正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑤、任城国にんじょうこく何氏かし何豹かひょう何休かきゅう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

任城何氏系図

任城国何氏系図

任城国にんじょうこく何氏かし系図


この記事では任城国にんじょうこく何氏かしの人物、

についてまとめています。


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か⑤(任城何氏)

第1世代(何豹)

何豹かひょう

生没年不詳。兗州えんしゅう任城郡にんじょうぐん任城国にんじょうこく)・樊県はんけんの人。子に何休かきゅう

少府しょうふであった。


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第2世代(何休)

何休かきゅう邵公しょうこう

永建えいけん4年(129年)〜光和こうわ5年(182年)没。兗州えんしゅう任城郡にんじょうぐん任城国にんじょうこく)・樊県はんけんの人。父に何豹かひょう

何休かきゅうの人となりは質朴(飾りけがなく純真・素直なこと)かつ寡黙かもくで、元より思慮しりょ深く、六経りっけい*1を詳細に研究し、世の儒者じゅしゃで彼に及ぶ者はいなかった。

九卿きゅうけいの子(父は少府しょうふ)であったことからみことのりにより郎中ろうちゅうを拝命したが、望んだものではなかったため病気と称して去り、州郡に仕えなかった。また、出処しゅっしょ進退しんたいは必ず「礼」に基づいていた。


その後、太傅たいふ陳蕃ちんはん辟召まねかれて政事に参与したが、陳蕃ちんはんが敗れると彼に連座して禁錮きんこしょされた。

そこで春秋公羊解詁しゅんじゅうくようかいこを作ったが、この時何休かきゅうは17年も深く思いをめぐらせて門から出なかったという。

また孝経こうきょう論語ろんご風角ふうかく六日七分りくじつしちぶんに訓注をほどこしたが、いずれも古典の文章を縦横にり入れた、守旧的な説とは異なったものになっていた。また春秋しゅんじゅうもとづいてかん代の出来事を論評すること6百余条、見事に春秋公羊伝しゅんじゅうくようでんの本意をていた。

何休かきゅう歴法れきほうこよみの作成)算術に通じ、師である博士はくし羊弼ようひつと共に、李育りいくの意を祖述そじゅつ(先人の説を受け継いで述べること)して春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん春秋穀梁伝しゅんじゅうこくりょうでんの2伝を批判し、公羊墨守くようぼくしゅ左氏膏肓さしこうこう穀梁廃疾こくりょうはいしつ穀梁廢疾こくりょうはいしつ)を作った。


党錮とうこの禁」が解除されると、また司徒府しとふ辟召まねかれた。

三公さんこうたちは「何休かきゅうの道術は深遠しんえん明晰めいせきであり、ぜひとも帷幄いあく(作戦をめぐらす所。本営)にはべらせて政治に参画させるべきです」と上表したが、天子てんし寵臣ちょうしんたちはこれを喜ばなかった。

何休かきゅう議郎ぎろうを拝命し、しばしば忠言をべた。再び諫議大夫かんぎたいふうつり、光和こうわ5年(182年)に54歳で亡くなった。


魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎの注に、原文「若綴旒然[綴旒ていりゅうれのついた旗)そのままの有り様だった]」に対する注として、

公羊伝くようでん襄公じょうこう16年)に言う。『君は贅旒せいりゅうそのままの有り様だった(君若贅旒然)』

何休かきゅうは言う。『せいてい(つながっている)と同じ意味である。はたをもって比喩するのは、天子てんしはたのように下位の者の持ち歩く物となったことを示すためである』」

と、何休かきゅうの注が引用されている。

脚注

*1えき』『しょ』『』『れい』『春秋しゅんじゅう』『がくの6つの経書けいしょのこと。


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【三国志人物伝】総索引