の相国・蕭何や田千秋、田千秋、魏の太傅・鍾繇に倣って剣履乗輿上殿の特権を許された。
咸寧4年(278年)に80歳で亡くなった。武帝(司馬炎)は朝堂において素服(喪服の一種)で哀しみ、東園の秘器、朝服1具、衣1襲、銭30万、布100匹を下賜した。
葬儀にあたり、博士の秦秀は何曾の諡を「繆醜」と進言したが、武帝(司馬炎)はこれに従わず「孝」とした。また、西晋の太康年間(280年〜289年)の末に、子の何劭(何邵)の上表により「元」と改められた。
『傅子』は何曾と荀顗を称えて、
「内はその心を尽くしてその親に仕え、外は礼儀・謙譲を尊重して天下に接した。孝子は百代に亘る宗であり、仁者は天下の統率者である。よく仁と孝の道を実行する者がおれば、君子の模範である」
と述べている。
脚注
*3原文:揖。左右の手を胸の前で組み合わせて、これを上下・前後に動かしてする礼。
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第7世代[何遵・何劭(何邵)]
何遵・思祖
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。何曾の庶子。子に何嵩、何綏、何機、何羨。弟に何劭(何邵)。
若い頃から才幹があった。散騎黄門郎、散騎常侍、侍中を歴任し、大鴻臚となる。
奢侈な性格で、御府の工匠に禁じられた物を作らせてそれを売ったため、司隷校尉・劉毅に弾劾されて罷免された。
その後は西晋の太康年間(280年〜289年)の初めに魏郡太守となり太僕卿に遷ったが、また罷免され家で亡くなった。
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何劭・敬祖(何邵)
生年不詳〜永寧元年(301年)没。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。父は何曾。庶兄に何遵。子に何蕤(何岐)。
父・何曾の後を嗣いだ。才能・見識が深遠広大で、国を治める基本を弁えていた。位は父と同じく太宰にまで昇り、康侯と諡された。
司馬炎と同い年で仲が良く、司馬炎が晋王(司馬昭)の太子に立てられると太子中庶子に任命され、武帝(司馬炎)が即位すると散騎常侍に転任し、厚遇された。
何劭は容姿が優雅だったので、遠方からの朝観貢の際には何劭が対応し、その度ごとに武帝(司馬炎)から朝貢の品を賜った。
咸寧年間(275年〜280年)の初め、何劭と兄の何遵は「鬲県令の袁毅から賄賂を受けている」と役人に弾劾され、廷尉に下されたが、武帝(司馬炎)は詔を下して「太保(何劭の父・何曾)と袁毅の家は何代にもわたって交際がある。何遵らが受け取ったものは問題とはならない」と擁護した。その後何劭は侍中尚書に遷った。
恵帝(司馬衷)が即位し、東宮が建てられると、何劭は幼い太子(司馬遹)の太子太師となり、通省尚書事を経て、特進を加えられ尚書左僕射となる。
何劭は博学で、特に近代(秦・漢以降)に精通していた。
永康元年(300年)に司徒となり、趙王・司馬倫が帝位を簒奪すると太宰に任命されたが、3王(司馬冏・司馬頴・司馬顒)が互いに争うようになっても、何劭を怨む者はなかった。
父・何曾に似て驕奢な暮らしを好み、大量の服が積まれ、食費は1日2万銭に及んだという。
何劭と同郷の王詮は「何劭の名声と官位は高すぎる。彼の若い頃については何も記されておらず、ただ夏侯長容(夏侯駿)と博士に助言したことだけが記されているだけだ*4」と言った。
永寧元年(301年)に亡くなり、司徒を追贈され、康と諡された。
脚注
*4惟與夏侯長容諫授博士,可傳史冊耳。
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第8世代[何嵩・何綏・何機・何羨・何蕤(何岐)]
何嵩・泰基
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。父は何遵。弟に何綏、何機、何羨。
度量が広く士を愛し、古書典籍に明るかった。若い頃から清官(名門貴族のみが就くことができる上位の官職)を歴任し、著作郎となった。
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何機
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。父は何遵。兄に何嵩、何綏。弟に何羨。
青州・済南国の鄒平県令となった。
傲慢な性格だったので、郷里の謝鯤らは何機を戒めたが、何機はそれを恥じることはなかった。
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何羨
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。父は何遵。兄に何嵩、何綏、何機。
兗州・済陰郡の離狐県令となった。
傲慢でケチなことでは人を凌駕しており、郷閭(郷里。村里の門の意)の汚点として憎まれていた。西晋の永嘉年間(307年〜313年)の末に何氏は跡形もなく滅んだ。
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何蕤(何岐)
生没年不詳。豫州(予州)・陳国・陽夏県の人。父は何劭(何邵)。
父・何劭の後を嗣いだ。
何劭の後を嗣いだのは、『魏書』何夔伝が注に引く『晋諸公賛』では何蕤、『晋書』何劭伝では何岐とある。
『晋書』何劭伝
袁粲が父・何劭の弔問に来た時、何岐は体調不良を理由に退出した。
そこで袁粲は独りで哭して「今年は婢子(何岐)の官品を下げてやるぞ」と言うと、王詮は袁粲に言った。
「何劭(何邵)の死を知って弔問に来たはずなのに、なぜ生者(何岐)に会う必要があるのだっ!何岐はこれまでも罪が多かったが、君は評価を下げなかった。それなのに、何公(何劭)が亡くなった途端に何岐の評価を下げようとは。人は君を『強き者の悪事には畏れて触れず、弱き者は容易に評価を下げる中正(人事官)だ』と言うだろう」
これを聞いた袁粲は、何岐の評価を下げるのをやめた。
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