正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧④。陳国(ちんこく)何氏(かし)[何英(かえい)・何熙(かき)・何臨(かりん)・何瑾(かきん)・何阜(かふ)・何衡(かこう)・何夔(かき)・何曾(かそう)・何遵(かじゅん)・何劭(かしょう)(何邵(かしょう))・何嵩(かすう)・何綏(かすい)・何機(かき)・何羨(かせん)・何蕤(かずい)(何岐(かき))]です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

陳国何氏系図

陳国何氏系図

陳国(ちんこく)何氏(かし)系図


この記事では陳国(ちんこく)何氏(かし)の人物、

についてまとめています。


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か③(陳国何氏)

第1世代(何英)

何英(かえい)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。子に何熙(かき)。

琅邪相(ろうやしょう)[徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)の相(しょう)(太守(たいしゅ))]。

高柔(こうじゅう)の高祖父(こうそふ)(祖父の祖父)・高慎(こうしん)は、誠実そのものの性格で華やかさは少なく、沈着で思慮深い器量を具(そな)えており、孤児(みなしご)となった兄の子5人をかわいがって育て、恩義は甚(はなは)だ厚かった。

琅邪相(ろうやしょう)であった何英(かえい)はその行為に感心し、娘を娶(めあわ)せた。


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第2世代(何熙)

何熙(かき)・孟孫(もうそん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何英(かえい)。子に何臨(かりん)、何瑾(かきん)、何阜(かふ)。曾孫(ひまご)に何夔(かき)。

若くして大志を抱(いだ)き、小さな礼節にはこだわらなかった。身長8尺5寸(約196.35cm)。体格・容貌は大きく立派で、立ち居振る舞いは見事だった。

和帝(わてい)の永元(えいげん)年間に孝廉(こうれん)に推挙されて謁者(えっしゃ)となり、殿中(でんちゅう)で臣下が拝謁(はいえつ)する際に号令をかける役となって、その声を辺りに響き渡らせたので、和帝(わてい)は感心した。その後、選ばれて御史中丞(ぎょしちゅうじょう)となり、司隷校尉(しれいこうい)、大司農(だいしのう)を歴任する。

安帝(あんてい)の永初(えいしょ)3年(109年)、南単于(みなみぜんう)が烏丸(うがん)と共に背(そむ)いたので、何熙(かき)に車騎将軍(しゃきしょうぐん)を兼ねさせて討伐させた。次々と功績を建てたので、烏丸(うがん)は降伏を願い出て単于(ぜんう)はまた元の通り臣と称したが、たまたま急病で亡くなった。「葬儀は簡略にせよ」と遺言したという。


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第3世代(何臨・何瑾・何阜)

何臨(かりん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何熙(かき)。子に何衡(かこう)。弟に何瑾(かきん)・何阜(かふ)。

弟・何瑾(かきん)と共に政治の才能があった。


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何瑾(かきん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何熙(かき)。兄に何臨(かりん)。弟に何阜(かふ)。

兄・何臨(かりん)と共に政治の才能があった。


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何阜(かふ)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何熙(かき)。兄に何臨(かりん)、何瑾(かきん)。

優(すぐ)れた才能を持っていたが、早くに亡くなった。


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第4世代(何衡)

何衡(かこう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何臨(かりん)。何夔(かき)の叔父(おじ)。

宦官(かんがん)が政権を握(にぎ)っていた漢(かん)末にあって、尚書(しょうしょ)であった何衡(かこう)は率直な発言をしたため、党(とう)(宦官(かんがん)に反対する儒学者(じゅがくしゃ)たちの仲間)の中に入れられ、父兄たちはみな官吏の資格を剥奪(はくだつ)された。

そのため何夔(かき)は、慨嘆(がいたん)(気が高ぶるほど嘆(なげ)いて心配すること)して「天地は閉ざされ、賢人は隠れた(『易(えき)』坤卦(こんけ))」と言い、首長の任命に応じなかった。


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第5世代(何夔)

何夔(かき)・叔龍(しゅくりゅう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。子に何曾(かそう)。叔父(おじ)に何衡(かこう)。曾祖父(そうそふ)に何熙(かき)。

幼くして父を失い、母・兄と一緒に暮らしたが、孝行と兄弟の仲の良さを称賛された。身長8尺3寸(約191.73cm)、謹(つつし)み深く威厳のある容貌(ようぼう)だった。


戦乱を避けて淮南(わいなん)に行った。後に寿春(じゅしゅん)に進出した袁術(えんじゅつ)が彼を召し出した時、何夔(かき)は応じなかったが、結局袁術(えんじゅつ)に引き止められた。

建安(けんあん)2年(197年)、袁術(えんじゅつ)が橋蕤(きょうずい)と豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・蘄県(きけん)*1を攻撃・包囲した時、袁術(えんじゅつ)は何夔(かき)がその郡の人であることから、彼を脅迫して蘄県(きけん)を説得させようとしたが、何夔(かき)は揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)の灊山(せんざん)に逃れ隠れた。袁術(えんじゅつ)の兄・袁遺(えんい)の母が何夔(かき)の従姑(おば)であったことから、袁術(えんじゅつ)は何夔(かき)を恨(うら)みはしたが害を加えることはなかった。


翌年になって陳国(ちんこく)に帰ってくると、曹操(そうそう)に召(め)し出されて司空(しくう)の掾属(えんぞく)(属官)となる。曹操(そうそう)は厳しい性格だったので、掾属(えんぞく)(属官)はしばしば杖で叩かれたが、何夔(かき)は死んでも恥辱を受けまいと、常に毒薬を所持していたので、被害を被(こうむ)ることはなかった。

その後、地方に出て城父県令(じょうほけんれい)となり、長広太守(ちょうこうたいしゅ)に昇進。離反者の多い青州(せいしゅう)・長広郡(ちょうこうぐん)*2では黄巾(こうきん)の残党・管承(かんしょう)が乱暴を働いていたが、何夔(かき)は事の利害を説(と)いて服従させ、牟平県(ぼうへいけん)の賊(ぞく)・従銭(じゅうせん)は張遼(ちょうりょう)と、昌陽県(しょうようけん)の賊(ぞく)・王営(おうえい)は王欽(おうきん)と共に平定にあたり、10ヶ月の間にすべて平定した。

建安(けんあん)5年(200年)、曹操(そうそう)は初めて新しい条例を制定して州郡に下し、また租税と綿絹を取り立てた。何夔(かき)は、郡が設(もう)けられたばかりであるし、最近出兵した後であることから、急に法律で取り締まるべきでないと考え、「3年ほどして民が各自の生業(なりわい)に落ち着いた頃を見計(みはか)らい、改めて彼らを法律によって取り締まる」ように進言し、曹操(そうそう)はこれに従った。

その後[建安(けんあん)13年(208年)以降]、中央に召(め)し返されて丞相(じょうしょう)(曹操(そうそう))の軍事に参与したが、海賊の郭祖(かくそ)が青州(せいしゅう)の楽安国(らくあんこく)と済南国(せいなんこく)を荒らし回ったので、その地で権威と信頼をえていたことから楽安太守(らくあんたいしゅ)に任命され、着任数ヶ月で諸城をすべて平定した。

中央に戻って丞相(じょうしょう)の東曹掾(とうそうえん)となると、人材登用の方法が乱れていることを指摘して改善策を提示し、曹操(そうそう)を納得させる。魏(ぎ)が建国された後、尚書僕射(しょうしょぼくや)に任命された。


曹丕(そうひ)が太子(たいし)に立てられると、何夔(かき)は太子少傅(たいししょうふ)に任命され、太子太傅(たいしたいふ)の涼茂(りょうぼう)が亡くなると何夔(かき)が彼に代わった。

太子(たいし)・曹丕(そうひ)は、太子太傅(たいしたいふ)(何夔(かき))が参内する毎月朔(ついたち)には正式の服装を整えて礼を尽くしたが、他の日には会見の儀礼をとらなかった。

何夔(かき)が太僕(たいぼく)に昇進すると、太子(たいし)・曹丕(そうひ)は彼と別れを告げたいと思い、あらかじめ供応の用意をさせ、手紙をやって招待した。ところが何夔(かき)は「国家には不変の制度が存在する」と言って、結局この供応の招きに応じなかった。

彼の正道を踏む有り様はこのようであったが、節約・倹約の時代にあって、最も贅沢(ぜいたく)であった。


文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))が天子(てんし)の位につくと、成陽亭侯(せいようていこう)に取り立られ、3百戸の封邑(ほうゆう)が与えられた。その後重病にかかり、しばしば官位を譲(ゆず)りたいと申し出たが、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は「そもそも賢者を礼遇し旧知に親しむのは、帝王の不変のつとめである。親しいということからすれば、君には補佐の勲功があり、賢ということからすれば、君には純粋の美徳がある。そもそも『人知れぬ恩義を施(ほどこ)した者は、必ず目に見える返礼を受ける』(『淮南子(えなんじ)』人間訓(にんげんくん))ものである。今、君の病(やまい)はまだ癒(い)えないとはいえ、神はそれを知っていらっしゃるであろう。君よ、さあ心を落ち着かせて朕(ちん)(私)の意に従ってくれよ」と詔勅(しょうちょく)を下し、何夔(かき)の申し出を認めなかった。

死後、靖侯(せいこう)と諡(おくりな)された。

脚注

*1原文は蘄陽(きよう)。『資治通鑑(しじつがん)』胡三省注(こさんせいちゅう)に従った。蘄県(きけん)は沛国(はいこく)に属し、何夔(かき)は陳国(ちんこく)の人なので矛盾する。

*2『資治通鑑(しじつがん)』胡三省注(こさんせいちゅう)に「青州(せいしゅう)・東萊郡(とうらいぐん)・長広県(ちょうこうけん)。当時、曹操(そうそう)は楽進(がくしん)を青州(せいしゅう)に侵入させ、長広県(ちょうこうけん)を収めて郡とした」とある。


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第6世代(何曾)

何曾(かそう)・穎考(えいこう)

建安(けんあん)4年(199年)〜咸寧(かんねい)4年(278年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何夔(かき)。子に何遵(かじゅん)(庶子)、何劭(かしょう)(何邵(かしょう))。

父・何夔(かき)の後を嗣(つ)いだ。若くして爵位を受け、学問を好んだことで、同郡出身の袁侃(えんかん)と共に名を知られた。

魏(ぎ)の明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が平原侯(へいげんこう)であった時にその文学(ぶんがく)となり、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が即位すると、散騎侍郎(さんきじろう)、汲郡(きゅうぐん)の典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)、給事黄門侍郎(きゅうじこうもんじろう)、散騎常侍(さんきじょうじ)に昇進した。

司馬懿(しばい)が幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)の公孫淵(こうそんえん)を討伐しようとした時、何曾(かそう)は明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))に「今、北伐軍の諸将と太尉(たいい)の軍はそれぞれバラバラに所属しており、いざという時に互いに連携して統御できません。 臣(わたくし)が思いますに、北伐軍に任命される大臣(司馬懿(しばい))には、高い地位と名声を持つ者を選んで顧問(こもん)兼副官として軍に配属するのが望ましいと思われます。そうすれば、予測できない変化があったとしても心配はありません」と上疏(じょうそ)したが、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は従わなかった。

地方に出て河内太守(かだいたいしゅ)となるとその威厳をもって知られ、侍中(じちゅう)に任命されたが、母のために官を去った。


魏(ぎ)の嘉平(かへい)年間(249年〜254年)に司隸校尉(しれいこうい)に任命されると、天子(てんし)(曹芳(そうほう))の寵愛(ちょうあい)を笠(かさ)に着る撫軍校事(ぶぐんこうじ)の尹模(いんぼ)らを弾劾(だんがい)し、朝廷で称(たた)えられた。

曹爽(そうそう)が政権を握り司馬懿(しばい)が病(やまい)を称(しょう)すると、何曾(かそう)もまた司馬懿(しばい)に倣(なら)って病(やまい)となり、曹爽(そうそう)が誅殺(ちゅうさつ)されると、何曾(かそう)は曹芳(そうほう)廃位の謀議を預(あず)かった。

当時歩兵校尉(ほへいこうい)であった阮籍(げんせき)は才能を誇(ほこ)って驕(おご)り、喪中(もちゅう)の礼を無視していたので、何曾(かそう)は司馬昭(しばしょう)がいる前で阮籍(げんせき)を責め、司馬昭(しばしょう)に彼を排除するように言った。司馬昭(しばしょう)は阮籍(げんせき)を庇(かば)って排除することはなかったが、人々はこのことによって何曾(かそう)を敬(うやま)い憚(はばか)った。


正元(せいげん)2年(255年)、反乱を起こした毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が誅殺(ちゅうさつ)されると、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の孫娘で潁川太守(えいせんたいしゅ)・劉子元(りゅうしげん)に嫁入りしていた毌丘芝(かんきゅうし)(毋丘芝(ぶきゅうし))が、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の罪によって身重(みおも)の身で廷尉(ていい)に拘留(こうりゅう)された。娘の母の荀氏(じゅんし)は武衛将軍(ぶえいしょうぐん)・荀顗(じゅんぎ)の上表のお陰で死刑にされず、すでに放免されていたが、廷尉(ていい)の元に出頭して官婢(かんぴ)となって娘の命を償(つぐな)いたいと願い出た。

何曾(かそう)は主簿(しゅぼ)の程咸(ていかん)に次のような審議書を作らせた。

「大魏(たいぎ)は秦(しん)・漢(かん)の疲弊(ひへい)の後を受け、まだ制度を改革するには至っておりません。すでに嫁に出した娘を後から処刑する理由は、実際、悪人の一族を絶滅したいからです。しかし、もしすでに子をもうけております時には、他家の母となっているわけです。それを処刑するとなると、予防の観点からすれば姦悪(かんあく)反乱の根源を懲(こ)らしめるに不充分ですし、心情の観点からすれば、孝子の思慕(しぼ)の念を損なうことになります。男は他の氏族の罪に連座することはございませんのに、女だけが両家の処刑に引っかかるのは、弱い女を哀(あわ)れみ、法律制度の大原則を平等に施行するやり方に外れております。臣(わたくし)が考えますには、嫁入り前の娘は父母の刑罰に従うのがよろしく、すでに婚礼の杯を受けた嫁は、夫の家の処刑に従わせるのが良いと存じます」

朝廷はこの意見に従って法律を制定した。

長年司隸校尉(しれいこうい)を務(つと)めた後で尚書(しょうしょ)に遷(うつ)り、魏(ぎ)の正元(せいげん)年間(254年〜256年)に鎮北将軍(ちんほくしょうぐん)・都督(ととく)・河北諸軍事(かほくしょぐんじ)・仮節(かせつ)に任命され、その後征北将軍(せいほくしょうぐん)・潁昌郷侯(えいしょうきょうこう)に進んで、咸熙(かんき)年間(264年〜265年)の初めには司徒(しと)を拝命して郎陵侯(ろうりょうこう)に改封された。

司馬昭(しばしょう)が晋王(しんおう)となった時、何曾(かそう)と高柔(こうじゅう)、鄭沖(ていちゅう)の3人が三公(さんこう)に任命されたが、謁見(えっけん)の際、何曾(かそう)だけが深く拝礼し、他の2人は会釈(えしゃく)*3しただけであった。


司馬炎(しばえん)が王位につくと、晋(しん)の丞相(じょうしょう)に任命され、侍中(じちゅう)を加えられた。

裴秀(はいしゅう)、王沈(おうしん)らと司馬炎(しばえん)に帝位につくことを勧め、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が即位すると太尉(たいい)に任命されて公(こう)に爵位を進め、食邑(しょくゆう)1,800戸を与えられる。

西晋(せいしん)の泰始(たいし)年間(265年〜274年)の初めには、詔(みことのり)によってこれまでの功績を称(たた)えられ、太保(たいほ)に任命される。その後司徒(しと)に任命され、何曾(かそう)は固辞(こじ)したが許されなかった。

その後さらに太傅(たいふ)に位を進め、老齢になって度(たび)々(たび)辞職を申し出たが認められず、太宰(たいさい)に任命され、前漢(ぜんかん)の相国(しょうこく)・蕭何(しょうか)や田千秋(でんせんしゅう)、田千秋(でんせんしゅう)、魏(ぎ)の太傅(たいふ)・鍾繇(しょうよう)に倣(なら)って剣履(けんり)乗輿(じょうよ)上殿(じょうでん)の特権を許された。

咸寧(かんねい)4年(278年)に80歳で亡くなった。武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は朝堂において素服(そふく)(喪服(もふく)の一種)で哀(かな)しみ、東園の秘器、朝服1具(ぐ)、衣1襲(かさね)、銭30万、布100匹を下賜(かし)した。

葬儀にあたり、博士(はくし)の秦秀(しんしゅう)は何曾(かそう)の諡(おくりな)を「繆醜(きゅうしゅう)」と進言したが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))はこれに従わず「孝(こう)」とした。また、西晋(せいしん)の太康(たいこう)年間(280年〜289年)の末に、子の何劭(かしょう)(何邵(かしょう))の上表により「元(げん)」と改められた。


『傅子(ふし)』は何曾(かそう)と荀顗(じゅんぎ)を称(たた)えて、

「内はその心を尽くしてその親に仕え、外は礼儀・謙譲(けんじょう)を尊重して天下に接した。孝子は百代に亘(わた)る宗(おおもと)であり、仁者は天下の統率者である。よく仁と孝の道を実行する者がおれば、君子の模範である」

と述(の)べている。

脚注

*3原文:揖(ゆう)。左右の手を胸の前で組み合わせて、これを上下・前後に動かしてする礼。


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第7世代[何遵・何劭(何邵)]

何遵(かじゅん)・思祖(しそ)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。何曾(かそう)の庶子。子に何嵩(かすう)、何綏(かすい)、何機(かき)、何羨(かせん)。弟に何劭(かしょう)(何邵(かしょう))。

若い頃から才幹があった。散騎黄門郎(さんきこうもんろう)、散騎常侍(さんきじょうじ)、侍中(じちゅう)を歴任し、大鴻臚(だいこうろ)となる。

奢侈(しゃし)な性格で、御府(ぎょふ)の工匠(こうしょう)に禁じられた物を作らせてそれを売ったため、司隷校尉(しれいこうい)・劉毅(りゅうき)に弾劾(だんがい)されて罷免(ひめん)された。

その後は西晋(せいしん)の太康(たいこう)年間(280年〜289年)の初めに魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)となり太僕卿(たいぼくけい)に遷(うつ)ったが、また罷免(ひめん)され家で亡くなった。


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何劭(かしょう)・敬祖(けいそ)(何邵(かしょう))

生年不詳〜永寧(えいねい)元年(301年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何曾(かそう)。庶兄に何遵(かじゅん)。子に何蕤(かずい)(何岐(かき))。

父・何曾(かそう)の後を嗣(つ)いだ。才能・見識が深遠広大で、国を治める基本を弁(わきま)えていた。位は父と同じく太宰(たいさい)にまで昇り、康侯(こうこう)と諡(おくりな)された。


司馬炎(しばえん)と同い年で仲が良く、司馬炎(しばえん)が晋王(しんおう)(司馬昭(しばしょう))の太子(たいし)に立てられると太子中庶子(たいしちゅうしょし)に任命され、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が即位すると散騎常侍(さんきじょうじ)に転任し、厚遇された。

何劭(かしょう)は容姿が優雅だったので、遠方からの朝観貢の際には何劭(かしょう)が対応し、その度(たび)ごとに武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))から朝貢の品を賜(たまわ)った。

咸寧(かんねい)年間(275年〜280年)の初め、何劭(かしょう)と兄の何遵(かじゅん)は「鬲県令(かくけんれい)の袁毅(えんき)から賄賂(わいろ)を受けている」と役人に弾劾(だんがい)され、廷尉(ていい)に下されたが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は詔(みことのり)を下して「太保(たいほ)(何劭(かしょう)の父・何曾(かそう))と袁毅(えんき)の家は何代にもわたって交際がある。何遵(かじゅん)らが受け取ったものは問題とはならない」と擁護(ようご)した。その後何劭(かしょう)は侍中尚書(じちゅうしょうしょ)に遷(うつ)った。


恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))が即位し、東宮(とうぐう)が建てられると、何劭(かしょう)は幼い太子(たいし)(司馬遹(しばいつ))の太子太師(たいしたいし)となり、通省尚書事(つうしょうしょうしょじ)を経(へ)て、特進(とくしん)を加えられ尚書左僕射(しょうしょさぼくや)となる。

何劭(かしょう)は博学で、特に近代(秦(しん)・漢(かん)以降)に精通していた。

永康(えいこう)元年(300年)に司徒(しと)となり、趙王(ちょうおう)・司馬倫(しばりん)が帝位を簒奪(さんだつ)すると太宰(たいさい)に任命されたが、3王(司馬冏(しばけい)・司馬頴(しばえい)・司馬顒(しばぎょう))が互いに争うようになっても、何劭(かしょう)を怨(うら)む者はなかった。

父・何曾(かそう)に似て驕奢(きょうしゃ)な暮らしを好み、大量の服が積まれ、食費は1日2万銭に及んだという。

何劭(かしょう)と同郷の王詮(おうせん)は「何劭(かしょう)の名声と官位は高すぎる。彼の若い頃については何も記(しる)されておらず、ただ夏侯長容(かこうちょうよう)(夏侯駿(かこうしゅん))と博士(はくし)に助言したことだけが記(しる)されているだけだ*4」と言った。

永寧(えいねい)元年(301年)に亡くなり、司徒(しと)を追贈され、康(こう)と諡(おくりな)された。

脚注

*4惟與夏侯長容諫授博士,可傳史冊耳。


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第8世代[何嵩・何綏・何機・何羨・何蕤(何岐)]

何嵩(かすう)・泰基(たいき)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何遵(かじゅん)。弟に何綏(かすい)、何機(かき)、何羨(かせん)。

度量が広く士を愛し、古書典籍に明るかった。若い頃から清官(名門貴族のみが就(つ)くことができる上位の官職)を歴任し、著作郎(ちょさくろう)となった。


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何綏(かすい)・伯蔚(はくうつ)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何遵(かじゅん)。兄に何嵩(かすう)。弟に何機(かき)、何羨(かせん)。

西晋(せいしん)の永嘉(えいか)年間(307年〜313年)に尚書(しょうしょ)であったが、東海王(とうかいおう)・司馬越(しばえつ)に殺された。


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何機(かき)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何遵(かじゅん)。兄に何嵩(かすう)、何綏(かすい)。弟に何羨(かせん)。

青州(せいしゅう)・済南国(せいなんこく)の鄒平県令(すうへいけんれい)となった。

傲慢(ごうまん)な性格だったので、郷里の謝鯤(しゃこん)らは何機(かき)を戒(いまし)めたが、何機(かき)はそれを恥じることはなかった。


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何羨(かせん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何遵(かじゅん)。兄に何嵩(かすう)、何綏(かすい)、何機(かき)。

兗州(えんしゅう)・済陰郡(せいいんぐん)の離狐県令(りこけんれい)となった。

傲慢(ごうまん)でケチなことでは人を凌駕(りょうが)しており、郷閭(きょうりょ)(郷里。村里の門の意)の汚点として憎まれていた。西晋(せいしん)の永嘉(えいか)年間(307年〜313年)の末に何氏(かし)は跡形もなく滅んだ。


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何蕤(かずい)(何岐(かき))

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・陳国(ちんこく)・陽夏県(ようかけん)の人。父は何劭(かしょう)(何邵(かしょう))。

父・何劭(かしょう)の後を嗣(つ)いだ。


何劭(かしょう)の後を嗣(つ)いだのは、『魏書(ぎしょ)』何夔伝(かきでん)が注に引く『晋諸公賛(しんしょこうさん)』では何蕤(かずい)、『晋書(しんじょ)』何劭伝(かしょうでん)では何岐(かき)とある。

『晋書』何劭伝

袁粲(えんさん)が父・何劭(かしょう)の弔問(ちょうもん)に来た時、何岐(かき)は体調不良を理由に退出した。

そこで袁粲(えんさん)は独りで哭(こく)して「今年は婢子(ひし)(何岐(かき))の官品を下げてやるぞ」と言うと、王詮(おうせん)は袁粲(えんさん)に言った。

「何劭(かしょう)(何邵(かしょう))の死を知って弔問(ちょうもん)に来たはずなのに、なぜ生者(何岐(かき))に会う必要があるのだっ!何岐(かき)はこれまでも罪が多かったが、君は評価を下げなかった。それなのに、何公(かこう)(何劭(かしょう))が亡くなった途端に何岐(かき)の評価を下げようとは。人は君を『強き者の悪事には畏(おそ)れて触(ふ)れず、弱き者は容易に評価を下げる中正(ちゅうせい)(人事官)だ』と言うだろう」

これを聞いた袁粲(えんさん)は、何岐(かき)の評価を下げるのをやめた。


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